礼儀について

令和3年10月6日

昨日のコラムで私を見送って頂いた時の素晴らしい対応について、最後に述べましたが、その時に『昭和初期の方だから』と書きましたが良く良く考えると『昭和初期の方だから』出来るのでは無くて『親の躾が素晴らしい』と言う事なのだと気が付きました。つまり、昭和初期の生まれの方なら当然その親は『明治時代の方』と言う事です。私は26歳で児童養護施設の指導員になり、その施設の理事長の奥様に徹底的に『世間の厳しい常識』を教えて頂き(時には不合理な事もありましたが)38歳で自分の道は自分で切り開くような生き方になり『相手を敬う事の大切さ』を考えて実践してきたつもりです。

そこで思い当たるのは、38歳から40歳までのスタンスと40歳以降のスタンスには大きな違いがあることに気付きました。38歳から40歳までの期間と言うのは自分で言うのは全く変なのですが敢えて言うと、全国的に名前が通る程の児童養護施設のカリスマ的存在だったので、何処に言っても大歓迎されて、メチャメチャ気分のよい生活でした。しかしながら、その時代は『霞(かすみ)』を食べているような生活でした。つまり、拠点がない『根無し草』でした。そんな時に何人かの方から「児童福祉に囚われず高齢福祉に身を置くのも選択肢の1つだ」的な事を言われて、私のステージを変えて頑張る事を決意したのです。

40歳からの生き方が直ぐに出来たわけではありません。児童福祉の世界では名前が通る存在でしたが高齢福祉の世界では全くの無名な存在。そんな私でしたが、何も知らない私を色んな意味で理解して導いて下さった多くの方々がみえたからの今だと思っています。そんな中で『相手を敬う事の大切さ』を色んな体験の中で身に付けさせて頂いたのだと思います。特に私がなんぼの者かもわからない中で色んなつながりの中で施設見学に行かせて頂いた時にはどこの施設でも、温かく迎えて頂き私の夢のような話にも耳を傾けて下さり適切な助言を頂けました。

さて、本日は東京から四人のお客様がおみえになります。当初は13時に本部施設におみえになる予定だったのですが、盲養護老人ホーム優・悠・邑   和の打ち合わせの為に急遽岐阜県高齢福祉課に行くことになり(全く有り難い事だと思っています。)13時を11時に変更させて頂いたので、おみえになった時の抹茶と羊羮の準備及び昼食は大垣の老舗料理屋のお弁当と果物を用意して尚且つ今朝になって汁物が無いのは駄目だと考えて私の奥さまかをり様に味噌汁を作って貰う事にして万全の体制で11時を迎えて頑張りました。職員も色々と協力してくれて助かりました。

お客様とは色んな話が出来て12時40分に盲養護老人ホーム優・悠・邑   和に移動して、先ずは仏間に案内して静慈圓大僧正の書を見て頂きその後吉澤施設長の案内で施設を見ていただき14時20分に見送りをしてから急いで岐阜県庁に吉澤施設長の運転で行き打ち合わせが終わり次第岐阜県福祉会館に移動して岐阜県老人福祉施設協議会のホームページの打ち合わせをしました。リピーターの皆さん本日も充実した一日に感謝です。

ボランティアをして腹を立ててはいけませんが・・・。

令和3年10月5日

地区有林の対応でお世話をさせて貰う事は既にこのコラムで書きましたが、元々お世話をされていた地元の長老の方と何度か打ち合わせをして岐阜県治山課から頂いた資料と私が作成した説明会の案内の書類をセットしたものを持って事情を説明する為に一軒一軒回っているのですが、留守の家もありまだ、全員の方には渡せてないのです。持って行った家の方の対応(反応)には一喜一憂しているのです。殆どの家の方は久しぶりにお会い出来た事と共に労いの言葉をかけて頂けたのですが、家によっては、「そんなことで話し合いをしなければいけないのか」とはっきりと言われる方がありました。正直に言えば流石に私もいらっとしたので、「私も良くはわからないのですが60年以上前に岐阜県の支援を受けての事業でその頃の約束が果たされていなくて岐阜県にご迷惑を掛けているので、私なりにお役に立ちたいと思いお世話をさせて頂いているのですが」と言うと、相手の方も流石に「お世話様です。」と言って下さるような事でとにかく割りの合わない仕事を引き受けたものだと考えています。

