昨日退院をしてな様子です

昨日湯船に浸かり痛感したのは施設でほんの2時間程施設でうごめいただけなのに「めっちゃしんどいし21時過ぎには眠くて何ともならん」と言う事でした。よくよく考えてみればわかる事ですが入院中は絶対安静で基本的には下を向いた生活で、私が歩くのは部屋にあるトイレに行く時に往復で多目に数えても20歩。3度の下膳で(配膳は部屋まで持ってきて下さいました)30歩。(配膳車は部屋のすぐ前)1日多くても3回、眼科病棟へ一回当たり100歩程度。それ以外は腰や肩や腕が痛いときに軽くストレッチまがいの事をするだけの活動のみ。そんな私が我が家に退院時の荷物を置いて直ぐに施設に行き、書類の整理と打ち合わせをしただけなのに。これだけの事でも前日までとは違うのです。そして、21時に眠くなるのも当然です。だって、入院中の手術後は21時に点眼をしたら寝ていたのだから・・・。

そして、本日はと言うと9時過ぎには迎えに来て貰い、10時前からは新規事業の打ち合わせに来て頂いた当法人の元職員で現在垂井町議であり行政書士との打ち合わせをして昼食後は13時から介護福祉士として短大を卒業する学生の面接をして、(卒業見込み証明書が届き次第内定をする事を伝えました。)その後、岐阜市で行われる会議の為に出掛け、会議が終了したのは17時過ぎで車に乗った瞬間に疲れをどっと感じてしまいました。確かに退院した昨日の今日での1日の緊張は厳しいものがあったんだと思いますがコラムを書いている時間がなかったので21時の点眼までには何とか書き終えたいと急ぎ指と頭を駆使しているのですが、ここにきて頭がガンガンしてきましたのでリピーターの皆さん本日のコラムはいつもよりはかなり短いですがクリアと言う事でお許し下さい。明日も岐阜労働局での会議があるのですが、大丈夫かな。いやいや気力でやりきりますのでリピーターの皆さん見守っていて下さい。

本日14時に退院します

2021.1.16

13日間と言う長期に渡って左目の黄班円孔(おうはんえんこう)の手術をして頂く為に入院しました。当初は1週間程度の入院加療との計画だったのですが、手術中に剥離している箇所が見つかりその為の施術もして頂いた為に手術に要した時間も30分程度と聞いていたのが1時間30分位かかり入院期間も2週間近くになりましたが、本日めでたく退院の運びとなりました。昨日のコラムに退院日は母秋江の命日(54年前)に当たると書いた事に対して毎日コラムを見て頂いている埼玉のとっても偉い先生から『退院日がご母堂様の命日とは天界のお母様のお導き』とメールを頂いたので、そのような考え方があり、私は改めて「幸せな環境で生かされているのだ。」と思ったので、6時に起き椅子に腰掛け両目それぞれに点眼をしてから、四国巡礼の時に首に掛け、本堂及び大師堂で土下座をしてお経をあげさせて頂く時に両手に抱く108の玉の念数を両手にして西の空に向け四国巡礼で17歳(初めて参加させて頂いた歳)の時に覚えた(出会ったと言った方が正確かも)般若心経を中心にしたお経を丁寧に唱えさせて頂きました。インターネットで『おうはんえんこう』を検索すると、「最近まで治療法がなかった。」との記述があったのを見て、「私はまだまだ頑張れ」と言われているように思いました。そして、「私が一生懸命に生きているのではなくて生かされているのだ。」とも思いました。そして私の不思議なタイミングについて改めて述べてみることにします。先ずは私が虚弱な体質であった事はこのコラムでも何度か述べていますが、そんな私の命を結んで下さった方の一人が本多先生と言う当時(60年以上前」今須にあった診療所の女医さんの存在です。そして、虚弱な私を何とか生きて貰いたいと願って色々なアクションを起こしてくれた母秋江さんの存在です。今須診療所ははるか前に無くなりその跡地にはスクールバスの車庫になっています。そして母秋江さんは54年前の今日天界に召されました。つまり極端な事を言えば診療所に本多先生が存在しなくて、自分の命をなげうってでも息子である私を大切に思ってくれる母秋江の存在のどちらが欠けても私は今この世に存在していないかも知れません。✳今須診療所がいつまであったのかは理解していませんが、私が無事に小学校に入学出来た頃まではありました。✳次の危機は中学1年の5月の連休明けに腸捻転で手術をして頂いた時にはその当時の関ヶ原病院には立派な外科医がおみえになり、しっかり執刀して頂けました。大学3年であった21歳の時は腸閉塞で祭日であったにも関わらず大垣市民病院で緊急手術をして頂きここでも命を救われました。(執刀して頂いた先生から「あと一時間遅かったら手術は難しかったかも知れない。あなたは死に損ない』と言う事かも知れませんね。」とも言われました。)私の生き方の中でも色んな救世主が現れ今があるのですが、命のやりとりの中でも色々な救世主に恵まれている事に改めて自分自身驚いています。尚、リピーターの皆さんには私の入院に対して多大な心配をお掛けしましたが本日14時に長男の迎えで無事に帰って参りました。入院中のブランクを取り戻すべく長男に本部施設に送って貰い早速私の机の上に山積みされている種類を整理してから、本部施設の状況報告を聞いて指示を与えたり、新規事業のこれからの対応についても指示をして、家に送って貰い今(18時10分)は久しぶりに我が家の湯船に浸かりながらコラムを打っています。まだ、視力の回復には時間がかかりますので、(目の中にサングラスをかけているような感じですし、電柱はまだ曲がって見えます。)しばらくは車の運転は控えながら職員の協力を得てバリバリと活動していきますので、引き続き宜しくお願い致します。

