昨日の約束通り『地区有林』について書きます

2021.8.25

関ヶ原町今須と言う山方育ちで戦後8年後に生まれた私だから分かる事で、その条件がない方にとっては(多分殆どの方がそうだと思いますが)「地区有林って何のこっちゃ」と言う事だったと思いますので、私が「こんなこっちゃ」と言う話をします。(昨日のコラムを書いていて思ったのですが、気が付いてから本題に入ると長くなるし、移動販売の『だるま』がくる時間が近付いていたので)本日は予告編の『地区有林』について書きます。(『書きます。』と書きましたが、正確な事を理解しているわけでは無いので、しっかりと下調べをしてから書きますので時間を下さい。)✳あいからわず前段が長くてすみません。✳

平成23年2月に林野庁が報告している『国有林の歴史・現状と今後の課題』の中で昭和22年~昭和40年代の状況は『戦後の復興用材及び高度経済成長期の住宅の需要に対応し、市場木材供給に努めた。これにより収益が増大し、民有保安林の買い上げ、一般会計への繰入の実施など独立採算を超えて国家財政への貢献等まで行った。一方、社会のニーズに応えるため、植え替える木の成長量を見込んで、伐採時点の森林の成長量を遥かに超える伐採や、林業効率性の低い奥地まで拡大造林を行うところとなった。』と言う記載がありました。確かに私の小さい頃の記憶の中で山持ちはお大尽と言うイメージがあり、その頃は山の境をで所有者同士で揉める事が度々あったように理解してます。次に昭和40年代~平成10年の記載では『昭和40年代以降、木材貿易の完全自由化とその後の円高の進行により、木材価格が低迷する一方、自然保護の要請に応えた収穫量の削減等により収入が減少。さらに人件費や資材費の高騰、伐採跡地への植林の増加などにより、造林に必要な経費が自らの収入によって自弁できなくなり、昭和51年以降財政投融資資金からの借り入れを行わざるを得なくなった。国有林の債務は造林のために使用され、造成された森林は公益的機能の発揮を通じて国民の安全・安心の確保に寄与してきた。』と記載されているのを目にして、私自身20歳の頃、父進さんについて滋賀県境の山の奥の方まで行き、いつも枝打ちをお願いしてきた方の指導を受けて檜の苗木を200本ほど植えた記憶があります。その時には父進さんから山の境についてしっかりと教えて貰った記憶があるのですが、正直、その山が何処に有るのかも分からない状態です。私の山へは本部施設が完成する前(平成9年)に地区有林の所に鉄塔が設置されると言う事で補償金を60万円頂いたのを原資にして、枝打ちをして頂いたきり行ってないので25年間は足を踏み入れてません。確かに50年くらい前には雪が降ったら『木をこし』と言った雪で倒れそうな木を縄でつないで起こすような事をした覚えがあります。

さて、かなり話題がそれましたが、今回の県庁からのお呼び出しは、平成29年まで岐阜県との契約をしていて、その後は何もしてない状態なので、契約を新たに結んで欲しいとの事だったのですが昨日のコラムで書いたように、大多数の方が亡くなられている状況で山の木に魅力を感じない方を(私を含めて)取り纏めをするのは至難の業だと言えますが岐阜県にご迷惑をかけるわけにはいかないので骨を折りたいとは思いますが、国の方向性のなさと言うか先を見る目がなかったと言うか。大きな立派な木を山から出してきても運び賃も出ないのでは魅力を感じろと言うのには無理がありすぎる。立派な木を3本切って1ヶ月優雅に暮らせるようにまでしろとは言いませんが山の地形を守るためにも山への愛着を持って貰う為にも制度設計を考えて頂かなければ山はもっともっと荒れてしまうと思うのですがリピーターの皆さんも山を守るためにご理解を頂ければ幸いです。

