父進さんは生きていた時も死んでからも大変なのであります

令和4年5月7日

私の父進さんは明治最後の年に生まれていますので今、生きていれば110歳になるわけですが残念ながら満80歳で他界しました。息子の私から言うのも変ですが几帳面で律義で妻である秋江さん(私の生母)に絶対服従の生き方で苦労人の努力家だったと聞いています。私にとっての母秋江さんは絶対的に甘える事が出来る存在だったのです。リピーターの皆さんも既にご承知の通り母秋江さんは私が小学3年の頃から病院での入退院を繰り返す生活で残念ながら中学1年の時には他界していますので僅か13年の年月ですが『中身の濃~い、甘々な13年』だったと思います。このコラムのリピーターの一人である姉春子さんがこの記事を見たら「宏ばっかり良い思いをして、私は怒られてばっかり」と言う声が聞こえてきそうです。

父の生前のエピソードを紹介します。私が24歳で神戸北小学校の4年3組の担任をしていた時の事です。担任として初めての校内研究授業を6月に実施して頂き自分で言うのも変ですが『最悪の授業』をしてしまいました。当然のことながら校長先生以下全員の先生方から酷評されました。その当時の校長先生は県の研修センターから鳴り物入りで校長として赴任された方ですからそれはそれは大変でした。当然の事ながら私は落ち込みました。家に帰っても落ち込んでいる私を見て父進から「子どもに教えると言う事は大変な事なのに少し安易に考えていたな。お父さんがアドバイス位なら出来るので頑張りなさい。」と言われてからは真剣に教材作りをするようになりました。

先ず私は元々字が下手なのに板書も適当だった事を父進に話しをすると「板書はなかなか難しいものだけれど、宏はマジックだとそれなりの字が書けるのだから教材作りの一貫でビー紙にマジックで書いて行くと少しは余裕のある時間が持てるのではないか。」と言われて「なるほど」と言う事でその日から教材作りを真剣に実施して板書の準備もしっかりして行くようになりました。ただし、私は教材は作るのですが片付けなるものは全く出来なくて・・・。でも大丈夫なのです。朝出掛ける時にはあらあら不思議。綺麗に片付いていて、直ぐに出掛けるようになっているのです・‥。

こんな生活に甘んじていた私なのですがその頃の私は何の疑問も持たなかったのですからどうしようもない息子だったと思います。もしも立場が逆だったら今の私ならきっとカッカとしてしまうと思います。但し、毎日取り敢えず父のアドバイス通り、しっかりとした授業が出来るようになり、10月に実施して頂いた西濃教育事務所の方がみえての研究事業では高い評価を受けた時に『成功体験』をするには地道な努力が必要だと身を持って知った次第です。(今から思うと『片付け』も出来て一人前何だと言う事は児童養護施設の指導員になって初めて理解したのですから今考えるととんでもない若者(馬鹿者)だったと思いますが、「甘えさせる環境がそうさせた。」等と居直る考え方も頭の片隅にはある私なのであります・・・。

父が苦労人の努力家だったと言う話は次回にしますが、今朝のお参りで父進に対して「困っているので何とかして」と話をしてから、母秋江、姉光子、養母英子の3人には「進さんの尻を叩いて頑張らせて」とのお願いをしている私なのであります。正に死んでからも大変な状況にある父進さんにリピーターの皆さんから拍手をお願いします。(なんのこっちゃ)X

いわゆる『ゴールデンウィーク』とやらは終わったようです

令和4年5月6日

いやいやまだ、ゴールデンウィークは5月8日までだと言われる方もおありでしょうが、私たち『介護の入居施設』においては、いわゆる『ゴールデンウィーク』なるものは無縁のものなのです。だから私は負けん気を出して「長期休暇を自慢したらあかんよ。あれは、機械を長く止めた方がコストを押さえられるからなんやで。それに私はゴールデンウィーク中には公的な会議等はないので、家族の面会が沢山あり、色んな方とお話しできるし、入居者とのふれあいも沢山持てるので自分なりに楽しんでいるよ。」と言う事です。ただし、リピーターの皆さんに理解して頂いて支援して頂きたいのは「これだけ頑張っているのだから、職員のお給料面での評価が高くないのはおかしいと言う事を、声高らかに言って欲しい。」と言う事です。せめて全産業の平均値と同等にはして貰いたい。そうすると介護保険料に跳ね返るから難しいとの考え方があるのは理解出来るので、公的な資金の投入に配慮をして貰いたい。この問題を解決するには法的な根拠の見直しも必要なので必然的に政治力も必要だと思わざるを得ないです。だからこそ私は、7月に行われる参議院議員選挙では全国老人福祉施設協議会の組織内候補の園田さんを応援しています。

