『遅かったのが早くなったり、早かったのが遅くなったり』のお話

本日は『なぞなぞ』のようなタイトルですが、そんなややこしい話ではなくて、私の生活習慣が変わったと言うお話です。先ずは遅かったのが早くなったのは『食事での時間』です。私は何度もこのコラムで書いていますが末っ子の長男。つまり、父進さん母秋江さんにとっては待望の跡取り息子が(昔的発想かも知れませんが)誕生し、特に母秋江さんにとっては私を目の中に入れても痛くないような存在だったのです。(絶対に無理と言うより不可能ですが)尚且つ末っ子の長男に産まれた私は生まれながらの虚弱児だったので、母秋江さんの考え方は『我が子である宏を如何に元気な子に育てていくか』的な考え方だったと言っても過言でなかっかと思います。(今になってそのように考えるに至ったと言った方がより正確かも知れません。)と言う事で、私が小さい頃の我が家の食事の風景は『宏が如何にたくさん食べれるか』が大切だったので、どんなにゆっくり食べようが食べ終わった時にたくさん食べれたら大丈夫だったし、姉二人には卵1個を(昔は貴重な食べ物だったので、春子お姉さん御免なさい。)分けあっても末っ子の私はまるまる1個が食べれたし、私が好きな食べ物はいくらゆっくり食べても『宏に残しておくべし』の状況だったのです。だから極端な話し食事をしながら寝ていたとしても「宏は疲れているのだからゆっくり食べなさい」が許されていたのだと思います。つまり食べるのは滅茶苦茶遅くても良かったのです。食べることが遅かった私の生活が一変したのは26歳の時に児童養護施設の指導員になってからです。就職した当初はそれほどの役割もなかったので、50人近くの子ども達の中には食事の遅い子や私のように食事中にうとうととする子もいて、私の食事がゆっくりでも何の問題もなかったのですが入職して半年もすると私が食事中であっても色々な指示を出したりしなければいけなくて、(殆どわめいていたように思います。)それでいて出して頂いた食事は完食しなければいけないので、極端な言い方をすれば『生ま呑み』(巳年だから大丈夫)だったので、自ずと食事のペースは早くなり、今でも会合なんかでお弁当が出て多人数の方と食事を頂いている時、大抵は圧倒的早さで一番になってしまい時間を持て余してしまいます。「ゆっくり食べなければ」とは思うのですが40年も続いている流儀はなかなか変えられません。そう言えば一昨日(10月16日)の昼食が次のお約束の時間までに時間がないけれども、同行して頂いている方にまでコンビニのおにぎりと言うわけにもいかず、比較的融通を利かせてくれる中華の店に飛び込みランチを依頼して私にとっては当たり前のように完食したのに同行して頂いた方はまだ半分位しか食べられていなくて、私が食べ終わったのを見て慌てて食べられていたので、これは反省をしなければ・・・。食事の食べ方は早くなりましたが、末っ子の特権のような習慣はまだ残っています。それは、好きな食べ物は最後に食べると言う習慣です。だから、お寿司屋さんに行っても最後に残して食べるのは『まぐろの握り』です。早くなった話が長過ぎましたが、次に『早かったのが遅くなった話』をします。それは、『お風呂に浸かる時間』です。お風呂の時間が長くなったのはそんなに前からではありません。『カラスの行水』的な生活習慣は父進譲りです。どちらからと言えば熱い風呂に入ってあっと言う間にあがっていたのですが、かなりゆっくりになったのは、20年程前から、『唯一のリラックスタイム』と言う事で、情緒が落ち着いているときにお風呂で歌を気持ち良く歌うようになり、30分程度入るようになったのです。そして、特に長くなったのは、このコラムを連続更新するようになり(平成30年8月24日から続けてます。)家に帰ってからコラムを書かなければいけない時には、家に帰るなりお風呂に直行して、ぬるい風呂にゆっくり浸かりながらガラケーの携帯でコラムを打つのですが、下手をすると「気が付けば一時間をはるかに過ぎて入っている」と言うことが度々です。しかしながら、「ゆっくり入っている。」とは言え、しっかり洗っているかと言えば・・・。ぬる~~~いお風呂にゆっくりと言うかじっくりと入っているので体の芯まで温まり(夏場は必要ないのに)最後には頭から水をかぶって出てきます。こんなお風呂の入り方は滅茶苦茶贅沢な事だと思いますがリピーターの皆さん今の私は頑張っているのでこれ位は許されますよね。

