ドキドキです。

令和2年12月8日

最近、電柱などを見た時に曲がって見える事があり、「新規事業等でやるべきことが山積みで忙しかったから疲れていてそうなっているのかな」と思っていたのですが、少しずつひどくなっていて流石に不安になり、12月1日に新規事業の『建て方』のセレモニーを終えてから地元の病院の眼科を受診したところ、『黄斑円孔』(おうはんえんこう)と言う診断を受けたとの事は既に報告の通りなのですが、手術をするのであれば名古屋市立病院でして頂く必要があるとの事で明日(12月9日)しっかりと検査して頂きに名古屋市立病院に長男の運転で行く事になっているのです。

正直1週間が経過しての診断で「進行が速いので、なるべく早くの手術にします。」と言われたらどないしよう』と今からドキドキしています。『黄斑円孔』は失明の恐れはないと言われてもここは『まな板の鯉』。「30分の手術だし、うつ伏せが大変だけど大した手術ではない」とは言いながらも、正直今からドキドキしてます。「手術の日程は来年になってから」と私自身は高を括っているのですが、もしも「穴の開き方が大きくなっているのでなるべく早い時期に手術をします。」と言われたらどないしょ。だって12月28日まで予定がびっしり。年が明けてからの調整なら何とか出来るんだけど等と勝手な思いでいます。

しかしながら私の目はどうなっているのやら。60歳を過ぎてから両目共に白内障の手術をして、その後に右目は網膜剝離の手術(この時は診断された日が緊急手術でした。)そして今回左目の黄斑円孔。命には関わらないとは言え難儀な話です。目が弱いと言えば私の父進さんの目に対する逸話を二つ思い出しました。一つ目は生まれて初めてメガネをかけた時に家の屋根を見てメガネをかけるまでは屋根がなみなみに見える事は無かったのにしっかりなみなみに見えたので感動した。と言うのと二つ目は極端な近眼で兵隊での検査でなかなか合格せずに30歳を過ぎてから戦争に行ったとの事です。(そんな状態だから戦争には負けるわけです。)私は父進さんと違って本を何時間でも読んだり出来るような性格でも勤勉家でもないので、目を悪くする理由はないはずなのに・・・。

本日はこの後、18時30分から岐阜県庁4階の特別会議室で古田県知事さんも同席されてのコロナ対策会議があり、私も岐阜県老人福祉施設協議会会長として参加しますので本日のコラムはここまでとしますがリピーターの皆さん、私の目が手術を無事に終えてより頑張れるように祈って頂けますか。

 

 

新規事業でやるべき事が山積みです

 

令和2年12月7日

岐建さんにお願いしている新規工事は天候に恵まれ尚且つガッツと緻密な計画を立てて頑張ってくれる高橋監督とそのスタッフに恵まれ、下請けの職人さんもその意気込みにこたえようと一生懸命に作業をして下さっています。勿論、高橋監督以下方は平屋の2700平米の木造建築への思い入れも強くお持ちだからこその頑張りだとも考えています。

そんな中で昨日広報であるホームページやパンフレットや新聞折り込み等を一手にお願いしている会社の社長さんに日曜日にも関わらず来て頂き打ち合わせをしました。その話し合いをしている時につくづく思ったのは「やらなあかん事が山積みや」と言う事です。その中でも、『岐阜県初の盲養護老人ホーム』なのに一部の方にしか広報されていなくて世間一般には周知されていないと言う事です。盲養護老人ホームの運営が開始された時の初代施設長に任命し、正式に12月1日に辞令をだした前吉澤統括部長はわずかな期間でその事に気づきました。(いやいや私が理事長としてやりきれていなかっただけなのですが。)そこで先ず手始めに当法人のホームページのトップページに『盲養護老人ホーム優・悠・邑   和(なごみ)』の記事を載せるように打ち合わせをしました。

