ボストン会会員の心配の種
令和2年3月25日
35歳の時にアメリカ研修に行かせて貰い、3年もしない内に児童養護施設を退職して理想に燃えてフリーになったのは良かったのですが、現実は無納税者の体たらく。まさか『カスミ』を食べていけるわけで無し。と言う事もあり特別養護老人ホームの建設計画を立てたものの平成8年度の計画は頓挫するし、膨大な資料を作成しながらも大学等の非常勤講師と家庭教師をこなし時間もない、お金もない状況の中で年に1回開催されているボストン会を欠席した時はメンバーの中で『若山死す』等と冗談にもならない情報を流す者まで現れる次第。
北は気仙沼から南は沖縄(何日か前のコラムで『宮崎』と書いてしまいました。それは、沖縄の会員だけがボストン会の参加がなくて存在感が薄かったので間違えた次第です。)の総勢17名の会員は、私の事を本当に心配してくれていて、会員の中には情報や励ましや資金援助をしてくれました。平成10年5月15日の竣工式典には宮崎県からボストン会団長を初め多くの会員が来てくれました。
事業開始してからの2年間は老人福祉法の中の『措置制度』の中で厳しい経営を強いられましたが、平成12年4月からは介護保険法の中の契約による施設になり、職員の資質も上がるの事による相乗効果によって稼働率もあがり、経営も盤石になってきて、ボストン会のメンバーも私の心配をする事はなくなりました。
介護保険法導入時の報酬は点数が高かったのと、職員の勤務年数も短いのもあり、収支状況が良くて介護保険導入の3年間で資金を持つ事が出来ました。社会福祉法人は基本的には免税のシステムです。その代わり『地域貢献』を義務付けられています。そこで、その当時何で地域貢献すべきかを考えた時、特別養護老人ホームの待機者の緩和こそ大切だと考え、平成15年度事業で『新館の増床こそ地域の民意』と考えて40床の増床を計画しました。
その当時の考え方の中で国は『個室化』を推し進めていたので『ユニット』での計画をしました。ユニットでの計画は岐阜県で2例目の事で『岐阜県でのモデルとなる施設にしたい。』との思いで、『ユニット』は『プライバシーに特化しなければ』との思いで計画しました。また、本館の時よりは時間的にも資金的にも人材的にも余裕を持って計画したので、本館の時とは違った意味で拘りのある施設にしました。
例えば建築中に般若心経のお写経をして柱の中に入れたり、居室を見渡しが出来にくい構造にしたり、高野山の大僧正で日本一の書家と言われている静慈圓師の書を各ユニットに飾らせて頂いたり、認知症の方もゆったり過ごして頂けるように飛騨家具を購入したりしました。また、1階は和風にして1ユニットは完全な和室にしました。
何故なら家にお見えになった時は畳に布団を敷く生活だと考えたからです。(開所当時は大変喜ばれたのですが、基本的に『要介護3』以上の入居と言う条件に改められてからは入居者の重症化が進み立ち上がりの動作だ出来る方が少なくなり、畳にベットが殆どになりました。)2階は洋風にして暖炉のあるスペースも設けました。優・悠・邑のこだわりを一度見に来てください。昔から言うでしょ。『百聞は一見に如かず』とリピーターの皆さん是非是非来て下さい。