理想と現実の狭間で苦しんでます

『予定は未定であり決定ではない』事は今までの経験の中で沢山ありました。しかしながら、今回の盲養護老人ホームの建設に伴う展開には『予定は未定であり決定ではない』等とのんびり構えておれない文字通り『想定外』の展開が多くて未だ『困難な問題が沢山ありましたが何とか環境の良い所で立派な施設が出来、運営も含め順調な経緯を辿っています。』と言うのには程遠い状況です。杉和会理事長として最終的な決断をした私の責任なので夜も眠れない毎日です。建設と同時に道路を含めた外構工事が進んでいる高台に立ち、素晴らしい環境の中に在ることを確認すると視覚障害者の方々が日々の生活をして頂くには最高だと考えています。つまり「私自身が住みたい環境と建物」である事は間違いないのです。しかしながら「一日でも早く完成させたい」との思いから、土地の提供をして頂いた垂井町さんの対応を尊重し過ぎた事により予算を想定以上に使う結果となったなと、ウジウジ考えている自分がいます。『大胆な中に緻密さを持って対応する』と言う私のスタンスが少し、いやいやかなり違っている事を感じています。でも、よ~く考えてみるに、「私の事業の展開は綱渡りで無鉄砲であって今がある。決して欲得でしていないから出来てきた事だと。今回も必ず正解だったと言える展開にしていこう。」と少し前向きに考えようと努力をしているのですが、視覚障害者の方の理想郷の為に温かい気持ちによるご寄付を宜しくお願いします。今回の計画は日本全国47都道府県の中で岐阜県、富山県、鳥取県、沖縄県の4県のみに視覚障害者の方の為の盲養護老人ホームがない。つまり、私が住んでいる岐阜県にないのは福祉の担い手としての展開をしている者として申し訳ないとの思いを強く持ったからです。理想と現実は大きく違います。だからこそ、私のコラムを楽しみにしてみえる方々の温かい支援をお願いしたいのです。こんな内容のコラムばかりを書いているとリピーターさんの中には「ええかげんにしとけよ」と思われるかも知れませんが、私のコラムは頭に浮かんだままの素直な気持ちを原稿にしているので、今はこの事以外頭に浮かばないのでご容赦下さい。(現在午前6時36分でここまでのコラムを書きました)但し、本日は8時30分までに岩田税理士事務所に行き理事会資料の最終打ち合わせをして、10時から新規事業の定例会議に出て、午後からは15時30分からの杉和会理事会の資料の確認と作成をしなければいけません。(ここまでを出掛ける前に書きました。)今は午後6時54分で理事会が18時に終了し理事長決済をして、理事会後の打ち合わせを済ませお風呂に浸かり、ひとときの癒しを味わいながらコラムのまとめをしています。理事会も職員が総勢170人になると『若山商店』のようにはいきません。しかしながら、杉和会トップの理事長として理念を曲げる事なく突き進んでいきますのでリピーターの皆さん今まで以上のご支援を宜しくお願い致します。

本日のコラムはコラムと言うよりお願いです(リピーターの皆さんこの原稿で継続として下さい)

令和3年3月18日

私は関ヶ原町と大垣市において特別養護老人ホームを経営している理事長です。最初に関ヶ原町で建設を決意した時は私自身正直、施設を建てるような広大な土地を所有しているわけでも、お金を持っていたわけでもなく、私の熱い思いを理解して下さった多くの方々の支援と平成9年事業でしたので、当時の国及び県により手厚い補助金(多岐に渡るものが当時はありました)にも恵まれ4分の3近くは補助金で対応する事が出来ました。難産の末ではありますが生まれ育った関ヶ原町今須の地に平成10年5月から文字通り地域に根ざした施設運営に努めて参りました。

