3日遅れのひな祭りイベントでの入居者語録さん

平成31年3月6日

93歳女性の方・・・「理事長さんはおいくつですか。」「65歳ですよ」「お若くて良いですね」「いやいや結構な年です。」「何言っとるの。私は93歳でもうだめだけど。」「いやいや、まだまだお若いですよ。」「嘘おっしゃい」「本当にお若く見えますよ。」「ウフフ。嬉しいわ」(そこに、女子職員が加わり、「Mさん可愛い」の一言でチャンチャン。

お酒が好きな男性の方・・・(一番大きな盃に並々お酒を注がれて一気に飲み干され)「もう一杯飲むぞ」「お昼にカツオのたたきが出て美味しかった。前におった施設では絶対にでんかった。」「お昼のカツオのたたきでお酒の飲むと良かったですね。」と言うと「「そんなので飲んだらこれくらいで済まないよ。」

お酒が好きな女性の方・・・(大きな盃の酒を一気に飲まれ「どんどん注いで」に3回注いだところで、職員ストップ。(うーん。もう2回位注ぎたかった。)

最近ショートを開始された男性の方とツーショットで写真を撮ると「焼き増しをして私に下さい。理事長さんとの写真を一生大切に持っていたいから。」(実は、この方は高齢者のみ世帯で、奥様が入院することになり、自分一人で1年でも2年でもパンだけの生活をして家にいる。と頑固な方だったので私が説得に行き、何とか施設に来て頂き、今は「ここのご飯は美味しいし、リハビリにも付き添ってくれるしありがたい」とすっかり施設での生活を納得して貰っています。)「理事長さんの顔を見ると元気が出る」とも言われ、お酒を進めると、「お付き合いで飲む事はあったが自分から飲むことはない。」と言いながら「理事長さんのお腹は立派だけと少しは気をつけた方がいいですよ。」と言われて「お付き合いで節制できないのです。」と答えると「大変な仕事ですね。」と同情されてしまいました。

 いつもと違う何かがあると一日が楽しく幸せな気持ちになって頂けます。この日の為に桜に模した紙細工をしてくれた職員、大きな貝殻で作った雛を作ってくれた職員など、思いのある企画に対しては入居者さん、利用者さんに通じより楽しいものになるのだと改めて知ることが出来ましたし、素晴らしい笑顔をたくさん見る事が出来私も幸せな時間を過ごすことが出来ました。

 

中津川にある施設の全面改築の竣工式典に行って来ました

平成31年3月5日

高速道路を名神高速、中央自動車道を走ったとしても片道130キロあるので、最低二時間はかかると考え10時30分の受け付け開始に間に合わせるには遅くても8時30分には家を出なければと思い、8時には着替えを開始して、8時15分には準備が整い出発しようとすると何件かの電話が入り家で足止めをくらって、気が付けば8時25分。電話の中身によっては、こちらから連絡しなければいけないのもあったのですが、「車の中で車のスピーカーを使って話す機能を使わないと遅れてしまう。」と考えて携帯が外線コールしているのを無視して車に乗り込み運転をしながら話をする形で時間短縮。但し、メールは流石に運転しながら読むことが出来ないので、中央自動車道に入ってドライブインに車を停止させて読みました。(何とも忙しいこと。)

昨日ナビを入れてみたところ、地番までは見つける事が出来なかったので一抹の不安があり、結局その不安が不幸にも当たってしまい車を停めて困っていると、地元の方と思われる若い男女の方に窓を開けて聞いてみると、本当に親切に「道なりに真っ直ぐ行かれると案内の方がみえますよ。」と教えて頂きました。これぞ正しく『地獄に仏』とはこのことか。確かにしばらく道なりに走ると大きな建物が見えてきて、案内してみえる職員さんの姿が見えて「ほっ」と。

予定の時間より早く着きましたが既に沢山の方がみえて、東濃支部の施設長さん達にご挨拶をしていて、親しくさせて頂いている施設長さんに理事長さんは長野県飯田市に本部がありそちらに常駐されているので分からないので紹介して貰い「実は9年前に飯田市の施設でお会いしたことがあります。」とご挨拶すると、不思議そうな顔をされたので、「選挙活動の一貫でお会いしました。」と言うと納得され、理事長さんの方から「実は今は長野県の会長をさせて貰っているんですよ」と言われたので、最近開催されたタウンミーティングについてお話すると盛り上がって話が出来ました。その時につくづく思いました。「9年の月日で随分貫禄と落ち着きが出てきたな」と。2019030512352201

