児童養護施設を辞めてから

令和3年3月8日

私の父進さんは私と違って本当に本当に本当に『温厚』だったので、私の我儘な生き方を見守っていてくれたと感謝しています。つまり文字通り『木の上に立って見る=親』(どう言う意味か分かって頂けると幸いです。)だったと思っています。「えっ、私ですか。私は木の上に立つ前にズカズカと・・・・」。

児童養護施設を辞した時に個別指導のケースがどれだけあるのかの情報もなく、大垣女子短大の非常勤講師をしながら件数を増やしていけば何となく出来るくらいの、今から考えたらあまりに無謀な我が家の生活費の事など全く考えないスタートでした。

施設職員を辞めた段階で私がしようとした事は個人事業主の枠になると言う事で、自分で国民健康保険に入らなければいけないし、納税も自分でしなければいけないし、組織がない事の大変さが身に沁みました。拠点も無いままの無鉄砲さの中で、『教育・福祉カウンセラー』等と言う仰々しい肩書の名刺を作り、『不登校児童の親の会』を立ち上げ、一人ひとりのご縁を大切にしながら悪戦苦闘の日々の中、その当時、中央福祉専門学校の吉田宏岳校長先生が主宰されていた学会の『教育と福祉を考える会』の末席でうごめいて行く中から福祉関係者とのネットワークを確立していき、大学・短大・専門学校の講義を週に13コマを担当させて貰い、家庭教師も3軒掛け持ちをしつつ個別ケアの対応も軌道に乗って来た3年目に気が付いたのは若山家が火の車であるとの現実でした。

と言うのも非常勤講師の1コマ当たりの単価は皆さんが考えられているよりはるかに安価であり、不登校児の親子共々困られている家での個別指導に至っては高額な金額を提示するわけにもいかず、だからと言ってアメリカのように政府の援助があるわけでもなく、自分自身理想と現実の狭間の中で立ち往生をしてしまいました。

そんな中で考えたのは「一人でうごめくには限界があるので拠点を作らなければいけな。」と考えて情緒障害児短期治療施設の建築にシフトを切り、一生懸命な展開の中で、親戚筋から広大な土地の提供の申し出があり、その親戚の方に背中を押される形で名古屋にある情緒障害児短期治療施設に何度か教えを請い、何とか設計図まで作成しその当時の岐阜県児童家庭課に相談に行くと、「ここ10年は計画をする予定がない。」と言われ、私の根回しのなさに正直憔悴する日々が続きましたが、「流石に10年は待てない。」と言う中で吉田宏岳先生から「若山さんの福祉に対する熱い思いを高齢者施設で形にしてはどうか。」とのアドバイスを頂きました。しかしながら、そんなに簡単に児童から高齢者にシフトを切れる程の度量もなく、それからものたうち回る日々が続きました。リピーターの皆さん。流石に無鉄砲な私でもいっぱいいっぱい悩んだ時期があるのですよ。

 

1988年にアメリカ研修に行かせて貰いました

令和3年3月7日

資生堂福祉財団の海外研修団に参加させて頂いたのは、私が誠心寮で指導員になった1979年9月の事です。福祉の事など何も知識のなかった私が僅か勤続年数9年で参加させて頂いたのは、今から考えたら脅威に近いものがあります。だって資生堂福祉財団側にとっては、一人の団員を送り出すのに約100万円を資金提供をするのですから。全国から僅か17名の強者の中に選ばれたのは今でも凄い事だったと思っていますし、岐阜県から私より前に参加されたメンバーを見るとそうそうたるものですから。但し、その頃の私は今から考えるにかなり『調子ついた』と言うか『仕事に乗りまくっている』と言うか『向かうところ敵なし』のような毎日でした。

