2020年12月の記事一覧

明日は午後から自民党ぎふ政治塾で講演です

令和2年12月11日

今年の8月に自民党県連の事務局次長さんが当法人の本部施設(関ケ原町今須)においでになり「12月に行われる自民党政治塾でお話をして頂きたい。」との依頼を受けたので、「私のようなものが、議員さん達を前にしてお話をさせて頂いて良いのですか」と正直な気持ちでお聞きました。すると次長さんから「岐阜県の中で高齢者福祉をお話頂くのに若山会長をおいては考えられないでしょう。」と言われて私は内心「そんなわけないでしょ」と思いながらも「そこまで言われるなら老人福祉協議会の代表として恥ずかしくないものにしなければ」と思いながら快諾させて頂きました。

それから日常的に全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会委員長として、岐阜県老人福祉協議会会長として、勿論、優・悠・邑の総合施設長としての仕事の他に新規事業についても色々な事をこなしている内に日々があっという間に流れてしまい1週間前に次長さんから「予定して頂いていると思いますが宜しくお願いします。」と連絡を貰い「恥ずかしい事は出来ないので頑張って資料造りをしなければ」と思いつつも前日の今日になって慌てて資料作りをしています。(まだ、当日の朝早くでないだけ良いのかな・・・。)明日の話の内容は『福祉に対する熱い思い』を語ると共に『新規事業への熱い思い』もしっかり語りたいと思っています。

私は講演での話し以上に県議会議員や市町村議員さんとの意見交換会で色々な方とご縁を頂けることを楽しみにしています。意見交換会では優・悠・邑 和(なごみ)の開設とともに施設長に就任する予定の吉澤統括部長も同席させて頂ける内諾を頂いたので来年4月に向けてのより一層の勢いを得られたように思っています。昨日の新規事業の打ち合わせ時に来週の気温は上がらず雪になる恐れもあり、生コンが打てない時があると予定がずれ込み日程的に厳しいとの事だったのですが、『思いは通ずる』で、天候にも恵まれる事を信じて、明日の政治塾での講演も頑張りたいと考えています。

リピーターの皆さん。私の生き方は私の家に静慈圓先生の書である『平安之福』の掛け軸がかかっていますが、まだまだその域に達していませんが、目が見にくくて車での移動では、職員に迷惑を掛けながらの毎日ですが、手術の前日の1月4日の入院予約まではがむしゃらに頑張りますので宜しくお願い致します。

だれの為の図書館なの

令和2年12月10日

関ヶ原町の広報を見ていて、私には不思議だと思った記事があった事について書きます。それは、関ヶ原ふれあいセンター内の図書館の案内でした。そこには、『年末年始の休館日』のおしらせで、令和2年12月28日~令和3年1月4日となっていて『この期間は、毎年返却ポストがいっぱいになります。本が傷む原因になりますので、延滞されている本はなるべく図書カウンターまで返却いただき、気持ちよく新年を迎えましょう。』と掲載されていたので先ず私が思ったのは、冬休みの期間に図書館で本を借りたい方も多くあると思うのですが、借りたい時に借りる事が出来ないのは如何なものか。と思った次第です。と言うのは私が平日の日にたまたまふれあいセンターの図書館を訪れた時には閑散としてました。お正月に図書館で借りた本をゆっくり読みたい方がおみえになるのではないかなー。と思ったから。まっ、そんな時は大きな本屋さんに行って購入すればいいのか・・・。

