岐阜新聞の取材を受けました

令和2年12月14日

1週間程前に『てるてる座』の座長から「洞戸の書道家でビー紙1000枚に演歌の歌詞を書くと言われて残念ながら800枚位書かれて亡くなられた方の書を貰って貰えないか」との連絡があり、私の方が快諾すると再び座長の方から「出来たら新聞社の方に取材して貰いたいのだけど」と言われたので、最近新規事業である盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の取材に来て下さった岐阜新聞大垣支局の記者の方に連絡すると、「12月14日なら行けます。」との返事を頂いたので、早速座長の菊川さんに連絡をして、本日10時に優・悠・邑 和合で10時からの予定だったので家の迎えを8時45分にして助手席に乗って出かけました。助手席に座って思った事は「助手席だと電話などの仕事が一杯出来るな」で和合に着くまでにしっかり色んな所に連絡が出来ました。

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9時20分には和合の施設に着き、理事長室の椅子だけでは足らないのでウロウロしていると、書の提供者の方が6人みえ、車の中の書を運んで頂いていてビックリ。だって、滅茶苦茶量が『半端ない』「座長が言われていた800枚、何てもんじゃない。」書を提供して頂いた方は5人姉妹で、その内の4人の方が見えているので理事長室は賑やかにぎやか・・・。賑やかな状態の中で岐阜新聞の記者の方が来てくださり、記者の方の質問に対して答えられた内容をまとめると『40歳の頃から書を独学で始められ、近所の家の表札を書いたり、店屋さんの掲示物を書いたりされていて、77歳の時に演歌の歌詞を和紙に10000枚書くと宣言され約3000枚書かれた81歳の時に亡くなられ、書斎にされていた家を17年間そのままにされていて、遺品の整理の中で「燃やすのは惜しい」と言う事で大垣市万石のお身内の方が地元の敬老会長さんに相談され、てるてる座の座長さんにつながり今回の取材になったわけです。

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800枚と言われていたのよりはるかに多い作品に新聞記者のインタビューで私は、「岐阜県老人福祉施設協議会の会員施設に呼び掛けて多くの方に喜んで頂けるように働きかけたいと思います。」と答えていますのでリピーターの皆さん。私はまた一つ役割が出来ましたが。多くの方が喜ばれる姿を描きながら頑張りたいと思います。きっと17年間書斎に眠っていたものを多くの方に見て頂けるので、ご本人も天国で喜ばれてみえると思います。だって娘さんの話では「ご縁を大切にいなければいけない」が口癖だったと聞きましたので。

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私は67歳ですが

令和2年12月13日

昨日の自民党岐阜県連の講演に引き続いての懇談会の席の会話のなかで「会長さんはおいくつですか」と聞かれたので、「昭和28年生まれですので67歳です。」と答えると「そんな風には見えませんし、67歳で大きな施設を計画されているのは驚きですね。」と言われたので、私はその返答に困ってしまい苦笑いのような状態になってしまいました。私がその時思ったのは「60歳を越えての事業が駄目だとかと考えた事がないのです。事業を必要とされている方がいるからするのです。」と答えたかったのですが、流石にキザに聞こえてもいけないと思い止めました・・・。

私は26歳から38歳の13年間を児童養護施設の指導員として、理郎構築も何もしないで『その子にとって何をすべきか』を寄り添いながら考えて仮説的なプランを考え実践してきました。そのベースにしたのは『それぞれの子どもに鎧を身に着けさせる』と言うもので、先ずは高校全入を目指しました。そして、その実績を構築していく中で先輩から後輩に受け継がれて高校全入と共に短大、専門学校、大学等に進学していく流れも出来ました。そんな展開の中35歳の時に厚生省公認で資生堂財団の支援によりアメリカの児童福祉を学ぶ研修に参加させて頂き「アメリカでは福祉に対する評価が高く、一人ひとりの子どもに対してのケアが手厚い。アメリカの5年後が日本に来るのであれば、私自身が先駆けになる。」と考え、研修終了後無鉄砲にも児童施設を私の代わりの職員との引継ぎだ出来たら退職する決断をして、結局38歳で退職しました。