それに合わせて、特養にはない職種である『支援員』等の給与規定を決めなければしっかりとした採用につながらないし・・・、年明けの3月末で養護老人ホーム清風園の終了による引き継ぎもしなければいけないし。厨房業者のプレゼンもなるべく早くに決めなければいけないし。明後日に名古屋市立病院の眼科受診によっては目の手術の予定が決まると少なくても2週間は身動き出来ない状態になってしまうし・・・。上り坂、下り坂の他の『まさかの坂』が来てるやおまへんか。アホな事言うてるばあいやない。いつも言ってる予定は未定で決定ではない事がわかっているならもっともっと前倒しで事を進めていかんかったらあかん。今回の新規事業は岐阜県初の事業なんだからもっともっと緻密にやらなあかんと昨日の打ち合わせで思った次第です。

と言う事はもっともっとギアを上げていかなあかんと言う事。手術での入院で立ち止まらなあかんのだから手術の日までは10日分を1週間で休みなく(今も休んではいないのですが)やる覚悟で頑張らねばと考えている私です。行政の方々は効率的に仕事をしなさいと言われますが、私の生き方で何処をどの様にすれば良いのかこのコラムを読んでその事がわかるリピーター方は是非伝授して下さい。

昨夜の翔&誠の(いやいや、誠&翔)誕生会の報告です

令和2年12月6日

焼肉屋での誕生会までに家で少し体を休めて万全の体制で『焼肉屋すずき』に奥様の運転で行くつもりだったのですが、滅茶苦茶忙しかったわけではないのですが、施設を出たのが17時過ぎで、一旦家に帰りもたもたしていると約束の18時ぎりぎりにしか着かないような時間になり、いつも言っているように『予定は未定であり決定ではない』状態に。私は意味もなく不機嫌になり、車に乗って暫くして、本日のスポンサーなのに財布も持たずにいることに気付きUターンして家に行き慌てて財布が入っているリュックサックを持ち再び車で目的地の焼肉すずきへ。すずきの駐車場に着くと、誠一家もちょうど着いたところだったようで、お店に入って行ったのですが本日の主人公の翔君が眠いのかぐずってばかりで、何ともならない状態の時に私は誠のちいさい頃の私の対応について思い出しました。

その頃の私は夕食を共にする事がなく、子どもが期限の良い時は調子よく抱いたりしていたのに、機嫌が悪く泣き出したりすると、直ぐに奥さんに手渡してしまうような駄目な父親だったのですが、誠が父親になり、翔をしっかりあやして入るのを見て感心している駄目な『じいじ』です。その後、翔の母親が翔を抱きながら席を離れて暫くすると機嫌が治っていて「流石に母親」。その後は会食が始まりやわらかい肉を翔は母親にキッチンはさみで切って貰って5歳とは思えない(何を根拠に言っているのかはわかりませんが)ペースで食べていました。私と誠夫婦は生ビールを翔はオレンジジュース、私の奥様は烏龍茶で乾杯。その後私と誠は辛口の冷酒を何杯もお代わりをしました。

この焼肉屋さんなのですが不思議な事に美味しいお刺身も出してくれるのでお肉の苦手な私も美味しく頂くことが出来ました。私の悪い癖でお酒が入ると大食漢になってしまい、しらすどんぶりもペロッと食べてしまい。お店に持ち込んだケーキも大きなイチゴが乗ったプリンも食べてしまい今は後悔しているのですがいつもの事と反省もしてません。

食事会が終わり孫の翔にのみ誕生プレゼントがあり、『ミニオンズの○○探し』を渡すと感動もんです。本に書いてある文章を読み探すのもどんどんやって最後のページまで終わるまでやり通しました。読んで意味を理解して探すべきものまで理解しているとは私にとって感動でした。私は大学の講義で『3歳までに語彙の量を多くしてその意味をしっかり理解するのが賢い子にする秘訣です。』と言って来たので、翔は正に『神童だ』。これはじいじのたわ言です。リピーターの皆さん。私にもこんな面があるのです。最後に「とほほ」の話でした。

