ウォーキングマシンの大掃除をしました

令和4年6月6日

『大掃除とは大袈裟な。』とリピーターの皆さんの中には思われた方もおありかと思いますが、私にしてみたら『大掃除』なのであります。だって、私のお腹の出方では拭き掃除は至難の技なのですから・・・。そこで、ウォーキングマシンの大掃除をしたお話を本日はします。昨夜も21時30分には爆睡体制に入り一度目が覚めたとは言え、4時にはぱっちりと目が覚めたので、アラームの4時31分にベット上での体操をして行動開始をしました。

いつものように仏間での水を替えて蝋燭と線香に火を点けお参りを。ただし、まだウォーキングマシンの修理が出来ていないので「外を歩こう」と昨日同様に金剛杖を持って玄関を出ると雨音がするほどに激しい雨。「2階の窓からの状況で気が付かない『わたしが♪わるい♪』」と山崎ていじの歌のリズムで思わず歌ってしまいました。(リピーターの皆さんの殆どの方にはわからない話題でした。)そして、「本日は外を歩くのは無理だな。」と再び家に入り、「このまま何もしないのは面白くないな。」とウォーキングマシンの所に行き「少しは動くだろうから止まるまで歩こう。」と考えて歩きだしたのですが直ぐにトラブル・・・。「う~ん。どうすべ~。」と言う事で前々から気になっていた、ウォーキングマシンの周りがベルトのゴムがボロボロと剥がれていて汚れた状態だったので綺麗にすることにしました。

先ずはバケツと雑巾を確保しなければいけないのですが、「さてさてどこにあるのか」とありそうなところを探しても無いのです。そして何気なく外を見ると花用のバケツがあるのが目に留まったので家の中からガラス戸を開けると取れるところにあったので「取り敢えずバケツをゲット。」雑巾はお風呂の脱衣場にあるのをゲット。と言う事でバケツに水を入れてからウォーキングマシンの置いてある北側の廊下へ。床に点在している黒い物体を綺麗にするにはどうしても座り込んでの作業です。リピーターの皆さん想像して下さい。この作業をするには私の腹がつかえて少しの作業にも「フーフー」と言わなければいけない状況に「歩いたほうが楽だ。」と思わず叫んでいました。

ウォーキングマシンを購入して以来の拭き掃除ですから雑巾は直ぐに真っ黒。「フーフー」と言いながらもバケツの水を何回も換えて何とか綺麗になりました。だから、リピーターの皆さん、私にとっては『大掃除』だったわけなのです。中学生の頃は同じ慎重で40キロ。今は恥ずかしながらバブルスコア。40キロだった頃は若秩父(その頃の人気関取)のお腹に憧れていたのに、今の私は若秩父のお腹と遜色がなくて今のお腹が妬ましい。でもね、病気でガリガリになるよりはましかと思いながら・・・。「世の中はままならない。」とつくづく思っている次第です。と言う事は『トホホホホ』の世界と言う事でしょうか。リピーターの皆さん。こんな私なのですがこれからもよろしくお願いします。

 

 

『過ぎたるは及ばざるが如し』

令和4年6月5日

いきなりのタイトルにリピーターの皆さんの中には「何のこっちゃ」と思われた方もおありかと思いますが、これから書きますので「慌てない、あわてない」(漫画の一休さんのようにお願いします。)

昨日は次男が仏間に寝ていたので外を歩いたと報告しましたが、実はいきなり外を歩いたにもかかわらず無謀なコースを歩いてしまい、昨日は全く仕事に成らず(土曜日と言う事もあり会議等もなかった。)13時30分には家に帰らせて貰いました。家に辿り着いたら「滅茶苦茶眠い!」と言う事で横になりました。「少しテレビでも見よう。」とテレビを点けてはみても、全く頭に入ってこないのでシーパップのマスク(肥満の私は大変なのであります。)を装着して本格的に寝ることにしたら直ぐに爆睡をして目が覚めたのは16時30分で、目が覚めた時には頭の重かったのも無くなっていました。

と言う事はマジに疲れが貯まっていたんだと思いました。しっかり昼間に寝たにも関わらず21時には眠くなり、またまた眠る事が出来ました。今朝は4時に目が覚めたので、アラームの4時31分より前の4時20分から行動開始。ただしまだウォーキングマシンがなおっていないので、若宮八幡大神様と仏壇の水かえをしてから若宮八幡大神様に手を合わせ「心願成就」をお願いして、仏壇に移り『正信偈』を唱えてから外を歩く事にしました。ただし、昨日のような無謀な事をしないで金剛杖を片手に歩く事にしました。