実は地権者の一人の方が本部施設に入居されていて、しかもその方は唱和31年にその当時の松野知事との契約の責任者として署名捺印をされているので若干の認知症はあるけれども何か情報が得られないかと話を聞きに部屋まで行きました。地区有林の話をするとその頃の事をしっかり覚えてみえて、話の中で私と同じ巳年だと言う事がわかり、思わず「私も巳年ですよ」と言うと「若山さんと一回り違うんか」と言われたので私は思わず「1回りでなくて2回りですよ」と強く言っていました。だって1回りだたら私は80歳になってまうやないですか。話をしていて気が付いたのですがその方は契約をされた時期には27歳だったわけでその頃は役場にお勤めだったとは言え27歳で代表者として活躍されていたのは驚きです。その後亡くなられた方のお名前を出すと「亡くなられたのか」としみじみ言われたのは印象的でした。

このような会話をしていて改めてしみじみ思うのは『自分が光り輝いているときの事は鮮明に記憶されていると言う事です。この話には続きがあります。それは施設でお話をした入居者さんの家に書類を届けに行くと立派な家に入居者さんの奥さまが一人でおみえになり、お話をしていると「先生にとって慣れない事でお世話様です。」と言われ、帰りの挨拶をすると玄関先の板間で正座をして丁寧にご挨拶して頂き、尚且つ私が玄関を出て、車に戻ると外に出て、深々とお辞儀をして頂きました。流石に昭和初期からの礼儀をしっかり身に付けた方だと思いリピーターの皆さん。一喜一憂していた私ですがスカッとした気分になりました。だから、お引き受けした役割はしっかり頑張りたいと思っています。

 

リピーターの皆さんも数を数える時パーの状態からですよね

朝のウォーキングの時のお経は最初は仏壇の中の仏様とご先祖様と我が家の四人の遺影に向かってのご挨拶のお経を唱えて1回目の休憩を取り(約7分かかります。)続いて『般若心経』を5回比較的ゆっくり唱えて2回目の休憩をとります。(約11分かかります。)その時に右手の指を使って順番に指を折っていくのですが、数える時はパーの状態から指を折っていくのです。そして、グーの状態になって一旦休憩で汗を拭いペットボトルの水を飲み、再び歩くのですがこの時はやや早目に般若心経をこれまた5回唱えるのですがこの時は左手をこれまたパーの状態から始めるのです。

数を数えるときに最初はパーの状態から始める事をいつから誰に教えて貰ったかはわかりませんが大抵の方は私と同じようにされているのではないでしょうか。こんなことに悩む方は少ないのかも知れませんが私は突然こだわったわけなのです。そして私は考えました。その中で最も有力で夢がある理由にたどり着きました。

それは、手品をするときに「何も持っていませんよ。」との証しとして、手のひらを開いてみせますよね。そして、次にぐーにしてから何かを出してくる。よくあるパターンです。それと同じように般若心経を一回唱える毎に指を一つずつ折っていく事によって「何もないところから一つひとつ幸せを頂く」と言う事で、パーは『何もない』と言う意味ではないかと考えました。

そしてもう1つ思ったのはじゃんけんをする時には「最初はグーじゃんけんポイ」と言うのがあります。これは最初にグーを出すことによって「何を出すか手の内を見せないぞ」と言う事ではないかとも思いました。こんな事を考えながら自重気味に思った事は「私、若山宏君はいつの間にこんなに理屈っぽい人間になったのかと。41歳で特養の建設と事業展開を考えた頃は火だるまの如く突き進むのみだったのに」と思っています。

