3度も嬉しい事がありました

平成26年4月2日に優・悠・邑和合の事業開始をして8年目の月日が流れて行く中で、私自身和合には幹部会と全体会の月2回は施設に行ってはいても、杉和会の実質的創始者である私の理念や思いがどこまで浸透しているのか、あるいは理解されているのかが正直不安でありました。しかしながらその不安を払拭するにあまりある1通のメールをかつての入居者の娘さんから頂きました。

そのメールは私が毎日書いているコラムの中のご意見コーナーの中にありました。8月にメールを頂いていたのですがかなかな返事が書けず1ヶ月近く経ってから返信メールで送りました。

返信メールを送って何日もしないうちに折り返しのメールを頂きそのメールの中に「理事長さんはお忙しい方なので返事が遅くなった等と謝らないで下さい。」の文面に私は「相手に対する配慮ができる素晴らしい方で余程和合での対応を喜んでみえたんだな。」と思うとまたまた嬉しくなり、今度はメールを出すのではなくてパソコン文字ではありますが、手紙を書き私が岐阜新聞で掲載して頂いた『素描』と静慈圓大僧正の本やパンフレット等を入れて送りました。

すると昨日家に帰るとその方からの封書が届いていたのです。中味を確認すれと手紙と共に手作りしたと思われる布マスクが何と15枚も入っていて柄もカラフルで「愛情いっぱいの素敵なものだ」と思いつつ手紙を読んでいくと、私が送らせて頂いたコラムの本はお母さんに見せたら「面白いので先に読みたい。との事で渡しました。」と書いてあり、同じく同封したパンフレットについては「クリスマスの写真に父が写っていて、とても嬉しかったし、とても笑顔の顔で感謝です。」とも書いてありました。その後「お礼と言う程ではありませんが84歳の母が作った布マスクを少しだけ送ります。父が入所中は優・悠・邑    和合のスタッフの人達にも渡しました。(中略)柄など気に入る物があるかわかりませんが、使って頂けたら幸いです。」と書いてありまたまたビックリです。だって、84歳のお母さんの手作りとは。

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私は本日午後から優・悠・邑    和合で幹部会があったので、頂いた手紙の全文を読ませて頂くと共に私自身、理事長としてとても嬉しく和合の施設を造ったのを誇りに思うとも話をしました。なお、私は15枚の内から『龍』と『家紋』の絵柄のマスクを使わせて頂く事にしました。このような事があるとますます頑張らなければいけないと思う私です。リピーターの皆さん。こんな私をどう思われますか。

奇跡への感謝(それにしてもいっぱいあります。いやいや、進行形です。)

何度もコラムで書いていることですが、今朝4時に目覚めて、「少し早すぎるな」と思い寝床の中で「さてさて本日の予定は。」と確認した後「本日のコラムで何を書こうか」と考えていると走馬灯のように今までの私の過激な出来事が浮かんできて私は思わず改めて「全てに感謝だな」と思ったので感謝を込めて改めて書く事にします。

先ずは生後半年が経過した時に心臓が5分程度停まり、それ以降の私は病気と背中合わせの毎日だったとの事ですが(我が家の縁の下には酸素ボンベが置いてあった。)それでも今の私が存在するのは我が家から200メートルも離れてない所に診療所があり本多先生と言う女医さんが常駐されていたので何かあると駆け付けて下さって適切な対応ををして下さった事です。ただし、ここにも伏線があります。と言うのは私の母親秋江さんは今須の生え抜きのしかも私にとっての祖父である春吉じい様は今須では珍しいその当時の相場師でのうるさい存在で、母親秋江は私が生きる為なら何でもするぞと言う方がだったので、本多先生からも特に大切にして頂けたからこそのいまなのであります。色んな偶然が私を生かして貰えたのだと思います。

