法人設立記念PART⑧(まとめとして)

令和2年7月24日

当然の事ながら紆余曲折の23年であった事を7回シリーズで書かせて頂きましたので、私の生き様の一旦はご理解頂けたかと思いますが、端的に言えば半端な生き方では無かったと言う事です。但し、23年の経過の中で成果が上がっていると思える現象について本日は書かせて頂き『法人設立記念』のまとめとさせて頂きます。

昨年度1年間をかけて『杉和会2030ビジョン』が作成され、より効率的に目指す方向性についてまとめ上げました。その中で、7月17日の設立記念日に合わせて、勤務年数5年、10年、20年、30年、40年表彰を行う事になり、表彰状と共に金一封を添えて感謝の意を表す事にしました。そして、7月16日に優・悠・邑 和合の全体会で理事長である私から和合の職員一人ひとりに一言ずつ言葉を添えて表彰状と金一封を手渡しました。

具体的に対象者は10年表彰が3人(本部施設から異動した職員です。)で5年表彰が38人でした。優・悠・邑 和合の施設は事業開始をして7年目にして41人もの表彰が出来たのは介護離職問題が大きな課題の中での数字としては、誇れる数字だと思います。本部施設の表彰授与式は本来記念日に合わせて7月17日に実施したかったのですが、色々な事情から10日遅れの7月27日の全体会で実施する予定です。ちなみに本部施設での対象者は20年表彰が4人、10年表彰が22人、5年表彰が23人です。今年が初めての企画なので、本部施設の10年表彰対象者の中には、来年度に20年表彰の対象者や、5年表彰の中には10年表彰を連続で受賞される職員も沢山います。ちなみに、金一封は5年表彰が1万円、10年表彰が2万円、20年表彰が3万円、30年表彰が5万円、40年表彰が10万円なのですが、表彰状と共に金一封が貰えて皆に祝って貰えるシステムは素晴らしいと自画自賛と共に職員にとっても励みになるものと思っています。

大変な想いと労力と資金を投入して出来た施設が『杉和会は売りに出ている』等と言う話がうわさとは言え私の耳に入って来た、事業開始から1年経過の頃からの頑張りは、お金も土地も無い状況での頑張りの中、「このまま諦めてどうするんだ」と言う思いと、色々な方々の励ましや助言を頂いたお陰で今があると思うと『感謝』以外の言葉が見つかりません。今年度に新規事業として盲養護老人ホーム80床を手掛けれるのは、杉和会に対する信頼があればこそと思っています。リピーターの皆さんこれからも、職員一同切磋琢磨して、地域のお役に立つように頑張りますので、変わらぬご支援を賜りますようによろしくお願いいたします。。

 

法人設立記念PART⑦『胃が痛くなる中で 』

令和2年7月23日

本部施設が初めての正月を迎えた頃から現場ではフロアで仕事をしながら「あなたが辞めるなら私も辞める」のような会話が乱れとんでいて、「施設長は現場の職員を全く理解していない。」との批判が堂々とされていて、職員の中には大学で習った先生が法人の監事をしていて、「働きに見合った給料ではない。」と訴えるものの話を鵜呑みにして理事会でそのような提案をするものすら現れる一方、大学の教授をしている方が当法人の理事をしていて、「杉和会は売りに出ている」のような事を話しされているとの話まで私の耳に入ってくる状況に「借り入れについては私の施設長としての給料を全て入れても足らない位で、非常勤講師の手当てのみで我が家の生活を賄っている状況で頑張っているのに」との忸怩たる思いの中で、ある日の理事会では私がぶちギレてしまい、その後仲介に入って下さった吉田宏岳先生(法人筆頭理事)と冷静に話をして、「施設長を一旦辞し現場に入り施設の再構築をする。」と決めました。決して、職員ばかりが悪いのではなく、私自身も正直舞い上がっていたとの反省に起因しての結論でした。

そして、岐阜県庁職員OBの方を施設長にお迎えして私自身は現場での時間を多く持ち、取り敢えずいきなり介護と言うわけにはいかず、元気な認知症の方の中で便座に便を塗りたぐられた方の便座をきれいにしたり、おむつを便器の中に突っ込まれて配管に詰まったのを取り除いたり、濡れた廊下をモップで拭いたり、送迎の運転手をしたり、相談業務をしたりと私が出来ることをさせて頂きました。そんな中、職員との会話の中に入っていく事ができるようになりました。