退職をして痛感したのはフリーランスの現実の厳しさでした。大学や専門学校での非常勤講師(多い時には週に13コマ)と家庭教師を収入源にして在宅で親子共々厳しい状況に置かれている相談を受けていたのですが我が家の預貯金で補う生活を強いられました。そんな中で『拠点が無ければ思うような展開は出来ない。』との当たり前すぎる事に気が付き、『情緒障害児短期治療施設』の計画に着手して、土地の提供者と共に業者に無理を言ってパーツまで作成してその当時の岐阜県児童家庭課に行って検討して頂いたのですが、結論的には「当面は高齢者福祉施設への予算を優先させる為に児童福祉施設はここ10年は建設する予定はない。」と言われ現実の厳しさを知りました。仮に10年後に完成したとしてそこからのスタートで理想に燃えて頑張れるのかと言う葛藤の毎日で悶々とした日々の中「若山さんの福祉への思いを高齢者施設で実践したらどうか。それだったら協力も出来るのだが」との話を頂き、その後大いに悩んだ末、ハード面の知識と高齢者施設にかける先駆者の思いを勉強する事にすると共に関ケ原町の高齢者の実態調査をその当時の民生委員児童委員協議会の協力を得て実施して、近い将来には特別養護老人ホーム等の受け皿が必要な事も理解しました。

そして、紆余曲折を経て完成したのが私が生まれ育った関ケ原町今須に平成10年5月から事業開始した本部本館施設(入居50床、ショートステイ20床デイサービスB型)で、私が44歳の時です。2年間の措置施設としての時代を経て平成12年4月から介護保険が導入され、特別養護老人ホームの需要が高まり、平成16年4月には新館としてユニット型特養40床の増床をさせて頂きました。この増床は地元の需要に応える形で計画したものです。そして平成26年4月に開設した優・悠・邑 和合(入居80床、ショートステイ18床)はその当時の大垣市の特別養護老人ホームの実態は平成15年以降に多く建設された事により、入居施設の75%、ショートステイに至っては80%が個室と言う状況だったので、多床室の必要性があるとの考えでの計画でした。そして、今回の盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の計画は「47都道府県の中で富山県、岐阜県、鳥取県、沖縄県の4県には盲養護老人ホームがなくて視覚障害者の方の不安を払拭したいとの強い思い入れの中での計画です。」

私は社会福祉法人の使命は地域のニーズに応えながらの展開こそ肝要との思いを常に持っています。次に私が考えている展開は『拠点作り』が出来て来た今、児童福祉の世界の中で自立出来ないでいる子どもたちと介護を中心にしている中での人材のマッチングが出来ないかと考えています。本部施設には中学を卒業して職につきもうすぐ3年が経過して頑張っている子もいるので、雇用に対しても貢献出来る法人を目指したいと考えています。リピーターの皆さん。こんな考えでいる理事長がいる法人ですが今後共見守っていて下さい。

 

