『特変なし』のお話

昨日19時から本部施設で全体会があり、その中でデイサービス責任者の北島部長から『記録の書き方』の研修を受講した報告の中で「『特変なし』と言う記録はあり得ない」と言う話が出た時に当法人顧問の烏野先生(びわこ学院大学教授)が「昨日と変わらない日があって『特変なし』があっても良いのではないか。」との指摘があり、かつての北島部長だったら「そうですかね」で話は終わっていたと思うのですが、今の北島部長は『自分の考え方』に自信を持っているのでそのままでは終わりませんでした。最も副施設長から「必ず違いはある」との発言があり、その後を受けて理事長である私から「『何もない』と言う事はあり得ない。違いを見つけて記録に残していく事により、点と点を結んで線にして、線と線を重ねて面になり、面と面を重ねる事によって立体になり、そこから物語が生まれる。」と話をしました。つまり、「お互いに何気ない出来事にも気を配り記録に残していく事は尊い事だ。」とも話をしました。私の話を受けて烏野先生が自分の考え方を訂正したコメントでこの話をまとめて下さいました。その後私は烏野先生に「場をよんだアドバイスをしていかなければいけない。しかしながら、上手く切り返したまとめをしてくださったけど、多分私が烏野先生にお会いした30年近く前だったら、先程のような切り返しの話はなかっただろうな」と、大学教授をいさめるような結果になりました。烏野先生もしっかり大人になられたなと変なところで感心してしまいました。しかしながらよ~く考えると私も同じように歳をとったわけだし、言うことなし。但し、北島部長が中部学院大学を卒業してきたばかりの自信がない所作がなくなり、自信に満ちた発言が出来る事を嬉しく思うと共に本部施設で14年の積み重ねについても頼もしく思いました。実は北島部長は同じ大学で内定をしていた男子学生が内定辞退を受けて辞退した男子学生が当法人に紹介してくれてやってきた職員なんです。しかし、今では屋台骨を支えれるまでになってくれてます。辞退をした男子学生の事はわかりませんが、結果的に北島部長がいてくれている事に満足してます。単に勤務年数が長いから良いわけではありませんが、長く勤務している中から少なからず確実に学んでいてくれていると考えています。杉和会も150人集団に23年の歴史の中でなり、ウサギさんタイプもカメさんタイプもいますが、それも『個性』と受け止め、時には湯気をあげて怒ったり、しんみりと話したりしながらもみんなが頑張っていてくれるから私も生き生きと元気でおれるのだと思います。リピーターの皆さん私は常に目標に向かって頑張れている幸福者だと思っています。こんな私をこれからも宜しくお願いします。

早速昨日の課題とした長期休暇について述べます

『働き方改革』あるいは『コロナ禍での3密対策』の名の元に休日を増やしていく計画がまかり通る事に介護事業をさせて頂いている立場から少しモノを申しあげたいと思います。

確かに働く側にとって休日が多いのは一見歓迎されるように思います。しかしながらそれには大きな課題が有ることを語られていません。それは仕事量が減らなければ何の解決にもならないし、休んだ分のフォローを誰が担うのかと言う事が何ら語られていなくて、単に言われているのは『業務の省力化に努力を』と言われるだけにとれるのですが、リピーターの皆さんはどのように思われますか。

介護事業で語る前に『学校教育』で語ってみます。学校教育では、文科省が示しているだけの学習をこなさなければなりません。しかしながら、例えばコロナ禍で学校を休校にした分の取り戻しに未だ四苦八苦している現状があります。かつて、文科省が『ゆとり教育』なるものを推奨したことによって、カリキュラムからごそんと抜けてしまった事によって混乱した事がありました。また、長期休暇は学校も例外ではないので、その間は家庭での生活を余儀なくされるのですが、長期休暇の間も仕事を休めない業種も多々あると考えられます。

勿論、介護については最たるものと言えます。長期休暇を謳歌出来る業態が多く存在するとは考えにくいようにも思います。最たるものの介護について詳しく述べていきたいと思います。『介護はきつい』と言われる所以は、心身共に休む事が出来ないからです。勿論家庭において多くの方が携わる事が出来る家庭環境があれば大丈夫ですが、なかなかそんな家庭環境にはならないので『介護はきつい』と言われるのだとおもいます。介護職員の勤務は週に40時間と決められています。つまり、1日24時間✖7日=168時間中で40時間の勤務ですから、フリーの時間は多くあるわけです。だから気分転換を図ったり体を休める事が出来、入居者さんに支えられながら頑張っていてくれています。

