ボストン会会員の心配の種

令和2年3月25日

35歳の時にアメリカ研修に行かせて貰い、3年もしない内に児童養護施設を退職して理想に燃えてフリーになったのは良かったのですが、現実は無納税者の体たらく。まさか『カスミ』を食べていけるわけで無し。と言う事もあり特別養護老人ホームの建設計画を立てたものの平成8年度の計画は頓挫するし、膨大な資料を作成しながらも大学等の非常勤講師と家庭教師をこなし時間もない、お金もない状況の中で年に1回開催されているボストン会を欠席した時はメンバーの中で『若山死す』等と冗談にもならない情報を流す者まで現れる次第。

北は気仙沼から南は沖縄(何日か前のコラムで『宮崎』と書いてしまいました。それは、沖縄の会員だけがボストン会の参加がなくて存在感が薄かったので間違えた次第です。)の総勢17名の会員は、私の事を本当に心配してくれていて、会員の中には情報や励ましや資金援助をしてくれました。平成10年5月15日の竣工式典には宮崎県からボストン会団長を初め多くの会員が来てくれました。

事業開始してからの2年間は老人福祉法の中の『措置制度』の中で厳しい経営を強いられましたが、平成12年4月からは介護保険法の中の契約による施設になり、職員の資質も上がるの事による相乗効果によって稼働率もあがり、経営も盤石になってきて、ボストン会のメンバーも私の心配をする事はなくなりました。

介護保険法導入時の報酬は点数が高かったのと、職員の勤務年数も短いのもあり、収支状況が良くて介護保険導入の3年間で資金を持つ事が出来ました。社会福祉法人は基本的には免税のシステムです。その代わり『地域貢献』を義務付けられています。そこで、その当時何で地域貢献すべきかを考えた時、特別養護老人ホームの待機者の緩和こそ大切だと考え、平成15年度事業で『新館の増床こそ地域の民意』と考えて40床の増床を計画しました。

その当時の考え方の中で国は『個室化』を推し進めていたので『ユニット』での計画をしました。ユニットでの計画は岐阜県で2例目の事で『岐阜県でのモデルとなる施設にしたい。』との思いで、『ユニット』は『プライバシーに特化しなければ』との思いで計画しました。また、本館の時よりは時間的にも資金的にも人材的にも余裕を持って計画したので、本館の時とは違った意味で拘りのある施設にしました。

例えば建築中に般若心経のお写経をして柱の中に入れたり、居室を見渡しが出来にくい構造にしたり、高野山の大僧正で日本一の書家と言われている静慈圓師の書を各ユニットに飾らせて頂いたり、認知症の方もゆったり過ごして頂けるように飛騨家具を購入したりしました。また、1階は和風にして1ユニットは完全な和室にしました。

何故なら家にお見えになった時は畳に布団を敷く生活だと考えたからです。(開所当時は大変喜ばれたのですが、基本的に『要介護3』以上の入居と言う条件に改められてからは入居者の重症化が進み立ち上がりの動作だ出来る方が少なくなり、畳にベットが殆どになりました。)2階は洋風にして暖炉のあるスペースも設けました。優・悠・邑のこだわりを一度見に来てください。昔から言うでしょ。『百聞は一見に如かず』とリピーターの皆さん是非是非来て下さい。

 

本館計画時のこだわり

令和2年3月24日

施設見学については、特養、老健を中心におおよそ30施設を見させて頂きました。施設計画が公になるまでの名刺の肩書きは『大垣女子短期大学幼児教育科非常勤講師』だったので、訪問した施設の方には、何故特養建設なのかを話しすることを熱く語る事からさせて頂きました。(ちなみに、計画が遡上に乗ってからは『関ヶ原町老人福祉施設設立準備会代表』の肩書きにしました。)今考えると「へんな奴だが、熱いものを感じる」位の印象を持たれるだけだったと思いますが、どの施設でも親切な誠意を持った対応をして下さいました。

だからと言うわけではありませんが、今は施設見学や施設での研修をお受けした時は精一杯の歓迎をします。但し、施設見学を受ける時は最低3時間のお時間を頂かないとお受けしない事にしてます。何故ならば、法人の理解を含めて3時間はかかると考えているので。正直私は特養がどのようなものかも理解しないままでのスタートですからハード面の事も何もわからない状態からのものなので見るもの全て新鮮でしたが複数の施設を見学させて頂く中で理解していった事は『病院モデルからの脱却』が必須だと思いました。

