本日は『鬱陶しい』とは思わなかったです

令和3年10月9日

昨日の朝は我が家の老猫『リッド』が階段下の所からからんでくるのを『鬱陶しい』と思っていたのですが、本日はよ~く寝たし爽やかに午前4時50分のアラームで目覚めたので、昨日の『鬱陶しい』が本日は『いとおしい』に変わった事に私自身幸せな気分になりました。まだまだ難題は山積みですが、盲養護老人ホーム優・悠・邑    和(なごみ)の入居に対しても岐阜県による支援が具体的になってきたし、県内の市町も動きが見えてきたのでこれから、『如何に素敵な施設なんだ』を理解して頂ける展開にしていかなければいけないと考えています。本部施設の本館が事業開始した時(平成10年)も先代理事長と共に市町村の行政への挨拶回りを精力的にしました。具体的には例えば入居希望の方が福井県敦賀市にみえるとの話があった時は直ぐに連絡を取り敦賀まで行って対応しました。入居が決まったにも関わらず「入居を1ヶ月延期して欲しい」との連絡を受けた時には丁寧に理由をお聞きすると「美濃加茂の病院に母を迎えに行く予定でいた主人が手術をするので施設に送っていけない。」との事だったので、「それであれば私が施設の車に奥さんをお乗せして迎えに行きます。」との事で対応したりしました。私にとっては『当たり前の事』としていたのですが、「優・悠・邑では親切な対応をしてくれる。」との噂がひろがり、想定以上の展開が出来ました。その当時の岐阜県の担当者の方の中には「1年でも満床にならない」と言われていたのですが、5ヶ月足らずで満床になりました。ただし、今回は措置施設であり、尚且つ養護老人ホームなので、特別養護老人ホームのような入居がきまっていかないことは理解してます。しかしながら、厳しいからといって手をこまねいていたのでは何もよい結果は産みません。先月30日には県議会の議題に取り上げて頂きその流れの中で今月12日には岐阜県視覚障害者福祉協会と盲養護老人ホーム和(なごみ)の関係者と岐阜県高齢福祉課の三者がアソシアの大会議室をお借りしての検討会が開催されます。全国47都道府県の内、岐阜県を含めて4県のみなかった盲養護老人ホームを建設した高揚感だけで満足しているわけには行きません。『火中の栗』を拾った以上は制度面での矛盾点を整理して投げ掛ける事をしていく必要もあると考えています。具体的には「視覚障害者の方中には家の中でとじ込まれていて問題が見えない事もわかってきました。だったらそれでよい。との考え方があるのでは無いか」と言う事です。視覚障害者の方を受け入れて、例えば「ヒマワリを始めてさわってみて嬉しかった。」と言う方がありましたし、「生まれて始めて流しそうめんを体験したけど楽しかった。」など、施設入居されて活動的になり『楽しい日々』を過ごされているのを理解すればする程、視覚障害者の方の『快適』を追求していきたいと考えています。リピーターの皆さん。視覚障害者の方の為にも頑張っている社会福祉法人杉和会により多くの支援をお願いします。

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眠れない中、いつものように5時前に起きて

本部施設の体制上考えなければいけない大きな問題が生じているのを感じてこのような問題が出てきた時には色んな事が上手くいっていない時なのだと思うと体は横にはなっていても眠りが浅くて眠った感じがしないのです。体は怠いのですが、いつまでもウダウダしていても何の解決にもならないのでいつものように5時前に起きて1階に降りて行くといつものように老猫『リッド』が階段下でにゃーにゃーと尻尾をピンと立てて待っていて、私が進む方向を邪魔するように歩くのです。

いつもは「面倒臭いけどかわいい」と思うのですが、本日は単に「鬱陶しい」としか思わない私がいるのです。リッドにしてみれば『いつものようにコミュニケーションを取ろうとしたはずなのに、カッカとしているご主人様に下手すると蹴飛ばされそうになったりして。リッドの身になれは迷惑な話です。

