2026年08月の記事一覧

マイク真木の『バラが咲いた』パート2

昨日のコラムでは『バラが咲いた』の1番のみの紹介でしたので、私の思いの半分もリピーターの皆さんに伝える事が出来なかったので、敢えて2番の歌詞まで書いてしっかりとした思いを伝えたいと思います。

<バラが散った バラが散った いつの間にか ぼくの庭は前のように 淋しくなった ぼくの庭のバラは散ってしまったけれど 淋しかった僕の心に バラが咲いた バラよバラよ 心のバラ いつまでも ここで咲いてておくれ バラが咲いた バラが咲いた 僕の心に いつまでも散らない 真っ赤なバラが>

確かに1番の歌詞は「綺麗な花が咲いて自分の心も明るくなった。」と言う事で意義深いものがあるのですが「生命に限りがある」と言う事実の中で、2番の歌詞はそれ以上に意義深いものがあると思っています。と言うのは「心の中に咲いた花は自分の心が豊かであれば咲き続ける」と言う事だからです。私は当法人の職員には「大切な事は必ずメモを取りなさい。」と言っています。「大切な事であっても記憶から消えてしまう事があります。でも改めてメモを見ると、メモをした時の記憶を思い出すことが出来る能力を持っているのです。」だからしっかりとメモを取ることの大切さを話しています。

そしてこの2番の歌詞の様に「本当に綺麗なもの素敵な出会いは心に残るもの」と言う事で、マイク真木さんの完成は素晴らしいものだと思いました。最近、入居者さんの所で良くカラオケで歌わせて貰う様になって、今までは深く歌詞について考えなかったのですが考える様になって情感を込めて歌う様になってきたと思っています。

そう言えば、明日は本部施設において敬老月間の最初の企画で『ファッションショー』を行い私は『月光仮面』の衣装で登場して『月光仮面』の歌も歌わせて貰うのですが、60年以上前のヒーローは『おじさん』だったので安心して月光仮面になり切れます。

『咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる』

タイトルを見ただけではリピーターの皆さんの中には「何をいきなり言っとるの」と思われる方も多くみえたのでは無いでしょうか。

実はタイトルの言葉は毎朝お参りに行く妙応寺の駐車場前のお寺の広報版に掲示してあったものです。

8月初めに開催された施餓鬼供養の掲示の後に張られていたものなので、かなり前から張ってあり毎朝のお参りの時に必ず見ていて色んな事を考えていたので「いずれコラムの原稿にしよう。」と思っていたものについて本日のコラムに書くことにしたのです。

この言葉を単純に答えるとしたら『咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず』は「花が言葉を出して何かを言うわけがない」と言う事になるのだと思います。でも、花も人と同じ様に生きています。そして綺麗な花を咲かせると私たちは『癒しの心』を持つ事が出来ます。種を蒔き水を与えながら「綺麗に咲いてね」と言うと花はそのことに一生懸命に答えようとしてくれます。「ただ、ひたすらに」そしてやがて散っていきますが、散る瞬間も黙って散っていきます。

禅問答の様な書き方になってしまいましたが原稿を書きながらマイク真木さんの『バラが咲いた』の歌を思いだしました。<バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが 淋しかった僕の庭に バラが咲いた たったひとつ咲いたバラ 小さなバラで 淋しかった僕の庭が 明るくなった バラよバラよ 小さなバラ いつまでもそこに咲いてておくれ バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラで 淋しかった僕の庭が 明るくなった>この曲は私が母秋江を亡くした頃に流行った曲で、私が淋しい思いをしているのを少しでも元気になって欲しいと考えて頂いた学校の先生(私は直接教えて貰った事はないのですが姉二人は教えて頂いた方です。)からギターをプレゼントして頂いたので良くギターを弾きながら歌いました。