但し、本日の課題である長期休暇を取ると言う事で言えば課題は山積してます。介護保険法で言えば入居者3人に対して介護職及び看護職が1人の配置を満たせば法的なルールはクリアします。しかしながら、24時間体制の中で夜勤職員は毎日5人を配置して、早番、日勤、遅番を配置していかなければ良いケア等あり得ない状況下では、3対1の配置ではなくて、最低でも2対1の配置を満たさなければ難しい状況の中で『休みの日を増やす』事等考えられない。「だったら、職員を増やしたら良いじゃん」と思われる方もみえると思いますが、2つの大きな課題をクリアしなければ実現出来ないのです。課題の1つ目には「介護人材の確保が難しい」であり、2つ目の課題は、「職員をこれ以上採用したら経営が成り立たない」と言う事です。一般企業のように祝祭日が確実にある訳でない中でも遣り甲斐を見つけ頑張っている職員がいるから本部の職員の平均勤続年数は10年になったのです。

リピーターの皆さん、当施設の職員に拍手と励ましの声を届けて下さい。

コロナ禍での葛藤

どこかの新聞で『コロナ禍での職員のストレスが入居者への虐待につながっているのではないか』と言う記事が掲載され(私は確認出来てないのですが)職員に対する配慮が必要で、対策が必要であれば全国老施協に窓口があり、援助体制もとっているし、研修等に対しても必要に応じてしていくようにとの事。確かにこのコロナ禍での対応では、『家族等との面会』や『施設内行事』を自粛しなければいけない状況に苦慮しているのが現実です。その点に対しては職員だけではなく入居者さんや利用者さん及びその関係者も同様です。

本部施設では本日、月に一回実施される家族会主催の誕生会は、コロナ禍以前は誕生日の方を一堂に集めて家族の方にも参加して頂き多くの方が集まった中で実施していましたが、コロナ禍の今は、誕生会の方がみえるフロアを家族会の会長さんと共に回って家族会の会長さんから誕生日プレゼントを渡して頂き、誕生日の歌を一人ひとりに対して手拍子をして歌っています。縮小した事で逆に良かった事もあります。それは、今までのやり方では、誕生日の方と施設側は担当職員の参加のみだったのが、フロアの職員は勿論の事、フロアの入居者も声をかけて頂いたり歌ったりしてもらえるようになりました。つまり、それぞれのフロアの方々と共にお祝いをすると言う展開は災い転じて福となす手法であり、本日誕生日を迎えられた3人の方々も喜んでみえました。特に本日の誕生者の中で最高齢だった大正12年生まれ97歳の男性の方は嬉しさのあまりお礼の言葉を延々と嬉しそうに語られた計画にないプログラムを見事にやり遂げて頂けました。

ところで、大正12年生まれの方が97歳とは大正も遠くなったものだし、明治の方は登場がないはずだ。(ちなみに私の父進は明治最後の年に生まれたので生誕109歳になるのか)本題に戻ってコロナ禍で例年楽しみにされている大垣の老舗鮨屋の『寿司吉』さんによる板さんの出張によるパフォーマンスも出来てない状況であったり、12月に実施しているクリスマス会についても、どのようにすべきかを考えなけれはいけません。出来るだけ密にならなくて、外部からのコロナ侵入を防ぎ、それでいて、『今日一日を楽しかったよ』を実現するにはどうしたら良いのか、悩ましい限りです。勿論、介護をしている職員から笑顔が消えたら入居者さんはたまらない状況になるので、職員のモチベーションを下げないための配慮もしていかなければなりません。

話題が少しずれますが、昨日の新聞では『元旦からの休日を11日までに』との大きな見出しがありましたが、年中無休で24時間体制の特養では、この考え方についてどのように考えるのかとの課題については必ず後日述べる事にしますが、とにかくいつ終息するのかわからないものの対応に対して、『笑顔の充実の為に』と言う課題に対して一丸となって頑張りますのでリピーターの皆さんもご理解とご支援を宜しくお願いします。

