大車輪の動きでした

本日10時から視覚障害者生活情報センターぎふ(アソシア岐阜)で岐阜県視覚障害者福祉協会の会長さん、副会長さん、監事の方にお会いして、新規事業である盲養護老人ホームの名称を協会の中の公募で決めて頂くお願いに行く事になっていたのですが、午後1時30分から、来年4月から事業譲渡を受ける事になっている施設職員さんに対して2組に分けてお話をする機会を頂いたので、私自身の杉和会にかける思いをまとめたくて朝一に施設に行きパソコン打ちをして、その資料が出来て15部の印刷が終わりほっとする間もなく、アソシア岐阜に向け出発。9時45分に到着して受付を済ませると会長さんがお出向して下さり3階の会議室に。監事の方は初めてお会いするので名刺交換をして、それぞれに着座して、私の方から今日までの経過報告をした後で改めて名称公募についてお願いし、出来れば年内中に決めて頂きたい事と最終的に決定する時には私にも参加させて頂きたいと話をさせて頂きました。その後も色々な意見交換をしている中で感じたのは視覚障害者の方の安心の為に出来る施設としての期待が大きいと言う事を痛感しましたので改めて責任の重さを感じました。打ち合わせが終わった後も会長さん自らが玄関先までお見送りして下さり恐縮してしまいました。養護老人ホームでの説明会の為途中で昼食をとり、施設の玄関口で熱チェックを受け、控室で待機していて定刻の時間前に会場に案内して下さり、園長先生から紹介を頂き私の杉和会にかける思いの限りを2回に渡って語らせて頂きました。具体的には私が26歳から38歳までの13年間の児童養護施設での思いから、23年間の特別養護老人ホームでの展開と盲養護老人ホームへの思いについて精一杯語らせて頂きました。2組共に一生懸命に聞いて頂けたんで話易かったのですが、私が息抜きのつもりで落ちのある話をした時に笑って頂けなかった事については私から正直に「ここは笑って頂きたかった所なのですが」と話をして少しお互いに肩の力が抜けたかなと思いました。終了時間一杯いっぱいの15時30分までしっかり話をさせて頂き、園長先生にご挨拶をして16時に垂井町役場で中電の方と電柱撤去の為の書類を届けに行く約束がしてあったので、慌てて役場の中に入って行くと既に中電の担当者の方がお見えになっていたので、役場内の建設課及び総務課に出向き、建設の工程が厳しいのでなるべく早くの決済が頂けるようにお願いして、ようやく施設に帰る事が出来ました。施設に帰り携帯を見ると留守電が3件とメールが3件入っていたので早速その対応をしてほっとして今(18時30分)コラムを打ってます。今日は比較的早い時間に帰れるので、本日もウォーキングマシンに乗りながらお経をあげたいと思います。リピーターの皆さんも思いませんか。忙しい毎日だからこそ時間を上手に使えて尚且つ健康管理も出来ると。だからこそ、コップ1杯の菊姫がこれまた美味しいのだと・・・。

訂正とお詫びと共に感想です

昨日のコラムで『正信偈』と書くべきところを『小信偈』と書いてしまいました。先ずは「昨日のコラムを読んで頂いたリピーターの皆さんに深くお詫びを申し上げると共に訂正致します。」・・・。

長く私のコラムを読んで頂いている方であれば恐らく「何を今更。しょっちゅう誤字脱字があるくせに」と思われた事と思います。実はそこに本日のコラムの本題があるのです。つまり、私の真骨頂である『転んでもただでは起きない。』を書く事にします。(2年以上毎日このコラムが継続出来たのは、重箱の隅の事も話題にしてきたから続いているのですが。)本題に戻ります。