早すぎるで、高橋社長・・・。

令和2年12月5日

朝8時に高橋社長の次男である専務からの連絡。本日10時30分から今須生活改善センターに置いてある『今須太鼓踊り保存会』が解散するに際して太鼓等を譲り受ける事になっていて、その搬送の為に2トンダンプを借りる事になっていたので、確認の電話だと思ったので、「こちらからかけないかんのにすまんね」と言うと専務が「車は施設に届けましたので大丈夫なのですが・・・」と口こもった言い方だったので「社長に何かあったのか」と聞くと「昨夜11時過ぎに亡くなりました。」との返事に思わず絶句し私は「最近元気がない様子だったけど新社屋の完成がもうすぐだ」と喜んでいたのに・・・。高橋社長は昭和30年生まれだから私より2歳も若いし、がたいも大きいし丈夫そうな身体だったのに。そこで本日は、高橋社長を忍んだコラムにします。

初めて高橋社長に会ったのは平成15年度事業で本部新館の事業計画をしていた時に、大垣で蒸籠蒸しと全国の美味しい冷酒を出してくれるお店のマスターから紹介を受けたのが初めての出会いでした。その時に私は「関ケ原町内に会社を構えているなら、マスターに紹介されるまでもなく施設に来たら良かったのに。ガタイがでかいのに気の小さい事で」と私自身でも上から目線かなと思うような言い方をしてしまった事を昨日の事の様に覚えています。その時からご縁を頂き、新館の造成について今須の業者さんの下請け業者として仕事をして貰ってから、池の清掃管理とか冬場の除雪等を良心的にして貰う中で1Kのアパート8部屋を2棟建てて頂いた他にも防災庫や、屋台を入れる倉庫なども建てて頂きました。

入札は勿論、ガチンコの入札であっても他の業者さんが驚かれるような数字で札を入れて頂きました。親しくさせて頂く中で、毎年実施している夏祭りやお餅つきでは、従業員の方も動員してこまごまとした作業もして頂きました。ある時高橋社長に「どうしてこんなに安い価格で入札を入れて貰えるの」と聞いた事があります。すると高橋社長は「今までの仕事は殆ど下請けでの仕事だったので、下請けの価格で入札するので自ずと安い札を入れても大丈夫なのです。それに、社長の手当はこの中に入っていませんので」との答えに「よくもよくもぬけぬけと」と思ったものでした。

こんな社長でしたが、ある時は私が高橋社長と話をして玄関先まで送って行った時に、次の打ち合わせの為に来ていた業者の方が「先程会われていたのは高橋社長だったですか。」と聞かれたので「そうですがどうして」と聞き返すと「若い頃自分も横着していたけれども高橋さんの姿を見ると怖くて隠れたものですから」との返事に対して私はしみじみ「若い頃の色んな経験が今の高橋社長を作ったんだ。」と思いました。なにかと言うと頼っていた社長は天国へと旅立ちましたが、会社は存在しているし、立派な社屋も近く完成して高橋社長の意志を継いで立派になされる事を高橋社長はきっと望んでみえると思いますので今後ともお付き合いしていければと考えています。リピーターの皆さん。本日のコラムは本当に個人的な内容でしたが、私は常にご縁を大切にしての展開をさせて頂いている事をご理解して頂ければ幸いです。

 

昨日12月3日は・・・

令和2年12月4日

昨日12月3日は長男誠の36歳の誕生日であり、尚且つ長男誠の長男翔(かける)の5歳の誕生日だったのです。先般長男誠が明日5日に2日遅れになるのですが、誕生会としての食事会について話をしている時に「12月3日は僕の誕生日と思っていたのに『誠の誕生日』と言ってくれる事がなくなった。絶対に大切な12月3日何だけど、僕の誕生日と言う話題にはならない。」としみじみ語った時には滅茶苦茶説得力があったのですが申し訳ない気持ちにもなりました。