そして、最初に職員と一緒に成し遂げたのがある職員からの提案での『おむつの見直し』でした。その時は全職員が3社から提供を受けたおむつを充てて比較をしたり吸収量の検討をしたり、充てていた時の充て心地について意見を出し合いました。実は私はそれまで介護の経験もなくおむつを充てた事も無かったので、正直自分で充ててみて、おむつを充てている方の10分の1位は理解したのかも知れません。体験の中から理解したのはトイレに行けば当たり前のように排泄出来るのに正直『出ない』。排泄したいのに『出ない』。そこで、座った姿勢で服圧をかけると(その頃は決してお腹は出ていませんでしたが)リアルに言うと、ちょろっと出たと思ったら出るわでるわ際限なく。思いっきり出たとホッとした瞬間におむつの中がめっちゃ生温かくて「気持ち悪い」と思いながらも『直ぐに替えて貰えない経験をしなければ』と5分、10分、20分と経過して気が付いたのは『だんだん冷たくなってきた。』と思い30分経過した時には正直、おむつの中は『氷のように冷たくなり、おむつの中は痒くて痒くて』。これは正に体験しなければわからない事。小便は確かに排泄出来ました。しかしながら大便の方は簡単に出ない。と言うより3日は頑張りましたが出ない。「このままでは体に変調を来す。」と言う事で体験出来ませんでした。但し、その時の体験でおむつの中で排泄して頂く事の大変さを理解した事により、『尊厳ある生活』に対して深く考えさせられました。

また、大変な状況の中での出来事をもう一つ書きます。それは、満床になって職員が余裕がないと思っての対応の中で施設見学に来たお客様に職員が挨拶をしなくなった事を指摘した時に職員から返ってきた答えは「忙しいのにできません。」でした。私は唖然としながらも返す言葉を失った事を今も昨日の事のように覚えています。23年経った今、そのような職員はいませんし、『急がば回れ』を知っている職員がたくさんいます。

今は、『大変な状況』の時に対応したり指示するのが私の役割と理解してます。深夜と早朝の対応が正にそうでした。それは、宿直者の五次部長から23時前に『ガス漏れ警報器がなった。』との連絡があり、既に農協(ガス提供業者)への連絡はしたとの事(この辺は指示しなくても出来る体制になってます)状況確認の為と五次部長が朝食提供の事でパニックになっていると思い施設に出向くと既にガス漏れの確認は業者により出来ていて、漏電復旧が出来ないとの事で「今から電気修理を頼む事は出来ないので厨房が出勤してくるタイミング(4時40分)に再び私が出向き最悪非常食の提供の判断をする事にして、一旦家に帰り再び4時30分に施設に行くと厨房職員が来たので漏電していないコンセントから電源を引くと電気炊飯器等も動く事を確認して再び家に帰り7時30分に電気工事会社の社長に連絡して、厨房業務が終了したタイミングで修理に入って頂く事になり今(午後9時45分)も修理をして頂いてます。(作業の見守りは宿直者にして貰っています。)

こんなスタンスで頑張ってきた23年だからこそ稼働率の高い施設運営が出来ているのだと私は考えているのですがリピーターの皆さんはどう思われますか。

法人設立記念PART⑥

令和2年7月22日

16日から始まった内覧会の日は考えてみたら私の誕生日の日で、たくさんの地元の方を中心に来て頂き、異口同音に「おめでとうございます。素晴らしい施設が出来ましたね」的なご挨拶を頂くのですが、少なくても私の誕生日を祝っての挨拶で無いことは当然の事ですが、私の誕生日の日が記念すべき内覧会の初日だった事は私自身には素敵に感じたものです。

いよいよ内覧会も終えて18日から事業開始で、最初の入居者さんは安八町から元気な認知症の女性の方でした。私にとっても、職員にとっても受け入れは初めてで、その当時は介護保険前でいわゆる老人福祉法による『措置』だったので、家族と共に安八町役場の職員の方にも来て頂いてのものでした。(余談ですが、平成12年4月から介護保険法が開始されたのですが、今でも老人福祉法は生きているにも関わらず、その存在すらご存じ無いのではないかと思えるような対応をされる施設があるように聞いていますが、当法人の施設は積極的に『困っている方、難しい方』の受け入れをしています。)受け入れ初日の夕食風景を見て微笑んだ覚えがあります。(今はとんでもない出来事と理解してますが)それは夕食時に夜勤者2名で夕食の対応をしている時に入居者さんは一人なので、入居者さんの両サイドに職員が座って介助しているのです。