テープカット、竣工式典、祝宴と進み、理事長さんが各テーブルを回られているときに私の席で「しっかり食べて頂けましたか。痩せてしまうと大変ですから」と茶目っ気一杯の会話。う~ん、9年の月日は凄い。岐阜県の最西部から最東部にきたので、皆さんにご挨拶をさせて頂き帰らせて頂きました。折角中津川にきたので、栗きんとんで有名な『すや』で栗きんとんを買おうとお店に入って迷うことなく「栗きんとん下さい。」と言うと店員さんが申し訳なさそうに「一月で製造を止めてます。」との事。このこだわりは凄い。だとすると岐阜羽島駅に売っている栗きんとんは何なんだ。くじけずにちまきを買ったのですが「これぞ本物」本日ボランティアに来ていただいていた『てるてる座』の座員に食べて頂くと本当に喜んで頂きました。経過報告をだらだら書いてしまいましたが本日思考力ぜろ。こんなコラムもあると言う事でリピーターの皆さんお許し下さい。

 

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お祝い花と祝電についても喜んでいただけました。

養護施設の指導員時代の事を語ります

平成31年3月4日

昨日のコラムで学習担当指導員になって、福祉の世界にどっぷりつかり今に至っていると書きましたが、あまりに、格好いい書き方だったのでそうでなかった事を告白します。それは、養護施設の指導員になって3日目に小学校・中学校・高校の教員免許資格を持っていると言うだけで採用された私でしたが、中学生の数学の問題も解けない事を暴露されそうな出来事が起きました。それは、その当時の中学1年生の一番ちゃかちゃかな女の子が、数学の計算問題の宿題が分からないので教えて下さいと手を挙げた時に勇んで彼女の所へ行ってパニックになった事から始まりました。だって、私はその問題を見た瞬間に『解けない。私は、中学生の時勉強が苦手だった』と言う事を嫌と言うほどに思い知らされたのです。。その時は急場しのぎとして、大学時代の演劇をかじっていたことが役にたちました。それはオーバーアクションで腕時計をみながら、「こんな時間か、この問題を教えるには今からだと中途半端になるので、明日しっかり教えるから。」と言うと彼女も「明日までの宿題なんで困ります。」と言うので「この時間になって言うあなたが悪い。」なんて理屈にならないことを言って、その場を脱出。但し明日まで何もしなければ暴露されてしまうところだったのですが、そこは粘り腰の私は、かつての同僚の数学の先生(彼の結婚式で司会を引き受けた貸しがあったので厚かましく)に電話して「これから行きます」で新婚生活真っ最中の家に乱入していきなり「恥ずかしながらこの問題を明日指導出来るように教えて下さい。」と言うと元同僚の数学の先生は、半ばあきれ顔で、半ば馬鹿にした顔でしたが、全てを理解して2時間徹底的に教えてくれました。私も必死でしたので、吸収するスピードは速くて、多分通常の10時間分の内容を理解して、次の日には彼女に「昨日はごめんね。今日はしっかり教えるからね」と言って教えました。そしてつくづく思いました。私のレベルは昨日の彼女のレベル。だとすると、私が先生に質問したところは同じように分からない筈だと。教えていると何となく分かった気になるもの。そこで私が昨日先生に質問した所を「ここの所は大丈夫」と聞くと「わかりません」の答えが返ってきました。その日の彼女への指導は無事に終わりました。そして、それからの約半年間は週に2回は先生の家を訪ねて指導を仰ぎました。お陰様でその時の半年があったお陰で、中学での問題は大概解けるようになりました。何故なら、数学と理科は元同僚の先生に、英語は元同僚の奥さんに教えて貰い、国語と社会は独学したからです。そして、何年か学習担当指導員をして、ふと思った事は、エリートできた学校の先生の中には生徒が『分からないと言う事が分からない』方がみえるように思いますが、私の場合は『分からない所が分かる』指導者になれたので、自慢した言い方をするとカリスマ的指導者だった訳です。しみじみ思います。中学校時代勉強が出来なくて良かったと・・・。これは決して負け惜しみでなく、人生に無駄なしと言うことで。

