今年初めて同級生に会いました。

令和5年1月18日

本日もいつもの様に4時25分から行動開始をしたのですが、仏間でお参りをしようと思ったら蝋燭立ての鶴亀にべっとりと蝋が付いているのが気になって蝋を取る作業をしていて、私の悪い癖で(癖と言うより性分かな)線香立てに線香の燃え残りがあるのも気になり綺麗にさせて頂きました。以外に時間がかかったのでお墓参りの為に家を出たのがいつもの5時30分ではなくて15分遅れの5時45分だったので、いつもよりもスピードのある歩き方で幸福地蔵菩薩様の所に行き、これもいつもの様に幸福地蔵菩薩様に痛い所等を手でさすりしっかりお願いをした後で階段を降りようとすると、同級生が幸福地蔵菩薩様の前に立っていたので少し慌てながらご挨拶をしました。

何で慌てたかと言うと、私が幸福地蔵菩薩様に抱き付いているような姿を見られたと思ったからです。同級生は、私の動揺については何も言わないで幸福地蔵菩薩様に手を合わせられるのを見ていて、その後しっかりとお話をさせて頂きました。と言うよりは彼の持論に合わせながらピンポイントで話をさせて頂きました。

話題は『雪』『睡眠』『中国の人口減』『枝打ち』『野菜作り』『稲作』と豊富な話題で話をしました。『枝打ち・野菜作り・稲作』については今の彼の本業なのですが、拘りの面は半端でなくて正直頷く以外にはなかったです。話をしていて途中で6時の町報のチャイムが鳴ったのですが、そのタイミングで話を切る事が出来ず、いつもだと遅くても6時30分には家に帰るのですが本日は6時50分を過ぎていました。

さて、放射線治療から本部施設に帰り色んな打ち合わせの後、昼食を頂いた後の12時45分に優・悠・邑 和(なごみ)の施設でお参りと全体会があり出掛けました。13時30分からは私が導師役でのお経を(正信偈と般若心経)入居者さんと共に唱えました。お経を唱える前に新年のご挨拶を改めてしてから、「お経さんをお腹から声を出して頂くと元気を頂けますので宜しくお願い致します。」と言って始めました。入居者さんは毎朝正信偈を唱えられているので私も負けじと大きな声で唱えました。

お経が終わると既にカラオケの準備が出来ていたので、「今年の1曲目は布施明さんの恋を歌わせて頂いてからは勿論サブちゃんを歌います。」と言って布施明の歌を歌っている時にふと、昨年の紅白歌合戦を最後に、プロとしては歌わない宣言をされた加山雄三さんの歌が歌いたくなり、恋を歌い終わってから「80歳を超えて頑張られていた加山雄三さんの曲を歌わせて頂いてから、サブちゃんを歌わせて頂きます。曲は『海 その愛』を歌います。」と言うと流石に加山雄三さんは入居者さんもよくご存じで「80歳を越しても大したもんや」等の声があがりました。

私は少し声が枯れていましたが気持ちよく歌わせて貰い、最後に北島三郎さんの『北の漁場』を熱唱して歌い終わり、最後の挨拶をすると入居者さんの方から「楽しかった」の声がかかり「流石に入居者さんは褒め上手や。参考になるな。」と思った次第です。その後全体会があり、職員からの提案もしっかりしているし、吉澤施設長からの『節約』『感染対策』に対する提案も嬉しく聞く事が出来て、最後の総括を理事長としてさせて貰い終了後は再び本部施設に戻りコラムも打てたので本日の業務はこれで終了にします。

リピーターの皆さん、生き生き頑張っているとコロナもインフルエンザも逃げていくのかなと思っています。勿論感染対策しっかりしての話しですが・・・。

幸福地蔵菩薩様の帽子が・・・。

いつものお墓参りの時に一番最初にお参りをする幸福地蔵菩薩様が帽子をかぶられていないのです。昨日はモダンなヒラヒラのフリルの付いた前掛けに変わっていたので「粋なお地蔵さまになったな。」と思っていたのですが、本日は「帽子がない。」と言う事で暗がりの中を少しは明るいライトを利用して(吉澤施設長、もう少し明るいのをプレゼントして欲しかったな。)周りを探したのですがありません。「う~ん。この現象はどの様に理解したら良いのかな。」と朝から悩んでいました。

