新規施設『優・悠・邑 和(なごみ)』の職員骨子が決まりました

令和3年2月16日

先月の1月18日(月)に新聞折り込みを垂井町の近隣市町に大々的に入れさせて頂き、入れた日の朝からバンバンと就職依頼の電話が来て施設が開設されたら施設長に内定している吉澤統括部長が私の予定を見て面接の調整をしてくれて(一人当たり一時間)お陰さまで、その日からは10時から17時、時には18時までびっしりの予定が入り、嫌みではなく素直に「吉澤統括部長よ、ありがたいなあ」と言っていました。当然ながら土日までびっしりの日程をこなしてきました。お陰さまで本日13時からの面接2度目(再確認の為)を終えて、明日の面接はありますが、看護職員、生活相談員、支援員、栄養士、事務職員の骨子を決める事が出来ました。福祉施設職員の募集をしても、なかなかエントリーをして頂けないご時世の中で、本格的に採用活動を始めて僅か1ヶ月で固まったのには我ながら感心してます。余りの嬉しさの中で社労士の先生に和(なごみ)の採用依頼について一旦ハローワークに止めて頂くように連絡しました。職員にちいては常に『確保し育て長く勤めて貰う事が肝要』と言ってますので、職員の骨子となった方々に杉和会の理念に基づいた展開が出来るようにしていきたいと考えています。ちなみに3月14日には私が理事長として『杉和会の理念と実践について』理事であり本部の副施設長には『職員としての思いと感染対策について』を新規採用者を全員集めて話しする予定ですし、3月28日には辞令交付式を開催する予定です。そんないけいけの日に高野山の前官さん(法印職を勤めらるた方)であり日本一の書家であり空海研究の第一人者の静慈圓先生からお手紙を頂き正直舞い上がってます。と言うのは今建設して頂いている盲養護老人ホームに仏間を作りその中心に静先生の書を飾りたいと考えて1週間程前に手紙を出させて頂いたところ、先生から3ふくの掛け軸の書いて頂く字の説明までした手紙を頂きました。(詳しくは明日のコラムで紹介します。)手紙の書き出しには私が一生懸命に意義深い施設をつくるのに協力したいとの内容が書かれていて私自身責任の重さを感じています。本日は17時15分から本部施設で事業戦略会議があり、本部施設についてもしっかりとした体制をとっていかなければいけないので、是は是非は非の考えを述べ、幹部職員もかなり突っ込んだ話し合いが出来、本日もまたバタバタだったのでコラムは今(22時09分)ようやく書けました。リピーターの皆さん。この頑張りに拍手をお願いします。

深夜1時、未明4時30分と朝6時に停電しました

令和3年2月15日

我が家で爆睡していた深夜1時の段階では1回目の停電と言う事で、真っ暗な中で携帯の明かりを頼りにして、家の南側を確認すると、名神高速道路の灯りも全部消えていて、車のライトのみの灯りのみなので、「我が家だけでなく今須地区は停電したのか」と考えていて、電気が点くのを待って、再び寝たのですが、4時30分の時にも再び停電。流石に施設が心配になり、施設に電話すると宿直の五次部長が直ぐに出て「施設内の確認をしてます。」の返答に逞しさと安心を覚え、再び寝る事にしたのですが、流石に爆睡は出来ずに、うつらうつらとしていると再び6時に停電。「終戦直後の時代ではないのに」とその時代の事も知らないのに思ってしまった私は変ですか。

私は流石に「テレビを点けて確認しても何も報道しないし、今須だけで何か起きているのかも知れない。」と思った私は『114』に連絡をして関西電力彦根営業所の電話番号を教えて貰いったフリーダイヤルに電話すると、「今須地内で停電してり、只今復旧の為に作業車が出動しており8時20分頃復旧予定ですが詳しい事はホームページでお知らせします。」との事。実際にはフリーダイヤル情報を得た時には電源は元通りになっていたのですが。その後律義な宿直者である五次部長から7時30分にメールで「関西電力のホームページで今回の停電について確認したところ、停電したのは今須の30軒で、原因は現在調査中。復旧見込みは9時30分頃との事です。(施設内の電気は通常通りになってます。)」との連絡があったので、ホームページの情報の適当さに苛立ちを覚えました。