朝5時30分から気合いを入れてます

5時に目覚めて外はまだ真っ暗なので布団の中でもじもじしていたのですが、「せっかく目覚めたのに時間が勿体無い」と考えて5時30分に跳ね起きました。そして、身心共にスッキリとした頭でコラムを打ちながら戦略(そんな大袈裟なものではありませんが)を練る事にします。と言うのは本日は10時から当法人の評議員会があり、その前に法人の理事であり税理士の岩田先生との打ち合わせをしなければいけないし、評議員会が終わった後は、14時までに自民党岐阜県連本部に行き『政治塾』での講演と議員さんとの懇談会もあり、新規事業のアピールと私の福祉に対する熱い思いを語らせて貰うのですが、時間に余裕があるのは今しか無いので今考えている事を今日のコラムとします。【と打っていて7時ジャストに宿直者の水野相談員から夜間の報告メールが来て、一旦報告の画面を苦労しながら読んで(目が見にくいために)改めて思ったのは報告内容に継続性が出てきたなと言う事で、3日連続の早朝からの対応は本日はなさそうでホッとしてます。】戦略として先ず最初に考えたのは12月1日付けで吉澤統括部長を新規施設の施設長予定者として、本部付け職員にしたので、勿論新規事業に関わる業務を主体的にして貰うのですが、吉澤統括部長は北欧式トランスファーを身に付ける為に本場デンマークまで研修に行かせて、指導者としても場数もしっかり積んでいるし、認知症指導者研修の受講も終えて認知症の指導も専門性を持って出来るので吉澤統括部長が和合の新設により移動してから本部施設の職員の中で理事長である私の思いが希薄化している状況にある北欧式トランスファー及び認知症への思いへの再構築を担わせていかなければ、私が話の中でしている事が事実と異なると本日の自民党県連での政治塾でのモチベーションが上がらなくなってしまうので、吉澤にその巻き直しを委ねていきたい。吉澤であれば必ず私の期待に応えてくれると考えています。10時からの評議員会は6月に行った決算に伴うもの依頼ですが本来はこの時期に評議員会を開催する必要はないのですが、新規事業においての補正予算とその展開を評議員の皆さんにもご理解して頂きたくての開催です。急ピッチで作業が進んでいる事についても理解して頂けるものと確信してます。10時からの評議員会の前まではばたばたしていて評議員会は補正予算や新規事業の議題も含めてご承認頂き、会議終了後は評議員である谷口町議、淡川元連合自治会長私の3人で今後の関ヶ原町について話をしていて、結構な時間話をしていて、2人をお見送りしてから慌てて昼食を頂き、今は吉澤 新規施設施設長予定者の吉澤の運転で自民党岐阜県本部に向かっています。本部の役員室で 待っていると、私の前に講演をされた神奈川大学教授の方が入ってみえたので名刺交換をして、先生の見送りをしてから講演会場に移動して福祉のいろはから新規事業について話をしていくと、予定時刻になっても話していたので、司会者の方をやきもきさせてしまいましたが何とかまとめあげ無事に講演を終える事ができました。参加者は地方議員のや議員を志してみえる方ばかりで熱心に聞いて頂けました。リピーターの皆さん。このご縁を大切にしていくのが私の真骨頂です。今後の展開とその報告に期待して下さい。

明日は午後から自民党ぎふ政治塾で講演です

令和2年12月11日

今年の8月に自民党県連の事務局次長さんが当法人の本部施設(関ケ原町今須)においでになり「12月に行われる自民党政治塾でお話をして頂きたい。」との依頼を受けたので、「私のようなものが、議員さん達を前にしてお話をさせて頂いて良いのですか」と正直な気持ちでお聞きました。すると次長さんから「岐阜県の中で高齢者福祉をお話頂くのに若山会長をおいては考えられないでしょう。」と言われて私は内心「そんなわけないでしょ」と思いながらも「そこまで言われるなら老人福祉協議会の代表として恥ずかしくないものにしなければ」と思いながら快諾させて頂きました。

それから日常的に全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会委員長として、岐阜県老人福祉協議会会長として、勿論、優・悠・邑の総合施設長としての仕事の他に新規事業についても色々な事をこなしている内に日々があっという間に流れてしまい1週間前に次長さんから「予定して頂いていると思いますが宜しくお願いします。」と連絡を貰い「恥ずかしい事は出来ないので頑張って資料造りをしなければ」と思いつつも前日の今日になって慌てて資料作りをしています。(まだ、当日の朝早くでないだけ良いのかな・・・。)明日の話の内容は『福祉に対する熱い思い』を語ると共に『新規事業への熱い思い』もしっかり語りたいと思っています。

私は講演での話し以上に県議会議員や市町村議員さんとの意見交換会で色々な方とご縁を頂けることを楽しみにしています。意見交換会では優・悠・邑 和(なごみ)の開設とともに施設長に就任する予定の吉澤統括部長も同席させて頂ける内諾を頂いたので来年4月に向けてのより一層の勢いを得られたように思っています。昨日の新規事業の打ち合わせ時に来週の気温は上がらず雪になる恐れもあり、生コンが打てない時があると予定がずれ込み日程的に厳しいとの事だったのですが、『思いは通ずる』で、天候にも恵まれる事を信じて、明日の政治塾での講演も頑張りたいと考えています。

リピーターの皆さん。私の生き方は私の家に静慈圓先生の書である『平安之福』の掛け軸がかかっていますが、まだまだその域に達していませんが、目が見にくくて車での移動では、職員に迷惑を掛けながらの毎日ですが、手術の前日の1月4日の入院予約まではがむしゃらに頑張りますので宜しくお願い致します。