3度の確認の意味を理解しました

令和2年10月24日

久方ぶりに午前3時2分に来たメールでの対応をしました。それは、看取り対応でここ3日は水分が飲み込む事が出来ない状況の方だったので、(点滴施行はしてました)緊張しながら寝ていたので直ぐに目覚めてメールを見ると多賀先生(嘱託医師)と家族には連絡がついて、多賀先生が5時には死亡確認に来て頂けて(とっても有り難い事です。)家族もそれに合わせて来て下さるとの事の内容だったので、「4時30分に行動開始しよう」と携帯のアラームをセットしてうとうと。4時30分のアラームが鳴って改めて行動開始。

施設に行き息子さん夫婦にご挨拶と共に亡くなった後の対応について相談に乗っていると多賀先生がおみえになり、改めて死亡確認と家族への説明をして頂き、亡くなられた方をお風呂に入って頂き家までお送りする時間を9時30分とさせて頂き一旦家族の方には家での受け入れの為に帰って頂き、私自身は事務所に戻り報告書を見ていた時に気が付いた事を書きます。(前段が長くてすみません。)報告書の内容はショートステイ終了時に衣服が忘れてあった事に対するものでした。私はその一つの現象(衣服の忘れ物)の中に少なくとも三回は未然に防ぐチャンスがあったにも関わらずチャンスを生かせれなかった事がいかにも残念でこのコラムによって職員に周知することにします。

1つ目は家族から頂いている持ち物一覧をしっかり確認しないでチェックをした為にお迎えに行った時に着てみえたのを見落としたのと、服に名前が書いてなかったのを見落とした事は、「何故そのようにするのか」が理解されていないのか『なれ』による油断だとしか考えられない。

2つ目は、せっかくショート期間中に『名前のない服』として本館2階で見つかったにも関わらず、本館1階の1職員が「見たことない」と言う事で1階の職員は洗濯室管理にしてしまい、誰の持ち物かの確認が棚上げになったのは、投げ掛けられた職員が安易な対応になった点が残念でならない。『たかがジャンパー一枚。されど・・・。』(何事も安易にとらえないで原因究明は忙しい中でもしっかりやっていかないと大きなトラブルに繋がる可能性がある。)

3つ目は1階の職員がショートステイ終了後に忘れ物の可能性があるものに気が付いて、家まで届けに行ったが家族が不在で、その後電話連絡したが家族の方が「明日のデイサービス利用時で良い」と言われて翌日に確認したのには私的には不満が残る。何故ならば、その方のジャンパーと言う確証は家族でないとわからないのだから、一晩放置しておくのは如何なものか。

職員のミスは職員が解決すべき(この場合私も含めて)で、「忙しい」は理由にならない。色々なアクシデントもちょっとした安易な対応から起きている事が多い。今回はジャンパーでしたが、『戒め』と捉え改めて、基本に忠実、疑問に思うことはその場で解決を徹底していく事を周知していきます。リピーターの皆さん『一歩後退二歩前進』でこれからも杉和会の職員は一丸になって頑張っていきますのでこれからも宜しくお願いします。

介護職員の不足解決はなかなか難しいですが・・・。

令和2年10月23日

平成18年度以降、介護福祉士養成校の学生は右肩下がりで、その傾向に歯止めはかかっていない。世界的なコロナ禍で世界中が不景気に見舞われて日本もその例外ではない。全国老人福祉施設協議会も当然のように国への働きかけだけでなく色々な手立てを講じています。私が会長をさせて頂いている岐阜県老人福祉協議会に於いても様々な手立てを講じています。勿論各事業所に於いても色々な手立てを講じられています。

そんな中で本日は、午後から、岐阜県商工労働部労働雇用課と健康福祉部高齢福祉課からのコロナ禍で雇用の維持が困難な業種・企業がある一方で、慢性的に人材不足等の団体とのマッチング支援を岐阜県老施協として参画出来ないかとの説明を聞きにいきました。人材確保は大きな課題であり、今迄にも外国人材の導入であったり、高齢者雇用や障がい者雇用等にも力を入れてきましたが、今回のコロナ禍での人材確保を『補完的な人材確保』ではなく、『恒久的な人材』になる為には、より一層の『職員育成』に力を入れていかなければいけないと考えています。その為に、岐阜県老人福祉協議会としては、単にマッチング支援事業に参画するだけではなくて、今迄以上に研修にも力を入れていかなければと考えています。