いよいよ明日退院です(口の悪い友人は『脱獄』と言ってます

令和3年1月15日

いつもの口癖である『予定は未定であり決定ではない』のルールでいけば、決して『まさかの坂』が無いとは言えないのかも知れませんが、99.9999パーセント退院になると思います。だって、退院日である食事は昼食までになっていますし・・・。(延期になったら食事も部屋もないのでガリガリに痩せてしまうし、寒さで凍えてまう。「そんなことはいやどす。どす」)明日を退院に控えて入院12日間(明日までですから本当は13日間)で思った事を書きます。

何と言っても最初に驚いたのは17階(特別室のフロア。✳一般病棟の個室はコロナ対策で無い為であり、シーパップを使用している為に他の入院者に迷惑をかけない為特別室で一番お値打ちな部屋なのでシャワーも無くて共同で時間を配慮して使用するような部屋です)までエレベーターで行くとコンシェルジュの3名の方にお出迎えして頂き入院の手続きを手伝って頂き部屋まで荷物を運んで頂けたのには驚くと共に「流石に名古屋の大病院」と感動しました。2つ目に思ったのはコンシェルジュの方だけではなくて、どの看護師さんもてきぱきされていて、しかも優しい対応をして頂け勤務に入られたタイミングと終了のタイミングで必ずご挨拶に来て頂いてます。

また、ナースコールの対応も適宜素早いものでした。(部屋がナースステーションの前と言う事もありましたが)また、今回の入院では主に3人の医師に関わって頂いたのですが、3人の先生の役割がしっかりしていて、それぞれに優しく対応して頂けました。一番若い医師は朝は7時15分に決まって部屋へ来て下さり点眼をして下さり(瞳孔を開く目薬)私が朝食を頂いてから11階眼科病棟の診察室に行くと待機をしている形で診察をして頂き「順調な経過です。」と言って頂け、大抵の日は20時頃に部屋に来て下さり診察をして、これまた「大丈夫です。1日お疲れさまでした。」と声をかけて下さいました。また、主治医の上席に当たる医師の方(退院後のフォローを掛かり付け病院でして下さる先生)は手術前と後の説明を丁寧にして下さり、手術の執刀をして下さった医師も部屋に毎日のように来て下さり「順調ですからしっかり見えるようになりますよ」と言って下さり、安心した入院生活を送る事が出来ました。そして、私は特養の経営者として大切な事を改めて体験させて貰えたので退院後は更に充実したケアに心掛けたいと考えています。