つまり、特養は『生活の場』として如何に快適な空間を作る事であり、尚且つ、職員にとっても働きやすい環境でなければいけないとも考えました。但し資金には限度がありその事にも配慮することが大切だと言うこともわかっていました。但し、平成9年度の頃は色々な補助金もあり、いろんな書類を作成して、基本の補助金も頂きながらの計画が出来ました。色々な補助金については私の事業に協力して下さる方の中から多くの情報を得てのものでした。また、資金作りの為の行脚もしました。

その中でも当時福祉の重鎮であった吉田宏岳先生(日本福祉大学中央福祉専門学校校長・教育と福祉を考える会代表)には1千5百万円もの支援を受けた時には正直「私にこのような多額の資金援助を頂いて良いのでしょうか。」と聞いたところ、若山さんへの先行投資で10年後を楽しみにしていますよ」と言われた時には「期待に応えれるように頑張らなければ」と背筋を正す思いでした。(先生は新館を見に行くと言われていながらご逝去されたので叶いませんでしたが、天国で「よしよし」と言って頂いているのなら嬉しい限りなのですが)多く見学したなかで、三重県の施設では1階と2階のワーカー室の上り下りは螺旋階段にしましたし、愛知県の施設の地域交流スペースの多目的な活用の仕方を見習いましたし、トップライト(光庭)や中庭の設定も風が通る為の配慮として行いました。(コロナウイルス対策には一番効果があると思っています。)また、ある施設の理事長さんから、「実際に工事が始まったら毎日現場を設計管理者と見て回りなさい。」とアドバイスを頂いたので、図面を見ても良くわからないところが多かったのですが見よう見まねで鉄筋の数などを数えたりもしました。

かなり工事が進んだある時にお風呂を見て蛇口の位置が一般用と同じ位置であることに疑問を持ち職員が楽に使える位置に変更して貰いました。その理由はお世話をする職員が一回一回腰を屈めるのは負担が大きいと考えたからです。リピーターさんの中には利用者に優しくないと思われた方もあると思いますので、私の考え方を言いますと利用者さんにとっては屈伸運動になって良いのではないかと考えたのです。このように、特養の事を全く知らなかった私の考え方は『利用者にとって何が大切なのかを自分なりに考えた結果です。今思うに予備知識がない分、迷いなく出来たのではないかと思っています。

本館事業開始(平成10年5月18日)してからの波乱万丈

令和2年3月23日

5月15日に開催した竣工式典は多くの来賓をお迎えして出来たのですが、その準備で地元の今須小・中学校の体育館のパイプ椅子をお借りに行った時にその当時の教頭先生と共に体育館に入って行っても椅子を運ぶ為に来ていた職員は挨拶も出来ないような状況だったんで、竣工式までに「お客様を迎える」とはどの様なことなのかを徹底的に話をして、各エリアの説明をスムーズに出来るように何度も何度も練習させる事によって、職員一人ひとりの気分の高揚を図った事により無事に出来ました。18日からの入居開始により、5月末で入居が5人、6月で15人、8月で25人で満床の50人になったのは10月3日でした。どうして5か月近くもかかったかと言うとその当時は特別養護老人ホームは老人福祉法の『措置制度』だったからです。その為、当時の理事長と共に各市町村への挨拶も精力的に行いました。ところが満床になって一段落と思った時に事件が起きました。それは、私が大学の講義を午前中で終えて14時頃に施設に帰って行くと、その当時の関ケ原町の担当者の方に電話するようにとの事で「何事か」と慌てて電話すると、担当者の方にいきなり、「ショートステイの定員は何人ですか」と言われたので(「何で今更」と思いながら)「20人ですが」と言うと「現在ショートステイの利用は何人か」と言われたので「4人です」と答えると「まだ16人も利用出来るのに、どうして利用を断るのか」と言われたので私自身状況がつかめず「少し時間を下さい。」と電話を切り、その当時の指導員(今の生活相談員)を呼び説明を聞くと、「現場が今でも忙しいのに受けれるわけないと言ってます。」と答えたのにはあきれ果てましたが、それがその頃の現実でした。と言うのは、緩やかにしか入居が無かった為に『ゆったり』の動きのなかでしか動けなくなっていたのです。そこから、私と職員との戦い(本来あってはいけない事ですが)が始まり「施設長は現場の事を知らずに偉そうに」とのそしりを受けながらも、国の基準以上に職員配置をしている事や収支状況を良くする事によって給料も良くする事が出来る事、『今日一日楽しかったよ』の実践が大切だと言い続けましたが、1年目の年明けの頃から退職者が白い封筒を持ってくる職員が多く出て、胃に穴が開くのではないかと言う日が続きました。ただ、その頃は新たな職員確保が出来る頃だった事は幸いでした。もし、今のような状況だったら法人自体が瓦解していたかも知れません。2年目になり、職員との乖離をなくしたいとの思いから、理事会の承認を経て、自ら施設長を下りて現場での仕事を1年半させて貰う中から職員との意思疎通を図り、今に至っています。もしも私が職員の気持ちを理解しないままの状態であったら・・・。今の杉和会は存在すらなかったかもしれません。