但し一つだけ措置制度の中でいびつだと思ったのは、借り入れに対する償還財源は『民間施設給与等改善費以外は寄付でする事』との規定があり、2億3百2十万円の借り入れを20年償還で毎年1016万円(2年間利息はありませんでした。)の償還財源に苦慮しました。と言うのは その当時の日本には寄付の文化が殆どない時代であり、先代理事長の蓄えと私の施設長としての給料を当てて、我が家の家計は私の大学等の非常勤講師の手当てと奥さんのアルバイト収入で凌ぎました。しかしながら、2年後に特別養護老人ホームは介護保険制度が変わり介護報酬からの返還が認められ、歪な制度は終わりました。但し返還が出来る原資は建設費に伴う居室等の収入を充てる事となったのです。

正直経営は楽になりましたが、私の経営理念は『社会福祉法人は税金を納めないので余剰金は地域に還元すべき』との考えで地域のニーズと当法人が出来る精一杯のところで展開してきました。具体的には平成16年にはまだまた特養待機者の為に増床をして、平成26年には『西濃地域に部屋代が安い多床室が少なくて良いのか』との思いで、介護報酬額は低い施設を敢えて大垣の地に造らせて頂きました。正直なところ、増床には6年(実質4年)であり、大垣の建設には10年かかっているのは介護報酬単価が厳しくなっているからです。

そんな中、今年5月21日から事業開始させて頂く予定の盲養護老人ホームについての決断は岐阜県には盲養護老人ホームがない(他に富山県、鳥取県、沖縄県)状況で、岐阜県の視覚障害者の方にとって不利益が生じていると考えたからです。私は常に「自分が入りたいと思える施設でありたい」と考えている思いの中で、「視覚障害者の施設であれば平屋の木の香りがする自然豊かな所で生活して貰いたい」との思いで建設を進めて参りましたが、事業を進めていく中で、土地の形状の中から建設に伴う仮設道路の設置と、施設完成後のメイン道路の設置に想像以上の経費がかかり、本部施設及び和合の施設からの流用にも限界があり、尚且つ、国及び県からの補助金も厳しい状況の中、視覚障害者の方に快適に生活を営んで頂く為に心あるご寄付をお願いします。

尚、心あるご寄付を頂きました折には、社会福祉法人へのご寄付と言う事での税金控除を受けて頂けます。

 

 

私の体を2つに分けたいくらいです

昨日は朝から22時35分にコラムを打ち終え送信するまで目一杯だったのですが、本日も午前中に全国老施協による『ホームページ検討会議』がウェブであり、最後の日程は18日に杉和会の理事会があり令和3年度予算案の骨子を決める為の打ち合わせが18時からすることになっているので、どのタイミングで連続掲載している理事長コラムの原稿を書こうかと思っています。(と言うより今は6時45分ですが、せっかくバッチリ目覚めて時間がもったいないので書いてます。)

このように、思った事を隠さす書いているので継続出来ているとも考えています。そう言えば昔の書き物にも、『徒然』の感覚で書いているのがあったように思いますが学識のない私には自信を持って書くことができません。等と書いていて、またまた、頭に蘇った事を書きます。

それは私が大学生の時、落語や演劇や学生運動擬き(もどき)の他に柳田民俗学をベースにしたサークルで『郷土研究の会』にも所属(こんなに一杯やっていたら、法学部や教職課程の勉強など出来んわな・・・。)して、そのサークルの顧問の先生が文化庁からの天下り(単なる天下りではありません。しっかりとした理念と実力をお持ちの先生でした。)の祝(はふり)宮静先生の指導を受けて真面目にサークル活動をしていて、祝先生の教えの中で「若山君。民俗学を決して難しい学問と捉えてはいけません。君は関ヶ原と言う大切な歴史背景のある所に住んでいるのだから、同じ所に立ち毎年同じ時期に写真での記録を残してみなさい。それこそが立派な民俗学ですよ。」と言われて、その頃は「そんなものか」と言うくらいに軽くとらえていたのでしょう。だから行動に移せなかったのだと思います。その頃の私は祝先生について「ロンドン仕込みの紳士」くらいの軽い気持ちしかなかったんだと思います。今お会い出来たのならもっとしっかり行動に移す事が出来たのにと後悔してます。

