2021年03月の記事一覧

朝早く目覚めて『若山宏』を見つめ直しています。

2021年3月21日

私は小さい頃虚弱だった事は何度もコラムに書きましたが、虚弱だった故に温かい声を掛けて頂いた方と哀れみの声掛けの両方を受けました。どちらにしても私自身で虚弱だと言う事実を受け止めるしかなかったのです。但し、小さい頃の私にとって最大の幸運は母秋江さんの絶大な愛情を受ける事が出来、『痛い』『苦しい』『エライ』を母秋江さんが共有してくれたと言うことです。つまり、私が苦しい事を甘えて訴えると母秋江さんは自分で一生懸命にとらえようとしてくれました。母秋江さんは私が中1の時に他界しましたが、きっと寒くなると霜焼けで手足が腫れて辛いだろうとの心配はきっと天国でもしてくれたと思います。本題に戻ります。私が虚弱故に『温かさと哀れみ』を受けて育った私は温かさの面を最大限お返しをする事を考え行動に移す事を旨としてきた生き方をしてきたと自負しています。つまり、困っている方がいると何とかして解決したいとの行動力です。但し、自分が出来る範囲でではありますが。現象的に駄目な事も一杯あります。例えば、霜焼けでお箸が使えなくて、スプーンとフォークで食事をする生活がかなり遅くまでだったんだと思います。だから今でもお箸の扱いは下手くそです。また、冬場に家の中での生活を余儀無くするときに家の中での遊びとして、色紙で鶴を折ったりして遊ぶのでしょうが、私は霜焼けで器用に手を使えないし、母秋江さんにびったりくっついて甘えていたように思います。また、私は今でも他人に道を訪ねた時に相手の方が一生懸命に教えて下さっても右の耳から左の耳を通して抜けてしまうのです。もちろん一生懸命に聞いているのですが聞いている内に「私の為にありがとうございます。」と思った瞬間に抜けてしまうのです。この現象は何もかも母秋江さんに委ね甘えてきた後遺症だと思っています。でも、よくよく考えてみると、大きくなってからでも修復出来る事なのにその努力をしなかったのは何故なのかと自己分析(そんなに大袈裟な言い方でなくても良いと思います。)するに、全て私自身に返る事なのでそのままにしておいたのは、改善しなくても大して不便を感じる事がなかったからだと思います。但し私は小さい頃に学ばなければいけない事をしてこなかったので、根っからの不器用者が何も努力してこなかったからリピーターの皆さん当たり前だと思いませんか。但し、私が出来なかった事を補って下さる方がいて、その事に感謝してきた結果が今の私を形成したのかと思います。と言うことは私の人生は本当に幸せな人生と言うこと。リピーターの皆さん私は全ての関わりを持って頂いた方に感謝です。

朝、少しゆっくりしていてNHKの『チコちゃん』を見てびっくり

令和3年3月20日

『おちょやん』を見終わってから『チコちゃん』を見てびっくりです。野菜と果物の区分けについてやっていて、国の省庁である農林省と文科省で区分けが違う事を知りびっくりでした。と言うのは最初の企画でイチゴが出てきて、いきなり農林省は野菜だと言われて私は「どう言うこっちゃ」と思うと同時に文科省は果物と言われ「当たり前やろ」と思った次第です。

農林省の見解は「一年で種付けから収穫までの行為が行われるものが野菜」との見解には「ふ~ん」と言わざるを得ませんでした。リピーターの皆さん『すいか』はどちらだと思いますか。実は私は答えを知らないのです。『テレビ見ていたのに何故』と思われるリピーターの皆さんもおみえになると思いますので説明させて下さい。実はテレビを見ながらコラムを携帯で打っていたのでしっかり見ていなかったのです。それだけコラムを打つことに集中していたのです。と言う事でリピーターの皆さんの中でご存じの方は答えを教えて下さい。