いつものようにウォーキングマシンに乗って歩いていてもお経さんが飛んでしまったり、重ねて唱えたり。「こんなんで仏様は願いを聴いて下さるのか」と思ったり。お風呂に入ってもゆったりしなくて・・・。「こんな調子ではよい仕事はできないな」と自重気味に思っていました。

施設に行ってもイライラが収まらなくて、姉の春子さんに廊下ですれ違っても、いつものように軽口がきけなくて。心の中では「申し訳ないな」と思いながらもいつもの素直さが表に出せない。10時30分からの全国老人福祉施設協議会常任会議にでもせっかく発言のの機会なのに切れのある提案が出来なくて・・・。午前中で会議が終わりまだまだシャキッとしなかったので、「机に向かってばかりではどうも上手くない」と思って昼食を頂いていると、本館2階の新しいマットレスが運ばれてきたとの報告を受けてバタバタと大きなブルーシートを用意したりトラックからたくさんのマットレスが運ばれるのを見ている内にエンジンがかかり始めて衆議院議員選挙の岐阜県5選挙区の全国介護福祉政治連盟からの推薦状が届いていたので各支部長さんに連絡していると私らしさを少しずつ取り戻して、勢いが出てきたところで来年2月に開催予定の東海北陸ブロックカントリーミィーティングの当番県として不安な事についてあちこちに問い合わせをしていて、ますます勢いが出てきたので来週の法人監査の書類にも目を通しました。

リピーターの皆さん。昨夜は殆ど眠れなかったのですが色々な仕事があり何とか一日頑張れました。悩んでいた件については、何とか対応出来る見通しも立ちましたので今夜はぐっすりと寝て明日からはみんなに迷惑をかけないように頑張りますのでリピーターの皆さんも懲りずに応援してください。寝不足はみんなに迷惑をかけるので無いようにしま~す。

本日は全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会がリモートであります

13時30分からの開始なのですが、一昨日メールでたくさんの資料がきていたのでプリントアウトはしておいたのですがしっかりとは目を通していないので、午前中にしっかりと読み込んでおくつもりです。コロナ感染症対策の一貫で会議がリモートで行われるようになって1年半以上になり最初の頃と比べるとかなり慣れて操作を出来るようになりました。リモート会議の良さは移動時間が無い分楽なのですが、事前の資料の確認をしておかないと会議の内容を理解しての検討が出来ないのでその時間を確保するのは大変ですが与えられた役割なのでしっかりしていきたいと頑張っています。(東京での会議の場合は最悪新幹線での移動中にペラペラと確認すればよかったのですが)総務・組織委員会のメンバーは論客揃いなので活発な議論がされて、最終的には委員長及び担当副会長である私がが意見集約をして決定していきます。総務・組織委員会での最大の使命は『入会促進』を如何に推進していくかと言う事です。その為には『入会メリット』を如何にして確立してアピールしていくかと言う事が肝要なので各委員会が事業所に対して役に立つ情報を発信するかであり、施設運営が磐石に為るために展開していくと言う事を理解して貰う事だと思います。定刻に始まった総務・組織委員会が15時35分に終了してホッとする間もなく16時からICT・ロボット委員会が企画している業者選定の検討会があります。2千万円からの入札に関わるものなので慎重審議が行われました。検討会も終了してが明日もまた10時30分から常任理事会がありますのでパソコンに送信されている資料をプリントアウトすると60ページからのものなので資料に目を通して予習をしていましたが流石に疲れてきたので18時15分に切り上げて明日早くにもう一度資料に目を通して会議に挑みたいと考えています。私は正直他動的な性格なので5時間も机に向かっているのは大変ですが「これまた修行」と頑張っています・・・。いやいや、全国会員1万1千事業所の代表者として頑張ります。今の私の課題は全国老人福祉施設協議会副会長と言う立場で頂けた情報を私自身がしっかり理解して如何に多くの方に理解出来るように伝えるかと言う事だと考えています。なかなか百%と言うわけにはいきません。百%伝えていく為にはしっかりとした知識を持って挑まなくてはいけないので今まで以上に時間を有効活用しながらの毎日にしていきたいと思います。小さい頃の私は虚弱だったからですが、無駄に時間を使っていたので68歳の今、一生懸命に取り戻そうとしているのかな。リピーターの皆さんはどのように思われていますか。