コース的には、先ずは家の前で東の空の太陽に手を合わせ西に向けて歩きました。先ずは妙応寺を目指しました。妙応寺の駐車場内に交通事故で子どもさんを亡くされた方の寄進で建立された『幸福地蔵』の所で「おん   ころころ   そんだり   まり   そわか」のご真言を唱えて21号線とJR東海道本線の下にあるトンネルを歩きました。金剛杖を突いてトンネルの中を歩くと素晴らしい音が響きました。特にJRのトンネルはレンガ造りだからか素晴らしい音が響きました。妙応寺の山門は開いていたのでお寺の敷地の中には入れましたが本堂の戸は開いていなかったので、戸の前で般若心経を1巻唱えました。次に稲荷神社が併設されているので手を合わせると共に、戸の所にお賽銭を入れる所があったので本当は本堂で納めるつもりだったお賽銭を入れました。2礼⒉拍手1礼をしてから、若山家のお墓に向かいました。

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若山家のお墓でも般若心経を1巻唱えてから父進、母秋江、養母英子とお話をしてから家へと帰りました。昨日は必死に歩いたので疲れてしまいましたが本日はあちらこちらと道草をしながらのウォーキングだったので決して疲れる事は無かったです。但し、歩数は昨日の3分の1でしたが、「朝の冷気の中を歩く」事の清々しさは満喫しました。昨日の様に疲れては何にもなりませんので改めて『過ぎたるは猶及ばざるが如し』だと思った次第です。

リピーターの皆さんようやくタイトルに行きつきましたが本日のお話はここまでと言う事で「おあとよろしいようで。」と言う事で。(私のお話は『落語』か)

 

久しぶりに外を歩きました

令和4年6月4日

昨日のコラムでウォーキングマシンが壊れた事を書きましたが、その他に我が家に次男が3月依頼久しぶりに帰って来て仏間で泊まったので朝一の仏間への出入りを遠慮してウォーキングについては天気も良かったので外を歩く事にしました。昨夜の夕食は久しぶりに次男が帰って来ると言うので次男が好きなエビフライを奥様が息子たちが家を出て以来の8年ぶりに手作りしてくれました。私はと言うとお刺身や唐揚げ等を買って来ました。ビールもストックが無いので酒屋さんで冷えているのを買ってきました。何と親ばか何だと自分の事ながら思っています。

先ずはビールで乾杯をして色んなものをつまみながら先ずは私の体調について心配してくれていて話をしていて「流石に看護職員として仕事をしているので知識があるな。」と思いました。ビールを何本か飲んでから大切にしていた頂き物の『久保田の万寿』の封を切って改めて乾杯をしました。「久保田の万寿は最高のお酒だから下手に冷たくするよりは常温で飲んだ方がお酒の味を味わえる。」との私の持論で飲むことにしました。次男も今月で33歳、お酒の味がわかる歳になったようで「お父さんこのお酒は美味い。」と言って何倍もおかわりを言ってくるのを「飲め飲め」と言って一升瓶からついでいた私がいました・・・。結局一升瓶の半分くらいを空けて酒盛りを終えたのですが残りのお酒は持って帰る様に言うと嬉しそうにしていました。

(本題に入ります。)4時50分に家の外に出ると気持ちの良い天気で半袖のポロシャツの腕に当たる冷気が心地よくてたまりません。目的地を今須にある『村社 若宮八幡神社』と『聖蓮寺』に決めて歩きだしました。しばらく歩きだして気づいた事は「殆ど下り坂になっているな。」と言う事です。「何を今更」と思われるリピーターの方もおみえになるかと思いますが、事実ですし、もしかしたらかつてもその様に感じたかも知れませんがそうだとしたら忘れてしまっていて改めて新鮮に感じたのだと思います。

下り坂が続くので軽やかに歩きながらガードレールの2本の足の間を6歩で歩いて行くとますます軽やかに歩けました。歩いて行って初めて出会ったのは一生懸命にキャベツの収穫をされている女性の方に「おはようございます。」と元気に声を掛けるともう一人(多分ご主人)の方からも挨拶を頂いたので「朝早くからご苦労様です。」と改めて声を掛けました。(改めて挨拶をすると言うのは気持ちの良いものだと思いました。)目的地の一つである『村社 若宮八幡神社』に着き下社から上社へ38段の階段を一機に上がる予定が20段目で手をついてしまう情けなさ。でも思い直して頑張りました。