次の問題では和食の問題でご飯は左で汁物は右に置くのは何故かとの問題になり私は視覚障害者のお世話の食事の説明をするのに(私のイメージですが)「施設の食事の提供はお盆の上の手前左にご飯茶碗、手前右に汁椀、手前向こうにおかずが何品かと言う事で今回の施設は視覚障害者の方の施設なので、汁椀は赤味噌なのか白味噌なのか具材は何が入っているのか、おかずはどんな品物かを伝える事が大切」と話しているのですが、ご飯茶碗が左で汁椀を右に置く理由など考えた事が無かったのですが、チコちゃんの説明で時の権力者が南向きに座って太陽が昇り沈むのを望むのが左から右であり、左の方が『偉い』と考えられたので、日本は農耕民族で『米』を最も大切にしていたのでご飯茶碗を左に置くようになったとの事を理解しました。二つの解説について理解した時思った事は「時の権力者の意向」により決まっていくのだと理解しました。

(チコちゃんの話題からガラッと変わって)

本日午前10時に本巣郡北方町の眼科医院をされている先生が本部施設に来て、新規事業の事について聞きたいと言う事でおみえになるお約束をしていたのですが、時間になってもお見えにならないので「道に迷われているのか」等と考えていると、1本の電話がなり、その内容は「今、工事が行われている近くまで来ているのですがどこへ行ったら良いですか」との事。「おいおい先般のお話と違うがや」と思いつつ、「これから本部施設を出ますので」と言って急いで新規事業が行われている現場に向かい、先生と運転をしてきて頂いた男性の方をおでむかいして、建設事務所に案内して名刺交換をしてビックリです。

眼科医の運転手としてついてみえた方の名刺をみてびっくりです。その名刺には認知症疾患医療センター(岐阜県基幹型)センター長 岐阜大学名誉教授と書いてあるではあ~りませんか。主に眼科医の先生から質問を受けて、質問に答えながら進めて行き、終了後は建設現場に行きご案内すると、「素晴らしい建物で素晴らしい環境で視覚障害者の方が0お生活されるには最適なところだ」と言って頂けました。眼科医ご夫婦には、静慈圓先生の本と岐阜新聞に掲載して頂いた『素描』の本と共に優・悠・邑 和(なごみ)のパンフレットを10部お渡しして、先生のネットワークの中で広めて頂くようにお願いしました。リピーターの皆さん。この様な地道な展開で視覚障害者施設である盲養護老人ホームの存在を知って頂ける展開をしていきますので、宜しくお願い致します。

新規施設の『棟名』が決まりました

令和3年3月19日

基本的に毎週木曜日10時から新規施設の建築に伴う定例会議が行われていて、昨日も開催されたのですが、その折り、今迄は『A棟』『B棟』『C棟』と仮の名称で呼んでいた棟名を正式に決める事が出来ました。これで、ようやく各棟の入り口に棟名を書き入れる作業や各部屋のプレートの名入れ作業や館内の携帯(通常はピッチと言ってます。)の場所を示す為の作業が出来ます。

棟名の命名は元参議院議員で現在埼玉県志木市にある社会福祉法人『ルストホフ志木』の常務理事の寺内弘子先生に各棟に思いが伝わる名前を付けて頂くようにお願いしたところ快く引き受けて下さり、本日の会議で発表しました。リピーターの皆さんにも名称をお伝えします。A棟は『悠久』(ゆうきゅう)・・・・・「大自然の恵み」「天地」「大地」と言う意味です。B棟は『宏慈』(こうじ)・・・・・「心の広い慈しみの深さ」「豊かな心」と言う意味です。C棟は『黎明』(れいめい)・・・・・「これから進む」「スタートにつく」「曙」と言う意味だそうです。3つ共に深い意味があるし漢字も難しそうですが、本部本館施設の名称を決める時も(『優・悠・邑』)関ケ原町の広報で募集して貰って『名称確定会議』で決定した時も正直私は難しい漢字が入っていると思ったのですが、今では愛着のある味を醸し出しているし、思いもがんがん伝わってくるので、今回の名称についても良い結果を産むと思っています。