そんな状況の中、措置である故になかなか入居者さんの措置依頼がなく、先代の理事長と共に市町村へ措置依頼の挨拶に時間がある限り行きました。ある時は入居が決まったのに家族から2ヶ月入居するのを待ってくれとの連絡を頂いた時には違和感を覚え家族に連絡すると、入居予定の長男さんの奥さまが電話に出られ「主人が手術をする事になり、2ヶ月近く入院することになり、美濃加茂にある病院まで連れに行く事が出来ない。」との事だったので「私が奥さんをお乗せして美濃加茂の病院にお迎えに行けば2ヶ月も待たなくても、極端に言ったら、明日にでも入居して貰えますが。」と話しすると「そんな事が出来るのですか」と言われて、美濃加茂の病院に行ったり、その他にも岐阜市や本巣市や敦賀市までお迎えに行ったりして、少しずつ入居者の数を増やしていきました。

5月末で5人、6月末で15人、8月末で25人で満床になった記念すべき日は10月3日でした。喜んだのも束の間でした。満床になり10日程経った日の16時頃、大学の非常勤講師の仕事を終えて施設に戻ると事務所にいた職員が私に「役場住民課に連絡するように」と言うので慌てて電話するといきなり「若山さんのところのショートステイの定員は何人だ」と言われたので『今更どういう事』と思いながら「20人ですが」と答えると「今のショートステイは何人だ」と言われたので「3人ですが」と答えると「3人しか受けていないのに利用者の四人目を断る利用は何だ」と言われて私は何の事かわからなくて「取り敢えず確認します」と言ってその当時の指導員を呼んで聞くと「現場が忙しくてこれ以上は受けれないと言ってますから何かおきたらいけないので断りました。」と答えたので唖然となりながら怒りが沸いてきました。

「最初にゆったりしていたので忙しいと言う事だけど、国の基準以上に配置しているのに」と思いました。そこから、私と職員のバトルが始まりました。それからは白い封筒(退職届け)が乱れ飛ぶ毎日に私の胃に穴があくのではないかと思う試練が私に待っていました。リピーターの皆さん次回はくら~い杉和会の時代を書く事にします。

 

法人設立記念PART⑤

竣工式は私にとって舞い上がるような出来事でした。その日は竣工式を祝うかのように快晴の青空。但し、前日に今須小中学校体育館に椅子を200脚お借りしに行った時、その当時私がPTA会長をさせて頂いていた関係もあり当時の教頭先生が私と一緒に体育館まで来て下さった時に、5月1日から杉和会の職員に採用した殆ど学校を卒業したばかりの職員は(その当時はいくらでも新卒者が採用出来る時代でした。)床に寝転がり教頭先生に対して挨拶も出来ない状況に一抹の不安を持ちつつも、とにかく椅子を運ばせる為に作業に没頭した事を今でもしっかり覚えています。但し、竣工式の準備を終えてからは、それぞれの職員の役割を徹底する為に全員を集めリハーサルをして行く中で挨拶についても『お客様をお迎えすると言うことは』を噛んで含んで教えました。(どれだけ理解したかはわかりませんが)例えばそれぞれの場所での説明役の職員にはそれぞれのエリアの面積や使い方等を徹底してレクチャーしました。(色々な施設の内覧会等に行ってもただ挨拶するだけと言う職員がいたりするのですが、私はそれではいけないと考えています。)竣工式はおおぜいの来賓やお客様で玄関先の地域交流ホールはうめつくされ先代の理事長のサポートと現場の指揮でキリキリ舞いでしたし、準備するので一杯いっぱいで私の常務理事として大切な役割であった『経過報告』の下書きも何も出来ていない中でしたが、実際に関わった事をしっかり話が出来て話終わった時に安堵したのを記憶してます。だからでしょうか。今も挨拶をしなければいけない場面が多々あるのですが、事前に挨拶文を考えて挑んだ記憶がないのです。小さい頃の私には考えられない現象ですが。舞い上がったままではありますが無事に竣工式は終了しました。そして次の日から2日間は内覧会で18日からはいよいよ特養の事業開始で21日からはデイサービスの事業開始だったのですが、私はハード面の勉強はそれなりに一生懸命にしたのですがソフト面については言葉を選ばず言うのであれば『ぶっつけ本番』。走りながらの事業開始となったわけです。だから、すんなりと運営出来たわけではない事実をこれから語っていきたいと思います。(えっ。ここまで前段だったのか・・・。)本当であれば、これから本論に入らなければいけないのですが、朝出勤前に書いた前段だけのコラムで本日はお許し下さい。と言うのも、明日県庁へ9時30分のお約束で新規事業の差し替えと共に事務方が代わった事のご挨拶に行かなければいけないのですが、差し替えがかなりの量になり、その打ち合わせと整合性をとる為に時間がかかり、理事長としての印を押し印刷は職員に任せて帰って来たのが先程で(今は午後8時27分)今日程『予定は未定で決定ではない。』と思った事は久方ぶりです。そして、予習の大切さ時間を無駄にしない事の大切さを理解しました。リピーターの皆さん頑張っているヒロシ君に大いなる拍手と声援をお願いします。