礼儀について

令和3年10月6日

昨日のコラムで私を見送って頂いた時の素晴らしい対応について、最後に述べましたが、その時に『昭和初期の方だから』と書きましたが良く良く考えると『昭和初期の方だから』出来るのでは無くて『親の躾が素晴らしい』と言う事なのだと気が付きました。つまり、昭和初期の生まれの方なら当然その親は『明治時代の方』と言う事です。私は26歳で児童養護施設の指導員になり、その施設の理事長の奥様に徹底的に『世間の厳しい常識』を教えて頂き(時には不合理な事もありましたが)38歳で自分の道は自分で切り開くような生き方になり『相手を敬う事の大切さ』を考えて実践してきたつもりです。

そこで思い当たるのは、38歳から40歳までのスタンスと40歳以降のスタンスには大きな違いがあることに気付きました。38歳から40歳までの期間と言うのは自分で言うのは全く変なのですが敢えて言うと、全国的に名前が通る程の児童養護施設のカリスマ的存在だったので、何処に言っても大歓迎されて、メチャメチャ気分のよい生活でした。しかしながら、その時代は『霞(かすみ)』を食べているような生活でした。つまり、拠点がない『根無し草』でした。そんな時に何人かの方から「児童福祉に囚われず高齢福祉に身を置くのも選択肢の1つだ」的な事を言われて、私のステージを変えて頑張る事を決意したのです。

40歳からの生き方が直ぐに出来たわけではありません。児童福祉の世界では名前が通る存在でしたが高齢福祉の世界では全くの無名な存在。そんな私でしたが、何も知らない私を色んな意味で理解して導いて下さった多くの方々がみえたからの今だと思っています。そんな中で『相手を敬う事の大切さ』を色んな体験の中で身に付けさせて頂いたのだと思います。特に私がなんぼの者かもわからない中で色んなつながりの中で施設見学に行かせて頂いた時にはどこの施設でも、温かく迎えて頂き私の夢のような話にも耳を傾けて下さり適切な助言を頂けました。

さて、本日は東京から四人のお客様がおみえになります。当初は13時に本部施設におみえになる予定だったのですが、盲養護老人ホーム優・悠・邑   和の打ち合わせの為に急遽岐阜県高齢福祉課に行くことになり(全く有り難い事だと思っています。)13時を11時に変更させて頂いたので、おみえになった時の抹茶と羊羮の準備及び昼食は大垣の老舗料理屋のお弁当と果物を用意して尚且つ今朝になって汁物が無いのは駄目だと考えて私の奥さまかをり様に味噌汁を作って貰う事にして万全の体制で11時を迎えて頑張りました。職員も色々と協力してくれて助かりました。

お客様とは色んな話が出来て12時40分に盲養護老人ホーム優・悠・邑   和に移動して、先ずは仏間に案内して静慈圓大僧正の書を見て頂きその後吉澤施設長の案内で施設を見ていただき14時20分に見送りをしてから急いで岐阜県庁に吉澤施設長の運転で行き打ち合わせが終わり次第岐阜県福祉会館に移動して岐阜県老人福祉施設協議会のホームページの打ち合わせをしました。リピーターの皆さん本日も充実した一日に感謝です。