具体的に何かと言うと『身体拘束』についてです。私は5日の日に手術をして頂いて12時頃部屋に帰って来てからその日はずっとうつむきの姿勢でベットにいて、食事の時も下向きで、少しでも前を見ようとすると「下向きでいて下さいね」の言葉が掛けられる状態で、『じっと下を向いている事』の苦痛を味わいました。(昨日まではうつ向き或いは右を下にしての生活でした。)私の場合は『治療の一環』であり、覚悟の上とは言え、「じっとしているのは身体拘束だ」と改めて感じた次第です。そのように考えると「そのままでいて下さい。」とか「危ないので車椅子に腰掛けていて下さい。」は入居者さんの立場からすると大変な事を強いているのだと思った次第です。

もちろん当施設で車椅子に拘束帯やつなき服を着て頂く事は決してありませんが、「じっとしていて下さい」の意味をしっかり受け止めたケアの充実を図って行きたいと明日を退院日にして考えています。リピーターの皆さん。人生に無駄な事は決して無いと思っています。例えば意地悪をされた時に、これは『私の人生修行』と思えば何と言う事は無いし、私が無納税者の生活だった時も苦難とは思わず『目的の為のプロセス』と考えればどうと言う事はない・・・。リピーターの皆さん。本当は今だからそのように言っているだけで、実はくじけそうになったり、わめいたり泣いたり地団駄踏んだ事は数え切れない程あるのですが、その事はいずれまたと言う事で。

『恩返し』

令和3年1月14日

昨日のコラムで書いたように、『恩返し』をしなければいけない方に直接『恩返し』をするのは現実的に難しいのかも知れません。だって昔から『孝行をしたいときには親はいず』と言うのが現実かも知れません。親にしたって自分の子どもに支援が出来るのは(子育ては別ですよ。だって子どもは親が望んで親の責任で子宝に恵まれたのだから)自分の生活に余裕が出来てからですから、『親に感謝する事を意識する』のは、親がしてくれた歳になった頃だから、これは殆ど無理だ。私の生母は13歳、父は38歳の時に逝去しているからとても出来なかったし(と言うよりまだまだ、親に頼りたいばっかりだったと思います。)

昨日コラムで書かせて貰った吉田宏岳先生や先代理事長にしても、お世話になった頃はがむしゃらに施設運営に頑張るしかなかった時期であり、とても恩返しをする等と言う発想に至る状況ではなかったと思います。但し、かつてもコラムで書いたのですが法人設立前に色々な施設へ見学に行かせて貰った時は、私自身は全くの無名な存在で名刺の肩書きには『関ヶ原町老人施設設立発起人代表』と名乗ってはいたものの認可された組織でもない存在であったにもかかわらず、どの施設でも誠意を持って迎えて頂けたので、今の私は施設見学におみえになる方々には私なりに職員の協力を得ながら誠心誠意でお迎えし、満足して頂ける対応をさせて貰っています。

私は今の法人が成り立っているのは、地域の福祉ニーズに応えながらの展開をさせて頂いているからと信じてのもので、色々な方々への恩返しは地域の期待に沿うことこそ肝要とも考えています。法人自体は資金がふんだんにあるわけでもないですが、職員の頑張りと地域の方々の支援で成り立っているとも考えています。今の私があるのは色々な方々に支えられて今があると思うと『恩返し』等と言う言葉は決して軽々しく言える言葉ではないとこのコラムを書きながら感じています。

そんな中で、退院日が明後日1月16日に決まりました。1月16日はいみじくも母秋江さんの命日です。(54年前でず 。)長男に迎えに来て貰って家に帰ったらいの一番にお仏壇にお参りし手を合わせてお経をあげて、無事に手術が終わった事を感謝です。だとすると、私は67歳になった今でも母秋江さん父進さん姉光子さん・・・。数え切れない位の方々に感謝して、精一杯の恩返しを出来るだけ多くの方にしていきたいと考えていますのでリピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

 

違和感がとれました そして私の考え方。

令和3年1月13日

昨年最も人気のあったドラマで『半沢直樹』というのがありました。流行語のようになった猿之助さんが演じておられた部長さんが「詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろー、、、詫びろ」は今でも芸人が良く使っているフレーズです。『土下座』のシーンもよく使われますし、今回違和感があるとした「施されたら、施し返す。恩返しです。」もよく使われます。そこで「施されたら施し返す。恩返しです。」に対しての違和感についてを今日のテーマとします。(5時前に目が覚めベットの中で考えていた事を書きます。)先ずは「施されたら、施し返す」ですが、目上の方から施されて、そのお返しをすると言う事は有り得ないと思います。