だれの為の図書館なの

令和2年12月10日

関ヶ原町の広報を見ていて、私には不思議だと思った記事があった事について書きます。それは、関ヶ原ふれあいセンター内の図書館の案内でした。そこには、『年末年始の休館日』のおしらせで、令和2年12月28日~令和3年1月4日となっていて『この期間は、毎年返却ポストがいっぱいになります。本が傷む原因になりますので、延滞されている本はなるべく図書カウンターまで返却いただき、気持ちよく新年を迎えましょう。』と掲載されていたので先ず私が思ったのは、冬休みの期間に図書館で本を借りたい方も多くあると思うのですが、借りたい時に借りる事が出来ないのは如何なものか。と思った次第です。と言うのは私が平日の日にたまたまふれあいセンターの図書館を訪れた時には閑散としてました。お正月に図書館で借りた本をゆっくり読みたい方がおみえになるのではないかなー。と思ったから。まっ、そんな時は大きな本屋さんに行って購入すればいいのか・・・。

2つ目に思ったのは年末年始8日間もの休館と言うのが許されるのは如何なもんか。図書館と言え『サービス業』の位置づけだとすると、8日間の連続休館は考えられない。当法人の本部施設にあるデイサービスは平成10521日の事業開始で1年目の年末年始のお休みを施設長である私の許可もなく関ケ原町デイサービスと歩調を合わせて長期の休みのお知らせをしたとの事後承諾に激怒しましたが、(事業開始当初はそんな状態だったのです。)あとの祭り。この考え方を私は相いれない考え方。つまり、利用者本位の考え方をするなら「例え一人の利用者さんでも元旦からお風呂にもゆっくり入りたいし楽しみたい。とのお考えの方があれば事業を止めるべきではない。」との強い信念と職員の協力を得て2年目からは年中無休でデイサービスを実施してます。但し初めての元旦の利用者は1人でしたが、介護職員、看護職員、相談員の3人のスタッフを揃えて実施しました。「1人の利用者しかいないので止めるべきでは」との意見もありましたが、「1人でも利用したいとの申し出がある以上休むべきではない。」との強い意志で実施しました。そして翌年の正月は3人で、翌々年には9人になり、今年の正月の実績も9人でした。私にとっては、「お正月にも関わらづデイサービスをご利用して下さる有難い方々」と言う事です。

福祉とは「誰もが幸せになる権利を持っている。」ことであり、サービスとは「利用者さんにとって心地よいもの」と考えています。そんな中で福祉事業であれ、一般企業であれ『素晴らしい人材』に恵まれる事が素晴らしい事業の展開には不可欠です。そこで、リピーターの皆さんにお願いですが、新規事業の盲養護老人ホームは来年4月開設の運びです。岐阜県初(唯一)の盲養護老人ホームで杉和会の夢と共に働きたいと思っている方に是非エントリーして頂きたいのでご紹介も含めて宜しくお願いします。

 

昨夜の障害者施設・高齢者施設のコロナ対策検討会

令和2年12月9日

目の調子が悪いので、「ゆっくりと運転しなければいけないし、古田知事も出席されると聞いているので余裕を持っていかなければいけない」と考えて17時には施設を出て、明日は私の車を長男が運転して名古屋市立病院に行かなければいけないので途中でガソリンスタンドに寄っただけなのですが、軽自動車にも追い抜かれるような慎重運転で、と言うより、そんな運転しか出来なかったのですが、取り敢えず岐阜県庁に着いたのが18時10分。急いで4階まで階段で上がると、健康福祉部のいつもお世話になっている職員さんにそれぞれ挨拶をして指定された席に案内して頂き資料の確認をしていてはたと気が付いたのは私の向かいの席が知事さんでその隣が副知事でその隣が健康福祉部長でその隣が次長さんで・・・。このメンバーが勢揃いされた会議は初めてだと思いました。

定刻になり古田知事の挨拶の後は次長さんからの県内の状況説明に引き続き感染症専門のお医者さんからより具体的な分析があり、その後意見交換の時間になり、進行役の健康福祉部長さんからいの一番に老施協会長の私を指名して下さり、若干の動揺はありましたが話し始めると次々と話が出来ました。自分でも驚くくらいに次々と話し出来たのは私の頭の中で誰かがアイデアを指示しているような感覚を持ちました。私の発言に古田知事が大きく何度もうなずいて下さったのには正直安堵しました。