私は『正信偈』と言う字を間違えない為に経本に書いてある『正信偈』と言う字をしっかり見て一字ずつガラケーの携帯で打ち込んだつもりでしたが、「『正』を『小』と間違えたのには人間の心理としての落とし穴に見事にはまった為だと言っても良いのではないか」等と知ったかをしている学者のように述べてみました。もう少し解りやすく説明します。『正信偈』の文字の中で一番間違え易い難しい文字は『偈』だと考えられます。事実私は『偈』と言う文字を正直マークしました。そして、あとの2文字である『正』と『信』の字は「当たり前の文字」として軽く考えて、思い込みの中で『正』の字を『小』と打ち込んでしまったのです。このように思い込みの中で間違いをしてしまう事は結構あるのではないでしょうか。そして、思い込みの中で間違えている事を堂々と話しされているのに間違いを指摘せずにいる事って以外に多いのではないでしょうか。今回の私の間違いは「お経さんの事は間違えたらあかん」との心理が働き、読み返しても思い込みの世界の中で『偈』と言う日頃先ずは使用しない文字の事ばかりに気が集中した結果だと思います。つまり、難しい事をクリアした時に油断が生ずる事です。

野球で例えてみます。前の打席で滅茶苦茶難しい変化球がきたのを上手くすくい上げてホームランを打ちました。そして次の打席では、さして早くもないストレートに空振り三振。人生とはこんなものです。などと知ったかぶりをしている私は何者なのでしょうか・・・。等とわけのわからない事を書いてしまったので、最後のまとめはきちっとしたものにします。

私は44歳にして色々な方の支援とご理解により法人と施設を設立することが出来、今では、150人の職員と多くの協力企業と地域の方々(家族も含めて)のご理解により円滑に法人運営をさせて頂いていて、今も盲養護老人ホームの建設に着手してますが、勢いがある今だからこそ足に地がついた対応をしていきますので、リピーターの皆様。これからも変わらねご支援宜しくお願い致します。

ウォーキングマシンで歩きながらのお経

時速4、3キロに調整して30分で2、13キロ歩き89、7カロリーの消費量で汗タラタラです。

お経さんは『真宗大谷派勤行集』の『小信偈』(しょうしんげ)と四国遍路で覚えた般若心経を中心にしたお経です。もちろんお仏壇にはろうそくと線香を手向け、歩きながらの複式呼吸で出来る限り大きな声を張り上げお経を唱えました。5分としない内に汗が溢れてきました。本当に心地よい汗ですし、歩き終わってちょうど赤いろうそくも全部燃え尽きました。小信偈もほとんど経本を見ずに言えるし、もちろん般若心経はしっかり自信を持って唱えれるので、歩きながら尚且つお経を唱えながら父進さん、母秋江さん、姉光子さん、養母英子さんの写真を何度も何度も順番に見ながら、お経を唱えつつも一人ひとりに語り掛けてのものでした。

本来姉光子さんは例え半年とは言え、嫁いだ身なので、「写真を掲げるのはいけない」と言われる方も多くみえましたが、常識を守る事を常としていた、父進さんでしたが、姉光子さんの写真を掲げる事は何を言われても押し通しました。父進の息子であり、父進さんが他界し私が当主(今はそんな言葉は使わないか)になってからも、父進さんの遺志を継いでいます。

但し、父進さんが亡くなって直ぐに父進さんが決断出来なかった仏壇の購入をした時、(父進さんが残してくれた遺産で)本来写真は亡くなった順番に並べるのが常識なのかも知れません。そうだとすると、母秋江さん、姉光子さん、父進さん、養母英子さんの順になるのでしょうが、私の思いで父進さんが一番で二番が母秋江さんで三番が姉光子さんで、四番が養母英子さんなのです。一番が父進で母秋江さんが二番なのはわかるのですが、三番目に姉光子さんを持ってきたのは秋江さんと英子さんが天国でありながらバトルをするといけないので、姉御肌だった姉光子さんならば上手く調整してくれるとマジで考えたからです。