2つ目に思ったのは年末年始8日間もの休館と言うのが許されるのは如何なもんか。図書館と言え『サービス業』の位置づけだとすると、8日間の連続休館は考えられない。当法人の本部施設にあるデイサービスは平成10521日の事業開始で1年目の年末年始のお休みを施設長である私の許可もなく関ケ原町デイサービスと歩調を合わせて長期の休みのお知らせをしたとの事後承諾に激怒しましたが、(事業開始当初はそんな状態だったのです。)あとの祭り。この考え方を私は相いれない考え方。つまり、利用者本位の考え方をするなら「例え一人の利用者さんでも元旦からお風呂にもゆっくり入りたいし楽しみたい。とのお考えの方があれば事業を止めるべきではない。」との強い信念と職員の協力を得て2年目からは年中無休でデイサービスを実施してます。但し初めての元旦の利用者は1人でしたが、介護職員、看護職員、相談員の3人のスタッフを揃えて実施しました。「1人の利用者しかいないので止めるべきでは」との意見もありましたが、「1人でも利用したいとの申し出がある以上休むべきではない。」との強い意志で実施しました。そして翌年の正月は3人で、翌々年には9人になり、今年の正月の実績も9人でした。私にとっては、「お正月にも関わらづデイサービスをご利用して下さる有難い方々」と言う事です。

福祉とは「誰もが幸せになる権利を持っている。」ことであり、サービスとは「利用者さんにとって心地よいもの」と考えています。そんな中で福祉事業であれ、一般企業であれ『素晴らしい人材』に恵まれる事が素晴らしい事業の展開には不可欠です。そこで、リピーターの皆さんにお願いですが、新規事業の盲養護老人ホームは来年4月開設の運びです。岐阜県初(唯一)の盲養護老人ホームで杉和会の夢と共に働きたいと思っている方に是非エントリーして頂きたいのでご紹介も含めて宜しくお願いします。

 

昨夜の障害者施設・高齢者施設のコロナ対策検討会

令和2年12月9日

目の調子が悪いので、「ゆっくりと運転しなければいけないし、古田知事も出席されると聞いているので余裕を持っていかなければいけない」と考えて17時には施設を出て、明日は私の車を長男が運転して名古屋市立病院に行かなければいけないので途中でガソリンスタンドに寄っただけなのですが、軽自動車にも追い抜かれるような慎重運転で、と言うより、そんな運転しか出来なかったのですが、取り敢えず岐阜県庁に着いたのが18時10分。急いで4階まで階段で上がると、健康福祉部のいつもお世話になっている職員さんにそれぞれ挨拶をして指定された席に案内して頂き資料の確認をしていてはたと気が付いたのは私の向かいの席が知事さんでその隣が副知事でその隣が健康福祉部長でその隣が次長さんで・・・。このメンバーが勢揃いされた会議は初めてだと思いました。

定刻になり古田知事の挨拶の後は次長さんからの県内の状況説明に引き続き感染症専門のお医者さんからより具体的な分析があり、その後意見交換の時間になり、進行役の健康福祉部長さんからいの一番に老施協会長の私を指名して下さり、若干の動揺はありましたが話し始めると次々と話が出来ました。自分でも驚くくらいに次々と話し出来たのは私の頭の中で誰かがアイデアを指示しているような感覚を持ちました。私の発言に古田知事が大きく何度もうなずいて下さったのには正直安堵しました。

私の話の中では全国各地からの情報を交えて出来たのは、常日頃の情報提供者のお陰だと思っています。予定の終了時間の20時に終了して、いろいろな方々にご挨拶をして、車に乗り運転をしていて直ぐに顔がひきつってしまいました。それは行きの時よりも距離感や対向車のライトが消えたようになったりしたからです。行きの時よりもゆっくりとゆっくりと運転して何とか家にたどり着いた時にはどっと疲れてしまいました。

そんな中で本日は8時に長男誠の運転で名古屋市立病院の受診だったのですが朝食を頂いている7時3分に宿直の北島部長から看とりの方が昨夜亡くなりその家族の方がおみえになったとの事で電話を家族の方に代わって頂き私が施設に行けない事をお話して、今後の日程についての考え方をお伺いしてから、関ヶ原町役場や互助会(葬儀の依頼)お寺等に連絡してとバタバタしていると長男か迎えに来てくれたので、車に乗り込んでからも何件かの連絡。その間長男の運転で名神高速、名古屋高速と走ってくれたので9時過ぎには着き10時の予約には十分な時間に着いてくれたのですが紹介状はあるものの新患扱いの為に色々なところに行き、眼科では様々な検査をして担当医の所へ。担当医は12月1日に地元の博愛会病院で看て頂いた先生で約1週間で悪化したのでは無いかとときどきしながら検査結果を聞くと「前回の結果と変わりないので年明けのタイミングでの手術にしましょう。