午前中は放射線治療があり、(毎日の事ですが)午後は大垣の和合の施設で幹部会に引き続きお参りがあります。ちなみに明日は和(なごみ)において全体会に引き続きのお参りがあります。どちらも今年初めての事ですのでしっかりと行いたいと思います。本日の和合における幹部会では今回コロナのクラスターもあり、色んな提案が提出されましたが究極のところは①困った事が起きた時に決めた事を如何に継続していくか。②情報の伝達をしっかり行い「何故その様にするのかをしっかり理解させる。③気が付いた事に対して間髪を入れずに指摘して出来ていない事に対しての修正をしていく。結局は難しい事を実践するより、基本に忠実でなければいけないとの方向が示されました。

話題はガラッと変わりますが28年前の本日1月17日は『阪神淡路大震災』により大きな被害があり、ご遺体が見つかってない方も多くみえるとの報道に心を痛めています。5時46分に災害が起きた時は建て替え前の家の2階で次男と一緒に寝ていたのですが当時次男は3歳であり、私が次男に出来たのは家具が倒れて来てはいけないと次男に頭から布団を掛けたのを今でも覚えています。揺れが落ち着いてから1階に降りていきテレビを点けるとあちこちで火災が起きている画面が映っていたのをしっかりと覚えています。大震災と言えば3月11日の『東日本大震災』、9月1日の『関東大震災』と地震大国の日本では大きな震災が数えきれないほど起きていて記念日になる度に「しっかりとした供えをしなければいけない。」とは思っても「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の様な状況にある事も否定できない事実です。私の持論(とは言えびわこ学院大学教授の烏野先生の受け売りですが)は「東南海地震が起きた時には海なし県の岐阜県は援助の手をしっかりと差し伸べなければいけない。その為には『D-WAT(ディワット)』の組織が間違いなく活動できる仕組みを災害が起きる前に構築しなければいけない。」と言ってはいるもののなかなか進まない苛立ちを覚えています。1月17日と言う事で私なりの考え方を述べさせて頂きましたがリピーターの皆さんはどの様に思われますか。

 

 

56年前の今日、実母秋江さんが他界した日です。

令和5年1月16日

私が中学校1年生の滅茶苦茶雪が降った日で、葬儀の準備の最初は葬儀会場である妙応寺さんまでの雪融けを地元の方にして頂いたので、母秋江さんの葬儀の話になると「秋江さんの葬儀の時は雪解けが大変だったな。」と言われる度に「その節はお世話になりました。」と恐縮しながら話をする期間が結構ありましたが、56年も前の事になりましたので、流石にその話題がのぼる事は無くなりました。

56年の月日が経過しているのですが、私にとっては特別な日なので朝のお墓参りは母秋江さんのお参りが中心になりました。お墓でお経を唱えている時は、56年前に時空が飛んだようで思いが走馬灯の様に蘇ってきました。そう言えばお墓に行く前に妙応寺の本堂で大谷徹奘師の日めくりカレンダーをめくると『弱い自分に出会った時が強い自分になるチャンス』と書いてあったのを見た時には苦笑いをしながら「大谷徹奘師は全てお見通しなんだ」と思った次第です。と言うのは中学生までの私は『弱い自分』ばかりであり、母秋江さん或いは母親代りだった姉光子さんに甘えるばかりで強くなる事は全く出来なかったように思います。

強くなるチャンスは劇的に訪れました。それは母親代わりだった姉光子さんが、高校2年4月7日に急逝した時です。この時こそ私にとっての大ピンチだった様に思います。そのピンチをチャンスに変えたのは、高校2年生の時に巡り合った滋賀信行会による四国八十八か所の歩き団参でした。既にあれから50年は経過しているのですが、あの時のご縁により私の人生は変わり方向付けられたと言っても過言ではありません。ピンチをチャンスに変える事が出来たのは母秋江さん及び姉光子さんに甘えた依頼心の強い私だったのですが、その間に私は「相手が困っているのであれば自己犠牲をしてでも何とかしなければいけない。」と言う事をぼーっとした生き方の中で理解したのだと思います。

