昨夜は何故か沈んだ気分だったので逆にワクワクで締めたのですが

令和3年9月24日

沈んだ気分になってしまったのは秋の雰囲気の性ですかね。でも、いつまでもそんなにウジウジしていても『宏君らしくない』と言う事で『ワクワク』への切り替えに今も努力しています。どうしたら『ワクワク感になれるのか』等と考えている私がいるのでは『まだまだだ』と自嘲気味に思っているのですが・・・。

今はただただ本日、本館1階で午後から開催される敬老週間の一貫イベントの『仮装大会』での私の参加でどのようになるのかだけを考えたいと思います。ネタバレは御法度なのですがリピーターの皆さんがこのコラムを見ていただくのは仮装大会終了後になるので、ネタバレを安心してさせて貰い私をワクワクの世界へと誘い(いざない)ます。リピーターの皆さんの中には昨年10月末に実施した『ハロイン』の時の私が艶やかに?着た白のドレス姿をご記憶ではないでしょうか。今回は昨年よりバージョンアップさせて紫色のドレスを着て登場します。

午前中は昨日開催された全国老人福祉施設協議会21世紀委員会主催の『プレカントリー』に東海北陸ブロックカントリーの開催県が岐阜県と言う事で特別参加をさせて頂いて、「リモートでの実施はなかなか難しい」と考えていたところへ岐阜県老人福祉施設協議会の田中21世紀委員長から「運営上難しいので何らかの手立てが必要です。」との連絡を貰い、「流石に田中委員長は良い視点を持っている」と思いつつ「私なりに情報収集と対応方法を検討出来る様に根回しをしてみる。」と答えてから「私の得意技はネットワークを駆使して打開策を講じる事」と言う事で、全国老人福祉施設協議会の担当事務局や21世紀委員長や東北ブロックの当番県等々に連絡して、取り敢えず情報収集は出来たので対処方法を会長や担当副会長としていきたいと考えています。

午前中はその他にマット等の介護用品の発注の打ち合わせがあり、昼食(チャーハン)をとってからは、午後の仮装大会の準備の事を考えると少しづつ『ワクワク』してきました。本当は私を含めて『3人の美女』(私と北島部長と水野係長)がそろい踏みする手はずで3組のドレス(紫・白・黄)を準備していたのですが残念ながら水野係長は急用が出来て参加が出来ず一番張り切っていたので残念そうでした。取り敢えず13時30分に会議室でデイサービスの山崎看護師に手伝って貰いドレスを着て化粧とカツラを装着して準備万端で本館1階に北島部長を従えて歩いて行くと、伊藤係長の司会進行で私を紹介してくれて一段高い所に上がり(上がるのも一苦労でした。)ご挨拶と共に歌を2曲(『夢芝居』と『瀬戸の花嫁』)歌わせて頂いたのですが入居者さんの方から「綺麗やな」とか「べっぴんさんや」等と声を掛けて貰い私が入居者さんから元気を貰いました。

私の歌の後は職員による仮装と歌で盛り上げていました。その様子を見ていて私は「我が施設の職員は素晴らしい」とこれまた元気を貰いました。私自身テンションが上がったところで北島部長と共にデイサービスに乱入しました。流石に今まで静かにしていた利用者さんが一斉に活況になりました。(デイサービスの職員の皆さん、馬鹿になりなはれ。見守りの仕方を理解しなはれ)デイサービスの利用者さんの所へ歌いながら(『瀬戸の花嫁』『遠くに行きたい』『お嫁においで』の3曲)行くと異口同音に「理事長さん綺麗」と言って下さり私は改めて「皆さんのお陰で生かされているのだ」と思い『ワクワク感の絶好調』を味わう事が出来ました。リピーターの皆さん、やっぱり『いじいじ』より『ワクワク』の方が気持ちがいいです。

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お墓の事での私の愚痴を聞いて下さい。

令和3年9月23日

私の母親代わりの長姉光子は私が高校2年4月7日に急逝しましたので既に50年は経過したのですが、いつものウォーキングとお経を唱えているときにふと頭に浮かんだ事をありのままに書きます。私の長姉光子さんは新婚半年でくもまっかの為に急逝して、私の人生も大きく変わったと思うのですが、私以上に変わったのは姉光子のその当時の旦那さんだったと思います。

