『ふれあい広場』
令和3年3月3日
ほぼ5カ月に渡る『勘当の日々』は8月末を持ってあっけなく終了しました。と言うのは私がその年の9月から13年間お世話になった児童養護施設『誠心寮』での指導員としての誘いをする為にわざわざ徳山村までその当時の誠心寮の理事長の娘婿で当時大垣市内の中学校で校長先生をされていた方がおみえになったので「遠路はるばる来て頂いた校長先生にお断りをするのは失礼に当たる。」と考えてその日の内に施設まで案内をして頂き、翌日に面接を受ける事になりました。8月末とは言え暑い日で面接をして頂いたその当時の理事長の奥さんから私が着ているカッターかた透けて見えたお大師さんの数珠の事を聞かれたので「高校2年生の夏団参から歩いて四国遍路をしているので、欠かさず首にかけてます。」と答えると「週明けの月曜日から来なさい。」との事で何も知らない福祉の世界に入る事になった次第です。私を福祉の道に導いて頂いたその当時の校長先生に後から「どうして誘って頂いたのか」と聞いた事があり、その時の答えが「教員免許を小中高と持っていて、教員を自ら辞めたのは変わり者と思ったから」と言われて複雑な思いになったのは事実です。私が児童養護施設にご縁を頂いた年(1979年)は国際児童年の年でどの施設も何らかのイベントを実施する事にになっていて、地域の方々(例えば民生児童委員さん、PTA会長さん、婦人会長さん、老人会長さん、自治会長さん等)で実行委員会を構成して貰いその年から11月23日と決め『ふれあい広場』が今も実施されています。(昨年はコロナ禍で中止)その年が名誉ある第一回のふれあい広場だったのですが私が入職した9月の段階では全く具体的作業が出来てなくて、本来私の勤務は14時からだったのですが、午前中から看板作りの為にベニヤ板や角材を購入して鋸と金槌を駆使しての看板作りに汗を流しました。この作業が出来たのは大学時代に大学祭の看板等々(「等々とはなんのこっちゃ」等と無粋な事を聞かんといて)を勉学より優先して頑張ってきたお陰かなと思っています。だって勉強はいつからでも出来ますが(今も大して出来ていませんが)この様な事はなかなか出来ませんので・・・。地域を取り込んでの第一回のふれあい広場は1500人の参加を得て盛大に行われ、一回だけで終わるのは勿体無いと言う事で翌年も開催し3000人にまで膨れ上がったのですが、準備も大変になってきたので3回目はしないと実行委員会で決めたのですが、NHKが後援をしての開催を町をあげて開催する話がいつの間にか決まっていて、資金もふんだんに使ってのものだったので実に6000人の参加を得ての開催になり、その後は町全体の後押しもあり、今も続いている次第です。私にとっては13回関わらせて頂いたわけですが、第一回のふれあい広場が一番感動しましたし、手作り感があり印象に残っています。何でもそうなのだと思いますが『ゼロから生み出す』事は苦労も多いですが出来た後の充実感は一入でした。例えばの話しとしてポスターは寮生が作成して町内の広報版に貼りに行く時に先ずは何処に広報版があるのかもわからずに町内のあちこちを車で走り一緒に手伝ってくれる中学生が「先生あそこにある。」と言ってくれるのが嬉しかったし、招待状は私が年賀状を作成するのに使っていた『プリントゴッコ』を持ち込み一枚一枚する作業を子ども達とするのも楽しかったです。施設の玄関には大きな入場門を作るのに子ども達に協力して貰い今須の山に杉の葉を取りに行ったり、『カニのプレゼントコーナー』の為に中学生を連れて海津の河川敷までカニをとりに行って軍手の上からカニのハサミで挟まれたり・・・。「うーん。思いで一杯」リピーターの皆さん思いませんか、最近の事より鮮明に覚えている事実があることを。そして改めて思う事は毎日コラムが書けているのも、毎日が充実してインパクトがある日々を過ごせているから。日々大変な事がありますが『大変な事がある』と言う事は日々充実していていてより良い方向に持って行く事に邁進しますのでこれからもよろしくお願いします。さてさて今日はどんな楽しい、あるいは苦しい事が待っているのやら『ワクワク、ドキドキ、イライラ・・・』