話は変わって、大いなる勘違いだったら非常に恥ずかしいのですが、『秦の始皇帝』は知力、武力共に優れていて、自分の思うようにして大帝国を築かれたのですが、始皇帝の死後は直ぐに滅びてしまった。ところが『漢の始皇帝』は知力でも武力でも自分以上に優れた者がいるので部下を信じて国を治めていったので漢の時代は長く続いた。と思っているのですが、「突然、何の話や」と思われる方に口幅ったい言い方で恐縮ですが、私のスタンスなのですが「自分が決めるより適した方があればお願いして行く。」と言う事で、今回は静慈圓先生と寺内弘子先生にお願いした次第です。

今よ~くよく考えてみると、私は我が息子である長男は父進さんが、次男は義父憲治さんが名前をつけてくれましたし、孫の名前は早々と息子が決めましたので私は飼い猫の名前も含めて付けた事がないのです・・・。(どうでもよい話ですみません。)格好を付けるわけではありませんが自分の能力は分かっているので、皆さんに協力をして頂かないと上手く回っていきません。と言う事で今までこのスタンスで上手く来ているのでこれからもこの調子で頑張りますのでこれからも宜しくお願い致します。

 

理想と現実の狭間で苦しんでます

『予定は未定であり決定ではない』事は今までの経験の中で沢山ありました。しかしながら、今回の盲養護老人ホームの建設に伴う展開には『予定は未定であり決定ではない』等とのんびり構えておれない文字通り『想定外』の展開が多くて未だ『困難な問題が沢山ありましたが何とか環境の良い所で立派な施設が出来、運営も含め順調な経緯を辿っています。』と言うのには程遠い状況です。杉和会理事長として最終的な決断をした私の責任なので夜も眠れない毎日です。建設と同時に道路を含めた外構工事が進んでいる高台に立ち、素晴らしい環境の中に在ることを確認すると視覚障害者の方々が日々の生活をして頂くには最高だと考えています。つまり「私自身が住みたい環境と建物」である事は間違いないのです。しかしながら「一日でも早く完成させたい」との思いから、土地の提供をして頂いた垂井町さんの対応を尊重し過ぎた事により予算を想定以上に使う結果となったなと、ウジウジ考えている自分がいます。『大胆な中に緻密さを持って対応する』と言う私のスタンスが少し、いやいやかなり違っている事を感じています。でも、よ~く考えてみるに、「私の事業の展開は綱渡りで無鉄砲であって今がある。決して欲得でしていないから出来てきた事だと。今回も必ず正解だったと言える展開にしていこう。」と少し前向きに考えようと努力をしているのですが、視覚障害者の方の理想郷の為に温かい気持ちによるご寄付を宜しくお願いします。今回の計画は日本全国47都道府県の中で岐阜県、富山県、鳥取県、沖縄県の4県のみに視覚障害者の方の為の盲養護老人ホームがない。つまり、私が住んでいる岐阜県にないのは福祉の担い手としての展開をしている者として申し訳ないとの思いを強く持ったからです。理想と現実は大きく違います。だからこそ、私のコラムを楽しみにしてみえる方々の温かい支援をお願いしたいのです。こんな内容のコラムばかりを書いているとリピーターさんの中には「ええかげんにしとけよ」と思われるかも知れませんが、私のコラムは頭に浮かんだままの素直な気持ちを原稿にしているので、今はこの事以外頭に浮かばないのでご容赦下さい。(現在午前6時36分でここまでのコラムを書きました)但し、本日は8時30分までに岩田税理士事務所に行き理事会資料の最終打ち合わせをして、10時から新規事業の定例会議に出て、午後からは15時30分からの杉和会理事会の資料の確認と作成をしなければいけません。(ここまでを出掛ける前に書きました。)今は午後6時54分で理事会が18時に終了し理事長決済をして、理事会後の打ち合わせを済ませお風呂に浸かり、ひとときの癒しを味わいながらコラムのまとめをしています。理事会も職員が総勢170人になると『若山商店』のようにはいきません。しかしながら、杉和会トップの理事長として理念を曲げる事なく突き進んでいきますのでリピーターの皆さん今まで以上のご支援を宜しくお願い致します。

