昨日の本館2階の夏祭りレポートです

 

令和2年8月14日

例年8月第1週の土曜日に地域行事のようになっている(参加者はボランティアも含めて約800人)夏祭りもコロナ禍対策の一貫として、大々的なものは『三密』をさける為に出来ないと言う事で、今年に限って(来年の事はわかりませんが)本館2階が12日、新館1階2階が14日、本館1階が16日でデイサービスは1週間実施することになり、それぞれのフロアの職員が知恵と体力を駆使して、入居者さん利用者さんの協力を得て準備をしてくれました。

そして昨日は本館2階の夏祭りだったのですが、事前に2階の西村課長と伊藤主任から「神輿を作ったので理事長に十八番である北島三郎の祭りを歌って頂き歌に合わせて神輿で入居者さんの回りを練り回りたいと考えています。」と言われて、勿体振るのは苦手なので「喜んで」と言う事で衣装も一枚替えて歌わせて頂きました。3月以降外で飲む事も歌う事もなかった割りには上手く歌えたと自惚れています。本館2階の職員は休日の職員も来てくれて、また、事務所の職員も協力してくれて、職員が生き生き動いてくれたので、私は歌の出番(結局3曲歌わせて貰いました。)以外はかき氷やアイスを食べたり、入居者さんとヨーヨー釣りをして楽しませて貰いました。殆どの職員は入居者さんが喜ばれている様子を喜んでいるのを見て、私は喜んでいました。神輿についてはオファーがあれば他のフロアに貸しても良いと西村課長が言っていたのも頼もしく思っています。改めて23年の重みを知った次第です。

明日は新館の1階2階の祭りです。企画の中で本物の金魚すくいをしたいとの事で玄関先に設置してある珊瑚のメンテをお願いしている大垣の『view』さんに金魚の依頼をしたところ、200匹程度なら無償で提供して下さると言う事で、例年よりも立派な金魚が手に入りました。ちなみに昨日はヨーヨー釣りと一緒におもちゃの光る金魚をすくって楽しんで貰ったのですが果たして本物の金魚ではどんな楽しみ方をされるのかが楽しみです。

ところで、合掌苑から施設体験2度目の高校生男子がいる新館での祭りなので、彼の祭りでの動きも楽しみの一つだと考えていたのですが、先程(1800分)合掌苑の施設長さんも彼の様子も気になるようで明日当施設に来て頂けるとの連絡を頂き、彼は本当に恵まれた中で育てて貰っているのだと30年前児童施設の指導員だった私としては嬉しい限りです。今年の夏祭りはコロナ禍の中、例年のような大大的な夏祭りは出来ませんが各フロアにオリジナリティがあり、災い転じたと思うと『コロナ禍だからできる』夏祭りと言う事でリピーターの皆さん、我が施設の職員は頼もしいと思いませんか。私は明日も張り切って歌を歌います。さてさて私も昨日とは違う衣装での登場にわくわくしてます。

 

父進の命日に思う

令和2年8月12日

父進が今の私の年齢(67歳)の時に私の目からどのように見えていたかと言う事について、命日の今日書く事にします。私は父進が42歳の時の子なので67−42=25歳。25歳と言えば私が教員を辞して父進さんにさり気無く勘当され私自身は半年近く旧徳山村で飲めや歌えの生活をしていた時期にも忍・忍を通した忍耐力は今の私にはいやいや10年後の私でも無理。と言う事は父進さんの忍耐力は計り知れないものを感じています。

私が結婚した30歳過ぎに(私の結婚記念は30歳と10日)父進さんと晩酌を共にすると、かなりお酒も弱くなっていたのか、「宏は今須生まれの今須育ちだから分からんだろうけど、父ちゃんは垂井から養子に来たので、70過ぎて宏より長く今須に住んでいても養子としての扱いを受ける。」と愚痴を言う事が度々ありました。父進は30歳を過ぎて遅くから(極度の近視の為になかなか兵隊さんになれなかったのに元気な男子がいなくて駆り出されたように聞いてます。)戦争に駆り出され、終戦後はどのような経過かはわかりませんがシベリアに抑留され捕虜の生活を1年近く過ごして日本に帰還したと聞いてます。戦争時代の話しの中には、はるかに年下の上官に随分理不尽な振る舞いをされたことや、上官の中には報告書を上手く書けない方がいて代書して喜ばれた事もあったとの話も聞きました。