今になって思うのは祝先生の言われた事をしっかり実践していたら、素晴らしい資料を作りあげる事が出来たのにと深く反省しています。(今となってはもはや手遅れなのですが・・・。正にこれは『後悔後に立たず』です。リピーターの皆さんも覚えが有りませんか。『・・・たら』『・・・ねば』かなり本題からかけ離れてしまいました。

今は20時ちょうどなのですが、昼食はチャーシュー麺のみで頑張って、お風呂に入ってコラムを完成させようとしている。つまり全く余裕な時間がない状態です。

 

誰か分身の術を教えてください。

朝から大車輪です

令和3年3月15日

『相乗効果』と言う言葉がありますが、岐阜県初の盲養護老人ホームの建設が3月末完成予定が雪と低温の影響で遅れたのですが、何とか5月16日が竣工式で18日と19日が施設内覧会で21日から新設した施設での盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の事業開始です。「まだ2カ月近く準備期間があると考えるのか、それともあまり時間がないと考えるの 」と他人事のように言っていたのですが、本日の息つく時間もない程だと言う事は、2つの拠点施設(関ヶ原にある施設と和合の施設)から垂井に開設する施設が加わり本日は全く時間に余裕のない状態になりました。携帯のスケジュール表には9時30分から和合において幹部会とお参りがある事になっていたのですが、和合の佐藤施設長から「18日の法人理事会までに打ち合わせをしておきたいので時間をとってもらえませんかと言われ、出来たら和合でのお参りが終了後では如何ですか」と言われたので、「12時までに本部施設に帰り、さくら高校の実習生の指導をすることになっている。」と言うと佐藤施設長から「誠に申し訳ありませんが、幹部会の前に何とか出来ませんか」と言われたので「9時前には行きます。」と言うことで、本日は8時過ぎに家を出て和合に向かった次第です。幹部会とお参りが終了したのが11時15分で、急いで和合を後にして本部施設に着いたのがぴったり12時だったので、玄関先で実習生に会議室に行くように指示を出し、実習記録のコピーを持って会議室に行き、しっかりとした記録が書けていることを評価すると共に明日も頑張って欲しいと言って指導を終えてから昼食を頂いていると、13時からの岐阜県から依頼を受けた方の取材の方がおみえになり、挨拶と共に職員確保の持論を話させて貰っていて、少しはコラムの原稿を書こうとパソコンをひらいて三行程うったタイミングでホームページやパンフレットの打ち合わせ業者の方が来て、打合せが17時までかかり、その後コラムの続きをまたまた三行書いていたら17時15分になり本部幹部会が始まり、全てのスケジュールが終わり家に帰りお風呂に入り、出てきてから義理の兄のややこしい問題を電話でやりとりしていたら21時40分を回っていて、自分の部屋に上がって行くときに本日のコラムが6行しか書けてない事に気が付き必死にコラムを書いてます。リピーターの皆さん。喜ぶべきか悲しむべきかはわかりませんが3拠点もあると相乗効果のように充実した日々を送る事が出来る事に感謝です。

午後から新規採用職員の研修会です

令和3年3月14日

昨日の内に資料の作成については印刷も含めて準備が出来ていたのですが「単に話をするだけよりはパワーポイントか映像を見て貰えば、より臨場感があり説得力も増すのではないかと考えました。さりとて、午前中だけでパワーポイントを完成させるのは時間的に難しいので、「かつて撮った写真を張り付けて」と作業に取り掛かりUSBメモリーに保存したのを見ていると、岐阜放送で取材して貰ったCDを職員が探してくれたので、見てみると「懐かしい」「職員も私も若い」「私はめっちゃ痩せてる」とか思っていて、この資料は平成25年のものだから実に8年前の事なので「資料としては古すぎるかな」と一瞬思いましたが、全部見終わって思った事は、「8年前の資料だけれども考え方は今も変わっていないな」と思うと、考え方を変えずにこれたのが職員の離職率の低さにつながっていると思うと正直嬉しくなり、本日の理事長としての講義の最後にまとめの意味を込めてスクリーンで映したいと考えています。