本日のコラムはコラムと言うよりお願いです(リピーターの皆さんこの原稿で継続として下さい)

令和3年3月18日

私は関ヶ原町と大垣市において特別養護老人ホームを経営している理事長です。最初に関ヶ原町で建設を決意した時は私自身正直、施設を建てるような広大な土地を所有しているわけでも、お金を持っていたわけでもなく、私の熱い思いを理解して下さった多くの方々の支援と平成9年事業でしたので、当時の国及び県により手厚い補助金(多岐に渡るものが当時はありました)にも恵まれ4分の3近くは補助金で対応する事が出来ました。難産の末ではありますが生まれ育った関ヶ原町今須の地に平成10年5月から文字通り地域に根ざした施設運営に努めて参りました。

但し一つだけ措置制度の中でいびつだと思ったのは、借り入れに対する償還財源は『民間施設給与等改善費以外は寄付でする事』との規定があり、2億3百2十万円の借り入れを20年償還で毎年1016万円(2年間利息はありませんでした。)の償還財源に苦慮しました。と言うのは その当時の日本には寄付の文化が殆どない時代であり、先代理事長の蓄えと私の施設長としての給料を当てて、我が家の家計は私の大学等の非常勤講師の手当てと奥さんのアルバイト収入で凌ぎました。しかしながら、2年後に特別養護老人ホームは介護保険制度が変わり介護報酬からの返還が認められ、歪な制度は終わりました。但し返還が出来る原資は建設費に伴う居室等の収入を充てる事となったのです。

正直経営は楽になりましたが、私の経営理念は『社会福祉法人は税金を納めないので余剰金は地域に還元すべき』との考えで地域のニーズと当法人が出来る精一杯のところで展開してきました。具体的には平成16年にはまだまた特養待機者の為に増床をして、平成26年には『西濃地域に部屋代が安い多床室が少なくて良いのか』との思いで、介護報酬額は低い施設を敢えて大垣の地に造らせて頂きました。正直なところ、増床には6年(実質4年)であり、大垣の建設には10年かかっているのは介護報酬単価が厳しくなっているからです。

そんな中、今年5月21日から事業開始させて頂く予定の盲養護老人ホームについての決断は岐阜県には盲養護老人ホームがない(他に富山県、鳥取県、沖縄県)状況で、岐阜県の視覚障害者の方にとって不利益が生じていると考えたからです。私は常に「自分が入りたいと思える施設でありたい」と考えている思いの中で、「視覚障害者の施設であれば平屋の木の香りがする自然豊かな所で生活して貰いたい」との思いで建設を進めて参りましたが、事業を進めていく中で、土地の形状の中から建設に伴う仮設道路の設置と、施設完成後のメイン道路の設置に想像以上の経費がかかり、本部施設及び和合の施設からの流用にも限界があり、尚且つ、国及び県からの補助金も厳しい状況の中、視覚障害者の方に快適に生活を営んで頂く為に心あるご寄付をお願いします。

尚、心あるご寄付を頂きました折には、社会福祉法人へのご寄付と言う事での税金控除を受けて頂けます。

 

 

私の体を2つに分けたいくらいです

昨日は朝から22時35分にコラムを打ち終え送信するまで目一杯だったのですが、本日も午前中に全国老施協による『ホームページ検討会議』がウェブであり、最後の日程は18日に杉和会の理事会があり令和3年度予算案の骨子を決める為の打ち合わせが18時からすることになっているので、どのタイミングで連続掲載している理事長コラムの原稿を書こうかと思っています。(と言うより今は6時45分ですが、せっかくバッチリ目覚めて時間がもったいないので書いてます。)

このように、思った事を隠さす書いているので継続出来ているとも考えています。そう言えば昔の書き物にも、『徒然』の感覚で書いているのがあったように思いますが学識のない私には自信を持って書くことができません。等と書いていて、またまた、頭に蘇った事を書きます。