しかしながら、誠よ心配するな。私は12月3日の日には必ず誠が生まれた時の事を思いだし私の奥様かをりさんに「誠が生まれた前日は中学校の期末テストの前日で日曜日だったにも関わらず23時過ぎまで勉強に付きあっていて午前0時過ぎに家に帰るとかをりさんが玄関先で不安そうに待っていて、養母のアドバイスで産婦人科に電話をして、(そんな事の気が付かない程慌てていたのです。)私の車で産婦人科に行き、病院のインターホーンを押し中に入り、私はかをりさんが本来入る部屋に、かをりさんは分娩室へ。産声を聞きたかったけれども、なかなか聞けなかったので本来かをりさんが寝るベットに横になった途端に爆睡。結局産声を聞く事は出来なかった。」と語っているから大丈夫だ。決して忘れていない。ただし、誕生会の主人公が孫の翔に移ったことは否定しませんが・・・。

明日の誕生会の食事会は何が良いかを決めて報告するように言ってあって1週間ほど前に私の携帯に長男誠から連絡と思ったら声の主は孫の翔だったので私はいきなり『じいじ』の声になると、翔が「じいじ、誕生日は肉が食べたい。」といきなり言うのでじいじである私はめろめろな声で「しゃぶしゃぶかそれとも焼肉か」と聞くと「焼肉」と答えたので私は「5歳の子が焼肉かよ」と思い「しゃぶしゃぶやないの」と決めつけた言い方をすると翔が「焼肉やって」と返されて「わかったよ。美味しい焼肉の店を予約しとくよ」と言うのが精一杯でした。

翔は生まれた時にはあまり良い状態でなかったので産婦人科から大垣市民病院に救急車での転院があり、大垣市民病院に見舞いに行った時には鼻にもチューブで腕には点滴がされていて頭が真っ白になったものですが、今は元気すぎるくらい元気で、やんちゃをしては母親から怒られるのですが、怒られそうになるとあまあまのじいじの所に避難してくる頭の良さ。リピーターの皆さん。明日はあまあまじいじを楽しみにしている私ですが年に1日くらいは許されて良いのではないかと思っているのですが・・・。

 

本日盲養護老人ホームの打ち合わせでした

令和2年12月3日

午前10時からの打ち合わせだったので、9時20分に吉田部長の運転で私も含めて4人で出掛けました。いつものように岐建の課長さんがドローンの空撮で撮られた映像を見て、1週間前とは大きく変わった映像に安心してから、設備等の打ち合わせに入りました、今回の打ち合わせは立体的な画面を見ながらの検討なので、建築の知識が殆ど無い私にとってもイメージがし易くて意見も言い易い状況です。 セキュリティについては、実際に施設を運営していく中で大切な事なのでいろいろ意見を当施設の職員同士で戦わせて最終的には私が岐建の高橋監督に結論を言う形で決めていきました。但し色合わせについては「どの組み合わせでいきますか。」と言われてもイメージがつかめないので、3棟に分かれる事に対する考え方だけ伝えて、設計を依頼しているデザインボックスの山口さんに提案をして頂き進めていく事を確認しました。

12時10分に全ての打ち合わせを終えて12月1日に建て方のセレモニーをした現場の状況を職員みんなが高橋監督の案内で行きました。現地に行って感動しました。だって、3工区に分かれた内のA工区の所は柱がずらっと並んでいて1棟のみの建物の柱なのに『凄い』の一言で、職員には「凄い建物を計画したもんだな」と自分が計画したのにも関わらずの発言をしてしまいました。現場を回らせて貰って一番感じるのは私が「ありがとうございます。お邪魔します。」と声を掛けさせて貰うと異口同音に「お疲れ様です。」との言葉が返ってくるのは「素晴らしい指揮者の下(もと)には素晴らしい職人さんが集まるのだな。」と思った次第です。

A工区は柱がどんどん立っていき、その後を追う様にB工区、C工区もそれぞれに目一杯の作業が行われていて、「効率よく無駄なく作業が出来るように高橋監督を中心に打ち合わせを密に行われているのだ」と思うと同時に感謝です。岐阜県には一つも存在しない盲養護老人ホームを岐阜県の視覚障害者の方の熱い願いを杉和会がしっかり受け止め、その事を理解して下さった方々の思いが凝縮されての進捗状況だと思います。そして何より天の神様も味方して下さっているので天候にも恵まれての今だと感じています。