平成9年度事業で本格的に事業が推進していく中で

令和2年3月22日

用地も確保ができ、平成8年度事業での計画が出来るように本格的に設計士と共に施設見学も本格化して、夢を語り思いを語り図面も完成して、その当時の岐阜県西濃福祉事務所との打ち合わせも順調にいっていたので、平成8年度事業での計画が遂行するものと確信していたのですが、『予定は未定であり、決定ではない』の格言のような事態として西濃福祉事務所から1本の電話がありました。

それは、「大垣市は独自の福祉事務所があり、大垣での特養の80床と50床の計画がある情報が入っていなかったが、2つの計画を優先させたいので、関ケ原町の計画は見合わせたい。」との連絡に頭が真っ白。その現実を受け入れる事が出来なくて、怒りが沸き上がってきました。「こんな大切な事を1本の電話で済ませるのか。」と。私は直ぐに西濃福祉事務所に行き「納得がいかない。」と強く迫りましたが「大垣市の情報が突如来たので。」とばかりでらちが空きません。その当時の支援者として大垣市商工会議所会頭であった河合達夫さんに相談に行きました。(当時河合会頭のお孫さんの家庭教師をしていたので、藁をも掴む思いで・・・)

-必死に話す私の話を聞いて下さり、岐阜県庁への陳情の機会を作って下さり、県庁へ河合会頭を筆頭に、私の他に今は優・悠・邑家族会会長の吉田さん(当時は設立準備後援会代表)にも同席して貰い河合会頭に口火を切って貰い、私が熱く語り、吉田さんも熱く語りで、その当時の民生部長さんが「主旨は良く分かりましたので次年度の検討課題とさせて下さい。」で陳情が無事に出来、平成9年度事業で特養計画が復活して、書類作成を一生懸命にするのですがその当時はパソコンではなくいわゆるワープロでの書類作成だったので、罫線を引くのも大変でしたが、何とか分厚い書類を作る事が出来ました。

その当時は、岐阜県の担当者と打ち合わせをして出来たものを県の担当者が厚生省に行きヒヤリングを受ける流れだったので、県の担当者と最終的には二人三脚で県の担当者も休み返上でして頂きました。国からの内示を頂きほっとすることなく法人認可の書類に取り組み平成9年7月17日に法人認可が来た時には天にも昇る思いでした。公認を受けた法人での理事会を緊急に開き、8月8日に入札を行い翌年10年5月15日に竣工式を行い5月18日に開所しました。無事に開所しましたが、そこからも波乱万丈がありましたのでリピーターの皆さんまだまだお付き合い下さい。

 

 

葛藤と不安の中で

令和2年3月21日

情緒障害児短期治療施設の計画を関ヶ原の地で実施する計画は岐阜県において「少なくても10年は計画しない。」と言われ『情熱でクリアする』と意気込んでいた私には、なかなかその現実を受け止める事は出来ませんでした。