3月1日付けの「職親プロジェクト」発足について詳しく書きます

平成31年3月3日

以前から何度も言っていることですが、私は教員を辞し半年間の父親からの勘当(本当のところはわかりませんが)の後26歳から38歳までの13年間養護施設(今は児童養護施設と言います)の指導員をさせて頂き、福祉のイロハを学ばせて頂いたので私の福祉の原点は養護施設にあると今でも思っているのですが、私が26歳で飛び込んだ時の(昭和54年)当時の高校進学率が全国平均95%以上の状況の中で養護施設の進学率は30%を超える位の現状で私は岐阜県初の学習担当指導員として、子ども達の学習力を付ける為に心血を注ぎました。心血を注ごうと決意したのは、2年目の卒業生の7名中6名を進学させ、その子達は立派に卒業して社会に送り出す事が出来たのですが、残り1人の男子は残念ながら、進学が出来ず名古屋市内にある社員寮もある会社に就職しました。

その子が5月のゴールデンウィークに里帰りのように施設に帰って来ました。そして、かつての同級生の部屋で泊り施設の子と一緒に長島スパーランドに遊びに行ったり、レストランへ食事に行ったりと楽しい時間を過ごしていたと思っていたのですが、進学した子達は、部活動の話や新しく出来た友達の話をしている中で、就職したその子は毎日毎日仕事と社員寮との行き帰りだけ。そのことに矛盾を感じたのか、ゴールデンウイークが終わり最寄りの駅まで送り社員寮に帰ったものと思っていた3日後に名古屋の警察署から保護した旨の連絡を頂いてからの彼は、仕事にも力が入らず反社会的な生き方しか出来ていないのです。何度か何度か対応はしたのですが良くなることは出来ず、今は消息も分かりません。

この時私は思いました。申し訳ないが彼を再生させることが出来なくて彼の重しを背負う事は出来ない。だったら私に出来る事は何だと考えた時『第二』『第三』の就職者を出さないことだと決意をして、夜遅くまで「マンツーマン特訓」と銘打って学習指導をしてきました。頑張って努力させても公立高校への進学が叶わない子には私立高校への門戸も開拓しました。そして私が在籍していた残りの11年間は全員進学させました。(ただし、今は私立への門戸を開拓したことにより施設の指導者が安直に進学をさせて中途退学しているのではないかと心痛めています。)(実態も知らずに勝手な事を言ってすみません。)

養護施設にいた35歳の時に厚労省児童家庭局の企画でスポンサーが資生堂の海外研修に行かせて頂き、アメリカの児童施設事情を垣間見て、アメリカの5年後に日本に訪れるのではないかと考え、「施設の指導員は私でなくてもしてくれる方は出てくるが、個別指導に生きるのは私しかいない」等と大いなる勘違いをして38歳の時に養護施設を辞し、紆余曲折の末に今は老人の世界で生きているのですが(どういう経過でそうなったかについては機会があればこのコラムで書きます。)社会福祉法人を設立して22年、特養が出来て21年が経過した今、職員も150人になり、職員寮も20室ある今だからこそ、職親となり、児童養護施設の卒園生で仕事に就けず困っている子を一人でも二人でも頑張れる子に出来たらと思っていました。

私自身岐阜県子ども家庭課に5年程前から提案してきた事が今正に形になったのだから、「職親サポーター企業」としてお役に立てればと考えています。当法人の本部施設には昨年中卒を採用して職員寮で生活しながら頑張っている男子もいます。介護は『誰でもが出来るが、誰もが出来ない職種』だったらどんな人がエントリーして貰えるかと言えば、『優しくて一生懸命な人』と言う事です。職場体験からでも大丈夫だし、住む所は敷金礼金なしで大丈夫です「優しくて一生懸命な方」お待ちしてます。

 

