人間の体は精密機械よりも素晴らしい

昨夜は仏壇を綺麗にさせて貰った関係で遅くの夕食を終えていつもより遅かったためか、「眠いのに眠れない。」状態で寝ついたのは22時30分過ぎだったと思います。そして、「アラームが鳴った」と思いいつものように爽やかに目覚めてベット上での体操をしようとするのですが「眠くて出来ない。体調が悪いのか」と思いながらビデオデッキの時間を見て納得しました。

ビデオデッキが示していた時間は23時40分だったのです。そこで私は安心をして再び眠りにつき、今朝も4時50分のアラームで爽やかに起きて仏壇のお花の水換えと若宮八幡大神のお水を換えてウォーキングマシンに乗ってのお経を唱えたわけなのですが、そこで思ったのは何故1時間もしないのに朝だと思ったのかはわかりませんが、1時間しか経過してないことを体は精密機械のように覚えているのだと言う事です。眠いのに「必ず起きるんだ。」と言う意識は絶対に働いたと思うのです。しかしながら体はまだ1時間しか寝ていないことを知っていて動かない対応しかしない。つまり、『絶対にやり通すのだ。』との強い意志と(そんなに大袈裟な事ではないのですが)体はしっかりと知っていると言う事に自分ながら感心しました。

さて、本日は55年前の今日、私を生んでくれた母秋江さんが他界した日なのであります。昨日はお寺さんの車が家の前に停めれるように雪をどけ、仏壇を納得がいくまで綺麗にしたのですが、昨日程に綺麗にしたのは平成4年に仏壇を購入して以来初めてのように思います。変な話ですが55年前に他界した母秋江さんが生きていて、昨日の様子を見ていたらきっと、めちゃめちゃ褒めてくれただろうなとわけのわからん事を考えながら、つくづく思ったのかは「親孝行、したいときには親はいず。」とは言え、私の場合は55年も前なんですが・・・。

母秋江が他界したのは私が中1の時。他界する2週間前に母秋江の遺言のように話してくれた「宏は長男だから、お父ちゃんを支えなあかんよ」については、父進が他界した時に私は38歳でそれまで何も支えになることは出来なかったけで、喪主として、葬儀は立派に出来たところから父進さんと母秋江さんへの恩返しが始まったように思います。これは正に、『親孝行、したいときには親はいず』の最たるものだと思います。しかしながら、今の私は父進と母秋江に出来なかった恩返しを母秋江が二つ目に言った遺言でしているように考えています。その言葉とはこのコラムで何度も言っている『蒔かぬ種は生えないのでいっぱい種を蒔きなさい。』の言葉の実践です。

リピーターの皆さん。私は自分の事では何も出来ない言えないのに、人の為になることだと、しっかり意見を言って行動に移す事が出来るのです。しかし、この生き方を貫いていくと結局自分に返ってくると最近理解しました。つまり、人の為に汗をかくのは『正しいことをする尺度になると言う事に気が付いたからです。こんな生き方を導いてくれた事を母秋江の命日に理解できたのは幸せだと思っています。何かとりとめのない雑感になりましたが賢明なリピーターの皆さんなら理解して頂けると信じています。

疲れているのかな。それとも、『ダレ』

昨夜はめっちゃ早くから眠くて、21時には爆睡の態勢になりグッスリ寝たはずなのにセットをした4時50分のアラームに直ぐには反応が出来ず夢心地でウダウダしていたのか、しっかり覚醒をして時間を確認すると5時を回っていたので急ぎベット内体操をして仏壇と若宮八幡大神様の水換えをしてからウォーキングマシンでの歩きとお経を唱えて、しっかり汗をかいてお風呂に入りようやく『シャキッ』として今は(午前7時00分)朝食までの時間を利用してガラケーでコラムを打ちながら思っていることは、昨日までの3日間は鹿児島に全国老人福祉施設協議会研修会議鹿児島大会で残念ながら無観客での開催になったのですが、副会長としては地元鹿児島の役員の方に敬意を表する為に感染症対策を万全にして、尚且つ飛行機は新幹線よりリスクが高いのでは無いかと考えて(移動が多い)米原から新大阪に『ひかり』に乗り新大阪駅で鹿児島直行の『さくら』で行った次第です。(既にこのコラムで書きましたが)昨日のコラムの写真で見て頂いたように、開会式典ではマスクをしたまま無観客の客席に向かって一言も発する事なく深々と頭を下げただけの役割だったのですが、コロナ対策で1年延期になりしかも今回も無観客での開催とご苦労をお掛けしましたので副会長として出掛けました。