昨日のバイキングではタケノコご飯が厨房から出ましたので先般湯搔いたタケノコは毎日水を替えてタケノコご飯とタケノコの味噌汁の2回目のタイミングを考えています。タイミングと言うのはこれもこのコラムで書きましたが『私が午前中公的な業務が入っていなくて、厨房のメニューが味噌汁の時』と言うのを考慮して一番早い日は5月11日と言う事になり、私は一瞬その日を躊躇したのです。と言うのは前日の5月10日は大垣市民病院で午後から麻酔処置をしての検査があるからです。事前のお医者さんからの説明ではかなり不安になるようなものでしたが、「今どきのお医者さんの説明はリスクマネジメントへの配慮から最悪のパターンをされるから多分大丈夫なので5月11日で実行することにしよう。」と話をしました。

またまた入居者さん利用者さんからの笑顔を貰えると思うと今からワクワクです。だって、本部施設の入居者さん、利用者さんはノリが良いし、頓智が聞く方が多くみえるので企画をする側としても楽しみなのです。どうしてそう言う方が多いののかと言うと、入居者さん利用者さんを上手に乗せてくれる職員が多くいて、しかも楽しい企画が多く実践されているからだと思います。その様に思える事が確信出来たのは賑やかなボランティア集団の『てるてる座』の皆さんから「優・悠・邑の入居者さん利用者さんのタンバリンのタイミングが絶妙でどこの施設でのボランティアよりもやり易くて楽しい。」と言って頂いているからです。優・悠・邑の半端でない積み重ねの賜物だと考えているのですがリピーターの皆さんはどの様に評価して頂けますか。

 

世間では本日がゴールデンウィーク最後の日とか

令和4年5月5日

いやいや、8日までと言うお方もあるかも知れませんが私自身のカレンダーは毎日が施設での楽しさ、時には辛さを味わう日々です。しかしながら本日は『こどもの日』です。入居者さんは『こども』ではありませんが『こどもの日』があって今があるので、みんなでお祝いをするために『バイキング』を実施します。「バイキングに合わせてたけのこを振る舞うべし」との意見もありましたが「楽しいことは複数回あった方が良い」との考え方から、私が午前中は施設でフリーに動けてしかもお昼に味噌汁が出る日に合わせて楽しみたいと考えています。

と言う事で朝の祈りの時間に手を合わせていて、「こどもの日だけれども、入居者さんは充分に『大人』だから先般私が飲むために酒屋さんで買ってきて封を開けてない『三千盛(みちざかり)を持って行って入居者さんに振る舞おう」と思い付きました。「あっ。私は祈りの時間に祈り以外の事を考えている。まだまだ真剣みに欠けるな。」「いやいや入居者さんの幸せを思ってだから大丈夫」等と一人わいわい話をしている私なのです。さてさて、本日のサプライズで入居者さんはどんな笑顔や話をして頂けるのか今はお風呂に浸かっているのですが今からワクワクしてます。

この報告は後程書く事にします。(ワクワクワクワクワクワクワクワク)施設に行く前に一升瓶から4合瓶にじょうごで入れ替えて施設に行くと本日の検食の吉田部長が全館放送で私が日本酒を持って各フロアを回るとアナウンスしてます。これは吉田部長も入居者さん、利用者さんの笑顔を思い描いてのものだと思うと「よしよし」と言う事でしょうか。今回は新館2階から準じフロアを回る事にしました。それぞれのフロアに行くと先ずは私が大きな声で「岐阜県多治見の辛口の酒三千盛をお持ちしました。」と言うとお酒を期待していた入居者さんから歓声があがります。