今から考えると冷や汗ものの様ですが、『養護施設 東海北陸ブロック研修大会』で発表した際にフロアの方から「そんな展開は絶対に出来ない。」と言う意見が多かった中で、「経験豊かな先生方が何を言ってるんですか」的な滅茶苦茶生意気な態度で話しをしていたのを覚えています。そんな私がアメリカ研修中には良き団員に恵まれ、児童福祉から高齢者福祉に変わった今も年に1回の『ボストン会』(同窓会のような集まり)には参加しています。但し、昨年についてはコロナの影響で延期になっています。

さて、私がアメリカ研修では多くの事を学ばせて頂きましたが、特筆すべき事項について以下に述べる事にします。一人の児童の問題に対しても福祉専門職の方の他に、精神科医、小児科医、歯科医等多くの方が関わってのカンファレンスが開かれていて、私が参加させて頂いた会議の中のいわゆる座長的存在の方が福祉専門職の方であったのは、日本の状況との違いを垣間見る思いでした。つまり、福祉専門職の社会的認知度も高く政府からの援助も手厚い事を知り、ここで私は大いなる勘違いをして、アメリカ研修から帰って直ぐに「アメリカの5年後、もしくは10年後には日本にもこの流れは来る。と思い、在宅の個別指導で頑張りたい。」と考えて児童施設指導員を辞す事を考える様になりました。(実際に退職したのは3年後です。)もう一つインパクトが強かったのは、素敵な白人の夫婦が里親として子育てしているとの事で家に訪問した際に、若い白人の女性が赤ちゃんを抱いて自慢そうにしている赤ちゃんが、明らかに黒人の赤ちゃんだったのには正直驚きましたが、本来こんな事で驚いていては日本の里親制度は上手く行くわけがないと自嘲気味に思った次第です。

私の38歳からの波瀾万丈はアメリカ研修から始まったと言う事ですが、自分がしたい事をする人生は大変ですがある意味充実した日々だと思っていますので、これからもめげずに頑張ります。リピーターの皆さん、ハラハラドキドキの私の生き方に宜しくお付き合い下さい。

 

『石の上にも三年』とよく言いますが

私は高校も大学も全くと言って良い位に努力をせずに「行ける所に入学出来たら。但し父親はあまり遠くに行かせたくないと思っているので、名古屋までの選択をしなければ」との考えくらいだったので、名城大学法学部に進学した次第です。

どうして法学部かと言うと私は中学1年の春のゴールデンウィークが明けた日から腸捻転の手術(同時に盲腸も切除して貰いました。)をして学校に復帰した時に英語の授業がまるでチンプンカンプンで、しかも当時の英語担当の先生が優秀な生徒を大切にする先生で・・・。とにかく英語が嫌いで尚且つ何の手立てもしなかったので英語は特に点数が取れない受験生(と言うのは当てはまらないかも)だったので各教科で最低点が決まっている所は自信を持って駄目だったので、ことごとく不合格で何故か合格したのは名城大学と愛知学院大学(最低点がない学部だったのだと思います。)の共に法学部だったので、二つの内の名城大学を選ばせて貰った次第です。

そんな風ですから「法律を学びたいから」とか、ましてや「弁護士になりたいから」とかの志しを持っての進学ではなかったので大学では友達の影響を受けて落語や演劇や音楽や学生運動モドキに明け暮れ「大学の単位は1年次と4年次に、教職課程は1年次と5年次に取得した。」と言っても過言ではないと思っています。(お父さん、ご免なさい)そんな私に初めての試練を与えて頂いたのが、児童養護施設での指導員時代です。

誠心寮で仕事をするようになって半年が経ち「児童施設で骨を埋めよう」と考えていた頃に、私の直属の上司で経営者の息子さん(私は当時『お兄ちゃん』と呼ばせて貰っていました。寮生もみんなそう呼んでいたので)から「石の上にも三年と言う諺があるので三年間は施設の生活にどっぷり浸かれ」と言われ、午前10時には出勤して午後11時過ぎまでほとんど休みも取らずに頑張っていました。