法人設立記念PART④

令和2年7月20日

昨日のコラムでお伝えしたように8月8日に難産の末に何とかゼネコンは大日本土木に決まり、早速打ち合わせと同時に施設の道を隔てた向かいの空地を借りて建設事務所があっと言う間に建ち、今の家族会の会長さんの倉庫内の事務所から引っ越しました。但し日程的にはお盆休みが終了してから本格的に作業が始まりました。私は初めての経験なので毎日毎日現場を見るのですが、作業開始当初は土を掘り起こすばかりで「これで大丈夫なのか」と心配になりました。杭打ちが始まっても長い杭が簡単に土の中に吸い込まれるように入っていくのは驚きでした。また、土を掘り起こしている時に大きな木が出てきた時には驚きと戸惑いがありました。その時は地元説明会でバシッと発言して下さった長老の方が「伊勢湾台風の時に流されてきたものだと思う。この辺も谷が多いので『一時水』には気をつけないといかん」と毎日現場を見に来て頂いていたので教えて頂きました。(現在は南側斜面と施設奥に谷水が集中する所に50メートルもの立派な砂防ダムを岐阜県事業で作って頂いてます)その後も一生懸命に作業をして貰っていたのですが、忘れもしません。あれはその年の12月1日に一気に雪が40㎝程ドーンと降ったのです。そしてその時には屋根も出来てない状態でした。その時の大日本土木の監督が濱川さんで助監督が細川さん。濱川さんは冷静沈着な方で細川さんは血気盛んと言う感じの方でお互いに役割をよく理解されていたと今でも思います。その時の対応はその日のうちに強力な温風ヒーターをたくさんレンタルされ、フル稼働で熱風を吹き出し6時間毎に給油をしなければいけないので下請けの責任者の方が順番に寝ずの番で給油をされていて、助監督が重機を使って必死に雪を建物外に出される作業をされていたのを今でも鮮明に覚えています。そして、3日で雪を克服し、次に監督さんがされたのは職人の数を倍増された事です。このような対応はしっかりした会社の証しだとその時痛切に感じました。但し、不思議な事にその年は12月1日にドサッと降ってからはちらつく程度で作業を遅らせる事がなかったので、私は今でもこの工事が速やかに行く為に『神風』ならぬ『神雪』だったのではないかと思っています。23年も前の事だから今では笑って言える事なのですが、その当時の岐阜県の終了検査が平成10年3月30日に実施されました。但し、その時は正直、まだ天井部分が出来ておらず、配管等が見えている状態だったのですが、担当者の方が「いつ事業開始の予定ですか」と聞かれたので私は即座に「5月15日に竣工式をさせて頂き、16日と17日の2日間を内覧会にして18日から事業開始をします。」と涼しい顔で答えていましたが、この事は大日本土木の監督さんにも伝えていない話だったのです。だって私自身検査日の朝、カレンダーで日がらを見て決めた事なんですから。監督の濱川さんからは「5月15日にされたのはどういう根拠ですか」と真剣に聞かれたのに対して私は「5月16日が私の誕生日なのでその前夜祭として、竣工式をやりたいの」とけろっとした顔で答えたのを今でもはっきりと覚えています。それからの1ヶ月半は文字通りバタバタで、竣工式前夜は備品関係の搬入に荷物を円滑に搬入したい業者さん同士で陣地取りをされていさかいが起きた時には仲裁に入る事も度々でした。結局竣工式には玄関前の舗装が間に合わなくて砂利を敷いて急場を凌いだのも今では笑えるような出来事となっています。リピーターの皆さんこんな調子で本館が出来たのですが、何をやってもはらはらドキドキの展開ですが『事実は小説よりも奇なり』です。本日は色々あって今(午後10時21分)ですが、頑張っているヒロシ君に拍手・・・