3日間での私の役割は地元鹿児島の役員の方や本部役員の方々にご挨拶するのと先程書いたように開会式で黙礼をしただけで、研修を殆んど入られていない観客席で講演を聞いたりするのみで、気を配る事はありましたが体を使うような事は無くてしかも、昨日は鹿児島中央駅からは新大阪駅まで水分(牛乳・ポカリ・水)を飲む時以外はマスクをしたまま座りっぱなし。本日は関ヶ原診療所に健康チェックの予約をしていたのですが、その前にPCR検査をして、陰性でないと色んな意味で迷惑をかけるので関ヶ原診療所では出来ないと言われたので関ヶ原クリニックに行きました。電話をしてあったので直ぐに対応してくださり1時間後に『陰性』のお墨付きを頂きました。

明日は実母秋江が私が13歳の時に他界した命日に当たるので、施設には「何かあれば行きますが基本的には家にいます。」との断りを入れて、先ずは家の前の雪を綺麗に退けました。退けた理由は明日お参りに来て下さるお寺のご住職が楽に車を置けるようにとの配慮からでしたが、全部きれいにどけたので昼食も後回しで14時30分までかかり、汗びっしょりになりお風呂に入ってからの昼食も15時に頂きました。昼食後は流石に疲れて17時30分まで横になって寝てしまいました。明日のお参りの為に仏壇を綺麗にすることが出来ていないと言うことを思いだしそれから仏壇を綺麗にすることにしました。始めてみると意外に汚れていることがわかり、徹底的に取り掛かり終了したのは20時でした。仏壇を綺麗にして清々しい気持ちでお風呂に入り夕食を頂き、コラムが書けていないのに気が付き今(午後9時37分)何とか書けました。リピーターの皆さん母秋江の55年前に他界した事を思いつつ眠る事にします。

昨日の報告から

令和4年1月14日

会長を含めて5人の役員が揃ったので、2台のタクシーに分乗して会場に向かいました。会場入りをしてからは地元鹿児島県の役員の方との名刺交換をしたり、リハーサルの様子を見たり、昼食のお弁当を頂いて(このお弁当のおかずの種類が多くて最初の内は「食べても食べても減らないなあ」等と言いながら食べて、結局私は全部きれいに頂きました。)いよいよ開会式の時間になり、正副会長、大会委員長、鹿児島県会長、専務理事が主催者側に白いリボンを胸に付けて着席して、主催者側の挨拶、来賓のご挨拶(厚労省老健局長、鹿児島県知事、鹿児島市長)で、私は名前を紹介して頂いてマスクをしたまま無観客(地元鹿児島県の係員の方はみえましたが)の客席に向かって黙礼をしたのみの役割でしたが、させて頂きました。

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記念講演のスケジュールまで終了して、最後は次回開催県挨拶を栃木県会長で全国老人福祉施設協議会大山副会長がされて全ての日程が終了して、鹿児島県の役員さんや全国の役員さんにご挨拶をして、城山ホテルに戻り、全国老人福祉施設協議会大会フォーラム菅原委員長を含めて3人で夕食をとりました。(ホテル側で個室を手配して頂きました。)