しかしながら、私は17歳の時から生き方が大きく変わったのですから、既に52年の月日が経過しているのですが、17年の生き方から学んだ事が52年の人生にとって(まだまだ進行形ですが・・・)有意義なものになっていると言うのは本当に幸せな事だと思っています。

そんな事を母秋江さんの命日に考えるのも、母秋江さんと母親代りだった姉光子さんの死によって私の生き方が大きく変わったと言うのは本当に申し訳ないとは思うのですが、2人は天国で「今頑張っているから大丈夫」と父進さんも参加して話をしてくれていると思っています。だってそうでなかったら先般参加させて頂いた京都三弘法の参加も無いし、四国遍路もないし、ましてや高野山真言宗の大僧正で前官の静慈圓師との出会いもなかったと言う事ですから。

リピーターの皆さん本日は母秋江さんの命日と言う事で50年以上の時空を超えて思いつくままに書いてしまいましたが、そんな面もあると言う事を理解して頂ければ幸いです。

本日の岐阜新聞の記事から

令和5年1月15日

『ヤングケアラー認知進まず』の見出しで大きく掲載されていましたので記事の内容を提示しながら私の意見を述べていきたいと思います。先ずは『ヤングケアラー』の説明と状況について書いてありました。【病気の親や幼い兄弟を世話する子どもを指す「ヤングケアラー」という言葉を聞いた.経験がない人が27.2%いることが14日、朝日生命保険の調査で分かった。「聞いたことがあるが意味が分かっていない」は15.9%。認知が進まない状況が浮かび上がった。家族の世話が重荷となっている子の発見や支援の遅れが懸念される。】との事に私は児童養護施設を退職した38歳の時『教育と福祉カウンセラー』と言う肩書で色んな展開をしている時に正しく『ヤングケアラー』の中一の男子と関りを持ちました。

31年も前の事ですから『ヤングケアラー』と言う言葉はなかったのですその子に出会った時には「今の世の中にこんな身勝手な親がいるのか」と怒りを覚えたのを今でも鮮明に覚えています。本日の記事の中にも「負担を自覚していない子もおり、周囲が理解を深め、気付いて声掛けをする事が重要とされる。」と書いてありましたが確かに31年前に出会った子も自分の境遇を嘆く事なく受け入れていたのには驚かされましたし、両親の身勝手さには怒りすら覚えました。そしてその様な境遇の子は友達からも地域からも孤立してしまう傾向が強いと感じました。

そう言う意味では「学校には行けないのに私が無料で行っていた個人指導には喜んで通って来て色んな事を話ししてくれました。勿論中学校とは連携を取っていましたが正直、学校側は及び腰だった様に思いました。新聞によると【厚生労働省は2022年度から3年間を集中取り組み期間と位置づけている。啓発活動に力を入れているが、さらなる周知が求められそうだ。厚労省の調査では、小学6年生の6.5%が「世話をしている家族がいる」と回答。こうした状況の小学生は、遅刻や早退が多く、学校生活や健康に影響があるとも指摘されている。】と書いてありましたが、どうして厚労省が一生懸命に広報しても一般的な話題にならないかと言えば極一般の家庭においては「自分の家には関係ない」と考えている方が殆どだし、ヤングケアラーの問題を抱えている家庭においては「私の家の問題なのだからほっておいて」と言う現状がある為にヤングケアラーの問題を広める事が難しいと言う事だと思います。

そんな中私がリピーターの皆さんに強く訴えたいのは「我が事の様に」捉えて頂きたいのです。何故その様に考えられる様になったかと言えば、私が25年前に特養を始めた頃は『要介護』とか『認知症』と言う問題は少数派であり「殆どの家が私の家には関係ない」との考え方だったのが今は身近な問題になって皆さんが意識されるようになったと思います。家族関係や人間関係が希薄になっている今だからこそ、国民のみんなが家族の在り方を考えていく中でヤングケアラーの問題についても考えていくべきではないかと考えているのは私だけでしょうか。