ボランティアをして腹を立ててはいけませんが・・・。

令和3年10月5日

地区有林の対応でお世話をさせて貰う事は既にこのコラムで書きましたが、元々お世話をされていた地元の長老の方と何度か打ち合わせをして岐阜県治山課から頂いた資料と私が作成した説明会の案内の書類をセットしたものを持って事情を説明する為に一軒一軒回っているのですが、留守の家もありまだ、全員の方には渡せてないのです。持って行った家の方の対応(反応)には一喜一憂しているのです。殆どの家の方は久しぶりにお会い出来た事と共に労いの言葉をかけて頂けたのですが、家によっては、「そんなことで話し合いをしなければいけないのか」とはっきりと言われる方がありました。正直に言えば流石に私もいらっとしたので、「私も良くはわからないのですが60年以上前に岐阜県の支援を受けての事業でその頃の約束が果たされていなくて岐阜県にご迷惑を掛けているので、私なりにお役に立ちたいと思いお世話をさせて頂いているのですが」と言うと、相手の方も流石に「お世話様です。」と言って下さるような事でとにかく割りの合わない仕事を引き受けたものだと考えています。

実は地権者の一人の方が本部施設に入居されていて、しかもその方は唱和31年にその当時の松野知事との契約の責任者として署名捺印をされているので若干の認知症はあるけれども何か情報が得られないかと話を聞きに部屋まで行きました。地区有林の話をするとその頃の事をしっかり覚えてみえて、話の中で私と同じ巳年だと言う事がわかり、思わず「私も巳年ですよ」と言うと「若山さんと一回り違うんか」と言われたので私は思わず「1回りでなくて2回りですよ」と強く言っていました。だって1回りだたら私は80歳になってまうやないですか。話をしていて気が付いたのですがその方は契約をされた時期には27歳だったわけでその頃は役場にお勤めだったとは言え27歳で代表者として活躍されていたのは驚きです。その後亡くなられた方のお名前を出すと「亡くなられたのか」としみじみ言われたのは印象的でした。

このような会話をしていて改めてしみじみ思うのは『自分が光り輝いているときの事は鮮明に記憶されていると言う事です。この話には続きがあります。それは施設でお話をした入居者さんの家に書類を届けに行くと立派な家に入居者さんの奥さまが一人でおみえになり、お話をしていると「先生にとって慣れない事でお世話様です。」と言われ、帰りの挨拶をすると玄関先の板間で正座をして丁寧にご挨拶して頂き、尚且つ私が玄関を出て、車に戻ると外に出て、深々とお辞儀をして頂きました。流石に昭和初期からの礼儀をしっかり身に付けた方だと思いリピーターの皆さん。一喜一憂していた私ですがスカッとした気分になりました。だから、お引き受けした役割はしっかり頑張りたいと思っています。

 

リピーターの皆さんも数を数える時パーの状態からですよね

朝のウォーキングの時のお経は最初は仏壇の中の仏様とご先祖様と我が家の四人の遺影に向かってのご挨拶のお経を唱えて1回目の休憩を取り(約7分かかります。)続いて『般若心経』を5回比較的ゆっくり唱えて2回目の休憩をとります。(約11分かかります。)その時に右手の指を使って順番に指を折っていくのですが、数える時はパーの状態から指を折っていくのです。そして、グーの状態になって一旦休憩で汗を拭いペットボトルの水を飲み、再び歩くのですがこの時はやや早目に般若心経をこれまた5回唱えるのですがこの時は左手をこれまたパーの状態から始めるのです。

数を数えるときに最初はパーの状態から始める事をいつから誰に教えて貰ったかはわかりませんが大抵の方は私と同じようにされているのではないでしょうか。こんなことに悩む方は少ないのかも知れませんが私は突然こだわったわけなのです。そして私は考えました。その中で最も有力で夢がある理由にたどり着きました。

それは、手品をするときに「何も持っていませんよ。」との証しとして、手のひらを開いてみせますよね。そして、次にぐーにしてから何かを出してくる。よくあるパターンです。それと同じように般若心経を一回唱える毎に指を一つずつ折っていく事によって「何もないところから一つひとつ幸せを頂く」と言う事で、パーは『何もない』と言う意味ではないかと考えました。

そしてもう1つ思ったのはじゃんけんをする時には「最初はグーじゃんけんポイ」と言うのがあります。これは最初にグーを出すことによって「何を出すか手の内を見せないぞ」と言う事ではないかとも思いました。こんな事を考えながら自重気味に思った事は「私、若山宏君はいつの間にこんなに理屈っぽい人間になったのかと。41歳で特養の建設と事業展開を考えた頃は火だるまの如く突き進むのみだったのに」と思っています。