その頃は歌詞の意味も理解せずに歌っていましたが73歳になった今は「深い」と思っています。だからこそ、本日のタイトルに拘ったのだと思っています。

そして最後に『今を生きる』の言葉にさりげない言葉の中に強い意志の様なものを感じたのは私の生き方に思うところがあるからでしょうか。

本日14時30分より社会福祉法人杉和会の理事会が開催されます

副施設長兼事務長の五次君がたたき台的な資料を作成してくれて昨日、全国社会福祉法人経営者協議会全国大会岐阜大会を終え本部施設に帰ってから五次君が作成してくれた資料の確認と共に打ち合わせをして、資料の中で補足するものの指摘をしての打ち合わせを五次君と共に行いました。

打ち合わせをしながら五次君の実直さを改めて理解しました。

と言うのは昨日打ち合わせた追加資料がしっかり出来ていたからです。

当然と言えば当然の事なのですが私の意図した事を理解した書類作りが出来ていたからです。

そして、私が出張に行っている間に95%の完成度で出来ていての本日の打ち合わせだったからです。

五次君は本部施設本館が開設した2年目に介護職としての採用をして事務方が退職をした段階で社会福祉士の資格を持っていた事と実直な性格だと言う事で事務担当にしたのですが自分の意図とは違う仕事になり、最初の頃は「仕事が遅い」「意図と違う内容になっている」等と言われながらも段々とその仕事にも慣れて「事務的作業を任せて安心」と言う存在になっています。但し、五次君も私とひと廻り違う61歳です。

「今の時代60代はまだまだ若い。定年年齢も引き上げられた」とは言え、信頼が厚くなればなるほど、私は彼の実直さに甘えて、どんどんと仕事を任せて来ていたのですが、そろそろ彼が担っている業務を整理して他の職員が担っていける体制を理事長として実行していかなければいけないと思っています。

私の経験で、児童養護施設の指導員をしていた時に「自分の業務は自分で決めて実践する」事が許されていたのですが、その大前提になるのは「自己責任だからフレックスに仕事をする。」と言う事は当然の事ながら『オーバーワーク』になります。

極端な言い方になりますが『休日は要らない』であり『必要に応じて朝から深夜まで』の様な生活でした。その頃の私はサラリーマンだった訳で今だったら「労働基準上アウト」の様な日常でしたが「家族を犠牲にしての自己満足を構築出来る環境だったから出来た」と言う事で決して褒められた事ではなかったと今は思っています。

今も『月月火水木金金』の様な生活ですが当然の事ながら職員に強要すべき事ではありませんし出来ません。

永続的な事業展開をしていく事を理事長として考えて展開できるようにしていかなければと思っています。

第45回全国社会福祉法人経営者大会岐阜大会の報告

令和8年8月28日

8月27日~28日の2日間長良川国際会議場と隣接している都ホテル岐阜長良川の会場に全国から1300名の参加を得て開催されました。このコラムで書いたように26日の18時30分からは前夜祭が行われホスト側の役員と言う事で主テーブルに名札があったのですが乾杯が終わり会食と懇談の時間になってからは100名の方の参加の中で全国老施協の関りの中で親しくさせて頂いた方が点在して座られていたのでそれぞれのテーブルを回って懐かしい話題でそれぞれ盛り上がりましたが次の日に備えて一次会のお開きと共に部屋に帰りしっかり寝ました。

翌日27日は10時30分からの開会式典ですが1時間前から参加者の様子を確認する為に会場に行きました。10時30分前には参加者で一杯になったのを見ながら2日間の成功を確信しました。定刻通り10時30分に開会式典が始まり開会のことばを岐阜県社会福祉法人経営者協議会の井上悟会長がされた後、主催者として全国社会福祉法人経営者協議会の磯会長、全国社会福祉協議会村木会長、岐阜県社会福祉協議会森川会長が挨拶をされたのに引き続き来賓として上野厚生労働大臣の代理で東海北陸厚生局長、江崎岐阜県知事、柴橋岐阜市長からの挨拶をして頂きました。

