2021年03月の記事一覧

東日本大震災から10年です

令和3年3月11日

10年前の2011年3月11日14時46分18秒に東日本を中心とした大地震があった事はリピーターの皆さんもご記憶の事と思います。大津波や火災による死者・行方不明者の数は12都道府県に渡り22000人余りだと報告されています。ちなみに明治以降の大震災の被害規模としては、関東大震災に次ぐ2番目だとの事です。

10年前の当日私は、岐阜市内のホテルで中部学院大学の先生方と福祉関係者との懇談会に参加していて、岐阜でもかなりの揺れを感じて部屋の中に設置してあった大きなシャンデリアがゆらゆらと揺れていたのを今でも鮮明に覚えています。後日談として中部学院大学の古田学長に岐阜県の会議でお会いした時に古田学長さんから「突然、天井にあるものが揺れたので自分の頭の中で異常が起きたのではないかと思いました。」とのお話をお聞きして「流石にお医者さんの考えられる事は違うな」と変に感心したものでした。

地震があった翌日には当時の全国老人福祉施設協議会事務局(東京都千代田区平河町)の職員から「若山先生がお住いの岐阜県から水を送って貰えませんか」との連絡を貰ったので「東京では水も無くなってしまったの」と聞くと「コンビニの棚には全く無いし、自動販売機もことごとく売り切れです。」との事だったので早速、地元のお店で沢山購入して宅配便で送りました。ちゃんと届くか心配しておりましたが3日後にはお礼の連絡があり「ほっ」としたものです。その後、同じく東京の方から、「米を送って欲しい」との連絡を頂き、「東京と言うところは凄いところだな。」と思いながら、我が家にストックしてあった米を30キロ送ると、大変喜ばれしかも「とても美味しい」との事だったので「地元の米は山の源流から流れてきた冷たい水を朝の早い内に田圃に入れて昼間の太陽の温かさに恵まれると美味しい米になるのです。」と思わず自慢してしまい、それ以降は地元の米を送らせて貰っています。

大津波で家が流れていく映像をテレビで見ていてまるで映画のシーンのようだったので何とも言えない思いになりました。当法人の顧問である、びわこ学院大学の烏野教授は震災直後に現地入りをしてつぶさに見てきて被災者の方々との接点も多く持ち、今も福島県に入られていると聞いていますが、烏野先生の行動力にはいつも頭が下がります。

本日は午後から全国老人福祉施設協議会正副会長委員長会議があり、会議の冒頭にも黙とうをさせて頂き、会議の中でも災害の話もあり、その中で、DWAT(福祉救援チーム)の隊員養成を受けた方の感想の中で「救援物資の荷物運びや炊き出しを行うのが主な役割だと考えていたのですが、心のケアの対応の重要さを学びました。」 との話が出て私は改めて全国老人福祉施設協議会が担う事の意義を理解しました。

当法人の烏野先生は「東南海地震がいつ起きても不思議ではない。」と言われています。リピーターの皆さん。「備えあれば患いなし」です。お互いに留意したいものです。なお、当施設には備蓄倉庫があり、飲料水が1週間分と簡易式のおしぼり(ペットボトルのキャップに水を入れてその中にコインのようになったものを入れるとしっかりした大きさのものになります。)リヤカー、簡易トイレ等々の他に大きな寸胴や鍋や薪も準備しています。但し、コロナが終息しないと3密は防ぎようがないので気になるところです。

 

1998年5月に本部本館が開設してから

紆余曲折があり、何とか竣工式が開催されたのが5月15日で、準備の段階で今須小中学校の体育館に椅子を借りに行った時に私が職員室に挨拶に行き、その当時の小学校の教頭先生と共に体育館に行くと職員が床に寝そべっていて挨拶もまともに出来ない状況に私の頭は真っ白になったのを今でも鮮明に覚えています。