私の父進は「嫁いだ以上は嫁いだ家の考えに従う。」と言う考え方をする常識人だったので、姉が急逝して早々にお墓を姉光子だけのを建立された時も何も言う事はなかったのです。尚且つ、早々に後添えを迎えられたのには私自身驚きと怒りを覚えたのですが父進は何のコメントもなかったです。姉が他界した当初はお墓の花もしっかり供えてあったのですが、新しい奥さんを迎えられてからは・・・。ところが不思議な事に姉が嫁いだ家のお母さんが亡くなられた日が姉の命日の日と同じだったので、それ以降は花はついでのように供えられるようになりました。

そして、3年程前のある日に姉の旦那さんだった方から次姉の春子さんに一通の手紙がきました。それを私が読んでの感想は「これで嫁いだ家のご先祖様の仲間入りが出来た。」と安心して、直ぐに姉光子が眠るお墓に行きました。そして私は『安心が怒りに変わりました。』何故ならば『先祖代々の墓』はわかりましたがその隣に設置されている墓誌を見た瞬間に怒りと共に涙が溢れてきました。と言うのは墓誌に刻まれているのが2つのグループに分かれていて、右半分には姉光子が嫁いだ先の祖父母と両親の名前がありくっきりと中央にラインが引いてあり、姉光子はそれ以外のその他の中に入っていたのです。早くに死んだ姉に罪がありますか。

姉光子は新婚半年で死んだのがいけなかったのですか。どいして、その他のグループにいれなければいけないのですか、いずれ誰もが死ぬのです。後添えの方と仲良く名前を連ねてはいけないのでしょうか。ちなみに私の父進も母秋江が他界して6年後に私にとって養母である英子と再婚し今は生母秋江、父進、養母英子が仲良く並んで墓誌に入っています。別扱いするくらいなら若山家の墓誌に入れたのに。お墓を新たにされる前に相談して欲しかった。でも、姉光子が嫁いだ家にはそれなりの事情があるのだからこちらの見解を言っても仕方がない。「まっ、いいか」若山家の仏間には父進、母秋江、姉光子、養母英子の4人の写真があがっていて、毎朝挨拶しているし。

姉光子には院号がついていないので私は父進は南無至心院釈善進、母秋江は南無温香院釈尼貞信、姉光子は南無『若山院』釈尼浄宣、養母英子は南無信願院釈尼宝英と大きな声で唱えています。リピーターの皆さんには何が言いたいのかわからないかも知れません。だったらごめんなさい。何故か秋分の日の今日だから愚痴を聞いて貰いました。

ちなみに本日16時過ぎにお墓にお参りしてお経を唱えて、施設に帰り明日本館1階の仮装大会の衣裳がばっちり着ることが出来たので今は明日に向けてワクワクしてます。リピーターの皆さん明日の「私ってキレイ」バージョンをご期待下さい。『ワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワク』

楽しいことも毎年になると形骸化するのか

楽しいことも毎年になると形骸化するのか

 

本日は『松茸バイキング』なので、昨日岐阜市場から直送して貰った松茸が施設に届き私自身はワクワク感でいっぱいになり思わず厨房に私自身が届けると言う舞い上がり方をしてしまいました。本日もいつものようにマシンに乗ってのお経を済ませて今は(午前6時12分)お風呂に浸かりながらコラムを書いていて「7時には一度松茸の顔を見に行こう」と考えています。6時40分に家を出て施設に着き事務所に行きカメラを持って厨房に直行しました。厨房では私が行く事が連絡してあり発泡スチロールの箱から松茸を入れ物に移し替えをしてくれていて、写真を撮りながら「今年の松茸は昨年より良いのがきているな」と感じて一安心しました。DSCF1533DSCF1534

厨房での撮影を終えてから玄関ホールまで行くと昨日よりも敬老の日の掲示物等が増えていたのでまたまた写真を撮りました。

 

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改めて事務所に戻りパソコンで『今日の優・悠・邑』の画面を開くと昨日実施した本館2階の『大相撲松茸場所』の写真が一杯入っていて、職員と入居者さんのワクワク感がビンビンと伝わってきて私自身はその時間、岐阜県老人福祉施設協議会正副会長委員長会議のリモート会議と重なり参加出来なかった事を今更ながら残念でしたが、昨日の大相撲の仕掛人である伊藤主任が出勤してきたタイミングで「デイサービスで改めて披露してくれると、デイサービスの職員も企画の仕方が理解して貰えるのではないかと思うので是非ともデイサービスでの出張をして貰えないか」と言うと、本日のバイキング前に準備してきてくれたので私も見させて貰ったのですが「デイサービスの職員の反応は」と確認していて正直ガッカリでした。と言うのは利用者さんが楽しんでいるのはよかったのですか、職員は棒立ちで利用者さんへの配慮をするのではなく、職員も単にお客さんになっていたからです。(まだまだ理解して貰う事がたくさんあると痛切に思った次第です。)