本日はメッチャ寒かったです

令和2年10月17日

朝、家を出る前に長袖の服の上にカーデガンを着ていこうかどうしようかと悩んだのですが、結局着ていって正解でした。だってカーデガンを着ていて丁度でしたから。

午前中には新規事業の採用について二人の方が仕事内容について聞きにみえて、意欲的な方だったので嬉しかった、これからは新規職員採用や色々な入札やプレゼンテーションをしなくてはいけないので、財政面の工面を理事長として悩みつつも計画的にやるべき事をしていかなければと考えています。

午後からはお参りの導師をデイサービス、新館2階、新館1階の順に3ヶ所をさせて貰ったのですが、3ヶ所共に腹の底から声を出させて貰ったので、声を張り上げているときは体が温かくなり、それぞれのフロア共にお経の上手な方がみえるので、お経を間違えるわけにはいかないし手抜きはできません。3ヶ所目の新館1階ではカラオケの機械も準備が出来ていましたので、一曲だけでしたが思いっきり声を出して楽しく歌わせて貰いました。

その後、垂井町まで買い物に出掛けて、今須の峠の所に設置してある温度計の標示は『11℃』を示していたので「確かに寒いはずだ。」と思うと共に、「今年の夏の暑さは厳しくて35℃が当たり前のようだったのが嘘のようです。」本日の温度は11月中旬の気温だと報道していましたが、この気温の差は体調を崩しかねない状況だと思います。コロナ感染に神経をとがらせながらも、これからの時期はインフルエンザにも怯えた生活を余儀なくされるのかと考えると、ますます、私も含めて職員の自己管理を徹底すると共に入居者さんや利用者さんの健康管理に留意しなければいけないし、地域の方や家族の方の今の現状に対するご理解もますますしていただかなければいけないと考えると、施設の運営はますます厳しいものになると考えています。

『コロナ』に感染している方の額にでも『コロナ』と言う文字が浮き出てくるのならば楽で良いのでしょうが、そんな事は「ありえへ~~ん・・・。」冗談を言っている場合ではないのですが言いたくなるような状態です。コロナ禍になって半年以上になり、コロナ慣れではありませんが、少し箍が緩んでいるところがないかを確認して、当たり前のように手洗い・手指消毒・マスクに三密にならない事の徹底をしていきたいと言う事を寒暖差の激しい時期だからこそしていかなければとも思います。だって、万が一感染症が出たら今まで以上に大変になるのだから。リピーターの皆さん、お互いに留意し合いましょう。

 

朝6時前からの対応から始まりました

令和2年10月16日

早朝5時38分に宿直者の吉田部長のメールがあり、夜勤をしている職員が微熱があるとの報告だったので、直ぐに折り返し、「私が直ぐに施設に行き吉田部長に現場に入って貰う対応にする。」と指示を出し、着替えと洗面を済ませて施設へ。微熱がある職員は直ぐに早退届けを提出して帰るように話をして事務所で早出の職員が順次出勤してくるので声掛けをしつつ、久しぶりに当法人のホームページを開いて、『今日の優・悠・邑    和合』の昨日の掲載がなかったので7時20分だったのですが和合の施設に電話すると佐藤施設長さんが出られたのでお互いにびっくり・・・。取り敢えず指摘をさせて貰いました。『今日の優・悠・邑』の意義は『今日』と言う事は毎日掲載して貰う事で施設の動きがわかると言う事なので留意して貰いたい。と。