結果的には三年目になった頃から「誠心寮に頑張っている指導員がいるのにどうして研修にも出さないのか」との発言を他の施設の施設長さんから度々出たと言うことで三年目の途中から研修にも出させて頂くようになったのですが、何せ基本的に一年目に受講する新人研修も二年目で受講する中堅研修も受ける事なく(今更受けても仕方がないと上司に言われて)その当時頻繁に開催されていた指導員部会に参加させて貰うと共に自分が参加した事のない新人研修や中堅研修の講師役もさせて頂いていましたし、委員会にもその当時の調査広報委員会にも参画させて頂きました。

特に印象に残った事は最初に指導員部会に参加した時に他の施設の指導員さんから「若山さんは午前中から出勤して夜も遅くまで頑張っていて公休もあまりとらないと聞いているけど何か理由があるのか」と聞かれて即座に「私は大学も一年余分に行かせて貰い教員を辞めてから5ヶ月も徳山村で仙人のような生活をさせて貰ったので公休を前倒しで頂いているし、私の勤務はいわゆるフレックス性に近いものだから大丈夫です。」と答えたのでみんなから呆れ顔をされたのを今でも覚えています。また、出張に行った時に他の施設の職員さんはそのままご自宅に帰られるのですが、私は例え高山市内の出張であっても施設に帰り少なくても中学生の勉強会は通常通りしていました。

リピーターの皆さん。私がそこまでにした理由は私にとって天職のように思い、子ども達に寄り添い時には兄貴のように、時には父親のようにやらせて頂ける事に喜びを持っていたからだと思っています。

小学5年生の男子が入寮してきて色んな事を学びました

令和3年3月5日

児童養護施設の指導員時代に明らかに母親から虐待されていた小学5年生男子が入寮してきた時のケースをお話しします。小学5年生の男子が措置されてくるとの事で事前に情報を見ていて、身長も体重も明らかに少なくて小学1年の子と変わらない数値だったので正直「何かの間違いではないか」と思っていたのですが、本人を前にして「間違いない記録だった。」事を知り、家庭環境によって発育に大きく影響するのだと言う事を先ずは理解しました。(最近のニュースでは明らかに体重が少ないケースの報道がよくありますが。)

最初に会った時の印象は「不安が大きいからか意味の分からない事を良く話しする子で、顔が小さくてサルみたいだ。」と申し訳ないのですが正直な印象でした。それよりも印象深かったのは入寮初日の夕食の場面でした。食事は通常、ご飯 と味噌汁とおかずがあり、基本的にはいわゆる『三角食べ』なのですが、そんな中で彼の食べ方は先ずはご飯茶碗をソロっと持ち、全部ご飯を食べ終わるまでご飯茶碗を口から離さないのです。そしてご飯茶碗が空になるとそのご飯茶碗をソロっと置き、次に味噌汁のお碗をソロっと持ち、これまた全部食べ終わるまで口元から離さなくて、その後のおかずも同じ要領だったので驚いてしまいました。

なぜこのような行動をとる様になったかを私なりに考えてみた結果は、家での食事の時に母親の機嫌が悪い時には、茶碗を置いた時に『ことっ』と音がしただけで「うるさい」と手当たり次第物が飛んできたら嫌だからなるべく音がしないように茶碗を置くタイミングを少なくしていたのではないかと推察しています。(この習慣から通常のように食べるようになるのにほぼ1カ月かかりました。)そして極端な位に多動であり落ち着きがなくて、正直私もイライラする事が度々でした。学習室(地域に開放している児童館の2階)でも落ち着きがなくて他の小学生からも鬱陶しがられていました。