しかしながらあれから27年の年月を経て単なる無鉄砲だけでは何事も進展しない。根回しと気配りと緻密さを持って挑まなくては何事も上手くいかないことを実践の中から身に付けていったんだと思います。そして、多分27年の中で打たれ強くもなったんだと思います。一見無謀なようでも冷静な判断が出来るようになったのは本当に幸せな事です。

リピーターの皆さん。私が突然こんな事を言い出したのは色んな意味で正直立ち往生しているからかも知れません。でもいつまでもイジイジしていてもいけないので本日のカラッとした天気のように明日から頑張れるように改めて応援して貰えるとうれしいです。

孫の翔(かける)の続編です

本当にたまにしか会うことがない孫の翔と一緒にお風呂に入りつくづく感じる事は体が大きくなった事もありますが、何と言っても色んな仕草の中に成長の跡があり驚かされます。お風呂では前回と同じオモチャなのに遊び方に工夫がされていて遊ぶのに満足したら「体洗うよ」と言って浴槽からあがり椅子に腰掛けたので私が「頭にシャワーするよ」と言うと一生懸命に目の所に手を当てて「ぬるいお湯をかけて」と言うので、めっちゃぬるいお湯をかけると「大丈夫だよ」と言えるのです。シャンプーを頭につけると自分で髪の毛にシャンプーを伸ばして、私が「シャンプー流すぞ」と言うとまたまた目のところに手を当てながら「大丈夫大丈夫」と言えるのです。そのとき私は長男誠が頭を洗う時にはシャンプーハットをしていたのを思いだし「誠よりたくましいな」と思っていました。頭の次は体にボディーシャンプーをつけると、これまたボディーシャンプーを体にまんべんなくぬることができてシャワーを当てると「じいじ、下の方も」と催促が飛んできました。洗い流した後再び浴槽に入りしばらくすると「結構入ったね」と浴槽から出て、タオルを絞って渡すと自分で体を拭き、脱衣場に移動してからはパパさんに(私の長男誠の事です。)バトンタッチでドライヤーで頭も乾かしお風呂を出たので私はしばらく孫の翔とのお風呂での出来事を思い出しながらゆったりと湯船に浸かりました。夕食での食べるピッチは凄まじく早いので、その事を言うと「好きなものは一杯早く食べるけど嫌いなものはなかなか食べれない。」と言うのです。じいじは甘いのかも知れませんが「誰でもそのようにならないか」と思わず孫の翔の味方をしたくなりましたが、私の発言力は絶大なので言うのを控えました。翔は一番早くに食べ終わり私も含めてまだ食べていたので退屈そうで寝てしまうのではないかと心配していたのですが、夕食の後で花火をする約束になっていたので寝てしまう事もなく、家の近くの空き地で花火をする為にろうそくやバケツに水を入れて準備をしたりして、じいじはなかなかの活躍でした。翔は花火を手に持った事がないと言う事で、最初の内は「ぼくは見てるだけ」と言っていたのが、パパさんに手を持って貰いながらしていたかと思うと、しばらくすると自分一人で出来るようになり、次にはカメラに向かってVサインの余裕綽々のポーズをとるのです。子どもの飲み込みの早さには舌を巻くばかりです。そして、もっとも驚いたのは昨日は朝から左膝に激痛が走っていて湿布を何枚も貼ったりサポーターをしたりしていたのに花火をしている頃には痛さを忘れていて、お陰さまで本日夕方からの地元への配りものを平気で出来ました。リピーターの皆さん。これは正しく『翔(かける)マジック』だと思っているのですがリピーターの皆さんはどう思われますか。