正直菅原委員長とは親しくお話をする機会がなかったのですが、菅原委員長も不思議な経歴の持ち主でしたが、お話をさせて頂くなかで、①『利き酒』が出来る酒豪である事、②私へのイメージは『怖い奴』だったとの事でしたが・・・。一生懸命で筋を通す男だと認めて頂き、楽しくお酒も頂きました。(お互いにビール一杯と熱燗に2合と冷酒2合を頂きました。)

今は九州新幹線の列車の中です。鹿児島中央駅(始発駅のさくら)を10時3分に乗り、終点の新大阪駅には14時28分に着き、14時54分にこだまに乗り換えて米原には15時29分に着く予定です。コロナ感染症対策は完璧にしたつもりですが、目に見えないウイルスの事ですので不安が全く無いと言ったら嘘になりますが、せっかく鹿児島に来たのに天文館にも行かず鹿児島中央駅から城山ホテルと研修会場以外はどこも行かないでリスクヘッジをしたのだから、後は祈るだけです。

つくづく思うのは山陽新幹線の距離は半端なく長いと言う事です。今窓越しに外を見るとめっちゃ綺麗な青空なのでガラケーで写真を撮りました。わざわざ写真を撮った理由は本日宿直だった北島部長から午前4時過ぎにメールで、雪が20センチほど積り除雪が開始されたとの報告を受けたからです。つまり、『日本は広い』と言う事が言いたかったからです。(多分私の事ですから関ヶ原が近づいたら雪景色を撮る事になるのだと思います。)

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「おいおい、停車待ちとはどういうわけ」今(午後119)福山駅で多分『のぞみ』に抜かれた。とにかく、あと1時間位で新大阪駅に着くから「忍耐強く」です。『もうすぐ神戸』と言ってます。今は午後213分。長かった時間もカウントダウンです。ようやく新大阪駅に着きました。新幹線を降りてホームに出た瞬間「寒い」と感じました。何故かはわかりませんが『さくら』が着いた24番ホームから移動することなく、『こだま』に乗る事になります。ただし、14時54分発なので、寒い中で30分位待つことになります。最後の『忍』です。

時間があるのでよくよく考えてみるに鹿児島中央から新大阪駅までの長旅をしたのは私だけだったと理解しました。でも、これは一重に『コロナ感染症対策』から編み出した結果なのです。リピーターの皆さん。その点をご理解下さい。それからもう1つよくよく考えてみたのは本日は朝から固形物は食べていないのです。牛乳とR1と水のみ。これでガリガリになるかな。取り敢えず無事に帰って来ましたので明日からも宜しくお願い致します。

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鹿児島中央駅を降りて以降から朝ホテルを出るまで

令和4年1月13日

本日はホテルを出たらどんな日程になるか分からないのでホテルを出るまでの報告をします。鹿児島中央駅の改札を出て、駅員さんに「城山ホテルへ行くのに便利な出口はどちらですか」と聞いて(親切に教えて頂きました。)教えて頂いた方に進み途中に沢山のお店を通り目的の出口があり、出た所にタクシー乗り場があり、待つことなく乗り(荷物はトランクに入れて頂きました。)タクシーの運転手に城山ホテルを告げて連れて行って貰いました。決して高い山ではありませんが、それほど広くないぐねぐね道を走って貰い城山ホテルに着き、トランクの荷物はホテルの係りの方が持って下さり、チェックインを済ませました。「お部屋までご案内しましょうか」と言われて「宜しくお願い致します。」と荷物も持って頂きながら案内して貰いました。(余りにも館内が広くて正直、「案内をして貰って良かった。」と思いました。

部屋に入ってからラインで情報交換をして、結局は夕食は一人で食べる事になり、フロントにお寿司屋の予約を依頼すると「大丈夫です。」との返事を貰い4階のフロアまで降りていくと丁度ホテルの方が見えたので「お寿司屋さんに行きたいのですが」と言うと、「ご予約をされてみえますか」と言われたので「先程フロントからしていただきました。」と言うと「ご案内します。」と中まで案内をして下さり、中にも案内の方がみえて、カウンターに案内されて、アクリル板も完璧に設置されており、「流石に一流ホテルに入っているだけの事はあるな。」と感心しました。