法人設立記念日PART③

令和2年7月19日

平成9年7月17日に認可を頂いてからは目が回るような、しかも初めて作る書類の作成に自分の能力のなさを嘆いていても仕方が無いので、「分からない事は聞くべし」で色々な方や機関に指導を仰ぎながらクリアしていきました。認可を頂き一番最初にしなければいけないのが入札執行なのですが、単年度事業での入札行為なので、11社指名による方法だったので、「果たして11社もエントリーして下さるのか」心配でした。指名した業者からは全社の参加意思を頂き取り敢えず「ほっ」としたのを昨日の事のように思い出しています。

そして、いよいよ8月8日に入札が行われたのですが、その時は初代理事長(私の義父伊藤憲治)と相談の上決めた入札金額で果たして落札してくれる業者が出てくるかドキドキでした。いよいよ入札が始まりました。そして1回目の入札では最低額を入れた大日本土木との差が1億も開いていて私は「入札してくれる会社が無ければ単年度事業での計画が難しくなるし困った。」と思わず「2回目は必ず入札出来る数字を出して下さい。」と天にも祈る思いでした。

そして2回目の入札での大日本土木が一番低い数字だったのですが、それでも5千万円の開きがありました。そこで、入札に立ち会って頂いた理事・監事の方々と協議をして、再び仕切り直しをしての入札は時間的に不可能だとの認識の中、1回目2回目共に一番低い数字を提示して下さった大日本土木と話し合いにより決める事にして、参加して頂いた業者にご了解をして頂き大日本土木と法人で話し合いをする事になり、大日本土木側から「本社との協議をしてからにして欲しい。」との事で一旦休憩に入りました。

おおよそ1時間後に再開となりました。その時の大日本土木と杉和会との数字の開きは大きかったので大日本土木側がどのような答えを持って挑まれるのかと正直ドキドキしていたのですが、大日本土木側の責任者の営業部長さんから「杉和会さんのお気持ちを聞かせて下さい。」と言われて私はその当時の理事長に代わって常務理事の立場で「5千万円の開きは大きいですが、お互いに譲歩した形で⒉千5百万円ずつ歩みよるのは如何でしょうか。」と内心ドキドキしながら答えると、営業部長さんは苦い顔をしながら、「もう一度本社と相談しますのでお時間下さい。」と言われ、もう一度休憩が入りました。実際には10分程度の時間だったのですが滅茶苦茶長く感じられました。

しかしながら10分後の営業部長さんの晴れやかな顔を見て「了解して貰えたんだ」と確信しながらも正直ドキドキしていました。そして営業部長さんから「若山常務理事さんが提案して頂いた数字で会社側の了解が得られました。但し、若干の計画変更はお願いしますがお請けした以上精一杯頑張りますので宜しくお願いします。」で難産上での入札執行でしたが8億7千5百万円で無事に入札が出来、本格的に本館の建設工事が行われて行く事になりました。リピーターの皆さん、いつもいつもこのように試練ばかりの23年でしたので、まだまだこの流れでのコラムが続きますが宜しくお付き合い下さい。