手術は前回網膜剥離の執刀医をして頂いた先生にして頂きます。勿論私も立ち会いますし、術語のフォローは私がしっかりさせて頂きます。」と話して頂き、正直昨日からのもやもやは払拭されました。ただし、手術が無事に済みお墨付きを頂くまでは運転はしないで職員に迷惑をかける事になりますが事故をしては元も子もないので協力をして貰う事にします。リピーターの皆さん。射術で入院をするのに、ときかく事故なく今があることに感謝している私なのですが、この考え方は私的には好きなのですが変ですかね。

ドキドキです。

令和2年12月8日

最近、電柱などを見た時に曲がって見える事があり、「新規事業等でやるべきことが山積みで忙しかったから疲れていてそうなっているのかな」と思っていたのですが、少しずつひどくなっていて流石に不安になり、12月1日に新規事業の『建て方』のセレモニーを終えてから地元の病院の眼科を受診したところ、『黄斑円孔』(おうはんえんこう)と言う診断を受けたとの事は既に報告の通りなのですが、手術をするのであれば名古屋市立病院でして頂く必要があるとの事で明日(12月9日)しっかりと検査して頂きに名古屋市立病院に長男の運転で行く事になっているのです。

正直1週間が経過しての診断で「進行が速いので、なるべく早くの手術にします。」と言われたらどないしよう』と今からドキドキしています。『黄斑円孔』は失明の恐れはないと言われてもここは『まな板の鯉』。「30分の手術だし、うつ伏せが大変だけど大した手術ではない」とは言いながらも、正直今からドキドキしてます。「手術の日程は来年になってから」と私自身は高を括っているのですが、もしも「穴の開き方が大きくなっているのでなるべく早い時期に手術をします。」と言われたらどないしょ。だって12月28日まで予定がびっしり。年が明けてからの調整なら何とか出来るんだけど等と勝手な思いでいます。

しかしながら私の目はどうなっているのやら。60歳を過ぎてから両目共に白内障の手術をして、その後に右目は網膜剝離の手術(この時は診断された日が緊急手術でした。)そして今回左目の黄斑円孔。命には関わらないとは言え難儀な話です。目が弱いと言えば私の父進さんの目に対する逸話を二つ思い出しました。一つ目は生まれて初めてメガネをかけた時に家の屋根を見てメガネをかけるまでは屋根がなみなみに見える事は無かったのにしっかりなみなみに見えたので感動した。と言うのと二つ目は極端な近眼で兵隊での検査でなかなか合格せずに30歳を過ぎてから戦争に行ったとの事です。(そんな状態だから戦争には負けるわけです。)私は父進さんと違って本を何時間でも読んだり出来るような性格でも勤勉家でもないので、目を悪くする理由はないはずなのに・・・。

本日はこの後、18時30分から岐阜県庁4階の特別会議室で古田県知事さんも同席されてのコロナ対策会議があり、私も岐阜県老人福祉施設協議会会長として参加しますので本日のコラムはここまでとしますがリピーターの皆さん、私の目が手術を無事に終えてより頑張れるように祈って頂けますか。

 

 

新規事業でやるべき事が山積みです

 

令和2年12月7日

岐建さんにお願いしている新規工事は天候に恵まれ尚且つガッツと緻密な計画を立てて頑張ってくれる高橋監督とそのスタッフに恵まれ、下請けの職人さんもその意気込みにこたえようと一生懸命に作業をして下さっています。勿論、高橋監督以下方は平屋の2700平米の木造建築への思い入れも強くお持ちだからこその頑張りだとも考えています。