今は死語のように思われていますがかつてはよく『滅私奉公』と言う言葉がまかり通っていました。その言葉は昔のしきたりで『のれん分け』に合い通ずる事だと思うのですが。つまり、一生懸命に格上の方、或いは、雲の上のような存在の方、経営者の方に滅私奉公をしていた結果『施される』のであって、「こんだけの事をやったんだからこんだけの対価があって当然だ」的なものがまかり通る考え方に対して私的には大いなる違和感を持っていると言う事です。

私が13年勤めた児童養護施設を退職して違う施設で週に何回かスーパーバイザーのような立場で仕事をさせて貰った時にその当時小学5年生の男子に仕事を頼んだらその子が「これをしたらなんぼくれる。」と言われて「頼まれ事をする前にお金の要求するんならはしなくて良い」と言ったのを今でも鮮明に覚えています。(今考えると、小学5年の男子にしてみたら「人間関係が出来てない先生の言う事を聞いてたまるか。」と言う事だったと思えるようになりましたが)何でも見返りを求める発想が嫌なのです。そんな事を言ってる私自身は法人設立時も設立後も『施していないのに施された』事が実は一杯あり、『恩返し』がまだまだ出来ていない事が山ほどあります。

その最たるものが、福祉の師である吉田宏岳先生(元日本福祉大学副学長で当時中央福祉専門校長)です。それは法人設立の為に順調に走っていて、その根拠となる資金面の援助を引き受けて頂いていた方が急逝され計画が暗礁に乗り上げた時、私は腹を括って資金集めの行脚に行った最初の方が吉田宏岳先生で10分も話をしない内に「ちょっと待ちなさい。』と奥に行かれたかと思ったら、1千5百万の通帳を見せて下さり「明日、このお金を振り込んでおくから頑張りなさい。

それから、若山君が頑張っている事を色んな方に話ししておく。」と言われて私は「先生にここまでして頂ける存在ですか。」と正直に聞くと「先行投資の積もりですから、10年先を楽しみにしてます。私が支援して立派にやられている方はたくさんいますよ。」と言われたのです。今でも返せたとは思っていませんが、きっと今でも天国から優しい眼差しで見守って下さっていると確信してます。

もう一人先代の理事長にも「娘むこが頑張るんだから5百万位は支援しなければいかんな」と言われていたのですが、先に述べたように予定していた資金が頓挫して予定より一桁以上多い支援をして貰って、施設が稼働してから二人でしみじみお酒を酌み交わしているときに「目一杯支援して頂きありがとうございました。」と言うと「立派に施設が建ったんだから良かった。これからは地域の方々に施設が出来て良かったと言われるように頑張りやさい。」と言われたのもしっかり覚えています。『恩返し』は出来ていない私ですが、これからも地域でなくてはならない施設にしていく事によって、恩返しをしていきたいと考えていますのでリピーターの皆さんこれからもご支援宜しくお願い致します。

『場面かん黙症』と言う病気

令和3年1月12日

家の中で人間関係が出来ている人との会話は出来るのに一歩外に出て話をしようとしても話をすることが出来ない病気で現代の子どもの500人に1人がなっていると言う事です。

私はこの病気の事を昨日のテレビで初めて知りました。その時私は自分が小さい頃の事を思い出しました。私が小さい頃外出する時は母秋江さんの後ろに隠れるように付いて行き母秋江さんが話をしていて私は必要最低限の返事をしていたように思います。そんな私でしたので小学生になり一人でお使いをするようになったのは我が家から2百メートル程西に行った家が鶏を飼っている所へ、10個買いに行くと1個おまけして頂けるのが自慢で喜んで行ったのを今でも覚えています。その程度の事を覚えているのは如何に色んな体験をしていなかったかと言う証しではないかと今更ながら思います。そして、60年近く前は卵1個が今とは違い貴重なものだったのだと思います。

話を戻します。私は『場面綣黙症』についてのしっかりとした知識を持っているわけでも有りませんし、その事についてコメント出来る立場でも有りませんが、話が出来なかった時の辛さは良くわかります。今では5時間でも、10時間でも「話をして良いですよ。」と言われたら(ありえへ~ん)ストップがかかっても話し続ける自信がありますが(人の迷惑省みず・・・。)小さい頃の私は何かを答えるにしても小さい声でボソボソと話をして、「もう少し大きな声でしっかりと」と言われるとますます声が小さくなり、最後には喉が苦しくなってしまう事が常でした。声帯等に問題がないから家では話が出来るとすると精神的な部分が殆どだと思うのですが、何らかのきっかけでそのような状態になっているのだとすると、過去に遡っての治療は無理なので苦しみを克服するのは自分自身しかないのかな。