私の話の中では全国各地からの情報を交えて出来たのは、常日頃の情報提供者のお陰だと思っています。予定の終了時間の20時に終了して、いろいろな方々にご挨拶をして、車に乗り運転をしていて直ぐに顔がひきつってしまいました。それは行きの時よりも距離感や対向車のライトが消えたようになったりしたからです。行きの時よりもゆっくりとゆっくりと運転して何とか家にたどり着いた時にはどっと疲れてしまいました。

そんな中で本日は8時に長男誠の運転で名古屋市立病院の受診だったのですが朝食を頂いている7時3分に宿直の北島部長から看とりの方が昨夜亡くなりその家族の方がおみえになったとの事で電話を家族の方に代わって頂き私が施設に行けない事をお話して、今後の日程についての考え方をお伺いしてから、関ヶ原町役場や互助会(葬儀の依頼)お寺等に連絡してとバタバタしていると長男か迎えに来てくれたので、車に乗り込んでからも何件かの連絡。その間長男の運転で名神高速、名古屋高速と走ってくれたので9時過ぎには着き10時の予約には十分な時間に着いてくれたのですが紹介状はあるものの新患扱いの為に色々なところに行き、眼科では様々な検査をして担当医の所へ。担当医は12月1日に地元の博愛会病院で看て頂いた先生で約1週間で悪化したのでは無いかとときどきしながら検査結果を聞くと「前回の結果と変わりないので年明けのタイミングでの手術にしましょう。

手術は前回網膜剥離の執刀医をして頂いた先生にして頂きます。勿論私も立ち会いますし、術語のフォローは私がしっかりさせて頂きます。」と話して頂き、正直昨日からのもやもやは払拭されました。ただし、手術が無事に済みお墨付きを頂くまでは運転はしないで職員に迷惑をかける事になりますが事故をしては元も子もないので協力をして貰う事にします。リピーターの皆さん。射術で入院をするのに、ときかく事故なく今があることに感謝している私なのですが、この考え方は私的には好きなのですが変ですかね。

ドキドキです。

令和2年12月8日

最近、電柱などを見た時に曲がって見える事があり、「新規事業等でやるべきことが山積みで忙しかったから疲れていてそうなっているのかな」と思っていたのですが、少しずつひどくなっていて流石に不安になり、12月1日に新規事業の『建て方』のセレモニーを終えてから地元の病院の眼科を受診したところ、『黄斑円孔』(おうはんえんこう)と言う診断を受けたとの事は既に報告の通りなのですが、手術をするのであれば名古屋市立病院でして頂く必要があるとの事で明日(12月9日)しっかりと検査して頂きに名古屋市立病院に長男の運転で行く事になっているのです。

正直1週間が経過しての診断で「進行が速いので、なるべく早くの手術にします。」と言われたらどないしよう』と今からドキドキしています。『黄斑円孔』は失明の恐れはないと言われてもここは『まな板の鯉』。「30分の手術だし、うつ伏せが大変だけど大した手術ではない」とは言いながらも、正直今からドキドキしてます。「手術の日程は来年になってから」と私自身は高を括っているのですが、もしも「穴の開き方が大きくなっているのでなるべく早い時期に手術をします。」と言われたらどないしょ。だって12月28日まで予定がびっしり。年が明けてからの調整なら何とか出来るんだけど等と勝手な思いでいます。

しかしながら私の目はどうなっているのやら。60歳を過ぎてから両目共に白内障の手術をして、その後に右目は網膜剝離の手術(この時は診断された日が緊急手術でした。)そして今回左目の黄斑円孔。命には関わらないとは言え難儀な話です。目が弱いと言えば私の父進さんの目に対する逸話を二つ思い出しました。一つ目は生まれて初めてメガネをかけた時に家の屋根を見てメガネをかけるまでは屋根がなみなみに見える事は無かったのにしっかりなみなみに見えたので感動した。と言うのと二つ目は極端な近眼で兵隊での検査でなかなか合格せずに30歳を過ぎてから戦争に行ったとの事です。(そんな状態だから戦争には負けるわけです。)私は父進さんと違って本を何時間でも読んだり出来るような性格でも勤勉家でもないので、目を悪くする理由はないはずなのに・・・。

本日はこの後、18時30分から岐阜県庁4階の特別会議室で古田県知事さんも同席されてのコロナ対策会議があり、私も岐阜県老人福祉施設協議会会長として参加しますので本日のコラムはここまでとしますがリピーターの皆さん、私の目が手術を無事に終えてより頑張れるように祈って頂けますか。