話は変わって、朝の写真撮りを終えて一旦家に帰り朝食を頂いて何と無く携帯を見ると全国老人福祉施設協議会の平石会長からの着信記録に気付き慌ててこちらから連絡すると「諸般の事情で本日の会議は10時30分からではなくて9時からなので、昨日からラインで連絡しても若山さんだけ返事がなかった。」との事で平謝りに謝って慌ててリモートの準備をしました。(ラインは昨日は正副会長さんから一杯入っていたのを私は一切スルーしていたのです。9時からリモートでの会議をしていると和(なごみ)の吉澤施設長から「本日のバイキングの見学に職員一人を連れてきたい。」とのメモ書きを貰ったので、会議中ではありましたが「試食をして貰うように厨房に手配するように」指示を出しました。リピーターの会議が終了して吉澤施設長と職員がきて、本館2階の相撲パフォーマンスを見て、試食会の準備を指示して、和(なごみ)の職員に『おもてなしの心』を理解して貰う事に専念してバイキングを会議室で本部施設側私を含めて3人を加えた5人で頂いたのですが松茸の御飯、お吸い物、茶碗蒸し、七輪で焼いた松茸でみんなが満足。吉澤施設長は施設に戻っても松茸を食べてないと報告するとあいからわずのおとぼけで満足感を表現してくれ、私は昼食を頂いて、ゆっくりすることなく和合での全体会へ。全体会では和合の職員に『ワクワク感』の話をしました。全体会を終えて再び本部施設へ行きましたがくたくたでしたが全てが終了したのは18時30分でしたが、リピーターの皆さん。私は充実した毎日に感謝です。

昨日の敬老の日の岐阜新聞に思うこと

令和3年9月21日

見出しには『65歳以上最多3640万人』『総務省推計   総人口の29.1%』『働く高齢者4人に1人』『70歳現役時代到来へ』と見出しが躍っていて、私は「凄い状況なんだな」と思いつつ「考えてみたら私も68歳だからこの中に入っているのだ」と自重気味に思った次第です。でも、私が言うのも変ですが、私が小さい頃に60歳を越えている方をみると、いかにも『高齢者』と言う感じだったように思いますが。だってその頃の60歳は間違い無しに現役を退き『ご隠居さん』と言う感じだったように思いますから。紙面を読んでいて驚かされるのは、総人口の割合が日本が29.1%で断トツ1位でちなみに2位はイタリアの23.6%で、3位のポルトガルが23.1%なのであります。私の施設でも70代の方も多く働いて頂いているし、いやいや80代の方も何人かみえるな。私は「元気で労働意欲がある方は適材適所で仕事をして頂くべきだ」と考えています。

先般関ヶ原町の会議に出席していて、岐阜県の数値を下回った出生数値が資料の中に出てきたので「下回っている理由は何なのか」と質問したところ「子どもを産む適齢期の女性が少ないからおのずと子どもが生まれない。」との答えが行政側から返ってきたのには変に納得はしましたが、どうして、もっと早くから将来を見通した計画に着手しなかったのかと痛切に思った次第です。魅力ある地域の構築には色んな手立てが必用だとは思うのですが『住みやすい町づくりの構築』には何をすべきかの討論がなされないまま今に至ったとしたら残念でなりません。