私も今は目の手術をして頂いて丁度1週間になり、目ね中にサングラスをしている状態でイライラが爆発寸前ですが、焦ったからと言って早く良くなるわけでもなし・・・。でも、正直イライラしてます。話をしたくても出来ないでいる子どもが一杯いる事を知って私の場合は手術が出来た。手術と言うのは手術が終わった瞬間から快復に向かうものと信じているので・・・。「でもなあ・・・」「ええい。女々しいぞ。見苦しい。」と誰かの声が・・・。これが聞こえてこんのです。だって、私は恥ずかしながら『よしよし』される環境しか経験してないので・・・。

事業に対しては自分を律して頑張れる自信はあるし、自己犠牲も何のその。趣味は仕事だと常に豪語している私ですがリピーターの皆さんうだうだしか言えない私ですがお許し下さい。

『責任』

令和3年1月11日

昨夜関ヶ原町役場職員が「16時以降水が激しく排出されている。」との事で施設に来て下さりメンテの契約をしている業者の方にも20時過ぎのしかも3連休の中日にもかかわらず急遽来て貰ったところ、原因がお風呂を使用した後の対応が不適切で、「お湯がどんどん流れてしまっていた。」との事で(一時間に約5立平)水の流出については解決したものの、職員の対応の悪さによって色々な事が浮き彫りになり、幹部職員として、あるいは幹部職員でない職員であっても、それぞれの立場での責任があることを如何にして周知して実践させるかを総合施設長の立場で考えています。

今回のケースは初歩的ミスなのか、あるいは職員の手抜きによって起きた事なのか。『一つの現象の中に多くの不十分性を見出だし徹底していく事が肝要』であると考えています。昨夜の水の排出は解決したものの朝6時に宿直者の北島部長から『厨房からお湯が出ない。』とのメールを受け取り、『責任ある対応が如何に大切か、その徹底をするフロア責任者の責任及び全てを統括する施設長の責任の重さを痛感しています。』と言う事で私が組織のトップとして一番懸念することは、職員の『手抜き』であっても『うっかり』であったとしても、今回は設備での現象だったのですが、これが入居者又は利用者に対するものだったとしたらとんでもない事になると思います。

もちろん、今回の事にしても、役場の職員が二人も日曜日の夜間に出向いて下さったのだし、メンテをお願いしている業者の方も二人来て頂いたし、事務所に残っていた事務長と宿直者の北島部長も対応の為夜遅くまでの対応になったのだから、今回のような事が2度と起きない体制を確立しないといけないと思うのですが、何と言っても私は入院中で職員の頑張りに委ねるしかないので余計にイライラがつのります。正直昨夜は日付が替わっても問題解決しなければ「病院を抜け出しタクシーで施設まで行くしかない。」と真剣に考えていました。今回の事は私自身の試練だと考えるべきかとも思います。

その理由は2つです。1つは、トップである私がいつまでも前面に立つのではなく職員が全面的に考えて実践する。つまり、ピンチをチャンスに変えて頭角を現すのを待つ。2つには、駄目なところをだしつくし正しい方向に軌道修正をして新たに発進する。2つ共に厳しい事ですが、10年先20年先を睨んだ時にはいずれ断行しなければいけない事だとも言えます。高齢者人口が減少していく2040年をにらんだら必然なのかも知れません。リピーターの皆さんが私の葛藤の一端でも理解して頂ければ嬉しいです。

入院生活1週間が経過しました

 

令和3年1月10日

目の手術ですから看護師さんが食事の食べ具合を確認にみえる度に「完食です」を繰り返すばかりです。但し、複雑な病院の作りも、一週間も入院すると何とは無しに目的地に行けるようになってます。だとすると、入院当初は迷ってしまい、うろうろとさ迷っていたのですが、この失敗によって今はスムーズに行けるのだから『失敗から学ぶ』は大切な事だと改めて思いました。但し、このような失敗は自分の中で『苦笑い』で済む話ですが、介護施設や病院には対象となる方がおみえになるので、決して間違えは許されないので、知識と情報と一生懸命さがなければいけない事と改めて考えています。