8時前になり事務所の職員が揃ったのを確認して家に帰り朝食をとり眼科の予約が8時45分だったので朝食後に病院に行きました。本来8月の予約だったのですが、予約日は都合が悪くなり延び延びになっていて、ようやく事前予約をして行く事が出来ました。職員達には「自己管理をしっかりと」と言っている私ですが目も大切にせなあかん。と思いつつ今になったのを反省です。8時45分からてきぱきと色々な検査をして頂き、瞳孔を開く目薬をして頂き眼科医の診察を受け「今のところ異常は見当たりません」との事で、「ほっ」として、病院から一路施設へ。

12時のお約束で猫田県議へ新規事業の報告に行き、その後13時から農林事務所に行き新規事業に伴う農地転用の件で所長さん、副所長さんにお会いして、その流れの中で垂井町役場に行きまたまたお願いをして、伐採が出来たとの報告を聞いていたので、新規事業の現地に行くときれいに伐採されていて、見晴らしが良くなっていたので、遠くを走っている東海道新幹線も見る事が出来、絶景です。整地には随分お金がかかりましたが、入居していただいた方が喜んで頂けるのであれば、資金面は理事長として何とか工面をしなければと考えています。

日本は寄付の文化があまり育っていませんが、何とか皆さんに理解して頂けるようにアクションを興していきたいと考えています。リピーターの皆さんの中には盲養護老人ホームで視覚障害者の方に『絶景』は必要なのかと思われる方もあるかも知れませんが、私は視覚障害者の研ぎ清まされた『感性』の中で高台での風を受けながら『木の温もり』のある施設での生活を謳歌して頂ければと考えるとたまらないワクワク感があります。まだまだ大変な事はあると思いますが頑張りますのでリピーターの皆さんご支援宜しくお願いします。

大いなる感違いでまたまたバタバタの日になりました

10時から『岐阜県福祉人材総合支援センター運営委員会』があるので、そうそうたるメンバーが集まると聞いていたので、「早く着いて参加者の方々をお出迎えするのに渋滞するといけない。」と考えていたので、本来1時間で着くところなのに、8時30分に家を出たところ、45分で目的地着きました。つまり、9時15分に着き、駐車場もがらんとしてるし、丁度施設等々に連絡出来ると考えて、連絡を終えて9時30分になったので車から降りて玄関を入りながら「駐車場に車が入ってこなかったのは不思議だな」と思いながら、会場の案内板を見たら掲示がないので、改めて予定帳で確認すると「えらいこっちゃ。福祉会館ではなくて水産会館の二階だった」で、急ぎ車に乗り込み水産会館へ。

福祉会館まではすいすい走れたのに長い長い信号に2回もつかまり、県庁の駐車場に乗り入れて急ぎ足で水産会館へ。何とか9時50分に受付を済ませましたが、私が最後の参加者だったようで、私が席に着き一通りの方に会釈をすると、岐阜県健康福祉部次長さんの挨拶が始まりました。そこで改めて思ったのはいつもの事ながら『予定は未定であり決定ではないのだ』と。

次長さんの挨拶の後は岐阜県社協の福祉人材センター長からの説明があり、その後、進行役の中部学院大学飯尾教授から参加者に対して意見は求められ、いきなり手を挙げるのは・・・。と思っていたら誰も手を挙げられなくて飯尾先生自ら質問され、担当者が答えられた後も誰も手を挙げられない状態は時間が勿体ないと考えて手を挙げ色々な観点から自法人の状況や県老施協の現状等を話させて頂きました。