そんな中で昨日広報であるホームページやパンフレットや新聞折り込み等を一手にお願いしている会社の社長さんに日曜日にも関わらず来て頂き打ち合わせをしました。その話し合いをしている時につくづく思ったのは「やらなあかん事が山積みや」と言う事です。その中でも、『岐阜県初の盲養護老人ホーム』なのに一部の方にしか広報されていなくて世間一般には周知されていないと言う事です。盲養護老人ホームの運営が開始された時の初代施設長に任命し、正式に12月1日に辞令をだした前吉澤統括部長はわずかな期間でその事に気づきました。(いやいや私が理事長としてやりきれていなかっただけなのですが。)そこで先ず手始めに当法人のホームページのトップページに『盲養護老人ホーム優・悠・邑   和(なごみ)』の記事を載せるように打ち合わせをしました。

それに合わせて、特養にはない職種である『支援員』等の給与規定を決めなければしっかりとした採用につながらないし・・・、年明けの3月末で養護老人ホーム清風園の終了による引き継ぎもしなければいけないし。厨房業者のプレゼンもなるべく早くに決めなければいけないし。明後日に名古屋市立病院の眼科受診によっては目の手術の予定が決まると少なくても2週間は身動き出来ない状態になってしまうし・・・。上り坂、下り坂の他の『まさかの坂』が来てるやおまへんか。アホな事言うてるばあいやない。いつも言ってる予定は未定で決定ではない事がわかっているならもっともっと前倒しで事を進めていかんかったらあかん。今回の新規事業は岐阜県初の事業なんだからもっともっと緻密にやらなあかんと昨日の打ち合わせで思った次第です。

と言う事はもっともっとギアを上げていかなあかんと言う事。手術での入院で立ち止まらなあかんのだから手術の日までは10日分を1週間で休みなく(今も休んではいないのですが)やる覚悟で頑張らねばと考えている私です。行政の方々は効率的に仕事をしなさいと言われますが、私の生き方で何処をどの様にすれば良いのかこのコラムを読んでその事がわかるリピーター方は是非伝授して下さい。

昨夜の翔&誠の(いやいや、誠&翔)誕生会の報告です

令和2年12月6日

焼肉屋での誕生会までに家で少し体を休めて万全の体制で『焼肉屋すずき』に奥様の運転で行くつもりだったのですが、滅茶苦茶忙しかったわけではないのですが、施設を出たのが17時過ぎで、一旦家に帰りもたもたしていると約束の18時ぎりぎりにしか着かないような時間になり、いつも言っているように『予定は未定であり決定ではない』状態に。私は意味もなく不機嫌になり、車に乗って暫くして、本日のスポンサーなのに財布も持たずにいることに気付きUターンして家に行き慌てて財布が入っているリュックサックを持ち再び車で目的地の焼肉すずきへ。すずきの駐車場に着くと、誠一家もちょうど着いたところだったようで、お店に入って行ったのですが本日の主人公の翔君が眠いのかぐずってばかりで、何ともならない状態の時に私は誠のちいさい頃の私の対応について思い出しました。

その頃の私は夕食を共にする事がなく、子どもが期限の良い時は調子よく抱いたりしていたのに、機嫌が悪く泣き出したりすると、直ぐに奥さんに手渡してしまうような駄目な父親だったのですが、誠が父親になり、翔をしっかりあやして入るのを見て感心している駄目な『じいじ』です。その後、翔の母親が翔を抱きながら席を離れて暫くすると機嫌が治っていて「流石に母親」。その後は会食が始まりやわらかい肉を翔は母親にキッチンはさみで切って貰って5歳とは思えない(何を根拠に言っているのかはわかりませんが)ペースで食べていました。私と誠夫婦は生ビールを翔はオレンジジュース、私の奥様は烏龍茶で乾杯。その後私と誠は辛口の冷酒を何杯もお代わりをしました。