何とか小学校に入学して1年から3年まで担任の先生だった塚原先生は『塚原ぼくでん』と揶揄されるくらいに厳しい先生だったのですが私は何故か塚原先生に可愛がられていて、その当時は日直と言うのがあり、私は母親秋江さんに食べきれない程の食べるものを作って貰って学校にいて、大した事をするわけでは無いのに塚原先生の側でニコニコとしていたとの事でした。私にとってアマアマの塚原先生がいたから勉強はできなかったと思うのですが、小学校3年間を過ごせたのだと思います。塚原先生には、私が今須の地に本部施設を建てて間なしの頃、塚原先生の住まいがあった近江長岡に講演のお招きがあり行かせて頂いた時に杖をついてわざわざ講演を聞きにきて下さり「ガリガリで青白い顔だったひろっさんが立派になって嬉しかったよ」と言って下さった時には「頑張ってきて良かった」と素直に思ったものです。体が弱かった私を姉光子さんと春子さんがカバーしてくれたからかそ曲がりなりにも学校に行けたんだと思います。

高校2年で荒んだ気持ちを押さえきれずにいたときも、私の不始末を父親進さんがしてくれたから高校を中退せずに済んだのだし、大学時代に横着をして、教授会で退学寸前のところを助けて下さった学長より実権を持っていた旧文部官僚の先生の存在もあったし。教員を辞めて方向性が定まっていない私を児童養護施設の指導員として紹介して下さったその当時中学校の校長先生の存在もあるし、大学時代にあと一時間遅かったら腸閉塞で死んでいたかも知れない事もあったし。とにかく、「あのとき」と思える場面がいっぱいあります。やっぱり、今生きている事に感謝です。リピーターの皆さんも私が生きているのは奇跡だと思いませんか。

一般社団化を目指して

令和3年9月14日

私は岐阜県老人福祉施設協議会の副会長を5期10年勤めさせて頂き、引き続き会長を5期で9年目になります。常に『会員施設にとってのメリットを』を考えて努めてきたつもりです。その中で私は今、組織の基盤強化の為に『一般社団化』の設立に力を入れています。と言うのは私自身の体験の中で『社会福祉法人杉和会』の認可を1997年(平成9年)7月17日に当時の岐阜県知事から頂いた時には「これで社会的認知が頂けた。」と思いました。今でも岐阜県老人福祉施設協議会は存在していますが、あくまで名称を名乗っているだけで、組織として承認されているわけではないので、公の補助金を頂いて何かをするには岐阜県社協さん経由でしなければいけないのです。

会員の方々の中には「今のままでも良いのではないか」とか「会費が上がるような事があったら困る。」等の意見はあるのですが、主体的な組織を確立することによってより発展的な展開が出来るようにするのが私の使命だと考えているのです。確かに会費の値上げは会員の方々には理解しにくい事なので、岐阜県からの理解を得るなかから支援を頂き持続可能でより確固たる組織にしていきたいと考えています。今までにはない発想で何かをしようとすると色んな弊害や軋轢が生じますが、それを恐れていては良い結果は生まれてきません。課題が出てきたら誠意を持って答えて行く事で問題解決をしていくしかない。今までにも厳しい状況は数え切れないほどあったと思いますが、逃げずに立ち向かって来たからこそ今があるのでここもしっかりと踏ん張って行きたいと考えています。

本日も午後から岐阜県庁に行き打ち合わせをしたのですが、私なりに誠意を持ってお話をさせて頂きました。その中で私は「3年で良い方向を見出だしますので、それまでの支援を宜しくお願いします。」と御話しをさせて貰いました。「よくもよくも、なんの為に骨を折っているの」と言われる方がありますが、私は「誰かが業界の為に骨を折って頑張らなければ、明るい将来は切り開けないと思うので気付いた私がやらなければとの思いでいますので、今後の応援宜しくお願いします。」とみんなに言いたいので宜しくお願いします。

昨日の岐阜新聞の3面記事を見て(本日は休刊です)

令和3年9月13日(月)

タイトルは『ぎふ    そもそも?なぜ?』でサブタイトルは『隣接するJR鵜沼駅、名鉄新鵜沼駅・・・運行の要、ともに重要視』を興味深く読みました。書き出しをそのまま書きます。(決して手抜きではなくて本意をリピーターの皆さんにしっかり伝える為です。)