シベリア抑留で捕虜の生活を強いられていた時には、ゼンマイの腕時計をロシア兵に取り上げられ、しばらくすると、取り上げられた時計が捨てられていて、再び自分のものにするとまたまた取り上げられると言う事があったと不思議な話を聞いてその種明かしはロシア兵の中には腕時計のゼンマイを巻く事を知らないからと教えてくれました。父進の忍耐強さは戦争中の『ひもじさ』『理不尽さ』を経験したたまものなのかとも思いますが、抑留先から帰り教員に復帰された頃の父は「とても怖い軍隊式の先生だった」と聞いた事がありますが、昭和30年代に父進の教え子の方の話を聞くと滅茶苦茶温厚な先生だったとの事だし、父進さんと一緒に教員生活をされた方々の話を聞くと「温厚で大変人情味がありいろんな面でお世話になった。」との話しばかりで、色々な情報をトータルすると、戦時中の軍隊方式の考え方を戦後の民主主義の考え方について理解してきちっと実践してきた。

表現を変えるとするならば時代の流れを読み形にしていき、苦労した経験により忍耐強い性格になっていったんだと思います。私は戦争を知らないし、その体験を想像すら出来ません。戦前、戦中、戦後と言う時代の激変期を体験された父だからこそ出来の悪い息子『宏』に対しても心広く信じてくれたからこそ今の私があるのだと思うと命日の今日お墓にお参りして頭を垂れるだけではいけないと思いつつ1年に1日だけでも父進を忍ぶのも親孝行の一つだと勝手に思っている私は何なんでしょうか。リピーターの皆さん。こんな私ですがこれからもよろしくお願いします。※本館2階の夏祭りレポートは明日にしますので乞うご期待と言う事で。

前回の半沢直樹での言葉の中で

半沢直樹が部下を諭すように言った『正しい事を正しいと言える事』『組織の常識と世間の常識が一致している事』『ひた向きで誠実に働いた者がきちんと評価される事』に対して部下が『当たり前のように聞こえますが奥が深いですね。』と言った事に対して半沢は『自分の為だけに仕事をするのではなく、客の為にする。強いては世の中の為にする。』には私自身『うんうん』と頷きながら私自身の生きざまとダブらせていました。今回の新規事業は岐阜県の福祉事業の観点からの必然だと考えています。一昨日の日曜日に視覚障害者協会の役員の方とお話させて頂いている中で『待望の施設が出来る』と喜んで頂けました。岐阜県にない施設を作るのが岐阜県老施協会長としての使命であり、喜ばれる施設を作る事は私にとっても至福の喜び。このような生き方が出来る自分は何て幸せ何だろうとも思っています。話しは変わって、本日は午後から全国老施協東海北陸ブロック会長会議がウェブ会議で実施されました。議題は2つあり、1つはブロック研修大会をこのコロナ禍でどのように進めていくのか。2つには各県のコロナ対策を組織としてどのように行うべきかと言う事で結局はコロナ禍でどのように組織を運営していくのかと言う事でした。結局のところ『コロナと如何に上手く付き合っていくのか』と言う事だと思います。その対策は私はシンプルに手洗い、手指消毒、うがいの徹底と不要不急の理解を職員に徹底することが大切でコロナ禍の終息を待ち、終息してからのスタートダッシュができるようにしておくべきだと考えています。明日は本館2階の夏祭りで私の北島三郎さんの『祭り』の歌に合わせて御輿を担いでのオープニングだと聞いてます。事前に聞いてしまったのでサプライズになりませんが、企画をした職員はワクワク感を隠しきれなかったのだと思うと『入居者さんに楽しんで貰うんだ。』との気持ちがビンビン伝わってきます。と言う事は本日のコラムの書き出しのように『自分の為でなくみんなの為に』に合い通じるものがあると思うと本部職員の心意気が心地良いです。法人設立23年で立ち上げて空中分解する寸前だった頃からの再生時はアパッチ野球軍(古い話でわからない方が殆どだと思いますが)のような集団が泣いたり笑ったり怒ったりしていく中で今の組織になったと思うと感無量です。どちらにしても一生懸命が一番大切だと思います。さて、明日は本館2階の夏祭りにどんなかっこうで登場しようか。わくわくだな。