夕食用のセット料理を注文すると同時にビールも頼みました。ビールは一機に飲んでしまい冷酒を2合頂く事にしました。美味しく頂いて片付けが始まったのでお店の方に聞くと感染症対策の一貫で21時にお店は終了との事でした。コラムも書けていたので部屋に帰って寝ることにしました。(早く寝つきました)早く寝たしいつも4時50分のアラームで起きる習慣が出来ているので4時には目を覚まし、しかしながらその段階で起きるのは抵抗がありベットからは6時に起きて温泉が出る大浴場行きました。裸になりマスクをしたまま大きなお風呂に入ろうとして、「皆さん。マスクをしていない。」と言う事でマスクをとり再び大きなお風呂に入り5分も入っているとどんどん人の数が増えてきたので、慌ててお風呂から出て、取り敢えず部屋で着替えをして朝食会場に行きました。

会場の係員の案内で席が決まり、バイキングなので和食コーナーに行くとビニール手袋を手を伸ばすと上手にはめれる機械があり「流石に一流のホテルだ」とここでも感心してしまいました。確かにホテルで仮にクラスターが発生したら経営危機になるのは目に見えているので当然と言えば当然の態勢なのですが、私も高齢者施設を経営しているものとして学ぶべきものが多々ありました。リピーターの皆さん。表題の通りで会長がフロント前で9時30分に待ち合わせなので、本日のコラムはここまでと言う事でご容赦下さい。

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本日から鹿児島です

令和4年1月12日

オミクロン株が異常に増えている今、「鹿児島まで行くのは駄目ではないか』との考え方が殆んどだと言う事は充分に理解した上で全国老人福祉施設協議会の副会長として、大会運営に尽力された鹿児島県の役員の方々に敬意を表する為に感染症対策をしっかりとして行くことにして、今は(午後1時15分)で今まさに新幹線が動き出しました。窓の外は雪が降っています。だから本日は革靴ではなくて短シューズを履いてます。新大阪駅で『さくら』に乗り換えて鹿児島中央駅には18時過ぎには着く予定です。

久しぶりの出張で一人ですので緊張気味ですが3日間頑張ります。先ずは、新大阪駅での乗り換えをしっかり頑張ります。荷物が何だかんだで多くなりスーツケースの他に背中にリュックを背負い土産の紙袋もあり取り敢えず大変ですが頑張ります。なお、感染症対策の為に新幹線の中での食事は無しにしたので、施設の昼食を11時30分に食べました。夕食はホテル内で食べる予定ですいます。

新大阪駅での移動は成功しました。(当たり前か・・・。)今は『さくら』の車内です。おおよそ4時間で鹿児島中央駅まで連れて行ってくれるので後は、駅を出たらタクシーで城山ホテルまで行き、チェックインをしてから役員にラインで連絡をして、自分の予定を決めたいと考えています。ただ、新大阪駅の20番ホームでさくらの清掃が済むのを待っていた時に笑えない事を考えてしまいました。それは、私が新大阪駅で乗ろうとした列車は折り返し運転をする列車だったのです。

もしも私が今乗っている列車の中であまりにも退屈をして『爆睡』してしまい、鹿児島中央での折り返しにも気付かなくて目が覚めて気が付いた時には新大阪駅で停車していて、車掌さんに「お客様、列車が車庫に入りますので降りて下さい。」で、時間を確認したら23時を回っていたりして・・・。「そんな事はありえへ~~ん」一人での列車旅が長いとこんなバカな事でも考えていないとね。いやいや、一杯メールで資料が来ていたのをプリントアウトしておいたのをしっかり読む時間にします。先程新山口を出て、いよいよ九州に入ります。