 

 

新規事業でやるべき事が山積みです

 

令和2年12月7日

岐建さんにお願いしている新規工事は天候に恵まれ尚且つガッツと緻密な計画を立てて頑張ってくれる高橋監督とそのスタッフに恵まれ、下請けの職人さんもその意気込みにこたえようと一生懸命に作業をして下さっています。勿論、高橋監督以下方は平屋の2700平米の木造建築への思い入れも強くお持ちだからこその頑張りだとも考えています。

そんな中で昨日広報であるホームページやパンフレットや新聞折り込み等を一手にお願いしている会社の社長さんに日曜日にも関わらず来て頂き打ち合わせをしました。その話し合いをしている時につくづく思ったのは「やらなあかん事が山積みや」と言う事です。その中でも、『岐阜県初の盲養護老人ホーム』なのに一部の方にしか広報されていなくて世間一般には周知されていないと言う事です。盲養護老人ホームの運営が開始された時の初代施設長に任命し、正式に12月1日に辞令をだした前吉澤統括部長はわずかな期間でその事に気づきました。(いやいや私が理事長としてやりきれていなかっただけなのですが。)そこで先ず手始めに当法人のホームページのトップページに『盲養護老人ホーム優・悠・邑   和(なごみ)』の記事を載せるように打ち合わせをしました。

それに合わせて、特養にはない職種である『支援員』等の給与規定を決めなければしっかりとした採用につながらないし・・・、年明けの3月末で養護老人ホーム清風園の終了による引き継ぎもしなければいけないし。厨房業者のプレゼンもなるべく早くに決めなければいけないし。明後日に名古屋市立病院の眼科受診によっては目の手術の予定が決まると少なくても2週間は身動き出来ない状態になってしまうし・・・。上り坂、下り坂の他の『まさかの坂』が来てるやおまへんか。アホな事言うてるばあいやない。いつも言ってる予定は未定で決定ではない事がわかっているならもっともっと前倒しで事を進めていかんかったらあかん。今回の新規事業は岐阜県初の事業なんだからもっともっと緻密にやらなあかんと昨日の打ち合わせで思った次第です。

と言う事はもっともっとギアを上げていかなあかんと言う事。手術での入院で立ち止まらなあかんのだから手術の日までは10日分を1週間で休みなく(今も休んではいないのですが)やる覚悟で頑張らねばと考えている私です。行政の方々は効率的に仕事をしなさいと言われますが、私の生き方で何処をどの様にすれば良いのかこのコラムを読んでその事がわかるリピーター方は是非伝授して下さい。

昨夜の翔&誠の(いやいや、誠&翔)誕生会の報告です

令和2年12月6日

焼肉屋での誕生会までに家で少し体を休めて万全の体制で『焼肉屋すずき』に奥様の運転で行くつもりだったのですが、滅茶苦茶忙しかったわけではないのですが、施設を出たのが17時過ぎで、一旦家に帰りもたもたしていると約束の18時ぎりぎりにしか着かないような時間になり、いつも言っているように『予定は未定であり決定ではない』状態に。私は意味もなく不機嫌になり、車に乗って暫くして、本日のスポンサーなのに財布も持たずにいることに気付きUターンして家に行き慌てて財布が入っているリュックサックを持ち再び車で目的地の焼肉すずきへ。すずきの駐車場に着くと、誠一家もちょうど着いたところだったようで、お店に入って行ったのですが本日の主人公の翔君が眠いのかぐずってばかりで、何ともならない状態の時に私は誠のちいさい頃の私の対応について思い出しました。

その頃の私は夕食を共にする事がなく、子どもが期限の良い時は調子よく抱いたりしていたのに、機嫌が悪く泣き出したりすると、直ぐに奥さんに手渡してしまうような駄目な父親だったのですが、誠が父親になり、翔をしっかりあやして入るのを見て感心している駄目な『じいじ』です。その後、翔の母親が翔を抱きながら席を離れて暫くすると機嫌が治っていて「流石に母親」。その後は会食が始まりやわらかい肉を翔は母親にキッチンはさみで切って貰って5歳とは思えない(何を根拠に言っているのかはわかりませんが)ペースで食べていました。私と誠夫婦は生ビールを翔はオレンジジュース、私の奥様は烏龍茶で乾杯。その後私と誠は辛口の冷酒を何杯もお代わりをしました。

