本日はリモートでの会議が3つあります

令和3年7月28日

疲れが取れない日々が続いている為かそれとも私に気合いが入っていないだけなのかはわかりませんが、朝から歩いていた時のように5時前にぱっちりと目が覚めなくて、関ヶ原町の6時のチャイムでようやく目が覚める状態なので、朝のウォーキングが出来なくてお経はベットの中で。(「ベットの中で唱えるのはけしからん」と思われる方もおありかと思いますが、)私の大恩人の一人である吉田宏岳先生は真言宗豊山派の僧侶であり、中央福祉専門学校の校長であり『教育と福祉を考える会』の責任者をされていた、とっても凄い方ですが、先生の家に泊まらせて頂いた時に布団を並べて寝ていて、朝のお勤めをされないのでその理由をお尋ねすると、「ちゃんと朝しましたよ」と言われるので、「ずっとご一緒に寝てましたよ」と再びお聞きすると吉田先生は「布団の中で唱えましたよ」とけろっと答えられました。だから私も・・・。(偉い先生だから許されるのかな)しかしながら生活のサイクルを朝起きたらきちんと歩きとお経が出来るように整えたいと思いますが。さて、本日は午前に全国老人福祉施設協議会の正副会長による事前打ち合わせがあり、午後1時からは岐阜県健康福祉政策課主催の災害派遣検討会があり13時30分からは全国老人福祉施設協議会正副委員長拡大会議があります。午前の会議はリモート会議を複数回重ねた者同士の会議であり、比較的リラックスした雰囲気の中でも中身の濃い話し合いが出来、昼食を挟んで13時からのリモート会議に備えました。ただし、岐阜県主催の会議は14時までの予定なので、岐阜県の会議は会議室にリモートの準備をして全国の会議は事務所のパソコンで対応することにしました。つまり、午後のリモート会議は会議室で13時から対応して、会議が終了すると同時に事務所に駆け付け全国の会議に遅れて参加すると言う離れ業をしました。このような事が出来るのはリモート会議だからこそ出来る事です。だって、岐阜と東京を数秒で移動することなど出来るわけがない。これを出来るのは『ドラゴンボール』に出てくる『孫悟空』だけだと思うのですがリピーターの皆さんは今私が書いた意味がお分かりになりましたか。マニアックな話題をしてしまい申し訳ありません。しかしながらリモート会議とは言え3つ重なると流石にしんどいです。会議資料はメールで送信されて来て印刷をするので、きちんと整理しておかないと面倒な事になってしまいます。これがいわゆる『業務の効率化』と言う事なのだと身をもって理解しました。今の世の中に父進がいてくれたらどんなにか助かるのですか(片付けの達人だったから)普通は『孝行したい時には親はいず』とか言うのでしょうが、私の場合は『忙しいときに親はいず』う~ん、あいからわず勝手な事を言ってごめんなさい。父進さん、できるだけ自分で頑張りますので天国でゆっくりしていて下さい。

優・悠・邑 和音(なごみ)で取材を受けました

10時から垂井町高齢福祉課から包括支援の方の入居依頼に3人の担当者の方が本部施設に来て頂き打ち合わせをしました。他の法人の中には包括での入居に消極的な所もあるようなのですが、私の考えの中には包括に対する対応はきっちりするべきだと考えていますので当然のように入居の方向で話が進みました。

11時から本部施設の西村課長のお父さんが急逝された葬儀に出席する為に11時10分前に打ち合わせを切り上げ慌てて関ヶ原町斎場に出向きしっかりとお焼香をさせて頂いて私とは2歳しか違わない方が亡くなられたのは複雑な気持ちですが、西村課長は真が強いので母親をしっかり支えてくれるものと思っています。葬儀を終えて施設に帰ると和合の副施設長が処遇改善の打ち合わせに来ていたので会議室で昼食を食べながら打ち合わせをして、13時30分から優・悠・邑    和で視覚障害者用のマット等の製造販売をしている大阪の業者が自社の広報の取材に来る事になっていたので、いそいで向かいました。