「県内で、JR在来線と大手私鉄である名鉄が、開業当時から現在まで同じ地で近接している駅の一例に挙がるのが、今年開業100周年のJR高山線の鵜沼駅とその5年後に開業した名鉄各務ヶ原線、犬山線の新鵜沼駅。高架通路で歩いて行き来できるほど近いが、なぜ近接しているのか、そこには交通の要として重要視されたことが理由にあった。」

記事を読んでいる内に町作りの発展には10年先、20年先の見通しを立てた計画が必要なんだと思いました。JR鵜沼駅は高山線との接続を可能にして名古屋方面から飛騨を経由して金沢方面へつながる鉄路の必要性が見込まれての建設だったとの事。確かに名古屋から東海道線で米原に行き北陸線乗り換えるよりは便利だったと思われます。ただし、今は新幹線が時間的に早くて、新幹線で米原での乗り換えの方も多いように思われます。しかしながら、東南海地震が発生した時に海岸端を走る北陸線よりも内陸を走るルートが活用される可能性があり、新東名が山の中をトンネルで行く予備のように考えられるのと何処か共通するとしたならば、このルートは『先の先』までみていたと言う事なのかと一人で感心してます。

また、かつては(2001年)名鉄はJRに乗り入れて特急「アルプス」で高山までの運行が可能だったとか。(この運行がなくなったのは需要の関係だと私は考えています)その当時の考え方は鉄道会社の垣根を越えてのもので、画期的な考え方だったと思います。つまり『競合』よりも『共存』を優先させたと言う事です。JRと名鉄との乗り入れが無くなり2009年に完成した高架通路『鵜沼空中歩道』でつながるまでは、行き来するのには遠回りをして踏み切りを渡らなければならなかった。この通路が出来て徒歩数分で行けるようになった。それまでは「近くて遠い存在だった」らしい。

今、コラムを打ちながら垂井駅の改札口は北側にしかなくて、南側は田圃ばかりがあったのに、南北連絡通路が出来た事によって、南側の田圃は駐車場とアパートが乱立してお店も多くの進出して南側は目覚ましい発展を遂げている。いやいやその前に大垣駅も南北連絡が出来て北側が今ではメインのようになっているし。

(ここからは私の独り言ですが)関ヶ原駅の場合は南側にしか改札口が無いので北側に行けるようにしたら、色んな展開があると思うのですが『目の前の事だけ考える』の発想では、『関ヶ原合戦跡地』だけで埋没してしまいそうです。

今年の5月に事業開始した盲養護老人ホーム和(なごみ)は入居者がなかなか入らなくて苦戦していますがこれから岐阜県のセーフティーネットとしての役割は大きくて必ず必要なものになると確信してますので精一杯頑張って展開していきますのでリピーターの皆さん、ご理解とご援助を宜しくお願いします。

私自身に「クスクス」です。

令和3年9月12日

昨日の朝と同じように4時30分過ぎには行動を開始して車庫の中に入れておいた廃品回収用の段ボールや雑誌を車庫前に出しました。と言うのは、昨日は多分、老人会の役員さんが作業を開始されようとされたタイミングで雨が降りだしたので早々に順延のお知らせが来て、昨日はせっかく出した物を車庫の中にしまったので改めて車庫前に出したのです。

出し終えてからいつものようにウォーキングマシンで歩いたのですが、昨日のコラムの写真で見ていただいたように靴に穴が開いてしまっていて、今から考えてみるに左足の小指は長い間に低温やけどのようになっていたのだと思います。流石に本日も穴が開いたシューズを履くわけにいかないので3足買ったうちの外用にしていたのを綺麗にして使用したのです。そして歩きながらお経を唱えているにも関わらず私は思わず「クスクス」の笑いが止まりませんでした。だって、ウォーキングマシンに乗って歩いていても、左足の裏側も小指はもぜんぜん熱くならないし、歩いていても負荷がかからない為か歩くのも軽やかだったように思ったからです。