本部職員の結婚式に新郎の主賓として出席しました

平成31年3月2日

10時からの受け付けに主賓が遅れてはいけないと、我が家に8時30分に迎えに来て貰い出発したのですが、家で準備している時に大ハプニングが起きました。それは、昨日持ってきた礼服のズボンがはけない。「おいおい、時間がないしパニックだ。」アイロンもかけてサスペンダーもセットしたのに・・・。取り合えず、もう一組の礼服はもう少し大きそうだからと着てみると何とか大丈夫なようで、でも、私の奥さまかをりさんは背中がくしゃくしゃだとかなんだかんだ言われましたが、私の結婚式でないのでとの私の一言で何とか8時30分に間に合い、本日は土曜日だった為かスムーズに走れて9時35分に結婚式場の駐車場に着き、もう一台の職員の車を待っていと、到着したので一緒に会場に行くとまだ、受け付けが始まっていないので、ソファに座っていると飲み物のサービスがあり、レモンスカッシュがないのでアップルジュースを頼み頂いていると受け付けが始まり、メッセージカードを書き結婚式場に移動。式場には予想通り?鼻の高い神父さんがいて、新郎新婦の入場から式が順調に進み、式が終了後フラワーシャワー。写真撮影が終わり披露宴会場へ。食事のメニューを見ると予想通り洋食。職員に寿司を出前しとけなどとあいからわずわがままを言って・・・。(ちなみに無理な事はわかってます。)披露宴が始まり主賓の挨拶がアナウンスされ新郎の長野君が北欧式トランスファーを頑張っている事を話して、続いて乾杯になり、ビックリしたのはノンアルコールではない純粋なシャンペーンが出されて、車の運転をする方は驚いて・・・。主賓の挨拶はいつものように原稿なしだったけど、何とか笑いと涙を呼ぶ話で次に乾杯を新婦の上司である長浜日赤病院の看護部長がされたのですが、原稿を読まれる真面目な話し。私のスタンスとは違いますがそんはそれで素敵なスピーチ。披露宴が順調に進んでいき、あいからわす食事は洋食。何人かの挨拶にビールを持って行き。無事に終了。お礼の 挨拶を済ませ車に乗った瞬間大垣の馴染みの寿司屋の親父に店を開けさせ、私を含む職員五人でお酒を飲める3人は日本酒とつまみを楽しみお酒を飲まない職員は寿司をジンジャエードを飲み満足して家路に向け運転して貰っています。以上、酔っぱらいの報告でした。

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今日はオオカミの話をします

一昨日は『酔っ払い』の話で、昨日が『認知症』の話で「今日は何の話」と思われているリピーターの皆さんの中には『ウルトラマン』か『ライオン丸』(「古い話じゃな」と爺が言っとります)か等と考えたリピーターの皆さんがひょっとしてあったか、なかったか。(もし、その様なリピーターさんがいたらお目にかかりたいですが・・)そんなに都合よく話が出来る程には一日の出来事は訪れません。(その様な生き方をしているのは、私が知る限り、ドラゴンボールの孫悟空くらいかな)2月26日と言っても一昨日のその前日の事ですが、したたか飲み一昨日は絶不調で(「反省しなさいよ」「はい」・・・と一人話をしてます。)

立ち直った昨日はパソコンソフトの打ち合わせが午前中で、午後は羽島で「職親プロジェクト」の発足会があり(別添資料参照)

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(※なかなか本題に入らなくてごめんなさい。これから話します)

それは、むかーしむかしの事ではありません。今朝の食事を終わって少しだけ2階で休んでから施設に行こうとして食堂の椅子から立ち上がろうとしたらお腹が一杯でお腹が重くて重くて機敏に動けんのです。一歩一歩お腹を抱えながら歩くのが精一杯。その時に思いました。『おおかみと七ひきのこやぎ』で腹一杯以上の七匹の子ヤギを食べたオオカミの気持ちがわかりました。昔から言うじゃありませんか。「過ぎたるは及ばざるが如し」と。でもでも、朝に一杯食べるのは良いのだと言われてるもーん。よーく考えたら、オオカミさんはお腹を切られて子ヤギは全部救出されて、オオカミさんのお腹はすっきりしたんだよね。(多分)だったら私もお腹を切ってすっきりしますか。いやいや、オオカミさんは子ヤギを出したんだよ。でも私のお腹に子ヤギさんが入っているわけでなく、体に付いた肉だから腹を切ってもだめだ・・・。だからか、最近「施設長のお腹は何か月」と言って触ってくる方に「15か月でなかなか出てこない」と空しい返事をしているのも面倒になってきたこの頃です。※コラムを書きながら本当に空しくなってきたので、このくらいで止めます。

大丈夫か

平成31年2月28日

朝一で施設に行き仕事の区切りをつけ、朝食の為に家に帰ろうとして、パソコンの画面を見るときは眼鏡を外して机の左側の物入れに入れているはずの眼鏡がない。宿直者の職員に「今朝は眼鏡をしてこなかったか」と聞くと「多分されてこなかったと思います。」との返事だったが、一先ず施設長室の机の上を見たがないので、「やはり家からしてこなかったなら、仕方がない」と、予備の眼鏡をかけて家まで運転をして帰り着き、家の中で考えられるところをウロウロと探しても見つからず、再び施設に行き探そうと言う事で一瞬パニック。