入居者の反応はそれぞれです。ある方はノンアルコールビールを慌てて飲み干しコップを手にするかた。いつも飲まれる方々「私は飲まない。」と言われたりした時は「そんな事言わずに飲みゃー。」と言うと遠慮気味にコップを持ちながらも嬉しそうにされる方。順番を待ちきれない方と様々な対応ですが、お酒を振る舞うときにはいつもいつも賑やかな雰囲気になります。新館2階、新館1階と回り、本館2階には強者が揃っておみえになり、私もより気合いが入りました。本館1階で4合瓶が空になりデイサービスに行く前にお酒を追加して、結局皆さんで6合は飲んで頂きました。

皆さんで6合を多いと思われるかは意見が別れるところですが、本日の3種類の結構大きな切り身のお刺身はより美味しく頂いて貰えたと思いました。毎日お酒を提供するわけにはいきませんが、たまにだからこそ楽しみにしてもらえるのだと思います。リピーターの皆さん。入居者さんの中には私の事を『カラオケ』『お経』『お酒』のおじさんと思われているかも知れませんが、『これまた、よろしからずや。』と言う事で。

当法人の職員は素晴らしい

令和4年5月4日

本日未明に(午前1時21分)本部施設宿直者の五次部長からメールがきたので「緊急の連絡か」と直ぐに反応してメールを見ると、夜勤者職員が体調を崩したとの連絡で、「本館夜勤責任者に新館の方の対応をして貰うので早出の責任者に5時30分に少しでも早く来てもらう連絡をしたい。」との内容だったので「5時30分に業務命令のような事はしないで、何かあった時の対応の為に私が早く行くので、早く来るようにとのメールは止めて下さい。」との対応を電話でしました。

と言う事で朝4時31分のアラームでの行動開始はいつも通りだったのですが、パジャマのまま下に降りて行くのでは無く普段着に着替えてから1階に降りて行き、いつもの通り若宮八幡大神様と仏壇の水替えと蠟燭と線香を点け、若宮八幡大神様への祈願と仏壇での正信偈を唱えたのですが、ウォーキングマシンに乗っての般若心経をしてお風呂に入っていては施設に行くのが遅くなると考えて、正信偈を唱えた後は般若心経を1巻のみ唱えてから本部施設に行きました。(5時40分に到着)

駐車場に入ると2人の人影が・・・。犯人は(この表現はおかしいです・・・)その2人とは北島部長と水野係長で、2人で昨日湯がいたタケノコの処理をしてくれていたのです。私は凄い事だし嬉しい事だったのですが、ここは何か面白い事を言って感謝の意を伝えたいと思い咄嗟にでた言葉は「労働基準監督署ですが、こんなに早くからの勤務があるのですか」と投げかけると(悪戯を見つけられた子どものように)「今日は二人共に休みなのでボランティアをしています。」と答えたので、私は滅茶苦茶嬉しい気分になりました。

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今の世の中には権利主張を前面にだす方が多くいる中で、正に私が児童養護施設の指導員をしている時にその当時の理事長さんが禅宗の高僧でその方の教えの中で一番印象に残っていた『陰徳』そのものだと思った次第です。2人の行為は「入居者さん、利用者さんにタケノコご飯とタケノコの味噌汁を食べて貰って喜んで貰いたい。その為には昨日湯がいたタケノコの処理をしておかなければ」との思いだったと思います。但し、私が5時40分に施設に来るのは2人にとって想定外だったと思います。私が10年程前にいろんな事を教えて頂いた故中村博彦参議院議員(前全国老施協会長)のお言葉の一つである『労を惜しまず』そのものだとも思いました。

施設では、施設内を回りながら気が付いた事をメモしつつ入居者さんと楽しく会話したり、1人少ない中で頑張ってくれた職員にも声を掛けながらの楽しい時間でした。その中で入居者さんの一人から(元高校の校長先生)「理事長さんが施設内を回ると引き締まった空気が出来るからちょくちょくして下さい。」と言われて「そう言えば朝一で回る事を最近は出来てないな。」と思いながら施設内を2巡しての歩数を確認すると4500歩を超えていたので、「時にはウォーキングマシンではなく施設内を歩くのも意義があるな。」と思いました。