私の家から施設までは約4キロあり、旧中仙道沿いの2キロには空き家も確かにありますが家が立ち並んでいるし、2キロ行った所から南には町道沿いに竹の尻地区と新明地区の2地区の民家が立ち並んでいて、我が家も施設も停電していたと言う事なので、いくら少なく見積もっても100軒以上の民家があり、少なくとも100軒以上が停電したのに30軒との情報には、今須地区を軽くみた情報だと言わざるを得ません。確かに、夜中に出動しての復旧作業は大変だと言う事は分かりますが、最初の停電からは5時間以上かかっており、「今須だけの停電ならば朝になって復旧すれば良い。」と考えられたのでしょうか。しかも、ホームページの情報はあまりにも不正確で、しかも五次部長が確認してくれてからの情報は私が知る限り全くありません。

もしも、これが東京で4キロに渡って停電したらこんな調子で対応されるのかと思うと正直怒りを覚えずにはいられません。東京は眠らない所だから速やかに正確な情報が必要だけど今須はみんな夜は寝ているから大丈夫だと思われているのならリピーターの皆さん私な心外ですし困ります。その理由は1つには本部施設には5人の夜勤者が寝ないで(2時間の仮眠はありますが)入居者さんの介護をしてます。非常灯は点灯しますが最低限度の灯りの確保のみです。

もう一つは私は体重が増えてから無呼吸症候群の為にシーパップと言う機械をして寝ているのですが、停電する度に息苦しくなり目を覚まさなければいけないのです。停電の理由が報道されなければ今夜も停電するのではないかとの不安がよぎります。実際に何度も息苦しかったので目不足と本日も目が回るような一日で今は18時40分。コラムが書けてほっとしたら頭がズキズキしてきました。関西電力さん。確かに今須は過疎ですが正しい情報をお願いします。リピーターの皆さんのなかで関西電力に影響力のある方がお見えになったら何とかして下さいませんか。

山崎ていじの新曲の作詞を見て

令和3年2月14日

小さい頃の私の事をよ~く知っていて、夏休みの宿題を私に代わってして頂いた姉春子さんによると(その頃の春子さんはめっちゃ怖かったです。)、「自信なさそうに歌っていて音痴だった。」と言われていて、私自身も「そうだった」と記憶しているのですが、高校に入り特に母親代りだった姉光子さんが急逝して(春子さんと違ってとっても優しかった・・・。でもでも、今の春子さんはとっても優しいですよ・・・。)私の性格が変わり、性格が変わると共に歌を歌う時は思いっ切り声を出して歌を歌えるようになりました。

坂内中学に赴任しての忘年会の折にカラオケで歌を歌う様に無茶ぶりされた時に内山田洋とクールファイブの『長崎は今日も雨だった』を思いっ切り歌って、やんややんやの喝さいを浴びてからはカラオケの機会があると文字通り「歌いたくて、うずうず」の状態になります。43歳の時に今須小学校のPTA会長をお受けしている時にバス旅行のバスの中でカラオケになり、自己満足的に歌っていて中学時代の同級生が役員でいて、「熱唱は素晴らしい」と言われたのを素直に受け取ったのですが「いやいや違うぞ」と思うようになったのは極々最近の事です。何が違うのかと言うと、一つには「力んで歌っても聞き手側はうるさくしか聞こえない」と言う事。二つには「台詞を覚えて歌わないと情感を表現できない」と言う事です。(ようやく本題に入ります。)