何故なら今度は車のカギがない。「玄関先の靴箱の上の籠に入れたはず。だって、家に上がる前に籠に入ってないので、玄関のカギをさす所にあったのを確認したから」。ひょっとしたら食堂のテーブルの上かなと見てもない。半ば諦めて玄関の戸を開けて何となくカギをさす所に目をやると、何とカギがささっているではありませんか。鍵の件は一件落着ですが、不思議な現象です。これはもしかしたら『妖怪カギ運び爺』の仕業か・・・・・。(そんな訳ないか)

とにかく再び施設に行き、再びメガネ探し。何度も何度も事務所と施設長室を行ったり来たり。でも見つからない。頭を冷やそうと洗面所に行こうとして途中にある机の上を見るとはなしに見ると、何とメガネが鎮座しているではありませんか。思わず絶句です。

しかしながら、こんなに探し物をしている私は一体何者。いよいよ、認知症の出現か。と、いらいらしていると、「理事長」「施設長」「会長」など呼び方は様々ですが『お忙しいから』と慰めなのか同情なのか、忙しいと言う事実だけなのか。うーん。何とかしたいけど、ますます探し物が多くなるのかなー。本当に悩ましい限りです・・・・・・・・・。

 

酔っ払いは何ともならない

平成31年2月27日

おそばせながらの新年会の2組目が実施され、しゃぶしゃぶ木曽路では、お酒を飲める職員を私の近くに集め、2時間しゃぶしゃぶを頂きながら日本酒をしたたか飲みました。二次会は飲める職員と歌える職員を伴って前回同様に行きウイスキーをロックで飲み、お酒を飲んでは3度もハプニングを起こして奥様に愛想をつかされている北島部長が職員の送迎を一手に引き受けてくれてみんなが帰ってから何となく物足りなくて(だってまだ22時過ぎでしたから・・・)気楽に話が出来るお友達に連絡すると、「これから行きます」との答えが返ってきたので、お店で合流しここでもしたたかウイスキーを飲み23時過ぎにタクシーを呼んで貰い自宅にたどり着いたのですが、酔っぱらった私は、代行運転と勘違いしてシャッターを開けてうろうろ。タクシーの運転手が「お客さん、代行ではありませんよ。」と何度か言われてもその意味が理解出来ず車庫の周りをうろうろしていて、「何で車庫に私の車が入っているんだ。」と悩んでいて、ようやくタクシーで帰ったと理解して、運転手さんにお金を払い、表のカギを持っていなかったので裏口の指認証で家に入り、何とか事なきを得たのですが『酔っ払いは何ともならない』と言う結論に達しました。流石に本日はグロッキーで午前中は家で休ませて貰い、午後1時からの共同通信社の記者の方の取材を受ける為にたくさんの水を飲み、何とかシャキッとして受け答えが出来ました。しかしながら、お酒が弱くなったのか飲みすぎたのかは定かではありませんが、なんともはや情けない話です。65歳と言えば大概の良識があってしかるべきなのに、「反省だけならサルでもするぞ。」を私自身に言いたい気分です。ただ救いは共同通信の記者には私の福祉に対する思いを中心にしっかり話せた事です。文字通り『よく学び、よく遊べだ』と一人で納得している次第です。

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施設奥の西側に大きな砂防ダムが出来ます

平成31年2月26日

防災については近年多く災害が起きている中、岐阜県としても積極的に事業を実施していて、当施設の周辺の山が危険域のイエローゾーンと言う事で山の斜面の工事を5期に分けてではありますが、毎年実施して頂いており、全てが終了したあかつきには、めでたく『福祉避難所』に指定して頂けると言う事で岐阜県において多大なご理解を頂いて実施していただいているのですが、昨年の2度に渡る大きな台風によって施設の中に通っている川が豪雨によって川に多くの土砂が流れてきて体積している状況もあり、施設の上流に大きな砂防を急ピッチで造る工事が進んでいて、山の木は1000本以上切られ、川の流れも変えて、土砂をダンプでたくさん運んで頂き、施設の上流の環境がガラッと変わりつつあります。

本日も何台かのダンプが施設南側の道路を行き交うので、久しぶりに施設の奥を見に行きました。本当に感動しかない位に変わっていました。確かにこれだけの工事をして頂ければ上流域で土砂を止めてくれると思うと自然に「ありがたいなあ」の言葉しかない。いやいや、ひとつ懸念があります。それは、これだけの木を切りまだまだ多くの木を切る計画があるとの事なので湿度は間違いなく下がるだろうからインフルエンザ等を気を付けなければ。しかし、インフルエンザは予想が出来る事だからしっかり対策を施せば大丈夫。