私は常に「批判はどこからでも出来る。」と言っているのですが敢えて言わせて貰うとすると、今須にはかつて旧中仙道の宿場町が有りました。かなり前のコラムで『江戸時代は美濃路13宿の中で2番目に人口が多かった』と書いたのですが今はその反映の状況を知る者もいないしみる影もない。1つの現象として、今須宿の頃の本陣は私が20代の頃までは確かにあったのですが、そこの持ち主が遠くに行かれて関ヶ原町の持ち物になり、本陣を解体して月に何回も使用しない『生活改善センター』なるものに立て替えられたのです。つまり今須が誇る江戸時代からの宝を関ヶ原町の手で壊されたのです。確かに岐阜県知事さんの肝いりで『関ヶ原古戦場記念館』なるとっても立派な建物を建てて頂きました。関ヶ原町は確かに合戦の町として有名ではありますが江戸時代にそんな立派な建物が建っていたわけではないし、観光地としてそのようなものを望んでいたとも思えない。町の再開発には『住みやすい町つくり』のコンセプトをどのように描くかだと思うのですが。今となっては・・・。リピーターの皆さんはどのようにお考えになられますか。

施設への私の思いを語ります

今までに施設の建設を4回させて頂きました。それぞれに色んな思いで造らせて頂きましたが、揺るぎない思いの一つに『祈りを形にする』があります。

初めて着手したときの本部施設本館の時には「日本の住居の中心には仏壇があるべきだ。しかも70人の方住まいの中心に置くのであれば誰もが素晴らしいと思って頂けるものにしたい。」と考えて長浜で仏壇店を経営している滋賀信行会の内藤会長(40年来のお付き合いです。)に相談して浜仏壇を基本に置いた三方開きで、仏壇は暗いイメージがあるので敢えて仏壇の発想にはないステンドグラスを天井と両サイドに入れて貰う事にしました。ステンドグラスを導入したのは長浜にはガラス細工で有名な黒壁館があったからです。

そしてその当時の設計士の計画では仏壇のスペースは一軒の幅だったのですが敢えて一軒半にして頂きました。ステンドグラスで天井には西国浄土に登って行く龍を両サイドには古式豊かな楽器を作製して貰い欄間には多くの仏様を刻んで貰う事にしました。内藤仏壇店にとっても初めての試みで二人で出来上がるのをワクワクしながら待っていたものです。

しかしながら、内藤会長も私も若かったんだと思います。と言うよりも世間知らずだったのだと思います。だってその当時の我が法人には支払い能力がないなかで夢の中の出来事のように突き進んで行ったのです。(もちろん何年間かかってですが払いましたよ。ただし、大名商売の内藤会長ですので利息はなしでしたが。いやいや太っ腹な内藤会長だから理解して頂けたのです。)

新館の建物は岐阜県で2番目に出来たユニットで4ユニットにそれぞれ静慈圓大僧正の書を入れさせて貰い、私たちが考えた独創的な仏像を彫り物の里の丹生で作って貰いました。

和合の施設には大垣にちなんで京都の新進気鋭の作家軍団に1週間かけて『水龍』(大垣は水の都なので)『養老の滝』(広い意味で大垣と考えて)『大垣城』を壁一面に描いて貰い、その正面に仏壇を設置して、仏壇の背に曼陀羅を掛けさせて頂きました。(地元の企業からの寄付です。)

そして、先般のコラムで紹介しました和(なごみ)には静大僧正の書をいっぱい設置してある次第です。

今、本部施設では敬老週間の真っ最中。その、敬老週間の最後を飾る企画として『千巻経』をさせて頂くのですが、毎年の企画とは言え千巻経を皆さんで唱えた後はいつもいつも『清々しい気』で施設が包まれるように思います。

本日は『薔薇風呂』の企画があるので、私は朝一で神戸で薔薇を栽培されている所へ薔薇を頂きに行きました。薔薇を車に運びながらワクワクしてきました。施設に着くと車の所まで水野相談員が運びにきてくれて水野相談員のワクワク感が伝わってきました。早速玄関ホールで薔薇を分けるために幹部職員が集まってきて、またまたワクワク。こんな時の会話はたまりません。薔薇でこれだけのワクワク感だから明日は明後日の為に松茸が10キロが15時頃にきますので、この時のワクワク感は想像を絶します。リピーターの皆さん。この気持ち理解して下さい。

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朝から背中の右側の所に違和感が

夜、寝ている時にひねったのか、朝から背中の右側の所に電気が走るように痛いのです。そして腰の所は異常な位にだるくて重いように感じるのです。

本日13時30分からのお参りの会場である先ずは本館1階へ行くといつも以上に参加される方が多くて「これは頑張らなければいけない。」と仏さんの前でお経を唱え出して木魚のバチを取ろうとするだけで背中に電気が走るように激痛が。だから大きな声でお経を唱えていて、大きな息継ぎをする度に背中に激痛が・・・。何とかお経を終えて既に早瀬主任がカラオケをセットしていてくれたので昨日同様『兄弟船』を歌いました。歌を歌っているときは不思議な位に痛みがなくて・・・。お経を唱えているときは余裕がなくて気が付かなかったのですが大きな手を合わせた絵が掲示してあり、昨日のコラムで指摘した事を早速形にしてくれたのかと思うと元気を貰ったように思いました。

