児童養護施設を辞めてから
令和3年3月8日
私の父進さんは私と違って本当に本当に本当に『温厚』だったので、私の我儘な生き方を見守っていてくれたと感謝しています。つまり文字通り『木の上に立って見る=親』(どう言う意味か分かって頂けると幸いです。)だったと思っています。「えっ、私ですか。私は木の上に立つ前にズカズカと・・・・」。
児童養護施設を辞した時に個別指導のケースがどれだけあるのかの情報もなく、大垣女子短大の非常勤講師をしながら件数を増やしていけば何となく出来るくらいの、今から考えたらあまりに無謀な我が家の生活費の事など全く考えないスタートでした。
施設職員を辞めた段階で私がしようとした事は個人事業主の枠になると言う事で、自分で国民健康保険に入らなければいけないし、納税も自分でしなければいけないし、組織がない事の大変さが身に沁みました。拠点も無いままの無鉄砲さの中で、『教育・福祉カウンセラー』等と言う仰々しい肩書の名刺を作り、『不登校児童の親の会』を立ち上げ、一人ひとりのご縁を大切にしながら悪戦苦闘の日々の中、その当時、中央福祉専門学校の吉田宏岳校長先生が主宰されていた学会の『教育と福祉を考える会』の末席でうごめいて行く中から福祉関係者とのネットワークを確立していき、大学・短大・専門学校の講義を週に13コマを担当させて貰い、家庭教師も3軒掛け持ちをしつつ個別ケアの対応も軌道に乗って来た3年目に気が付いたのは若山家が火の車であるとの現実でした。
と言うのも非常勤講師の1コマ当たりの単価は皆さんが考えられているよりはるかに安価であり、不登校児の親子共々困られている家での個別指導に至っては高額な金額を提示するわけにもいかず、だからと言ってアメリカのように政府の援助があるわけでもなく、自分自身理想と現実の狭間の中で立ち往生をしてしまいました。
そんな中で考えたのは「一人でうごめくには限界があるので拠点を作らなければいけな。」と考えて情緒障害児短期治療施設の建築にシフトを切り、一生懸命な展開の中で、親戚筋から広大な土地の提供の申し出があり、その親戚の方に背中を押される形で名古屋にある情緒障害児短期治療施設に何度か教えを請い、何とか設計図まで作成しその当時の岐阜県児童家庭課に相談に行くと、「ここ10年は計画をする予定がない。」と言われ、私の根回しのなさに正直憔悴する日々が続きましたが、「流石に10年は待てない。」と言う中で吉田宏岳先生から「若山さんの福祉に対する熱い思いを高齢者施設で形にしてはどうか。」とのアドバイスを頂きました。しかしながら、そんなに簡単に児童から高齢者にシフトを切れる程の度量もなく、それからものたうち回る日々が続きました。リピーターの皆さん。流石に無鉄砲な私でもいっぱいいっぱい悩んだ時期があるのですよ。