会場替えのあと基調報告を全国社会福祉法人経営者協議会谷村副会長が『「社会福祉法人を守る」から「未来を切り拓く組織」へ』の演題で講演をして頂きました。講演の中で協議会のスタンスはSpeed(スピード)Evidennce(根拠)Tactigs(戦略)『SET周到な準備』を力説されると共に人口減少への備えの必要性も力説されました。

基調講演に引き続き特別講演として全国社会福祉協議会長であり元厚生労働省事務次官だった村木厚子さんのテーマ『ふくしのこれからと社会福祉法人への期待』を聞きました。この講演では社会福祉法人の今後への期待を込めての話しだったので今後への展開に対して参考になるキーワードが多くありました。昼食のお弁当を頂いた午後の企画ではパネルディスカッションで3人のパネラーと進行役の慶応義塾大学駒村康平氏で2時間30分休憩なしでテーマは『いま、分断を越えフクシが社会をつくる』で行われました。

福祉についての知識を持ち合わせられていないドラマプロデューサーの方が全く視点が違う形で意見を言われたのはとても新鮮だったです。最後のプログラムは岐阜関ケ原古戦場記念館館長の小和田哲男氏によるテーマは『歴史に学ぶ人材活用と組織の活性化』だったのですが18時30分からの懇親会担当責任者と言う事で後ろ髪を引かれる思いでしたが懇親会スタッフが集合するホテルの2階に行きました。責任者として会場の確認をさせて貰う為に会場に入ると極端な言い方をするなら「立錐の地なし」の様にテーブルと椅子が並べられていて「椅子と椅子の間を潜り抜ける時に私のお腹が邪魔になるな」等と正直に思うと共に「700名の参加は凄い」と思うと共に「参加された方々にとって有意義な時間共有が出来る様に懇親会責任者として出来るだけの配慮をしていきたい。」と思い本番に備えました。

18時30分から懇親会だったのですが早くから待たれる方が多かったので17時45分からの入場にしました。「開場します」と宣言すると最初の20分位は息付く間も無いような状態でしたが参加権を持たれていない方の案内も含めて問題無く入場が完了して取り敢えず「ホッと」した次第です。終了予定の20時30分に閉会を告げ会場からの皆さんの退場もスムーズに行きました。懇親会責任者の役が解かれた段階で『ボストン会』でご縁を頂いた福岡の花田先生の職員も含め4人と愛知の太田先生と当法人が私を含めて3人の8人で2次会に素材の良いお店に行きました。

美味しい料理を頂いて冷酒もしくはビールを楽しんで貰いました。益々皆さんが盛り上がってきたので「1時間だけ」と言う約束でカラオケを楽しみました。お酒を飲んでいない北島部長にホテルまで送って貰い部屋に入ると爆睡してほんじつは9時30分から5分科会に分かれての研修があり、各部屋を回らせて貰うとどの会場も満席の状態で「皆さん熱心に参加されている」と思い前夜祭も含めて3日間が無事に終了しました。

大会が終了すると明日14時30分から実施される社会福祉法人杉和会理事会の事が現実のものとして思い出されて今は本部施設で経理をお願いしている岩田理事と五次副施設長で最終打ち合わせも済ませました。これだけ充実した毎日だと「大変だ」等と言う余裕も無い充実感が有難いと思えてきます。

全国大会が始まりました。

令和8年8月27日

昨夜は全国の役員との前夜祭に参加させて貰い、38年前に資生堂財団がスポンサーのアメリカ研修でご一緒させて頂いた愛知の太田一平先生にもお会い出来、その他にも全国老施協議会の役員として、親しくさせて頂いた方々にも多く声をかけてもらい 懐かしい思いをしながら 懇親会に入りました。 懇親会の席では経営協の役員の方々ともたくさん名刺交換をさせていただきました。