リピーターの皆さん、私は物を大切にした結果として穴が開いているのを履いていたのでは決してないのです。現に買いに行くまでもなく、それぼど使っていないシューズを今朝は履いているのですから。改めて自分の事になると無頓着な自分がいることを知りました。

昨日は若干の片付けと法人事務局長(和合の副施設長)との決済と打ち合わせが午前中にあり、昼食後に北島部長との打ち合わせをしてから、自分自身でも分かるくらいに集中力がない自分に気付き、14時過ぎに家に帰らせて貰い昼間の時間ではありますがパジャマに着替えて横になると18時前まで爆睡しました。(途中で3回電話連絡がありましたが)その後お風呂と夕食をとり再び寝る事にして「あんなに寝たのに寝れるのかな」と思っていたのですがしっかりと寝る事が出来て今朝は4時30分には爽やかな目覚めでした。最近は早くには起きてウォーキングはしているものの眠い感覚があったのですが本日はそのような事はありません。現に今の時間は午前6時57分なのですが既にコラムがここまで書けました。(この続きは後程に)

本日は日曜日と言う事で外部との会議は一切なかったので、全国介護福祉政治連盟の会費集めの為の対応をしました。介護に政治は関係無い等と言っていたら、制度的なバランスが悪くなりしっかりとした対応が出来なくなってしまったら大変な事になることを会員の方々に知って頂く為に気が付いた者として汗をかくのは当然の事だと考えています。

社会福祉法人は福祉の上でのセーフティーネットの役割を担う為にも頑張っていかなければと考えていますのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願い致します。

いつも以上に早起きしたら悩みが一つ解決しました

令和3年9月11日

本日は老人会の廃品回収があり、老人会の役員さんの回収は早い時だと7時過ぎにはみえるので、ウォーキングマシンに乗って歩きながらのお経をする前に廃品回収で持って行って貰う雑種や段ボール等を車庫の前に置いておこうと考えていて目が覚めたのは4時30分だったので「時間的にちょうど良い」と考えて、これまたいつものようにベットの上で体操をして、これまたいつものようにリッドに絡まれながら歩いてリッドの食器に食事を入れてから(『えさ』と言うのは止めにしました。)洗面だけ済ませてから廃品回収に出すものを車庫前に置いて、仏壇に灯明を点けてからウォーキングマシンに乗り、いつもだと直ぐにマシンのスイッチを入れるのですが、本日は時間があったので、靴がボロボロなのが気になり(かなり前からなのですが・・・)手に取って見てビックリです。だってリピーターの皆さんもビックリでしょ。

だってだってゴムの部分が減っているどころかしっかり穴が空いてるのですから。自分自身でも自分の行動がおかしいと思います。と言うのも私は常に「いつもと違う何かに気づいたら、その対応をしっかりするように」と言っているのに、毎日毎日歩いていて、20分も歩いていると左足裏側が熱くなり特に小指が・・・。そしていつも「神経の何処かに異常があるのか」と歩きながら心配していたのですが。マシンはしばらく乗っているとゴムの部分が熱くなるのは知っていましたが、足の裏側が直接熱くなったゴムの部分に当たっていて熱くなっていたとは・・・。

「もっと早く気が付けよ」と言う話なのですが、改めて思ったのは、「自分の事になるとこんなものか」と言う事です。確かに大垣市にあるスポーツ洋品店『ヒマラヤ』でウォーキングマシンを購入した時にシューズをまとめて3足色違いの物をお店の方のおすすめで購入したのです。今も外用と施設用とウォーキングマシン用で使用しているのですがこのウォーキングマシン用が一番酷使しているように思います。しかしながらゴム底がしっかり無くなり写真でもわかるくらいに大きな穴が開いているのにはビックリすると言うより感動でした。