その後は順次指名により参加者の方が話をされ、今年度はコロナ禍で研修等もなかなか厳しい状況だと言う中でどのようにしていくのかとの話し合いもして、終了予定の11時30分を20分延長して終わり、帰りかけていたところ、県の地域福祉課長さんから今後の研修のあり方について相談されたので話をしていると12時10分になり、「なるべくはやく帰って中電の電柱移転の支払いを済ませたい」と車走らせていると、和合の施設長から、「本日13時30分から和合での事業戦略会議(幹部会)があるのだが、理事長の本日の予定を見ると(パソコンでわかるようになっています)入っていないので連絡しました。」との連絡を本部施設の北島部長から貰い、「このまま和合に行くわけにはいかん。だって、中電の支払い決済をしないと、電柱移転が遅れてまう。」と言う事で、一旦本部施設に帰り、支払伝票に決済をして、再び和合の施設へ。(時間が無いので昼食に出ていたご飯をおにぎりにして貰い車の中でむしゃむしゃ食べました。)

13時30分の予定の会議でしたが、私が10分遅れで着いたのを待って頂き、15時終了の会議が中味濃くしたので、20分延長してしまい、16時から本部での新規事業の打ち合わせにまたまた10分遅れてしまい、それぞれの会議の方々にご迷惑をかけてしまいました。9時15分の段階では『余裕のよっちゃん』だったのが、午前の会議は携帯の予定表に『水産会館2階会議室』と書いてあったのに、『2階』だけを確認して「いつもの2階」と思いこんだのと13時30分の予定は入力していなかった私のミス。

リピーターの皆さん『予定は直ぐにメモしましょう。そして、しっかり確認しましょう』と言う事で・・・。

本日15時から飛騨支部の会議です

飛騨高山での会議があり、施設を11時30分に出発する予定で、10時に業者の打ち合わせがあり、その前後で岐阜県老施協会長としての話の為の資料作りをしたのですが、あいからわず職員を巻き込んでの対応に反省はんせい。

取り敢えず水野相談員の運転で予定通り出発して、関にあるサービスエリアで昼食を頂く事にしました。サービスエリア内のレストランに入ろうとすると係の方から「恐れ入りますがマスクの着用をお願いします。」と言われて「しまった。車の中に忘れてきた。いつも、マスクの着用をうるさく言っている私が情けない。」と言うことで、水野相談員が取りに行ってくれて、レストラン内に入り、体温を非接触体温計で計って貰い、天ざるとかやくご飯を頼んで一人ニンマリです。それは本部の昼食のメニューにも、海老フライだった事を思い出したからです。昼食を終えて、目指すは高山です。

順調に走れたので14時30分には会場に着くと清水飛騨支部長が見えたのでご挨拶をしていると片岡副支部長もお見えになり、順次施設長さんがお見えになり、この4月に新しく施設長になられたり、施設を代わられた方との名刺交換をして、定刻2分前の14時58分に清水支部長さんのご挨拶があり、かなりメンバーも代わったと言うことと、今年のコロナ禍で今年度初の施設長会と言う事もあり、それぞれに自己紹介をしてから、私から全国老施協及び岐阜県老施協の現況報告と共に『コロナ対策』と『人材』の話をさせて頂いたのですが久しぶりに対面での話をさせて頂いたので、熱く語ってしまったので、話し終わって時間を確認すると16時30分。思わず私は「調子に乗って話をし過ぎた。でも、皆さんの食らい付きも良かったので勘弁してください。」

その後質問を受けてから、討議に移ったのですが、主に大規模修繕の話しだったのですがその中で「設備についての部品保証が10年しかない日本のシステムはおかしい」との話になったので、私からは「介護報酬もそうですが、制度は政治で決めていくので、全国老施協並びに介護福祉政治連盟や介護議員連盟等の政治力も活用しながらより良い方向に持っていけるように皆さんも協力とご理解をお願いします。」と話をして私なりのまとめとさせて頂きました。

その中で飛騨支部の長老的存在の理事長さんから「全国老施協の情報は素晴らしいものがあるので、非会員施設がある法人さんは全部が入会して貰いたい。」とのご意見を最後に頂けたのは、本日飛騨高山まで行かせて頂いた甲斐があったと思いました。やはりここは中村会長の教えである『行動の老施協を実践しているからだ。」と思うと目頭が熱くなる私何ですがリピーターの皆さんこんな私は変ですか。でも、私はこんな生き方しか出来ない不器用で古い人間かも知れませんがこれからも宜しくお願いします。