そんな事を考えて6時過ぎに本館2階に行くと2階の責任者が本来7時からの早出勤務なのに、多分五次部長からのメールを見て自主的に来てくれたのだと思いますが、  自ら状況を判断して来てくれたことにも嬉しさを持ちました。リピーターの皆さん。当法人はそんな施設なのです。不充分な所はありますがこれからも日々成長して行く施設ですのでご支援宜しくお願い致します。

 

カラオケのジョイントコンサートでの出来事です

令和4年5月3日

今年の1月から月に1回、地元藤下(とうげ)の高木さんのカラオケボランティアが開催されます。高木さん(昭和19年4月生まれ)はとても律義な方で、ボランティア当日は5会場で1会場4曲歌って頂く曲名と音域を書いたものを事前に届けて下さるのです。本日もアンコールにも応えられたので、合計21曲歌って頂きました。80歳を前にして実に声の伸びも凄いので私は感心すると共に私も高木さんの年齢になっても同じように声が出たら良いのにと考えています。

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高木さん中心の企画なので、私は2曲で副施設長は1曲歌わせて頂いてます。高木さんは最初には必ずカラオケのテープ(今だったらCDと言う事なのですが)で、テイチクから発売された方の曲を歌われます。そしてそのプロ歌手が当施設に入居されているのですが、本日本館2階の責任者の伊藤主任が元プロ歌手の方に声を掛けると、車椅子で下を向かれていたその方がしっかりと高木さんの方を見てしっかりと耳を澄まして聴かれているのがわかり、目力も凄いものを感じました。その時私は「過去の経験の中で光輝いていたものは忘れられる事は無いのだ。」と言う事を改めて確信しました。

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高木さんの後で私が歌う事になり「テイチクレコードからテープを出されたプロ歌手の前で歌うのは緊張しますが頑張って歌わせて頂きます。」と言って、先般盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の入居者の方に絶賛された布施明さんの『シクラメンのかほり』を歌わせて頂いたのですが、私の方をしっかり見て聴いて頂いてしかも歌い終わると拍手までして頂き私は涙が出る程に嬉しかったです。多分いつもは車椅子に乗っていても下を向かれている事が多い方なのに、今日はしっかり目力を感じられたので、少なくとも本日は昔を懐かしく思いながら気分の良い時間を過ごして頂けたと思います。

実は本日デイサービスからのスタート前に会議室でお茶を飲みながら、高木さんから本人のテープ(定価1000円と記載してありました。)を見せて頂きスマートに白のスーツをビシッと決めた写真まで見せて頂いたのでその時に「本当にプロ歌手だったんだ。」と思い、『光輝いた時代の事は覚えてみえるはずだ。』との思いで対応したのですが『仮説を立てて実践する事』の大切さを身をもって知る事が出来ました。今回の出来事は『特別な出来事』として片付けるのではなくて、一人ひとりの『光り輝いた時代・出来事』を理解して提案出来る事は実践していきたいと改めて思った次第です。

ところで、私がもっと歳を取って『光り輝いた事』は何だろうと考えてみた時に、あまりにも一杯あり過ぎて悩んでしまっている私がいるのです。こんな私を、自分自身、幸せな人生だと感じているのですがリピーターの皆さんはそんな私をどの様に理解して頂けますか。

 

四国遍路での土下座でのお参り、立業、お接待との出会い

令和4年5月2日

四国歩き団参での出会いは数えきれませんが、特筆すべきものを本日は書かせて頂きます。

先ずは『土下座でのお参り』ですが、私が初めて参加した高校2年の夏休みに最初に驚いたのは、本堂と大師堂でお勤め(お経を唱える事です。)をする前に自分の名前と住所と年齢が書いたお札をお札箱に納めてから、参加されている方々が当たり前のように土下座をされてのお参りなのです。汚れたりするのが嫌な方は準備よくビニールの風呂敷等を敷かれている方もありましたが、私はそんな用意もしてないので直に土下座をしました。(それ以降もビニールの風呂敷は用意しなかったですが・・・)なんの違和感も持たずに。『半沢直樹』の土下座とは全く意図が違うのです。私も含めて団参に参加している方は「気持ちよく」と言うより『土下座が必然』と言う感じでさせて貰っていますが、土下座の集団に驚かれたり感心されたりです。でも、素直に土下座出来るのはお参りが成せる業だと思います。