かなり横道にそれてしまいましたが、実は昨日も歩いて、昨夜はしっかり眠れて爽やかな目覚めで腰の違和感も少なかったから。毎日毎日バタバタの時間がない生活を送っていますが殆ど職員との打ち合わせや業者の打ち合わせです。昨日は午前中約三時間は中日新聞の取材で座りっぱなしだったし、本日も朝9時まえから、造成をして頂いている業者の社長さんと建設をお願いしている監督さんとの打ち合わせで、午後は岐阜都ホテルで社会福祉法人経営者協会の役員会があり座りっぱなしでプラス岐阜都ホテルまでの往復運転でこれまた二時間は座りっぱなし。「このまま何もしなかったら明日は腰が痛くなる」との思いと爽やかに汗をかき、一杯話が出来るのは素晴らしい事。

それにリピーターの皆さん。私は杉和会の理事長として健康管理も大切な仕事だと考えているのですか、如何思われますか。

『感謝と恩返し』

令和2年10月5日

昨日は早くに家に帰らせて貰ったので、『半沢直樹』の録画を見ていて『感謝と恩返し』と言う言葉を聞いて私の生き様を振り返る事が出来ました。と言うのは私の猪突猛進的な展開で何度となく窮地に遭遇した時にその都度救世主が現れ、直接的に或いは間接的に助けて頂いた事です。但し、母秋江さんと同じ様に『恩返し』をする前に亡くなってしまった方には、地域の方々に間接的に『恩返し』をさせて頂いてます。

私は昨日のコラムで書いたように紆余曲折の結果(今も途上ですが)社会福祉法人杉和会を設立し(1997年7月)、優・悠・邑本館(1998年5月、50床)、優・悠・邑新館(2004年4月、40床)、優・悠・邑 和合(2014年4月、80床)と事業を開始して、現在盲養護老人ホーム80床の建設をさせて頂いていますが、その都度色々な方に『感謝』すべき出来事があったと振り返っています。本日は思いつくままに感謝すべき事について書く事にします。

社会福祉法人設立の際にはその当時の大垣商工会議所会頭だった河合達雄さんに、岐阜県への根回しに奔走して貰い、本来であれば杉和会初代理事長になって頂く手はずになっていたのですが、認可を頂く直前に急逝されました。だから、河合会頭には『恩返し』をする事が出来なかったのですが、法人との関係は持ち続けるのが河合会頭の本意と考え、河合進一社長から河合刀記夫副社長には評議員に就任して頂いています。

法人設立時には私自身全く資金も無く、資金提供の行脚をして行く中で、福祉の師である吉田宏岳先生には多額の資金を寄付して頂き、私にそれ程の価値があったのかと正直にお尋ねしたところ、即座に返ってきた答えが「立派になれ」だったので身が引き締まる思いでした。先生にはほんの少しの『恩返し』として、先生の自坊での月一回のお写経会に、栗ご飯や山菜ご飯をお持ちしたり、四国遍路の先達としての役割は担いましたが、全てが返せたとは思いませんが今の現状には天国で満足して頂いていると思っています。

また、施設建設の話をしていく中で、今とは違い25年前では、理解を示して下さる方が少なかった時に、その当時の長老的存在であった方が、「大きな施設が建てば多くの若い職員さんが働きに来て、ひょっとしたら地元の若いのと結婚する事になるかもしれないし、働く場所になるかも知れないのに今どき何を言って居る。」との発言を頂きその場の雰囲気がガラッと変わりました。その長老夫婦の方のお世話は『恩返し』になったかどうかはわかりませんが、施設が今須の地にあって出来たと思っています。

時にこのコラムにも登場してきた中村博彦全国老人福祉施設協議会会長・参議院議員には、怒られたりいびられたりした印象ばかりが先行しますが、よ~く考えてみるとその時々に素晴らしいアドバイスや配慮を頂いたと思っています。中村博彦会長への『恩返し』は全国老人福祉施設協議会に対する中村会長の道半ばの思いをしっかり完成させる事だと考えています。『感謝と恩返し』の話題には事欠かない生き方ですので、これからも時として書きますのでリピーターの皆さん読んで下さいね。