今から考えてみると確かに左側は歩いていて『熱い』だけでなくて『歩きにくい』感じがしてました。「だったら気が付けよ」と言う事になるのでしょうが自分の事になるとこれがだめ何ですね。と言う事で今朝のウォーキングマシンでの歩きを最後にしてこのシューズは引退させようと親指に力を入れて感謝を込めて歩きました。多分引退するシューズもここまでになったら引退するのを理解してくれると思います。私自身もこのシューズのようにならないように引き際はしっかりとしなければ・・・。「いやいやまだまだ若い者には任せれん。」と言う事でリピーターの皆さん、もう少しいやいやまだまだお付き合い下さい。

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盲養護老人ホーム和(なごみ)の施設長の声がいつも以上に弾んでいました

令和3年9月10日

和(なごみ)の吉澤施設長から昨日の夕方に施設へ電話がありました。その声はいつになく弾んでいるように思えたので「どうしたのか」と思って話を聞く事にしました。すると「二人の方の入居が決まりました。」と言うものでした。一人は東京からの措置依頼で前から打診があったのが正式に決まったとの事。(✳措置と言うのは行政が施設長に対して入居を依頼してくる制度で、状況に応じてどこの市区町村からの依頼であっても受ける事が出来る制度です。)もう一人の方は大垣市の方で(西濃地域で一番人口の多い大垣市からの依頼は初めてなので、とても嬉しいです。)行政の方が措置を検討して頂いていたのですが、財産があると言うので措置ではなくて契約の形での入居になると言う事を報告してきました。

かつては、養護老人ホームは措置以外の入居は出来なかったのですが、定員の20%は契約での入居が可能になっての入居です。私は視覚障害者の施設を建設するに当たって「視覚障害と言う大きなハンディキャップが有ることによって仕事に就く事が難しかった事により厳しい生活を余儀無くされていたのであれば、施設に入居されてからの生活はゆったりとしたものにならなければいけない。であれば居室は個室にすべきだ。」との考えに至りました。結果的には契約入居においても個室にしたことはよかったと思います。5月21日に新設施設が事業開始をして80床の定員に対して現在は12人の入居しかなくて吉澤施設長の「何とかしなければいけない。」との思いが、弾んだ声として表れたのだと思います。入居者がなかなか入らないのは制度的な問題も多くあると思いますので、(この問題は和:なごみのみの問題ではありません。)一筋縄に解決はしませんので、辛抱強くやりきるしかないと考えています。

和:なごみの事を書いていると、本部施設本館の事を思い出しました。つまり、平成10年5月18日に入居の受け入れを開始して5月末で入居者は5人、6月末で15人、8月末で25人になり10月3日にようやく50床が満床になった事を思い出しました。そんな状況の中で、措置依頼の連絡を事務所にいた職員が受けると目を輝かして「〇〇市から措置依頼がありました。」と報告があると事務所内に自然と拍手がわき、「よっしゃ」と声を出す者がいたのを思い出しました。措置施設の経営が厳しい事は百も承知していましたが、ここまで厳しいとは思いませんでしたが、だからこそ一人の入居者にも思い入れがわき、しっかりとした御世話が出来るのだと思います。リピーターの皆さん。垂井町に出来た盲養護老人ホーム和のこれからの展開をしっかりと見ていて下さい。

風水害の対応についての検討会議がありました

岐阜県高齢福祉課が主管での、風水害対応の検討会議がリモートで午後1時30分から行われました。この会議は高齢者の事業者団体の代表者と市町の行政担当者と学識経験者が参加して岐阜県高齢福祉課が取りまとめをする形で開催されました。

最初に岐阜県福祉政策部次長さんのご挨拶があり、引き続いて担当責任者から第1回での発言のまとめられたものの説明があり、その後は各事業者団体の代表者からの質問や意見を言う時間になり、最初に私が岐阜県老人福祉施設協議会の代表者として意見を言わせて頂きました。