そして、改めて思ったのは「山陽新幹線はトンネルが多いな」と言う事です。トンネルが多いと言う事は工事も難航した事と思います。そして、トンネルの中では大きな音になるのもへき易だとも思いました。今は16時31分なので後1時間30分で鹿児島中央駅になるので、改めて九州の距離はそれほどないのだと思った次第です。だって、北に位置する博多から南に位置する鹿児島中央までが1時間30分と言う事なので。そのゆうな事を考えていた時に、私が事業を始めるに際して、東京と大坂が同じ位の感覚でいたのが間違えだった事に気付いたのを思い出しました。リピーターの皆さん。一見は百聞に如かずを本日も教えて頂いた事に感謝です。本日は城山ホテル鹿児島に着いてからどんな展開になるかわからないので今博多で停まっていますが、本日のコラムとします。

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予定通りに『左遷』の続きを書きます。

令和4年1月11日

最初に紹介してあったのは、現在、ベストセラーになっている『左遷社長の逆襲』を上梓したキャノン電子会長・酒巻久氏が御手洗社長から「秩父へ行ってくれないか」と通告された1998年間のことで、当時本社の常務から赤字経営だった子会社の社長になり、「キャノンでのキャリアは終わったな」と思われたとの事。しかし、酒巻さんの凄いところは「でも、私は心を入れ換えるのが早い。新天地のキャノン電子を、自分の理想的な会社に作り替えたいと思いました。もし子会社に行ってまでやりたくない事をやらされるなら会社を辞めてもいい。」との考え方は『背水の陣』で望まれたと簡単に私は想像出来ました。

とは言え、『思い』だけで簡単に変わるのなら、だれもが成功するはずですが、そんなに簡単にはいかないのが世の常だと思います。ただし、社長が提案して実践していく中で脱落して行くものが多く出る中で数が減り、最後には数えるほどになってしまったが、その数少なくなったメンバーこそ、中心的社員に育っていった。と言う話には私自身の経験からも規模こそ違えども共感出来る事でした。つまり、酒巻氏の熱意が社内に浸透し、お荷物子会社だった会社の業績は目覚ましく改善されたのは、自分の信念を貫き通してきた結果だとも思います。私は厳しい状況になった時にもした下腹に力を入れて頑張ってきた事を思い出しました。今も盲養護老人ホームの入居者はなかなか入らない状況ですが、私を信じて頑張らなければいけないと考えています。

二つ目の元東レインターナショナル社長の田中健一氏は上司の意に逆らい文字通りの左遷にあった時の述懐として「まぁ驚くほど仕事がありませんでしたね。当時の私は完全にふて腐れていました。腐った態度をしていると、腐った人間が寄ってくるのです。夕方になると、仕事がない人間が集まって安い飲み屋に行く。そこではろくな話もなく、愚痴と上司への文句、会社への不満ばかりです。」そんな生活だったので、次の左遷が用意された時には「ここで死ね」との宣告に近かったとの事。赴任当初は、部下もなければ仕事もなく、途方にくれるばかり。ですが最初の左遷で腐ってはいけないと思って必死でもがく事によって理解者が出てきてその後は順調な展開になったとの述懐を知り、改めて私は『アクションなくしては良い展開は無し』と理解した次第です。

元キリンビール副社長の田村潤氏が左遷されたのは1995年。上司の指示を拒否して業績の悪い高知に飛ばされ、その当時のアサヒビールの「スーパードライ」の一人勝ちだった時にキリンビールのラガーを以前の味に変える事を提案して、高知での業績が認められて、左遷を逆手にとる事が出来た。この記事の最後には『左遷から蘇った人たちの共通点は、逆境の中でも自分を信じた事だ。禍福はあざなえる縄のごとし、という。会社人生のドラマは彼らの人格に厚みを与えている。』と結んでいます。

『厚み』などとは考えた事はありませんが、私も今の厳しさを「あのときは厳しかったけど、そのお陰で今の私があり社会福祉法人杉和会がある。』と言えるように頑張りますのでリピーターの皆さん、これからも危なっかしい私ですが宜しくお願い致します。