8年前に岐阜放送の画面を見ていて「よしよし、素晴らしい」と嬉しく見ていたのに顔が固まるような場面がありました。それは、まだ新人の域を越えていない(そこそこの年齢の職員ですが・・・。今は介護主任ですが。)職員が事もあろうか『手引き歩行』をしていて、しかも、テレビ局の方にとっては「素晴らしいシーン』と思われたのか結構長い時間(私はめちゃくちゃ長く感じました。)映っていて、その時の冷や水をかけられた事が思い出されました。勿論翌日には手引き歩行が何故いけないかと言うこととトランスファーの大切さを指導した事も思い出しました。人間の記憶は素晴らしいものがありますね。8年前の場面が映っただけでその時の記憶が鮮明に呼び戻るのですから。

13時15分に予定通り参加者全員が集まり理事長としての挨拶に引き続き講義をさせて頂きました。参加者は一生懸命に聞いて頂いているのは聞いている姿勢で理解出来るのですが、私なりに「ここでは笑いを取る」と考えていたところでも笑いがないと話の乗りが悪くて・・・。でも、仕方がないか、参加者の方々にしてみたら法人のトップの理事長が話しているのだから。但し話をしながら、みんな一生懸命に聞いて貰っているので、何年か先にも同じメンバーで話が出来たら。つまり、誰一人辞める事なく頑張って欲しいと思った次第です。リピーターの皆さん。社会福祉法人杉和会は今後ますます総勢170人が一丸となり地域の福祉の核の一角を担っていきますので宜しくお願い致します。

 

明日は新規採用者の研修があります

来年度から、盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』が新規開設するので(来年度は当面50床からの開始ですが、80床の規模で建設しています。)例年以上の多くの採用者になり、本部施設と和合の施設を入れて35名の参加です。福祉施設への採用が厳しい状況がある中で職員確保が出来たのは本当にありがたい事です。本来70人は対応できる会議室なのですが、コロナ感染症対策に留意しての対応なので35人の参加ですが一杯いっぱいの状況に嬉しい悲鳴状態です。

明日の講義は、私が理事長として「杉和会の理念と職員としての心構えについて」を。副施設長が『感染症対策と職員としての心構え』(「職員としての心構え」は演題が重なる様に思われるかも知れませんが、立場を変えると視点が違いますので敢えて重ねています。)五次部長(事務長)から『採用に向けての事務連絡と必要書類の提出について』を計画してます。

本日は午前中に公用車の運転業務の為の操作確認の為に職員が運転する公用車に乗っての確認と、外国人材の派遣をお願いしている乗車との打ち合わせ、午後からは火災保険等の契約(3施設になり結構なボリュームです。)以外は比較的に落ち着いて考える時間があったのと、受講者が多い事もあり、自分なりに気合を入れてレジメの他に資料も作成する事が出来ました。

参加者は高等支援学校、高校、専門学校、短大、大学を卒業した新卒者の他に、ベトナムから来た留学生のアルバイト学生、ネパール人の特定技能の男性と色んな手立てで確保したので、話す内容と話し方については、受講者の反応を見ながら進めて行きたいと考えています。23年前には50人位で職員の数が170人を超えた今だからこそ、より充実した研修をしていく中からまとまりのある集団にしていかなければいけないとしみじみ考えています。

明日の研修でどうしても伝えなければいけないキーワードは『お世話させて頂くと言う姿勢』を持って『今日一日楽しかったよ』を展開して、究極には『自分が生活したいと思える施設でありたい』と言う事です。勿論その根底には特別養護老人ホームの名称である「すべてに優(やさ)しく、いつまでも悠(ゆとり)ある、やすらぎの邑(ばしょ)でありたい」を追い求めていく為に、報告・連絡・相談の充実をしていくための努力を惜しまない職員になって欲しいと熱く語りたいと考えています。