法人設立記念日に続くPART②

方向が決まらず悶々とした生活が続く中、「児童にかける熱い思いをまもなく厳しい状況が到来する高齢者問題で拠点造りをしてみたらどうか」と助言して下さる方が多くあり、「高齢者福祉にシフトを変えてやっていけるのか」との葛藤をかなり長くした上での結論は「出来るかどうかで悩む前にやりながらのたうち回ってみよう。」との結論に達して高齢者施設建設に向け没頭する事にしました。と言いながらも何から手をつけて良いのかもわからない状態の中『福祉の根本は地元に如何に幸せをもたらすものにするかを基本ベースにしたい。』と言う事で「生まれ育った関ヶ原の地で施設計画をする」と考えて『先ずは地元のニーズを知る』との考えから関ヶ原町内の高齢者実態調査をする事にして、当時の関ヶ原町民生委員・児童委員協議会会長にアンケート調査の協力をお願いに行きました。その当時の私は地元に何の貢献もしていたわけでは無いので、全く突然のお願いに多分その当時の会長さんは随分戸惑われた事と思いますが、今から考えても随分寛大な方だったと思います。(余談ですがその時のご縁を大切にしていたので、その当時の会長さんのお孫さんにアルバイトで仕事をして頂いた事もあります。)関ヶ原町内の民生委員さん全員の協力を得てアンケート調査が実施出来ました。実施した事により私は沢山のものを手に入れる事が出来ました。1つには多くの民生委員さんとのネットワークが出来た事。2つには関ヶ原町の高齢者の実態がわかり、高齢者施設を造る意義が鮮明になった事。3つにはアンケート調査に対してその当時大学生向けの教科書の執筆に関わっていたご縁を頂いていた出版会社『みらい』の酒向社長の協力が得られ随分色んな事を教えて頂いたし、アンケート集計と分析にもご尽力頂きました。また、本館竣工式に際してはパンフレットを無償で作成して頂きました。施設建設をするには先ずは広大な土地を確保することが大切との思いで拙いネットワークでうごめいてみても、簡単には事が動かない。そんな中での結論は「全く地の利が無い関ヶ原中心部(私たち今須人は『まち』と呼んでいました。)では全く歯がたたないので、多少なりとも地の利がある今須であれば可能性があるのではないか。尚且つ私の中心は今須なんだから今須に焦点化しよう。」との結論で候補地を探し、本部施設がある今の地になったのですが、今の本部施設に決まるまでにも紆余曲折がありました。先ずは最初の候補地に選んだところについては親戚の方で地元の有力者の方に全てお願いする形で進めていき、その方から「根回しが出来たので地元説明会を開け」と言われて実施する運びになったのですが、何人かの地主の中の一人が建設に反対されてその地での計画は諦めました。その時の経験から『何事も自分が足を運び誠意を持って話をしなければいけない。』と言う事を学びました。その学びの中から今の本部の地でやらないかと地主の一人が私の自宅まで来て下さいました。田圃として持ってみえる方が話を持ってきた方を含めて3人で(草が伸び放題で一部は杉の木が植えられていました。)畑の持ち主が4人でした。前回と同じ失敗を繰り返さない為に地主さん7人の家を殆ど毎日のように訪問してお話をさせて頂きました。7人7様で、ある人の家では、四国八十八ヶ所の話を、ある人の家では枝打ちの話を織り混ぜながらも基本的には高齢者施設の必要性について語り、地主さん全員の内諾がとれたタイミングで地区の説明会を開かせて頂きました。説明会で概略について話をしていると、地元の方からその当時下水がなく合併浄化槽の仕組みについて業者の方に説明して貰ってもなかなか理解して貰えず何回かの説明会を重ねても結論に至らなかったので、最終的には合併浄化槽から出た水を飲むパフォーマンスをした事も今では懐かしい思い出です。どうしてここまで水にこだわるのかと言うのは実際に本部施設が出来て理解しました。それは、施設がある山を上ると分水嶺があり極端な言い方をするなら最終的に大阪湾と伊勢湾に行く水になる綺麗な水の源泉だからこだわられるのだと理解しました。最終的に地元のコンセンサスを頂けたのはその当時の長老的存在だった方から「後ろ向きな話ばかりしていると、若い者はみんな今須から出て行ってしまう。施設が出来れば働く場所も出来、色々な方の出入りがありよいではないか。出入りがあれば嫁さんに来てくれる人も出てくるかもしれんぞ」との話を頂いてから雰囲気がガラッと変わり具体的に施設建設に向け進み、めでたく平成9年7月17日に社会福祉法人杉和会が法人認可を頂いたのです。リピーターの皆さん。ようやく話は認可されたところまできました。しばらくはこの杉和会の足跡を語る事にしますがお付き合い下さい。もちろん、日によってはトピック的なものも差し込みますので宜しくお願いします。

法人設立記念日に思う事

一言で『杉和会23周年記念日』と簡単に片付けられるようなものではないので、記念すべき日の今日から何回かシリーズで熱く語ります。

先ずは「今があるのは苦難をものともせずはね除けながらの23年」と思っています。他の方からみると『順風満帆』の歴史のように思われる方も、或いは、『幸運に恵まれた』等と思われる方もあるかも知れませんが、決してそのようなものではないし、事業を起こされ歴史を重ねられる方は誰もが大変な思いをされているのは当然な事だと思います。