悶々とした日々が続く中で「時代が高齢者福祉施設を求めている。」との話を多くの方からお聞きして、吉田宏岳先生(その当時、日本福祉大学中央福祉専門学校校長で福祉の重鎮)に相談すると「大学の専任になるのも選択肢の一つですが、若山さんは自分の世界を作りたいとの志が強い。しかしながら児童は出来ないとの現実の中で高齢者施設を作るのには不安と葛藤がある。でも、種別が違っても福祉の考え方を持って挑めば良いのではありませんか」と言われて、真剣に高齢者施設の設立について考えても、イメージすらつかめない。当たり前です。だって行ったこともないんだから。

そこで、まず私が興した行動は2つです。1つには「生まれ育った関ヶ原町で作るとの思いを実現するには関ヶ原町の高齢者の実態を知る事が大切だ」と考えて、その当時『みらい』と言う出版社を設立された方の協力を得てアンケートを作成すると共にその当時の関ケ原町民生委員児童委員協議会会長の所にアンケート調査の依頼のお願いに行くと快諾して下さり、町内全員の委員の協力が得られました。調査結果は高齢化率、高齢者夫婦世帯の割合が高く、将来的に厳しい状況になる事が理解出来ました。

2つ目の行動は『高齢者施設の見学を積極的に行う』と言う事でした。多くの施設の良い所取りが出来ればと考えたのですが、今の様に組織があるわけで無いので、交通費、旅費、手土産代も全て自費で賄わなければいけないので、講演の依頼があった時についでの様に行ったり、大学の実習指導に行ったついでに行ったりとなるべく経費が掛からないようにしてのものでした。

そんな中でも計画が順風満帆だったわけではありません。大きな建物を建てるにはそれなりの土地が必要です。しかしながら、最初の内は土地探しを正直安易に考えていました。つまり、計画した土地の折衝を自分でやらずに人任せにして、地元説明会をする段階になって地主さんの一人の方の強硬な反対がある事を知りました。私は地主さんの一人でも反対があれば難しいと考え、最初の折衝は見事に挫折しました。

そして、別地の提案があることがわかり、今回は地主さんが7人おみえになると言う事で、今回は私自身が1軒1軒根気よく話をして回りました。その時、私が高校2年生の時から四国遍路をしている事が話題に上がりました。その地主さんが一番多くの土地をお持ちでその方の了解を得てからは、次々と了解を得る事が出来ました。この時の経験から何事も『誠意』を持って接する事が肝要だと知る事が出来ました。

資金が潤沢にあっての計画では無かったので、資金協力のお願い行脚をしてつくづく実感したのは、一生懸命さと人間関係によって資金調達が出来たと言う事です。そして大切なお金の協力を得たので、その時の体験を通じて有効なお金の使い方を身をもって理解したと思います。リピーターの皆さん、コロナウイルスのニュースばかりの中ですのでもうしばらく『若山宏の生き様ストリー』にお付き合い下さい。

 