13時30分の定刻よりも早くみえたので、取り敢えず集会室に案内して早速、取材の質問に答えるようにしました。まずは理事長である私のプロフィールへの質問だったので、直感的に「この質問に答えるだけで30分はかかる」と思いつつ話をしていて、恥ずかしながら40分はしっかり話をしてしまいました。もちろんの事ですが熱く語りました。だって、プロフィールと言うのは本来生まれてから今までの歴史を凝縮して話す事ですから、5分10分で終わるような人生ではないので40分でも短いと思いませんか。私の事ですからプロフィールを語りながら、法人設立から和(なごみ)が出来るまでの事を語りましたので40分は当然の結果だと思います。私が語っている内容を聞いて吉澤施設長が福祉新聞で取材を受けた記事をコピーをして持って来てくれたりと無駄なく説明が出来たとも思います。

1段落して、取材側から「施設運営における理念は何ですか」との質問に対しては『優・悠・邑』とは『すべてに優しく、やすらぎの場所である』事であり、施設を地域に解放し地域と共に歩み、家族力、地域力を取り込みながら無くてはならない施設を目指して行くとも熱く語りました。まだまだ、視覚障害者の施設の理解はされていない現状があるが、後天的視覚障害者は確実に増えていく現実を把握しながら確実な歩みをしていきたいとも語りました。大方の話を終えてから施設見学をして頂き、改めて施設への思いを理解して頂きました。取材を全て終えてから取材したものをまとめられたらインターネットで見れるようにするとの事だったので当法人のホームページでも紹介出来るようにともお願いしました。取材が終了してお見送りをして時間を確認すると16時15分になっていたので、再び和合の副施設長との打ち合わせが17時からあるのでまたまた急ぎ本部施設に帰りました。

リピーターの皆さん。私の1日はあっと言う間に終わるのは1日が充実している証だと思うので、今(午後7時29分)お風呂でコラムが打てたので、取って置きのお酒『黒龍   福』を頂き幸せの時間を過ごします。

昨日、視覚障害者福祉協会の研修に高山市まで行ってきました

会場は高山市総合福祉センターで開始が10時だったので、時間に余裕をみて、6時45分に水野係長の運転で施設を出発して、ひるがのサービスエリアで途中休憩をして(パンと牛乳を買い上げ、車の中で食べました。)9時5分に目的地の駐車場に着き、あまりに早く着いたので9時30分まで待って玄関先に行くと、高山市社協の常務理事兼事務局長の小峠さんが目敏く私を見つけて下さり4階の講演会場に案内して下さり、岐阜県老人福祉施設協議会の片岡副会長と橋本委員長が既に来てみえて、別室に案内して頂き時間が来るまでお話しをさせて頂きました。

研修会場に入るとそこは大かな和室で舞台があり、そこに演題と椅子が置かれていて、まるで落語の講座のような雰囲気で、岐阜県視覚障害者福祉協会の溝口副会長のご挨拶の後に私のプロフィールを紹介して頂き、椅子に腰掛けた時には思わず大学時代の落語を楽しんでいた時のお話しをしていました。90分間に思いっきりの福祉にかける私の思いと盲養護老人ホームの厳しい状況について語らせて頂きました。私の話しの後で質問の時間があったのですが多くの質問を頂き答えれる範囲でしっかり答えさせて頂きました。

研修が終わり橋本委員長からは手土産を頂き、片岡副会長は「高山らしいお店に連れて行く」と言われて観光地がある所の知り合いの歯医者さんの駐車場に車を停めさせて頂き、間口は狭いがお店は広いお蕎麦屋さんに案内して頂き、本当に美味しいお蕎麦を頂きました。片岡副会長にお礼を言って一路施設へ。

私は正直、安堵感からか助手席で爆睡してしまい気が付いたら半分以上に進んでいて美濃に入っていました。

さて、本日は午後から本館1階、2階のお参りがあり、1階では、お経の後で久しぶりに『帰ってこいよ』の替え歌で『3太郎』を歌わせて貰ったのですが予定にはないサプライズで桃太郎は北島部長が金太郎は伊藤主任が浦島太郎は水野係長がそれぞれの衣装で入居者さんの前に出て盛り上げてくれました。2階ではお経の後で『』(最初に唄った曲が思い出せません)『祭り』『お前しか愛せない』の3曲を歌わせて頂き入居者さんの楽しそうな顔に接して私も幸せを頂きました。