 

相手を思いやる心 2

令和2年10月4日

今でこそ『相手を思いやる心』等と言う言葉を使っても大丈夫な生き方だと思うのですが、26歳までの私は真逆な生き方だったと思います。(自分の事しか考えられない生き方)いや、正確に言うと25歳の時に教員として、神戸北小学校4年3組の担任になり、その年6月に校内研究で自分のいい加減さを理解して、10月の西濃教育事務所の指導課長さんがみえての研究授業で自分なりに初めてと言っても過言ではないような成功体験をさせて貰い、その時に「私の授業の為に子ども達が頑張ってくれた。だったら、今度は私が子ども達に出来る事を精一杯に頑張らねば」と思ってからかな。

でも、結局は形に出来なくて自分探しを父進さんの寛大な対応により(勘当されました)徳山村での半年にも及ぶ居候生活を経て児童養護施設での13年間は正直自分は滅茶苦茶甘くて幸せな生活だったのかを指導員として仕事をさせて貰っている時に教えて貰いました。だから、その時代は「この子達一人ひとりに何をしていけば少しでもこの子ども達の将来が明るいものになるのか」と言う事ばかり考えて私なりに出来る事をしてきたつもりでしたが実はその実践は私自身を成長させて貰うばかりだったと今になって思っています。そして、それぞれの場面が真剣勝負だったし、極端な言い方をするならば、常に絶壁に立たされているようなものだったと思います。

だから今では厳しい状況におかれて、例え頭に血がのぼっていても、どこかで冷静沈着な気持ちでいられるのだと感謝してます。そんな中から『相手を思いやる心』が芽生え、相手の方が喜ばれるだろうと思いながらしていく事にワクワクしながらの毎日です。もちろん今でこそ、そのような気持ちですが、その域になるまでには色々な事がありました。でも、色々な苦労・・・いやいや試練があったからこそ今があると思います。そして、今は自分の置かれている立場の中で『私が出来る精一杯の事をしていく事』こそが『相手を思いやる心』と信じて事業を進めています。

正直な事を書くならば、最初に出来た本部施設本館は、児童養護施設を辞めて個別指導で切り開こうとの考えが現実的には生活が出来ない正直霞を食べて生きていかなければいけないもので、拠点がなければ思い通りの事が出来ない事を知り、それではと、色々とうごめく中で『情緒障害児短期治療施設建設』を目指しましたが、その当時の岐阜県に受け入れられず挫折した中から、「とにかく福祉施設をつくって福祉の形を確立したい」との思いから出来たものでした。

本部施設が出来た2年間は措置施設の枠の中で、霞を食う以上に厳しい生活を強いられましたが、契約による介護保険に制度が変わり、職員も育っていく中で、今の状況の中で地域のお役に立つものとの考えの中で新館を造り、和合を造り、今は盲養護老人ホームの建設に向かっています。無謀とも言える計画も根底には福祉の心を持っての信念です。つまり、自分(杉和会)が出来る精一杯を形に表していく中からの計画だと考えていますので、これからも変わらぬご支援をリピーターの皆さんお願い致します。

相手を思いやる心

令和2年10月3日

本日14時のお約束で自民党岐阜県連の事務局次長の方が12月に行われる市町村議会議員の方達向けの勉強会で私に話をして欲しいとの依頼の為に施設におみえになり、三時間以上私の人となりについて語りました。その折、「演題を早く決めて欲しい」との事だったので、家に帰ってから、思い付いた演題が『相手を思いやる心』でした。この演題は文字通り、私の生きざまそのものであり、どの角度からでも話が出来るし、色々な議員の方々に対しても心に響くものになると思ったからです。