 

久しぶりに『週刊現代』の記事からです

令和4年1月10日

『私はこうして「左遷」から甦った』のタイトルが気になりました。書き出しの本文をそのまま書きます。《紀元前206年、項羽は、中国最初の統一王朝・秦を滅ぼす。彼は、共に戦った劉邦への恩賞に、要所である関中の地を約束していた。ところが、前言を翻した項羽は関中の西にある辺境の巴蜀を劉邦に与えると言い、地図の左側を指した。劉邦を左に遷すーーー。この逸話が「左遷」の由来であるとも言われている。左遷された場合、そのまま窓際で会社人生を終えるか、あるいは新天地を求めて転職する会社員がほとんどだ。だが、僻地に飛ばされた劉邦がその後項羽を破って漢帝国を打ち立てたように、左遷から蘇り、輝きを取り戻した人もいる。》の書き出しに私は「結果的に上手くいった事例が掲載されているのだろうけど、その結果を手に入れるには想像も出来ないくらいの苦労と努力と応援してくれる方にも恵まれたのだろう。」と思いました。そのように考えれるのは私自身に色々な展開があって今があるからだと思っています。私は児童養護施設の指導員になった時から何事にも一生懸命に頑張る事が出来るようになりました。それは自分自身の事ではなくて子ども達の為に何が出来るかを考える生き方に喜びを見出だせたからだと思います。ただし、相手の為にしていると思っていた事が全て自分の中に良い意味で跳ね返って来たように思います。児童養護施設での展開が出来たのは、高校2年4月7日に姉が急逝し(何度も書いてすみませんが)クチャクチャな生活の中、四国八十八ヶ所巡礼歩き団参に出会い、「人の役に立ちたい」との思いから残りの高校生活は生徒会活動に全力を尽くし大学生活では、「社会の矛盾を正したい」との思いから色んな事をさせて頂きました。(今考えたら随分生意気な事だったと思いますが、その時は真剣だったとも思います。)ただし、私が5年間もの間自分の我儘な生き方に対する支援を惜しみ無くしてくれた父進さんの存在無くしては出来なかった事だったとウォーキングマシンに乗りながら思った次第です。そして、父進さんの力も借りて教師になった時は「子ども達の目線でうごめきたい」との思いで頑張ったつもりでしたが、教育現場はそんな甘いものではなかったのにある程度それが許されたのは父進さんの存在があったからだと言うことに気が付き教師を辞めました。辞めたから何をしたいと言う考えもなく辞めたのはやはり私は『田舎のボンボン』だから出来たことだったと思っています。その頃に考えたのは「父親の萱から自立・自律するには違う世界で頑張らなければいけない。」との思いもあり児童福祉の道にご縁を頂き児童養護施設の指導員になったのです。正直、前倒しで『公休』を頂いている私は思いっきり13年間頑張ったので、それなりに評価を頂いていたとは思うのですが、「自分の思いで頑張れる世界を築きたい。」との思いで38歳の時に辞めたのです。あのままの道の選択をしていてもそれなりの生き方はあったと思うのですが、敢えて未開の地に踏み込んだのです。(ようやくテーマに辿り着きました。)つまり、自ら『左遷』の道を選んだと言う事になりますでしょうか。リピーターの皆さん。理解して頂けましたか。殆んど脇道ばかりの話でしたので、明日は週刊現代の記事にあった事に対してコメントする形で書きたいと思っています。ただし、予定は未定で決定ではありませんのでご留意ください。