お参りの後で岐阜県社協の方との打ち合わせや社労士さんとの打ち合わせがあり、19時からの全体会に突入して、若干名しっかりと話が聞けない職員がいたので全体会に対する思いや業務省力化の意義について熱く語りました。全体会が終了して西村課長のお父さんの通夜には間に合わなかったのですが、心ある職員で斎場に行く事にしたのですが、20人以上が来てくれたのは当施設の強みだと感じました。リピーターの皆さんもそのように思われませんか。

21時に家に帰りつくまでコラムが一切書けていなかったのですが、何とかクリア出来ました。乱文はご容赦下さい。だって、目が瞑ってまうから。

68歳の時の父進さんはどんな風に私の事を思っていたのかな

令和3年7月25日

一昨日(7月23日)お腹が張って昼間なのに午前中は横になりながらゴロゴロしている時にふと、父進さんが今の私の歳の時にどんな風に考えて生きていたのかと、ふと考えていた時の事をコラムにします。私は父進さんが42歳の時に生まれたので、私はその時(68歳ー42歳=26歳)26歳。と言う事は私が教員を辞めて旧徳山村で勘当生活を謳歌して、(威張って言う事ではありませんが)ようやく児童養護施設の指導員の職を得た頃。以前のコラムで書いたように、せっかく紹介して頂いて落ち着いた生活になったはずなのに9月に入職をした時には翌年の3月で辞める位のいい加減な気持ちだったのです。(結果的には13年勤めさせて頂いたのですが)多分父進さんはその事は見抜いていたように思いますが、決してその事には触れずにずっと私の事を見守っていてくれていたようです。(このような表現になるのは直接聞いたわけではないし、当然今も聞けるわけがありませんので。)68歳の今の私にこのような広い心でいられるかと問われたら「絶対に無理」と答えざるを得ないかな。父進さんが68歳の時には垂井小学校の校長を退職してから垂井町教育長を勤め、関ヶ原町歴史民俗資料館初代館長をしていた頃です。その頃の父進は古文書の虫食いの本を楽しそうに見ているのを、私は不思議そうに見ていました。その当事岐阜の繁華街に岐阜近鉄百貨店と言うのがあり、年に2回古文書即売会の企画があり、嬉々として即売会にいつもにはないお金を持って出掛ける父進さんを不思議な顔で見ていました。しかしながら、父進さんはよくよく『忍耐の人』だったんだと思います。私が他人事のように言うのは本来的に可笑しな話なのですが、42年も前の事ですので、リピーターの皆さん、犯罪者の時効のような感覚で話を聞いて下さい。私自身は本当に我が儘一杯の生き方で、ある意味自分の思い通りに生きてきました。もちろん、その為に厳しい状況に置かれた事は数え切れない程にありましたが、その都度いわゆる『神風』が吹くように強力な協力者が現れて今があると言っても過言ではありません。その最大の協力者は言うまでもなく父進さんです。私を育てて今の私があるのは父進さんの存在なくして語れないのです。しかしながら、父進の私に対する気持ちと支援は私から言わせると自分で言うのはどうかと思うのですが一言で言うならば『忍耐』そのものだったと思います。私には絶対に出来ない・・・。父進のあの忍耐力はどこからくるのかを考えてみるに、思い当たるのは恐らく『戦争体験』と『母秋江との結婚』です。まず1つ目の『戦争体験』ですが、父進は若い頃から視力が悪くてなかなか兵隊になれなくて33歳で戦地に行ったようです。戦地では年若い上官から意味なく理不尽な事をされたと聞いてます。ただし、上官の中には記録を書けない方もいて、父が代わりに書いて得をした事もあったとも聞いてます。また、終戦を迎えて旧ソビエト軍の捕虜になりシベリアに抑留された体験も(色々と大変な事があったはずなのにそれを面白く語ってくれたのを記憶してます。)凄まじくて絶対にしたくない体験をした事。そして、父進さんから言って奥さまになった私にとっての母秋江さんに一目惚れして(石垣に隠れてそっと見ていたとの事。何とロマンチックな。これって普通は男女逆ではないか。いやいや今風かな。と言う事はメッチャ先駆け)今須の地に分かれ家の養子に入り秋江さんに絶対服従。う~ん幸せの形は色々なんだ。母秋江さんの生き甲斐のかなりの部分は我が子宏を元気に育てる事で父進はその事を理解した生き方。と言う事は父進さんは家族の幸せが自分の幸せをのように忍耐強く生きられたと理解した時にリピーターの皆さん、とても私には出来ない。でも、よく考えてみたら私も地域の為に施設の為に頑張っているか。つまり、父進のDNAを受けついているのか。う~ん本日もわけわからんコラムでごめんなさい。