この子が初めての正月帰省で母親が迎えに来る日は朝からいつも以上に落ち着きがなく、みんなと一緒に勉強をしていて、母親が迎えに来たとわかると、飛び上がるように立ち上が慌てて荷物を持って母親の所に行くと米つきバッタのようにぺこぺことしているのを見ていると母親は「もっと早くしなさい。」等々とがみがみ言っているのには唖然とさせられました。もう一つ驚かされたのは中学生になり数学や理科の教科はそこそこ出来るのに漢字は全くと言って良い程に書けないのです。そんな彼でしたが中学校を卒業する頃には同級生と変わらない位の体形で、高校にも進学して小学時代にはがみがみ言っていた母親が高校を卒業した彼の腕につかまる様に歩いているのを街中で見た時には正直安心しました。だってリピーターの皆さん思いませんか、力関係が逆転した時に半沢直樹ではありませんが『倍返し』のような状況になったら悲しいではないですか。倍返しにならなかったのはありがたかったと思っています。

 

カリスマ指導員の実体は

令和3年3月4日

ふれあい広場の準備に明け暮れながらも、本来私の業務は小学3年から6年までの学習を夕食前にみて、夕食後は中学生の学習を22時まで見る事でした。小学生の学習は順次宿題の確認をして国語の本読み、あるいは私が手作りしたプリントをする程度でした。小学生の子は、直ぐに馴染んでくれたので全然違和感無しに最初から出来たのですが、中学生の子についてはそんなわけにはいかず、集団学習をしている机の間を行ったり来たりする毎日でした。そんな中で中学1年の女子が初めて手を挙げて教えて欲しいとの事で勇んで彼女の所に行き問題を見た瞬間に頭が真っ白。だって私のその頃の頭では解けそうもない問題だったから。つまり私は指導者の立場でありながら、指導など出来る知識などない指導者だったのです。但し一つの救いは『一緒に問題を解く』お付き合いの出来る指導者だったのです。

今だからこの事を平気に言えるのですが、指導者としては綱渡り状態だったのです。端的に言えば私の学力は子ども達と共に伸びていったと言っても過言ではありません。だから、通常の学校の先生のようにしっかりとした学習指導が出来るだけの能力を持ち合わせていなかったので、子ども達に私自身が育てて貰ったと言っても過言ではありません。但し、問題を解くときはその都度真剣勝負だったので私自身が学習意欲のめちゃめちゃ高い『生徒』だったと言えるのでは無かったかと今になって思っています。だってもともと学習能力の高い子は、さらっと解けてしまうので、解けた時の『感動』は少ないと思うし、下手をすると「分からないと言う事が分からない」先生になってしまうように思います。そう考えていくと私の人生は『知らない事を色んな方に迷惑をかけて育てて貰っている人生』と言っても過言ではないと思っています。

改めて具体的に述べるならば、中学2年の歴史の授業を教えなけれはいけない時にも事前の仕込みの中でいかにも色んな事を知っているように調べた事を話ししたり、小学校4年の理科の実験では「何故このようになるのか」も理解して無くて気付きの多い子(頭の良い子)の指摘を受けながらの授業だったと思うのですが、今から考えると「子どもと同じレベルで考えれて良かった」と言う事になるのです。児童養護施設での13年間も子どもたちと一緒に頑張れたから成果があがったと言えると思います。

平成10年5月に事業開始した本部本館にしても、児童福祉についてはある程度語れるようになっていたと思いますが、高齢者福祉については、正直何も理解出来ていない中でのものだったので、入居者さん、利用者さんに色んな形で教えて頂いたお陰様で23年と言うのが本当の事なので、今回5月16日に竣工式が行われる岐阜県初の盲養護老人ホームについても入居者さんに教えて頂きながらの運営になりますのでリピーターの皆さんの温かいご声援をよろしくお願いいたします。

 