リスクヘッジとしてのPCR検査の結果は『検出されず』でした

令和4年1月9日

昨日新生病院にご無理を言って午前9時の予約をさせて頂いてPCR検査をして頂いた事は昨日のコラムで書かせて頂きましたが、今朝施設に行き事務所の私の机の上にPCR検査の結果報告がファックスで早々にきていました。一瞬「どきっ」。だって、検査とか試験とか言うものは結果を見て良かった時には「ほっ」とするものでしょ。「熱も無いし体もだるく無いし、食欲もあるので(ありすぎかもしれませんが)大丈夫だと思う。」とは言え、結果の欄に大きく『検出されず』と書いてあるのを見て正直安心しました。勿論『検出されず』ではありましたが、これからも感染症対策として『手洗』『うがい』『手指消毒』『マスク』『検温』『三密は避ける』についてはしっかりと守って行きたいと思っています。鹿児島での3日間は特に注意をした対応としてマスクは2重にして私が感染症対策の上で信頼しているシガドライさんの噴霧用の消毒液を持参していつも以上に喉への噴霧と手指の消毒を実施していきたいと考えています。

コロナ感染症の話題が取り上げられて2年が経過しました。ここからは、コロナ感染症に対する私のその時々の心情を正直に書いてみたいと思います。2020年の2月の頃の私は「何をそんなに騒いでいるのかな」くらいにしか思っていませんでした。その年の3月に当法人の評議員会の席で評議員の一人の方が「私は今元気に過ごしていますが、ひょっとしたらコロナに感染していないと断言することは出来ないですよね。」と言われた時には正直「何の話や」と思っていたくらいですから。と言う事で3月26日には職員の異動に伴う歓送迎会を行いカラオケが出来るようなお店にも行ったのです。ところがその日に岐阜市内の接客を伴うクラブでクラスターが発生したとのニュースが流れてあの時は冷や汗ものでした。と言う事でその頃からしっかりと感染症対策を行う様になりました。

今改めてインターネット情報を見て驚いた事があります。それは、2020年5月に第1波、9月に第2波、2021年1月に第3波、5月に第4波、9月に第5波が来ているのですが、その波の大きさは大きくなっていて第1波の波は波と言うには小さいものだったのですが、マスコミはガンガン報道して不安を募らせていったように思います。その為なのか「コロナ対策の意識が若干薄れているように思うのは私だけでしょうか。と言うのは第3波、第4波のピークの数字と昨日の『8480人』は同じくらいなんです。『重症化しない』等と言う報道を信じて良いのかどうか悩ましい限りです。私なりの思いを書いたわけですが、私自身の話しとしてはコロナ感染症対策をしっかりとしているお陰なのか、毎朝30分(約2キロ、3500歩)お経を唱えながらウォーキングマシンに乗って歩いているからかは定かではありませんがリピーターの皆さん、よく風邪をひいて肺炎になって入院していたのに、風もひかないで頑張れています。この調子でいつまで頑張れるかはわかりませんが「若いもんにはまだまだ負けん」との心意気でいきますのでこれからも変わらぬご支援、咤激励をよろしくお願いいたします。

 

急激に増えたオミクロン株の影響

令和4年1月8日

コロナ感染症が落ち着きはじめた矢先に『オミクロン株』なるものが突然に出現して最近は倍々でその数を増やしている。「重症化はしないようだ。」とは言え油断は出来ない。このような急展開によって全国老人福祉施設協議会全国研修大会鹿児島大会は『無観客』で実施されるとの連絡が大会県からきたのが昨日で、私は副会長としてどの様な対応をしたら良いのかと悩んでいて、平石会長に連絡すると「自己責任での判断をして欲しい」との事だったので、私以外の副会長にラインや携帯で連絡を仕合ました。

結論としては、「一生懸命に企画して準備をして下さった鹿児島県の役員に敬意を表して鹿児島まで行くことにしました。もちろん無防備に鹿児島県まで行くのではなくてコロナの予防接種は2回しているし、風邪症状もないけれどもPCR検査をして『陰性』であるお墨付きを頂き、手洗い、うがい、手指消毒をしっかりとしてマスクは二重にして出掛けたい。飛行機は色々な乗り換えがあるので、リスクヘッジの観点から新幹線で鹿児島中央まで行くことにし、新大阪駅から鹿児島中央駅まで直通で行ける『さくら』に乗って行くことがベストだと考えました。PCR検査は昨日の内に新生病院に連絡をして、本日9時に予約の手配が出来たので朝8時20分に家を出て対応をしました。ただし、検査は鼻の中に綿棒を入れる形でしたのでなかなか大変でしたが検査を済ませて、結果はファックスで送信していただく事をお願いしてきました。