明日、いよいよ建通新聞に掲載されます

令和2年8月10日

新規事業の盲養護老人ホームの計画はなかなか俎上に乗らず尚且つ、新型コロナウイルスの影響で地域住民への説明が実質的に2カ月半遅れ、垂井町との土地購入の契約が出来たのが5月12日で、契約を締結してからの町営住宅の解体と整地の入札執行日が5月30日で、6月中に解体と整地をして頂くのと同時進行で測量と土地利用計画作業をして頂き、デザインボックスの方で設計プランを作成して頂いたのを基に古田岐阜県知事からの建設に伴う内示を頂いたのが7月31日で、内示を受けての建設の一般入札の公募をする為の岐阜県高齢福祉課とのやり取りをして、ようやく明日8月11日の建通新聞で掲載する運びとなりました。

延べ床面積2850㎡の木造平屋建てのものに対してどれだけの岐阜県内Aランクの建設業者がエントリーして下さるのか、それとも全くエントリーして下さる業者がなかったらとドキドキの毎日が8月18日まで続くのかと思うと眠れぬ夜が続きそうです。私は午前中におみえになったお客様と色々なお話をさせて頂く中で、「会長さんはお金持ちだからこのような事業をされているのだと思っていました。」との発言に対して、平成6年からの特別養護老人ホームの建設に伴う紆余曲折について話をすると共に、「社会福祉法人は税金を納めない代わりに地域貢献の中で安心ある生活の一助になる事が使命何だ。」と答えて、先ずは自分が育った関ケ原の地で『介護保険導入前に特別養護老人ホームが必要になる』との思いで本部施設本館を完成させた頃の24年前の現実は認知症(当時は『痴呆』と言ってました)の理解も得られず平成10年風当たりの厳しい状況下でのスタートとなりましたが、少しずつ理解が得られ平成12年の介護保険法導入により、需要が増え地域のニーズが高まった平成16年に新館の増設が叶い、関ケ原町を中心としたエリアの安心に寄与してきたと自負しています。

そして、杉和会としてのエリアを西濃地区に拡げていく事が大切だと考え、その中でも低所得者層に対しての受け皿になる事の必要性を考えて大垣市和合に従来型の多床室の建設を平成26年に完成させました。そして本年度に岐阜県唯一の盲養護老人ホーム80床の計画をさせて頂いたのは、「岐阜県に盲養護老人ホームが無いが為に他県に行かなければいけない事が視覚障害者及びその家族に於いてどれだけ不利益な事か」と考えた時『社会福祉法人の使命としてやり切らなければいけない。』と考えたからです。平成26年に山形県に済生会と言う大きな法人が事業開始されて、岐阜県、富山県、鳥取県、沖縄県の4県のみに盲養護老人ホームがない状態からの脱却は視覚障害をお持ちの方にとっての朗報となり岐阜県の安心の一助になればとの思いでいます。

今日のお客様に言ったのは「決してお金儲けの為の施設作りではありません。但し、私自身お金がなかった時にも多くの支援者が有り出来た法人として出来る事は精一杯頑張って行きたい。だから盲養護老人ホームも頑張って完成させ岐阜県の安心に寄与しますのでご協力下さい。」とお話しました。リピーターの皆さん。私は常にこのスタンスですのでこれからもよろしくお願いします。