『ふれあい広場』

令和3年3月3日

ほぼ5カ月に渡る『勘当の日々』は8月末を持ってあっけなく終了しました。と言うのは私がその年の9月から13年間お世話になった児童養護施設『誠心寮』での指導員としての誘いをする為にわざわざ徳山村までその当時の誠心寮の理事長の娘婿で当時大垣市内の中学校で校長先生をされていた方がおみえになったので「遠路はるばる来て頂いた校長先生にお断りをするのは失礼に当たる。」と考えてその日の内に施設まで案内をして頂き、翌日に面接を受ける事になりました。8月末とは言え暑い日で面接をして頂いたその当時の理事長の奥さんから私が着ているカッターかた透けて見えたお大師さんの数珠の事を聞かれたので「高校2年生の夏団参から歩いて四国遍路をしているので、欠かさず首にかけてます。」と答えると「週明けの月曜日から来なさい。」との事で何も知らない福祉の世界に入る事になった次第です。私を福祉の道に導いて頂いたその当時の校長先生に後から「どうして誘って頂いたのか」と聞いた事があり、その時の答えが「教員免許を小中高と持っていて、教員を自ら辞めたのは変わり者と思ったから」と言われて複雑な思いになったのは事実です。私が児童養護施設にご縁を頂いた年(1979年)は国際児童年の年でどの施設も何らかのイベントを実施する事にになっていて、地域の方々(例えば民生児童委員さん、PTA会長さん、婦人会長さん、老人会長さん、自治会長さん等)で実行委員会を構成して貰いその年から11月23日と決め『ふれあい広場』が今も実施されています。(昨年はコロナ禍で中止)その年が名誉ある第一回のふれあい広場だったのですが私が入職した9月の段階では全く具体的作業が出来てなくて、本来私の勤務は14時からだったのですが、午前中から看板作りの為にベニヤ板や角材を購入して鋸と金槌を駆使しての看板作りに汗を流しました。この作業が出来たのは大学時代に大学祭の看板等々(「等々とはなんのこっちゃ」等と無粋な事を聞かんといて)を勉学より優先して頑張ってきたお陰かなと思っています。だって勉強はいつからでも出来ますが(今も大して出来ていませんが)この様な事はなかなか出来ませんので・・・。地域を取り込んでの第一回のふれあい広場は1500人の参加を得て盛大に行われ、一回だけで終わるのは勿体無いと言う事で翌年も開催し3000人にまで膨れ上がったのですが、準備も大変になってきたので3回目はしないと実行委員会で決めたのですが、NHKが後援をしての開催を町をあげて開催する話がいつの間にか決まっていて、資金もふんだんに使ってのものだったので実に6000人の参加を得ての開催になり、その後は町全体の後押しもあり、今も続いている次第です。私にとっては13回関わらせて頂いたわけですが、第一回のふれあい広場が一番感動しましたし、手作り感があり印象に残っています。何でもそうなのだと思いますが『ゼロから生み出す』事は苦労も多いですが出来た後の充実感は一入でした。例えばの話しとしてポスターは寮生が作成して町内の広報版に貼りに行く時に先ずは何処に広報版があるのかもわからずに町内のあちこちを車で走り一緒に手伝ってくれる中学生が「先生あそこにある。」と言ってくれるのが嬉しかったし、招待状は私が年賀状を作成するのに使っていた『プリントゴッコ』を持ち込み一枚一枚する作業を子ども達とするのも楽しかったです。施設の玄関には大きな入場門を作るのに子ども達に協力して貰い今須の山に杉の葉を取りに行ったり、『カニのプレゼントコーナー』の為に中学生を連れて海津の河川敷までカニをとりに行って軍手の上からカニのハサミで挟まれたり・・・。「うーん。思いで一杯」リピーターの皆さん思いませんか、最近の事より鮮明に覚えている事実があることを。そして改めて思う事は毎日コラムが書けているのも、毎日が充実してインパクトがある日々を過ごせているから。日々大変な事がありますが『大変な事がある』と言う事は日々充実していていてより良い方向に持って行く事に邁進しますのでこれからもよろしくお願いします。さてさて今日はどんな楽しい、あるいは苦しい事が待っているのやら『ワクワク、ドキドキ、イライラ・・・』