私は冒頭「50年に1回と言われるような災害が日本の各地で毎年起きている状況があるので、お互いに知恵をだしあいより具体的な実践ができるようにしていきたいと思っています。」と話をしました。また、「国の指導のもと『事業継続化計画』(BCP)の作成が義務付けられたわけですがまだまだ、施設間の連携も行政との連携も具体的には取れていない現状があるので、岐阜県老人福祉施設協議会としても研修や協定作成に力を入れていきたい。」とも話をしました。

その後、岐阜県老健協とグループホーム協会の代表の方も話され、引き続いて市町の担当者からの状況説明があり、取りまとめの意味も含めて岐阜大学の先生二人からの話を聞きました。岐阜大学の先生方の話を聞いて、より具体的な検討に入りました。昔から『備え有れば憂いなし』の言葉通りにより具体的に進めていきたいとは思うのですが、それぞれの事業所がその気になって取り組まないと難しいと思うので岐阜県老人福祉施設協議会の会長として、必要性を理解して貰えるように汗をかきたいし、より具体的な方向性を岐阜大学の先生方の協力や岐阜県の支援も頂きながら進めていきたいと思っています。

リモート会議が終了してメールが何件か送信されていたので確認しているなかで、全国老人福祉施設協議会デイサービス部会長(北海道)からのものがあり確認すると『北海道の特養とデイサービスのエアコン設置状況のアンケート調査結果』の報告書だったのです。このアンケートについては、最近の夏の暑さは北海道でも例外なく暑いのですが、かなりの確率でエアコンが設置されていないことがわかる資料でした。これは本日の風水害の話同様、気候変動による変化によってであることは当然の事ですが、そう言う意味では、気候環境についていけてない状況があると思うのですが、対応の遅れによって大変な事にならないように対応をしていかなければと考えています。この問題については、副会長として国の予算を引き出す為に頑張りたいとも考えています。

リピーターの皆さん。お互いに『備え有れば憂いなし』の為に出来る事を頑張りましょう。

本日、日本弁護士会との懇談会があります。

2021.9.8

日本弁護士会の提案によって本日、『コロナ禍における家族等との面会の対応について』との懇談会が午後にリモートで開催されるので、私は全国老人福祉施設協議会副会長の立場で参加させて頂きます。日本弁護士会からの開催文を読ませて頂き、『面会の禁止は生存権の著しい侵害』と言う事が唱われていました。私も同感です。と言うのも私は法人を設立するに当たって最も大切にしてきたのは『家族力』『地域力』の協力無くしては施設は成り立たない。との考え方を強く持っていたからです。その原点となったのは児童養護施設の指導員になった当時(26歳)施設が地域との隔絶のようなものを痛切に感じて『地域を取り込み子ども達が地域に受け入れて貰える環境を整える事が大切だ。』と考えました。当初は施設の子が一般家庭に招待されてトラブルがあったりしましたが誠意を持って話をさせて貰う中から段々と打ち解けて、施設に地域の子が当たり前のように来てくれるようになり、施設の良さを理解して貰えるようになり『地域と共に歩む施設作り』が少しずつ出来てきた経験があるからです。

生まれ育った『今須の地』で施設の事業開始をした当時、考えてみたら私は地元での貢献度はゼロに等しく『特養』自体の理解もされていない時代背景があり、色々と辛辣な思いもしましたが、そんな時に考えた事は『地域と共に歩むを一歩ずつ実践して行くと言う事が大切だ』と考えました。そんな中で施設開設時から施設見学については丁寧に対応して、お困りの相談には真摯に考え応えていき、ボランティアさんへの対応についても継続出来るようにしていく中から必然的に『家族会』が設立されたり、『認知症カフェ』や『介護者教室』が運営されるようになりました。今では施設行事を地域の方や家族の方と共に展開出来るようにもなりました。