本日は 800人からの懇親会も企画されており 私は懇親会の責任者を務めなければいけないので 昨夜の懇親会はやや 控えめに飲むことにしました。お酒も控えめだったので 朝の目覚めはとてもよくゆっくりとお風呂に使って本番に備えました。開始が10時30分からということでしたが 9時半には会場に行き 参加者が続々と入って見えるのを見させていただきました。

いよいよ10時30分になり開会式が行われ 井上会長の開会宣言 から始まり 来賓としては 厚生労働大臣の代理の方が 挨拶された後 江崎知事、柴橋市長の来賓挨拶の挨拶があり講演が2つあり昼休憩に入り午後からのパネルディスカッションが始まりました。私のスタッフとしての役割は18時30分からの懇親会の責任者を勤めなければいけないので全体会場を途中で抜けて懇親会会場に行く事になります。

本日のコラムは経過報告しか出来ませんが明日全てのスケジュールが終わり落ち着いた段階で書きますので本日のコラムはこの程度でお許し下さい。

聖徳学園高校和太鼓部が本部施設に来て頂ける事になりました

午前中は本部施設の仕事をバタバタと終えて、14時から和合の施設でキャノンとの打ち合わせが入っていたので移動する為に車に乗る為に駐車場に向かっている時に、携帯に登録していない番号から連絡がきたので取らずにいたのですが、留守電に入っていたので確認すると、以前に聖徳学園高校和太鼓部に本部施設の秋祭り〈10月4日〉のイベントの開会式典前のアトラクションの依頼をしていた顧問の先生からの連絡だったので、慌てて折り返しの連絡をしました。

聖徳学園高校和太鼓部とのご縁は、7月に開催した東海北陸ブロック研修岐阜大会の開会式典前のアトラクションで素晴らしいパフォーマンスをして頂いただき、大会の責任者としてお礼の挨拶をさせて頂いた時に「機会があればお誘い下さい。」と言って頂いていたことに対して、素直に受け止めての行動でした。但し、1事業所のしかも関ヶ原と言う遠い所での依頼なので「断られて元々」位のつもりでお願いしたのですが、「日程調整が出来たので、喜んで行かせて頂きます。」との返事を頂いたので「ダメもとで頼んだのですが、本当に来て頂ける事に感謝」と言う気持ちでいます。

東海北陸ブロック研修岐阜大会の時には700人の聴衆の前で堂々と、しかも溌溂と演技をして頂けて参加された方々が一堂に「心に沁みる演奏だった」と思って頂けたものを、関ヶ原の地でもして頂ける事に私自身はその瞬間からワクワクしています。結果はともかくとして、1%でも可能性があるのであれば打診してみると言う事の大切さを改めて感じた次第です。何事もアクションを起こさなければ何も起きない。何かが出来た事によって入居者さんが喜んで貰えたり、地域の方々が喜んで頂けたら、私自身も嬉しいのでこれからも色んなアクションをを起こしていきたいです。

今コラムをパソコンで打ちながら私が教員時代に流行った水谷豊さん主演の『熱中時代』の歌が浮かんできました『僕の先生は フィバー』・・・。お後が宜しいようで。

一歩も二歩も前向きに進むのと後ろ向きの生き方には大きな違いがあると言う事に改めて気が付きました。

昨日のカラオケのコラム記事でも書きましたが『前向きだから活路が開ける』と言う事が私に人生の中で沢山あったと思います。

小さい頃の私は学校の先生の質問に対して答えが分かっている時も「当てられて上手く答えられなかったら嫌だから、手を挙げないでおこう」と行動したり、逆に答えが分かっていないのに「みんなが手を挙げているので、取り合えず手を挙げよう」と手を挙げながらも「もし先生に当てられたらどうしよう」とドキドキしている事があったりしていたことが、今でも鮮烈な記憶にあります。昨日の歌の事にしても、堂々と歌えば良いものを自信なく歌ってしまうので、春子さんから「宏は音痴だった」と言われていたのだと思っています。