私の『相手を思いやる心』の原点は、私を生んでくれた母秋江さんの病弱な息子を思い守ろうとする考え方だと思います。『半沢直樹』で香川君が言ってましたよね。「施されたら施し返す。恩返しです」と。私は母秋江さんには『恩返し』が全く出来ませんでしたが、その分を地域の中でお返ししなければと考えての今の生きざまだと考えています。『見返りを求めない生き方』が結果的に相手に響くのでないかと思います。

今、新規事業として立ち上げた盲養護老人ホームにしても、岐阜県内の社会福祉法人が20年来、計画すら出来なかったのは、経営が厳しい事がわかっているから。しかしながら、私は「だったら岐阜県に無くても良いのか」と考えた時に、「岐阜県民にとっての安心を得る為の一助として不可欠」と考えたからです。昔の格言に『備えあれば憂い無し』の一つを我が法人杉和会で出来ないかと考えたからです。私の母は、私が生まれて半年後に約10分近く心臓が止まった時に「私の命と引き換えに息子を生かして下さい」的な事を心の底から叫んでいたと思います。私の母は私が中1の時に他界しているのですが、そんな母秋江さんだったと思います。

私はその母秋江さんの考え方を引き継いでいるので、他人が困ってみえる時に「私に出来る事は何だろう。」と考え行動を起こす事を常に実践してきたつもりです。44歳の時に特別養護老人ホーム70床を立ち上げ、今では208床にまで組織が大きくなった分、多方面に渡りやれる範疇が多くなりましたが、根底の考え方は変わらないのです。施設が3施設になっても私の考え方は変わりません。それは、『入居者さんは何をして差し上げたら喜んで貰えるのか』と言う事で、喜んで貰った時の掛け値なしの笑顔こそ、私の至福の喜びです。もちろん喜んで貰う為には原資も必要です。先般実施した『まつたけ尽くしのバイキング』でまつたけ10キロで16万円がかかりましたが、日頃、全職員で節約して貰って捻出したお金で支払う事が出来ました。

『相手の懐に飛び込んで』は入居者さんにだけではなく、全ての方にしていくべき事だと思っています。リピーターの皆さん。こんな生き方しか出来ない私ですが今後とも末永くごひいきにお願いします。

 

早朝と言うより午前3時過ぎから戦略を練っていました

令和2年10月2日

昨夜はコップ一杯(多分0、7合)の菊姫を飲んだせいか、21時過ぎには睡魔が襲い爆睡。この現象は『お年寄りですか』と言われても仕方がないような状況ですが、事実なので仕方がないのです。年寄りついでに夜中のはずの午前3時過ぎに目が覚めてしまい、再びにはなかなか寝付けないので「これは、じっくり戦略を練るにはちょうど良い」と考えて、明日の行動開始と共にすべき事を思い付くままに今コラムを打っているガラケーの携帯の予定表に打ち込んで行きました。その中で最も大切にしなければいけないのが『新規事業を進めて行く上で邪魔になる電柱の撤去(移動)をする為の道筋を立てる事でした。

そして、施設に行き先ずは垂井町に行き確認をして貰った結果が納得がいかないものだったので、私なりの戦略として、中電への依頼を人を介してして貰うと、1時間後に現地で確認がしたいとの連絡を頂いたので、急ぎ岐建の現場監督に急遽現場に来て貰い、電柱の位置の確認をして貰いました。持つべきは骨をおって貰える方がいることだと改めと思いました。と書いていると今は午後8時21分なのですがコラムを打つ思考能力が湧いてきません。ごめんなさい。リピーターの皆さん早朝3時に起きてしまったつけが来てます。だから、寝ます。

昨日のコラムで『彼岸花』の悪口を言ったのですが

素直に彼岸花さんに「ごめんなさい」と謝らなければいけないと思いましたので、書き出しから「ごめんなさい」と書きました。だって私は日頃から『是は是、非は非』と言ってますから・・・。