爆睡中に・・・

 

令和2年10月13日

昨夜は22時前に大垣での会食を終えて(三密への配慮をして)帰り、お酒を飲んだのでお風呂はやめて、歯磨きとうがいをしてパジャマに着替えて即ベットで横になり眠りについたと思ったら22時33分に施設からメール。その内容は先月入職した18歳の男子職員が施設内のアパートの自室から、施設の外にある飲み物の自販機でジュースを買いアパートに帰る途中で転倒し膝の所を大きく怪我をして、宿直者の北島部長の助けを求め、夜勤対応をしていた看護師に止血の応急処置をして貰い、救急で行く事はないと判断して、朝一で本人を連れて関ヶ原診療所へ連れていき(車の中でしっかり社会人としての心構えについて話ししました)、外科の先生から「傷口の所をきれいに消毒して縫合します。かなり痛いかも知れませんが頑張って下さい。」と言われ「痛いですか」と本人が言ったので、私から間髪入れず「自分で横着したんだから、我慢せなあかんやろ」と言うと「頑張ります」との答えが返ってきました。

先ずは麻酔を打って貰うときに痛さの為に脂汗をかいて息が荒くなってきたので「過呼吸になると大変なのでゆっくり深呼吸をするようにしなさい」と話をしながら、彼の手を握っていました。怖さと痛さを耐えながら無事に手当を終了して、再び施設に帰る車の中で「処置をして貰うのは痛かったのを頑張ったとは思うが、怪我の治療の為に休んだ分を他の職員がカバーしてくれているんだぞ。社会人になった以上は自己管理をしっかりするのも社会人としての責任だぞ。」と話ししました。1ヶ月前までは、不登校をしていたとは言え児童養護施設の最高学年でゆったりとした生活をしていて、ひょっとすると夜中に施設を抜け出すような事があったのかも知れませんが、学生時とは違い『自由を謳歌するためには責任が伴う事』を身を持ってくれたとすれば、怪我も大したことがなかったので『不幸中の幸い』』と言うことになるように、これからの日々を地に足が着く生活の中で介護職として一生懸命に仕事を覚えバリバリと仕事をこなし、自分に自信を持っての毎日を過ごし、『高校は中退したけど、立派な介護福祉士になり、児童養護施設でお世話になった方々にも恩返しが出来た。』と施設に帰り錦が飾れるくらいになって欲しい。

もちろん、これからも色々な事があると思いますがしっかりと支えていくつもりです。リピーターの皆さんも思いませんか。立派に育っていく姿を美しいと。但し、今日診療所に連れて行った男子職員。同じ失敗は決して許さんぞ。早く直して『感謝と恩返し』をしなさいよ。(まだまだ、半沢直樹から抜けだせない宏君であります。

 

本部施設で研究発表会が実施されました

令和2年10月12日

全国老人福祉施設協議会が毎年実施している研究発表会に合わせて(本年度はコロナ禍の影響で中止)本部施設においては、毎年、施設内研究発表会を実施しているのですが、第1回の中間発表会が、本日10時30分からと明日13時30分からの2回に分けて、8事例を審査員は理事長である私と水野副施設長に加えて、烏野先生(びわこ学院大学教授・学部長)がリモートにより参加して下さいます。初日の本日は4事例の発表をしてもらいました。

1例目の発表は『「認知症の利用者様」との関りを通して』と言うタイトルで発表者の一生懸命さは伝ってきたので、指導講評してくれた烏野先生からもお褒めの言葉を頂きましたが、もう少しインパクトがあり、他の施設でも参考になるものにした方が評価は高くなる。と話をして頂きましたので、私からは「研究発表をする時には、『この方に対して何をして差し上げたらより良い生活をして頂けるのか』と言う仮説を立てて、その為の計画を立てて実践して、その評価をして、評価に基づいて新たな計画を立てて実践していくサイクルで行う事が大切だ」と指摘しました。人前で発表すると言う事はエネルギーが必要ですし、勉強になるので、今後の展開が楽しみです。