リピーターの皆さん。私の考え方は決してぶれませんので、これからも応援宜しくお願い致します。

老人福祉協議会の事

令和3年3月12日

平成10年5月から優・悠・邑本館の事業開始だったのですが、その当時の岐阜県老施協会長さんがお隣の町である、垂井町にある「いぶき苑」の施設長さんだったので、西濃支部の3月に開催される支部総会で挨拶をしたらどうかと言われて参加させて頂いて早や23年の月日が流れ、当施設が西濃支部に加入させて頂いた時には当施設を入れても13施設の加入だったのですが、その後に沢山の施設が設立され、今では32施設にまで組織が大きくなりました。

この23年の間に早くからの施設のグループの中に入ってしまう状況です。つまり、平成13年以降に多くの施設が開設されたと言う事です。そんな中で西濃支部の中で目立つ存在だったとは思っていないのですが、施設開設をして5年目である平成15年から10年間西濃支部長兼岐阜県老施協副会長をさせて頂き、その後の8年は会長を務めさせて頂いて今に至っています。全国老人福祉施設協議会の役員については平成18年8月8日に総務委員会初代幹事に任命して頂いてからです。私のスタンスは役員になりたくて取りに行った事は一切ありませんが、与えられた使命については自分なりに一生懸命にさせて頂いているつもりです。

その中で理解したのは『忙しい生活だからこそ、時間を上手に作る』と言うことでした。「能力は大した事ないが誠心誠意尽くして頑張る奴だ」とその当時の中村会長が認めて頂いたのか、翌年の6月からは総括幹事に大抜擢され、各委員会の統括と事務決済までさせて頂く事になったのです。その状況の中で、東京で宿泊をさせて頂いた翌朝は、お付き合いでどんなに遅くなっても8時45分には本部事務所に行くようにしていました。

そんな中で特筆すべきは平成19年11月21日~22日に岐阜県で開催された全国老人福祉施設協議会研究大会です。色んな事情から福岡県が大会を辞退された為に準備期間が短かったので、厳しい状況ではありましたが実働部隊の責任者を務めさせて頂いたのは色んな意味で大きな自信にもなりました。岐阜県老人福祉協議会の役員は18年の長きに渡ってさせて頂いていますが、常に会員施設にとってメリットになるような展開を考えてきたつもりですが完璧ではありません。そんな中で近い将来後進に円滑に引きついて貰えるように心がけた展開をしていかなければとも考えています。

リピーターの皆さん。無欲な展開の中で自分なりに一生懸命に走り続けてきたのですが、盲養護老人ホームの建設は90%が出来ていて本日も定例会議に参加させて頂いた後、建物内を見させて頂いて、立派な仕上がりに満足していますが、運営の事を考えると前途多難な所が多いので今後の展開に留意して頂き温かいご支援を宜しくお願い致します。

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東日本大震災から10年です

令和3年3月11日

10年前の2011年3月11日14時46分18秒に東日本を中心とした大地震があった事はリピーターの皆さんもご記憶の事と思います。大津波や火災による死者・行方不明者の数は12都道府県に渡り22000人余りだと報告されています。ちなみに明治以降の大震災の被害規模としては、関東大震災に次ぐ2番目だとの事です。

10年前の当日私は、岐阜市内のホテルで中部学院大学の先生方と福祉関係者との懇談会に参加していて、岐阜でもかなりの揺れを感じて部屋の中に設置してあった大きなシャンデリアがゆらゆらと揺れていたのを今でも鮮明に覚えています。後日談として中部学院大学の古田学長に岐阜県の会議でお会いした時に古田学長さんから「突然、天井にあるものが揺れたので自分の頭の中で異常が起きたのではないかと思いました。」とのお話をお聞きして「流石にお医者さんの考えられる事は違うな」と変に感心したものでした。