本日は京都三弘法のお参りに出掛けます。

いつものように4時25分のアラームで行動開始。(4時には目を覚ましていました。)6時に家を出発予定にしていたのでお墓参りは無しにしていたので仏間でのお経はいつもよりもゆっくり丁寧にさせて頂きお参り後に温かいお茶を優雅に飲み(こんなにゆったりお茶を飲むのは久しぶりな様に思います。)出発しました。6時30分には長浜本部近くまで来たのですが久しぶりであり、まだ暗いこともありいつもの道がわからなくて少し慌てましたが、何とか本部施設に着くと内藤会長や西川課長以下の役員さんがみえたので挨拶をして待っていると続々と参加者の方がみえてコロナ接種の証明書を確認して長浜本部集合の方が揃った段階で内藤会長の導師により般若心経を一巻あげて、バスに乗り込みました。何ヵ所かに迎えに行きいよいよ京都に向けて バスを走らせます。ここからはお参りをリアルな形でお届けします。京都3弘法のお参りの最初は神光院だったのですが2号車と重なってしまいしばらく本堂の軒下で待っていて2号車の方がお参りを終わられるまでに少し時間がかかると言う事で祈願が出来る色紙を手に入れる事にしました。と言うのは職員が大手術をされた時に色紙を受けさせて貰い無事に復帰今も勤務しているので、今は法人の大きな障害を取り除いて頂く祈願をしたいと言う事で無事に手に入れました。その後本堂でご住職のご祈祷を受け引き続き内藤会長の導師でお経を皆さんで唱えました。次のお参りは 京都三弘法では無いのですが北野天満宮にお参りをしました。

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私は初めて参観させて貰ったのですが、多分受験生だろうと思われる方が沢山みえました。菅原道真公が丑年と言う事で牛を撫でる所があちこちにありしっかりと撫でさせ頂きました。京都三弘法の2ヵ所目は仁和寺だったのですが正直めちゃくちゃ敷地が広いと思いながらしっかりと歩かせて頂きました。お参りする所がいっぱいあって、それでいて、今が12時56分でバスが嵐山の昼食を頂く所に連れて行って貰うのですが20分はかかるとの事です。正直朝食が6時30分に車の中で食べたので「お腹が空いたよ」と言う事です。バスが沢山駐車している食事処兼土産店に入り2階の会場に行くと既に食事の準備が出来ていたので完食しましたが私の胃袋は満足しないのでお土産を確保してから食べるものを探す為にウロウロしてもソフトクリームしか無かったのですが「背に腹は変えられない。」と言う事で食べました。次に最後のお参りの東寺にバスを走らせて頂いている時には多分いびきをかきながら眠っていたので「気が付いたら東寺」と言う事で眠った事によって元気になった私はしっかりと広い寺内をしっかりと歩きました。本日は6時には家を出ると言う事でお墓参りはしなかったのですが今は帰りのバスの中ですが既に歩数は7830歩になっています。四国巡礼程ではありませんがお参りはよく歩くと改めて思いました。3年ぶりの京都三弘法でしたが年明け早々にしっかりとお参りが出来た事を嬉しく思いますし明日からも頑張って色んな展開をしたいと思いますのでリピーターの皆さんこれからも変わらず宜しくお願い致します。