この焼肉屋さんなのですが不思議な事に美味しいお刺身も出してくれるのでお肉の苦手な私も美味しく頂くことが出来ました。私の悪い癖でお酒が入ると大食漢になってしまい、しらすどんぶりもペロッと食べてしまい。お店に持ち込んだケーキも大きなイチゴが乗ったプリンも食べてしまい今は後悔しているのですがいつもの事と反省もしてません。

食事会が終わり孫の翔にのみ誕生プレゼントがあり、『ミニオンズの○○探し』を渡すと感動もんです。本に書いてある文章を読み探すのもどんどんやって最後のページまで終わるまでやり通しました。読んで意味を理解して探すべきものまで理解しているとは私にとって感動でした。私は大学の講義で『3歳までに語彙の量を多くしてその意味をしっかり理解するのが賢い子にする秘訣です。』と言って来たので、翔は正に『神童だ』。これはじいじのたわ言です。リピーターの皆さん。私にもこんな面があるのです。最後に「とほほ」の話でした。

早すぎるで、高橋社長・・・。

令和2年12月5日

朝8時に高橋社長の次男である専務からの連絡。本日10時30分から今須生活改善センターに置いてある『今須太鼓踊り保存会』が解散するに際して太鼓等を譲り受ける事になっていて、その搬送の為に2トンダンプを借りる事になっていたので、確認の電話だと思ったので、「こちらからかけないかんのにすまんね」と言うと専務が「車は施設に届けましたので大丈夫なのですが・・・」と口こもった言い方だったので「社長に何かあったのか」と聞くと「昨夜11時過ぎに亡くなりました。」との返事に思わず絶句し私は「最近元気がない様子だったけど新社屋の完成がもうすぐだ」と喜んでいたのに・・・。高橋社長は昭和30年生まれだから私より2歳も若いし、がたいも大きいし丈夫そうな身体だったのに。そこで本日は、高橋社長を忍んだコラムにします。

初めて高橋社長に会ったのは平成15年度事業で本部新館の事業計画をしていた時に、大垣で蒸籠蒸しと全国の美味しい冷酒を出してくれるお店のマスターから紹介を受けたのが初めての出会いでした。その時に私は「関ケ原町内に会社を構えているなら、マスターに紹介されるまでもなく施設に来たら良かったのに。ガタイがでかいのに気の小さい事で」と私自身でも上から目線かなと思うような言い方をしてしまった事を昨日の事の様に覚えています。その時からご縁を頂き、新館の造成について今須の業者さんの下請け業者として仕事をして貰ってから、池の清掃管理とか冬場の除雪等を良心的にして貰う中で1Kのアパート8部屋を2棟建てて頂いた他にも防災庫や、屋台を入れる倉庫なども建てて頂きました。

入札は勿論、ガチンコの入札であっても他の業者さんが驚かれるような数字で札を入れて頂きました。親しくさせて頂く中で、毎年実施している夏祭りやお餅つきでは、従業員の方も動員してこまごまとした作業もして頂きました。ある時高橋社長に「どうしてこんなに安い価格で入札を入れて貰えるの」と聞いた事があります。すると高橋社長は「今までの仕事は殆ど下請けでの仕事だったので、下請けの価格で入札するので自ずと安い札を入れても大丈夫なのです。それに、社長の手当はこの中に入っていませんので」との答えに「よくもよくもぬけぬけと」と思ったものでした。

こんな社長でしたが、ある時は私が高橋社長と話をして玄関先まで送って行った時に、次の打ち合わせの為に来ていた業者の方が「先程会われていたのは高橋社長だったですか。」と聞かれたので「そうですがどうして」と聞き返すと「若い頃自分も横着していたけれども高橋さんの姿を見ると怖くて隠れたものですから」との返事に対して私はしみじみ「若い頃の色んな経験が今の高橋社長を作ったんだ。」と思いました。なにかと言うと頼っていた社長は天国へと旅立ちましたが、会社は存在しているし、立派な社屋も近く完成して高橋社長の意志を継いで立派になされる事を高橋社長はきっと望んでみえると思いますので今後ともお付き合いしていければと考えています。リピーターの皆さん。本日のコラムは本当に個人的な内容でしたが、私は常にご縁を大切にしての展開をさせて頂いている事をご理解して頂ければ幸いです。