岐阜県庁林政部治山課に9時のお約束で出掛けました

令和3年8月24日

いつもはアラームをセットしている5時よりも早くに目覚め、5時のアラームの音楽とともに行動を開始するのですが、本日はアラームが一向に鳴らないので「おかしいな」と思い時間を確認すると、「5時30分を過ぎとるやないか」と言う事であ、慌てて起きて1階に降りていくといつもの事ですが老猫『リット』が私の足元に絡んできて餌の請求をするので「はいはいご主人様」と言う事で何をするよりも先に餌を器に入れて、洗面を済ませていつものようにウォーキングマシンに乗り般若心経を30分(ここは絶対に譲れないところです。)唱えて急ぎシャワーを浴びてお風呂に浸かると7時になり、朝食を頂き外出着に着替えて車に乗り込み岐阜県庁に。

垂井町の南宮さんの交差点までは信号で止まる事も無くスイスイと走れたのですが、そこからはトロトロとしか動かずに垂井を抜けて大垣に入ってからは再びスイスイと走れるようになり「このまま走れると8時30分には着くので9時までには時間があるな」と胸算用していたのですが、大垣を抜けて瑞穂市に入った途端になかなか進まない状態になったのですが、何とか8時45分に県庁の駐車場に着いたのですが、「駐車場の中に駐車出来るスペースがない。」と言う事で駐車場の中をウロウロしていて何とか車を停めて治山課がある8階に行くと9時ジャスト。「家を早く出て良かった。」で治山課の部屋に入って行きました。

事前に連絡をしてあったので直ぐに打ち合わせに入る事が出来ました。打ち合わせの最初に何事も営業が大切であり、私の状況を知って頂くのは肝要と言う事で事前に用意しておいた当法人のパンフレット等を手渡しました。本日治山課に行ったのは私が住んでいる関ケ原町今須門前地区の戦後対策で出来てから所有している地区有林の話しだったのですが、戦後の地区有林の事をご存じの方はご高齢になっていて、あるいは亡くなってみえて、68歳の所有者の取りまとめと岐阜県との折衝役に抜擢されたので本日岐阜県庁に出向いたのですが、どのような話になるのか全く分からない状態で話を聞く事になりました。

そんな中で今須門前地区有林の所有者が25名みえると言う事で25名のお名前を見させて頂き25名の内で既に他界されている方が私の父進も入れて20名(父進が他界したのが20年前ですから当然の事か)、他所に移られた方や私には記憶の中にない方もみえるので、これをまとめていく事の大変さを今は実感してます。今須門前地区は転居された方が比較的少ないとは言え取りまとめるのは大変だと考えています。とにかくこの取りまとめをするには司法書士の先生の協力無くしては進まないので、取り敢えず私が懇意にしている司法書士の先生に連絡とりました。なかなか取りまとめが難しいと思う最大の理由が山の保有に魅力を感じない社会になっているからです。リピーターの皆さん。木に対する私の意見は明日しっかり述べる事にします。

 