教員辞職後の勘当時代

本日、午後より大垣市社協の方が成年後見人制度の事で説明に来て下さり、新規施設の盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の話をさせて頂いている時に私の社会福祉法人への考え方を熱弁していて、勢い余って、教員生活を父進に何の相談もせずに退職していまい、家に帰ってから報告をして父進さんから「今須は世間の狭い所だから、家でごろごろしているわけにはいかんから、どこかに居を構えなさい。」と言われて慌てたこと慌てたこと。父進さんを甘く見ていた・・・。当時の私は世間が狭くて正直途方に暮れたのですが、そんな中で閃いたのが大学時代に真面目に取り組んだのが柳田民俗学のサークル活動の一貫で徳山ダムの建設で水の底に沈んでしまう旧徳山村の調査を当時の文化庁からの補助金を頂いて取り組んだ時に合宿先にしていた民宿での居候生活でした。当たって砕けろとばかりに翌日にはその当時カメラを首にかけて村中でめっちゃやたら写真を撮ってその後写真集まで出版した増山たず子さんの家に突撃。自分で言うのも変ですが若いって言うのは素晴らしい。増山のおばちゃんに「お客さんが一人でもあったら私が料理を作りますからそういう日はただにして下さい。お客さんが無ければ3食付きで2000円払います。」との私の提案を認めて頂き居候が成立して、翌日着替えとその当時はやっていたラジカセと筆記用具のみを準備して再び徳山村に行き、まるで徳山村の住民のような生活が始まりました。結果的には全くと言って良い位に一日2000円の支払いはありませんでした。何故かと言うと殆ど切れ目なくお客さんがあったからです。私がお客様に出す料理は魚の養殖をしている家に行きお客さんの人数×2匹プラス私の分の魚と徳山村唯一の産業のとっても固い豆腐を購入して、魚は綺麗に水洗いをして鉄櫛に刺し思いっ切り塩を付けて囲炉裏端の炭火で焼く。豆腐は川の上流に行きマムシも恐れない(無鉄砲なだけなのですが)で突き進んだところで採った天然わさびを擦ってのせ、わさびの茎は漬物の様に前日に仕込んで、ジャガイモは地元の方から提供して貰ったのを囲炉裏の炭火の上に網をのせて焼きバターを付けたりお塩を付けたりしてお好みで食べて貰いました。どうです素晴らしい料理だと思いませんか。私は毎日同じメニューでも美味しく頂ける人なので全然違和感なく食べる事が出来る人間で良かったです。昭和54年と言うのは衆参同時選挙で「最後の選挙戦」と言う事でマスコミがわんさか来て、民宿の経営者である増山たず子さんは『徳山村の語り部』的な方だったので取材も多くてしかもその当時はバブルのさなかでマスコミの方の経費もたっぷりあった時代だったので、取材が終わると夜遅くまでの飲み会でマスコミの方を相手にして酔っぱらいながらも色々な話をしたものです。その当時はダムの保障問題で徳山村の住民が賛成反対で揺れ動いていた時期とも重なり私も多くの事を学ばして頂きました。リピーターの皆さん。人生に無駄なし。稀有な生き方をこれからもスポットで語っていきますので宜しくお付き合い下さい。

3月になりました

令和3年3月1日

昨夜午前零時前に看取りの対応を日をまたいでして家に帰ったのは午前2時を過ぎてから。再び寝ようと布団にもぐり込み目を閉じたものの、45歳で本館施設が開所して毎日のようにお呼び出しがあった頃の様に瞬間的に寝付く事は出来なくてうつらうつらしていて私の奥様かをりさんの携帯による7時の朝食コールで起きて、朝食後少しうだうだしてから施設に行き新規施設の施設長予定者の吉澤と4月1日からの西濃清風園をお借りして現在入居されている方に対する事前準備の話しと5月16日竣工式、