開所した当時は措置施設の時代で(各市町村長さんの措置依頼で入居を受けるシステム)今の介護老人福祉施設(特養)様に入居待機者の方が多く存在するわけでなくて、大きくは2つの事で対応に苦慮しました。1つには入居者さんがどんどん入られる状況ではないので、先代の理事長(義父)と共に市町村回りをしました。2つ目は借り入れに対する返済については基本的に寄付によってしなければいけない決まりがあったのです。この2つの理由で私は施設でじっくりと仕事が出来る状況ではありませんでした。何故ならば、借り入れに対する償還については、先代の理事長にもかなり負担して頂きましたが、私自身も法人から頂く給料については基本的に法人に寄付をして、我が家の家計はそれまでしていた非常勤講師と家庭教師の手当で賄う綱渡りの生活を2年間しました。つまり、1日も休みなく早朝から夜遅くまでうごめいても、職員教育や入居者さんとの接点を多く持てたとは言い難いものでした。

でも、そんな中で開始当初は入居者さんの状況がわからない中で、夜の対応は多くありました。例えて言うと「自分の部屋から出て行かれて食堂で横になってみえる方があります。」とか「施設の中を探してもみえません。」とか、「状態の悪い方がみえるのですが。」と言う連絡が毎晩のようにあり、その都度施設に向かう毎日でした。また、経営的に厳しいものがあり、当時は1回当たり3600円の宿直費用を削減する為に週に3回は宿直をしましたが今となっては「あの時頑張ったから今がある」と思っています。

施設長として福祉の理念を語るだけで運営が上手くいくと言うような甘い現実はありませんでした。時には理事会の席で「施設長を辞めたらええんか」と声を張り上げた事を吉田宏岳先生に凄い勢いで怒られたりして、「高齢者施設のハード面の勉強はしたけどソフト面は出来ていなくて職員との乖離がある。」と理解して施設開始した2年目の途中で自ら施設長を辞し、現場で汗をかくことにしました。

とは言っても介護が出来るわけでもないので、便所掃除から始めたと言うのが実態です。と言うのはその頃の入居者さんはお元気な方が多く、認知症の方の中には便座に綺麗に大便を付けられる方がおみえになって、職員の中には「どうせ綺麗にしてもまたされるので綺麗にしても仕方がない」との発想の職員も多くいた中で、私が黙々と作業をしているのに協力してくれる職員が出てきて、そんな中でおむつの見直しから順次進めて行く事が出来今に至っていると思っています。

リピーターの皆さん。完全な形ではありませんが一つひとつ積み上げてきた施設ですので、今はコロナ禍で施設にきて頂くわけにはいきませんが、コロナが終息したら色んな形でご縁を頂ければ幸いです。

新規事業の建設は50年前から決まっていたのかな・・・

 

令和3年3月9日

ここ何日かは私の足跡のような事を書いてきて、さてさて今日は何を書こうかなと病院の眼科待ち会いで携帯を持ち出して考えていて、最近は新規事業である盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の打ち合せが多くあり、今回の事業には『祈り』の配慮が色々なところにされていて、その思いを語り色々な方に色々な事をお願いすると、私が考えていた以上に思いの部分が大きく拡がっていく事に自分自身驚いています。

具体的に書くなら、施設の中心に仏間を設け仏壇を設置して、床の間には高野山の大僧正で日本一の書家の静慈圜先生に私の思いである三つの願いを書にして頂き表装して床の間に掲げたいと思い、熱い思いを込めて手紙を書いたところ快諾して下さり、尚且つその書を目の不自由な方が手で触って感じて貰う為、檜の板に彫って貰えるようにしたらどうかとの提案を静先生から頂いたので木の準備を床の間の床柱を優・悠・邑家族会の吉田会長さんから今須杉でご寄付して頂いたので、もう一つ甘えた依頼をしたところこれまた私が思っていた以上のものを作って頂けました。

静先生には5月16日の竣工式にはグラフィックデザイナーが製作した台紙に書の実演のパフォーマンスをして頂ける計画まで決まりました。その他にも3棟に分かれている(30床、30床、20床の80床)それぞれの建物に名前を付けて頂く事にしても、それぞれに祈りを感じて貰える名称を参議院議員を女性議員の先駆けのようにされた埼玉県の先生にお願いしたところ「私で良いの」と一旦は断られたのですが、ここは私の得意な押しの一手で了解を得ました。先生は視覚障害者の事にも深い知識を持たれているので、楽しみにしてます。