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全国老人福祉施設協議会の全国大会が岐阜で開催されます

令和5年1月13日

令和4年度の全国大会が今月26日・27日に栃木県宇都宮市で開催されて、5年度の大会は11月に岐阜で開催されるのです。と言う事は来年度と言いながらも今年の11月に岐阜の地で行われるのです。全国老人福祉施設協議会の全国大会は、昨年度までは管理者向けの全国大会と職員向けの研修大会の2つが開催されていたのですが、今年度からは一つにまとめて開催する大会になる為にイメージがつかめないので、11月に行われる大会に対してかなりプレッシャーを感じています。前回岐阜で研修大会が開催された時には色んな事情により、福岡県で開催される予定であったものが6月になっての突然の辞退を受ける形でのものだったので「ばたばた」とさせて頂き、しかも3300人の参加だったので嵐の様な展開の中でしたが、何とかトラブルも無く出来たのはありがたかったと15年近く前の事ではありますがしみじみ思いながら、今年11月の大会について思いを描いています。

栃木大会は宇都宮がジャズのメッカだと言う事で楽しみの面としてジャズを取り入れた企画もあると言う事ですが、岐阜にはジャズに変わる特質すべきものが無いので、どの様な企画をすべきなのか・・・。まさか美川憲一さんを呼んできて『柳ヶ瀬ブルース』を歌って頂いて「あなた、何言ってるの」などと言う企画では何ともならないし。「う~ん。長良河畔での開催なので『鵜飼』かな。でも、11月では鵜飼は実施されていないし・・・。」そんなてらった企画を考えるよりも粛々と全国老人福祉施設協議会事務局と大会フォーラム委員会の方々と企画を考えて、参加者の方々に満足して貰えるものにしていきたいと考えています。

その為には、岐阜県老人福祉施設協議会の役員のメンバーが『百聞は一見に如かず』で、宇都宮で実施される大会を目の当たりにして貰い、しっかりとしたイメージを持って貰える様にしていきたい。ただし、昨日の全国老人福祉施設協議会正副会長委員長会議において、平石会長から「栃木での大会はロボットICTの展開に主眼が置かれるので、岐阜大会では外国人介護職のコーナーに力点を置いたらどうか」とのアドバイスを頂いたので、会議終了後外国人材部会の部会長である京都の櫻井君に電話して早速打ち合わせをした次第です。どうして今外国人介護人材かと言えば、今でも介護人材の確保は難しい状況がある中でも、外国人材の導入をしていない法人が約半分あると言われています。しかしながら導入していない法人が外国人材に頼らなくて良い状況などあり得ない。しかしながらどの様にアプローチして良いのかが分からずに手をこまねいているのが現状だと思うので、そのお手伝いが出来たら会員メリットは大きいのではないかと考えていくと企画の持ち方が段々と膨らんできます。

私の取り柄はネットワークを駆使して頑張る事ですが、リピーターの皆さん私の頭の中はまだまだまとまりませんが、岐阜県で全国大会を会長として引き受けた以上は頑張って取り組んでいきますので、良いアイデア等がありましたら宜しくお願い致します。

本日は全国老人福祉施設協議会の予算査定があります。

 

 

おおよそ11,000事業所が会員となっている全国老人福祉施設協議会において会員の会費を忠実に活用して行く為に本日10時から16時まで15の各委員会に令和5年度の委員会の計画に伴う予算の在り方についての提案をして貰い納得のいくものになっているかの検討会が行われています。昨日18時過ぎに家に帰った段階では「いつもの様に4時25分(この時間は何故か変えたくないのです。)のアラームで行動開始をして仏間でのお参りとお墓でのお参りを可能な限りコンパクトにして(その分翌日に丁寧にする。)勿論お風呂は短めにして6時45分からは朝食を食べて遅くても7時10分には家を出て10時開始の予算査定に余裕を持って参加(リモート会議)出来るように本部施設に帰る予定にしよう。」と考えていました。しかしながら20時31分に本部施設の管理宿直の水野相談員からの1本の電話でいつもの事ながら『予定は未定であり決定ではない。』と言う事になりました。もっとも、水野相談員からは「看取りで厳しい方がみえるので万が一の時には宜しくお願いします。」とは帰り際に言われていたのですが。(この様に状況を把握した事をはっきり言える職員だからこそ管理宿直を任せられるのですが。)その後再び20時38分に水野相談員から多賀先生と家族に連絡がつき「朝5時30分には多賀先生と家族が来て頂ける。」との連絡に本日はリラックスタイムのビデオ(今は『今日から俺は』)を楽しむ事は無しにして(とは言え20分位の事なのですが)即寝る事にしました。