18日と19日の内覧会及び21日から本格稼働する新規施設『優・悠・邑 和(なごみ)』の打ち合わせをしていると10時になり打ち合わせの為にアポを取っての方、そうでない方が切れ目なくみえて、14時30分からは竣工式及び内覧会用の記念品及び粗品の品物の打ち合わせに和菓子屋さんと洋菓子屋さんに行き竣工式用には少し日持ちがするブッセを内覧会用には和菓子をお願いする事にしました。勿論、和菓子屋さんも洋菓子屋さんも新規施設の設置される垂井町内のお店です。

その他に竣工式の記念品には竣工式典の企画で琴の実演の中、高野山の法印職をされた日本一の書家静慈圓先生が書のパフォーマンスをして頂けるので、静慈圓先生が構成された『弘法大師 空海を生きる』の本を静慈圓先生に直接注文のお願いをしました。その他に優・悠・邑 和合の時にも付させて頂いた升に杉和会の焼き印を押したのも注文に行きました。本日は3月1日です。西濃清風園をお借りしての運営まで1カ月。新規施設までに2か月とカレンダーが3月になった事によって開設の日がグッと近くなったように思います。

本館、新館、和合と事業開始時にその都度ねん密に準備していたつもりでも、日が近づくにつれて抜けが見つかりあたふたとした経験を踏まえて何度も何度も確認をしていますが、それでも今回も・・・。いやいや抜けがないように頑張ります。リピーターの皆さん。『半沢直樹』の中では「準備は念入りに倒すのは一瞬」と言うのがありましたが私が思うに「準備は念入りに、竣工式はばたばたに」とはならないように今回こそ緻密に頑張りますので見守っていて下さい。

平均寿命

令和3年2月28日

先般垂井町長さんが入居者さんの100歳のお祝いに駆け付けて下さったおり、入居者さんの長男さんの奥さまが帰り際に「家で世話をしていたらとても100歳のお祝いを迎える事は出来なかったと思います。」と言われたら、その言葉を受けて長男さんから「村の中で99歳まで生きられた方は何人かみえましたが、100歳は初めてです。」と嬉しそうに言われたのは当施設に対する最大の賛辞だと受けとらせて頂き、私も「このご縁を頂けて本当に良かった」と思った次第です。

ところで、我が家には老猫『リット』がいるのですが、彼も今年の11月23日を迎えると満20歳になるので、我が家で一番悠々とした生活を送っているからよたよたの歩き方でも階段の上り下りも頑張りながら『にゃー』だけは忘れず言ってくれる毎日を過ごしているわけです。ちなみに、私が朝食を食べている時にテーブルの下にある私の足元をわざとらしく通って行きました。本日は午後から家族会主催による『誕生会』があるのですが、何となく日本人の平均寿命について調べたくなったので、インターネット情報を交えながら私の評論も交えて以下に書く事にします。

『寿命図鑑』いろは出版(2016年)によると、旧石器時代から縄文時代の平均寿命は15歳との事で、今の社会においては考えられない数字です。その後、弥生時代、古墳時代が20代前半、飛鳥・奈良時代が28歳~33歳。平安時代が30歳で(貴族の寿命)の但し書きがあることから、特権階級でもその程度しか生きられなかったと言う事でしょうか。何故ならば鎌倉時代が24歳で驚く事に室町時代は15歳と旧石器時代にまで数字が落ちてしまうのです。室町時代にどんと下がった理由を中学校、高校の社会科の教員免許を持っている私なりに考察すると「えへ~ん」・・・。室町時代は『南北朝時代』『応仁の乱』『戦国時代』戦いの時代だったと考えると納得がいくのではないでしょうか。その後、安土桃山時代には30代に戻り、江戸時代は32歳~44歳に、明治時代が44歳で大正時代が43歳。特筆すべきは戦時中の昭和20年が31歳とド~ンと下がり平成時代は81歳との結果です。こう考えていくと「戦争はよくないです。」