昨日、めっちゃ嬉しい連絡を頂きました

令和2年8月9日

8月4日から7日まで(実質3日間)施設の職場体験をした郡上の児童養護施設の高校3年男子が体験を終えてのお礼の電話と、もう一度12日から5日間の体験の依頼でした。電話を頂いたのは、送り迎えをして下さった指導員さんからのもので、帰りの車の中では「生き生きと体験した事をずっと話ししてくれて、あっと言う間に施設に着きました。」との事。指導して頂いている指導員の方も嬉しそうに話して頂けたのには私自身も嬉しくなりました。そして、「施設長にも参加して貰った報告会では書いたものも一切見ないで堂々としっかり発表してくれて嬉しくて涙が出そうになりました。」とまるで母親のように話されたのにはまたまた嬉しくなりました。私の思想の中には『一点突破の全面突破』と言うのがあるのですが、12日からの体験も上手くいき、次につながる様な仕組みを考えていきたいと考えています。

私はお陰さまで、今160人の職員が所属する法人であり、本部施設の敷地の中には1Kのアパートを20部屋も持つ組織の理事長として、「自分としては働きたいけど、今一勇気がでない」と考えている方の背中を押す為の一助になれば、38歳で児童施設の職を辞した時の思いの一つをようやく叶えれるのではと考え深いものがあります。先般岐阜労働局と岐阜県との共同開催で就職氷河期と言われている時代の方の救済策の為の会議があり、福祉団体代表で私が参加させて頂いた時に痛切に感じたのは、「提案されている対応の手法があまりにも縦組織になっていて横の連携が発想の中にない」と言う事に驚きを隠す事が出来ませんでした。

私が30年の間、思い描いてきたこととは、児童養護施設を退所したのに親の支援は得られず社会での活躍が許されずバーンアウトしているにも関わらず、支援がないままに立ち往生している状況でいる者に対して、就職のチャンスを与えれる横の繋がりの持てる支援組織を作りたいと考えています。『マッチング』の為の組織作りと言っても法務省、厚労省、文科省の垣根を取っ払う事は至難の技だし、何から手を付けて良いのやら。しかし、一人の人を手助けするのに領域にこだわっていたのでは何も進まない。だったら、出来る事から初めていくしかない。気が付いた者が気が付いた事をして行く事によって活路を見出だす事こそが肝要と考えています。もっと正直な事を書くならば「あんな清んだ目をした高校生を生かさないでどうするんだ」と言う気持ちです。大学時代の若き血が騒いでいます。『鉄は熱い内に打て』の格言通りに突き進みたいと考えています。

リピーターの皆さんもこの高校生にエールを。今度来た時には社会の厳しさの中の一つに『朝が弱い』等と軟弱な事は言わさんから。自分の道は自分で切り開く事の素晴らしさと大変さと達成感の喜びを理解できるように頑張らせたいと児童施設カリスマ指導員時代の血が騒いでいます。わくわくワクワク。

 