さて、山崎ていじの『酔わせて候』の出だしは「酔って乾杯 酔わせて返杯  暖簾下ろして 酔わせて候」なのですが、正直めっちゃインパクトがあるので直ぐに歌う事が出来ましたし「この意味はよ~くわかりますし、きっと、デイサービスの責任者の北島部長に向けた台詞だ」と思っています。そして、3番の台詞には特に共感したので直ぐに覚える事が出来ました。それは「一升瓶から 焼酎(さけ)注(つ)いで きゅっと飲んでは 笑って返杯(かえす) 負けてなるかと 三杯五杯 グラスの先に 常連(いつも)の顔が 何故だか二重に 揺れてるぜ」には、私も北島部長も「同感です」と言わざるを得ません。

思い出すのは何人かで飲みに行き、ビールと冷酒をしたたかのんで、その後スナックに行きウイスキーを並々に注いでストレートで飲んで競争した事を思いだしました。三番の台詞の中で「きゅっと飲んでは 笑って返杯(かえす)」は、やっぱり北島部長と私の事だし、「負けてなるかと 三杯五杯」には特に共感しました。だって、四杯目を忘れる勢いで飲んでるのは「うんうん」と頷くばかりですから。

この歌は私と北島部長が酒を飲むときの応援歌かと思ってしまう感がありますが、山崎ていじは元はプロボクサーなのだし、酒も強いしこの位男らしい歌をこれからもどんどん歌って欲しいと思うので、リピーターの皆さんも応援宜しくお願いします。

訂正しお詫びすると共に誤解なきように語ります

昨夜はとにかく眠くて正直『うとっ』と少し眠っては無理矢理覚醒してコラムを少し書いて、また『うとっ』としての繰り返しで何とか書いて、その後は爆睡(めっちゃ、久しぶりに爽やかです。)6時前に目覚めて昨夜のコラムがメロメロでないかと確認していて、とんでもない間違いに気が付き今日のタイトル『お詫び』につながるのです。

お詫びすべきは本来、優・悠・邑和(なごみ)の竣工式の日柄を『友引』とすべきところを『大安』とした事です。最も友引も大安も『日柄が良い』位の知識しかないのですが、リピーターの皆さんの中には知識があってこだわれる方がおありかと思いましたので、ここは「平に平にお詫び、も、も、申し上げま~す。」

昨日午前中の打ち合わせでは「友を引くので良いと思います。」と言っていたのに、寝惚けた頭ではいつの間にか『大安』になってしまったのです。もう一つの「5月16日は私の誕生日だから」はいかにも横着く感じられた方もおわりだと思いますので、少し弁明させて下さい。私の誕生日と言うのは私なりの『シャレ』とご理解下さい。

現実的には、新規施設の隣地にある施設をお借りして運営をいつまでも続けていると本来お受けしなければいけない視覚障害者の受け入れがそれだけ遅れてしまいます。「4月には待ちに待った施設に入居出来る」と考えられていた方々とっては、ご迷惑をかける事になるからです。

そんな事を考えいながら平成10年5月18日に開設した本部本館(私が44歳で最初に建設した施設です。)の時の事を思い出していました。その当時は大日本土木さんに建設をお願いしていたのですが、その当時の監督が濱川さんで助監督が細川さんだったのですが年が明けた初めての打ち合わせの折り、私がいきなり「竣工式は5月15日にします。」と言った時に濱川監督が焦ったように「その日を決められた理由は何ですか。」と言われたので、私は涼しい顔で「私の誕生日の前日で日柄も良いので」と言うと濱川さんは「言う事なし」と言うような顔をされたのですが、細川助監督は「施主側さをが決められたのだからやるしかない」と言われて、その翌日からは職人さんもどんと増やされ「滑り込みセーフ」で竣工式を予定通りに迎えました。

