父進と祖父春吉のDNAを間違いなく受け継いでいます
令和3年11月18日
私の父進は戦前に新聞配達等をしながら(いわゆる苦学生)師範学校を卒業して教育者としての道一筋の人生を歩み、60歳で自分が卒業した垂井町立垂井小学校の校長を退職してから引き続き垂井町教育長を勤め、後進に委ねた後は関ヶ原町歴史・民俗資料館の設立から初代館長を勤めて、館長を辞した後も指導員として80歳で他界する(8月12日)年の6月22日に入院した日まで古文書を読んだり解読したものを書き写したりしてました。父進の後半生は脳梗塞で入院する事が度々でしたが、同居していた私には症状が悪化する前兆が分かったので、極端な形で救急車を呼んで入院するような事は一度もなかったように記憶してます。
前兆を具体的に言うと①真っ直ぐに歩いているつもりなのに真っ直ぐに歩けなくなる。②いつも整った字を書いているのに下手な字しか書けなくなる。の症状が現れるのです。そんな症状が現れた時には大垣市民病院に連れて行くと入院治療の点滴で治して頂いた事が何度かありました。父進のDNAの内『勤勉』と『几帳面』は残念ながら受け継ぐ事は出来てませんが、『仕事優先』のDNAは引き継いだようです。これは姉春子さんから聞いた話ですが(6歳だった私には覚えがないのですが)昭和34年の伊勢湾台風の時には父進は赤坂小学校の教頭として、「学校が心配だ。」と言って、母秋江さんと私を含めた子供3人を母秋江の実家である祖父春吉の家に送り届けて、自分は雨が降る中自転車で赤坂小学校に行ったと言う逸話があるのです。
この一つの逸話だけでは無くて一杯あるのです。父進にしたら決して家族を蔑ろにしているのでは無くて父進なりの使命感からの対応だったと思います。だったら息子である私はと言えば、嫁さんを旅行に連れていくわけでもなく、家の事は殆ど嫁さんに任せて、私の都合で朝食の時間も決めるし見方によっては傍若無人の対応です。しかしながら、「地域福祉の為に頑張っているのだから」と納得して貰っているのです。
次に母方の祖父春吉の話をします。春吉じいさんは今風に言えば今須では珍しい職業であった相場師だったようです。大きく儲けては養老町の有力者との共同出資で『高田劇場』なる映画館を作ってみたり、垂井町で当時としては大規模な工場を作ってみたりと言葉を選ばずに言えば殆ど博徒に近いやり方だったようです。社会福祉事業は博打のようには出来ませんが、『無謀だ』と言われる事を成し遂げてきたのは春吉じいさんの思いきりの良さを受け継いだのかも知れません。そして祖父春吉と私に共通にある存在は仕事を支える奥たまがいるのです。
祖父春吉の奥たまは私にとっての祖母『おますばあさん』です。おますばあさんは春吉じいさんが家にいない時に、或いはおお負けした時の為に家で機織りの仕事を経営していたのです。それでは私の奥たま『かをりさん』は我が儘一杯の私が家にいないときに養母英子さんのいびりをものともしないで私を信じていてくれた。つまり、底抜けの信頼を持っていてくれている。リピーターの皆さん。本日は昼食の味噌ラーメンを丸飲みにしなければいけない位に忙しかったのでお許し下さい。