また、昨日、全国老人福祉施設協議会から『潜在介護福祉士の復職支援プログラム参加のアンケート』がメールで送られてきましたし、高齢福祉課での打ち合わせ後には地域福祉課に寄って欲しいと言うので、地域福祉課に出向くと、これまた、福祉人材確保に対する相談で、ここでは、「来年度以降の人材確保に向けた話を聞かせて貰い参考にしたい。」とのことだったので、私なりに熱く語らせて頂くと共に岐阜県の色々な部署との情報共有が出来る仕組みを構築出来たらと言うお願いもさせて頂きました。

私の立場は社会福祉法人『杉和会』の理事長であり、岐阜県老人福祉協議会会長としての立場もありますが、介護人材を確保するには、『介護』に対する『負』のイメージを変えていく為に何をしなければいけないのかを真剣に考えて行く中で『社会福祉法人の使命』についても改めて考え、広報活動に力を入れて「福祉・介護の仕事はやりがいのある社会的使命が高いもの」と言う事を声高らかに言っていかなければと、午後からの出来事から改めて思った次第です。勿論その為には介護職の専門性を高めていく努力も不可欠だとも考えています。

私は常日頃「介護の仕事は誰での出来るが、誰もが出来る仕事ではない。介護を志す者にとって大切なのは優しさと一生懸命さだと。そして一生懸命さの中から色々な資格を取得する為に努力したくなるのが必然。経営者は一生懸命に努力する職員のバックアップをする。その関係を築くことこそ大切だ」と思っています。福祉・介護の仕事を人が羨む仕事となる様に微力ながら私も汗をかいていく所存ですので、リピーターの皆さん、ご理解とご協力、ご支援を宜しくお願い致します。

関ヶ原町は文字通りの過疎の町だけど

『限界集落』と言う言葉を耳にするようになってかなりの年月が経ちますが、昨日のコラムで書いたように、関ヶ原町は日本全国に名前は轟いていますが、実際には昨日の報道でもあったようにスーパーマーケットすらない町なのです。今はこのコロナ禍で東京への出張はないのですが、以前には「岐阜県はどちらからですか。」と聞かれて「関ヶ原です。」と答えると大抵の方から「関ヶ原市ですか」と言われて「本当は7千弱の人口なので市ではないんだけど。」と恥ずかしさを覚えてしまいます。この現象は『関ヶ原合戦があった町』と言う歴史的有効性を関ヶ原町の先達が蔑ろにしてきた証し。歴史上の結果に対して『もしも、この様な展開をしていたら』と今の現象を嘆いてみても過去に戻れる訳でなし、67年も住み続けている私自身も批判する資格はないと思っています。私自身大学時代にサークル活動の一つに『郷土研究の会』(柳田民俗学)に所属している時に大学の理工学部との合同研究としてその当時の文化庁から予算をつけて貰い(サークルの顧問の先生が文化庁の偉い方だった関係で)旧中仙道の宿場町の一つであった『妻籠宿』を一大観光地にするための調査研究をして、その当時(47年位前)民宿は一人の女性(かなりご高齢だと思いましたが)が細々としている所が一軒しかなかったのに今ではそこそこの観光地にする為の手助けをした記憶があるのですが、生まれ育った関ヶ原町、特に『今須』について何もしてこなかった事について悔いても仕方がないのですが悔いてます。だって、かなり前に読んだ本に(どんな本だったかはわかりません)よると、旧中仙道の岐阜エリアに宿場町が13宿あって、江戸時代の人口では加納宿(城下町のふもと)に次いで多かったのは今須宿だったと書いてありました。と言う事は私が住んでいる『今須町筋』と言われる所は本陣があり脇本陣もあり宿屋も多くあり、籠屋も多くあった豊かな土地柄だったと思います。日本で線路が引かれたのは『新橋~横浜』『京都~神戸』で3番目が『関ヶ原~長浜』だったと父進が監修責任者をした『不破の歩み』に書いてあり、計画の段階では『関ヶ原』の次の駅は『今須』の計画が持ち上がった時にその当時の有力者が「駅等出来たら若い者が出て行ってしまうから駄目だ。」と言って反対して出来なかったと聞いてます。その当時反対した有力者の方が今の現状を知ったら切腹もんだと思います。何が言いたいかと言うと何事も先を見た展開をしていかないとどんな立派な町も衰退してしまう。今の日本も衰退する為に汗をかいたように思います。それは、『少子化政策を推進』し『バブル経済を煽った』歴史があるからです。リピーターの皆さん、気が付いた事を意見して将来がより良くなるように頑張りませんか。(こんなデカイ課題を書いて大丈夫か・・・。)