『継続は力なり』をしみじみ味わおうと考えています

2018年8月24日から私のコラムは連続更新をしてますので、本日無事に更新出来れば丸3年更新し続けて、明日からはめでたく4年目に突入する事になります。自分でも「あんなにひ弱で軟弱だった私が」と思うと感無量です。勿論、丸3年はあくまで通過点でしかないとリピーターの皆さんに宣言させて頂きます。ところで、本日は盲養護老人ホーム『優・悠・邑    和(なごみ)』で『地蔵盆』を入居者及び職員とで開催します。リピーターの皆さんには既にこのコラムで紹介させて頂いていますが、和(なごみ)の駐車場東北端の所に垂井町を見渡す形でお地蔵様を設置させて頂きました。設置を提案したのは和(なごみ)の吉澤施設長です。その訳とは「元気な入居者さんばかりなので散歩に行った時の目標として石仏があれば嬉しいのですが」との提案に私は「吉澤施設長の思いを大切にしたい」と思うと同時に「予算をみてないので、私が寄付をすれば問題ない」と考えて、その為の手続きをした段階で和(なごみ)のすぐ側にある石材に行くと、和(なごみ)に設置されるべきお地蔵様が鎮座していて、いわゆる『一目惚れ』状態になり、その場で石材の経営者の方と話をして契約も済ませて、竣工式典にも間に合わせて頂き、竣工式典に花を添えて頂いた静慈圓大僧正に竣工式典の前日にお仏壇のおしょうね入れの後お地蔵様のおしょうね入れもして頂いた次第です。元気な方ばかりで、お地蔵様のお参りは天気のよい日は皆さんの日課になっています。本部施設を9時前に出て9時30分に和(なごみ)につくと2台の公用車を利用してビニールシートで雨対策がしてあり、昨日購入して届けておいたお供え物や花が既に飾ってありました。入居者さんも順番に歩いてこられて、一人ひとりにご挨拶をしていると長浜から滋賀信行会内藤会長が来てくださり、皆さんにご挨拶をした後しょうしんげを私が導師をして、般若しんぎょうには内藤会長に導師をして貰い無事に地蔵盆を終える事が出来ました。朝からドンよりとした曇り空でしたが雨に祟られることもなかったです。5月21日から新規施設での事業開始をしての公のイベントは初めて実施したのですがコロナの厳しい状況ではありますが一つひとつ確実に積み重ねて行ければと考えています。80人の定員のところで今は11人の入居者さんでしかありませんが、色んなところからアプローチをしていき、順調な経営が出来るように努力していきたいと考えています。このコラムの継続が明日からは4年目に突入していくわけですが、『頑張ったんだ』等と一言で語れるものではなくて、色んな意味でピンチもありましたがその都度クリアしたから今がある。リピーターの皆さん。明日からの展開についても見守っていて下さい。

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難しい時代になりました

令和3年8月22日

先般8月18日に行われた全国老人福祉施設協議会主催の正副会長委員長拡大会議において役員研修が行われて弁護士の先生から『ハラスメント』についての講義を聞く機会がありました。そして、改めて今の労務管理の難しさを理解しました。

私は何度も言いますが昭和28年生まれですから文字通り戦後復興が見事にされて高度経済成長期に多感な時期を過ごしています。私の拙い記憶の中にも『猛烈社員』とか『貧乏人は粟を食え』等と叱咤激励し働く事によって豊かな生活を勝ち取る為にがむしゃらに働く事が美徳なような時代を過ごしてきました。『サービス残業』等は当然のようにまかり通る時代でしたし、叱咤激励をしながらも歯を食い縛り働くのが当たり前のような感覚がありました。『立身出世は体で勝ち取る』的な発想だったと思います。会社勤めは残業を沢山して対価を多く得るのは当たり前の時代です。

しかしながら今そんなことを口にしたらバッシングの嵐になるようなご時世です。『働き方改革』の名の下、『ノー残業デイ』なる言葉もまかり通り、間違っても叱咤激励するような発言は出来ないような風潮です。介護の世界もICT化とロボット開発に力を入れています。しかしながら介護の世界では、人と人との関わりの中でのお世話をさせて頂く仕事なので、なかなか難しいと考えています。人間は『感情』によって色々な展開があります。『喜怒哀楽』が人口頭脳によって理解できるのか甚だ疑問です。しかしながら、人間の中から喜怒哀楽が理解できない社会を作る事は簡単に出来てしまうような気がして私は怖いです。

私はメッチャ古い考え方の人間なので義理人情を大切にしたい。私が児童養護施設を退職してスーパーバイザーとしての指導に他の施設に行った時に、小学5年生の男子に作業の指示をしたら「先生、作業したらいくらくれるの」と言われた時には少なからずショックを受けて「そんな事を言う子にはやって貰わんでも良いけど、先生もお前には何もしないから」と言った事を今でも後悔してます。今時の若い方の中には飲み会に誘われて「業務の一貫なら参加します。」と言われる方もあると聞いてますし、飲み会参加を強要するのもご法度です。若い方の中には激励の意味を込めて言った言葉が重荷になってしまい極端な方の中には精神疾患を患ったとの訴えをされる方もあるように聞いてます。