9時30分に終了して急ぎ施設に戻りました。と言うのは10時にお客様がみえる事になっていたからです。私が施設に着くと既にお客様は見えていたので急ぎ会議室に行き、お客様と親しくお話をさせて頂きました。

14時からは現在休職中の職員との話し合いがあるので顧問をして頂いている社労士の先生の同席をお願いしておいたところ13時過ぎには施設に来ていただいたので、会議室で事前の打ち合わせをして14時からは休職中の職員を交えて話し合いを行いました。出来るだけ職員の立場に立っての結論を出し、話し合いを終えました。

 その後は清掃業者との打ち合わせも終えて1日がバタバタで終了して、今は家に帰ってコラムを打っているのですが、連休明けの(とは言え、私は元気に仕事をしているのですが)11日に滋賀県老人福祉施設協議会の総会に平石会長と共に草津へ行く予定だったのですが、オミクロンの影響で行く事が叶わなくてここでも『予定は未定であり決定ではない』が起きました。すると、不安が頭に過りました。「今朝ほどして頂いたPCR検査が陽性だったら鹿児島県に行くどころの状況ではないな」と。こんな事が起きないで無事に鹿児島県に行き、元気に帰ってこれる事をリピーターの皆さんも祈っていて下さい。

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雪の融けかた

令和4年1月7日

いつものように4時50分のアラームで行動を開始。パジャマの上にガウンを羽織り汗をかいた時の着替えを用意して2階の廊下の窓越しに外の雪の状態を見て色んな事を理解しました。先ずは昨日雪をどけた裏口への通りは綺麗に無くなっていたので先ずは「よし、よ~し」で北側の窓から旧中仙道の状態を確認すると車庫側の南側は殆んど雪が無い状態なのに家の北側は殆んど解けたようには思えない状態でした。その状態から私なりに考えたのは

①踏み固めて雪が退けてなく、北側に当たる条件下ではなかなか雪は融けない。(太陽の暖かさは偉大だと言う事)

②今須の雪は雪をなぶれば融けるのは早い。

③私が若い頃坂内中学(揖斐高原スキー場がある所)に赴任していた時に「雪は退けるならしっかり退けろ。そうでないと雪は春まで融けないよ。」と教えて頂きました。

④つまり『②」と『③』では雪質が違うと言う事です。そう言えば坂内に赴任していて、一晩でメッチャ降って玄関を開けようとしたけど雪が玄関の戸よりも高く積もったので玄関が開かずに2階の屋根から脱出した事を思い出しました。

書き出しはふっと思った雑感を500文字も書いてしまいましたが本日は全国老人福祉施設協議会の各委員会の来年度の予算査定の会議が10時から16時30分まであり、私は副会長として、全部の委員会の説明を聞かなければいけないので大変ですが頑張ります。(ここまでは、お風呂に入ってから朝食になるまでに書きました。)本日は10時から16時30分まで途中で昼食休憩も含めて4回の休憩はあったまののリモート会議が実施され全国老人福祉施設協議会の各委員会の予算査定のプレゼンが行われ、それが終了後に関ヶ原駅に行ってチケットの払い戻しをしてから伸び盛りの職員をもっともっとキャリアアップするために会食をしたのですが私は三千盛を熱燗で8合も飲んでしまい、本日のコラムは待って頂いた割りには大したこと無いことをリピーターの皆さんにお詫びしと今日はクリアと言う事ど許して下さい。明日は名誉挽回しますので。

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