久しぶりに『週刊現代』の記事からです
令和4年1月10日
『私はこうして「左遷」から甦った』のタイトルが気になりました。書き出しの本文をそのまま書きます。《紀元前206年、項羽は、中国最初の統一王朝・秦を滅ぼす。彼は、共に戦った劉邦への恩賞に、要所である関中の地を約束していた。ところが、前言を翻した項羽は関中の西にある辺境の巴蜀を劉邦に与えると言い、地図の左側を指した。劉邦を左に遷すーーー。この逸話が「左遷」の由来であるとも言われている。左遷された場合、そのまま窓際で会社人生を終えるか、あるいは新天地を求めて転職する会社員がほとんどだ。だが、僻地に飛ばされた劉邦がその後項羽を破って漢帝国を打ち立てたように、左遷から蘇り、輝きを取り戻した人もいる。》の書き出しに私は「結果的に上手くいった事例が掲載されているのだろうけど、その結果を手に入れるには想像も出来ないくらいの苦労と努力と応援してくれる方にも恵まれたのだろう。」と思いました。そのように考えれるのは私自身に色々な展開があって今があるからだと思っています。私は児童養護施設の指導員になった時から何事にも一生懸命に頑張る事が出来るようになりました。それは自分自身の事ではなくて子ども達の為に何が出来るかを考える生き方に喜びを見出だせたからだと思います。ただし、相手の為にしていると思っていた事が全て自分の中に良い意味で跳ね返って来たように思います。児童養護施設での展開が出来たのは、高校2年4月7日に姉が急逝し(何度も書いてすみませんが)クチャクチャな生活の中、四国八十八ヶ所巡礼歩き団参に出会い、「人の役に立ちたい」との思いから残りの高校生活は生徒会活動に全力を尽くし大学生活では、「社会の矛盾を正したい」との思いから色んな事をさせて頂きました。(今考えたら随分生意気な事だったと思いますが、その時は真剣だったとも思います。)ただし、私が5年間もの間自分の我儘な生き方に対する支援を惜しみ無くしてくれた父進さんの存在無くしては出来なかった事だったとウォーキングマシンに乗りながら思った次第です。そして、父進さんの力も借りて教師になった時は「子ども達の目線でうごめきたい」との思いで頑張ったつもりでしたが、教育現場はそんな甘いものではなかったのにある程度それが許されたのは父進さんの存在があったからだと言うことに気が付き教師を辞めました。辞めたから何をしたいと言う考えもなく辞めたのはやはり私は『田舎のボンボン』だから出来たことだったと思っています。その頃に考えたのは「父親の萱から自立・自律するには違う世界で頑張らなければいけない。」との思いもあり児童福祉の道にご縁を頂き児童養護施設の指導員になったのです。正直、前倒しで『公休』を頂いている私は思いっきり13年間頑張ったので、それなりに評価を頂いていたとは思うのですが、「自分の思いで頑張れる世界を築きたい。」との思いで38歳の時に辞めたのです。あのままの道の選択をしていてもそれなりの生き方はあったと思うのですが、敢えて未開の地に踏み込んだのです。(ようやくテーマに辿り着きました。)つまり、自ら『左遷』の道を選んだと言う事になりますでしょうか。リピーターの皆さん。理解して頂けましたか。殆んど脇道ばかりの話でしたので、明日は週刊現代の記事にあった事に対してコメントする形で書きたいと思っています。ただし、予定は未定で決定ではありませんのでご留意ください。