聖人賢者にはなれない。
令和6年2月8日
本日は何故か自分の生き方について考えてみたくなりました。私の幼少期についてはこのコラムでも何度か書いてきました。そして、今の私の口癖は「生後半年で心臓が5分近く止まったので、その後の時間はおまけの様なもの。そんな中で自分の感性と出会いの中で今の自分が形成されたのだと思います。人間の顔は生まれた時は親の責任。しかしながら30歳になってからは自分の責任だと。26歳からの児童養護施設でのがむしゃらな展開によって、少しずつ自分の生き方を自分で決めれる様になってきました。しかしながら、児童養護施設での指導員としての展開では「わしがやらねば誰がやる」的なある意味「おごり」に近いものの中でうごめいた13年間だった様に考えています。
そして、「おごり」と「世間知らずの勘違い」により、児童養護施設の職を辞し、文字通り「自己責任の世界」に飛び込んだのが38歳の時です。今から考えても「無謀」な選択だったと思います。だって、「霞を食って生きて行くの」的な選択だったわけですから。但し、私的には「理想に燃えて」と言う事です。但し、現実はそんなに甘くはありませんでした。だから、私の理想に燃えたわがままに家族を巻き込んだのは、今も申し訳無く思っています。
何かをするときには、色んな方々が支援やアドバイスを頂けたのは本当に有り難かったです。私の展開の仕方は無欲から成り立っているので、かなりあぶなっかしいものがあったので、良くも悪くも今までやってこられたのが不思議なくらいです。もちろん、いつも上手くいくわけではありません。正直、自暴自棄になったり、この世と縁を切りたいと思った事もあります。そんな時には愚痴も出ますし、怒りを露わにした事も何も出来ないでいた事も度々です。「相手の身になって」を心掛けて色んな展開をしてきて今があります。但し、今も頑張れているのは、色んな方の支援や助言を頂けたからこそ。
「聖人賢者になれない。」と言うより、端的に言うと私は「凡人ですが、他の人より劣っていると思っているので、何事も120%で頑張ってきて今が有るのでは無いかと思っています。」正直今でもトラウマの様に覚えているのは、小学校5年の時の知能指数の評価が『99点』だった時に私は「標準点以下なんだ」と落ち込んだ事を覚えています。だからと言って特別な努力をした覚えはありません。リピーターの皆さんすみません。本日は私の心が乱れていて支離滅裂なコラムになってしまいました。連続コラム継続が出来た事だけでお許し下さい。