何故謝らなければいけないかと言うと、午前中に新規事業が完成したら事業譲渡を受ける事になっている建設予定地の隣の施設の園長さんとの打ち合わせの為に車を走らせていると、施設の近くにある田圃の畔には「これでもか」と言うくらいの彼岸花が咲き乱れていたので、私は「9月26日の起工式の時にはパラパラとしか咲いていなかったのに。でも、本部施設がある今須地区は大して咲いてなかったな」と考えながら運転していました。

そして、打ち合わせを終えて再び本部施設に帰って行く時には施設に向かう時よりも咲き乱れているように感じました。尚且つ、午後から和合の施設でかつての職員が本日から復帰してくれたので辞令を手渡し、その後佐藤施設長と打ち合わせをして、15時から大垣フォーラムホテルで大垣歯科医師会との懇談会があり16時過ぎまでの会に出席して(施設側代表で挨拶をさせて頂きました。)再び本部施設に帰って行く時に今須地内に入ってビックリしました。と言うのは13時前に和合に向かう時にはさほど咲いていなかった彼岸花が見事なくらい咲いていたのです。

本日のめざましい彼岸花の咲き方から考えるに、昨日も書いたように22日の秋分の日には大して咲いていなかったのに今日になって咲き乱れていると言う事は、今年の夏の暑さがいつまでも続き、彼岸花さんにとっては「こんなに暑いのに咲けるか」と言うことであって、自然界の正確さに舌を巻くばかりです。だって、車で行けば20分位しか違わない垂井町梅谷地区と関ヶ原町今須上の谷地区での微妙な咲き方の違いにはますます舌を巻きます。

但し、日本人の風流にはそれほどの違いがないと私は感じているのですが。と言うのも、当施設では本日の中秋の名月にあわせて、すすきと団子をお供えしたのです。私の拙い知識の中では、日本人の風流を感じるようになったのは平安時代からではないかと考えています。(もっと前からかも知れませんが)『風流=繊細な感覚』と考えているのは私以外にも多くの方が感じてみえると思います。この一見『無駄』のようにみえる感性こそ、日本人として決して無くしてはいけないものだと思っています。

リピーターの皆さん。当施設では、今がたとえコロナ禍であっても、日本の歳時記を大切にしていくのが、入居者さんの幸せの一つだと考えていますので、これからもご支援宜しくお願いします。なお、早速のお願いですが、例年吊るし柿を楽しんでいます。もし、とらないである柿がありましたらご一報下さい。✳自分の事でのお願いは出来ませんが入居者さんの喜んで頂く為ならどんだけでも厚かましくお願いできます。ご理解下さい。

IMG_4019-300x225(昨年の吊るし柿の様子です!)

今年の彼岸花

令和2年9月30日

今年の秋分の日は9月22日で、例年だと『暑さ寒さも彼岸まで』の通りに「今年は彼岸花が咲かないのかな」と思っていると、彼岸の3、4日前からにょきにょきと出てきて、お彼岸の日には彼岸花が田圃の畦道に咲き乱れるのですが、今年は秋分の日には全くと言って良い程に咲いていなくて、26日頃から咲きだしたのですが、『一斉に咲き乱れて』との表現には当てはまらなくて、しかも、花が例年のような綺麗さがないように見ているのは私だけでしょうか。

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これはひょっとして、先般のこのコラムで書きましたが、国民の祝日を連休にするために、記念日とは言えない『第何週の月曜日』等としてしまっている為に自然界も混乱してしまっているのかも、と深読みをしているのは私だけでしょうか。

明日は『中秋の名月』で多分明日は快晴で綺麗なお月さんを見る事が出来ると思うのですが、考えてみたら明日から10月ですので中秋の名月が9月でないのも不思議な気がします。中秋の名月と言えば私が中学2年の時に(私が高校2年の時に急逝した姉光子)姉光子さんが中秋の名月に手を合わせながら、お月さんが雲に隠れているのを見て「お月さんに人間が着陸などしたから、恥ずかしくて雲に隠れてはる」と言っているのを今でも覚えています。