嬉しいこと2つと悲しいこと1つ

令和3年7月24日

嬉しいことは、午前中に来年3月に高校を卒業する女子生徒が就職を前提に施設見学に来てくれた事が1つです。当施設を希望してくれた最大の理由は「施設の敷地内にアパートがあること」と明確な答えに「いやいや、当施設は入居者さんが楽しみにしてくれる事を職員が頑張ってくれているし、学歴ではなくて一生懸命さと優しさを大切にしている。」と話をして、アパートを水野係長に案内して貰った後、「就職活動が解禁になったらいの一番にエントリーして下さい。」と話をすると目を輝かしてくれたのはとっても嬉しかったです。

2つ目に嬉しかったのは、特定技能の介護をパスしたベトナム人夫婦が今は1Kのアパート1部屋で生活しているのですが、就職時の話の時に私が「一軒家に夫婦で子供も産んで生活出来る環境への援助をするよ」と話をしていたのですが、「しっかり今須に根を張り、子供も作りたい」との意向を受けて、本日空き家になっている家を案内してもらったら、3人家族と言うより、大家族でも少しの改修で生活出来る事がわかり、この計画を具体的に進める事になりました。ベトナム人夫婦は夫婦共に意欲的だし、この計画が上手くいくと、ネパールの男子職員も奥さんを呼びたいとの意向があるので、職員確保と地域の活性化にも寄与出来るし、介護職員確保の観点からも喜ばしい事だと考えています。これも、施設の事業を開始して23年の月日の積み重ねで信頼を得た証だと思うとめちゃめちゃ嬉しいことです。

嬉しいことの後に悲しいことを書くのは楽しくないのですが、ありのままを書くのが私のコラムですので、しっかり書きます。それは、私の従兄(かなり歳は離れていますが)の息子が亡くなって本日19時から通夜があり参列してきました。他界した従兄の息子は59歳でした。従兄に挨拶をした時に「早すぎるよな。もう少し生きて欲しかった。」と言われた時にはどのように声をかけてよいのかと戸惑うと共に私自身は68歳で毎日走り回れる事に人の死で改めて感じました。生きているからこそ苦もあり楽もあると言う事です。私は母を13歳で姉を17歳の時に亡くし悲しい思いをしたのですが、だからこそ母秋江さんの分と姉光子さんの分もしっかり生きなければと従兄の息子の通夜の席で改めて思いました。健康でいることに感謝し、精一杯自分なりに生きる事で恩返しをしなければとも思いましたのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願い致します。

 

穿った見方かな・・・

令和3年7月23日

東京都議選があり、都民ファーストの会から立候補して、見事に当選された方が免停中でありながら選挙期間中に車を運転して事故を起こしたとの報道がありました。都民ファーストの会を即座に除名されたとの記事を読んだ時は「事故を起こした事を都民ファーストの会本部は選挙期間中に把握していて『知らんぷり』を決め込み、選挙結果が出てから報道したのと違うのかな。もしも、選挙期間中に報道されていたら小池百合子都知事は都民ファーストの会の候補者の応援には行かなかったのではないか。もしそうだったとすると、都民ファーストの会があそこまでの結果を出さなかったのではないか」等と穿った考えを持ったのは私だけではないのではないでしょうか。

昨日のニュースの中で3年の間に免停を5回も繰り返していて「自宅から、まるで夜逃げするようにいなくなった。」との記載もありました。この記事から私が思うことは、「免停中にも関わらず平気で車の運転していたと言う事は、免停とはどう言う事かを理解されてないお方だったのか。政治家として多分この方は色んな事を批判したりしてこられたと思うのですが、社会のルールは守れない人だったのか、それとも都議会議員ならこんなことは揉み消せると思われていたのか。しかも事件が表に出た時の取材では「免停期間が終了していたと勘違いしてました。」とも言われてました。この発言を見て、このお方も証拠を突き付けられるまでしらを切るタイプなのか。いやいや、それとも、このお方は古い政治家の感覚をお持ちの方なのか。どちらにしても夜逃げ同然で行方を眩ませられたのは過剰なマスコミの取材もあったのだろうと言う事は容易く理解出来ました。