このような展開が出来るようになった根本は何と言っても高校2年夏の17歳の時の四国遍路からだと思うと今の展開は50年前から決まっていたとすると、弘法様(空海)の手の中でうごめいていたのかなと思ってしまいます。あまりに抽象的に語りましたのでもう少し具体的に書くなら、四国遍路にご縁を頂いた事によって福祉の原点を理解して、四国遍路で滋賀信行会の内藤会長に出会い、そのご縁の中で静先生とも巡り合い、四国遍路のご案内をさせて貰った事により『教育と福祉を考える会』を主宰されていた吉田宏岳先生に可愛がられて福祉の幅が拡がりネットワークもグッと拡がりました。

私の展開は時には無鉄砲で無計画なのですがこのような展開が出来たキーワードは何なのかリピーターの皆さんならお分かりですよね。そう私の事業の展開は『無欲』である事です。私が今の立場で出来て、世の中の為になると言う事が私に与えられた使命・・・。ちょっと、いやいやかなりカッコ良すぎかな。正直なところ、経営は厳しいです。だから、リピーターの皆さんにお願いがあります。今の展開に賛同して頂けるかたは、声援と共にご寄付をお願いします。岐阜県唯一の盲養護老人ホームの為に宜しくお願い致します。

児童養護施設を辞めてから

令和3年3月8日

私の父進さんは私と違って本当に本当に本当に『温厚』だったので、私の我儘な生き方を見守っていてくれたと感謝しています。つまり文字通り『木の上に立って見る=親』(どう言う意味か分かって頂けると幸いです。)だったと思っています。「えっ、私ですか。私は木の上に立つ前にズカズカと・・・・」。

児童養護施設を辞した時に個別指導のケースがどれだけあるのかの情報もなく、大垣女子短大の非常勤講師をしながら件数を増やしていけば何となく出来るくらいの、今から考えたらあまりに無謀な我が家の生活費の事など全く考えないスタートでした。

施設職員を辞めた段階で私がしようとした事は個人事業主の枠になると言う事で、自分で国民健康保険に入らなければいけないし、納税も自分でしなければいけないし、組織がない事の大変さが身に沁みました。拠点も無いままの無鉄砲さの中で、『教育・福祉カウンセラー』等と言う仰々しい肩書の名刺を作り、『不登校児童の親の会』を立ち上げ、一人ひとりのご縁を大切にしながら悪戦苦闘の日々の中、その当時、中央福祉専門学校の吉田宏岳校長先生が主宰されていた学会の『教育と福祉を考える会』の末席でうごめいて行く中から福祉関係者とのネットワークを確立していき、大学・短大・専門学校の講義を週に13コマを担当させて貰い、家庭教師も3軒掛け持ちをしつつ個別ケアの対応も軌道に乗って来た3年目に気が付いたのは若山家が火の車であるとの現実でした。

と言うのも非常勤講師の1コマ当たりの単価は皆さんが考えられているよりはるかに安価であり、不登校児の親子共々困られている家での個別指導に至っては高額な金額を提示するわけにもいかず、だからと言ってアメリカのように政府の援助があるわけでもなく、自分自身理想と現実の狭間の中で立ち往生をしてしまいました。

そんな中で考えたのは「一人でうごめくには限界があるので拠点を作らなければいけな。」と考えて情緒障害児短期治療施設の建築にシフトを切り、一生懸命な展開の中で、親戚筋から広大な土地の提供の申し出があり、その親戚の方に背中を押される形で名古屋にある情緒障害児短期治療施設に何度か教えを請い、何とか設計図まで作成しその当時の岐阜県児童家庭課に相談に行くと、「ここ10年は計画をする予定がない。」と言われ、私の根回しのなさに正直憔悴する日々が続きましたが、「流石に10年は待てない。」と言う中で吉田宏岳先生から「若山さんの福祉に対する熱い思いを高齢者施設で形にしてはどうか。」とのアドバイスを頂きました。しかしながら、そんなに簡単に児童から高齢者にシフトを切れる程の度量もなく、それからものたうち回る日々が続きました。リピーターの皆さん。流石に無鉄砲な私でもいっぱいいっぱい悩んだ時期があるのですよ。