そして、2礼⒉拍手をしてから「心願成就」と大きな声でお願いして1礼をして下におりました。引き続き聖蓮寺に行ったのですが大きな門は時間が早いので閉まっていたのですが、隣の小さな戸は開いていたので「いつでも入って大丈夫ですと言う事か、流石にこのお寺は素晴らしい。」と思いながら体を小さくして中に入りました。

このお寺は親鸞聖人が逗留された由緒あるお寺で『八房の梅』でも有名なお寺です。(田舎のお寺ではありますが、素敵なお寺ですからリピーターの皆さんも一度来てみて下さい。)本堂の前で膝まづき般若心経を1巻唱えてから「諸障退散」「七難消滅」を念じました。お寺のお参りも終えて一路我が家へ。帰りの道は殆ど上り坂でなので今の私の心情の中では『苦あれば楽あり』で「これからは、良い事があるぞ」との思いになりました。家に着いて歩数を確認すると『6828歩』ここでも末広がりの『8』が2つもあって益々『吉兆』これからも頑張ります。

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ウォーキングマシンが動かなくなりました

いつものように4時31分のアラームで行動を開始して、神棚に手を合わせ、仏壇と若宮八幡大神への水かえと蝋燭と線香に火を点け、先ずは若宮八幡大神様に『心願成就』を七福神様に、『ドリームジャンボ5億円』を祈願して(あからさまのお願いは失礼かとも思いますが、今はそんなことを言っとれんのです。)仏壇の椅子に腰掛けてお経を唱える体制になったのが5時ちょうど。

お経は20分で読み終えて、ウォーキングマシンで歩きだして10分程でウォーキングマシンが動かなくなりました。多分歩く所の布地の部分の左側が機械に食い込んでしまったからだと思います。最近食い込んだものを少しづつ引っ張っては使用していたのですが、とことん食い込んでしまっていたので本日のウォーキングマシンに乗っての歩きはこの段階で中止にして再び仏壇にいき般若心経を木魚を使って唱えていると仏壇の蝋燭が今、正に終わりかけていたので蝋燭立てを手に持ちながらお経を唱えていると「もう少しだ。」と思っていたのが以外に長く燃えていて、結構な時間お経を唱える事が出来ました。

蝋燭が燃え尽きたのを見ていると、鶴亀の燭台に蝋燭がこびりついているのがわかったので綺麗に蝋を取ることにしました。取る時には一本の爪楊枝を使う事にしたのですが、実に上手く蝋を取ることが出来たので「何事も道具があれば上手くいくのだ。」と思うと、閃きました。ウォーキングマシンの布地を引っ張るのもペンチのようなものを使って引っ張ればもっとしっかりと元に戻るかもしれないなと思った次第です。その時にはペンチがどこにあるのかがわからなかったので明日にはしたいと思います。(本部施設ならば大抵の事はわかるのに我が家の事は全くと言って良いほどに「わかりませ~ん。」)

話はガラッと変わって、本日施設の職員との溢れ話をひとつさせて頂きます。それは、私が短大の非常勤講師をしていた時の教え子が施設を開始した当時からいる職員との会話です。「理事長は女性ホルモンの薬を飲まれているとコラムで知りました。私は逆に男性ホルモンの薬を飲んでいます。」と言うので、「そうなんや、だからおっぱいが膨れてくるかも知れんのやと。」と言うと、「私は男性ホルモンの薬を飲んで髭か生えてくるようになって困ってます。」と切り返されたので私は正直「マジかよ。」と即座に思いながら「二人の病気を足して2で割ると上手くいくのだけれどそんな調子にはいかんわな。」と思った次第です。そんなことを考えていて、リピーターの皆さん。私がつくづく考えたのは世の中思い通りにいかんから頑張ろうとの気持ちになれるのだと思いました。とにかく、一生懸命に頑張って活路を見つけるしかないのだからこれからも頑張りますので宜しくお願い致します。