地震があった翌日には当時の全国老人福祉施設協議会事務局(東京都千代田区平河町)の職員から「若山先生がお住いの岐阜県から水を送って貰えませんか」との連絡を貰ったので「東京では水も無くなってしまったの」と聞くと「コンビニの棚には全く無いし、自動販売機もことごとく売り切れです。」との事だったので早速、地元のお店で沢山購入して宅配便で送りました。ちゃんと届くか心配しておりましたが3日後にはお礼の連絡があり「ほっ」としたものです。その後、同じく東京の方から、「米を送って欲しい」との連絡を頂き、「東京と言うところは凄いところだな。」と思いながら、我が家にストックしてあった米を30キロ送ると、大変喜ばれしかも「とても美味しい」との事だったので「地元の米は山の源流から流れてきた冷たい水を朝の早い内に田圃に入れて昼間の太陽の温かさに恵まれると美味しい米になるのです。」と思わず自慢してしまい、それ以降は地元の米を送らせて貰っています。

大津波で家が流れていく映像をテレビで見ていてまるで映画のシーンのようだったので何とも言えない思いになりました。当法人の顧問である、びわこ学院大学の烏野教授は震災直後に現地入りをしてつぶさに見てきて被災者の方々との接点も多く持ち、今も福島県に入られていると聞いていますが、烏野先生の行動力にはいつも頭が下がります。

本日は午後から全国老人福祉施設協議会正副会長委員長会議があり、会議の冒頭にも黙とうをさせて頂き、会議の中でも災害の話もあり、その中で、DWAT(福祉救援チーム)の隊員養成を受けた方の感想の中で「救援物資の荷物運びや炊き出しを行うのが主な役割だと考えていたのですが、心のケアの対応の重要さを学びました。」 との話が出て私は改めて全国老人福祉施設協議会が担う事の意義を理解しました。

当法人の烏野先生は「東南海地震がいつ起きても不思議ではない。」と言われています。リピーターの皆さん。「備えあれば患いなし」です。お互いに留意したいものです。なお、当施設には備蓄倉庫があり、飲料水が1週間分と簡易式のおしぼり(ペットボトルのキャップに水を入れてその中にコインのようになったものを入れるとしっかりした大きさのものになります。)リヤカー、簡易トイレ等々の他に大きな寸胴や鍋や薪も準備しています。但し、コロナが終息しないと3密は防ぎようがないので気になるところです。

 

1998年5月に本部本館が開設してから

紆余曲折があり、何とか竣工式が開催されたのが5月15日で、準備の段階で今須小中学校の体育館に椅子を借りに行った時に私が職員室に挨拶に行き、その当時の小学校の教頭先生と共に体育館に行くと職員が床に寝そべっていて挨拶もまともに出来ない状況に私の頭は真っ白になったのを今でも鮮明に覚えています。

開所した当時は措置施設の時代で(各市町村長さんの措置依頼で入居を受けるシステム)今の介護老人福祉施設(特養)様に入居待機者の方が多く存在するわけでなくて、大きくは2つの事で対応に苦慮しました。1つには入居者さんがどんどん入られる状況ではないので、先代の理事長(義父)と共に市町村回りをしました。2つ目は借り入れに対する返済については基本的に寄付によってしなければいけない決まりがあったのです。この2つの理由で私は施設でじっくりと仕事が出来る状況ではありませんでした。何故ならば、借り入れに対する償還については、先代の理事長にもかなり負担して頂きましたが、私自身も法人から頂く給料については基本的に法人に寄付をして、我が家の家計はそれまでしていた非常勤講師と家庭教師の手当で賄う綱渡りの生活を2年間しました。つまり、1日も休みなく早朝から夜遅くまでうごめいても、職員教育や入居者さんとの接点を多く持てたとは言い難いものでした。

でも、そんな中で開始当初は入居者さんの状況がわからない中で、夜の対応は多くありました。例えて言うと「自分の部屋から出て行かれて食堂で横になってみえる方があります。」とか「施設の中を探してもみえません。」とか、「状態の悪い方がみえるのですが。」と言う連絡が毎晩のようにあり、その都度施設に向かう毎日でした。また、経営的に厳しいものがあり、当時は1回当たり3600円の宿直費用を削減する為に週に3回は宿直をしましたが今となっては「あの時頑張ったから今がある」と思っています。