2例目の発表は『防災委員会を立ち上げての取組』とのタイトルでの発表を防災の責任者がしたのですが、防災の責任者としては通り一辺倒の内容だったので、烏野先生からはしっかりと酷評して貰った後、素晴らしいアイデアを烏野先生からして頂いたので今後の展開に期待したいと思っています。勿論私からは「今回の発表は研究ではなくて単なる報告だったので次回は気合の入ったものを期待している。」と話をしました。

3例目は『安楽な体位を目指して・・・ポジショニングの実施』とのタイトルでの発表だったのですが、発表のなかでむやみやたらに『ポジショニング』と言う言葉が出てくる割には具体性に乏しくて上部だけのものに終止していたので副施設長からは「ポジショニングの意味が理解されていますか。」との端的な指摘があり、烏野先生からも「拘縮とポジショニングの関係などが整理されていない。」との指摘を受けて、理事寮である私からは一人目の発表者と同じ様に「一人ひとりの方の状況を把握した上で何を提案して実践していくのかを明確にしていき成功体験が多く出来るようにしていかなければ。つまり、思いを持って実践していけばよりやりがいのある仕事でき、強いては素晴らしい提供になる。と、日常のケアへの指摘もさせて頂きました。

4例目は『フットケアを通し生活の質をはかる…介護職員として出来る事』とのタイトルで、フットケアマッサージを実践するなかで浮腫の改善を試みるものだったのすが、実践のなかで、足湯をしたり、お風呂にみかんの皮や入浴剤をいれたり、時にはハンドマッサージをして、浮腫の軽減を試みた結果は余り数字的な変化は見られなかったとの報告がされたのですが、「色々な対応をして行く中で表情が明るくなった。」との報告があり、理事長としてのまとめの話の中で「一人での成功体験を全ての方に出来る様にしていき、その記録を残す事によって素晴らしい成果が得られると思います。」と話をしました。この様な場を持つことによって職員の力量は確実に上がっていくと考えていますが、リピーターの皆さんもきっと共感して貰えると思います。

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春吉爺さんの話し

令和2年10月11日

私を産んでくれた母秋江さんは、ちゃきちゃきの今須っ子で、春夫さん(私にとって伯父さん)と言う立派な跡取り息子が存在して実際に伯父さんが本家を継がれているにも関わらず、母秋江さんの為に分家の家をこしらえているのです。日本の一般常識で考えると、次男、三男に分家をつくる事はあっても、末娘である母秋江さんの為に分家を作ると言う発想は、終戦直後の日本においては稀有な事で無かったかと思います。その現象を私なりに分析すると、末娘であった私の母秋江さんを余程近くに置いておきたかったのだと思うし、春吉爺さんはわがままを押し通せるくらいの人物だったのだと思います。

春吉爺さんは戦前からいわゆる相場師だったと聞いてます。そして多分に親分肌の人物だったのだと思います。お金が無くて困っている方が頼って来て、例えばお金の代わりに立派な掛け軸を置いていき、お金が返ってくることが無かった時にも、「この掛け軸はあいつが置いていったものだから本物だ」爺様は断言していたとは言え、確証を得る為に私の父進さんに京都大学の先生の所まで鑑定に行かせた結果は爺様の言う通りに本物で京都大学の先生の話では「桃山時代に活躍した狩野松栄(狩野派の絵師)に間違いないので大切にしなさい。」と言われたとの話を小さい頃に聞きました。と言う事は、私の爺様春吉爺さんは人を見る目も正しかったと言う事かな。但し、私が小学生の頃、一歳下の従妹と共に爺様の家で遊んでいて、アイスクリームを食べていた時に爺様が「宏。今食べてるのはいくらした。」と聞かれたので「10円だよ。」と答えると「そんなものが10円もするか」と大きな声で言われたのは今でも耳の奥の記憶にあります。多分その頃の爺様は、今で言う『認知症』の症状がでていたのだと思います。だから、多分貨幣価値が爺様が元気に活躍していた頃に戻っていたのだと思います。