しかしながら、昨年の2月からのコロナ感染症対策の一貫により『家族等の面会』や『ボランティアの導入』『地域を取り込んだ大きなイベント』等が今までのように出来ない現状に忸怩たる思いを抱いているのは事実です。しかしながら、コロナ感染症のリスクを考えた時に今まで通りに実施出来ないのが現実なのです。私自身も岐阜県視覚障害者福祉協議会前会長の清水会長が少し体調を崩されケアハウスに入居されて盲養護老人ホームの建設が具体的になった事の報告が出来なまま亡くなられた事を今でも残念に思っています。ただし、コロナがどのようなものであるかがわからなかった時だったのでやむを得なかったので。と言う事は面会が出来ない辛さは身を持って理解していると言う事です。だから、可能な限り入居者さんと家族等の関係を保てる手立ては講じてきた事も含めて日弁連の役員の方々に誠意を持って話させて頂きました。また、施設によっての温度差が有ることも話をしました。つまり、リスクがあるから何もかもシャットアウトする事をよしとしない事を徹底させていく事と有料老人ホームやサービス付き高齢者住宅においても理解をして貰える事もしていかなければいけないと言う事を日弁連との会議で感じました。リピーターの皆さん。何でもそうですが気が付いた者が先頭に立って頑張る事が大切だと思うのですが如何思われますか。

朝の日課をこなしながら中1の時の事を何故か思い出してます

令和3年9月7日

中1の6月に不破郡中学体育大会を友達何人かで見に行く約束をして、多分親に内緒で行ったんだと思います。「部活動に行く」とか何とか言って夕方には帰れるから大丈夫と考えて行ったんだと思うのですが、何らかのトラブルがあり遅くなってしまい、我が家では母親秋江さんが大騒ぎをしたのだと思います。結局中体連の応援に行った事がわかり、その当時バスもなくなった時間で近所で仲良くしている方に車を出して貰い迎えに来て頂いたのです。

迎えに来て下さったおばさんが車の中で「お母ちゃんが心配していたのでしっかり謝らなあかんよ」と言われて家に着くなり母親秋江さんから怒られたのですが、多分母親の思考能力は心配が安堵感に変わり完璧におかしくなっていたんだと思うのです。(今だからそのように言えるのですがその当時は当然ながらそんな風には考えられなかったと思いますが)だから、心にもない言葉を言ったのだと思います。

その言葉とは「勝手に出掛ける子はご飯なんか食べんでもいい。」と言ったのです。私はなすすべもなく泣いていたと思うのですが、その時に私にとっての救世主となってくれたのが姉光子さんでした。光子さんは、それまで黙って側にいてくれていたのですが、母親秋江さんのこの言葉には凄い勢いで反発してくれたのです。

その言葉とは「宏が黙って出掛けたのは宏が絶対に悪い。その事は謝ったのに、ご飯なんか食べんでよいと言うのとは関係ない事と違うの」と毅然と言ってくれたのです。姉光子さんはその時18歳で高校を卒業して役場に勤めたばかりの頃です。今考えても凄く逞しい18歳の姉だったと思います。もし、あそこで姉光子さんの発言がなかったら母親秋江さんも父親進さんも落としどころのない状況に結果的に陥ってしまったのではないかと思います。

話を戻しますが私がどうして中体連の応援にバスや電車に乗って行けたのかと言うと学校へお金を持って行った事が発端なのです。と言うのも私は中学に入学して卓球部に入部したのですが、お古のラケットを貰って使っていたのですが自分的には手を握るいわゆるグリップの所が低くて気に入らなかったので友達が新しいのを購入したので譲っても良いと言われていたのでお小遣いを持って学校に行って、ここからの記憶は定かでないのですが何故かそのお金を交通費にしてでかけたのです。結局は「そんなに新しいラケットが欲しがったのなら気に入ったのを買いに連れて行ったる」と言う事でアマアマの結論なのですが、私にとっては滅茶苦茶有り難い存在の姉光子さんだったわけです。因みに本日姉春子さんにその当時の話を覚えているのかを聞いてみたのですが「全く記憶にない。」と言われて、改めて理解したのは、その頃の姉春子さんは私にとっては便りにならない、恐い恐い存在だった事を改めて理解しました。もちろん今はかけ換えのない弟思いの姉春子さんなんですが。

リピーターの皆さん。本日のコラムの私が言いたかった事を理解していただけましたか。

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