それは私が大学生の時、落語や演劇や学生運動擬き(もどき)の他に柳田民俗学をベースにしたサークルで『郷土研究の会』にも所属(こんなに一杯やっていたら、法学部や教職課程の勉強など出来んわな・・・。)して、そのサークルの顧問の先生が文化庁からの天下り(単なる天下りではありません。しっかりとした理念と実力をお持ちの先生でした。)の祝(はふり)宮静先生の指導を受けて真面目にサークル活動をしていて、祝先生の教えの中で「若山君。民俗学を決して難しい学問と捉えてはいけません。君は関ヶ原と言う大切な歴史背景のある所に住んでいるのだから、同じ所に立ち毎年同じ時期に写真での記録を残してみなさい。それこそが立派な民俗学ですよ。」と言われて、その頃は「そんなものか」と言うくらいに軽くとらえていたのでしょう。だから行動に移せなかったのだと思います。その頃の私は祝先生について「ロンドン仕込みの紳士」くらいの軽い気持ちしかなかったんだと思います。今お会い出来たのならもっとしっかり行動に移す事が出来たのにと後悔してます。

今になって思うのは祝先生の言われた事をしっかり実践していたら、素晴らしい資料を作りあげる事が出来たのにと深く反省しています。(今となってはもはや手遅れなのですが・・・。正にこれは『後悔後に立たず』です。リピーターの皆さんも覚えが有りませんか。『・・・たら』『・・・ねば』かなり本題からかけ離れてしまいました。

今は20時ちょうどなのですが、昼食はチャーシュー麺のみで頑張って、お風呂に入ってコラムを完成させようとしている。つまり全く余裕な時間がない状態です。

 

誰か分身の術を教えてください。

朝から大車輪です

令和3年3月15日

『相乗効果』と言う言葉がありますが、岐阜県初の盲養護老人ホームの建設が3月末完成予定が雪と低温の影響で遅れたのですが、何とか5月16日が竣工式で18日と19日が施設内覧会で21日から新設した施設での盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の事業開始です。「まだ2カ月近く準備期間があると考えるのか、それともあまり時間がないと考えるの 」と他人事のように言っていたのですが、本日の息つく時間もない程だと言う事は、2つの拠点施設(関ヶ原にある施設と和合の施設)から垂井に開設する施設が加わり本日は全く時間に余裕のない状態になりました。携帯のスケジュール表には9時30分から和合において幹部会とお参りがある事になっていたのですが、和合の佐藤施設長から「18日の法人理事会までに打ち合わせをしておきたいので時間をとってもらえませんかと言われ、出来たら和合でのお参りが終了後では如何ですか」と言われたので、「12時までに本部施設に帰り、さくら高校の実習生の指導をすることになっている。」と言うと佐藤施設長から「誠に申し訳ありませんが、幹部会の前に何とか出来ませんか」と言われたので「9時前には行きます。」と言うことで、本日は8時過ぎに家を出て和合に向かった次第です。幹部会とお参りが終了したのが11時15分で、急いで和合を後にして本部施設に着いたのがぴったり12時だったので、玄関先で実習生に会議室に行くように指示を出し、実習記録のコピーを持って会議室に行き、しっかりとした記録が書けていることを評価すると共に明日も頑張って欲しいと言って指導を終えてから昼食を頂いていると、13時からの岐阜県から依頼を受けた方の取材の方がおみえになり、挨拶と共に職員確保の持論を話させて貰っていて、少しはコラムの原稿を書こうとパソコンをひらいて三行程うったタイミングでホームページやパンフレットの打ち合わせ業者の方が来て、打合せが17時までかかり、その後コラムの続きをまたまた三行書いていたら17時15分になり本部幹部会が始まり、全てのスケジュールが終わり家に帰りお風呂に入り、出てきてから義理の兄のややこしい問題を電話でやりとりしていたら21時40分を回っていて、自分の部屋に上がって行くときに本日のコラムが6行しか書けてない事に気が付き必死にコラムを書いてます。リピーターの皆さん。喜ぶべきか悲しむべきかはわかりませんが3拠点もあると相乗効果のように充実した日々を送る事が出来る事に感謝です。