そう言う意味では貴重な品物が一杯あったのを、金銭価値が違っている状況で売りさばいてしまった物が多くあったのではないかと思います。(春吉爺さん的には、『儲かった』と思っていたのだと思いますが)そんな爺様春吉爺さんでしたが、私が中学1年の時他界した母秋江(春吉爺さんにとっては目の中に入れても痛くない存在だった末娘)の葬儀の時には春吉爺さんに母秋江の骨になった骨箱を持って行った時には、春吉爺さんが骨箱を両手に抱き「こんな小さな箱に入ってしまって」と絶叫されたのも耳の奥底に残っています。

話は変わりますが、本家の家に親戚が集まり(春夫伯父さんの法要の時)(今はそんな時しか親戚は集まりません)懐かしいアルバムをみんなで見ている時に、「誰が一番春吉爺さんに似ているか」と言う話になり、みんなが「一番年下の男の宏がそっくりではないか」との結論でした。確かに、小さい頃の虚弱な私では似ても似つかぬ雰囲気だったのですが、『青大将がアナコンダ』の様になった今はその様に言われても致し方ないか・・・。首回りが36㎝から47㎝、ウエストは72㎝から優に100㎝を越えたのでは、豪快だった春吉爺さんにそっくりと言われても仕方が無いか。リピーターの皆さん、可愛かった宏君(そんな時代は知らないですよね)がこんな風になってしまいましたがこれからも宜しくお願い致します。※最後は「とほほ」の話でした。

 

思い込みとは恐ろしいそして、ご免なさい

令和2年10月10日

9時過ぎから地元の県議会議員の先生の所に新規事業の進捗状況を報告をしに行く事にしていて、昨日の内に地元の町会議員さんとは時間も合流場所も確認しておいたのですが、副施設長には伝えてなかった事を思いだし朝一で連絡することにして、携帯で番号を押し結構長くコールした後で眠そうな声で出られた対応に(その時点では完全に本人だと思っていました。)私は若干ムッとしながらも、用件である時間や集合場所を一気に話をし終えたら、相手の方が「どちらにお掛けになってみえますか」と言われて、番号を確認すると「間違っている」と気が付き慌ててお詫びをして電話を切りました。そして、副施設長にかけ直しをして、今あった事と用件を話ししてからつくづく思ったのは『思い込みとは恐ろしい』と思うと共に『間違えた相手が男性だったら直ぐに気が付くのに』とか『副施設長の声にそっくりだったから』とか、色々な自己弁護をしている自分に自分の事ながら呆れています。県議とのお約束の時間より三人とも10分以上早く着いたのですが、事務所に入って行くと私たちを待っていてくださったので、事務所内に入らせて頂き、先ずは私から経過報告と共に今後の進め方について話をさせて頂き、報告が済んだ後で、県議の先生が私の父進さんが垂井町の教育長をしていた時の話題になり、(約50年前)その当時垂井北中が新設され、通学地域の問題で父進さんが大変苦労されていたのをみていた。との話を聞き、30年前の出来事なので県議の先生はまだ若い頃の話しなのに覚えてくださっていれと言う事は父進さんの存在が余程大きな存在で、30年前に他界したのに今も私の事業を後押ししていると思うと感謝しかの言葉しか出てこないので、本日は17時30分に帰れたので、スーツを脱ぎ捨て仏壇にローソクと線香に火をつけてウォーキングマシンに乗り30分間『正信偈』と『四国遍路でのお経』を唱えると共に四人の写真を見ながら法名を遮二無二唱えました。特に本日は至心院釈善進(父進さんの法名です。)を繰り返し唱えて父進さんに感謝と畏怖を表しました。しかしながら、しみじみ思うに約50年前の父進さんの事が話題になったのは単に私が父進の息子だから県議さんが話題にしたとしても、50年前の事を覚えて頂いているからであればこそ。と考えると余程のインパクトな出来事でなければ、話題にすらならなかったと思うと父進さんは素晴らしい人格者だったのだと思います。そこで私は考えました。私がこれから50年後に『素晴らしい人だった』と言われる人物でいられるのかと。こればっかは、バックツーザフューチャーのタイムマシンがないと・・・。50年後に語られる存在になるにはこれからも頑張らなくては・・・。今、二十歳位のリピーターの皆さん。50年後に宏君が誉められるように頑張りますので、語って下さいね。