 

1988年にアメリカ研修に行かせて貰いました

令和3年3月7日

資生堂福祉財団の海外研修団に参加させて頂いたのは、私が誠心寮で指導員になった1979年9月の事です。福祉の事など何も知識のなかった私が僅か勤続年数9年で参加させて頂いたのは、今から考えたら脅威に近いものがあります。だって資生堂福祉財団側にとっては、一人の団員を送り出すのに約100万円を資金提供をするのですから。全国から僅か17名の強者の中に選ばれたのは今でも凄い事だったと思っていますし、岐阜県から私より前に参加されたメンバーを見るとそうそうたるものですから。但し、その頃の私は今から考えるにかなり『調子ついた』と言うか『仕事に乗りまくっている』と言うか『向かうところ敵なし』のような毎日でした。

今から考えると冷や汗ものの様ですが、『養護施設 東海北陸ブロック研修大会』で発表した際にフロアの方から「そんな展開は絶対に出来ない。」と言う意見が多かった中で、「経験豊かな先生方が何を言ってるんですか」的な滅茶苦茶生意気な態度で話しをしていたのを覚えています。そんな私がアメリカ研修中には良き団員に恵まれ、児童福祉から高齢者福祉に変わった今も年に1回の『ボストン会』(同窓会のような集まり)には参加しています。但し、昨年についてはコロナの影響で延期になっています。

さて、私がアメリカ研修では多くの事を学ばせて頂きましたが、特筆すべき事項について以下に述べる事にします。一人の児童の問題に対しても福祉専門職の方の他に、精神科医、小児科医、歯科医等多くの方が関わってのカンファレンスが開かれていて、私が参加させて頂いた会議の中のいわゆる座長的存在の方が福祉専門職の方であったのは、日本の状況との違いを垣間見る思いでした。つまり、福祉専門職の社会的認知度も高く政府からの援助も手厚い事を知り、ここで私は大いなる勘違いをして、アメリカ研修から帰って直ぐに「アメリカの5年後、もしくは10年後には日本にもこの流れは来る。と思い、在宅の個別指導で頑張りたい。」と考えて児童施設指導員を辞す事を考える様になりました。(実際に退職したのは3年後です。)もう一つインパクトが強かったのは、素敵な白人の夫婦が里親として子育てしているとの事で家に訪問した際に、若い白人の女性が赤ちゃんを抱いて自慢そうにしている赤ちゃんが、明らかに黒人の赤ちゃんだったのには正直驚きましたが、本来こんな事で驚いていては日本の里親制度は上手く行くわけがないと自嘲気味に思った次第です。

私の38歳からの波瀾万丈はアメリカ研修から始まったと言う事ですが、自分がしたい事をする人生は大変ですがある意味充実した日々だと思っていますので、これからもめげずに頑張ります。リピーターの皆さん、ハラハラドキドキの私の生き方に宜しくお付き合い下さい。

 

『石の上にも三年』とよく言いますが

私は高校も大学も全くと言って良い位に努力をせずに「行ける所に入学出来たら。但し父親はあまり遠くに行かせたくないと思っているので、名古屋までの選択をしなければ」との考えくらいだったので、名城大学法学部に進学した次第です。

どうして法学部かと言うと私は中学1年の春のゴールデンウィークが明けた日から腸捻転の手術(同時に盲腸も切除して貰いました。)をして学校に復帰した時に英語の授業がまるでチンプンカンプンで、しかも当時の英語担当の先生が優秀な生徒を大切にする先生で・・・。とにかく英語が嫌いで尚且つ何の手立てもしなかったので英語は特に点数が取れない受験生(と言うのは当てはまらないかも)だったので各教科で最低点が決まっている所は自信を持って駄目だったので、ことごとく不合格で何故か合格したのは名城大学と愛知学院大学(最低点がない学部だったのだと思います。)の共に法学部だったので、二つの内の名城大学を選ばせて貰った次第です。