午後から新規採用職員の研修会です

令和3年3月14日

昨日の内に資料の作成については印刷も含めて準備が出来ていたのですが「単に話をするだけよりはパワーポイントか映像を見て貰えば、より臨場感があり説得力も増すのではないかと考えました。さりとて、午前中だけでパワーポイントを完成させるのは時間的に難しいので、「かつて撮った写真を張り付けて」と作業に取り掛かりUSBメモリーに保存したのを見ていると、岐阜放送で取材して貰ったCDを職員が探してくれたので、見てみると「懐かしい」「職員も私も若い」「私はめっちゃ痩せてる」とか思っていて、この資料は平成25年のものだから実に8年前の事なので「資料としては古すぎるかな」と一瞬思いましたが、全部見終わって思った事は、「8年前の資料だけれども考え方は今も変わっていないな」と思うと、考え方を変えずにこれたのが職員の離職率の低さにつながっていると思うと正直嬉しくなり、本日の理事長としての講義の最後にまとめの意味を込めてスクリーンで映したいと考えています。

8年前に岐阜放送の画面を見ていて「よしよし、素晴らしい」と嬉しく見ていたのに顔が固まるような場面がありました。それは、まだ新人の域を越えていない(そこそこの年齢の職員ですが・・・。今は介護主任ですが。)職員が事もあろうか『手引き歩行』をしていて、しかも、テレビ局の方にとっては「素晴らしいシーン』と思われたのか結構長い時間(私はめちゃくちゃ長く感じました。)映っていて、その時の冷や水をかけられた事が思い出されました。勿論翌日には手引き歩行が何故いけないかと言うこととトランスファーの大切さを指導した事も思い出しました。人間の記憶は素晴らしいものがありますね。8年前の場面が映っただけでその時の記憶が鮮明に呼び戻るのですから。

13時15分に予定通り参加者全員が集まり理事長としての挨拶に引き続き講義をさせて頂きました。参加者は一生懸命に聞いて頂いているのは聞いている姿勢で理解出来るのですが、私なりに「ここでは笑いを取る」と考えていたところでも笑いがないと話の乗りが悪くて・・・。でも、仕方がないか、参加者の方々にしてみたら法人のトップの理事長が話しているのだから。但し話をしながら、みんな一生懸命に聞いて貰っているので、何年か先にも同じメンバーで話が出来たら。つまり、誰一人辞める事なく頑張って欲しいと思った次第です。リピーターの皆さん。社会福祉法人杉和会は今後ますます総勢170人が一丸となり地域の福祉の核の一角を担っていきますので宜しくお願い致します。

 

明日は新規採用者の研修があります

来年度から、盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』が新規開設するので(来年度は当面50床からの開始ですが、80床の規模で建設しています。)例年以上の多くの採用者になり、本部施設と和合の施設を入れて35名の参加です。福祉施設への採用が厳しい状況がある中で職員確保が出来たのは本当にありがたい事です。本来70人は対応できる会議室なのですが、コロナ感染症対策に留意しての対応なので35人の参加ですが一杯いっぱいの状況に嬉しい悲鳴状態です。

明日の講義は、私が理事長として「杉和会の理念と職員としての心構えについて」を。副施設長が『感染症対策と職員としての心構え』(「職員としての心構え」は演題が重なる様に思われるかも知れませんが、立場を変えると視点が違いますので敢えて重ねています。)五次部長(事務長)から『採用に向けての事務連絡と必要書類の提出について』を計画してます。

本日は午前中に公用車の運転業務の為の操作確認の為に職員が運転する公用車に乗っての確認と、外国人材の派遣をお願いしている乗車との打ち合わせ、午後からは火災保険等の契約(3施設になり結構なボリュームです。)以外は比較的に落ち着いて考える時間があったのと、受講者が多い事もあり、自分なりに気合を入れてレジメの他に資料も作成する事が出来ました。