その勢いのままに本館2階へ行き、同じようにお経を唱えたのですが、お経を唱えながら肩を上下に動かしながら頑張りました。2階でもカラオケが用意してあり2階の定番になっている山崎ていじの『お前しか愛せない』を歌い、いつものようにアンコールの声がかかったのでデンモクが動かなくなったので本体にある曲目の中に加山雄三の『お嫁においで』があったので歌わせて貰う事にしたのですが、いわゆる「本邦初公開」だったのですが自分では合格点でした。

歌を終えてから入居者に「明日は薔薇風呂に入って貰う為に神戸まで朝早く行って薔薇の花を頑張って切ってきます。22日はバイキングが松茸づくしなので21日は松茸がある山に行って松茸を10キロ採ってきます。」と大真面目に話をしました。すると入居者さんから「理事長さん気を付けてね」と声がかかったのは少し罰が悪かったですが、ここはご愛嬌と言う事で。これで16日から4日連続のお参りは終了です。ここは私へのご褒美と明日からの頑張りの為に背中が痛いのでマッサージの予約をすると16時からなら予約が出来ると言う事で16時から2時間しっかりと体をほぐして貰いました。まだ背中は痛いのですが多分明日にはバリバリ元気になると信じて今は(19時24分)のんびりと(とは言えコラムを打っているのですが)湯船に浸かっています。

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さてさて明日からの薔薇風呂や松茸づくしバイキングや千巻経とワクワク感を入居者、利用者と楽しみたいと思います。リピーターの皆さんも報告を楽しみにしていて下さい。

入居者さんとのお参りが続きます

令和3年9月18日

一昨日(16日」は優・悠・邑    和合で、昨日(17日)は優・悠・邑    和(なごみ)で本日(18日)は優・悠・邑本部施設のデイサービス及び新館2階と1階、明日(19日)は優・悠・邑 本部施設の本館1階と2階のお参りが実施されます。(既に実施したのもありますが)

16日の和合のお参りは完全リモートで、私一人がスマホのカメラに向かって少しだけ入居者さん利用者さんにご挨拶をしてから仏壇に向かってお経を唱えました。マイクを通じて私の声が届いているのかがわからないのでしっかりと大きな声を出して唱えました。和(なごみ)で地元の企業さんからご寄付を頂くセレモニーがあったので背広を着ていて、大きな声で唱えていたらめっちゃ暑くなり背中を汗が流れるのがわかるような状態になったので、途中でお経を唱えながら上着を脱いで続けました。入居者さん利用者さんがみえないなかだったので何と無く違和感を感じました。なるべく速い時期にコロナが終息して、皆さんと一緒にお経を唱えたいと強く思いました。

昨日の和(なごみ)でのお参りは、8月23日に地蔵盆で入居者さんとのお参りはしたものの仏間で入居者の皆さんとのお参りは初めての試みだったのですが、朝のお参りは毎日されているとの事で、一緒にお経を唱えていても全く違和感がなくて正直お経を唱えていて私自身が心地良い空間に包まれました。これは、和(なごみ)の仏間が高野山の静慈圓大僧正の書がたくさんかけてあり、しかも仏壇は静大僧正の祈りをして頂いているので私自身は『不思議なオーラ』を感じていたからかも知れません。お経を終えた後は吉澤施設長が準備してくれたのでカラオケで歌を披露する事になり「ここは自信を持って歌える曲にしよう。」と言う事で、鳥羽一郎さんの『兄弟船』と北島三郎さんの『祭り』を歌わせて頂きました。皆さんがしっかりと手拍子をして下さったので正直気持ちよく歌えました。