そんな風ですから「法律を学びたいから」とか、ましてや「弁護士になりたいから」とかの志しを持っての進学ではなかったので大学では友達の影響を受けて落語や演劇や音楽や学生運動モドキに明け暮れ「大学の単位は1年次と4年次に、教職課程は1年次と5年次に取得した。」と言っても過言ではないと思っています。(お父さん、ご免なさい)そんな私に初めての試練を与えて頂いたのが、児童養護施設での指導員時代です。

誠心寮で仕事をするようになって半年が経ち「児童施設で骨を埋めよう」と考えていた頃に、私の直属の上司で経営者の息子さん(私は当時『お兄ちゃん』と呼ばせて貰っていました。寮生もみんなそう呼んでいたので)から「石の上にも三年と言う諺があるので三年間は施設の生活にどっぷり浸かれ」と言われ、午前10時には出勤して午後11時過ぎまでほとんど休みも取らずに頑張っていました。

結果的には三年目になった頃から「誠心寮に頑張っている指導員がいるのにどうして研修にも出さないのか」との発言を他の施設の施設長さんから度々出たと言うことで三年目の途中から研修にも出させて頂くようになったのですが、何せ基本的に一年目に受講する新人研修も二年目で受講する中堅研修も受ける事なく(今更受けても仕方がないと上司に言われて)その当時頻繁に開催されていた指導員部会に参加させて貰うと共に自分が参加した事のない新人研修や中堅研修の講師役もさせて頂いていましたし、委員会にもその当時の調査広報委員会にも参画させて頂きました。

特に印象に残った事は最初に指導員部会に参加した時に他の施設の指導員さんから「若山さんは午前中から出勤して夜も遅くまで頑張っていて公休もあまりとらないと聞いているけど何か理由があるのか」と聞かれて即座に「私は大学も一年余分に行かせて貰い教員を辞めてから5ヶ月も徳山村で仙人のような生活をさせて貰ったので公休を前倒しで頂いているし、私の勤務はいわゆるフレックス性に近いものだから大丈夫です。」と答えたのでみんなから呆れ顔をされたのを今でも覚えています。また、出張に行った時に他の施設の職員さんはそのままご自宅に帰られるのですが、私は例え高山市内の出張であっても施設に帰り少なくても中学生の勉強会は通常通りしていました。

リピーターの皆さん。私がそこまでにした理由は私にとって天職のように思い、子ども達に寄り添い時には兄貴のように、時には父親のようにやらせて頂ける事に喜びを持っていたからだと思っています。

小学5年生の男子が入寮してきて色んな事を学びました

令和3年3月5日

児童養護施設の指導員時代に明らかに母親から虐待されていた小学5年生男子が入寮してきた時のケースをお話しします。小学5年生の男子が措置されてくるとの事で事前に情報を見ていて、身長も体重も明らかに少なくて小学1年の子と変わらない数値だったので正直「何かの間違いではないか」と思っていたのですが、本人を前にして「間違いない記録だった。」事を知り、家庭環境によって発育に大きく影響するのだと言う事を先ずは理解しました。(最近のニュースでは明らかに体重が少ないケースの報道がよくありますが。)

最初に会った時の印象は「不安が大きいからか意味の分からない事を良く話しする子で、顔が小さくてサルみたいだ。」と申し訳ないのですが正直な印象でした。それよりも印象深かったのは入寮初日の夕食の場面でした。食事は通常、ご飯 と味噌汁とおかずがあり、基本的にはいわゆる『三角食べ』なのですが、そんな中で彼の食べ方は先ずはご飯茶碗をソロっと持ち、全部ご飯を食べ終わるまでご飯茶碗を口から離さないのです。そしてご飯茶碗が空になるとそのご飯茶碗をソロっと置き、次に味噌汁のお碗をソロっと持ち、これまた全部食べ終わるまで口元から離さなくて、その後のおかずも同じ要領だったので驚いてしまいました。