それに、本堂と大師堂の前で数珠を手に重ね持ち遮二無二『般若心経』を中心にしたお経を唱えている時は本当に爽やかな気持ちになり、歩いている時のしんどさを忘れさせてくれます。と言うより11番の藤井寺から12番の焼山寺の山越え約13キロを歩ききっての時は、格別なものがあります。勿論、阿波一国の中でも20番の鶴林寺、21番の太龍寺も最高なのですが。

次に『立業』についてのお話をします。12番焼山寺から一気に山を下りて13番大日寺までの開けた集落に入り多くの小学生、中学生が参加しているので、家の玄関先に立ち『物乞い』ではありませんが『般若心経』を子ども達が大きな声で唱えます。そうすると家の中から出てきて、お金を頂いたり、お米を頂いたりします。子ども達が好んで立ち業をする場所はお菓子屋果物屋です。子ども達の戦利品になるのですから・・・。なお、お米については、お寺で使って頂きお金については飲み物の購入資金として使わせて頂くのです。「子どもをだしにして物乞い等とけしからん。」との考えもあると思いますが、決してそのような考え方ではなくて、「人の温かみを体験させたい。」との思いからです。と言うのも家から出て来て下さった方は異口同音に、「歩いてのお参りとは偉いな。頑張ってな。これお駄賃」と言う流れになるのです。

次に『お接待』の話をします。夏に行う『土用団参』は大体60人から多い時には80人の集団です。その団体が一日25キロから15キロ(距離が違うのは山越えがあるからです。)歩くのですが、休憩する場所が都合よくある事ばかりでは無いので車庫などに入らせて貰う事があります。これは常識では考えられない話なのですが、四国では許される事が殆どで車庫の所有者がみえたりしたときには、「勝手に使わせて貰い申し訳ありません。」等と言うと「何人でのお参りや」と言われて「70人です。」と答えると「私が帰って来るまで休んどき」と言われて車で何処かに行かれて、再び戻ってきた時にはアイスクリームとかジュースを買って来て下さるのです。この行為が四国には浸透していて『お接待』をした方も心豊かになれるとの信仰心が根付いているのだと思います。

そう言えば9番の『法輪寺』では境内にお店が出ていて、歩きの団体でしかも学童が中心だとわかると、売り物の焼き芋や飲み物を惜しげもなくお接待して貰った事を思い出しました。『相手に施せることの喜び』と『施して貰った事に対する感謝』この関係がこの世知辛い世の中にも脈々と残っているとの思いからリピーターの皆さん。私は地域の皆さんが喜んで頂ける事を仕事とさせて頂いている事に幸せと感謝の気持ちを大切にして、今はまだまだ盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の経営で眠れぬ夜がありますが挫けず頑張って行きますのでご支援宜しくお願い致します。

介護事業に関わらせて頂いて28年にして思うこと

令和4年5月1日

介護事業の事など全く知識も何もなかった私が今あるのは、色んな方々の支援があったればこそ。最初の3年間は土地探しからでした。と言うのも、私には土地があるわけでも資金があったから出来たと言う事も全くない状態から始めたからです。逆に言うと何もかもが新鮮で、厳しい状況が何なのかもわからない中からのスタートだったと言えます。ただし、過去には「自分の他に、後にも先にも苦労を苦労と思わない生き方をしていたのは石川県で自立援助ホームを先駆けて実践された先生以外には知らない。(35年前の事です。)」と言っていたのですが、それ以上過激な生き方をされていた稀有な方を知りました。それは先般紹介した『静慈彰』さんです。

話をグッと本題に移します。(いつも本題とかけ離れた事をだらだら書くのが私の悪い癖だと思ってはいるのですが、こんな調子でしか書けないのですが、宜しくお付き合いして下さい。)