昨日の午後からお腹が張った状態で昨夜は夕食を食べずに水のみを飲んで朝を迎えたのですが、まだ、お腹は張ってますので朝のウォーキングとお経は中止して、朝食も食べずに様子をみます。

お経については本日午後から本部施設のデイサービス、新館1階、新館2階の3ヶ所でさせて貰うので許して貰います。今週は毎日複数の会議がリモートも含めてあり、何とかクリアしてきたのですが、知らない内にストレスになっていたとするとストレスを貯めない手立てを講じなければと今は(午前6時42分)横になりながら思っています。午前中は比較的にゆっくりとさせて貰い、13時30分からデイサービスからのお経に備えました。

本日のお経はいつも以上に声が出ていたと思います。それは、大きな声を出す事によってお腹に力が入り少しは刺激になりお腹の調子が良くなるのではないかとの淡い気持ちからです。大きな声を出すと汗まで出るようで、特に新館2階ではお経の後、カラオケで『織田信長』『祭り』を1階では『人生夢の途中駅』を歌い気分爽快になったのでリピーターの皆さん。明日にはしっかり元気になっていると思いますのでますますのご支援宜しくお願い致します。

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『駆除』と『駆使』では意味がとんでもなく違います

リピーターの中には昨日のコラムを読んで頂いて「いつもの事だけど、この間違いは酷すぎる。」と思われた方があったのではないでしょうか。1つの漢字の間違いでこれだけ大きく意味が違ってくるのは気が付いた以上訂正しなければ読んで頂いている方に失礼と言うもの。気が付いたのは朝5時過ぎに起きて、リッド様の食器に餌を入れ、うがいと洗面を終えて仏壇に手を合わせ父進、母秋江、姉光子、養母英子の写真にそれぞれ手を合わせ蝋燭と線香に火を点けおりんをたたき再び手を合わせてからウォーキングマシーンで30分歩き、水分補給をした後にお風呂に入ってから、昨日のコラムを読み返してみての事でした。実は書き替える為に『くし』と打ち込んでみたら直ぐに出てきたのが『駆除』で『駆使』て言うのはなかなか出てこなかったのです。しかも『駆』の字だけて安心してしまったのだと思います。だから、「伏してお詫び、も・も・もうし上げたーてまつりまする。」と言う事です。さて、本日は午前中に優・悠・邑    和(なごみ)に岐阜県視覚障害者福祉協会の溝口副会長が各務ヶ原の皆さんをお連れして下さったので吉澤施設長の挨拶に引き続き私が杉和会理事長としてお話をさせて頂き、その後施設内の見学をして頂き、11時30分に終了して玄関先で皆さん。をお見送りして、13時には優・悠・邑    和合の施設に行き、佐藤施設長、若山副施設長との打ち合わせや職員との話をした後、全体会があるので和(なごみ)でクックチルドによる昼食を試食させて貰ったのですが、味はしっかりしていて、クックチルドだといわなければ、普通に美味しいと言われるのは当然かと言うのが正直な感想でした。昼食を頂いた後は和合の施設に移動して早速打ち合わせをしたのですが打ち合わせの途中で本部施設からメールがきて、岐阜県老人福祉施設協議会の会員施設の施設長に連絡するようにとの事で連絡すると施設の介護職員が入浴中に入居者さんの顔を拳で殴り、頬と顎の骨折をさせて逮捕されたとの事。残念な知らせだったし施設長さんは意気消沈の声だったので、出来るだけの支援はするので何なりと相談して欲しいと話をさせて貰いました。和合の全体会の理事長講話では「介護をしていて、いらっとする場面があります。だからと言って虐待は絶対に許されません。高齢者の心理や認知症の理解をしていくなかで対応の仕方をしっかり学んで実践をしてほしい。」と実例を交えて話をしました。介護現場は学ばなければいけない事も多くある専門職でありながら社会的評価が低いので、私も自分の立場の中で出来る事をしっかりしていきたいと考えています。リピーターの皆さん。表題からかけはなれた形で、まとまりのないコラムになりましたが、いつもの事としてお許し下さい。