私が児童養護施設を辞した理由

26歳から13年間勤めた施設を辞したのには色々な理由がありますが、一番の理由は35歳の時に化粧品の資生堂福祉財団がスポンサーになって実施されている児童福祉に特化した、海外研修団(第15期)17名の一人に選ばれてアメリカの研修団として参加させて貰ったのが引き金になったと思います。研修団の名称は『ボストン会』と言って、北は気仙沼から南は宮崎県の曲者揃いのメンバーです。かなりの強硬スケジュールでしたが、夜はしっかり飲んで早朝からの研修もこなしました。中味の濃い研修の中、特にインパクトが大きかったのは、福祉に携わる方の社会的評価が高く、厳しい状況に置かれている子どもに対しても手厚い対応がなされていて、個別対応の大切さを学ぶ事が出来、研修を終えてからは、「施設の指導員になりたいと思う人は多くいると思うが、反社会、非社会の子ども達の個別ケアをしたいと考えているのは日本広しと言えどもこの私以外にはいない」と、今考えたらめちゃめちゃ無鉄砲な考えを持ち、海外研修から帰って直ぐに経営者の方に話をしました。その時の経営者の答えは「今いる子ども達の事はどうするのだ。」と言われ一旦は「それもそうだ。」と考え直したのですが、やはりその気持ちを捨てきれず再び申し出ると「先生(その頃そのように呼ばれていました。)の代わりを育てて辞めるのが筋でしょ。」と言われ、新しい職員を採用して貰い、2年がかりで私なりに思いを語り、行事等の流れを教えて晴れて退職が出来ました。このコラムのリピーターさんの中には「何故今は児童でなく高齢者なの。」と疑問に思われる方もあろうかと思います。確かに、退職後の2年間は大学等の非常勤講師や家庭教師をしながら個別ケアに生き甲斐とやりがいを持って突き進みました。しかしながら、気が付けば預貯金は底をついた状態になり、スイカの皮で漬け物をを作って貰ったり、外食はお金がかかるからと昼と夜の2食分のお弁当を持って行き非常勤控え室で食べたりと、節約に節約を重ねる生活をしていて・・・。でも、楽しかったな。だって自分がしたいと飛び込んだ道だったから。しかしながら、嫁さんと二人の子どもの生活の柱である事を考えるとこのままではいけない。そこで拠点作りを画策しました。児童施設で自分なりの考え方をやり通すのであれば『情緒障害児短期治療施設』が一番良いと考えアクションを起こしました。『捨てる神あれば拾う神あり』で、親戚筋の方が松尾山の麓の土地約2万平方メートルの提供の申し出があり、パーツまで作り、その当時の岐阜県児童家庭課に持ち込んだのですが、県の方針は「高齢者施設の予算しかなく、児童の施設は10年後しか無理」と言われ、施設作りは見事に挫折。その後紆余曲折がありそれから4年後に特別養護老人ホームを設立しました。リピーターの皆さん。特養設立までの足跡を次回に書きますので、必ず見て下さい。✳コラムが今に(21時36分)なったのは、午前中に杉和会の理事会があり、その後17時15分からの幹部会の為の打ち合わせ等でバタバタしたからです。正直タイトルから横道にそれた事はわかっていますが訂正する事もせずアップしたことお許し下さい。明日こそは・・・。

児童養護施設で子どもたちから教えて貰った事

令和2年3月19日

福祉の『ふ』の字も知らずに飛び込んだ児童養護施設での13年間では子どもたちから多くの事を学ばせて貰いました。その事を思いつくままに今日は書いてみたいと思います。私が入職して初めに感じたのは、「小学生はどの子も人懐っこいな」と言う事でした。そして何日かして思ったのは「親の愛情が希薄だったんだ。」と思うと同時に「私が少しでも甘えて貰える存在になれないか。」と言う事で多くの時間を子どもたちとの接点を持った対応を心がけました。

昨日も書きましたが子どもたちの殆どが『学習遅滞児』だと言う事です。その理由を子どもたちとの接点を持つ中から理解しました。結論は子どもを育てる側の親に子どもの『勉強』に全く興味を持っていないと言う事です。例え話をします。【小学校に入学して生まれて初めてのテストとして漢字テストがありました。『一』『二』『三』『川』『上』『口』『木』等習った漢字20文字位の中から10問が出題され、生まれて初めてのテストで全問正解して100点を取り、答案用紙一杯に大きな大きな花丸を貰い、嬉しくて嬉しくて、お父さんお母さんに褒めて貰おうと飛ぶようにして家に帰るとお父さんとお母さんが夫婦喧嘩の真っ最中。

そんな事はお構いなく子どもが「父ちゃん、母ちゃん100点取って大きな大きな花丸貰ったよ。」と言ってもお父さんもお母さんも全く反応なし。それにもめげずに3回程お父さんとお母さんに訴えたら、ようやくお母さんが子どもの方を向いて「今はお父ちゃんと大切な話をしてるのであっちに行っといて。」と言われて子どもは認められなかった褒められなかった事にイライラ、モヤモヤ。こんな事が何度か続くと子どもの学習意欲が無くなり、ましてやこのような親であれば、子どもの勉強の確認などしなくて、子どもは親の確認印等を勝手に押す知恵だけが働く事になる。】小学1年生の1学期に入所した子がいました。その子は全く字が書けなくて、たどたどしく何とか50音が読める程度でした。

最初は自分の名前が書けるようにと練習するのですがなかなか書けない。来る日も来る日も根気よく練習しました。何とか半分ほどのひらがなが書けるようになるまでに2週間を要したので後の半分も2週間かかると正直うんざりしていたのですが(あまりに根気がいる事だったので)後の半分は5日で書けるようになったのには正直驚くと共に『学習にはバイパスあり』を身を持って理解する事が出来ました。1年目の年の瀬に大掃除をすることになったのですが私は掃除の要領が分からず寒い日だったのでズボンのポケットに手を突っ込んで見ていたら、経営者の方から思いっきり怒られました。