今回も「私の誕生日」と言う事でさりげなく日程を決めたような形にしてますが、岐建さん(建築)や新晃(外工)さんがこちらの思いに合わせて頑張って貰いたいとの願いからです。新規施設の完成が着実に進む中で、今、養護施設『西濃清心園』に入居されている方の引き継ぎも行いつつ、新規施設スタッフの組織体制を確固たるものにするために職員採用も意欲的に実施してます。お陰さまでエントリーをして下さる方も沢山みえて、選考に苦慮するような、ある意味「嬉しい悲鳴状態です。」

尚、明日は日曜日で10時から断続的に5人の面接が予定されています。

リピーターの皆さん。福祉施設の人材が集まらない状況の中での嬉しい悲鳴は地道な広報をしてきた賜物だと思うと、このコラムも益々頑張らねばと考えていますので今後ともご愛読を宜しくお願い致します。

今、19時56分だけどとにかく眠い

令和3年2月12日

朝から時間を無駄にしたわけでもないのにコラムが未だかけて無い。だけど何故だかとにかく眠い。どうしてこんなに眠いのかを考えて思いあたったのは、昨夜看取り対応があり一旦は家に帰りお風呂と夕食を済ませ、十中八九看取りの為に連絡があるから寝れる時に寝ようと8時に布団に横になり、ようやく眠りに入ったと思ったら施設から連絡。8時45分には施設に着きお医者さんの対応や家族の対応をして、職員が湯灌をしている間は事務所の電話番をして、湯灌終了後はご自宅までお送りして施設経由で家に帰ったのが23時で、手洗いとうがいのみをしてパジャマに着替えて眠りに着こうとしたのですが、目が冴えてなかなか眠れず「20年程前だったら直ぐに眠れたのに」。

何とか眠りに着きいつものように朝起きて朝食を頂き、自分が本日すべき事の確認をして施設に着いてからは昨夜の確認をしたり、新規事業の打ち合わせをして、新規事業の定例会(本来は毎回木曜日なのですが祭日だったので金曜日になりました。)が10時からあり、終了後は垂井町役場に行き高齢福祉課長さんに色々なお願いをして、その後昼食を食べ(四川の味噌煮込みうどん)安八町さんと関ヶ原町さんに現在措置入居されている方の引き継ぎの為の話し合いをさせて頂き、その後17時からの面接を終えると思考能力が全く機能しないので家に帰りゆっくりお風呂に入り夕食を食べながら子どものようにうつらうつら・・・。

何とか歯を磨いて自分の布団に横になってコラムを書こうとしてもかけませーん。何分か目をつぶり少し目が冴えて少し書いてまたまた目をつぶり・・・。こんな毎日に幸せを感じながらも「正直キツい」。でも、今日も新規施設の見学を安八町さん、関ヶ原町さんとして、午前中の会議で理事長発言として竣工式は5月16日と宣言したのですが(大安で私の誕生日でもあります。)完成してお披露目が出来た時の充実感を考えるとわくわくしてきますから、毎日が大変でも頑張りますので、リピーターの皆さんも応援宜しくお願いします。