昨夜は絶食をして『半沢直樹』の録画をみました

あいからわず、『半沢直樹』はヒヤヒヤドキドキの急転直下の流れに引き寄せられながら観ていて、その中で『感謝と恩返しが未来に繋がる』との言葉に私自身の生きざまをダブらせていました。最近の私のコラムでも『感謝』と言う言葉はよく使わせて貰っていましたが、改めて『恩返し』と『未来に繋がる』についても私の生きざまの中で考えてみました。まず、『感謝』について述べる時、私が今生きている事すら『感謝』です。私が小さい頃、今須に診療所があり女医さんで本多先生、看護師さんで通称『つるちゃん』(正直この呼び方しか知りません)の二人の存在がなければ、我が家の軒下に酸素ボンベを放置することは出来なかっただろうし、心臓が5分程度止まって復活することはなかったわけだから。そして、勉強が嫌い(と言うより苦手)だった私が曲がりなりにも大学を5年で卒業し小・中・高の教員資格がとれたのは父進さんの滅茶苦茶大きな包容力と忍耐の賜物だと思うと『感謝』等と言う言葉だけでは意を尽くせないものを感じています。そして、大学を卒業し教員に名を繋げる事が出来たのも私の努力ではなくてこれまた父進さんが色々と根回しをしてくれたからだと思っています。そんな父進さんを裏切る形になったのは、25歳の時に勝手に教員を辞めた時の父進さんの心情を考えるとあまりにでかい父進さんの深くて広い心に感謝の気持ちしか浮かびませんが決して恩返しは出来てない自分がいます。但し、最近は父進さんや母秋江さんの事をご存知な方とお会いすると「お父さんが(あるいはお母さんが)生きてみえたら喜ばれるのに」との話がでるので、今『恩返し』をしているのかもしれません。だって、父も母も私の手の届かない天国なので・・・。私の人生は正直最初から計画性があったわけではありませんでした。ところが、半沢直樹のような急転直下ぎりぎりのタイミングとまでは言いませんが、それでもそれに近いタイミングで救世主が現れて今があると言っても過言ではありません。胃に穴が開くのではないかと思うほどの大ピンチの時に何度となく救って貰い、その都度私自身大きく成長させて貰いました。その出会いは全て『感謝』です。次に『恩返し』ですが、これはあまりに大きな出来事に対して小さな『恩返し』をした話ですが一つ書きます。それは、私が今須の地に初めて施設を建設する事になった時に(本部本館)資金作りの行脚をしていて、その当時の法人筆頭理事になって頂いた中部圏の福祉の重鎮であった吉田宏岳先生(当時日本福祉大学中央福祉専門学校校長)の家へお願いに行った時に即座に1500万円の寄付を約束して頂いた時には『感謝』等と言う言葉では言い尽くせない思いで「私のしてきた対応にそれだけの価値があったのか」と自問自答しましたが、先生の自坊で毎月第3日曜日にお参りと写経会があったので、先生がお元気で開催されている間は時期に合わせて山菜おこわとか竹の子ご飯とか栗おこわ等を作って貰い届けました。これは小さな小さな『恩返し』だったと思いますし、それが今(未来)に繋がっていると考えています。勿論、色々な皆さんに『今あるのは皆さんのお陰』と言う事で『感謝』を込めての『恩返し』の一つとして、『盲養護老人ホーム』の新規事業としてさせて頂いてます。と言うのも、岐阜県内のどの法人も必要性は理解していても「経営が厳しい」と言う理由で建設に至らなかったものに対して、関ヶ原と大垣の施設の頑張りの中で何とか視覚障害者の方々にも安心して頂けるようにすることも『恩返し』の一つと考えています。リピーターの皆さん私は土地もないお金もない中から今がある以上決してお金儲けでなく地域の方の為(関ヶ原、西濃、岐阜県と地域が拡がっていますが)なるために今まで以上に頑張りますのでこれからも宜しくお願い致します。