しかしながらあれから27年の年月を経て単なる無鉄砲だけでは何事も進展しない。根回しと気配りと緻密さを持って挑まなくては何事も上手くいかないことを実践の中から身に付けていったんだと思います。そして、多分27年の中で打たれ強くもなったんだと思います。一見無謀なようでも冷静な判断が出来るようになったのは本当に幸せな事です。

リピーターの皆さん。私が突然こんな事を言い出したのは色んな意味で正直立ち往生しているからかも知れません。でもいつまでもイジイジしていてもいけないので本日のカラッとした天気のように明日から頑張れるように改めて応援して貰えるとうれしいです。

孫の翔(かける)の続編です

本当にたまにしか会うことがない孫の翔と一緒にお風呂に入りつくづく感じる事は体が大きくなった事もありますが、何と言っても色んな仕草の中に成長の跡があり驚かされます。お風呂では前回と同じオモチャなのに遊び方に工夫がされていて遊ぶのに満足したら「体洗うよ」と言って浴槽からあがり椅子に腰掛けたので私が「頭にシャワーするよ」と言うと一生懸命に目の所に手を当てて「ぬるいお湯をかけて」と言うので、めっちゃぬるいお湯をかけると「大丈夫だよ」と言えるのです。シャンプーを頭につけると自分で髪の毛にシャンプーを伸ばして、私が「シャンプー流すぞ」と言うとまたまた目のところに手を当てながら「大丈夫大丈夫」と言えるのです。そのとき私は長男誠が頭を洗う時にはシャンプーハットをしていたのを思いだし「誠よりたくましいな」と思っていました。頭の次は体にボディーシャンプーをつけると、これまたボディーシャンプーを体にまんべんなくぬることができてシャワーを当てると「じいじ、下の方も」と催促が飛んできました。洗い流した後再び浴槽に入りしばらくすると「結構入ったね」と浴槽から出て、タオルを絞って渡すと自分で体を拭き、脱衣場に移動してからはパパさんに(私の長男誠の事です。)バトンタッチでドライヤーで頭も乾かしお風呂を出たので私はしばらく孫の翔とのお風呂での出来事を思い出しながらゆったりと湯船に浸かりました。夕食での食べるピッチは凄まじく早いので、その事を言うと「好きなものは一杯早く食べるけど嫌いなものはなかなか食べれない。」と言うのです。じいじは甘いのかも知れませんが「誰でもそのようにならないか」と思わず孫の翔の味方をしたくなりましたが、私の発言力は絶大なので言うのを控えました。翔は一番早くに食べ終わり私も含めてまだ食べていたので退屈そうで寝てしまうのではないかと心配していたのですが、夕食の後で花火をする約束になっていたので寝てしまう事もなく、家の近くの空き地で花火をする為にろうそくやバケツに水を入れて準備をしたりして、じいじはなかなかの活躍でした。翔は花火を手に持った事がないと言う事で、最初の内は「ぼくは見てるだけ」と言っていたのが、パパさんに手を持って貰いながらしていたかと思うと、しばらくすると自分一人で出来るようになり、次にはカメラに向かってVサインの余裕綽々のポーズをとるのです。子どもの飲み込みの早さには舌を巻くばかりです。そして、もっとも驚いたのは昨日は朝から左膝に激痛が走っていて湿布を何枚も貼ったりサポーターをしたりしていたのに花火をしている頃には痛さを忘れていて、お陰さまで本日夕方からの地元への配りものを平気で出来ました。リピーターの皆さん。これは正しく『翔(かける)マジック』だと思っているのですがリピーターの皆さんはどう思われますか。