朝から笑える話題だけど笑えない話しです

またまた、『なぞなぞ』の様な話題で恐縮ですが、そのような表現しか思いつかなくて・・・。それは、朝食を頂いている時のテレビ番組での出来事です。(私は途中からの視聴だったのですが)

『ドデスカ』と言う番組で関ケ原町の紹介をしていたのです。私が見始めた時には関ケ原駅が画面に出てきて駅の構内が閑散としていると言うより誰もいない所が映像に流れ、「この番組の意図は何処にあるんじゃい」と思って次の場面を見たら町内の方へのインタビューで進行役の方が「何処に行ったら多くの方に会う事が出来ますか」の投げかけに対してマイクを向けられた方が「ゲンキーに行けば多くの方がみえるのでは」の答えに対してテレビの画面に『元気』とテロップが映し出されたのには思わず絶句でした。私も関ケ原町民なので『ゲンキー』と言えば『ゲンキー』なのですが、テレビの画面を見ている方の大方は『元気?』となるのだと思い「これは決して笑える話しではないな」と思いました。

その後、ゲンキーに場面が移りお客さんへのインタビューで、何人かの方からの情報として「関ケ原町にはスーパーマーケットが一軒も無くなってしまったのでゲンキーには野菜や魚もあり便利です。」との話に対して「ゲンキーはスーパーマーケットでしたっけ」のコメントには、ますますこの番組の意図が分からなくなりました。

その後、町外から嫁いだ女性の方が驚かれたエピソードとして「冬に雪が降り長靴を履いて関ケ原駅に行くと長靴から普通の靴に履き替えて、長靴は駅の構内の待合に置いていくようになっていたのには驚きました。嫁いた当初は置いて行って大丈夫かと思いましたが、関ケ原では当たり前になっているので平和な街何だと思いました。」と話されているのを見て複雑な思いになったのは私だけだったでしょうか。

その他には『食』の東西の分岐点だと言う説明であったり、コインロッカーや関ケ原町のバスやマンホール蓋等々に武将関連の絵や家紋が描かれていたり、学校行事の一環で親子での甲冑作りがあり、親子二代で多くの甲冑が家に飾られているのを紹介したり、作った甲冑を着て運動会や祭りでの行列の場面も紹介され、至る所に家紋入りの幟が飾られている事が紹介され、関ケ原駅前にある駅前交流館で販売されている品物847点の内676点が関ケ原合戦ゆかりの武将のグッズであり、『関ケ原』イコール『関ヶ原合戦』しかないような紹介で、最後には本日コロナ禍で延期されていた『岐阜関ケ原古戦場記念館』の竣工式展及び明日から内覧会や予約受付の一般入場の紹介がされたので、私は「結局、関ケ原では関ヶ原合戦を話題にした過疎の町に立派な建物が出来たと言う事を報道したかったのか」と理解すると共に、「今更手遅れに近いけど、話題性のある関ケ原で町の活性化に向けた取り組みをしてこなかったツケが今に至っているのだ」と。

この岐阜関ヶ原古戦場記念館で一発逆転は難しいと思うので、リピーターの皆さん、関ケ原を元気にする手立てがあれば教えてください。

バイキングが形骸化しないために

令和2年10月20日

本日昼食をバイキングで実施するのですが、本部施設での実施は古く意義のあるものだとバイキングを発案した私としては考えているのですが、長く続けていることは、『素晴らしい』事ではありますが、一つ間違えると『マンネリ化』に陥ったり『実施すれば良い』的な考え方になってしまう事が時としてあります。今回のバイキングで私が唖然となるバイキングの起案が出てきました。

それは、昨年までの10月の企画では『秋刀魚(さんま)を七輪の炭火で焼いて匂いと視覚でも楽しんで貰う』と言うものだったのですが、今年は秋刀魚は不漁続きで高い事がテレビ等で言われているので「敢えて秋刀魚をメインにすることはない。」と言う事でメニューは鯵(あじ)のフライをメインに茄子の田楽、チンゲン菜の胡麻あえ、きのこ入りすき煮、茶碗蒸し(銀杏、椎茸、みつば、かまぼこ)のっぺい汁(里芋、人参、あげ、あさつき)栗ご飯とロールパン(ブルーベリー、イチゴジャム)、果物(柿、りんご、キュウイ)と盛り沢山です。実は・・・。