大変ですが頑張ります

既にコラムでも書きましたが本部本館1階でコロナ陽性者が職員にも入居者さんにも出てしまいました。大変申し訳ないことです。昨日別件で岐阜県高齢福祉課に行った時につくづくお話をしたのが、感染症に対するBCP(事業継続計画)作成の重要性でした。確かにマニュアル的なものはどの事業所も作成していると思うのですが、「それぞれの事業所に踏み込んだものになっているのか」と言う事です。当施設では西濃保健所、西濃振興局福祉課及び全国老人福祉施設協議会感染症対策本部との連携を密にして、ひとつひとつの対応をしっかり実施してます。その時に有り難かったのは当施設の職員が機敏に動いてくれる事です。確かに非常事態ですから『当たり前』と言えば当たり前なのですが、現実にはなかなかそのようにはいかないものです。ただし、コロナ感染症対策について『予防的対策』については万全を尽くしていたと考えていたのですが、いざコロナ感染が複数出たとわかった時には正直頭が真っ白になりましたが私があたふたしたら、職員が機能不全に陥ってしまうので、動揺した様子は微塵にも見せないで、「先ずは対応の仕方を学ぶべし。」と言う事で公的な機関である大垣保健所と福祉課に相談すると共に、全国老人福祉施設協議会へも相談を持ちかけました。保健所では、集団で生活している施設についての把握はなかなか難しくて問題をひとつひとつ解決していく形のアドバイスでした。そのアドバイスに対して機敏に対応してくれる幹部職員には頭が下がるばかりでした。ただし、私が得意とする対応として『災い転じて福となす。』を必ず形にしていきたいと考えています。本日嘱託医の先生とも話をしました。その中で「体調が悪いときに無理をしないで休んで貰うべきだ。」とのご指摘に対して私は、「無理な事はさせていないが、もしかして体調が悪い事を言えない雰囲気があるとすると問題だ。」と思いました。しかしながら、無理をした結果がもっと迷惑をかけることになると言う事を理解させていかなければならない。しかしながら悔しいです。今まで陽性を出さずにきたのに。自粛に対する油断だったら残念な事ですが、どこにコロナがいるのかはわからないのだから今まで以上に手洗いうがい消毒を徹底していきます。リピーターの皆さん、お互いに気を付けていきましょう。

いよいよ本日から6月です。

令和4年6月1日

日めくりカレンダーの情報からです。【6月の24節気の『芒種(毎年6月6日頃)・・・稲や麦など、トゲ状の突起「芒―のぎ」のある穀物の種を植える頃。梅雨が始まる頃ではありますが、紫陽花が見ごろを迎えるなど梅雨ならではの風情も感じられます。】との情報を得て色んな事を思ったので、正直に書く事にします。

先ずは『芒』と言う漢字を初めて理解しました。勿論『のぎ』と読む事も初めて知りました。ましてや『芒』と言うのが『トゲ状の突起』とは「流石に日本語とは奥が深い。」ただし、「稲の種蒔きが6月とはどういうこっちゃ」と思ったのですが、確かに昔の田植えの絵を見た記憶の中に雨の中で簑かさを背中に背負って田植えをしているのがあったように思います。「う~ん。昔は梅雨の時期に田植えをしていたんだ。今は4月から5月にかけてのゴールデンウィークにされている。と言う事は昔の節気は今の時代には合わないがね。今の農作業は『暦』に合わせるのではなくて『カレンダー』に合わせているのか」と思った次第です。

いよいよ本日は大垣市民病院で一昨日の検査結果聞きに行く日なのですか、本日も朝食が6時過ぎと早かったので、昨日のコロナ陽性者及び濃厚接触者が多く出たので朝食後に施設に行き夜の様子を確認すると共に、朝食の対応についての確認をすると共に、施設長としての見解や今後の対応の徹底についての公文書を作成して印刷を済ませ掲示するように指示をして、急いで大垣市民病院に向かいました。

8時30分前に着いたので駐車場に困る事はありませんでした。診察券を機械に入れたのですが「うん。パスポートの用紙が出てこない。」3回同じようにしても上手くいかないので診察券をしみじみ確認すると「入れる向きが反対だ。」と気が付き、やり直すとちゃんとパスポートなるものが出てきました。泌尿器科の受付を済ませると9時30分の予約だったのですが15分も早く先生に呼んで頂けて先生からの説明は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

「他への転移などは見つかりませんが、腸閉塞の手術をされているので腹腔鏡手術はリスクが大きいので放射線治療で行きたいと思います。」との説明を受けました。治療は30分程度だとの事ですが結構な頻度で通院しなければいけないとの事ですが「転移してなかった。」との事なので決して悲観はしてません。それどころか「これであと10年は頑張れる。」と思うと共に短期的には和(なごみ)の対応と7月に迫った参議院選挙対策についての戦略を練っている私がいます。