人並みに『じいじ』としてワクワクしてます

令和3年10月2日

このコロナ禍で施設の職員を呼んでの祭りは出来ません。(11時、12時、13時、14時30分と勤務を考慮して順番に参加して貰っています。つまり、私は食べっぱなしの飲み方っぱなし)ただし、今年は立派な利平栗をたくさん頂いたので栗を素材にした料理を中心に作り、私の奥さまかをりさんは長男の家にも届けるとの提案だったので私は猛反対しました。その理由は料理を造りみんなで食べると言う理由が出来たら孫の翔(かける)が我が家に来てくれるのにとの理由からです。だって奥さまは料理を作って届けると言う事で翔に会えるけど私がのこのこついて行くわけにいかんでしょうが。私のあまりの勢いに奥さまが折れて長男に連絡したら本日なら来れるとの事で尚且つ「じいじのところへ行くと翔に話したらじいじと一緒にお風呂に入る」との話を聞いてじいじとしてはメロメロなのであります。

前回来たときに準備していたのに出来なかった花火もやらなければとか、お風呂での遊び道具はいつもので良いのか等と思いを巡らしています。そして、翔が好きないなり寿司とつな巻も手配して、肉屋さんで唐揚げや海老フライを予約して・・・。う~ん。涙ぐましい努力だなと自分でも思います。私には息子が二人いて、子育てとして例えばおむつを替えたりした記憶がないのです。(おむつを替えた事がないので、記憶がないのは当たり前の事なのでありますが・・・)息子が小さい頃、子どもの機嫌が良い時は抱っこをしていても、ぐずついたりした時は抱っこを止めてしまうような、『育メン』とは程遠い父親なのであります。食事を共にする事も殆どないまるで母子家庭のような家庭だったと思います。威張って言う事では無いのですが。何と言っても『趣味は仕事』と豪語してきた人生だったので・・・。すこ~し、枯れてきたのかな。こう言う感覚が出てきたのは。

朝は7時30分に一本の電話があり宮当番として祭りの登り立ての連絡があり、慌てて朝食を終えてのぼり立てに行ったのですが、歩いているときに左膝に違和感を終えて1日中動くのが嫌な状態だったのですが、孫の翔が喜んで食べてくれるのを思い浮かべて16時に肉屋さんと寿司屋さんに予約してあったものを頂きに行き、予定の18時を10分遅れで長男家族が来て早速孫の翔と一緒にお風呂に直行。自分で頭をしっかりシャンプー出来るのに感じて、夕食は翔が好きないなり寿司とつな巻各6個をぺろりと平らげ唐揚げやかつをしっかり食べて・・・。う~ん、限界です。明日に翔の続編を書きますのでリピーターの皆さんご容赦下さい。

 