本日10時から介護労働安定センターの会議があると8時30分に家を出て、会議場所の確認をする為に連絡を入れると予定の入力を1ヶ月間違えていたので「今日は会議はありません」と言われ(道りで案内が見つからんわけや)直ぐにUターンをして施設へ。会議がなかったお陰で「バイキングの時にお酒が振る舞える」と言う事で家により4合瓶を手に入れ、施設に帰り着いてからじょうごで一升瓶からお酒を移しかえ、12時になってから各フロアを回りました。入居者さんのリアクションがそれぞれに面白く、4合瓶1本分だけでしたが入居者さん利用者との楽しいひとときを過ごせました。結局は入居者利用者の方を楽しませるつもりが私自身が楽しんでしまいました。

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13時30分からは全国老施協正副会長委員長会議がウェブで開催され分厚い資料を基にした説明とそれに伴う質問がなされ、最後に各委員会報告がされ、私が総務・組織委員長として最初の発表だったので終了時間の16時も迫っていたので勢いよく話をしたにも関わらず何らかのトラブルで皆さんに声が届いていなくて、平石会長が機転を利かして下さり、順番を後にしてくださり、トラブルが改善されてから再び話をさせて貰ったのですが、頭はかっかとしながらの発表となりました。

最初の時には勢いよく話をしたのに2回目は・・・。いやいや、こんな時小さい頃なら、いじけてしまうか、泣き出していたように思いますが、流石に今の私はかっかとしていてもしっかり話が出来たので、やっばり小さい頃の私とは違うのだと思っています。リピーターの皆さん。こんな私をどのように思われますか。

岐阜県庁舎建設にかかるユニバーサルデザイン意見交換会がありました

令和2年10月19日

本日13時30分から庁舎建設現場現場事務所内会議室でコロナ感染症の配慮で、高齢者及び障害者団体のみの意見交換会(明日は子育て団体等)があるために昼食を11時45分から頂き12時15分には県庁に向け車を走らせ13時15分には会場に着いて、県庁の担当者にヘルメットをお借りして会議室に入る前に現場での説明会があるとの事で担当者の方に案内して貰うと椅子が5脚並んでいて、既に4人の方は座られていて、思わず「余裕を持って来たはずなのに、失敗しっぱい」。私が椅子に座ると同時に担当課長さんの挨拶が始まったのは面食らいました。但し、直ぐに始まった理由がわかりました。椅子に座っての説明を受けた所は『現場』と言うだけに外なので「寒い」と言う事で寒い所での説明はなるべく早く終えるとの配慮だったのです。外会場での説明を終え、現場事務所内の会議室まで案内して貰う時に思ったのは「流石に県庁の現場事務所だ。応接室もあるし会議室も立派」。変な事に感心して前段が長くなりました(いつもの事だがや・・・。)『ユニバーサルデザイン』の検討会だけに、点字ブロックの素材1つにしても慎重な話し合いがされていきました。当然と言えば当然です。だって建ててしまってから「ここはこんなんでは不便だ」と言っても簡単に直せないのだから。しかも、県庁と言う所は、老若男女の色々な障害をお持ちの方や色々な国の方が訪れられるのだから。15時に検討会は終わり、検討会に参加されていた視覚障害者協会の方に新規事業の話をさせて貰ったり、大垣市議会議員の方もみえたので、新規事業への協力依頼の話をさせて貰ったりした後、本庁10階にある高齢福祉課に行き、新規事業のプレス発表の打ち合わせと、これまた新規事業の設備備品等の方法についての指導をして貰いました。打ち合わせを終えて17時15分から行われる本部施設での戦略会議の資料整理をしていると予定時間になり会議室に行くと顧問の烏野先生も既におみえになっていたので、先ずは参加者9人で準備されていたカップ麺とおにぎりを頂き、その後幹部職員がそれぞれに準備した資料に基づき意見交流を活発に行いました。その中で会議の総括として、理事長である私から「それぞれ、ここにいる幹部の皆さんは経験も知識もあり、何事もしっかり出来ると思いますが、その経験と知識を如何に教えていくのかが一番難しいが、それをやりきれなければいけないので、ここにいるメンバーで力を合わせて頑張って欲しい。」と総括しました。やってしまえはそれまで何ですが出来るように導くのは自分がやるよりはるかに難しいと思うのですがリピーターの皆さんはどう思われますか。出来れば感想やご意見を頂けると嬉しいのですが。