高橋監督に「大変な作業をお願いしてそれに応えて頂いているのに感謝してます。」とお話をさせて貰ったところ、「平屋の2700㎡の木造建築は初めての経験ですがやりがいがあります。」との返事を頂いた事にリピーターの皆さん。私は本当に幸せ者だと思っています。だから、来年4月に開設したら、視覚障害者の方々に喜んで頂き、地域の方々からも「施設が梅谷地区に来て良かった。」と言って貰えるように頑張っていきますので、これからもよろしくお願いします。

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目が見にくい原因は黄斑円孔(おうはんえんこう)でした

令和2年12月2日

黄斑円孔についてインターネット情報から記載します。

『網膜が張っている眼底の中心部を黄斑または黄斑部と呼び、眼底で最も大切な部分です。もともと薄い場所なのですが、そこに1ミリにも満たない非常に小さな穴があく、と言う病気です。(中略)高齢になって一種の老化現象で起こる場合が殆どです。黄斑部は視力をつかさどるところですから、その部分の網膜に穴があくと当然視力が悪くなります。黄斑円孔がどんなにひどくなっても、失明する恐れは全くありません。黄斑部以外の網膜が悪くなることがないからです。治療法としては、目の中を綺麗に掃除した後、特殊なガスを入れる治療です。ガスが黄斑部の穴の部分を押し付けるようにするため、手術後の約10日間、出来るだけうつぶせです。手術自体は30分位ですがうつ伏せはかなりきついです。ガスは2週間位で吸収されて、順調にいけば問題の穴がふさがって視力もかなり回復します。手術の成功率ですが、黄斑円孔を早く発見できれば非常に高い成功率を収める事が出来ます。』との資料を読みながらコラムの原稿として打ちながら、色々な事を考えました。

先ず一番に思ったのは、右目を手術した網膜剝離は失明の可能性があったとの事ですが、失明はしないとの事なので先ずは安心。但し網膜剝離の手術後にうつ伏せで長くいなければいけないのは大変だ。網膜剝離の手術後の時はその日の内の緊急手術だったので、スケジュール調整が大変だったけど、その意味では少し余裕が持てたなとも思いました。12月9日に名古屋市立大学病院での予約受診をしなければ確実には分からないけど年末までは過密なスケジュールをこなして年明けに休養する位の気持ちで入院して治療に専念しようと考えています。私が来年4月に開設させる盲養護老人ホームは文字通り視覚障害者の施設であり、両目の白内障の手術、右目の網膜剝離の手術、今回の左目の黄斑円孔の手術、何となく因縁めいたものを感じるのですが。ところで、リピーターの皆さん。私の健康には紆余曲折がありますが、手術が成功し視力が回復したら、まだまだ走り回りますので宜しくお願いします。

 

 

本日新規事業の建て方(建前)です

6時45分から朝食を頂き7時25分には先日『洋服の青山』で購入した濃紺のネクタイをピシッとしめて新規事業の現場に向かいました。起きた時には雲っていたのが青空になり運転していて県道から町道に入る手前の所まで来ると現場の所には紅白まくが張られており、「やるじゃん。高橋監督。」職人さん用の駐車場には所狭しと車があり、私は関係者用の事務所前の駐車場に入って行くと私が一番乗り。「確かに定刻30分前の8時だから当然か。いやいや、心踊る良き日なのだから、早くくるべしではないのか。」確かに早く来たところで何もする事はないのだが現場を見て弾めただろうが、しばらく待っていると高橋監督が現場からこちらにみえたので「紅白まくをありがとう」と言うと、「新聞社の取材があると理事長にお聞きしたので急遽関連会社の養老ランドで借りてきました。」の返答には高橋監督の機転の良さと行動力には舌をまく思いでした。その後順次参加者が揃い、プレカットしてある材木が積んである大型トラックから大型のクレーンで持ち上げている作業を見ていて。建て方の準備が出来たと言う事で、セメントで固められた工区へ移動すると机の上にお酒とお米とお塩が供えられていて、高橋監督の指示で理事長である私かお酒を、お米を施設長予定者の吉澤統括部長が、お塩を和合の事務長が四隅に撒き最後に中央に撒き、立派な柱を一本だけ建てるパフォーマンスをしました。