今の私は今の仕事が『天職』だと思っているし、高野山前官大僧正の静慈圓師に『お不動さんが背中にいらっしゃるので大丈夫』と言われているので、何事にも積極的に出来る生き方になっています。いろんな方から「若山会長は多くの火中の栗を拾われていますよね」とか「若山会長は全く持ってプラス思考で羨ましい」などと言われますが、私にしてみたら「好き好んで火中の栗を拾っているのでは無くて、人の役に立つからとか組織の為に頑張らなければとか、地域の為に頑張らなければ」との思いで頑張っているつもりです。中学生までの生き様が決して良くなかったので、その反動の60年だったのかと思っています。

私は良く「生後半年目に心臓が何分かが止まり、その後の人生はお釣りの人生だから頑張れる」等とも言っていますが、とにかく『生かされているのであれば全力で』との思いでの今ですが、生母秋江さんにしてみたら「宏は生きているだけで良いから、頑張って生かしてあげて下さい」との母秋江さんの思いが今に通じているとしたら、母秋江は今天国でどんな思いで私を見守っていてくれているのかと、一度聞いてみたい衝動もあります。とにかくこれからも前向きに頑張って行きますので、リピーターの皆さんも私の展開を見守っていて下さい。

お腹から声を出すと言う事

お腹から声を出すと言う事

 

随分前の話しなのですが関ケ原町ふれあいセンターでのイベントがあった時に、岐阜市を拠点にして活躍されているプロの歌手で砂田おさむさん(クラウン所属)と一緒に歌うと言う無謀な計画がなされました。その時に事前の打ち合わせで「2音階旋律を下げたもので歌いたい」と砂田さんに言うと「カラオケで作りますが、理事長ならお腹に力を入れたら歌えますよ」と言われた時に、「そんなものか」と思って、その時にも砂田さんが準備して頂いたものでは無くて、砂田さんがCDで販売されているもので大勢の方の前で歌わせて貰ったのですが、砂田さんが言われる様にお腹に力を入れて歌ったら上手く出来たのでそれ以降は自信を持って歌える様になりました。

以前にこのコラムで書きましたが私の唯一の姉春子さんから「宏は小さい頃歌も歌えないし音痴だった」と言われていたのですが今では堂々と大きな声で歌えますし、本日の地元の高木さんとのジョイントカラオケの時に『そして、神戸』のイントロが流れた時に「今の前川清さんより上手だったら拍手を下さい。」と言って気持ちよく歌えましたし、最後の曲で北島三郎さんの『薩摩の女』のイントロが流れて来たときも「今の北島三郎さんより上手だったら大きな拍手を下さい」と言って、これまた気持ちよく歌えました。小さい頃の私は「みんなの前で歌って下手だったらどうしよう」等と思ってしまってドンドン声が小さくなり音程もおかしくなってしまったのだと思います。

この様な生き方になったのは50歳の時に全国老施協の役員になり、その当時の中村博彦会長から『遠慮は三流』と言われてから「遠慮するより自分らしく頑張る事が肝要」と思える様になった事と、社会福祉法人杉和会が順調な展開になって来た事による相乗効果があったからだとも思っています。とにかく自信を持った展開により自分に責任を持てる様になってきたことが大きいと思っています。但し『自惚れ』は行けないので『地に足のついた』生き方をしていきたいと思っていますのでこれからもリピーターの皆さん私の生き方にも注視して頂けると有難いです。

徳洲会病院の素晴らしい対応に感謝

私が大垣市和合地区の施設長に就任して3年の月日が経過しました。就任直後の施設の現状は「とにかく病院への受診の多い施設だ」との印象が強くあり、「病院対応が多いと言う事は施設内の職員が手薄になってしまい業務が硬直化してしまう」との危機感を持ちました。