なぜこのような行動をとる様になったかを私なりに考えてみた結果は、家での食事の時に母親の機嫌が悪い時には、茶碗を置いた時に『ことっ』と音がしただけで「うるさい」と手当たり次第物が飛んできたら嫌だからなるべく音がしないように茶碗を置くタイミングを少なくしていたのではないかと推察しています。(この習慣から通常のように食べるようになるのにほぼ1カ月かかりました。)そして極端な位に多動であり落ち着きがなくて、正直私もイライラする事が度々でした。学習室(地域に開放している児童館の2階)でも落ち着きがなくて他の小学生からも鬱陶しがられていました。

この子が初めての正月帰省で母親が迎えに来る日は朝からいつも以上に落ち着きがなく、みんなと一緒に勉強をしていて、母親が迎えに来たとわかると、飛び上がるように立ち上が慌てて荷物を持って母親の所に行くと米つきバッタのようにぺこぺことしているのを見ていると母親は「もっと早くしなさい。」等々とがみがみ言っているのには唖然とさせられました。もう一つ驚かされたのは中学生になり数学や理科の教科はそこそこ出来るのに漢字は全くと言って良い程に書けないのです。そんな彼でしたが中学校を卒業する頃には同級生と変わらない位の体形で、高校にも進学して小学時代にはがみがみ言っていた母親が高校を卒業した彼の腕につかまる様に歩いているのを街中で見た時には正直安心しました。だってリピーターの皆さん思いませんか、力関係が逆転した時に半沢直樹ではありませんが『倍返し』のような状況になったら悲しいではないですか。倍返しにならなかったのはありがたかったと思っています。

 

カリスマ指導員の実体は

令和3年3月4日

ふれあい広場の準備に明け暮れながらも、本来私の業務は小学3年から6年までの学習を夕食前にみて、夕食後は中学生の学習を22時まで見る事でした。小学生の学習は順次宿題の確認をして国語の本読み、あるいは私が手作りしたプリントをする程度でした。小学生の子は、直ぐに馴染んでくれたので全然違和感無しに最初から出来たのですが、中学生の子についてはそんなわけにはいかず、集団学習をしている机の間を行ったり来たりする毎日でした。そんな中で中学1年の女子が初めて手を挙げて教えて欲しいとの事で勇んで彼女の所に行き問題を見た瞬間に頭が真っ白。だって私のその頃の頭では解けそうもない問題だったから。つまり私は指導者の立場でありながら、指導など出来る知識などない指導者だったのです。但し一つの救いは『一緒に問題を解く』お付き合いの出来る指導者だったのです。

今だからこの事を平気に言えるのですが、指導者としては綱渡り状態だったのです。端的に言えば私の学力は子ども達と共に伸びていったと言っても過言ではありません。だから、通常の学校の先生のようにしっかりとした学習指導が出来るだけの能力を持ち合わせていなかったので、子ども達に私自身が育てて貰ったと言っても過言ではありません。但し、問題を解くときはその都度真剣勝負だったので私自身が学習意欲のめちゃめちゃ高い『生徒』だったと言えるのでは無かったかと今になって思っています。だってもともと学習能力の高い子は、さらっと解けてしまうので、解けた時の『感動』は少ないと思うし、下手をすると「分からないと言う事が分からない」先生になってしまうように思います。そう考えていくと私の人生は『知らない事を色んな方に迷惑をかけて育てて貰っている人生』と言っても過言ではないと思っています。

改めて具体的に述べるならば、中学2年の歴史の授業を教えなけれはいけない時にも事前の仕込みの中でいかにも色んな事を知っているように調べた事を話ししたり、小学校4年の理科の実験では「何故このようになるのか」も理解して無くて気付きの多い子(頭の良い子)の指摘を受けながらの授業だったと思うのですが、今から考えると「子どもと同じレベルで考えれて良かった」と言う事になるのです。児童養護施設での13年間も子どもたちと一緒に頑張れたから成果があがったと言えると思います。