参加者は高等支援学校、高校、専門学校、短大、大学を卒業した新卒者の他に、ベトナムから来た留学生のアルバイト学生、ネパール人の特定技能の男性と色んな手立てで確保したので、話す内容と話し方については、受講者の反応を見ながら進めて行きたいと考えています。23年前には50人位で職員の数が170人を超えた今だからこそ、より充実した研修をしていく中からまとまりのある集団にしていかなければいけないとしみじみ考えています。

明日の研修でどうしても伝えなければいけないキーワードは『お世話させて頂くと言う姿勢』を持って『今日一日楽しかったよ』を展開して、究極には『自分が生活したいと思える施設でありたい』と言う事です。勿論その根底には特別養護老人ホームの名称である「すべてに優(やさ)しく、いつまでも悠(ゆとり)ある、やすらぎの邑(ばしょ)でありたい」を追い求めていく為に、報告・連絡・相談の充実をしていくための努力を惜しまない職員になって欲しいと熱く語りたいと考えています。

リピーターの皆さん。私の考え方は決してぶれませんので、これからも応援宜しくお願い致します。

老人福祉協議会の事

令和3年3月12日

平成10年5月から優・悠・邑本館の事業開始だったのですが、その当時の岐阜県老施協会長さんがお隣の町である、垂井町にある「いぶき苑」の施設長さんだったので、西濃支部の3月に開催される支部総会で挨拶をしたらどうかと言われて参加させて頂いて早や23年の月日が流れ、当施設が西濃支部に加入させて頂いた時には当施設を入れても13施設の加入だったのですが、その後に沢山の施設が設立され、今では32施設にまで組織が大きくなりました。

この23年の間に早くからの施設のグループの中に入ってしまう状況です。つまり、平成13年以降に多くの施設が開設されたと言う事です。そんな中で西濃支部の中で目立つ存在だったとは思っていないのですが、施設開設をして5年目である平成15年から10年間西濃支部長兼岐阜県老施協副会長をさせて頂き、その後の8年は会長を務めさせて頂いて今に至っています。全国老人福祉施設協議会の役員については平成18年8月8日に総務委員会初代幹事に任命して頂いてからです。私のスタンスは役員になりたくて取りに行った事は一切ありませんが、与えられた使命については自分なりに一生懸命にさせて頂いているつもりです。

その中で理解したのは『忙しい生活だからこそ、時間を上手に作る』と言うことでした。「能力は大した事ないが誠心誠意尽くして頑張る奴だ」とその当時の中村会長が認めて頂いたのか、翌年の6月からは総括幹事に大抜擢され、各委員会の統括と事務決済までさせて頂く事になったのです。その状況の中で、東京で宿泊をさせて頂いた翌朝は、お付き合いでどんなに遅くなっても8時45分には本部事務所に行くようにしていました。

そんな中で特筆すべきは平成19年11月21日~22日に岐阜県で開催された全国老人福祉施設協議会研究大会です。色んな事情から福岡県が大会を辞退された為に準備期間が短かったので、厳しい状況ではありましたが実働部隊の責任者を務めさせて頂いたのは色んな意味で大きな自信にもなりました。岐阜県老人福祉協議会の役員は18年の長きに渡ってさせて頂いていますが、常に会員施設にとってメリットになるような展開を考えてきたつもりですが完璧ではありません。そんな中で近い将来後進に円滑に引きついて貰えるように心がけた展開をしていかなければとも考えています。

リピーターの皆さん。無欲な展開の中で自分なりに一生懸命に走り続けてきたのですが、盲養護老人ホームの建設は90%が出来ていて本日も定例会議に参加させて頂いた後、建物内を見させて頂いて、立派な仕上がりに満足していますが、運営の事を考えると前途多難な所が多いので今後の展開に留意して頂き温かいご支援を宜しくお願い致します。

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