リピーターの皆さん。ある意味懲りない私ですがハラハラドキドキの生き方しか出来ない私ですがこれからも見守って頂くと共に、ご支援宜しくお願い致します。先ずは当面『ドリームジャンボ宝くじ』に当たる事かな。リピーターの皆さん買わない事には当たりませんよ。当たったら是非宜しくお願い致します。(むちゃくちゃな事を言えるのは転移がなかったからなのでお許し下さい・・・。

弁護士さんがタフなのか若いからタフなのか

令和4年5月31日

昨夜東京を22時過ぎに新幹線に乗り0時30分に大垣駅に着いて(真夜中ですよ。)頂いた顧問弁護士を吉澤施設長が迎えに行き、合流出来たとのメールが届いたので、直ぐに弁護士の先生の携帯にお礼と明日の迎えの打ち合わせの連絡をしました。「そんなにまでしなくても職員に任せたら良いのに」との考え方は理解しているのですが、「お忙しいのに来て頂いた弁護士の先生に対して私が出来る誠意を示しておきたい。」と言う事で、昨夜の行動になった次第です。昨日は大垣市民病院での検査の為に、本日は弁護士さんとの打ち合わせの為に朝食を6時過ぎにとりました。だから、2日連続でウォーキングマシンに乗っての30分の歩きと般若心経を13巻唱えるのは無しにして、若宮八幡大神様の掛け軸と我が家の仏壇にお参りをしました。お経はいつもの正信偈と木魚を叩いての般若心経を1巻(丁寧に)唱えました。若宮八幡大神様では、『心願成就』をお願いして、若山家のご先祖様には『諸障退散』と『七難消滅』を真剣にお願いしました。本日は7時に家を出て弁護士の先生と打ち合わせする優・悠・邑 和合にお迎いにいきました。7時と早い時間だったので渋滞も無く7時40分に着いてフロントで支払いの対応をしていると、弁護士の先生は朝食を食べてみえるのが確認でき、ご挨拶をしていて、しっかりと食事に出たものが食べられていたのでつくづく感心したのは昨夜午前1時くらいにホテルに着かれてお風呂に入られたりして(多分)から寝られて、7時45分には荷物の整理もされて食事を終わられていると言う事は「しっかりと睡眠をとられたのか。」と思った次第です。但し、『弁護士』だからタフだと言う事ではなくて『若い』と言う事だと理解しました。そんな事を考えていて、ふと私が38歳の時に児童養護施設を退職して『非社会・半社会の子どもの個別ケア』『家庭教師』(沢山の生徒を抱えていました。)『大学等の非常勤講師』(多い時は週13コマ)『法人設立に向けた対応』(書類作りは夜に)と言う大車輪での日々を送っていた時は2時間くらいの睡眠でも大丈夫だったように思います。しかしながら69歳の誕生日を迎えた今、同じ様にしようと言う事自体無理な話し。悔しいけれどもそれが現実です。勿論69歳の同年代の方の中では断トツに行動力があると自負していますが、若者に勝てるとはお酒の飲み比べくらいかな・・・。リピーターの皆さん、そんなものだけで勝っても仕方がないですよね。

 

正に『民俗学』第2段

令和4年5月30日

週刊現代5月28日号で、シリーズ「あの街角を覚えている世田谷」で昭和28年~49年の写真が特集記事で掲載されていた第2段です。第2段の初めの写真は、昭和40年代の『豪徳寺』(知らない地名ですが)「綿菓子製造機に子供達も興味津々」と紹介して「豪徳寺駅の北に位置する山下商店街の1コマ。子供達へのサービスとして無料で綿菓子を提供していた」との写真を見て、「我が施設には今でも同じような綿菓子機があるな。」と思うと共に、「我が施設は東京の50年前を再現しているのか。」とも思った次第です。(当施設は昭和の古き良き時代を再現する事により一日を楽しく過ごして頂きたいのです。)

次の写真は「淡島通りへ出向く八百屋の主人。小回り性能の高い三菱自動車は細い路地を走るのに適していた。」とのコメントに私は「東京でオート三輪車とはイメージ出来ない。(ミスマッチ)」今では関ヶ原でもオート三輪車は見かけない。どの位前かは定かではないけど材木屋さんは結構最近まで使っていたし、山の奥の方ではナンバープレートを外したのが(車検を受けずに公道でない所で使用している。)動いていたりしていたな。と考えていました。