私は冒頭に書いたように全く高齢者福祉・介護の知識も経験も無しに、『福祉への思い』だけで突っ走ってきたのです。居直った言い方をするなら『常に家族目線』『入居者目線』を大切にした考え方で24年の月日が流れました。と言う事は、家族の方、入居者の方、地域の方々に色んな事を教えて頂きながらの24年と言っても過言ではないと思います。本日は、入居前の話と最後のお別れの時の話をします。

先ずは入居申し込みの段階での話ですが、殆どの場合、「今まで元気に生活していたのが入院をして(脳梗塞であったり、大腿部頸部骨折であったり、認知症状が厳しいものになった等々)家での介護が難しい。」との話です。つまり、入院をされてから「困った」との相談です。介護が必要でない内は「我が家には、無縁だ」との考えの中で施設見学をされた方が「この施設は素晴らしいので予約が出来ないのか」などとの話は殆どの場合「私には無縁な事」との考え方がある様に思います。だからだと思いますが、2000年の介護保険制度前の状況では、一生懸命に介護されていてとことん介護者が疲れ果ててショートステイやデイサービスを利用された時等に、地域の中に批判的な意見があった事は否定できない状況がありました。今は認知症になられる高齢者の方が5人に1人の時代ですから、批判的な見方をされる方は少なくなりましたが『自分の家は大丈夫』的な方は多くみえて自分の家が現実になった時に慌てて相談にみえる方が殆どだと思います。だからこそ、相談にのる時は『相手の方が何を望まれているのか』をしっかり理解出来るように話をして、当施設で出来る事については話をさせて頂きながら、出来ない事については色んな機関につなぐ情報を提供する事を心がけています。勿論一番大切な事は利用される方の理解だと思っています。

次に、もう一つの話題であるお別れの話をします。家族にとって『身内の方の死』に直面される場面はそれ程多くはないので、施設側としてお手伝い出来る事は精一杯させて頂く事と、無理強いしない事に留意いながら相談にのる事を心がけています。入居者の方が亡くなられた時には、嘱託医の先生と契約者の方に連絡して家族の方だおみえになった時に状況を丁寧にお話をさせて頂き、最後まで一生懸命に生活されたお話をさせて頂き、柔和なお顔であった事をお話させていただくと共にお元気だった頃の写真を写真ブックにまとめたのを提供させて頂き、希望に応じてお風呂にも入って頂き、これまた希望に応じてご自宅までお送りしてます。

この様なシステムを24年間出来たのは(お風呂については最初からではなくて職員の発案があってからですが)職員の理解と協力があったればこそだと思っています。今回は2つの事の紹介でしたがその他にも沢山思いを形にしています。リピーターの皆さん。良ければ蔓延防止も解除されましたので施設にも遊びに来て下さい。私のスタンスは『来るものは拒まず、去る者は追わず』です。

昨日の写真で一部説明が出来てないお話から追加も含めて語ります

令和4年4月30日

昨日は東福寺の話しだったので朝の祈りの時に初めての四国遍路の歩き団参の時に作って頂いた納経帳が目につき思わずガラケーの携帯で撮ったのですが、その説明が出来ていない事にお参りをしている時に気付き「今日のコラムで書かなければ」と思ったわけです。コラムの内容を考えていて(時間があるといつも考えているのです。そうでないと毎日は続きません。)改めて追加の写真も撮りました。

1枚目の写真は『奉納経』と書いてあり『昭和四十五年七月』『美濃國不破郡今須 若山宏』と書いてあるのです。【説明します。】先ずは『奉納帳』と言うのは一般的には『納経帳』と言うものです。『納経帳』と言うのはそれぞれの札所でお参りをした証しとして残すものです。昭和45年7月と言うのは私が初めて四国の歩き団参に参加した時期が明記してありますので間違いなく高校2年夏からの参加と言う事です。と言う事は50年以上前からご縁を頂いていると言う事です。