そして今朝の起床はいつもと変わらずですが、テキパキとしかもお経のスピードはマックスで(唱えれば良いと言う事ではないのでしょうが)行い5時10分に家を出て本部施設に出掛けました。施設に着くとまだ多賀先生も家族もおみえになっていなかったので事務所でコラムを打って(時間は上手に使うのです。)いると、多賀先生がおみえになり、『5時30分老衰』との死亡診断書(私は最高の診断名だと思っています。)を事務所で書いて頂いていると次男夫婦がおみえになり、多賀先生から説明をして頂いた後、多賀先生をお見送りしてから次男夫婦にコロナ感染対策の一貫としてガウンを来て頂き部屋に行って貰い、その後会議室で今後施設側がお手伝い出来る事や相談にのりました。次男夫婦をお見送りしてから家に帰り朝食をかき込み(こんな生活だから肉が付くのでしょうか・・)7時15分には大垣市民病院に向け車を走らせました。ところがこの時間は混むのですね。大渋滞に巻き込まれ「いくら混んでいても8時10分には放射線科に入れる」と思っていたのですが車を駐車場に入れたのが8時15分だったので急いで放射線科まで歩きました。(これが結構遠いのです。)昨日に担当の先生に「早く帰らなければいけない。」とお伝えしておいたので色んな配慮をして頂け車の所に戻ったのが9時15分だったので高速を使って帰る事にして、信号で停まった時に施設に電話して10時からのリモートかいぎの準備を依頼して本部施設に着いたのが9時55分で自分のパソコンに向かったのが9時58分で綱渡りでしたが迷惑を掛ける事もなく15時35分までの全国老人福祉施設協議会の各委員会の計画と予算の提案を聞く事が出来ましたし担当副会長として総務・組織委員会及びデイサービス部会に対するコメントもしっかり述べる事が出来ました。

終了後は時間を有効に使おうとコラムの原稿を打っていると16時30分からのお約束で会員施設の方が相談にみえたのでその対応をして、話が終わり玄関先でお見送りをしてから再びコラムを打ち今は17時45分で今日はこれで家に帰ります。かなりハードな1日だったので家に帰ってゆっくりお風呂に入ったら熱燗を1合だけ飲むことにします。リピーターの皆さんそのくらいのご褒美があっても大丈夫ですよね。

面白い記事を見つけました

令和4年1月11日

コミュニケーション総合研究所長であり、一般社団法人聴き方協会代表理事の松崎良紀の著書『聞き方の一流、二流、三流』(明日香出版社)の中に「三流は、相手の名前を呼ばず、二流は、名前が覚えられず、一流は、どうする?」と言う見出しがあり、「人の名前を覚えるのが苦手と言う人は、少なくないようです。パーティや交流会などで沢山の人と会うと、確かに一人一人の名前を覚えるのは大変です。一流は、パーティや交流会など、初対面のときは、特に相手の名前を何度も呼び掛けることで名前を覚えます。」と書いてあったのには私も大いに納得がいきました。

と言うのは大学を卒業して小学4年生の担任をさせて頂いた時に(児童は35人でした。)とにかく一人一人の子どもと如何に接点を持つかと考えて初日の日に32人の子の名前と顔(写真)は一致したのですが3人の子の名前が一致しなくて翌日にはその3人の子に集中的に接点を持って全員の名前を覚えたのを覚えています。また全国老人福祉施設協議会の役員になった平成18年にも役員さんの名前を覚えるのにもそれぞれの役員さんとの接点をとったのを覚えています。だから、その年は1年で700人の方と名刺交換をしました。著書の中に『人間は他人の名前などいっこうに気にとめないが、自分の名前になると大いに関心を持つものだ。自分の名前を覚えていて、それを呼んでくれることは、まことに気分のいいもので、つまらぬお世辞よりもよほど効果がある。