次の写真では、女の子がみんな『おかっぱ頭』だったのを見て、「そう言えば私が小学生の頃は殆どの女の子が、おかっぱ頭だったし、男の子はぼっちゃん仮りだったな。」と思いました。(ここまで書いた段階で、本日は大垣市民病院の精密検査があり、朝6時過ぎに朝食を食べ7時には我が家を出発して今は9時6分で、特殊な注射を打って頂き3時間後の検査の為に待ち合いで待っていて、コラムの続きを打とうと考えたのですが、週刊現代を持って来なかったので続きを書けないけど時間が勿体ないので話題を変えて書くことにします。)

8時前に大垣市民病院に着いたので正面玄関の駐車場に入れる事が出来ました。(私が駐車場から病院内に入る時には満車の案内がしてありました。受付は診察券を入れると『パスポート』なる用紙が出てきて終了なのですが、本日は3台ある機械の前にそれぞれ10人位づつ並んでいたので「時間帯によって状況は違うものだ。」と思った次第です。パスポートの用紙を持って受け付けに行くと「先生の問診がありますのでお名前をお呼びするまで待ち合いでお待ちください。」と言われたので待ち合いに行くとまだ、待ち合いは空いていたのですがしばらくすると一杯になりました。

しばらくすると名前を呼ばれて中待ち合いに行くと先生に呼ばれて「体調に変わりありませんか。」と聞かれて「大丈夫です。」と答えると検査に行く場所を丁寧に教えて頂きました。先生に教えて頂いた通りに行くと、そこでの受け付けを済ませると注射をして頂いたのですが「3時間後の検査ですので、CTの検査を終えてから11時40分には再びこちらに来て下さいと言われ、今は(午前10時26分)はたっぷりと時間があるので飲食が出来る所でコラムを打ちながら麦茶を飲み、柿の種を食べながらの状態です。こんなにゆったりとした気持ちでコラムを打てるのは検査をしなければいけない状況だからだと思うと複雑な気持ちになりますが、医療の進歩の中では『がん』など恐れる必要がない。それよりも色んな障害によるストレスの方が恐いと思っています。

『柿の種』の袋に『こばなしのたね』と言うのがあり、『コオロギの耳は前足についている』と書いてありました。リピーターの皆さん。どうでもよい話ですがこんな話題でもコラムにしてしまう私は『凄い』と思いませんか。(自分で言うのはどうかと自分でも思った次第ですが「まっいいか。」

昨夜の護摩供養の報告です。

令和4年5月29日

先月はかなり早く護摩供養が行われる東福寺(彦根市高宮)に着いたので、「1時間見ておけば大丈夫だろう。」と考えて17時に出発する予定でいて事務所で書類の整理をしていたのですが、17時前になりばたばたしてしまい結局17時10分に施設を出ました。護摩供養が終わってから家に帰って夕食を食べるとなると健康的でないと考えて途中でコンビニにより、パンとおにぎりとお茶を買い、車を運転しながら食べました。(この状況も決して健康的ではありませんが・・・。)

車は佐和山トンネルの手前から渋滞にはまりなかなか進まなくて結局18時10分に東福寺に着いたのですが、境内の駐車場に入ってビックリです。と言うのも先月初めて参加させて貰った時には私の車の他には寺の住職さんの車を入れても2台しか無くて決して広くはない駐車場とは言え楽勝に停める事が出来たのに・・・。ベンツやアウディと言う車も含めて⒏台も停まっていて、私の車を停めると帰られる方にご迷惑をかけるような停め方しか出来なかったのですが、既に護摩供養の法要が始まっていたし、途中で帰られる方はないものと思い本堂に入って行きました。

入って行ってびっくりです。先週は住職をいれても5人だけだったのに、確かに本堂も決して広くは無いとは言え一杯のようで15人は参加されていたので先週の3倍。だからでしょうか、常に全力の静慈彰師(ご住職)がマックスの全力投球・・・。護摩木の本数も多かったのですが、(盲養護老人ホーム優・悠・邑 和 の20本もお願いしました。)燃え方が凄まじくて私は静慈彰師のパフォーマンスに合わせて般若心経を遮二無二唱えていたのですが、護摩木が燃えている炎を凝視していた時に、左を向いた龍の口から赤い炎をあげているように見えました。(私には確かにそのように見えました。)