夏バテは体を休めるのが一番です

令和2年8月7日

昨夜は21時には眠りについていました。私のバテの症状はお腹が張るのがいつものパターンです。そんな時は軽めの食事と水分を多くとるのが最善策だと考えています。自分の体は自分自身が一番良くわかっているから。但し、若いときは自分の体力を過信して悪くなるパターンも多々ありましたが、悪くなってから「私は小さい頃虚弱児だったんだ。」と後悔する事が度々あり『反省だけならサルでもするぞ』を繰り返す時代もありました。仕事はバリバリと若い者にも負けない気持ちはありますが体力の衰えは歪めませんが、いい加減に経験則で補った対応をしなければいけないし、先程『仕事』と書きましたが、私の場合は『仕事』と言うより『やるべき事』あるいは端的に『使命』と置き換えた方が正確かも知れません。【ちょっと朝から(午前7時48分)かっこう付けすぎかな】でも、私に与えられた使命があればこれからも体力の限界の一歩手前まで頑張ります。先程、8月4日に児童養護施設の高校3年生の男子を宿泊を伴う体験学習で受けていて、3日が経過する日に寝坊したので起こして現場に行かせましたとの連絡。元々その積もりでいたのですが、午前中に指導担当の職員と共に呼んで指導したいと思っています。児童の現場から離れて約30年が経過してますが、『わずか3日、されど3日』の成果を聞くのを今からわくわくしてます。だって、若い方の成長は目を見張るものがあるからです。正直彼は介護職としての素質を持っていると見抜いています。その素質とは『優しさ』と『一生懸命さ』です。2つ共に持っている子はなかなかいません。但し、表現の仕方が下手だったんだと思いますが、今時の高校生としては本当にきれいな目をしてましたし、素直に聞く態度も気持ち良かったです。と言うのは午前中に「頑張って入居者さんの名前を覚えなさい」と言ったのですが、16時に帰る用意をしてから再び話す機会があった時には自信を持って名前が言えたし、入居者さんとの対応で嬉しかった事を一生懸命に話してくれました。児童施設の先生の車で帰る時には3日前に施設に来た時とは違い自信に満ちた様に見えました。久しぶりに出会いの素晴らしさを噛み締める事が出来ました。3日目にして寝坊した理由が入居者さんと9月に施設行事である『千巻経』に千羽鶴を完成させる為に入居者さんと共に鶴を折っていて、夜も一人で遅くまで一生懸命に折っていて寝坊をしたとの事だったので、「一生懸命に鶴を折ってくれた事は素晴らしい事だけれども、仕事に支障を来してしまったら本末転倒だ。お世話は決して一人で全ての事を担う事が出来ないのだから、しっかりと自分のやるべき事を考えて休む時は休む事も仕事の内だ。」と話をしたのですが、本日の記録の中で『やるべき事をしっかりやらないと迷惑がかかる。』と書いてあったのは、理解力と素直さの表れだと感じました。リピーターの皆さん人との出会いとは素晴らしいものだと改めて理解したのですが。お腹の張りはまだありますが少々食べなくても大丈夫な体だから(ガリガリになることはないので)しばらく忍にんで・・・。

またまた『予定は未定で・・・』

本日もタイトな日程になりそうなので朝は8時30分までに行こうと考えて7時からの朝食を終え「少し自室でゆっくりしよう」と2階への階段を上がっていた7時30分に私の携帯がなり携帯に出ると整地をお願いしている会社の社長さんから「今から会社を出て理事長印を頂きに行きますので」との連絡に「わかりました。施設でお待ちしてます。」と答えましたが、携帯を切ってからつくづく『年中無休で24時間私は働いているように思われてるのか、それとも電話をしてきた社長さんはマイペースの方なのか』と思いながら慌てて着替えて施設に出掛けました。だって、垂井からだとそれほどの時間がかからないから。

施設に着きしばらくすると、社長の代理の方がみえたので印鑑を押し、その後は10時からの全国老施協のホームページ検討会議の資料を読み終えると9時50分になったのでウェブ会議の準備をして(大分慣れました。)定刻に始まったので良かったのですが、終了時間が11時と聞いていたので、新規事業のデザインボックスとの打ち合わせを11時から予定していたのですが、11時30分までと言う事で直前の時間変更に慌てたのですが、会議直前にデザインボックスの社長から電話があり「プロジェクターが借りれないか」との連絡があったので了解すると共に11時30分スタートになることを伝えると共に昼食をまたぐ事は確実なので昼食の手配をして、ホームページの検討会議に参加しました。