管理職の立場で一生懸命に指導するあまりに言葉がキツくなったり場所をわきまえなくて指摘しなくてはいけない場合もあるのですが、管理職の職員が一生懸命故の行為に対して注意をしなければいけないのには、私自身自己矛盾を感じながらの事も度々あります。職員に話をするときに「相手の身になって」等と言っても、なかなかその意味を真に理解しての展開は難しいし、だからこそ『マニュアル』等もきちっと整理していくのですが、マニュアルを作成する側の人であれば当然のように理解しての展開は出来るのでしょうがそうでないと、なかなかマニュアル通りの展開は難しいし出来ないことが多いと思います。だからマニュアルは作成するだけでなくてマニュアルに至った必要性を理解して貰う事から始めなくてはいけない。しかしながら、そこまで理解して貰う為の時間が持てなくて、バタバタしてしまう悪循環。『体に染み込ませる指導』が出来たら楽なんだけど。

正直『巨人の星』の星一徹がうらやましい。愚痴を言っていても解決しないので、今風のやり方を理解して頑張らなければいけないと考えています。但し、リピーターの皆さん。本部施設の職員の中には体育会的な考えの持ち主が多いので助かってます。但し、いつまでもそんな事に甘えてばかりはいられないので5年先戦略を考えての展開を頑張って作りますのでこれからも宜しくお願い致します。

 

本日は内科受診と本館のお参りです

本日は土曜日なので公的な役割が無いのでしっかりと私的な事と施設の事を頑張りたいと考えています。但し、内科受診の前に身内の対応で中古車の契約に立ち会わなくてはいけないので、(原稿を打っていて9時30分からの約束を変更する事を忘れていることに気が付きました。忘れてしまうと相手の方に失礼な事になるところでした。)血液検査だけ先に済ませて契約に立ち会う事にしなければいけないので、午前中は結構にタイトですが頑張って対応して、午後からの本館1階、2階のお参りは心落ち着けて頑張ります。だって、本日は21日で弘法様の日だから。仏壇に手を合わせる機会が多くあるのは大変幸せな事だと思っています。

中古車の契約についてはお値打ちな契約がスムーズに出来たので内科受診予約の時間までに時間があったので一旦施設に行き、その後時間を見計らって診療所に行きました。血液検査については、コロナの影響もあり酒席が激減している為かガンマ何とかの数値はかなり良くなっていて、血圧の数値については正常値との事で大変気をよくしました。

診療を終えて診療所の3階にこの4月に開設された看多機に入居されている方が地元の方で近々本部施設の利用となる方があるので様子を確認しにいくと、私の事を覚えてみえて「若山はんお腹が出てきたね」の反応には私も苦笑いするしかありませんでした。診療所での面談を終えて再び本部施設に帰ると12時40分になっていましたので急いで昼食にして(メインは冷やし中華でした。)午後からの本館1階、2階のお参りの体制を取りました。1階のお参りは少し不満が残るような状況でした。と言うのは職員の準備の様子からフロアの責任者に係長がいたにも関わらず『ただやればよい』的に感じたからです。取り敢えず苛つきを覚えながら2階に移動すると1階とは比較にならないほど準備にしても入居者さんの雰囲気も良かったです。だからお経にも力が入りましたし、カラオケの準備もしてあり、お経を終えてから5曲も歌わせて貰いました。改めて思ったのは『職員の対応次第で同じ企画でも違ったものになることを。

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15時30分に盲養護老人ホーム    和(なごみ)の事務長との約束をしていて、事務長には入居者さんの人数が少ない中での体制作りについて理事長としての私の考え方について話をしました。本日は土曜日と言う事で公的な対応がなかったので早めに家に帰らせて頂きました。週明けからはよりギアをあげて頑張りたいと考えています。