皆さんがそれぞれに祈願された護摩木を炎の中に入れていかれたので、最後に私が祈りを込めて書かして頂いた4本の護摩木を炎の中に入れました。無事に護摩供養が終了して静慈彰師の興奮が治まらないのが私には伝わってきました。と言うのは祈願が終わってからのお話はオーバーアクションだったからです。

全てが終わって本日は本部職員であり滋賀信行会の幹部である西川課長に誘われたと言いう事で、内藤会長も(他に滋賀信行会の方が3人)参加されていたので静慈彰師を囲んで(その前に車の移動はしました。)話をしたり、改造された部屋の見学をしました。話をしているうちに改造された東福寺において滋賀信行会の青年部で合宿をする話で盛り上がりました。先月の護摩供養と比較したら3倍の参加だし、合宿をする話まで出てくるとは、素晴らしい話ですが、あれもこれも『ご縁』だと思った次第です。このお寺が昨年の10月まで電気もガスも来ていなかったお寺とは思えない進展を遂げようとしています。(5年前から修繕をされていて、電気やガスが来ていない時には車の中で寝ていたとのことです。)

リピーターの皆さん、魅力あるお寺です。一度訪れられたら良いと思います。「杉和会の理事長コラムを読んで来てみました。」と言って頂くとお茶くらいは出して貰えるかも知れません。

正に『民俗学』

令和4年5月28日

週刊現代5月28日号で、シリーズ「あの街角を覚えている世田谷」で昭和28年~49年の写真が特集記事で掲載されていました。私が生まれた昭和28年からと言う事で興味を持って見たのですが、写真1枚1枚が『おどろき』の一語でした。と言うのは、私が知っている『東京』のイメージとは全くかけ離れたものだったからです。そしてつくづく感じたのは私が生まれて69年の間に日本はめざましく発展してきたと言う事です。もう1つ、私が学生時代に所属していた『郷土研究の会』の顧問の先生だった祝(はふり)宮静先生から教わった「『民俗学』は決して難しい学問ではありません。たとえば若山君の住んでいる関ヶ原で一年に1回、同じ場所に立って360度回転して八ミリカメラで撮影して50年後に順番に見て行ったとしたらこれが正に『民俗学』なのです。」と言われた事を。(私は出来の悪い教え子だったので全くしてないのですが、今となっては何ともならないし出来ない話ですが実施していたらと思うと勿体ない事です。)そんな事を思いながら1枚1枚写真を見ていきました。

1枚目は昭和44年の『三軒茶屋交差点を走る玉電』とあり、説明書には「明治40年に開業した玉電は、撮影年の5月10日に廃止となった。写真左手が国道246号、中央奥が世田谷通りにあたる」そしてもう1つの説明書に「広大な武蔵野の田園地帯は、やがて23区で人口トップに」とあったので、私はつくづく自分の知識の無さを感じました。

そして、改めて歴史を振り替える事に依って未来を見通せるものだと1枚の写真から感じる事が出来ました。(こんな調子で書いていくと特集全部は紹介できないと思っています。)昭和44年と言えば私は16歳の高校生。もしその当時の世田谷を訪れていたら「すご~い都会」と驚いていた事だろうと思うのですが、今見ると「岐阜駅前の方が勝っているかな。」等とアホな事を思っています。

次に昭和36年の『松竹マークが懐かしい三軒茶屋中央劇場』でコメントには「昭和27年に松竹系のロードショー館として創業。30年代の映画黄金期に人気のピークを迎えるも、平成25年に閉館。」と事で、いつの時代も栄華盛衰はあるのだな。と思うと同時に考えてみたら『東京』が栄えたのは徳川家康が江戸に行ってから。それまでは私の拙い知識の中では『単なる田舎』だったんではなかったかと。と言う事は『東京一極集中では駄目だめだ』と言われながらも、未だ一極集中は続いていますが、今後はどの様な日本を目指すべきなのか等と大きな事を私が考えても何ともなりませんがリピーターの皆さん、私は福祉に拘った生き方で邁進して行きますので今後共宜しくお願いします。

※まだまだ特集記事の写真で面白いのがありますので、第2弾は必ず書きますが、多分明日は本日18時から行われる彦根市にある『東福寺』での月1回の護摩供養の紹介になると思いますし、コロナ感染の報告も書かなければいけないので「いずれまた」と言う事で宜しくご理解下さい。

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