ネパール人女性が杉和会の仲間入りをしました

令和2年10月9日

8月19日にベトナム人夫婦がやって来ました。ご主人の方は大学を卒業して飲食業界で通訳の仕事が内定していたのですが、このコロナ禍で内定が取り消され、就職活動をしながらコンビニで週28時間のアルバイトをしている時に、特定技能の介護の資格を取れば5年間は日本で正規に働けると言う事で、一大決心をして特定技能の介護の為の受験勉強を約2か月して見事に一発合格して5年間は日本で正規に働ける事になったのですが、留学ビザから特定技能の介護のビザが下りてくるのに時間がかかり、仲介して頂いた方がようやく正式にビザが下りたと来て頂き、正規職員になる事が出来ました。

そして本日、もう一人ネパール人女性も同じビザを持ってやって来てくれました。ベトナム人男性もネパール人女性も優秀で日本語の2級を引っ提げてやってきました。二人共私が常に言っている『優しさと一生懸命さ』を持っています。ベトナム人夫婦の内の奥さんの方はまだ、二人と同じ資格はないので週28時間のアルバイトでしか働けませんが(実に勿体ない話です。)近い内に取得してくれるものと思っています。制度上の話をすれば、3人共に当施設で3年の実務経験と450時間の研修を受けて、見事日本の国家試験である、『介護福祉士』の資格をクリアしてくれて、ながく日本でいやいや杉和会の職員としてしっかり働いてくれたらと考えています。

特定技能の介護のビザは今年の4月に出来たばかりの制度ですので、恐らく岐阜県の第1号だと思うのですが、この様なご縁を頂けたのも沢山のネットワークを張り巡らしている結果だと考えています。先程、全国老人福祉施設協議会外国人材対策委員会委員長の京都の櫻井君と携帯で話をしたのですが、介護人材の求人の受け皿の一つとして外国人材の採用も積極的にしていかなければいけない状況の中、「採用はしたいがどの様にしていったら良いのかとがわからない法人もあると思うので、情報発信をしっかりしていく必要がある。」と話をしました。

ベトナム人夫婦には頑張って二人で働いて、今須の地で空き家を購入して若干の改修工事をして、素晴らしいファミリーとして根付いて欲しいと話をしました。ネパール人女性は、「畑で野菜を作りたい」との希望を話してくれたので、「今は施設の西奥に砂防ダムを作っているので畑の土はいくらでも貰えると思うので頑張って作れると思いますよ。」と話をすると共に、今須の若者と結婚して文字通り今須に根ついてくれたらと私自身は勝手な夢を抱いてしまいました。その様な夢を抱けるほど綺麗な目をしていました。

インドネシアのEPA介護福祉士候補生に、特定技能の介護のビザを持ったベトナム人夫婦にネパール人女性、中学を卒業して直ぐに就職してくれた男子に、児童養護施設からきてくれた男子、全盲のマッサージ師の職員と色々な職員を確保出来るのは、1Kのアパートを20部屋も敷地内に保有している事は大きい事だと思うのですが、リピーターの皆さん、この展開は本部がある近くにはアパートなるものがないと言う悪条件を逆転の発想で展開したお陰です。それに、起きては困りますが、災害が起きた時にも敷地内の職員は頼りになる存在です。これからも色んなアイデアを出して頑張りますので宜しくお願い致します。

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