施設を開設した当初は『児童の事なら大抵の事は対応出来ると考えていましたが、高齢者の事は全くの知識が無く、一生懸命さだけではクリア出来ない事が一杯あって、高齢者の方から命をかけて教えて頂く事が多くありました。』と今更ながら述懐しています。良く私は「命をかけて教えて頂いた体験は絶対に忘れず生かさなければ申し訳ない。だから、決して喉元過ぎれば熱さを忘れるではいけない。」と何度も何度も職員に話しています。

入院生活も一週間が経過するとリズムある生活になります。朝は6時に携帯のアラームで目を覚まし、ベットから起きてガウンを羽織りナースコールで看護師さんに来て貰い、クリーンコットンを準備して椅子に腰掛けると看護師さんが来て下さり目やにを綺麗にとって貰い(かなり目やには減ってきました。)看護師さんが部屋を出られると両目にそれぞれ点眼をして、洗面を済ませ、左目(手術をして頂いた方)に2本目の目薬をさして、テレビのスイッチを入れてニュースを聞きながら再びベットにうつ向けになってしばらくするとお茶を持って来て下さり、その後再びしばらくして食事を運んで来て下さり、再び起き上がり、持参した漬け物とフルーツゼリー、コンシェルジュの方が買って来て貰った海苔瓶と薬用の水を冷蔵庫から取り出し朝食を頂いてから薬も飲みました。

本日は日曜日で9持30分から診察があるので11階の眼科病棟に行き(もちろん一人で行けました。)受診後はシャワーの予約と自販機でお茶を買い(本日は余分にオロナミンCドリンクも買いました。)部屋に戻るとしばらくして11時の点眼の為のアラームが鳴り・・・。ちなみに点眼は6時、11時、16時、21時の4回で、食事は7時30分、12時。18持です。正直、楽しみはわずか10分のシャワーと3度の食事だけ・・・。いやいや、大好きな大きなあられもなごやんも食べてます。21持10分には就寝して6時起床の規則正しい毎日に退屈さを覚え出したのは快方にに向かっているからと感謝しつつ、退院してからのバリバリの仕事の為の充電期間と考えていますので、リピーターの皆さん退院後も宜しくお願いします。

 

入院生活の中で思う事

うつ伏せではなくて右向きで寝て良いと言われて手術が終わった日の夜が全くしんどくて2日目からは右向きで寝てみて、この状態で眠れる幸せを感じながら本日も6時にセットしたアラームの『コケコッコー』によって行動開始。

これまたいつものようにベットから起きてガウンを来てからナースコールを押し看護師さんに来て貰い持参したコットンを手渡し目やにをとって貰いお礼を言ってから両目にそれぞれ目薬を指し、その後洗面を済ませ左目に2本目の目薬を指し先ずは朝の入院生活は始まります。

そんな毎日が今日で6日目ですが、私なりに病院生活から感じた事、思った事を書きます。先ずは何と言っても私が入院している17階にはコンシェルジュの方がエレベーターを降りた正面に3人みえてお出迎えして頂いたのには面くらいました。このコンシェルジュの方が入院の受付をして下さり荷物を台車に載せて部屋までの案内を兼ねて来て頂き、部屋の中の説明もして頂けました。正直不安な部分がかなり払拭出来ました。

この病院の看護師さんの勤務携帯は16時間夜勤の方と3交代制の2パターンがあり選ぶ事が出来ると言うのは今時の考え方だとは思いますが、大きな病院だから出来るシステムかとも思いました。看護師さんは患者さんの担当がしっかり決まっていて、勤務に入られる時と退勤前には必ずご挨拶に来て頂けるのは素晴らしい対応だと感じました。本部施設のシステムには早出が7時~16時、日勤が8時30分~17時30分、遅出が10時~19時、夜勤は16時~翌日10時、その他にも短時間勤務の職員もいるので入りと出に挨拶をしっかり実施すれば、フロアの環境も今まで以上に明るいものになると考えています。