そんな中で根気よく職員に対してコミュニケーションを取りながら『優・悠・邑』(すべてにやさしく・いつまでもゆとりある・やすらぎのばしょでありたい)の法人理念の中で『今日一日楽しかったよ』と入居者さんに言って頂ける事によって職員のモチベーションが上がる様にしていきたい。と思いから最初に実施したのは「どうしても受診しなければいけない時に家族の協力も得ての対応にしていく」と言う事で第三者委員会委員の方に意見を聞くと「基本的に病院に行くときは家族が連れて行くのが基本ではないのか」との言質を頂き、家族の理解を得る事に注力しました。根気よく家族の方にもお話をして受診用の車が無い方については介護タクシーの利用のご理解も得る様にしました。勿論、緊急時にはその様な事は言っていられないのですが定期受診での協力を得られた事によって職員への負担もかなり減ったと思っています。

そんな状況の中、大垣市内にある徳洲会病院からの提案で「職員が添乗や付き添いをしなくても病院が所有している救急車で迎え行くサービスを24時間で実施します。」との事で特に職員の人数が少ない夜間には本当に助かる」と考えていたのですが、本日緊急でいくまでも無い方の送迎を始めて依頼したところ初めての事で若干の連携の不足はありましたが救急車と共に3人の方が来て頂けて病院への搬送をして頂けました。施設における医療連携の重要性が言われている昨今の事、素晴らしい取り組みだと思っています。徳洲会グループの理念の基には『地域との共生』があり、正に真骨頂だと思っています。地域のニーズに寄り添える病院だと確信した次第です。

和合への行き帰りの運転中に感じた事

令和8年8月21日

朝向かう時にも帰りに本部施設に向かう時にも思った事なのですが車間距離をしっかりとってゆったりとした運転をしていると中央側の道路から「さっ」と入り込んでくる車があります。その様な事をする車は殆どが軽自動車なのであります。

確かに軽自動車は小回りが利くので「ささっと」入り込む事が出来るのかも知れませんが「もしも接触した時には軽自動車の衝撃は凄い事が理解出来ているのかな」と思っています。「だって軽自動車のドアの鉄板はめっちゃ薄いですから」と言う事です。私の前に入った車はその後信号で私と同じタイミングで停まっていたので「危険を承知で無理やり前に入る意味があるのか」と思ってしまいます。でもね、リピーターの皆さん実は私も若い頃は同じように走っていたようなそうで無いような・・・。

私は児童養護施設の指導員時代に2度大きな事故をしています。

一度目は長良川の右岸道路を南下している時に夜釣りをしての帰りの明らかに居眠り運転の車がぶつかってきた文字通り『正面衝突』で二度目は一度目の事故で新車にして1000㌔も運転していない時に児童養護施設で子どもの勉強をおえての23時過ぎに夜は点滅信号で私の方が黄色の点滅で相手が赤の点滅で相手側の道路の脇はビニールハウスで全く車が見えない状態で相手側がノーブレーキで信号に入って来て相手の車に気が付いた時には何ともならなくて信号内を270度スピンして止まったのですがスピンしている時には『南無大師遍照金剛』を唱えながら「信号機にだけはぶつからない様に」と祈っていたことを今でも覚えています。

そんな大きな事故を経験しているので安全運転には気を付けているのですがいくら自分は気を付けていても相手があるので何ともならない事が無いことを祈るばかりです。

そう言えば、垂井の交差点の信号を通る時に一番先頭の右折レーンとギリギリの所に自転車がいて「危ない」と思ったトラックがけたたましくクラクションを鳴らされたので自転車は少しバックされたのですが私にとっては自転車の行為は「考えられない」ものと思いましたがそう言えばベトナムに行った時に交差点の先頭の所にズラッとバイクが並んでいたのを思い出しながらも「ここはベトナムでは無くて日本だぞ」と思った次第です。そう言えは来月9月から交通ルールが変わりセンターラインが無い道路の制限時速は『30㌔』になるとのことです。お互いに気を付けたいものです。

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