人並みに『じいじ』としてワクワクしてます

令和3年10月2日

このコロナ禍で施設の職員を呼んでの祭りは出来ません。(11時、12時、13時、14時30分と勤務を考慮して順番に参加して貰っています。つまり、私は食べっぱなしの飲み方っぱなし)ただし、今年は立派な利平栗をたくさん頂いたので栗を素材にした料理を中心に作り、私の奥さまかをりさんは長男の家にも届けるとの提案だったので私は猛反対しました。その理由は料理を造りみんなで食べると言う理由が出来たら孫の翔(かける)が我が家に来てくれるのにとの理由からです。だって奥さまは料理を作って届けると言う事で翔に会えるけど私がのこのこついて行くわけにいかんでしょうが。私のあまりの勢いに奥さまが折れて長男に連絡したら本日なら来れるとの事で尚且つ「じいじのところへ行くと翔に話したらじいじと一緒にお風呂に入る」との話を聞いてじいじとしてはメロメロなのであります。

前回来たときに準備していたのに出来なかった花火もやらなければとか、お風呂での遊び道具はいつもので良いのか等と思いを巡らしています。そして、翔が好きないなり寿司とつな巻も手配して、肉屋さんで唐揚げや海老フライを予約して・・・。う~ん。涙ぐましい努力だなと自分でも思います。私には息子が二人いて、子育てとして例えばおむつを替えたりした記憶がないのです。(おむつを替えた事がないので、記憶がないのは当たり前の事なのでありますが・・・)息子が小さい頃、子どもの機嫌が良い時は抱っこをしていても、ぐずついたりした時は抱っこを止めてしまうような、『育メン』とは程遠い父親なのであります。食事を共にする事も殆どないまるで母子家庭のような家庭だったと思います。威張って言う事では無いのですが。何と言っても『趣味は仕事』と豪語してきた人生だったので・・・。すこ~し、枯れてきたのかな。こう言う感覚が出てきたのは。

朝は7時30分に一本の電話があり宮当番として祭りの登り立ての連絡があり、慌てて朝食を終えてのぼり立てに行ったのですが、歩いているときに左膝に違和感を終えて1日中動くのが嫌な状態だったのですが、孫の翔が喜んで食べてくれるのを思い浮かべて16時に肉屋さんと寿司屋さんに予約してあったものを頂きに行き、予定の18時を10分遅れで長男家族が来て早速孫の翔と一緒にお風呂に直行。自分で頭をしっかりシャンプー出来るのに感じて、夕食は翔が好きないなり寿司とつな巻各6個をぺろりと平らげ唐揚げやかつをしっかり食べて・・・。う~ん、限界です。明日に翔の続編を書きますのでリピーターの皆さんご容赦下さい。

 