朝のウォーキング&お参り中に思い出した事

令和3年10月1日

何故か何の脈絡もなく、中学校までずっと同級生だった(1学年1クラスだからクラス替えは無いのです。)クラスのいじめっ子であった二人の事を思い出していました。二人とも今須では有名な『いじめっ子』だったのですが、タイプは全く違っていました。一人は高校も同じで高校時代の彼は、体はそれほど大きくはなかったのですが相撲部で結構強かったのを覚えています。(私はかつての千代の富士のようだったと評してます。)彼はいわゆる『親分肌』で常にグループの中心的存在で気に入らない事があると向かっていくタイプだったのですが、やる気を無くすと投げだしてしまう事もたびたびだったように思います。私の中で一番印象に残っているのは、私達にとって最後の中体連郡大会の試合(卓球部)で敗けを悟ったら相手が返したボールをわざと大きく外して「勝負はしない」と格好をつけているのを見ていて、その頃の私は「やるなあ」と感心していました。(今の私なら「最後まで投げだすな」と激を飛ばすのでしょうが)私は何度も言いますがひ弱な子供だったので、彼にいじめられていたかと言うと逆に助けられてばかりだった記憶しかありません。そんな彼は運動神経抜群だったので、その延長線上でスポーツ店を名古屋で営んでいたのですが、早くになくなりました。私は色んな意味で世話になったのでお葬式には参列させて頂きました。もう一人のいじめっ子はいわゆる『悪餓鬼』と言う感じの男の子だったのですが、私は一度もいじめられた記憶がありません。それどころか助けて貰う事が多かったように思います。本部施設がある所の新年会に参加すると(コロナの為に今年は中止でした。)必ず悪餓鬼の彼に待ち伏せされて虐められたと言う話題になるのですが、中学生当時にそんな噂を一杯聞きましたが私の中では信じられない話しでした。そんな彼に本部施設の『コミュニティーハウス』で行った同窓会で50年ぶりにあったのです。彼は旧国鉄に入社して、今も現役の役員として働いていると言う事で、改めて思ったのは「やっぱり根性があったんだ」と言う事と「随分落ち着きのある人間になったな」と言う事でした。そして今朝考えたのは「いじめっ子の二人が私は苛めの対象にならなかったのか」と言う事です。そんなことを今更本人に聞くのもためらわれるし、一人は聞きたくても亡くなっているし。私なりの答えは、50年位前の子どもの世界は「本当に弱い子は苛めない。」と言う不文律があったのだと思っています。だって、本当に弱い子をいじめるのは『いたぶる』事になるから。私が小さい頃はそんな子供だったに違いないと思っています。私は13歳で母を亡くしたので親孝行は一切できていません。そして、私はひ弱な子供だったのです。今は自分で言うのも変ですが、どこから攻められてもびくともしないような感じです。そんな状況下で私は親孝行ができなかった分、施設利用者の方を親孝行をするような思いで接してます。また、困った人がいると『何とかして差し上げたい。』と思うのです。リピーターの皆さん。今はしてあしあげることが出来る状況にあることに感謝です。つまり、『ひ弱な子供からの恩返し』とでも言うのでしょうか。

 

措置制度の不合理を正す。(あくまで私見ですが・・・)

措置制度を端的に言うと『福祉のセーフティネット』と言う事だと思います。つまり、『自助努力』では生活が出来ない方に『公助』としての市町村が対応することです。私のコラムを読んで頂いている方はご理解されている事なのですが、当法人である社会福祉法人『杉和会』では、今年5月21日に盲養護老人ホーム『優・悠・邑    和(なごみ)を開設しました。養護老人ホームはいわゆる『措置施設』なのですが、『措置控え』の状況の中で「開設はしたものの入居者がなかなかいない状況」に厳しさを覚えながらも「本来入居すべき方が入居出来ない状況があるのではないか」と言う事を本日のコラムで書くことにした次第です。措置をするには公的資金が導入されるのですが、どの自治体も収入が厳しい状況にあるためか『措置控え』がまかり通っているように思います。そんな状況下ではありますが、本日開催された岐阜県議会で盲養護老人ホームに対する質問をして頂きました。一般養護とは違い施設入居しなければいけない方は単に『経済的状況』だけではなくて、『生活援助』をしなければいけない方が多くみえると考えています。「家庭環境の上では対応できる状況だ」との判断をされても、実際には家の中で孤立している場合もあるかも知れません。本日、本部施設のショートステイを利用されている方で視覚障害1級のかたがみえて、声かけは必要ですが基本的には自分で出来る方が要介護3をお持ちなのに疑問を持ち、家族と共に本人さんにも和(なごみ)の施設の見学に来て頂いたら家族共々に施設を気に入って貰い契約での入居の話が内定しました。その話をしながら、昨日岐阜県視覚障害者福祉協会の山田会長と電話でお話しした事を思い出しました。それは、「視覚障害があるからと言う事で介護度が高く出て、介護保険の適用になっている方がかなりの数みえるのだが、本格的な視覚障害者の為の施設が出来た以上施設利用が必要になったら活用出来るようにしたいものだ」との話に本日岐阜県議会で取り上げて頂いたような展開をもっともっとしていただけるように私自身活動していかなければいけないと痛感してます。だれもが、できる限りの快適さを求める権利はあると思います。色んな場面で措置控えの矛盾を訴えて理解して貰えるようにしていきますのでリピーターの皆さんご支援宜しくお願いします。