この焼肉屋さんなのですが不思議な事に美味しいお刺身も出してくれるのでお肉の苦手な私も美味しく頂くことが出来ました。私の悪い癖でお酒が入ると大食漢になってしまい、しらすどんぶりもペロッと食べてしまい。お店に持ち込んだケーキも大きなイチゴが乗ったプリンも食べてしまい今は後悔しているのですがいつもの事と反省もしてません。

食事会が終わり孫の翔にのみ誕生プレゼントがあり、『ミニオンズの○○探し』を渡すと感動もんです。本に書いてある文章を読み探すのもどんどんやって最後のページまで終わるまでやり通しました。読んで意味を理解して探すべきものまで理解しているとは私にとって感動でした。私は大学の講義で『3歳までに語彙の量を多くしてその意味をしっかり理解するのが賢い子にする秘訣です。』と言って来たので、翔は正に『神童だ』。これはじいじのたわ言です。リピーターの皆さん。私にもこんな面があるのです。最後に「とほほ」の話でした。

早すぎるで、高橋社長・・・。

令和2年12月5日

朝8時に高橋社長の次男である専務からの連絡。本日10時30分から今須生活改善センターに置いてある『今須太鼓踊り保存会』が解散するに際して太鼓等を譲り受ける事になっていて、その搬送の為に2トンダンプを借りる事になっていたので、確認の電話だと思ったので、「こちらからかけないかんのにすまんね」と言うと専務が「車は施設に届けましたので大丈夫なのですが・・・」と口こもった言い方だったので「社長に何かあったのか」と聞くと「昨夜11時過ぎに亡くなりました。」との返事に思わず絶句し私は「最近元気がない様子だったけど新社屋の完成がもうすぐだ」と喜んでいたのに・・・。高橋社長は昭和30年生まれだから私より2歳も若いし、がたいも大きいし丈夫そうな身体だったのに。そこで本日は、高橋社長を忍んだコラムにします。

初めて高橋社長に会ったのは平成15年度事業で本部新館の事業計画をしていた時に、大垣で蒸籠蒸しと全国の美味しい冷酒を出してくれるお店のマスターから紹介を受けたのが初めての出会いでした。その時に私は「関ケ原町内に会社を構えているなら、マスターに紹介されるまでもなく施設に来たら良かったのに。ガタイがでかいのに気の小さい事で」と私自身でも上から目線かなと思うような言い方をしてしまった事を昨日の事の様に覚えています。その時からご縁を頂き、新館の造成について今須の業者さんの下請け業者として仕事をして貰ってから、池の清掃管理とか冬場の除雪等を良心的にして貰う中で1Kのアパート8部屋を2棟建てて頂いた他にも防災庫や、屋台を入れる倉庫なども建てて頂きました。

入札は勿論、ガチンコの入札であっても他の業者さんが驚かれるような数字で札を入れて頂きました。親しくさせて頂く中で、毎年実施している夏祭りやお餅つきでは、従業員の方も動員してこまごまとした作業もして頂きました。ある時高橋社長に「どうしてこんなに安い価格で入札を入れて貰えるの」と聞いた事があります。すると高橋社長は「今までの仕事は殆ど下請けでの仕事だったので、下請けの価格で入札するので自ずと安い札を入れても大丈夫なのです。それに、社長の手当はこの中に入っていませんので」との答えに「よくもよくもぬけぬけと」と思ったものでした。

こんな社長でしたが、ある時は私が高橋社長と話をして玄関先まで送って行った時に、次の打ち合わせの為に来ていた業者の方が「先程会われていたのは高橋社長だったですか。」と聞かれたので「そうですがどうして」と聞き返すと「若い頃自分も横着していたけれども高橋さんの姿を見ると怖くて隠れたものですから」との返事に対して私はしみじみ「若い頃の色んな経験が今の高橋社長を作ったんだ。」と思いました。なにかと言うと頼っていた社長は天国へと旅立ちましたが、会社は存在しているし、立派な社屋も近く完成して高橋社長の意志を継いで立派になされる事を高橋社長はきっと望んでみえると思いますので今後ともお付き合いしていければと考えています。リピーターの皆さん。本日のコラムは本当に個人的な内容でしたが、私は常にご縁を大切にしての展開をさせて頂いている事をご理解して頂ければ幸いです。

 

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