本日は13時30分からデイサービス、新館2階、新館1階の3ヶ所でのお参りでしたが、正直な気持ちで語ると本日から敬老週間としてのお参りの企画だったので、何か特別な仕掛けがあるかとデイサービスのお参りの場所である本館の仏間に行った時に正直落胆しました。と言うのは「いつもと何も変わらないお参りの対応だったからです。この事の責任はデイサービスの利用者さんには何にも関係ない事なので私は『薔薇風呂』と『松茸バイキング』の告知をさせて頂きました。デイサービスの職員はワクワク感を持って敬老週間を話題にしていないのかと思うと何と無くトーンが下がってしまうので、自らを鼓舞するために話をしました。

その後トーンが上がらない中で新館2階に移動するとデイサービスとは違って活気があり、皆さんとのお経の後は山崎ていじの『お前しか愛せない』を歌わせて貰い、その後は松茸の話で盛り上がりました。気分を良くして新館1階へ降りて行くとこちらも活気があり、いつもの事ながら入居者さんの中で写真を撮られる方が一生懸命にこちらにカメラを向けてくだれるので結構意識をしながら歌は砂田おさむさんの『人生夢の途中駅』を歌わせて頂きました。活気があると私自身もテンションが上がります。そうすると、改めて私は皆さんによって生かされていると感じるのですが、リピーターの皆さんは私の気持ちを理解して頂けますか。理解して頂けたら最高です。

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責任を取らない体質(体制)なのは何故

令和3年9月17日

日本の医薬品研究に対するレベルは決して低いものではないと思うのですが、このコロナ禍での状況をみると「外国が新しい治験薬を承認して使い始めた。」と言っては「だったら日本でも承認するか」と言う状況が続いているように思えて仕方がないのですがリピーターの皆さんはどのように思われますか。確かに『完璧な品物を届ける』のが良いに決まってます。しかしながら、今回のコロナ対策は待ったなしの状況があると思うのです。私はいつも職員には「薬や点滴は人間にとって異物を入れるわけだから考え方によっては毒だとも言える。だから必用最低限にしたい。」と言っています。

だけれども今の現状はコロナに効く治療薬を欲しています。もちろん、異物を投入するわけだからしっかりとした治験は必用だけれども「早く世に出して欲しい」と言うのが本心です。しかしながら、テレビの報道を見る限り日本では、なかなか承認されないのが現実のように思います。

私は自然の摂理として、何らかの障害を持って生まれるのは、おおよそ1%と言われています。野生の動物の場合は障害があると言うことはイコール淘汰される運命にあるわけです。しかしながら、人間は障害を持った方との共生が出来る社会が望ましいと言う事です。私は極端な考え方かも知れませんが仮に治療薬が出来て10万人に1人の割合で副作用が出るからと言って承認されないと言うのはあまりに不合理な考え方だと考えています。

10万人の内9万9千9百9十9人が助かり、1人が厳しい状況になるとしたら、その一人の方を全力でサポートすれば良いのではないかと考えています。どうして日本ではこのような対応が出来ないのかと言うと助かった報道はあまりされなくて、駄目だった事ばかりがクローズアップされるマスコミの対応にあるのではないかと私は思っています。

この事はリピーターの皆さんの中でも批判的な考え方をお持ちの方もあると思いますが早くコロナが終息する為にはそのような決断も必用だと考えている次第です。リピーターの皆さん。私のコラムのコーナーの中で自由活発な意見を交わせたらと考えていますので、是非とも参加して頂けると嬉しいです。

3度も嬉しい事がありました

平成26年4月2日に優・悠・邑和合の事業開始をして8年目の月日が流れて行く中で、私自身和合には幹部会と全体会の月2回は施設に行ってはいても、杉和会の実質的創始者である私の理念や思いがどこまで浸透しているのか、あるいは理解されているのかが正直不安でありました。しかしながらその不安を払拭するにあまりある1通のメールをかつての入居者の娘さんから頂きました。

そのメールは私が毎日書いているコラムの中のご意見コーナーの中にありました。8月にメールを頂いていたのですがかなかな返事が書けず1ヶ月近く経ってから返信メールで送りました。

返信メールを送って何日もしないうちに折り返しのメールを頂きそのメールの中に「理事長さんはお忙しい方なので返事が遅くなった等と謝らないで下さい。」の文面に私は「相手に対する配慮ができる素晴らしい方で余程和合での対応を喜んでみえたんだな。」と思うとまたまた嬉しくなり、今度はメールを出すのではなくてパソコン文字ではありますが、手紙を書き私が岐阜新聞で掲載して頂いた『素描』と静慈圓大僧正の本やパンフレット等を入れて送りました。