会議は10人のメンバーで行われたのですが、論客揃いなので活発な意見が飛び交いました。勿論私もガンガン意見を言わせて頂きました。

定刻の11時30分に終了し、11時25分にみえたデザインボックスの3人の方が待ってみえる会議室に急いで行き、先ずは席に座り、7月31日に岐阜県知事から建設に伴う補助金の通知を頂き、それに伴う一般入札の建通新聞とのやり取りについて話をしてから、プロジェクターの画面を見ながらの説明と具体的な検討を行いました。今は新規事業について間違いなく展開されていくのを実感してます。

14時40分に終了してそうこうしていると運転手希望の地元の方の面接を終えて、昼過ぎに高齢福祉課からコロナ対策の協定書の確認をして欲しいとの連絡を頂いていて、16時30分に県庁に行くお約束をしてあったので、面接を終えて直ぐに県庁に向かいました。車に乗り直ぐに岐阜県老施協筆頭副会長の林君に連絡すると、県庁で合流してくれる事になり、16時30分から高齢福祉課で課長さんも交えてコロナ対策の協定書について5団体(老施協、老健協、グループホーム協、身障協会、知的障害者協会)共に参加出来る為の話と、5団体による研修会を実施する事もまとまりました。

本日は予定以外に2つの事も出来て本日も充実した1日であった事に感謝ですが、リピーターの皆さん。私は少々バテ気味ですので、夕食は軽く素麺を食べて今(午後8時25分)からおやすみをして、明日に備えますので早くに寝ます。明日は今日以上に頑張りますので。

異常に眠くて

令和2年8月5日

今(午前4時48分)目覚め、このガラケー携帯で本日からの予定を確認していて、充実した日程の中でも色々な考えの中で追加で予定を入れてます。あいからわずの日程に感謝しながら、昨夜の異常な眠さにこれまた『感動』してます。だって、夕食を食べながら少しのビールに酔っぱらい食事をしながらウツラうつらしていて(児童養護施設の指導員時代に夕食中に寝ている小学一年の子を見ていて大丈夫かと思っていましたが私も一緒や・・・)2階の自分のベットに横になるのがやっとでしたので・・・。

本日の予定の追加は10時30分からのかつての職員の再雇用の面談の前に時間があり、時間が勿体無いのと岐阜県とのやり取りの報告をすべきとの考えから垂井町へ9時に着くように日程を入れました。朝早くの目覚めは戦略を練るのには最高だと思っていますし、体調をベストに維持するのには、疲れを伴い眠気がきたら素直に寝る事だと考えています。

そして、この原稿を打ちながら(勿論ガラケーの携帯で)本館計画の為に奔走したり、必死にワープロの画面と格闘していた時(40代前半)は三時間睡眠でも平気だった事を。そして施設が無事に事業開始してからも夜間対応も多くて、資金を補う為に非常勤講師も掛け持ちしていて、休み無く仕事をしていて、その当時の関ヶ原病院(現診療所)の看護師さんが「もうそろそろ若山さんが入院するのではないか」と噂していたとの話を風の便りで聞いた事が何度かありました。

そう言う意味では今は健康で入院することのない生活にも『感謝』です。もちろん油断は禁物だし、無茶が出来る程の体力がないことも承知してます。今は午前5時20分で少し眠り7時からの行動開始に備えますのでリピーターの皆さん原稿書きを中断します。(再び原稿を書きます。今は午後6時18分でお風呂です。)垂井町役場に向かいながら全国老施協の平石会長に滋賀県の特養でクラスターが発生して滋賀県老施協会長からの情報を伝えると共に本日の岐阜新聞朝刊でのグルーヴホーム協会のクラスターに対する投げ掛けに大いなる疑問を持ったので、岐阜県庁の担当者に私なりの意見を伝える連絡をしました。(移動時間も有効に使えたと自画自賛です。)垂井町役場では高齢福祉課の課長さんと係長さんに岐阜県知事から建築に伴う内示が頂けた報告をすると共に今後のスケジュールが円滑に行くようにお願いして再び施設に戻り、かつての職員の面談を行い、新規事業の建通新聞掲載の打ち合わせを吉田部長として、昼食の日本蕎麦をかけ込み13時からは厨房の委託業者の挨拶を受け、14時からは11月11日の介護の日の打ち合わせを林副会長と業者で打ち合わせをしました。