朝のウォーキング&お参り中に思い出した事

令和3年10月1日

何故か何の脈絡もなく、中学校までずっと同級生だった(1学年1クラスだからクラス替えは無いのです。)クラスのいじめっ子であった二人の事を思い出していました。二人とも今須では有名な『いじめっ子』だったのですが、タイプは全く違っていました。一人は高校も同じで高校時代の彼は、体はそれほど大きくはなかったのですが相撲部で結構強かったのを覚えています。(私はかつての千代の富士のようだったと評してます。)彼はいわゆる『親分肌』で常にグループの中心的存在で気に入らない事があると向かっていくタイプだったのですが、やる気を無くすと投げだしてしまう事もたびたびだったように思います。私の中で一番印象に残っているのは、私達にとって最後の中体連郡大会の試合(卓球部)で敗けを悟ったら相手が返したボールをわざと大きく外して「勝負はしない」と格好をつけているのを見ていて、その頃の私は「やるなあ」と感心していました。(今の私なら「最後まで投げだすな」と激を飛ばすのでしょうが)私は何度も言いますがひ弱な子供だったので、彼にいじめられていたかと言うと逆に助けられてばかりだった記憶しかありません。そんな彼は運動神経抜群だったので、その延長線上でスポーツ店を名古屋で営んでいたのですが、早くになくなりました。私は色んな意味で世話になったのでお葬式には参列させて頂きました。もう一人のいじめっ子はいわゆる『悪餓鬼』と言う感じの男の子だったのですが、私は一度もいじめられた記憶がありません。それどころか助けて貰う事が多かったように思います。本部施設がある所の新年会に参加すると(コロナの為に今年は中止でした。)必ず悪餓鬼の彼に待ち伏せされて虐められたと言う話題になるのですが、中学生当時にそんな噂を一杯聞きましたが私の中では信じられない話しでした。そんな彼に本部施設の『コミュニティーハウス』で行った同窓会で50年ぶりにあったのです。彼は旧国鉄に入社して、今も現役の役員として働いていると言う事で、改めて思ったのは「やっぱり根性があったんだ」と言う事と「随分落ち着きのある人間になったな」と言う事でした。そして今朝考えたのは「いじめっ子の二人が私は苛めの対象にならなかったのか」と言う事です。そんなことを今更本人に聞くのもためらわれるし、一人は聞きたくても亡くなっているし。私なりの答えは、50年位前の子どもの世界は「本当に弱い子は苛めない。」と言う不文律があったのだと思っています。だって、本当に弱い子をいじめるのは『いたぶる』事になるから。私が小さい頃はそんな子供だったに違いないと思っています。私は13歳で母を亡くしたので親孝行は一切できていません。そして、私はひ弱な子供だったのです。今は自分で言うのも変ですが、どこから攻められてもびくともしないような感じです。そんな状況下で私は親孝行ができなかった分、施設利用者の方を親孝行をするような思いで接してます。また、困った人がいると『何とかして差し上げたい。』と思うのです。リピーターの皆さん。今はしてあしあげることが出来る状況にあることに感謝です。つまり、『ひ弱な子供からの恩返し』とでも言うのでしょうか。

 

措置制度の不合理を正す。(あくまで私見ですが・・・)

措置制度を端的に言うと『福祉のセーフティネット』と言う事だと思います。つまり、『自助努力』では生活が出来ない方に『公助』としての市町村が対応することです。私のコラムを読んで頂いている方はご理解されている事なのですが、当法人である社会福祉法人『杉和会』では、今年5月21日に盲養護老人ホーム『優・悠・邑    和(なごみ)を開設しました。養護老人ホームはいわゆる『措置施設』なのですが、『措置控え』の状況の中で「開設はしたものの入居者がなかなかいない状況」に厳しさを覚えながらも「本来入居すべき方が入居出来ない状況があるのではないか」と言う事を本日のコラムで書くことにした次第です。措置をするには公的資金が導入されるのですが、どの自治体も収入が厳しい状況にあるためか『措置控え』がまかり通っているように思います。そんな状況下ではありますが、本日開催された岐阜県議会で盲養護老人ホームに対する質問をして頂きました。一般養護とは違い施設入居しなければいけない方は単に『経済的状況』だけではなくて、『生活援助』をしなければいけない方が多くみえると考えています。「家庭環境の上では対応できる状況だ」との判断をされても、実際には家の中で孤立している場合もあるかも知れません。本日、本部施設のショートステイを利用されている方で視覚障害1級のかたがみえて、声かけは必要ですが基本的には自分で出来る方が要介護3をお持ちなのに疑問を持ち、家族と共に本人さんにも和(なごみ)の施設の見学に来て頂いたら家族共々に施設を気に入って貰い契約での入居の話が内定しました。その話をしながら、昨日岐阜県視覚障害者福祉協会の山田会長と電話でお話しした事を思い出しました。それは、「視覚障害があるからと言う事で介護度が高く出て、介護保険の適用になっている方がかなりの数みえるのだが、本格的な視覚障害者の為の施設が出来た以上施設利用が必要になったら活用出来るようにしたいものだ」との話に本日岐阜県議会で取り上げて頂いたような展開をもっともっとしていただけるように私自身活動していかなければいけないと痛感してます。だれもが、できる限りの快適さを求める権利はあると思います。色んな場面で措置控えの矛盾を訴えて理解して貰えるようにしていきますのでリピーターの皆さんご支援宜しくお願いします。

 

 

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