『遅かったのが早くなったり、早かったのが遅くなったり』のお話

本日は『なぞなぞ』のようなタイトルですが、そんなややこしい話ではなくて、私の生活習慣が変わったと言うお話です。先ずは遅かったのが早くなったのは『食事での時間』です。私は何度もこのコラムで書いていますが末っ子の長男。つまり、父進さん母秋江さんにとっては待望の跡取り息子が(昔的発想かも知れませんが)誕生し、特に母秋江さんにとっては私を目の中に入れても痛くないような存在だったのです。(絶対に無理と言うより不可能ですが)尚且つ末っ子の長男に産まれた私は生まれながらの虚弱児だったので、母秋江さんの考え方は『我が子である宏を如何に元気な子に育てていくか』的な考え方だったと言っても過言でなかっかと思います。(今になってそのように考えるに至ったと言った方がより正確かも知れません。)と言う事で、私が小さい頃の我が家の食事の風景は『宏が如何にたくさん食べれるか』が大切だったので、どんなにゆっくり食べようが食べ終わった時にたくさん食べれたら大丈夫だったし、姉二人には卵1個を(昔は貴重な食べ物だったので、春子お姉さん御免なさい。)分けあっても末っ子の私はまるまる1個が食べれたし、私が好きな食べ物はいくらゆっくり食べても『宏に残しておくべし』の状況だったのです。だから極端な話し食事をしながら寝ていたとしても「宏は疲れているのだからゆっくり食べなさい」が許されていたのだと思います。つまり食べるのは滅茶苦茶遅くても良かったのです。食べることが遅かった私の生活が一変したのは26歳の時に児童養護施設の指導員になってからです。就職した当初はそれほどの役割もなかったので、50人近くの子ども達の中には食事の遅い子や私のように食事中にうとうととする子もいて、私の食事がゆっくりでも何の問題もなかったのですが入職して半年もすると私が食事中であっても色々な指示を出したりしなければいけなくて、(殆どわめいていたように思います。)それでいて出して頂いた食事は完食しなければいけないので、極端な言い方をすれば『生ま呑み』(巳年だから大丈夫)だったので、自ずと食事のペースは早くなり、今でも会合なんかでお弁当が出て多人数の方と食事を頂いている時、大抵は圧倒的早さで一番になってしまい時間を持て余してしまいます。「ゆっくり食べなければ」とは思うのですが40年も続いている流儀はなかなか変えられません。そう言えば一昨日(10月16日)の昼食が次のお約束の時間までに時間がないけれども、同行して頂いている方にまでコンビニのおにぎりと言うわけにもいかず、比較的融通を利かせてくれる中華の店に飛び込みランチを依頼して私にとっては当たり前のように完食したのに同行して頂いた方はまだ半分位しか食べられていなくて、私が食べ終わったのを見て慌てて食べられていたので、これは反省をしなければ・・・。食事の食べ方は早くなりましたが、末っ子の特権のような習慣はまだ残っています。それは、好きな食べ物は最後に食べると言う習慣です。だから、お寿司屋さんに行っても最後に残して食べるのは『まぐろの握り』です。早くなった話が長過ぎましたが、次に『早かったのが遅くなった話』をします。それは、『お風呂に浸かる時間』です。お風呂の時間が長くなったのはそんなに前からではありません。『カラスの行水』的な生活習慣は父進譲りです。どちらからと言えば熱い風呂に入ってあっと言う間にあがっていたのですが、かなりゆっくりになったのは、20年程前から、『唯一のリラックスタイム』と言う事で、情緒が落ち着いているときにお風呂で歌を気持ち良く歌うようになり、30分程度入るようになったのです。そして、特に長くなったのは、このコラムを連続更新するようになり(平成30年8月24日から続けてます。)家に帰ってからコラムを書かなければいけない時には、家に帰るなりお風呂に直行して、ぬるい風呂にゆっくり浸かりながらガラケーの携帯でコラムを打つのですが、下手をすると「気が付けば一時間をはるかに過ぎて入っている」と言うことが度々です。しかしながら、「ゆっくり入っている。」とは言え、しっかり洗っているかと言えば・・・。ぬる~~~いお風呂にゆっくりと言うかじっくりと入っているので体の芯まで温まり(夏場は必要ないのに)最後には頭から水をかぶって出てきます。こんなお風呂の入り方は滅茶苦茶贅沢な事だと思いますがリピーターの皆さん今の私は頑張っているのでこれ位は許されますよね。

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