《余談》

朝の食事を終えてから食後の薬を袋から出し手に持ち口に入れようとしたら4錠の内の3錠は口に入ったのですが1錠だけが入らず、どこにあるかなと探そうとするとお腹の上に乗ったいましたので探す手間は必要がありませんでした。と言う事はお腹がぽっこりしているのもたまには役にたつと言うどちらかと言うと『トホホ』の話しでした。

『悪循環になる前に』・・・一日で断ち切れた

私の小さい頃は文字通り『意志薄弱』で何か目標を決めたとしても何だかんだと言い分けをしては止めてしまう事ばかりで、その最たるものがこのコラムでも書いた『わら半紙に真っ黒になるまで英語の単語を書くかく大作戦』だったのですが、3人の内の剛君と宏君は見事に脱落してしまったのですが、宏君の脱落理由は「3日目にしてペンだこが出来て痛くて書けない。」との何とも情けない理由でしたが、一事が万事こんな調子で全く達成感のない幼少期だったように思います。

そんな私が頑張れるようになった最大の理由は何と言っても四国遍路だと思います。四国を集団で歩いていると私よりも体力がないと思われる方が必死になって歩かれているのに私が弱音を吐く訳にはいかんし、集団から遅れる訳にはいかんでしょ。「もう歩きたくない。」と思うような難所での山歩きやいつまでも続く階段(そんな事は決してないのですが)そんな時にもみんなは弱音を吐く事なく頑張っているのに私だけ脱落者になる訳にはいかんですから。そんな時に『一歩前に』を繰り返している内に目に見えない力を頂き元気になるのです。そんな中から達成感を身をもって知ることが出来て成長させて貰ったように思いますし、身体的な変化として冬場にあれほど悩まされた『霜焼け』が四国遍路を経験した次の冬のシーズンからは一切無いのです。これは私が『徳』を頂いたと言うべきなのかも知れません。

しかしながら「血の循環が良くなった」とか「丈夫くなった」とか色々な事が言えるのかも知れませんが私は純粋に『仏様による見えない力』だと信じています。

そんな訳で、昨日は出来なかったウォーキングとお経が一日で復活出来たのは「素晴らしい。宏君を誉めてあげて下さい。」と自画自賛です。今は(午後6時29分)家に帰ってきてコラムを打ちながら気が付いた事は昨日は朝も時間的に余裕があったにも関わらずコラムの原稿は一切打てず(「打たなかった。」と言った方がより正確だと思います。)和(なごみ)の施設に行って全体会議でしっかり職員さんに話をさせて貰い、その後本部施設に帰り昼食後はリモート会議が16時過ぎまであり、烏野先生がみえたので幹部会前に打ち合わせをして、幹部会の時間になり引き続きの会議となり、幹部会では結構に熱くなりながらの議論だったので時間もかかり、家に着いたのは20時過ぎで、お風呂の中でも布団の中でもコラムを打っていてコラムを打ち終えたのは22時過ぎになりました。

その時つくづく思ったのは「忙しい方が時間を上手に使う事が出来る。」と言う事でした。その事を痛切に感じたからこそ一日で復活できたのだと思いました。「小さい頃のひろっちゃんとは違うぞ」当たり前か私もよく考えたら68歳だった。いやいや、よく考え無くても68歳なのであります。いやいや、生年月日ではそうだけれどのますます活動的な私ですから毎日が充実している事に感謝すると共に毎日が刺激的な事に喜びを感じているのですがリピーターの皆さんはこんな私の生き方をどのように思って頂けますか。私は少なくても「今日一日何をしようか」の毎日は真っ平御免ですから。