大体、設立に至る経過からして波乱に満ちたものだったので、本日はPART①として、設立に至る経過について語ります。

私が児童養護施設の指導員をした13年で『カリスマ的指導員』であった事は何度も語り35歳の時に資生堂海外研修団としてアメリカに行かさせて頂いた事も既に何度か語りました。それは、私の人生を大きく変えた出来事であったと言っても過言ではない出来事でした。どう言う事かと言えば、海外研修を終えて考えた事は『私でなければ出来ない事がしたい。先ずは個別指導が私の生きる道』と考えて、児童施設を辞し「何かをしなければ」と形が固まる前に無謀とも言える決断をして、所属していた児童施設に迷惑がかからないように、3年かけて児童施設を辞めさせて頂きました。38歳で子ども2人と奥さんの3人を養わねばいけないにも関わらずに・・・。

38歳でいわゆるフリーランスのような立場になった瞬間に理解したのはサラリーマンとは違い自分で頑張って努力し稼がなければいけない現実でした。私はそんな当たり前の事すら理解していなかったのです。当初は大垣女子短大の非常勤講師を週に4コマと『教育福祉カウンセラー』と言う肩書きであちこちの施設にスーパーバイザーとしてスポットで行ったり、講演活動をしながら、不登校児やいわゆる問題行動のある子の対応やパニックになっている親の相談に乘ったりしました。

その中から得た答えは全く生活が出来る程の収入が得られないと言う事でした。今から考えれば当然の結果なのですが・・・。これは、動きながらの展開しかしてこなかった結果です。(5年先、10年先を見通しての展開をするようになったのは、平成18年8月から全国老施協の役員になり中村会長の教えを受けてからだと思います。)

1年間の展開から学んだ事は『拠点がなければ色々な展開は出来ない。』と言う事で、2年目からは『情緒障害児短期治療施設』の建設の為にうごめきました。親戚の方で、松尾山の麓に広大な土地を持っている方が無償で土地の提供をして頂く約束を取り付け情緒障害児短期施設に行って(主に愛知県の施設)色々な事を学ぶと共に計画を練りパーツまで作って貰い、その当時厚労省児童家庭局育成課の専門官に岐阜出身の方がみえ、かなり応援して頂いたので、これで行けたのであれば文字通り順風満帆といえるのですが、その当時の岐阜県児童家庭科に行くと「若山さんの熱意はわかるがここ10年は高齢者の予算しかない。児童の施設は予算がない。」で思いっきり挫折しました。

リピーターの皆さん。私は挫折する度に成長してきた内容を明日以降も書きますので飽きずに見て下さい。

※夕食も食べれない一日で岐阜県のコロナ対策会議がふれあい会館で終了したのは20時20分で、今(21時49分)はお風呂でコラムが 終了するのですが、お腹ペコペコですがこのまま寝ます。痩せてまうけど忍忍です。

早朝4時前に目覚め布団の中ではありますが戦略を考えてます

令和2年7月16日

私にとっての福祉の師は、四半世紀前の頃に中部圏の福祉の中心者だった吉田宏岳先生(当時は日本福祉大学中央福祉専門学校校長)だったのですが、四国八十八ヶ所巡礼に先生をお連れしてから、定職を持たない私は(最も多い時には非常勤講師を週に13コマ、家庭教師を3ヶ所して、尚且つ『教育福祉カウンセラー』と言う肩書きを勝手に名乗ってうごめいていましたが)度々吉田宏岳先生の家に泊まらせて貰い布団を並べて寝ていた時に(もちろん、したたかお酒と美味しいものを頂いて)、「吉田先生は真言宗豊山派のご住職でもありますが、朝のお勤めはされないのですか」とお聞きすると「お経は布団の中で声をあげずにあげているよ。」とさらっと言われたのを感心しながら聞いた事を思いだしつつ、それを真似ているわけではありませんが、布団の中で今後の戦略を考えています。メチャクチャ長い前段で申し訳ありませんが・・・。

そう言えば、私が講演で話をさせて頂いたり大学や専門学校でもそうだったと自嘲気味に思っていますが、そんな時に私はよく「井上ひさしの展開もそうなので大丈夫だと思っています。」等と居直っていた覚えがあります。今(午前537分)さてさて本日の展開はどのようなものになるのかリピーターの皆さんコラムの打ち方はしばらく中断します。)続きは今(午後808分)からお風呂の湯船の中で書きます。