23年前に本館を開設して半年が経過して、ようやく施設入居者が満床になった平成10年10月3日。ショートステイ4人目の依頼をその当時の指導員(今は相談員と言います。)が現場からの反発で受けなかったとの報告を外出先から帰って聞いた時には愕然としましたし、その当時の職員は私がお客さんを連れて施設案内をしていても挨拶すらしないので理由を聞くと「忙しい」との答えが帰ってきたのを驚きの中で聞いたのを今でも覚えています。『急がば回れ』が当てはまるかは甚だ疑問ですが、『手を抜くとその反動は2倍3倍になって跳ね返ってくる。時には取り返しがつかない結果になることもある。』と職員には何度も何度も言ってきました。

今の当施設の現状はそれなりには挨拶も出来るし、やるべき事も出来るようになってきましたが、今回の私自身の入院で改めて感じる事がありますので、しっかり目の治療が済み退院するまでの有り余る時間を使って自分自身と杉和会の事を考えて更なるキャリアアップに邁進していきたいと考えていますので、リピーターの皆さんこれからも一層の支援をお願いいたします。

感動です(ちょっと大げさかな)

令和3年1月8日

6時にセットしたアラームで目覚め3種類の目薬を点眼しようと思ったのですが、手術をした左目が昨日に引き続き目やにが凄くて眼がしっかり開けれない状態なので「ここはナースコールをしてしっかり目やにをとって貰おう。』でナースコールを押し看護師さんに綺麗にして貰いその後点眼をしてもう少し横になろうとしていたところ、看護師さんが眼科病棟がある11階に行くように指示があり(7時10分)「昨夜も20時過ぎに診察して貰ってるから若い女医さんはいったいどんだけ仕事をされるんだ」と思いつつ、眼科病棟の診察室に一人で行きました。(行きも帰りも一人で大丈夫になりました。どうや、えらいやろう。)先生に「朝早くから夜遅くまで大変ですね。」と話しすると「患者さんは24時間病院ですよね」と言われたので、『一本とられた。』と思ったので「患者はいずれ退院しますから」と返しました。診察から帰ると朝食がきていたので、手洗いとうがいをしてから朝食を頂く事にしたのですが、おかずの一品に生野菜が刻んであり、ドレッシングが付いていたのですが、私はドレッシングをかけるくらいなら醤油をかけて食べるのです。そして、「醤油はないしドレッシングは食べたくないし、何もかけずに食べようか」と一瞬考えたのですが「病院食は全部食べなけれ申し訳ない。」と思い直してドレッシングをかけて食べてみました。そして、今までのドレッシングのイメージを払拭しました。

と言うのは、しっかりご飯に合う味で「結構旨い。」この発見は67才にしての凄い発見だし『感動』しました。(そんなに大げさに言う事ではないのでしょうが・・・)午前中は施設での対応に対して檄文を書いたり、全国老施協制服会長委員長会議ウェブ会議に本来私が出席をして、総務・組織委員長として来年度の方向性について述べなければいけなかったのですか、入院中ではそれも叶わず、徳島県の森岡副委員長に委ねていたので、森岡副委員長の発表が終わった頃を見計らい連絡すると、少し事務局とのズレがあったように感じていたので、森岡副委員長には労いの言葉をかけると共に退院後に平石会長、皆川副会長及び北條専務と調整する話をしました。

入院中で浮世離れの生活ですが、電話をしているときや施設の対応をしているときはシャキッとして、早く退院をしなければと考えるばかりです。昼食を終えてから、病院自体は3連休になる事を考えて、私自身は目以外は健康体と言う事で食欲はあり、毎食完食をして、尚且つプラスアルファの品ものを一杯持ってきたのに3連休で品薄になる(食べなけれは良いのですが)のを心配して、コンシェルジュの方のところへ行き買い物を依頼してからシャワーで首から下を洗い流しました。

その後手術を執刀して下さった先生が目の状態を確認に来て下さったり、眼科外来に行き検査をして貰ったりで本日の入院生活も終わりそうです。眼科外来の所から一人で帰れたので「そろそろ退院かな」とは思いつつも、目の中で液体がユラユラしているので3連休で頑張って安静にして、連休が明けてなるべく早くに綺麗に見えるようになって退院したいと考えています。いつも私が言っているように『予定は未定であり決定ではない。』のでリピーターの皆さん私の早くの完治を祈っていて下さい。

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