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その後、岐阜新聞の記者の指示でカメラ写しの良い場所に移り理事長である私が現場を指しての写真を沢山撮って頂き取材を受ける為に現場事務所に全員で移動して、先ずは記者の方に建物の概要を理解して頂く為にドローンで撮影した上からの映像と立体に近い画像を見て頂き、岐阜県視覚障害者福祉協会会長が会員に宛てた文章を見て貰い、その後はいつもの事ながら私が理事長として熱く語りました。記者の方が帰られてから改めて私が準備したお酒一升と水野理事が準備したお塩を持って敷地の外周を撒いて歩きました。その時改めて敷地が広い事と凄い計画だと思った次第です。また、3月末に完成した暁にはより凄い建物になっていると確信しました。

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✳リピーターの皆さんに残念な報告をしなければいけません。それは、最近私の目が見にくくなっていたので、建て方が全て終了してから眼科に受診して、右目のような網膜剥離ではないのですが左目の黒目に穴が空いている事がわかりましたので手術をすることになりました。手術の都合もまだわかりませんし私自身も年末までスケジュールが一杯なので直ぐには手術にはなりませんが、非常に見にくい状態ですので、このコラムにおいて漢字の間違いが多くなるかも知れませんがご容赦下さい。

午前2時10分に施設から連絡がありました。

ここ1週間経口摂取が難しく点滴を行いつつ、調子が良い得意には大好物の梅干しやお酒を飲んで頂いたりして頑張ってこられた入居者の昨夜の報告で「体温39.5,最終排尿が10時30分」との事だったので、今迄の経験から「今夜にも夜間対応があるかもしれない」と思い、早い時間の21時過ぎに寝る事にしました。とても疲れていたこともあり、直ぐに眠る事が出来たのですが、午前2時過ぎに宿直者の坪井部長から第一報で「下顎呼吸になっており、厳しい状況です。」とのメール報告を受けてから、10分後に「心停止の状態です。」との連絡がきたのでお医者さんとご家族に連絡をして、幹部職員にはメールで知らせる様にと話をしてお医者さんが6時までには来て下さるのに合わせて家族もおみえになるとの連絡が再び来たので5時にアラームをセットして、うとうととしていると、アラームが鳴ったのでベットから起きて着替えをして施設に向かいました。

お医者さんは既に来て見えたのでお礼の挨拶をして、その後家族の方と葬儀等の話をして、ご自宅へのお迎えが8時と言う事で一旦家に帰り(帰る前にローソンに寄り早く来てくれた職員の朝食を購入)家で急いで朝食を食べ外出着に着替え再び施設へ。亡くなられた方のお見送りをして、事務所で銀行の決済や書類の整理をしていると、9時になったので10時からの和合の全体会に間に合うように出掛けました。

10時から2グループに分けての全体会が12時まであり、終了次第理事長室で職員採用の面接をしてから和合で準備して頂いた昼食(焼きそばを中心にした食事を完食)を食べて、13時までには30分程時間があったので14時から行われる『岐阜県高齢者安心計画推進会議』の書類の見直しをしていて時間になったので、岐阜県老人福祉協議会事務局に行き、来年度の打ち合わせをして14時からの会場である全建総連厚生会館に13時40分に着き会場である4階大会議室へ入って行くと県庁の担当者の方は揃ってみえたのですが、構成員のメンバーでは一番乗りだったので健康福祉部次長さんを筆頭にしてご挨拶をさせて頂きました。