 

 

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本日は会議が断続的にありました。

令和3年9月29日

13時30分からの全国老人福祉施設協議会の予算に伴う緊急理事会があるので、その事前承認も含めての会議として午前に臨時常任理事会があります。実は、この2つの会議が2週間程前に予定されたので、元々15時から予定していた当法人の理事会の開催時間を30分ずらして15時30分に変更させて頂いたのです。68歳の私としては、これだけ私を必要として頂いている事に感謝です。尚且つ、17時に終了してから、地元で民家を改修してネパールの男子職員をシェアする形で地元に溶け込みながらの生活を試みたいと考えていて、家族会の吉田会長が骨を折って下さり、改修前の家を見に行く事になってます。

人口現象が甚だしい関ヶ原町への一石と考えての提案です。午前中の会議は15分延びたので、13時に米原市の行政の方が措置入居者さんの事で打ち合わせにみえるので、バタバタと昼食を食べました。(米原市の方は13時30分からを希望されたのですが、午後からのリモート会議が13時30分からだったので早い時間にして頂いたのです。)13時からの打ち合わせを終えて事務所に戻ると全国老人福祉施設協議会の事務局から早くリモートの接続をするようにとの連絡を貰い急ぎ接続が出来ると理事会の皆さんがお揃いになっていたので、(まだ、3分はあったのですが)「遅くなってごめんなさい。」と言ってから会議が始まりました。

会議は15時に終了したので「15時30分迄には少し余裕があるな」と考えていたら、会議を終了したばかりの平石会長から電話を頂いたので慌てて電話に出て色々な話をしていると、「理事会のメンバーはお揃いになっている」との報告を受けた段階で15時25分。これまた慌てて、事情をお話しして電話を切り皆さんが集まられている会議室に行き、ここでも「遅くなってすみません。」と謝る事から始まりました。

法人の理事会は17時10分前に無事に終了して事務局に戻ると既にネパールの職員は家を見に行ったとの事なので、休憩する間もなく出掛けました。既にネパールの職員は家の中を案内して貰っていて、「こんな家をを買いたい」等と言っているのには苦笑いするしかありませんでしたが、今須に居を構えてくれる覚悟を持っているのかと思うと嬉しくなってきました。ネパールの職員は家族と共に暮らす事に夢を持っているのは今の日本の若者との大いなる違いだと痛感せざるを得ませんでした。私は今須での10年後の展開に光を見たように感じているのですがリピーターの皆さんはどのように感じられますか。

癒されているのかなぁ

何度もこのコラムに登場している我が家の老猫『リット』はこの11月23日にめでたく満20歳になるのですが最近の私に対する『甘えかた』なのか『ふてぶてしさ』なのかはわかりませんが私は対応にイライラしつつも結局は癒されているような不思議な時間を味わっています。

と言うのは、私は毎朝5時前にベットの上で足や手をバタバタさせる運動をした後、タオルと靴下と飲みかけの水が入っているペットボトルを持って階段を降りて行くと私の足音に気付いたリットが階段の下の所で座って待っているのです。そして私が行こうとするのを遮るようにジグザグに尻尾をピンと立てて歩くので蹴飛ばしそうになるのをまるで楽しんでいるように歩くのです。私は「あぶないやろうが」等と言ってもお構い無しなのです。

そして、自分の食器が置いてあるところに座って私が食器に食べ物を入れるまで鳴き続けるのです。そして、食べ終えるのを見ていろと言わんばかりのように私の方をチラチラと見ながら食べるのです。私は食べ終わるのを見届けてから洗面とうがいを終えてからウォーキングとお経を唱えるのです。ウォーキングマシンの所に行くまでに仏壇の花の水かえをするのですが、考えてみたら仏様の水かえよりもリットの食事が先なんだから「リット、お前は何様だ」と言う事なのでしょうか。