逆に、相手の名を忘れたり、間違えたりすると、厄介なことが起こる。名前は、当人にとって、もっともこころよい、もっとも大切な響きを持つ言葉であることを忘れない。』『人たらしの天才と言われた元総理大臣の田中角栄は、息子の田中京によると「料亭に行くと下足番のおじさんの名前まで覚えていたというくらい、人の名前を大事にしていた。地元に帰ると、一度しか会った事のないおばあさんの名前を覚えていて声掛けをしていて『角栄は凄い』おうわさになり、熱烈に応援されたとの事です。」「そんな田中角栄でも名前を忘れる事があります。

そんなときにはこんな技を使っていたそうです。「「え~、君の名前はなんて言ったかな?」」「「はい、若山です。」」「「それはわかっている、下の名前だよ」」そうして、「「おお、あの角栄さんが、自分の名字を覚えてくれている。とまたまた評判が上がったとか。」『一流は、相手の名前を何度も呼ぶ事で、自分の記憶に刻みつつ、相手を重要な存在だと言うメッセージも伝えるのです。』『一流は、相手の名前を何度も呼んで心をつかむ。』松崎さんの言われる事は真理であり大切な事だと思います。相手の方の名前を覚えるには『接点こそ大切』です。

私が若い頃は研修会や講演を聞いた後は必ず講師の先生に名刺を持って話に行きました。今は講師の立場になる事が多いので名刺を持って挨拶に来てくださる方を大切にしています。『ご縁を大切に』と言う事はよく言われますが、名前を呼び合う事によってより密度のある人間関係が出来る事を改めて理解しました。リピーターの皆さんも留意して頂けたらと思いましたので参考にして下さい。

年が明けて本格的に日本が活動するのは本日からかな・・・。

特別養護老人ホームのような所は『介護にお休みはありません。」と言う事です。勿論そんな中でも本部施設では『日本の風物詩』を大切にしたいと職員一丸になって取り組んでいます。最近では元旦にお屠蘇や抹茶を振る舞い 獅子舞が施設の中を練り歩きおせち料理を食べていただきました。1月7日には七草粥も提供して明日は鏡開きで昨年12月29日についたお餅でぜんざいを作って入居者さん、利用者さんにおやつの時間に食べて頂きます。何が言いたいかと言うと当施設は『年中無休』でありながら『今日一日楽しかったよ。』を実現すべく職員が一丸となって頑張っている事をリピーターの皆さんに改めて知って頂きたかったからです。そしてつくづく思うのは「年末年始に1週間の休暇がある。」とか「10間の休みがある」と言う企業が多く有る中でも『休みなく早出、遅出、日勤、夜勤のシフト勤務を実施して介護事業をいる業界がある。』事をひろく世間に理解して頂き介護事業への評価を高めていき職員の処遇改善を今迄以上にしていく事が肝要だと考えています。

 

今は朝のお墓参りで家を出る時は真っ暗です。

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岐阜の日の出の時間は1月1日から1月14日まで7時2分で変わりません。ようやく1月15日から1月18日までが7時1分になり1月19日から1月20日で7時になり、1月31日にようやく6時54分になります。そして2月1日に6時53分で、2月28日で6時25分。3月31日に5時42分。4月30日には5時3分、5月31日に4時40分であり、6月9日から6月18日が4時37分で一番早く日の出を迎えています。しつこく時間を掲載したのは私自身がこの様に変化していく事に楽しさを覚えたからだと思います。そして改めて私がお墓参りを開始したのが6月の初めであった事が継続している理由だと思いました。と言うのは日の出が一番早い時期から始めたので少しずつ少しずつ日の出が遅くなっていくのに体を合わせる事が出来たから一番遅くに日の出になっている今も続ける事が出来ているのだと考えています。だって、お墓参りを始めた頃は4時25分のアラームで行動開始をした時には日の出直前で起きた時には外が明るくなっていたからこそ思いきって起きる事が出来たのだと思います。今月の14日からは段々と日の出が早くなってくると言う事は私が『祈願』して頑張ってきた事に明かりが射してくると信じています。リピーターの皆さんの応援も宜しくお願い致します。