平成10年5月に事業開始した本部本館にしても、児童福祉についてはある程度語れるようになっていたと思いますが、高齢者福祉については、正直何も理解出来ていない中でのものだったので、入居者さん、利用者さんに色んな形で教えて頂いたお陰様で23年と言うのが本当の事なので、今回5月16日に竣工式が行われる岐阜県初の盲養護老人ホームについても入居者さんに教えて頂きながらの運営になりますのでリピーターの皆さんの温かいご声援をよろしくお願いいたします。

 

『ふれあい広場』

令和3年3月3日

ほぼ5カ月に渡る『勘当の日々』は8月末を持ってあっけなく終了しました。と言うのは私がその年の9月から13年間お世話になった児童養護施設『誠心寮』での指導員としての誘いをする為にわざわざ徳山村までその当時の誠心寮の理事長の娘婿で当時大垣市内の中学校で校長先生をされていた方がおみえになったので「遠路はるばる来て頂いた校長先生にお断りをするのは失礼に当たる。」と考えてその日の内に施設まで案内をして頂き、翌日に面接を受ける事になりました。8月末とは言え暑い日で面接をして頂いたその当時の理事長の奥さんから私が着ているカッターかた透けて見えたお大師さんの数珠の事を聞かれたので「高校2年生の夏団参から歩いて四国遍路をしているので、欠かさず首にかけてます。」と答えると「週明けの月曜日から来なさい。」との事で何も知らない福祉の世界に入る事になった次第です。私を福祉の道に導いて頂いたその当時の校長先生に後から「どうして誘って頂いたのか」と聞いた事があり、その時の答えが「教員免許を小中高と持っていて、教員を自ら辞めたのは変わり者と思ったから」と言われて複雑な思いになったのは事実です。私が児童養護施設にご縁を頂いた年(1979年)は国際児童年の年でどの施設も何らかのイベントを実施する事にになっていて、地域の方々(例えば民生児童委員さん、PTA会長さん、婦人会長さん、老人会長さん、自治会長さん等)で実行委員会を構成して貰いその年から11月23日と決め『ふれあい広場』が今も実施されています。(昨年はコロナ禍で中止)その年が名誉ある第一回のふれあい広場だったのですが私が入職した9月の段階では全く具体的作業が出来てなくて、本来私の勤務は14時からだったのですが、午前中から看板作りの為にベニヤ板や角材を購入して鋸と金槌を駆使しての看板作りに汗を流しました。この作業が出来たのは大学時代に大学祭の看板等々(「等々とはなんのこっちゃ」等と無粋な事を聞かんといて)を勉学より優先して頑張ってきたお陰かなと思っています。だって勉強はいつからでも出来ますが(今も大して出来ていませんが)この様な事はなかなか出来ませんので・・・。地域を取り込んでの第一回のふれあい広場は1500人の参加を得て盛大に行われ、一回だけで終わるのは勿体無いと言う事で翌年も開催し3000人にまで膨れ上がったのですが、準備も大変になってきたので3回目はしないと実行委員会で決めたのですが、NHKが後援をしての開催を町をあげて開催する話がいつの間にか決まっていて、資金もふんだんに使ってのものだったので実に6000人の参加を得ての開催になり、その後は町全体の後押しもあり、今も続いている次第です。私にとっては13回関わらせて頂いたわけですが、第一回のふれあい広場が一番感動しましたし、手作り感があり印象に残っています。何でもそうなのだと思いますが『ゼロから生み出す』事は苦労も多いですが出来た後の充実感は一入でした。例えばの話しとしてポスターは寮生が作成して町内の広報版に貼りに行く時に先ずは何処に広報版があるのかもわからずに町内のあちこちを車で走り一緒に手伝ってくれる中学生が「先生あそこにある。」と言ってくれるのが嬉しかったし、招待状は私が年賀状を作成するのに使っていた『プリントゴッコ』を持ち込み一枚一枚する作業を子ども達とするのも楽しかったです。施設の玄関には大きな入場門を作るのに子ども達に協力して貰い今須の山に杉の葉を取りに行ったり、『カニのプレゼントコーナー』の為に中学生を連れて海津の河川敷までカニをとりに行って軍手の上からカニのハサミで挟まれたり・・・。「うーん。思いで一杯」リピーターの皆さん思いませんか、最近の事より鮮明に覚えている事実があることを。そして改めて思う事は毎日コラムが書けているのも、毎日が充実してインパクトがある日々を過ごせているから。日々大変な事がありますが『大変な事がある』と言う事は日々充実していていてより良い方向に持って行く事に邁進しますのでこれからもよろしくお願いします。さてさて今日はどんな楽しい、あるいは苦しい事が待っているのやら『ワクワク、ドキドキ、イライラ・・・』