おいおい。『ていじさん』ええ加減にせいよ と言う話

『ていじさん』とは『昭和男唄』でカラオケ大賞新人賞をとった山崎ていじさんの事です。『夜汽車』の新曲を出した時には大垣フォーラムホテルで250人を集めて(ちなみに一人2万2千円のチケットでした。)ディナーショーを企画して成功させた方ですが、先月新曲を出したのですがそのタイトルが『酔わせて候(そうろう)』と言う事で私も早速CDを購入して聞いてびっくりです。何故なら、曲の最初と最後の盛り上がりの箇所に『飲んで乾杯、飲ませて返杯。のれん降ろして、酔わせて候(そうろう)』とあるのです。「ていじええ加減にしーやー」だってこのコロナ禍で『のれん降ろして酔わせて候』とはどう言うこっちゃ。日本中「自粛をしなさい。」とか「お酒の提供は午後8時まで」とか言っているご時世にのれんを降ろしてから酔わせて飲ませるなんて何と言う不埒な話しじゃ。本当にやったら、世が世なら市中引き回しの上、獄門晒し首・・・。と言う話だぞ。しかし、よ~く考えてみると、このコロナを早く終息させて「徹底的に飲んで楽しみたい」と言う、切なる思いがあるとするとこの歌は奥が深い。何故ならコロナを終息させる為には全世界の人々が自粛をして、全世界の科学力とノウハウを結集させていかなければいけないわけで、終息後に全世界の人々がコロナに怯える事なく自由に往来が出来るようになり、「とことん飲んで楽しむぞ」との願いが込められている、コロナ終息を願った応援歌だとするとメッチャ先をみた素晴らしい唄だと言う事になるかな。しかしこの考え方は私の切なる思いだとも言えるかな。日常の生活も一変してコロナになる前は家族の方に出来るだけ来て頂き、ボランティアの積極的な導入や地域の方に施設には決して敷居はありませんからどんどん来て下さい。本格的なコーヒーも一杯150円で飲んで頂けますよ。と言っていたのが真逆な事を言わなければいけないのが口惜しいです。例えば、「コミュニケーションをしっかりとり信頼を得る為に顔を見てしっかりと」が「出来るだけ小さな声で耳元で」何てやっとれんはい。「お酒を酌み交わしながら飲みにケーションを」についても「不要不急に努めましょう。」ではなかなか連携をとるのは難しい。えーい。ここまで言ったから言わせて貰う。介護の仕事をどうやってリモートでするのか教えて欲しい。東京への出張は丸々一年無しで、リモートの会議は度々していますが、正直リモートでは伝わらないものもあります。とにかくリピーターの皆さん。早くに『酔わせて候』を歌っても大丈夫になるようにお互いに祈りましょう。

今、私が頑張れるのは・・・『①』

令和3年2月10日

生まれつき虚弱だった私が今も元気に飛び回っていられるのは、当然ながら父進さん母秋江さんの愛情たっぷりのお陰ですし、その他にも私にとってラッキーな事があったお陰だと思っていますが、体力的にもラッキーがあったように、精神を鍛えるラッキーも一杯あったので、その事について、スポット的に且つ断続的に書いていく今回が第1回と言う事で書かせて頂きます。(かつてのコラムでも書いた事も出てくるかと思いますがご容赦下さい。)

大学を卒業し(5年かかりましたが)父の計らいで教員になった私が神戸北小学校4年3組を担任させて貰っていた6月に校内研修授業で最悪な授業(自分で言うのですから間違いないです。)をして、当時の若原校長先生以下全員の先生から酷評され、しばらくの間は立ち直れない状況だったのですが、「私自身、教員の仕事を安易に考えていた。」と総括して、「板書が上手く出来ないのであれば事前にビー紙にマジックで書いて授業に臨めば少しは余裕のあるものになるのでは。」とか、「事前に子ども達が質問しやすい問いかけを仕込む」とか「授業のイメージを考えて挑む」と言う事を考えて挑むことにしました。

その後は当たり前の事ですが『一生懸命に頑張りました。』そして、10月に当時の西濃教育事務所の教育指導の先生に授業を見て頂く機会を得た時には自分として合格点をつけるまでに成長させて頂きました。しかしながら、「自分のスタンスでは他の先生方にも迷惑をかけてしまう。」との結論に至りその年度の終了である3月31日で退職しました。(多分その頃の私はひ弱で神経質な人間だったと思います。)そんな私を覚醒させてくれたのは退職して旧徳山村で半年のモラトリアムのような時間を頂いた後、児童養護施設に入職して、厳しい指導をして下さる経営者に恵まれ(その時はそのようには思っていませんでしたが・・・。)色々な経験を積ませて頂き育てて頂いたと思っています。