すると昨日家に帰るとその方からの封書が届いていたのです。中味を確認すれと手紙と共に手作りしたと思われる布マスクが何と15枚も入っていて柄もカラフルで「愛情いっぱいの素敵なものだ」と思いつつ手紙を読んでいくと、私が送らせて頂いたコラムの本はお母さんに見せたら「面白いので先に読みたい。との事で渡しました。」と書いてあり、同じく同封したパンフレットについては「クリスマスの写真に父が写っていて、とても嬉しかったし、とても笑顔の顔で感謝です。」とも書いてありました。その後「お礼と言う程ではありませんが84歳の母が作った布マスクを少しだけ送ります。父が入所中は優・悠・邑    和合のスタッフの人達にも渡しました。(中略)柄など気に入る物があるかわかりませんが、使って頂けたら幸いです。」と書いてありまたまたビックリです。だって、84歳のお母さんの手作りとは。

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私は本日午後から優・悠・邑    和合で幹部会があったので、頂いた手紙の全文を読ませて頂くと共に私自身、理事長としてとても嬉しく和合の施設を造ったのを誇りに思うとも話をしました。なお、私は15枚の内から『龍』と『家紋』の絵柄のマスクを使わせて頂く事にしました。このような事があるとますます頑張らなければいけないと思う私です。リピーターの皆さん。こんな私をどう思われますか。

奇跡への感謝(それにしてもいっぱいあります。いやいや、進行形です。)

何度もコラムで書いていることですが、今朝4時に目覚めて、「少し早すぎるな」と思い寝床の中で「さてさて本日の予定は。」と確認した後「本日のコラムで何を書こうか」と考えていると走馬灯のように今までの私の過激な出来事が浮かんできて私は思わず改めて「全てに感謝だな」と思ったので感謝を込めて改めて書く事にします。

先ずは生後半年が経過した時に心臓が5分程度停まり、それ以降の私は病気と背中合わせの毎日だったとの事ですが(我が家の縁の下には酸素ボンベが置いてあった。)それでも今の私が存在するのは我が家から200メートルも離れてない所に診療所があり本多先生と言う女医さんが常駐されていたので何かあると駆け付けて下さって適切な対応ををして下さった事です。ただし、ここにも伏線があります。と言うのは私の母親秋江さんは今須の生え抜きのしかも私にとっての祖父である春吉じい様は今須では珍しいその当時の相場師でのうるさい存在で、母親秋江は私が生きる為なら何でもするぞと言う方がだったので、本多先生からも特に大切にして頂けたからこそのいまなのであります。色んな偶然が私を生かして貰えたのだと思います。

何とか小学校に入学して1年から3年まで担任の先生だった塚原先生は『塚原ぼくでん』と揶揄されるくらいに厳しい先生だったのですが私は何故か塚原先生に可愛がられていて、その当時は日直と言うのがあり、私は母親秋江さんに食べきれない程の食べるものを作って貰って学校にいて、大した事をするわけでは無いのに塚原先生の側でニコニコとしていたとの事でした。私にとってアマアマの塚原先生がいたから勉強はできなかったと思うのですが、小学校3年間を過ごせたのだと思います。塚原先生には、私が今須の地に本部施設を建てて間なしの頃、塚原先生の住まいがあった近江長岡に講演のお招きがあり行かせて頂いた時に杖をついてわざわざ講演を聞きにきて下さり「ガリガリで青白い顔だったひろっさんが立派になって嬉しかったよ」と言って下さった時には「頑張ってきて良かった」と素直に思ったものです。体が弱かった私を姉光子さんと春子さんがカバーしてくれたからかそ曲がりなりにも学校に行けたんだと思います。

高校2年で荒んだ気持ちを押さえきれずにいたときも、私の不始末を父親進さんがしてくれたから高校を中退せずに済んだのだし、大学時代に横着をして、教授会で退学寸前のところを助けて下さった学長より実権を持っていた旧文部官僚の先生の存在もあったし。教員を辞めて方向性が定まっていない私を児童養護施設の指導員として紹介して下さったその当時中学校の校長先生の存在もあるし、大学時代にあと一時間遅かったら腸閉塞で死んでいたかも知れない事もあったし。とにかく、「あのとき」と思える場面がいっぱいあります。やっぱり、今生きている事に感謝です。リピーターの皆さんも私が生きているのは奇跡だと思いませんか。

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