施設長として福祉の理念を語るだけで運営が上手くいくと言うような甘い現実はありませんでした。時には理事会の席で「施設長を辞めたらええんか」と声を張り上げた事を吉田宏岳先生に凄い勢いで怒られたりして、「高齢者施設のハード面の勉強はしたけどソフト面は出来ていなくて職員との乖離がある。」と理解して施設開始した2年目の途中で自ら施設長を辞し、現場で汗をかくことにしました。

とは言っても介護が出来るわけでもないので、便所掃除から始めたと言うのが実態です。と言うのはその頃の入居者さんはお元気な方が多く、認知症の方の中には便座に綺麗に大便を付けられる方がおみえになって、職員の中には「どうせ綺麗にしてもまたされるので綺麗にしても仕方がない」との発想の職員も多くいた中で、私が黙々と作業をしているのに協力してくれる職員が出てきて、そんな中でおむつの見直しから順次進めて行く事が出来今に至っていると思っています。

リピーターの皆さん。完全な形ではありませんが一つひとつ積み上げてきた施設ですので、今はコロナ禍で施設にきて頂くわけにはいきませんが、コロナが終息したら色んな形でご縁を頂ければ幸いです。

新規事業の建設は50年前から決まっていたのかな・・・

 

令和3年3月9日

ここ何日かは私の足跡のような事を書いてきて、さてさて今日は何を書こうかなと病院の眼科待ち会いで携帯を持ち出して考えていて、最近は新規事業である盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の打ち合せが多くあり、今回の事業には『祈り』の配慮が色々なところにされていて、その思いを語り色々な方に色々な事をお願いすると、私が考えていた以上に思いの部分が大きく拡がっていく事に自分自身驚いています。

具体的に書くなら、施設の中心に仏間を設け仏壇を設置して、床の間には高野山の大僧正で日本一の書家の静慈圜先生に私の思いである三つの願いを書にして頂き表装して床の間に掲げたいと思い、熱い思いを込めて手紙を書いたところ快諾して下さり、尚且つその書を目の不自由な方が手で触って感じて貰う為、檜の板に彫って貰えるようにしたらどうかとの提案を静先生から頂いたので木の準備を床の間の床柱を優・悠・邑家族会の吉田会長さんから今須杉でご寄付して頂いたので、もう一つ甘えた依頼をしたところこれまた私が思っていた以上のものを作って頂けました。

静先生には5月16日の竣工式にはグラフィックデザイナーが製作した台紙に書の実演のパフォーマンスをして頂ける計画まで決まりました。その他にも3棟に分かれている(30床、30床、20床の80床)それぞれの建物に名前を付けて頂く事にしても、それぞれに祈りを感じて貰える名称を参議院議員を女性議員の先駆けのようにされた埼玉県の先生にお願いしたところ「私で良いの」と一旦は断られたのですが、ここは私の得意な押しの一手で了解を得ました。先生は視覚障害者の事にも深い知識を持たれているので、楽しみにしてます。

このような展開が出来るようになった根本は何と言っても高校2年夏の17歳の時の四国遍路からだと思うと今の展開は50年前から決まっていたとすると、弘法様(空海)の手の中でうごめいていたのかなと思ってしまいます。あまりに抽象的に語りましたのでもう少し具体的に書くなら、四国遍路にご縁を頂いた事によって福祉の原点を理解して、四国遍路で滋賀信行会の内藤会長に出会い、そのご縁の中で静先生とも巡り合い、四国遍路のご案内をさせて貰った事により『教育と福祉を考える会』を主宰されていた吉田宏岳先生に可愛がられて福祉の幅が拡がりネットワークもグッと拡がりました。

私の展開は時には無鉄砲で無計画なのですがこのような展開が出来たキーワードは何なのかリピーターの皆さんならお分かりですよね。そう私の事業の展開は『無欲』である事です。私が今の立場で出来て、世の中の為になると言う事が私に与えられた使命・・・。ちょっと、いやいやかなりカッコ良すぎかな。正直なところ、経営は厳しいです。だから、リピーターの皆さんにお願いがあります。今の展開に賛同して頂けるかたは、声援と共にご寄付をお願いします。岐阜県唯一の盲養護老人ホームの為に宜しくお願い致します。

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