定刻の14時から会議が始まり、次長さんのご挨拶の後、高齢福祉課長さんから今年度までの進捗状況と来年度からの方向性についての説明があり、その後意見交流の場となり、私もしっかり①介護人材②認知症③コロナ対策について岐阜県老人福祉協議会の立場で話をさせて頂きました。16時までの2時間は密度の濃い話し合いが出来たと思いますが、若干理想と現実のギャップでかみ合わないものもありましたので、次回にはその点も含んで議論出来るようにしていきたいと思っています。

会議終了後に県の担当者の方々とお話させて頂き、携帯に施設からメールが来ていたので施設に連絡すると、県の地域福祉課からの伝言だったので、私は思いました。「先程まで地域福祉課の上席の方と話をしていたのに担当が違うと伝わらないのかな。」と思いましたが、思い直して連絡すると「離職防止の研修企画の講師のリストを渡す事になっていた。」と言う事を私がすっかり忘れていたので、早速全国老人福祉施設協議会の事務局に事情を話すると、先程(18時30分)メールでリストを送信して貰ったので県の担当者に転送して本日の役割を終了しました。今は19時10分で長い一日でしたが、リピーターの皆さん。実はあっという間にだったんです。つまり本日も充実した一日であった事に感謝です。

昨夜はしたたか飲みました

月一回の若山会が昨夜18時30分から息子2人と甥っ子1人と私の4人で行いました。次男の日程で昨日に決まったのに時間になっても来ないので長男が連絡すると「仕事をしていて忘れていたのでこれから向かいます。」との返事に「あいからわずの次男だけど仕事だと言われたら何も言えんな。」で食事会を先に始めました。最初の一杯はビールで、その後は熱燗をガンガン飲みました。19時には次男も来たのでそれからはますます過激にピッチが上がりました。22時までしっかり飲んで二次会は勿論無しです。今時ですからコロナ対策としてのソーシャルディスタンスをしての飲み会です。つまり、広い部屋に4人だけ。向かい合いの席にはせずにの飲み会です。23時にはベットに潜り込み爆睡。朝は、いつものように5時30分には目覚めたのですがいつもと違うのが飲みすぎたのかしんどいのです。だから、町広報の6時のチャイムで飛び起き今はお風呂の湯船に浸かってコラムを書いているのですが、ようやく汗が出てきました。これでシャキッと仕事モードになれます。本日は午前中には面接もあり午後からは家族会主催の誕生会と本館1階、2階のお参りもあります。気合いを入れての展開は後程に書きます。(17時には早じまいさせて貰い家に帰り続きを書きます。)午前中の面接で事前に履歴書を見たら、名前からして日本人ではないな。と思いつつ会議室に入って行き、疑問に感じた事を質問しました。すると、親はペルー人だけれども本人は日本生まれの日本育ち。短大も通い介護福祉士の資格も持っていて外形は外人だけれどもバリバリの日本人。日本語とスペイン語が出来るとは頼もしい。色々な質問をしても模範解答をしてくれて、私的には少し不満だったのですが、少しリラックスしてからは、家族思いの優しさもあることがわかり、健康診断が出来次第採用することにしました。ある意味異色な存在ですが、日本人にはない良さを発揮してくれる事を期待してます。午後からは家族会の吉田会長に来て頂いての誕生会で3つのフロアで5人の入居者のお祝いをさせて頂きました。誕生会が終わり吉田会長と会議室で来年1月に行われる岐阜知事選の話し等をして、玄関までお見送りをして、本館1階フロアの入居者さんがお参りの為に集まられているとの報告を聞いたので、数珠とリンを持って急いでフロアに行き本館1階の皆さんとお経をあげて、カラオケの用意が出来ていたので『人生夢の途中駅』を歌わせて頂いていると2階のフロア責任者の西村課長が様子を見に来たので歌が済み次第2階に急ぎここでも入居者さんとお経をあげ、既にカラオケには『兄弟船』のリクエストがセットされているので歌わせて頂きました。お経も歌もお腹から精一杯の声を出させて頂いたので気分がスッキリしたのでリピーターの皆さん私は入居者、利用者の方に元気を頂いているのだと気付いた次第です。元気を頂いたので明日からも頑張りますの リピーターの皆さん私の展開を見ていて下さいね。

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