本日は11時15分から岩田先生に同席して貰い大垣共立銀行関ヶ原支店での打ち合わせがあり、昼食後は14時から和合の施設での全体会の二部構成に出席し先ずは、7月17日が法人設立23周年で在職5年と10年の職員に感謝状と金一封を一人ひとりに手渡しながら声をかけました。私は手渡した後でつくづく感じたのは立ち上げて7年目の施設なのに多くの職員に手渡せたのは、離職する職員が少なかった証しだと言うことは「本当に有り難い事だ」と思った次第です。

全体会が16時前に終了したので、本部施設で18時にお約束があり、時間にゆとりがあったので、ついでのように棚橋衆議院議員事務所、田中屋ぜんべい、大垣共立銀行関ヶ原支店とそれぞれの対応をして予定のお約束時間の15分前に施設に戻れ時間を有効利用出来ました。お約束の方はぴったり18時に来て下さり1時間40分間しっかり私の熱い思いを語りながら思ったのは新規事業への思いも含めて語れて次への布石がかなり打てたのではないかと思います。

リピーターの皆さん。私は常に時間をかけて何事もしてきたからこその今だと思っています。だって、お金も土地もないなかでの今だから誠意を持っての展開しかなかったので・・・。これからも応援宜しくお願いします。

 

朝6時に本部施設に行きました

令和2年7月15日

昨夜は21時50分にコラムの原稿を送信して、速攻で眠りにつき(スコッチウィスキーをロックでツーフィンガー分飲んだお陰かな)4時30分に目覚め昨日の事に対してどのように挽回しようかと考えていると眠れなくなっている時、我が家の老猫『りっと』が部屋に乱入し「二ャー二ャー」とベットの側で甘えてくる。餌が欲しいのかと、2階の餌が置いてあるところに行き私が椅子に腰掛けているとしばらく私の体にスリスリ。

その後餌を食べるのかと思っていると、プイっと横を向いて歩いていってまう。私は再び部屋に入り横になりしばらくするとまたまた、ベットの側で「二ャー二ャー」と鳴いてはる。しばらく体を撫でているとおとなしい。「でも、まだ夜明け前やぞ」と言うわけで、6時前に着替えをして施設へ。玄関を入ると昨夜宿直だった北島部長が空気清浄器の水の補給を当たり前のようにしており、「本当に裏表なく動いてくれる男だ。」と思い、昨夜の重い気持ちが少し晴れたように思い、色々な取り柄がある集団がバランスよくいてくれている今に先ずは感謝です。その後私が指示をしたわけではありませんが、昨日の出来事を挽回すべく室長も6時30分に施設にきたので、早速打ち合わせをしました。

そして、昨日無理を言って見積もり依頼したものがメールで送信されてきたり、9時前には可児の業者が直接自参してくれて、書類作成が出来る事に感謝。吉田部長の協力もあり13時に全ての書類が完成して、岐阜県高齢福祉課にアポを取り施設を出発。室長は睡眠がしっかりとれていないといけないと思い、私の運転で出掛けました。車を運転しながら室長に噛んで含んだように私の体験や思いを話しながら何がいけなかったかを話をしました。

向かう途中で大垣共立銀行の関ヶ原支店長から何点かの融資に絡めた質問を頂いたので、答えられない部分は県庁で聞いてくると約束をして、14時のアボで高齢福祉課に行くと担当者の方がおみえにならなかったのですが、わざわざ呼びに行って貰い、無事に企画書をお渡しして、何点かの質問をさせて頂き、差し替え分の確認をして大きな一歩を感じた次第です。県庁からの帰りの車の中では、今後の対応について指示することが出来ました。

一旦施設に帰り改めて大垣共立銀行関ヶ原支店長に連絡をして銀行に行き、融資に対し私が理事長として、どのように考えているかを色々な視点から質問を受け、一つひとつに対して熱く語りました。結果的に二時間近くの時間が経過していました。リピーターの皆さん。私は自分で言うのも変ですが

二時間の間に話した内容については自分の軌跡そのものですが、熱く語れるのは私自身の能力ではなくて、福祉に関わる私の使命としての一生懸命さの現れだと思っています。一生懸命の私に対してますますの支援を宜しくお願いします。

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