私が朝出勤する時にはリットはソファーでしっかり寝ていて見送りも無し・・・。ただし、帰宅時はシャッターが開く音で私が帰ってきたのがわかるのか玄関前で座って迎えてくれます。ただし、私が食卓の椅子に腰掛けるまで朝と同じく尻尾を立てて私の前を歩くのです。

極めつけは私が夕食を終えて2階の部屋に行こうと階段の方に向かうと、それまでソファーの上で寝ていたリットが慌てて階段のところまで駆け寄り(いつもよりも俊敏に)私の方に頭を近付けて鼻の上辺りや顎のところを掻いて欲しいとの仕草をするので私はついついリットの要求に応えてしまうのです。家にきた頃は私の車の音がするだけで、2階へ避難していたのに、今の状況はどういう事なのか自分でもわからないのですが、きっとリットの方が一枚上手何だと思います。

リピーターの皆さん。老猫リットにメロメロ(多分)な私の事をどう思われますか。

地区有林の相談に長老の家に本日16時に行きます

令和3年9月27日

地元の長老の方から電話を頂き、「地区有林の対応について、お前が何とかしろ。」と言われたのを受けて、岐阜県庁林政部治山課に相談に行き(8月17日)、そこでアドバイスを受けたのですが「私一人で何とか出来る事ではない。」と言う事で、懇意にしている司法書士の先生に相談させて頂きました。私は正直、岐阜県へ相談に行った時の書類を見てもあまり理解出来ていなかったのですが、流石に司法書士の先生は手慣れたもので「地区有林の権利をお持ちの方に協力して頂く為のたたき台を作成して、メールで送信します。」と言われた翌日には書類が送信されてきたのですが、その後の対処がなかなか出来ずに時間だけが過ぎてしまいました。「いつまでもほかって置くわけにはいかない」と思い、長老の家に昨日電話をして本日16時に今後の対応について相談に行く予定です。

私にとってはこの地区有林とのかかわりはかなり前に(多分25年位前だと思います。)1回だけ現地に連れて行って貰った記憶のみ。だって岐阜県との契約書の日付は昭和33年11月(私が5歳の時で、私は現在68歳ですよ。)でその後岐阜県とのやり取りは何度かされていたようなのですが、結論としては平成29年3月31日で岐阜県との契約が切れていて、その後平成30年、31年と登記の状況確認の為に岐阜県から連絡があったとの記録が岐阜県にはあったのですが「全く改善されていない」との事で、長老の家に岐阜県から連絡が行き、比較的動きが良いであろう私にお鉢が回って来たようです。

地区有林の所有者は現在25名だと言う事は分かったのですが、登記の変更が出来ていて現存していると思われる方は私を含めて13名で、私が知らない方が5名で、それ以外の方は亡くなられているにも関わらず登記変更が出来ていない方と言う事です。具体的に私が動くにしても、長老から情報を得ない事には何ともならないお手上げ状態です。ちなみに昭和33年に世話役をされていた方は本部施設の入居者さんですので、確かに昔の事の情報は教えて頂けるのですが、流石に最近の情報はご存じないのです。何が言いたいかと言えば、『それ程古い話し』だと言うことです。

今、コラムの原稿を打ちながら思い出したのは、本部施設新館の計画をしている時の隣地に地元のお墓があり、恐ろしく前から(極端な方は明治時代でした。)登記がしてなくてその時も司法書士の先生にご苦労をおかけした事を思い出しました。山の価値がどんどん低くなり、家督を引き継ぐ事がされない方がこれからも多く出るのではないかと思うと、しっかりとした施策を打っていかなければいけないと思うのですがリピーターの皆さん、今日の話題についていけましたか。「何だか分からないと言う方がありましたら御免なさい。

 

 

 

 

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