本日は15時から全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会があります

今年の5月末まで総務・組織委員会の委員長をしていて、6月からは副会長になり執行理事として、総務・組織委員会の担当副会長になったのですが(他にデイサービス部会も担当です。)総務・組織委員会委員長の2年間には特に思い入れがあり(もちろん、平成18年から色々な委員会を担ってきて、その都度私なりに一生懸命に汗をかいてきましたが)引き続き総務・組織委員会を副会長の立場で担えるのは有り難いし、やりがいがあり、平石会長の思いをしっかり理解して頑張りたいと考えています。

15時の定刻前に全員がスタンバイ出来たので事務局が幹事に進行を依頼して始まりました。最初に担当副会長としての挨拶なので、一生懸命に話をしていると進行役の幹事の田中君が「声が入ってないようですが」に画面上はマイクがオンになっているのに声が聞こえていないと言う事で少し焦りましたが、水野係長が操作をし直してくれて、改めての挨拶になったのですがしっかりとした挨拶が出来ました。小さい頃の私ならこの段階で萎縮してしまうところだったのでしょうが今は違うと言う事を自ら証明出来たように思いました。次に岩手県の渡辺委員長が私の挨拶に協力して頂けるような挨拶をして下さり内心で感謝した次第です。次に熊本県の潮谷副委員長の挨拶だったのですが、潮谷副委員長は自己紹介の中でこの4月から施設長になられたとの事でそれまでは大学の研究者としてと、厚労省社会援護局で専門官としてのキャリアを持たれた方だとの事ですが謙虚な話し方に安心しました。その後、初めての会合と言う事で委員の方にも自己紹介をして頂いたのですが、北海道、新潟県、滋賀県、沖縄県とバランスよく委員の方は選ばれているのですが、どの委員の方も実績を持った論客揃いで、このメンバーで2年間委員会をしていくのが楽しみになってきました。

総務・組織委員会には大きくは3つの役割があります。1つには全国老施協の入会促進を進め会員を増やす為の仕組み作り。2つには賛助会員の仕組みを確立して収入増を計り運営が円滑に行く下支えをしていく。3つには、各委員会の幹事さんが委員会を円滑に進めていき、幹事の方が将来の全国老人福祉施設協議会を支えれるように指導していくと言う事で、どれも大切な事なので2年間しっかりとした舵取りをしていきたいと考えています。

私の場合は全国の役員さんとのネットワークを駆使して、より良い方向になるように汗をかく事だと理解してますので、リピーターの皆さん。私の展開を見て応援、支援を宜しくお願い致します。

メッチャ嬉しくて悔ししいお話し

令和3年7月20日

本日のコラムのテーマは謎かけのようになりましたが、決してそんな話ではありません。実は私の正直な気持ちを表したテーマなのです。その謎解きの話とは、昨日17時15分から本部施設において行われた幹部会での話です。いつものように、幹部職員がそれぞれの立場で報告と提案をして、理事長である私と副施設長が良いこと悪いこと両面からのコメントをしながら進んでいき、法人本部事務局長(優・悠・邑   和合の副施設長)が今年の3月末を持って廃校となった今須小・中学校を拠点とした町つくりの会が設立されての会議に参加している時に(事務局長は今は垂井町に生活の拠点がありますが、元々は今須生まれの今須育ちで知り合いも多い)、例年8月に本部施設で開催されている地域を取り込んだ夏祭りが昨年はコロナ感染症への配慮で中止になったが今年の夏祭りはあるのかと聞かれて、事務局長は本部施設において毎年開催されている夏祭りが地元に根付いていることがわかり凄いと思ったし誇らしくも思ったとの発言に本部施設においての23年の積み重ねの結果だと改めて思うと同時にまだまだ終息していないコロナ感染症によって今年も夏祭りを地域の方々、入居者の家族の方々と一緒に楽しむ事が出来ないことを悔しく感じています。

もちろん、コロナ感染症が永遠に続く事はなくて、予防接種の体制がとれて治療薬が出来た時には単なる風邪と変わらないようになるのでしょうが、今はそのような状況では無いので夏祭りについては各エリアで開催をして『密』を避けての対応をすることになっています。ただし、本来の形での夏祭りが再開出来た時に円滑に出来るように今は盛大に開催出来た時の事をしっかりと語り伝えていかなければと考えています。