教員辞職後の勘当時代

本日、午後より大垣市社協の方が成年後見人制度の事で説明に来て下さり、新規施設の盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の話をさせて頂いている時に私の社会福祉法人への考え方を熱弁していて、勢い余って、教員生活を父進に何の相談もせずに退職していまい、家に帰ってから報告をして父進さんから「今須は世間の狭い所だから、家でごろごろしているわけにはいかんから、どこかに居を構えなさい。」と言われて慌てたこと慌てたこと。父進さんを甘く見ていた・・・。当時の私は世間が狭くて正直途方に暮れたのですが、そんな中で閃いたのが大学時代に真面目に取り組んだのが柳田民俗学のサークル活動の一貫で徳山ダムの建設で水の底に沈んでしまう旧徳山村の調査を当時の文化庁からの補助金を頂いて取り組んだ時に合宿先にしていた民宿での居候生活でした。当たって砕けろとばかりに翌日にはその当時カメラを首にかけて村中でめっちゃやたら写真を撮ってその後写真集まで出版した増山たず子さんの家に突撃。自分で言うのも変ですが若いって言うのは素晴らしい。増山のおばちゃんに「お客さんが一人でもあったら私が料理を作りますからそういう日はただにして下さい。お客さんが無ければ3食付きで2000円払います。」との私の提案を認めて頂き居候が成立して、翌日着替えとその当時はやっていたラジカセと筆記用具のみを準備して再び徳山村に行き、まるで徳山村の住民のような生活が始まりました。結果的には全くと言って良い位に一日2000円の支払いはありませんでした。何故かと言うと殆ど切れ目なくお客さんがあったからです。私がお客様に出す料理は魚の養殖をしている家に行きお客さんの人数×2匹プラス私の分の魚と徳山村唯一の産業のとっても固い豆腐を購入して、魚は綺麗に水洗いをして鉄櫛に刺し思いっ切り塩を付けて囲炉裏端の炭火で焼く。豆腐は川の上流に行きマムシも恐れない(無鉄砲なだけなのですが)で突き進んだところで採った天然わさびを擦ってのせ、わさびの茎は漬物の様に前日に仕込んで、ジャガイモは地元の方から提供して貰ったのを囲炉裏の炭火の上に網をのせて焼きバターを付けたりお塩を付けたりしてお好みで食べて貰いました。どうです素晴らしい料理だと思いませんか。私は毎日同じメニューでも美味しく頂ける人なので全然違和感なく食べる事が出来る人間で良かったです。昭和54年と言うのは衆参同時選挙で「最後の選挙戦」と言う事でマスコミがわんさか来て、民宿の経営者である増山たず子さんは『徳山村の語り部』的な方だったので取材も多くてしかもその当時はバブルのさなかでマスコミの方の経費もたっぷりあった時代だったので、取材が終わると夜遅くまでの飲み会でマスコミの方を相手にして酔っぱらいながらも色々な話をしたものです。その当時はダムの保障問題で徳山村の住民が賛成反対で揺れ動いていた時期とも重なり私も多くの事を学ばして頂きました。リピーターの皆さん。人生に無駄なし。稀有な生き方をこれからもスポットで語っていきますので宜しくお付き合い下さい。

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