そんな私ですから、その時の出来事が余程インパクトがあったのか、満月のお月さんを見て手を合わせると『お月さんの中でうさぎさんがお餅つきをしている』と言うのが私の口癖です。本日は午前中に岐阜県庁高齢福祉課と岐阜県福祉会館内にある老施協事務局で現実的な話を、午後2時からの全国老施協の新規会員促進パンフレットの検討会でもはっきりとした明確な意見を言ってきた私がお月さんをみると情緒的な感情を抱くのは姉光子さんの50年以上前の記憶が成せる事なのかとしみじみ思っています。

日本人は叙情的で感性豊かで繊細でと勝手な日本人像を抱いているのですが月を見ているよりもスマホの画面を見ていた方が楽しいと言う方が多くなると、私も今一わかったようなわからないような『わびさび』の世界は遥か遠くに行ってまう。明日から10月です。施設の近くにある神社に行き、お酒とお塩を振る舞い手を合わせて心落ち着けて、残り3ヶ月になった1年の集大成を幸せな日々になることを祈り、素敵な10月にしたいと考えています。リピーターの皆さんと共に爽やかな秋を満喫したいと思っています。

高校を中退して、悩みに悩んで来た男子が頑張ってます

令和2年9月29日

高校3年になり、殆ど学校に行けなかった子が夏休み期間中に職場体験で本部施設に来て、3日間と5日間の体験をして、結局夏休みが終わってからも学校へ行けず、ハローワーク等に行き自分なりにあがいて、覚悟を決めて再び本部施設の門をくぐり、9月14日から職員となり2週間が経ち、本日19時からの全体会で正職としての辞令を理事長である私から職員の前で渡す事にしてます。施設で職員になって、ちょうど2週間が経過した今、本人の気持ちを職員の前で発表させる事を事前に伝えておいたので、全体会までの時間はどんな気持ちでいたのかを興味を持っています。職員になった子のかつての指導者の方にはスマホで動画を撮り明日にでも送信するつもりでいます。(今20時14分全体会を終えて家のお風呂に浸りながら、結果報告をします。)全体会が19時に始まり一番最初に辞令を渡すのですが、事務長から名前を呼ばれて緊張気味に理事長である私の前に立ち私が読む辞令書の一字一句をしっかり聞いて手渡された辞令書を大事に持ち、私が2週間の感想と今後の思いを語るように話をすると、辞令書をどこに置こうかとうろうろして・・・。それはそうでしょ。だって打ち合わせなしなんだから。でも、堂々と今後の頑張りも含めて話することが出来、職員のみんなから温かい拍手を受けました。そこで私は理事長として、「鐵は熱い内に打て」との格言がある通りみんなでわからない事は教えてあげて頑張れる職員にして貰うと施設もより良くなっていくと思います。」と話しました。この間の出来事を吉田部長がスマホでしっかり撮ってくれたので、ばっちり撮れた動画をかつて施設で指導して頂いた先生に送信したら、かつての先生はどんなにか喜んで頂けるかと思うと私自身も嬉しくなります。自分の事のように喜べる自分がいる事に喜びを持てる事は何と幸せな事か。そして、この新人職員が辞令伝達の後に全国老施協会長の15年表彰を私の代読手渡した坪井部長のように経験を積み、経験年数と受験資格としての学習を終えて介護福祉士の国家資格を取り、かつての施設に錦を飾り、尚且つ、当法人にとってなくてはならない存在になり自信に満ちた人生になることを願っています。だから、彼の挨拶の後で私は「最初からばりばり出来る者などはいない。一生懸命に学ぼうとすると同時に学ぼうとするものに温かいエールを送れる事こそ、施設全体の底上げになる。」と話をしました。リピーターの皆さん一歩いっぼですので、温かく見守っていて下さい。

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