但し、今考えてみるに、色んな経験をしないできた分、大変な事なのに「そんなもんかな」と考えてやってしまう事が出来たのが良かったのではないか」と思っています。回りくどい言い方をしましたが「何も知らないボンボンだったから『厳しい事』と言う認識を持たずにやり切れたのではないかと思います。児童養護施設での13年間(26歳から38歳)は「この子を良い方向に持って行くにはどうしたら良いのか」を考えてがむしゃらに展開していった事は結局私の精神状態の幅を大きくする結果になったとも思います。リピーターの皆さん。具体的な出会いについては次回以降に頑張って書きますので私の稀有な生き方お付き合いにお付き合い下さい。

今須は「ええ何処でんな~」

令和3年2月9日

朝一に寝室から外を見ると「おいおい一面真っ白ではあ~りませんか。寒いとは思いましたが流石に今須。」と思いました。」その後、施設へ向かう時にはカッカと雪が降って来て田圃も一面真っ白。車に乗ると3℃以下になったら警報音が鳴るシステムが鳴って「流石に今須は寒いでござる。」そんな事を思いながら昨日と同様に8時45分に施設を出発し新規事業の建設をしている隣地にある養護老人ホームに行き、(施設を出発した時には吹雪でしたが関ケ原駅前までくると晴れてきました。)9時30分から海津市さんとの話し合いをさせて頂くのに時間に余裕を持って行ったはずなのですが(9時15分着)、海津市は距離がある為だと思いますが既におみえになっていたので、昨日案内して頂いた部屋に急ぎご挨拶をさせて頂き早速話し合いを持ちました。

1時間近く話をしていると10時30分からの養老町さんがおみえになったと言う事で、新規事業の建設状況をご一緒に見学して頂きました。(毎日のように新築現場を歩かせて頂けるのは直線廊下部分が100メートルを含め健康に良くて有難いです。)養老町さんの話し合いが終了してお見送りをして車に乗ったのが12時過ぎで新規事業で委託契約する業者との話し合いが13時からだったので昼食の準備を頼んだりして今須に入るとまたまた雪がちらついてきてまたまた「流石今須」。

昼食を急いで頂いていると13時からのお約束の方が見えているとの事でまたまた急ぎ会議室へ(業者の方は立って私を待ってみえる事が分かっていたので)14時45分に話し合いが済み大垣共立銀行垂井支店で支店長さんとの打ち合わせがあったので再び垂井に向け車を走らせるとまたまた雪が舞っていて「流石に今須」。打ち合わせが終わり銀行をでた時には陽が射していたのに、再び今須の坂を登る時にはまたま雪が・・・。と言う事は結局施設の所は一日中雪が降ったり舞ったりしていたと言う事で、『住めば都』とは言いますが・・・。

この雪が暑い夏に降ってくれれば一大観光地になるのですが、そうならないから『過疎化と人口減』と言う事何だと思います。いやいや、素晴らしい発想で幸せの地になる妙案がリピーターの皆さん、あれば教えて下さい。