業者の方との打ち合わせごに林副会長と今後の老施協について話し合いました。その間も建通と岐阜県高齢福祉課とのやり取りを指示して建通とのやり取りを17時40分に終えて、建通の最終校了は明日朝イチで確認する事として本日の施設での業務を終了して家に帰ってきた次第です。リピーターの皆さん。新規事業も色々な方の協力があってこそです。改めて頑張れる私の体に感謝と皆さんの温かい支援に感謝です。

朝イチの予定の追加が入りました

岐阜県庁に向け8時30分に行く予定を新規事業の事務を担っている吉田部長と話をして昨日の施設での一日は終わったのですが、家でお風呂に入っている時に携帯がなり、「どうしても午前中にお会いしたい。」との連絡を頂いたので8時にお会いする約束をしました。あいからわずの『予定は未定であり決定ではない』の思いです。私はお約束の予定が入ると直ぐに今コラムの原稿を書いているガラケーの予定表に打ち込むようにしているのですが新規事業による関係もあり、一日の予定がどんどん打ち込まれます。忙しい毎日をこなされている方に『秘書』の存在があるのは良く理解出来ますが私には秘書を置くような環境では無いので秘書代わりのガラケーと言う事です。最近は久方無いのですが、お風呂まで携帯を持ち込むのでお風呂に沈めてしまうことが何度かあり慌てた事が何度かありました。【ここまでの(午前6時52分)原稿は朝目覚めて打ちました。さてさて家を出てからの展開は・・・「乞う、ご期待」と言う事で。】

今は(午前10時27分)朝イチのお客様と7時50分から約一時間の打ち合わせをして、吉田部長とは別々の車で岐阜県庁に行き、新規事業に対する指導を受け、引き続き、コロナ対策の打ち合わせをして、11時過ぎからの猫田県議への陳情までの時間を利用して(施設に帰るのは現実的でない為)猫田事務所前の大垣フォーラムホテルの駐車場に車を停めさせて貰いコラムを打ってます。また、こう言う時間は落ち着いて電話連絡も出来るので最大限に活用してます。猫田県議とは色々な課題について熱く話をさせて貰いながら四半世紀前とは全く違う環境に置かれての会話に感動と感謝です。昼食をホテル内の萬里と言う中華の店で食べる事にしたのですが入り口のところで手指消毒をしてから非接触体温計で計って貰い(36、2℃)ようやくテーブルへ。夏限定のメニューを頼みましたがさっぱりしていて美味しかったです。(昨日、昼食を頂いた王将と比べるととても上品な品物でした。)

その後、施設に戻り14時からは児童養護施設の高校三年生の男子の職場体験の面談をしていて、つくづく思ったのは私は38歳で児童養護施設の指導員を辞してからおおよそ30年が経過しているのですが、高校3年の男子と話をしていると、あの頃にいきなりワープしたようなり、熱く語ってしまいましたが高校3年の男子は一生懸命に聞いてくれたので、3日分の着替えを持ってきているとの事なので、いきなり本日から宿泊を伴う体験学習をする事になり、部屋の準備や食事の手配や明日からの指導職員を決めました。上手くいくかどうかはわかりませんが、『実施しなければ何も変わらない』との考えの基、理事長である私が決断しました。

その後17時に移動販売の『だるま』さんが来るのに一時間はあるので新規事業の整地状態を見に行き、どんどん変わっていく状態を確認して、施設に再び帰っていくと『だるまさん』が丁度みえたので、本日も頑張ったので生のお刺身を買いましたので本日は家に帰ってキリンラガーの500ミリリットルのガンガンに冷えたのを楽しむ為今(18時46分)はお風呂で汗まみれになっています。リピーターの皆さん私と一緒に「カンパイ」

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