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2枚目の写真は1番札所の『霊山寺』の納経帳のページを写したものなのですが赤く重なっているのは何回か参加しているので重ねて判を押して頂いているのです。こんなに重なっているのはそれだけ何回か参加している証です。ちなみに阿波一国(今の徳島県)は1番から23番で阿波は『発心の道場』と言って私は特に歩きたいところですし、私自身なかなか『発心』から抜け出せなかったのと、基本的に「歩き団参」は学童中心の団体に参加してた関係で阿波一国が多いのです。もう一つの理由は阿波一国は起伏の多い歩くには最適なコースだったのも回数が増えた理由だと思っています。

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3枚目の写真は24番札所の納経帳の写真ですが24番から39番が土佐の高知県なのですが海岸端を歩くコースで23番から24番へは90キロが殆ど海岸端を歩く事になり目標とするところまでがなかなかなのは辛いものがありました。だからこそ『修業の道場』と言うことなのでしょうが「修業は毎日でも出来る。」等と生意気な事を考えていたのかも知れないので1回しか行けてないのです。この事は40番から65番の伊予の国愛媛県(菩提の道場)も同じ理由です。

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4枚目の写真は四国遍路結願の寺『大窪寺』なのですが写真の通り66番から88番の讃岐の国香川県は『涅槃の道場』で、この香川県は徳島県と同じ様に山の起伏があり徳島県に次いで好きな県だったのですがあまり『ご縁』頂けなかったと言う事なのでしょうか。それとも「まだまだ結びとするのは早すぎる。」と言うことなのでしょうか。

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リピーターの皆さん今日のコラムは少しマニアックなものになってしまいましたが、私の『福祉』への起点がここにあるのでご理解下さい。なお、このコラムで「蠟燭と線香を」と書いたところ早速持って来て下さった方がありました。「そんな貧乏くさい事をするな」との考え方もありますが、四国には『お接待』をするとお参りしている方の幸せを共に頂けると言うのがあります。こじ付けのように聞こえるかも知れませんが朝2時間仏間に籠っている私の幸せを共有したいとの思いからですからご理解下さい。

 

彦根にある高野山東福寺の護摩供養に行ってきました

令和4年4月29日

昨年5月16日に開催しました盲養護老人ホーム優・悠・邑   和(なごみ)の竣工式典で、高野山静慈圓前官大僧正に書のパフォーマンスをして頂いた時に随行で来ていただいた次男の静慈彰さんが住職をされている彦根の東福寺については以前のコラムでも書きましたが、その折護摩供養が毎月28日に行われている事を知り昨日参加させて頂きました。18時からの開始と聞いていましたので、早めの夕食をどこかで食べてから東福寺に行くつもりで4時30分に本部施設を出発したのですが、お腹が空いてない状態だったので夕食をスルーした為に、早くに着いたのであまり早くに行ってもご迷惑だろうと思い屋敷の外をウロウロとしていると慈彰さんのこだわりがあちらにもこちらにもあったので、ガラケーの携帯で適当に撮った写真も少し紹介します。

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とは言え17時30分に玄関を入ると戸に仕掛けがあって、綺麗な音でのお出迎えで慈彰さんも迎えて下さり玄関先でご挨拶をしてから本堂に上がらせて頂きました。しばらくお話をさせて頂いていると、参加されるお客様がみえて、かつて滋賀信行会でご一緒させて頂いた方だったので18時前まで慈彰さんも参加して頂いてのお話し合いをさせて頂き、18時前に慈彰さんは、リモートでの参加の為の準備をされて(一人何役もされて大変そうです。)奥の部屋に行かれて着替えをされてから護摩供養が始まりました。

こじんまりとした内陣の中で一生懸命にお経を唱えられ護摩木に火がついた段階から参加者5人は一生懸命に般若心経を唱えさせて頂きました。私は一生懸命に般若心経を唱えながら、燃え上がる炎を見つめていると一瞬ではありますが炎の中に『龍』の姿が見えたように思いました。その後は不動明王様の形がゆらゆらとしているように思いながら見つめていました。静慈彰さんの合図により内陣の不動明王様の所で手を合わせてご真言を唱えてから護摩木が燃え盛る中に私がお願い事を書いた護摩木3本をご真言を唱えながら入れさせて頂きました。私が入れさせて頂いた護摩木によって炎は勢いを増したので不動明王様が「願い事を聞き入れた」と応えて頂いた様に思いました。(自分でその様に納得したのですから大丈夫です。)