『百聞は一見にしかず』の話

令和3年8月19日

本日は午前中に盲養護老人ホーム優・悠・邑    和(なごみ)の全体会があり、最初に理事長である私から会計責任者等の辞令を渡し、ついで各委員会からの報告と提案があり、正直4月1日から事業開始してから4ヶ月弱、新設施設に移ってからだと3ヶ月弱で吉澤施設長はよくここまでに職員の頑張りを育てたものだと思いました。委員会の報告の後は吉澤施設長が職員の慣れからくる『雑さ』についての指摘があり、その中で入居者さんを前にして「見張っといて」との発言が現象的なものとしてある。との話には「聞き逃すことが出来ない。」と思った私は吉澤施設長の話の後を引き継いで「見張っていなければいけないとは普通は悪いことをした人に対して使う言葉だ。入居者さんは犯罪者等では絶対にない。大切にお世話させて頂く方々である。つまり、最大限の敬意と尊厳を持って接すしなければいけない。」とややきつい話し方をしました。その後は『百聞は一見にしかず』の話をしました。その時には私の体験をした本館開始時の話をしました。「平成10年5月18日に事業開始をして半年も経たない頃は職員も慣れない状況の中、頻繁に救急車の依頼をしたものです。慣れない職員集団ではありましたがあまりに頻繁に救急依頼をしていたので救急対応は手慣れたものになりました。つまり、『習うより慣れよ』を地で行く事が出来ました。今は救急依頼は年に3回もないので対応をしっかり出来る職員はあまりいないのが現実です。但し、万が一救急対応をしなければいけない時の為に机上訓練は本番を想定して真剣に取り組む必要があると話をしました。そして私が体験した救急対応の話をしました。それは、施設の事業開始をして1年も経過していない時に22時過ぎに私の携帯に連絡が入りました。第一報は「本日からショートステイを開始された方が部屋に見えません。」との事だったので「しっかりと落ち着いて探して下さい。」と話をしてから外出着に着替えて車に乗り込み運転していると「玄関から外を探したら石垣の下で倒れられていて頭が割れています。」との報告を受付、私は正直「6年も苦労して造った施設だけれどもこれで終わったな」と思うと同時に足がガタガタ震えたのを覚えています。ところが何とか施設に着き施設内に入ると、頭が割れていたと報告を受けた利用者さんが椅子に腰掛けニコニコされていて(もちろんタオルで頭を押さえてではありますが)事情を聞くと石垣の上から見てしっかりと血が流れていたので頭が割れたように見えたとの報告を受け、ぽっとした段階で救急車を手配して病院で縫って頂き頭にネットをして貰うとお医者さんから、一晩様子を見たいのでネットをとられないようにしてみていて下さい。」と言われた時の事を今も鮮明に覚えています。と話をしました。つまり色んな事を入居者さんから教えて頂き職員は成長させて頂く事が出来る。しかしながら少し慣れてくると『世話をさせて頂くが世話をしてあげている』と勘違いをしてしまうことがある。しかしながらそのようには絶対になってはならない。『習うより慣れよ。だけれども、決して世話をしてやっているのではない。』と私はいつも自分を戒めています。職員の皆さんも少し慣れてきた中で決して上から目線の対応をしないで、尊厳ある対応に徹して下さいと話をしました。リピーターの皆さんは私の話をどのように受け止めて頂いたでしょうか。出来たらご感想など聞かせて下さい。