福岡県でのこぼれ話等々・・・。

令和5年1月9日

①私が米原駅側のお弁当屋さんで3人分のお弁当を購入した事は一昨日のコラムでも書きましたが、実は大阪から乗り込まれた大久保先生も3人分のお弁当を買われていたので、私と太田先生は2個分のお弁当を食べました。ただし、太田先生は2個目は半分残されたのですが、私はしっかりと完食しました。と言う事は私の胃袋は際限なく入っていくと言う事でしょうか・・・。

②新大阪駅でのぞみに乗り込む時に降りる方が終わり、乗り込みが始まり私は結構後からだったのですが、一人の女性の方が慌てて降りられる時に私が肩に掛けている荷物に当たられて私は無意識の内に「ああっ」と言う声が出てしまったら、その女性の方は歩くのを止まられて振り返りながら「すみませんでした。」と言われた顔が恐怖の表情だったので、私はその女性に申し訳ない事をしたと思ってしまいました。「私は決してヤクザのような振る舞いがしたくて声を出したのではなくて無意識の内に声が出たのですが相手の方にしてみると、坊主頭でこの風体なのできっと恐ろしかったんだと思うと「申し訳ない事をした。」とは思いましたが、私も好き好んでこの様な風体になったわけではないのでご容赦下さい。

③24年の年月は生き方や考え方まで変えてしまうのかとしみじみ思った事がありました。と言うのは海外研修で初めてお会いした時の大久保先生は、研修会のまとめ役で団長や副団長に対してもしっかりと意見が言えて団員のまとめ役で、女性としての『凜』とした方だったのですが、あまりにも自信のない発言が多かったので私はさり気無くコーディネートをしながらもかつてお世話になった時のお話に話を持っていくと、目を輝かしてお話をして頂けました。そして話が私が法人を立ち上げると言う時の話では、真剣に心配して頂いた事を話して下さった時には改めて感謝していました。但し、朝食を終えてお互いにチェックアウトをしてホテルを出て小倉駅に向かおうとすると、外が寒くてコートを忘れている事を思い出されてUターンをしてコートを取りに戻りました。私はその瞬時に思ったのは『寒い』との感覚があり、コートを忘れている事に気が付かれたのはまだまだ大丈夫だと思いましたし、大久保先生の自信の無い発言に対しては「ゆっくりでも自分の足で歩けて新大阪まで一人で来て私たちと合流出来たのだからまだまだ大丈夫ですよ。」と何度も話しさせて頂きました。

④米原駅に着いて出口に向かっていると、太田先生からの電話でホテルにスマホを忘れているとの連絡に「おいおい大久保先生の事を話題にしていられる状況ではないぞ」と思うと共に「連絡が花田先生からでは無くて太田先生からだったのは何故なんだ。」と思ったのですが、よくよく考えれば当然の事ですよね。私は基本的にガラケーの携帯を使用していてスマホは無くても困らない(いやいや全国の役員からラインが来ます。)のですが、常識的に言えば「スマホを忘れた=連絡がつかない。」になるので太田先生と本部施設に連絡が入ったのだと気が付きました。」今後は2台目ある事に留意した片付けを心がける事にします。

⑤15時25分に大久保先生から「家に着きました。色々と配慮して下さってありがとう。」との連絡に「流石に配慮の出来る大久保先生だからまだまだ大丈夫ですよ。」と思った次第です。

⑥16時前に我が家に送って貰い、余りに眠くてしっかりと眠りについていたのですが18時12分に本部施設からのメールで目を覚ましました。(この報告については後日コラムにしたいと思っています。)「一旦起きたので夕食は昼食が遅かったので無しでも良いけどお風呂は入りたい。」と言う事でゆっくりとお風呂に入りその後は午前3時35分まで眠る事が出来、いつもの様に4時25分のアラームで行動開始をして朝食後は再び横になると眠る事が出来ました。だから施設に行っても元気に仕事が出来ます。心身ともにリフレッシュ出来たのでまた頑張っていきますのでリピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

 

 

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