でも、やり方が分からなくて出来ないのは教えて貰わないと出来ないとの反発心もありましたが、少しずつ中学生がしているのをみて出来るようにして1年後の大掃除は指示が出来るまでに成長しました。(少なくとも手をポケットに入れる暇はありませんでした。)小学6年生の男子4人を指導した時の話です。4人の中で体も大きく運動神経も良くリーダーシップが取れる子がいました。

私はその子に厳しく指導する事であとの3人はついてくるとの安易な指導をした事がありました。ある日、いつものように彼を厳しく指導していたら突然彼が泣きながら「どうして僕ばかり注意するの」と詰めろって来た時には、私の手抜きの指導を見破られたと恥ずかしくなると共に、バランスの良い指導をしなくてはいけない事を教えて貰いました。(彼は高校を卒業するまで随分私を助けてくれました。)

リピーターの皆さん、13年間の出来事と言うと語りつくせるものではありませんが、私を育ててくれた時代の事ですので機会があればまた書くことにします。

 

児童養護施設の13年間での思いを語ります

令和2年3月18日

児童養護施設の就職が決まり、徳山村での『勘当生活』が解かれた私は、再び家からの通勤となったのですが、片道26㎞の通勤は色々な意味で気分転換になりました。

勤めだした頃の私は意外な形での勘当の幕切れだったのですが、「わざわざ徳山村まで来て頂いた方への礼儀として、年度内の翌年の3月までは勤めなければ」等と生意気な考え方でいたのです。どうしてかと言うと私自身『福祉』の『ふ』の字も知らないし、自分が積極的に望んで飛び込んだわけではないからです。しかしながら、児童養護施設には、学校のように文部省の指導要領のようなものは無いし、男性職員は理事長である禅宗の高僧とその息子さんと末寺を任されている男性指導員の私を入れても四人のみで、他の方は保育士さんや厨房のスタッフで女性ばかり。

私は小学、中学、高校の教員資格があるのでと言うことで14時から22時までの勤務時間で出勤して、挨拶に行くと職員がみんなでお茶タイムをされていて、私はお客様のような扱いで保母さん達がお茶やお菓子を運んでくれて・・・。『まるでハーレム』。15時過ぎから帰ってくる小学生が持ち場の掃除をして、おやつを食べた子から順次(3年生以上)児童館で宿題と本読み程度を見て、夕食前までに小学生の勉強を終えて食堂に行くと既に中学生が準備してくれている夕食を全員で合掌をしてから頂き、夕食が終わっての再び合唱したら私は児童館にて中学生が勉強に来るのを待っている。流石に中学生は小学生のように最初からすんなりと受け入れてくれなくてその当時13人いた中学生の座っているところをまるで熊のように(その当時は体重が50㎏位だったから野良犬位だったかも)机間 をうろうろしているだけで、22時前になると理事長の息子さん(主任指導員)が「若山先生、今日はこの位でありがとうございました。」と言われて児童館の玄関の鍵をしてから私の車を見送って頂く、まるで家庭教師の先生のような扱いに戸惑いながらも「まっいいか」で1週間が過ぎたら、児童館の鍵を新たに作って頂きお見送りの対応は1週間のみ・・・。(当たり前か)

私が児童養護施設に就職した年は『国際児童年』と言う事で、どの施設もイベントをそれぞれの施設ですることになっていて、2週間目からは午前中から来て、看板作りをしたりしている内に、子ども達との接点も密になり、子ども達の家族環境等の背景も少しずつわかってくると、子ども達の学習指導にも力が入り、私自身の学習能力と指導力の無さに気が付きました。普通はここで自分の限界に気が付き逃げ出すのでしょうが私は子ども達と共に成長したいと思い、かつて神戸北小の同僚の先生に「恥ずかしながら」と当たって砕けてもの覚悟で教えを乞い、納得がいくまで指導を仰ぎ『むてかつの指導者』と頑張りました。