本日も目一杯の予定が入ってますが頑張ります

いつもの日課となった朝5時過ぎに起きてのウォーキングとお経が昨夜は22時過ぎの就寝になった為か一旦午前4時前に目が覚めたのに、いつの間にか二度寝をしてしまい5時5分のアラームによって起きました。(保険をかけておいて良かったです。)但し、その後の行動は早かったので、6時5分には湯船に浸かっていました。本日は9時30分から和合で幹部会及びお参りがあり、午後1時30分からは本部施設に戻り全国老人福祉施設協議会の正副委員長会議がリモートであり、場所を関ヶ原町の『やすらき』に移動して16時から地域ケア会議があるのですが(リモート会議が16時までなので少し遅れての参加になりますので、リモート会議後は急いで行きます。)これだけ充実した日々が送れるのは私自身が健康に生活させて貰っているからとの感謝の気持ちばかりです。朝家を出た時にはどんよりとした曇り空だったのですが和合の幹部会(事業戦略会議)とお参りが終了して和合の施設を出た時には太陽が顔を出していたので嬉しくなりテンションも上がりました。施設の駐車場に着いたら盲養護老人ホーム優・悠・邑    和(なごみ)の車があったので「私に用事があるのなら、本日の昼食時間も昨日同様生のみか」と思うと同時に「もし私に用事があるのなら前もって時間を合わせるべきだ。」と思いつつ施設の中に入って行くと和(なごみ)の事務長が決済印を取りにきたとの事だったので、「私のスケジュールはパソコンで確認出来るし、ましてやアポも取らずに出てくるとはどういう事だ。」と思うと同時に「配慮が出来、理事長を支えるのが事務長の役割だと思うのだが」とも思い、「最初が肝心」(和の事務長が決済を取りに来たのは初めて)なので、しっかりと指導しました。そうは言っても決済印を押して、最後の書類が振り込み料の決済で5000円近くの数字になっていたので「業者の振り込みは長いおつきあいをしていくなら業者側にもって貰えるようにお願いするのも事務長の裁量だぞ」と指摘しました。事務長が帰ってから慌てて13時30分からのリモート会議前にバタバタと確認しなければいけない案件があり、何ヵ所かに電話をしたり書類の確認をしたりしついたので、本日の昼食も殆ど生のみでした。取り敢えず13時28分にリモート会議の画面をクリアして、会議への迷惑をかける事はなかったので良かったです。13時30分からの会議は広範な話題があり予定の16時を15分遅れたので、慌てて次の会場である関ヶ原町のやすらきに行きました。当然のように会議は始まっていましたが指定された副委員長席に座りしばらくは内容確認の意味もあり黙って聞いていたのですが中身が理解できてからはしっかりと私なりの意見を言わせて頂きました。明日も午前10時から和(なごみ)て全体会議があり、終了後13時30分から全国老人福祉施設協議会の総務・組織委員会がリモート会議であり、17時15分からは本部施設の幹部会があるのでしっかりと頭を切り換えてそれぞれの会議に挑みたいと考えています。リピーターの皆さんも思いませんか。忙しいからこそ時間を有効に使っているのだと。

水分補給の私の考え方と私の思い入れ

令和3年8月17日

今年の夏は異常な暑さで何もしなくても汗が出てきたり口が渇くのを覚える毎日で、自ずと飲み物を口にする回数も量も増える日が続きました。(停滞前線の影響からか、ここ2日間は比較的に涼しく過ごせてます。)私はお陰さまで元気に仕事に励んでいますので水分の量も回数も自己管理出来てます。最近はリモートの会議が毎日のようにあり(昨日は午後にありましたし、本日は午前中に予定されてます。)今ではリモート会議の準備をしていると大抵は水野係長がさりげなく飲み物を用意してくれてます。

さて、入居者さんの水分については、科学的介護の一貫として『オムツゼロ』を本格的に取り組みだした時に、残念ながら家庭の事情で退職した当時の服部課長がそれぞれの入居者さんの水分量を厳しくチェックしていくなかから認知症の症状が抑えられたりする事を実践で知ることができました。その時から『水分の重要性』については職員も認識するようになり、暑い日が続く状況の中、水分量については厳しく言ってきた為に水分量についての報告はしっかりと出来ているのですが、『水分量』にばかりに意識が言ってしまい、回数については少しずつないがしろになっているのではないかと思える節が出ているように思うので、改めて水分摂取には『量』と『回数』の両方が大切だと言うことについて述べる事にします。

本日は午後1時30分から岐阜県福祉会館で岐阜県老人福祉施設協議会の正副委員長会議があったのですが午前中の全国老人福祉施設協議会制度政策検討会議が定刻(12時)を20分超過したので、昼食のうどんは殆ど生のみ状態で食べて、(私は蛇か)食べ終わると車に急ぎ乗り込んで、13時20分に目的地の駐車場に着いたのですが、凄い勢いで雨が降っていて、しかも車には傘がない。でも館内に入らないといけないので走って館内にはいるとスーツはべたべたになりましたが何とか定刻に間に合い私の挨拶と共に進行で会議が進み、15時20分に終了し16時に約束してあった岐阜県庁高齢福祉課で災害派遣の打ち合わせを県庁側が5人で老人福祉施設協議会側は林副会長と私の2人でさせて頂きました。