もう一つの『Anges Maddison 統計』の男女平均寿命が載っている日本人の数字を見ると1776年~1900年は33歳~44歳で、1950年が61歳で1999年が81歳との事で、鈴木隆雄(1996年)『日本人のからだー健康・身体データ集』古い時代の日本人の寿命においては、縄文時代は男女共に14.6歳で、室町時代は男性が15.2歳で女性が17.3歳、江戸時代は男性が40歳で女性が42歳との事。但しこの数字は多くの死産も含まれているとみられるので7歳~8歳分を足す計算になるようです。織田信長が本能寺の変で死ぬ間際に『人生五十年・・・』と舞いながら火にまかれたとの話があり、ずーっと平均寿命が五十年前後だったように思います。

何が言いたくて平均寿命の話をしているかと言うと、私は今67歳ですが私が小さい頃の67歳の方は間違いなく『年寄り』だったと思いますが今の私は現役そのもの。80歳から50歳を引いたら30歳。つまり私は67歳−30歳=37歳・・・。これはかなり無理がありますが・・・。いやいやそんなもんですよ。だ・か・らリピーターの皆さん私はまだまだ頑張れると言う事ですのでこれからも宜しくお願いします。

ところで昨夜は入居者さんの中で厳しい方がお見えになり緊急呼び出しがある事を覚悟して20時過ぎに寝たので午前1時に目が覚めてなかなか再びの眠りに着けず携帯で自分の誕生日の記録がどこまであるかと携帯で確認していたら2100年5月16日まで確認しました。(まだまだ続くのですがここで止めました)つまり満147歳の私の誕生日まで確認したわけですがそんな事はありえへーーーーーーーーーん。

2月も今日を入れてもあと2日です

今年の2月は28日までなので今日を入れてもあと2日です。つまり2日後には3月になります。

当たり前の事なのですが、朝5時に目覚めて携帯に記録しているスケジュール表を見て改めてプレッシャーを感じています。確かに、雪の影響もあり建築をお願いした岐建さんの工期が4月末まで延長されたので、竣工式は5月16日で内覧会は18日、19日で事業開始は21日になったとは言え、4月1日からは従来からある養護老人ホーム西濃清風園の入居者さんのお世話を社会福祉法人杉和会の職員でする事になっているので、引継ぎは勿論の事、色々な手続きをしなければいけないし、新規事業への準備も加速度的に増えていくと思うと頭の中がグルグルです。

朝一での宿直者の北島部長の報告でショートステイの利用者さんの中で気になる方があり、電話で確認すると共に指示をして、その後施設に向かいました。土曜日であったにも関わらず利用者さんのかかりつけ医の先生が往診にきて下さり、その後家族の方も面会(部屋の外から)して頂き、取り敢えずショートステイ利用者さんの対応を終えると、10時からの新規事業の打ち合わせに入り、打ち合わせをすればする程やらなければいけない事が山積みのように思えてきました。

本日は午前中の打ち合わせ以外は予定が入っていなかったので、広報委員会から広報誌春号(4月1日発行)の原稿依頼を受けていたので理事長としての700文字と総合施設長としての500文字の原稿を落ち着いて書く事が出来、まだまだデスクワークの時間があったので静慈圓先生への手紙も書く事にしました。静慈圓先生には書を通じてのお願いを「これでもか」と言う程にさせて頂くのですが、高野山で法印の役割も終えられ今は前官(先生に言わせると隠居の身)と言う立場なのに、日本一の書家だと私は思っているのですが、余りに気安くお引き受けしていただけるので恐縮しながらも色々な事をお願いしているのですが有難い事に全てお引き受けして頂けているのは本当に有難い事です。

静慈圓先生がここまで色んな事をして頂けるのは私の展開を理解して頂いている証かと少し自惚れた考えに陥っている私がいるのですがリピーターの皆さんは如何思われますか。「調子に乗るな」と思われる方があれば少し考えなければとも思っているのですが無謀のレールであっても走り続けるのが私らしいのでこれからもこのスタンスで頑張りますので宜しくお付き合い下さい。

 

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