正直この時の約半年の期間程勉強した時期はなかったと思います。もともと勉強が苦手な私は、前日に自分が学んだ事を教えるのだから、子ども達の『解らない所が解る』カリスマ的な指導者に子ども達がしてくれたと言っても過言ではありません。自分でそれぞれの子ども達に理解して欲しい事を把握して手作りのプリントを作成しました。子ども達は「私の為に、(僕たちの)為にプリントを作成してくれた。」と言う事で一生懸命に取り組んでくれました。但し、施設に入所する前の家庭状況では、勉強をする事の意義を見出だせない子が殆どで端的な言い方をすれば『学習遅滞児』が多かったです。しかしながら、親の支援を受けれない子ばかりなので、私は子ども自身に『強さ』とか『強み』を持たなければいけないと考え、勤めて2年目からは『高校全員合格』を焦点化する目標を立てて、時には阿修羅のように、時には蒸気機関車のように湯気を出した指導もしました。

しかしながら有り難かったのは子ども達が本当に良く付いてきてくれた事により、私がいた2年目からは高校全入と大学、短大、専門学校に進学して立派になってくれています。勿論、せっかく苦労して高校進学しても中には中退した子もいて、心痛めている事も事実です。今は児童福祉から高齢者福祉の世界にいますから児童福祉の事を語る資格はありませんが、私の児童に対する思いは、社会に適合出来なかった子を当法人には敷地内にアパートもあり、食事の提供もできるので一人でも二人でも杉和会に飛び込んでくれたらと思うのですがリピーターの皆さんは私の今の考え方に対してどのようにお考えになるかご意見を頂ければ嬉しいです。

✳久し振りの東京出張で、新幹線の往復でコラムを書いたのですが、東京の状況は新型コロナウイルスの影響でしょう。東京で降りる時は降りた車両では10人程で、丸の内まで歩く途中の蕎麦屋さんはいつもは一杯で表まで並ばれるのに13時過ぎでもがらがらでした。

勘当された徳山村でのPART⒉

徳山村での勘当の身の生活は、毎日のように民宿へのお客さんがお見えになり、人数に合わせた買い物(魚と豆腐)と料理を作る事が本職になったような日々(良くても悪くても環境に馴染む事が出来るのが私の特性かな)で余った時間は村の中を散策して村の方々と仲良くお話をしたり、河原でラジカセの音楽に合わせて思いっきり歌を歌ったりして、全く自由奔放な生活を謳歌してました。時には、親しくなった家に遊びに行ってはお客さんが無い日などは夕食を頂いて色々な話をしました。ちょくちょく遊びに行って徳山村の方々の今後についての話を聞き手上手になったり、3月までは教員をしていた事の話をしていて、その家の娘さんが東京に出て女優になりたいと聞いていて、私の自惚れだったと思うのですが、娘さんと私を結び付けたいような話酔っぱらいながをお互いに酔っぱらいながらしていました。そんな時に東京から娘さんが帰って来るので食事を共にして欲しいと言われて自惚れていた私は厚かましくも家に行き宴会に参加しました。ご両親は私と娘さんを隣の席にして何とか娘さんが興味を持ってくれないかと思っていたようですが娘さんには全く持って我関せずの状態だった事を鮮明に覚えています。確かに女優を志すだけあってスタイルも良かったし綺麗な子だったので、歴史にもしもと言う事はありませんがもしも一緒になっていたら今須一も奥さんだったな等と思っています。私の徳山村での生活は8月末で突然ピリオドを打つことになりました。と言うのも何の前触れもなく、全く私が知らない方が私を訪ねてみえたのです。その方は、3月まで私が勤務していた神戸北小学校の近くにお住いの方でその当時大垣市内の中学校の校長先生だったのです。その方は自分の紹介が住むと同時に私を一喝されたのです。それは、「いつまで徳山村でくすぶっているのか。自分の生きる場所と違うだろ」と・・・。私はあまりに唐突な話についていけない状態で黙っているとその方から「教員としては異端児のような存在だったかも知れないが君のような人材を求めている世界があるので紹介したいので私について来なさい。」と言われ、何も分からないままに穂積(今は瑞穂市)にある『児童養護施設』でいきなり面接のようなものを受けました。面接ですから白のカッターシャツにネクタイにスーツを着て行ったのですが、その当時はいつも四国遍路の時に首からかけていた数珠がカッターシャツから透けて見えたのを面接をして下さった経営者の方が目ざとく見つけ「その数珠は何ですか」と聞かれたので「高校2年の夏休みの時から四国遍路をするようになり常に身に付けています。」と答えると「ここは、禅宗のお寺ですが弘法様もお祀りしてしてます。信仰心があり、小学校、中学校、高校の教員免許を持っているなら、明日からでも仕事をして貰いたい。」と言われたので、「流石に明日からと言うわけにはいきませんが週明けの月曜日から勤めさせて貰います。」と答えていました。しかしながら、その当時の私は『養護施設』(当時の言い方です)がいったいどんな施設かも殆ど知らずに就職しました。つまり、26歳の私が自分でやりたい事を見つけての生き方は38歳まで待たなければいけないのです。