無事に護摩供養を終了して静慈彰さんが内陣の導師の席から降りてみえて静慈彰さんを入れての雑談会が始まりました。滋賀信行会でご一緒させて頂いた女性の方が静慈彰さんが東福寺の復興に5年の歳月を費やされたご苦労話をして下さいました。静慈彰さんは『苦労を苦労と思われない稀有な方だからやり遂げられたのだ.。』と思っていますが、「ガスや電気が来るようにするには床や天井をめくることから始めなければいけないけれど、床をめくってのシロアリ退治からだったのはビックリだった。」とか「ガスと電気が来たのは昨年の10月だったからそれまでは車の中で寝泊まりをしていました。」との発言には舌を巻くばかりでした。

リピーターの皆さん今回東福寺での護摩供養の参加は初めてでしたが素晴らしいの一語なので良ければ毎月28日18時から行はれるので参加されたら如何ですか。場所は彦根市高宮町2838-8です。ナビでしっかり案内してくれますので安心してお出かけ下さい。

 

調子に乗ってしまいました。

令和4年4月28日

昨日は『たけのこ祭』を終えてお裾分けのたけのこの味噌汁とご飯をタッパーに入れて、和(なごみ)の14時からのお参り及び全体会に間に合うように出掛けました。14時からのお参りの前に吉澤施設長と打ち合わせをしてから、お参り会場である会議・研修室に行き皆さんにご挨拶をして仏間に上がりました。

仏間に上がりながら「最初の頃と比べると随分雰囲気が柔らかくなったな。」と感じました。和(なごみ)の入居者さんは毎日お経を唱えられていることもあり、皆さんが大きな声で唱えて頂けます。お経を終えてお話をさせて頂いた後、間髪を入れず「理事長さん歌って」の声を頂き「私もそのつもりでいました。」と答えて「いつもいつもサブちゃんでは申し訳ないので今日は布施明さんの『シクラメンのかほり』を歌います。と言う事で皆さんが一生懸命に手拍子をして頂き気持ち良く歌わせて頂きました。

但し男性入居者の方で手拍子もされないし一見寝てみえるのかと思える方があり、しかも一番前に座って見えたので気になっていました。そんな中で歌い終わるとこれまた間髪入れず「アンコール」の声と共に皆さんからの手拍子を頂き、私が「アンコールはやっぱりサブちゃんでいきますか。」とつぶやくと、今迄寝てみえたのかと思っていた男性入居者の方が「今の布施明の歌は上手かったのでもう一曲布施明で頼みます。」と言われたので私はめちゃくちゃ嬉しくなって「そんなに上手でしたか。」と男性入居者の方に投げかけると「布施明より上手やで」との答えに「そんな事はないと思いますがそれではもう一曲も布施明さんの曲で『霧の摩周湖』を歌わせて頂きます。」と言う事で2曲目も布施明さんの曲を歌わせて頂きました。

これは全く持って私にとって想定外の展開でまるで「豚もおだてりゃ木に登る。」の様な状態で気持ちよ~~~く歌わせて貰いました。歌い終わるとしっかり手を叩きながら「本当に上手や。プロみたいや。」と言って頂いたので「CDを作ったら買って下さい。」等と軽口を叩いていました。私は今後私の為にも上手だと言って頂いた男性入居者の方の事を『歌の審査委員長』と言う称号を差し上げたい気分でいます。この様な会話が出来るのも昨年5月に垂井町梅谷地区に施設を設立させて頂いたからだと思うと嬉しくなりました。ただし、施設がハード面もソフト面も素晴らしい所だと言う事を広く知って頂いて健全な経営・運営が出来るように頑張って行きますのでリピーターの皆さんこれからもよろしくお願いします。

なお、先般このコラムで「私の祈りの時間の蠟燭と線香が家で余っていたら送って下さい。」と書いたら早速に届けて頂く事がありました。これは、決して蠟燭と線香を買うお金がないと言う事ではなくて、私の願いを共有して頂きたいとの思いですので悪しからずご理解下さい。

 

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