しかしながら、災害は想定を越えることあるからここは、砂防を優先して頂いた事に感謝。ところでこんなに大規模なものになったのは、砂防ダムは土砂で一杯になれば砂防ダムとしての機能を果たさなくなるのですが、今回の工法は土砂が一杯になったら土砂を取り除く工法なのでダンプや重機が通れる道を造るとの事。この事にも思わず「ありがたいな」。

工事をして頂いている方に親切に教えて頂いて浮き浮きしながら歩いていて、新館の南側にある池に中にある小山の回りに沢山の金魚が泳いでいました。この金魚は夏祭りの企画の一つで『金魚すくい』があり夏祭りが終わって放流したものですが、間違いなく増えている。施設でゆったり育っている金魚(私がガラケイでとった写真ですが分かりますか)に、『家族が増えるのは微笑ましい』と思いました。入居者もゆったり、金魚もゆったり『平安之福』でまたまた「ありがたいなあ」

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3月2日付けの週刊現代の情報からPART2

平成31年2月25日

私の生母は私が小学校3年生の頃から闘病生活を余儀なくされていて、癌が転移する期間は不思議と元気で家での生活ができ、そんな時の母は私が学校から帰ってくると、宿題を確認してその後国語の本読みをするのが日課だったのですが、小さい頃から虚弱だった私はしょっちゅう高熱で学校を休んでいたので、当然のことながら勉強は出来ない子供だったので、本読みもたどたどしくて、母親が何か指摘する度に涙が出てくるような状況で今からは考えられないような子供だったのです。今でもその後遺症なのか声を出して本を読むのは苦手です。恥ずかしながらのエピソードを紹介すると、30歳と10日で結婚式を挙げた私は結婚式のセレモニーで「誓いの言葉」を嫁さんと一緒に読んでいる時に原稿には書いてない事を話していて嫁さんに背中を突かれた記憶が今でも鮮明に残っています。こんな私が、人様の前で話が出来るようになったのは、26歳で児童養護施設指導員になり、小学生・中学生の勉強を見なければいけない立場になり、かつての同僚であった数学の先生に食らいついて教えて頂きそれなりに出来るようになったように思います。(前置きが長くてすみません。本題に入ります。)CoCo一番の創始者である宗次徳次氏は確かに稀有な人生ですが、苦労を苦労と思わないで、苦境を乗り切った時に全ての事を『ありがたかった』と感謝をされる。めちゃくちゃ素敵な考え方だけれども誰もが真似を出来る生き方ではありません。そして、『人の笑顔が見たい』の信念の為に上手くいっていた不動産業を廃業して未知の世界に飛び込む信念の持ち主。そして、信念を持ってやり切ろうと言う意思の強さ。しかしながら私は、宗次氏の奥様が旦那さんを信じて付いてきて下さったいわゆる内助の功があったればこそと思っています。だって「CoCo壱番屋」の名称は「奥さんのカレーが一番や」で決まった事からも二人三脚が素晴らしいものになったのだと考えています。話は飛びますが、岐阜県出身の嶋聡さん(元ソフトバンク社長室長)の講演の折、松下政経塾で松下幸之助さんからの教えで、塾生が『成功する秘訣は何ですか』との質問に松下幸之助さんは「成功の秘訣は知らん。だけど成功するまでやり続けたら必ず成功する。」とのエピソードを聞き、なるほど意味深い言葉だと思いましたが、宗次氏の生き様にも相通ずるものがあると思いますし、私の生き様にも通ずると思います。もちろんスケールは桁外れに違いますが。そして、これはスケールが桁外れだから仕方がないことですが。宗次氏は自分が稼いだお金は全て寄付すると断言されそのように実践され喜ばれているのですが、私は桁外れの小ささの中で、法人が収益を上げた分は地域貢献で頑張らせて貰おうと考えています。苦労を苦労と思わない生き方と趣味もない生き方には共通項がありますが、まだまだやらなければいけないことが山積している状況の中、「仕事が趣味」とインドネシアEPA介護福祉士候補生に言い切った事ですし、これからも地域貢献にますます磨きをかけていきますのでリピーターの皆さんも応援宜しくお願いします。

 

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