養護老人ホームの入居者さんの引き継ぎが始まりました

令和3年2月8日

盲養護老人ホームの建物については今冬の低温(5℃以下)の影響で、実質1ヶ月は遅れ3月末で解散する事務組合から杉和会が引き継ぐ為、本日の垂井町さんとの入居者さんの引き継ぎを皮切りに海津市、養老町、安八町、関ヶ原町の方が措置されていると言う事で話し合いを順次させて頂くのですが、皮切りの打ち合わせが9時30分と言う事で8時40分に本部施設を職員と共に出掛け9時10分と早くに清風園に着いたのですが、垂井町役場から来て頂く課長さんや係長さんをお待たせするのは絶対にいけない事なので早く着けて良かったと思うし、ましてや明日は海津市と遠い所から来て頂くので、明日も早くに出掛けたいと考えています。本日の話し合いは、垂井町さんが措置された方の状態を教えて頂く事から始まり結果的には2名の内1名は現在病院に入院されていて退院後は特養の入居が妥当と言う事で、本部施設でお受け出来る対応をしていく事になりもう一人の方の情報をしっかり聞く事が出来ました。そんな話をしている時に何となく硝子窓越しに外を見ると入居者さんが結構な早さで歩かれている姿を見て「流石に養護老人ホームの入居者さんは特養と違ってお元気だ」と思うと同時に「何をしてさしあげたらより元気に過ごして頂けるのかの手立てを考えなければいけない。」と思いました。その後施設を約2ヶ月間お借りしなければいけない事とか措置費の利用料等の話をして、1段落した所で新規建物の見学に移動する事にしました。隣地ですので直ぐに移動出来るのですが携帯で監督に連絡するとヘルメットを準備して、監督さんと助監督(女性の方です。)が事務所前で待ってくれていました。私は監督に案内して貰う時にいつも感心する事があります。それは、先頭を歩かれて見学者が歩き易いように物をどけながら進まれるのです。但し本日は先を歩かれる監督さんが整理しようとされる前に助監督さんが活躍されていた事です。上司がされる前にするのは当たり前とリピーターの皆さん思ったら大間違いのこんこんちきですよ。何故ならば今時の若者の中には上司がしていても何も気付かない方が多いのですから。つまり、当たり前が当たり前でなくなってるんです。男性女性は関係なく『自分自分している』方が増えていると思う私はすでに古い人間何でしょうか。見学を終えて役場の課長さん係長さんをお見送りしてから施設に戻り、本日13時30分からの理事会の資料に目を通し昼食を頂き、理事会での会議は新規事業も含めての話し合いを持ち、無事に終了し、その後業者対応を2件して、本日すべき事として、本来コラムもして帰りたかったのですが家に帰りお風呂と夕食を終えて今(20時54分)ようやくコラム記事も書けました。目がつぶってしまいそうなので寝ます。

いの一番に盲養護老人ホームへの求人に来た方の話です

12月1日の建て方の新聞記事が岐阜新聞に大きく掲載されたのを見て、いの一番に職員募集にエントリーして下さった方に改めて意志確認と今後の日程確認の為に本日本部施設に来て頂きました。この方とのお話をすればするほど「盲養護老人ホームが出来たら絶対に関わりたい」との気持ちがひしひしと伝わってきて、私自身は「このような人材と巡り会えた事に感謝」と思っています。

この方のお身内に視覚障害者の方がおみえになり、3年程前に視覚障害者福祉協会前会長の(残念ながら昨年盲養護老人ホームを見る事なくご逝去されました。)清水会長から「近い将来西濃地区に盲養護老人ホームが計画されているとの話を聞き、その会場にいた方々から凄い拍手と歓声が挙がり、私は施設が出来たら関わりたい。」と考えていました。との話を面接が終わり玄関先で開所後に施設長に予定している吉澤が話を聞いたとの報告に私は3年程前に東京青梅にある盲養護老人ホームに施設見学に行かせて頂きその当時の本間事長さんにお会いしてから懇意にして頂き、盲養護老人ホームの全国大会にご招待して頂き、開会式で本間理事長から「岐阜県で盲養護老人ホームを計画されている若山さんも来て頂いています。」と来賓で秋筱宮殿下ご夫妻、加藤厚生労働大臣(当時)斎藤全社協会長さんらの前で紹介してもらった話をして、今回の計画は大変な事ではあるが注目度が凄いものなので頑張ってやり遂げなければいけない。」と話をしました。

新聞折り込みやホームページの効果があった事により、面接希望者の方が今時にしてはたくさんエントリーして頂いていることからも期待度の大きさを痛切に感じています。もちろん施設が完成するのも意義深いものがありますが、開設後の展開を円滑にするかとが肝要だと考えていますので、リピーターの皆さん『杉和会』と検索すると出てきますのでホームページを是非開いて頂きこれからの展開も興味深く見て頂けると嬉しいです。

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