本題に戻ります。本日は所によっては激しい雨が降っていたので雨に例えて話をしますと乾ききった畑の土に毎日朝と夕方に如雨露で水をまくと適度に水が満たされます。しかしながら、本日のような激しい雨は土の中に染み込む以上には水を受け入れてくれないので何処かに流れてしまいます。人間も一緒です。乾ききった喉に一機に水を飲んでも、しばらくするとまたまた喉か乾きます。喉の乾きを覚えた時に少しずつ水を飲んだ方が体にとっては満たされるのです。元気な方であれば必要に応じて飲む事が出来るのですが、要介護者である入居者さんにはこまめな水分摂取によって満たして頂くしかないのです。表層雪崩と言う現象がありますが必要以上には土は水を欲しません。リピーターの皆さんもご理解頂けましたか?何事も『ほどほどに』は人間も自然も同じだと言う事を。本日のコラムで何が言いたいかを理解して頂けたか自信がありませんが理解出来なかったリピーターの方には「ご免なさい。」3年近く毎日書かせて頂いているとこういう日もありますがお許しください。

 

 

早朝5時3分に地震がありました

昨夜はと言うより昨日は異常に眠くて18時には夕食もお風呂も無しで寝て、一旦20時30分に目が覚めペットボトルの水を飲み、しばらくはテレビをみていたのですが(内容をまったく覚えていません。)それから再び寝て再び目が覚めたのは午前4時30分。ウォーキングマシンで歩くにしてもいかにも早すぎると言う事で、ベット上でうだうだしていた午前5時3分にガタガタっと揺れました。地震です。

テレビの情報では滋賀県北部が震源地だったのだそうですが震度の数値では岐阜県揖斐川町が震度『4』と言う事で一番大きくて関ケ原町は震度『3』との事でした。その後も余震が何度かあったようですが、私は施設に来てから一回だけ感じました。

本日は午前中に坂口法人顧問(前岐阜県社協事務局長)との打ち合わせと10時から本部施設の係長・主任会議があり、午後1時からは全国老人福祉施設協議会デイサービス部会の会議と会議が続きました。午前中に開催した係長・主任会議は今年度から開催しているのですが段々と密度の濃い会議になってきたのはそれぞれ参加した職員のレベルが上がってきた証しかと感じています。

午後1時からの全国老人福祉施設協議会デイサービス部会の4者会議は(担当副会長、部会長、副部会長、幹事と事務局)部会長は北海道、副部会長は滋賀県、幹事は福井県からの選出でそれぞれにしっかりとした考え方をもった方ばかりなので意見が途切れる事もなく16時までの3時間が密度の濃いものになり、改めて『3人寄れば文殊の知恵』とはよく言ったものだと思いました。

ところで九州を中心としての豪雨はまだまだ続くようなので気を付けなければと思っているのですが、最近の豪雨では『想定外の降り方』をするので、私自身は休める時に休んで、いざと言うときにはいつでも対応出来るように心掛けていなければと思っています。本部施設には防災倉庫が設置されていて、5年の月日が経過したので、5年の賞味期限が8月末で切れるラーメンと9月末で切れるうどんを食事の中の一品にするために若園管理栄養士を中心にして提供の仕方を検討しました。そして検討をしながらつくづく思ったのは、賞味期限が切れるまで保存出来たのは災害もない5年であったと言う事であちこちでの異常な災害の報道を聞いているので、災害もなく非常食を提供出来る事に感謝しなければいけないとも思いました。

朝5時3分の地震も被害がなかったわけですが、改めて防災についての体制をとらなければいけないと思うのですがリピーターの皆さんも『備えあれば憂いなし』お互いに留意したいものです。

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