もう1つは体重が思い職員の動きについての話になった時に、私は朝のウォーキングについて話をしました。それは、30分ウォーキングマシーンに乗って歩くのに最初の5分はえらくて大変なのにその後は楽に歩けるのは不思議だとの話をすると、私の話を引き継ぐ形で法人本部事務局長が「理事長の話に同感です。と言うのはランニングをしていて、最初の1キロを走るのはしんどいけど1キロを過ぎた頃からしんどさがなくなる。」との話です。つまり、最初は大変でも、体が慣れてくると大丈夫になると言うことは、ある程度頑張ると軌道に乗る事が出来ると言うことなので、何事もしんどい事を乗り切る事が肝要だと理解しました。

本日は13時30分から岐阜県福祉会館で岐阜県老人福祉施設協議会正副会長委員長会議があり、その前に岐阜県健康福祉政策課が28日に開催される会議の事前打ち合わせがしたいとの事で11時30分に昼食を食べて(冷やし中華)施設を出て福祉会館に13時前に着き玄関先で担当者の方が待っていて下さり、2階の会議室で説明を受け終了後に役員の方が揃われたので13時25分から会議を始めて15時30分に会議は終了したのですが、その後岐阜県福祉人材センターとの打ち合わせと合わせて21世紀委員会の打ち合わせをして、福祉会館を出たのが16時。

16時30分に地元に進出してきたマット等を製造販売している会社の方との打ち合わせを入れていたのですがとても間に合わないと思い施設に連絡して急ぎ施設に向かいました。17時前に施設に着くと、多くの幹部職員が提案を聞いていたので、会議室に行く前に全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会の書類がメールできているのを確認して、電話で明日の総務・組織委員会の打ち合わせをしてから会議室に入って行くと幹部職員が提案を聞きながらこの商品は入居者さんの誰々に使ってみたい等と盛り上がっていたので、しばらくそのやり取りを聞いていて、私が遅れて参加したのは結果オーライだったと思いました。

あいからわずのブラス思考で本日も何とかクリアしましたが、リピーターの皆さん。私はこんな日々を楽しんでいるのかも知れませんがこれからも宜しくお付き合い下さい。

本日は3つの会議に参加します

令和3年7月19日

午前中には全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会の4役会議が、午後は岐阜県老人福祉施設協議会の21世紀委員会があり、夕方17時15分からは本部施設の幹部会があります。つまり、私が関わる重要な会議が3つ行われますので、頭を切り替えながらそれぞれの会議に挑みたいと考えています。私が色んな役職を受けるのは「若山ならしっかり頑張ってくれる」に応えたいから。私が一番ダメだと考えているのは『手抜き』と言う事。しかしながら実際に手抜きをすると、後から倍になって返って来ることを小さい頃に一杯いっぱい経験したから。それはどういう事かと言うと『自分もやりたい』とか『自分も答えたい』と思いながらも実際には手を挙げなかったり、行動に移せなくて後悔する事ばかりで・・・。そう言う意味では、小さい頃とは今は真逆な生き方になっていて『忙しいけど充実した日々』と言う事です。午前中に開催された総務・組織委員会のメンバーは実直で尚且つ論客な方が揃われたので担当副会長としては頼もしく思っています。午後からの21世紀委員会は委員長が代わって初めての会議で委員長自らが資料作成や進行をしてくれて、今後の展開に期待が持て、会員メリットを確立してくれると確信しました。21世紀委員会が終了して(16時)慌てて17時15分からの幹部会前に幹部会参加者の夕食代わりのパンとおにぎりをゲンキーに買いに行ってから会議室に行くと既に烏野教授がおみえになっていたので挨拶をして、幹部会メンバーが揃い吉田部長の進行で会議が始まり私もしっかり意見を言わせて貰い20時過ぎに会議が終了して、片付けを終えて車のところまで行くとほっとしたのか立ち眩み状態になり運転席でしばらく安静にしていて、何とか家に帰り着き、車を車庫に入れて玄関の鍵を開けて戸を開けながら思ったのは「ヤバい。コラムが書けてない。」と言うことで今はお風呂の湯船に浸かりながらガラケーの携帯で必死にコラムを打っています。リピーターの皆さん。夕方からの幹部会で夏祭りのにっていが8月10日から15日の6日間で特養3ヶ所で3日とデイサービスで3日です。それぞれのフロアで特色ある企画をしてくれるのを楽しみにしていますが・・・。どの日もオープニングでは理事長である私が挨拶と共にカラオケで歌を歌います。残念ながら花魁はコロナ収束後のクリスマス会まで出来ませんがわくわくしながらお待ちください。

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