※今は『コロナ』の話題ばかりでその話題になると胃が痛くなるので今は過去の振り返りシリーズにしています事にお付き合い下さい。

父進に勘当された時のパラダイスのような日々の話です

令和2年3月16日

勘当されたときの父進さんのお言葉は「教員を辞めたのは仕方がないけど、毎日ネクタイを締めて学校に勤務していた宏が家でゴロゴロしていたら今須は田舎だから『若山さんちの宏君このごろとっても変だ』と言われたらいかんので、どこか遠くで生活をしなさい。」と言われて、その頃の私は「それもそうだ」と変に納得をしたので、当時は『勘当』だとは思わなかったのですが、これはいわゆる世間では『勘当』と言うのですよね。

どこかに行くと言っても当てがなかったのですだ、ふと学生時代のサークル活動で落語や演劇をしていたのですが、もう一つ学術的なサークルで『郷土研究の会』と言う、いわゆる柳田民俗学にも所属していて、ダムで沈む『徳山村』に長く留まって調査した時に、その当時徳山村の語り部でインスタントカメラで地元住民をバチバチ撮って後に写真集まで出した増山たず子さんの所が民宿をしている事を思い出し、私はぶしつけにも民宿での『居候』を決め込み当たって砕けろ精神で徳山村戸入の増山さんの家に突然押しかけ、「民宿のお客さんが一人でもあったら私がお客さんの食事を作り接待もしますから遠慮なく写真を撮りに出掛けて下さい。但し、お客さんがあった時の料金はただにして下さい。

お客さんが無い時は一日2000円で泊めて下さい。」とむしの良い提案をしたのですだ、増山のおばちゃんはその条件をニコニコしながら了解してくれました。料理を作ると見栄を張ったのですが、正直そんなに自信があったわけではありません。但し、増山さんの家は大きな囲炉裏があり自在鉤が吊るしてありいつも炭火が点いました。そこで、お客さんの人数プラス私の分の魚(イワナ、鮎、マス)を養殖している所に買いに行くと共に徳山で作っているとても固いお豆腐を手に入れ、尚且つ、食べきれなくて困っている家のジャガイモを貰って来たものを料理しました。でも、よく考えてみると料理と言えるのかなあ。

だって、魚は綺麗に洗って鉄櫛に刺してしっかり塩を付けて囲炉裏の炭火で焼くだけだし、お豆腐は半分に切ってお皿に乗せて、村の方に連れて行って貰って手に入れた天然わさびをすってお醤油はお客さんに好きなだけかけて貰い、ジャガイモの料理は綺麗に洗ったのを炭火の上に網を乗せたところで焼いて貰いお客さんに好みでバターか塩をつけて食べて貰う。

お漬物として、わさびの葉を前日に土鍋にお湯を沸かし葉を入れて密封して一晩そのままにしたものを切って出すと言うものです。昭和54年は衆参同時選挙があり、最後の選挙戦と言う事でマスコミが大挙して来て、景気の良い時で取材や撮影が終わってからは宴会が始まり私もちゃっかりお相伴にあずかり、徳山村ではよーく飲まして貰ったなあと思いますし、マスコミ関係の方と酔っぱらいながら激論をしたなとの思い出ばかりです。リピーターの皆さん『勘当』も良いもんだと思いませんか。実はこんな生活が5か月も出来たんですから『勘当』も良かったと父進さんに感謝ですかね

 

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