 

昨日12月3日は・・・

令和2年12月4日

昨日12月3日は長男誠の36歳の誕生日であり、尚且つ長男誠の長男翔(かける)の5歳の誕生日だったのです。先般長男誠が明日5日に2日遅れになるのですが、誕生会としての食事会について話をしている時に「12月3日は僕の誕生日と思っていたのに『誠の誕生日』と言ってくれる事がなくなった。絶対に大切な12月3日何だけど、僕の誕生日と言う話題にはならない。」としみじみ語った時には滅茶苦茶説得力があったのですが申し訳ない気持ちにもなりました。

しかしながら、誠よ心配するな。私は12月3日の日には必ず誠が生まれた時の事を思いだし私の奥様かをりさんに「誠が生まれた前日は中学校の期末テストの前日で日曜日だったにも関わらず23時過ぎまで勉強に付きあっていて午前0時過ぎに家に帰るとかをりさんが玄関先で不安そうに待っていて、養母のアドバイスで産婦人科に電話をして、(そんな事の気が付かない程慌てていたのです。)私の車で産婦人科に行き、病院のインターホーンを押し中に入り、私はかをりさんが本来入る部屋に、かをりさんは分娩室へ。産声を聞きたかったけれども、なかなか聞けなかったので本来かをりさんが寝るベットに横になった途端に爆睡。結局産声を聞く事は出来なかった。」と語っているから大丈夫だ。決して忘れていない。ただし、誕生会の主人公が孫の翔に移ったことは否定しませんが・・・。

明日の誕生会の食事会は何が良いかを決めて報告するように言ってあって1週間ほど前に私の携帯に長男誠から連絡と思ったら声の主は孫の翔だったので私はいきなり『じいじ』の声になると、翔が「じいじ、誕生日は肉が食べたい。」といきなり言うのでじいじである私はめろめろな声で「しゃぶしゃぶかそれとも焼肉か」と聞くと「焼肉」と答えたので私は「5歳の子が焼肉かよ」と思い「しゃぶしゃぶやないの」と決めつけた言い方をすると翔が「焼肉やって」と返されて「わかったよ。美味しい焼肉の店を予約しとくよ」と言うのが精一杯でした。

翔は生まれた時にはあまり良い状態でなかったので産婦人科から大垣市民病院に救急車での転院があり、大垣市民病院に見舞いに行った時には鼻にもチューブで腕には点滴がされていて頭が真っ白になったものですが、今は元気すぎるくらい元気で、やんちゃをしては母親から怒られるのですが、怒られそうになるとあまあまのじいじの所に避難してくる頭の良さ。リピーターの皆さん。明日はあまあまじいじを楽しみにしている私ですが年に1日くらいは許されて良いのではないかと思っているのですが・・・。

 

本日盲養護老人ホームの打ち合わせでした

令和2年12月3日

午前10時からの打ち合わせだったので、9時20分に吉田部長の運転で私も含めて4人で出掛けました。いつものように岐建の課長さんがドローンの空撮で撮られた映像を見て、1週間前とは大きく変わった映像に安心してから、設備等の打ち合わせに入りました、今回の打ち合わせは立体的な画面を見ながらの検討なので、建築の知識が殆ど無い私にとってもイメージがし易くて意見も言い易い状況です。 セキュリティについては、実際に施設を運営していく中で大切な事なのでいろいろ意見を当施設の職員同士で戦わせて最終的には私が岐建の高橋監督に結論を言う形で決めていきました。但し色合わせについては「どの組み合わせでいきますか。」と言われてもイメージがつかめないので、3棟に分かれる事に対する考え方だけ伝えて、設計を依頼しているデザインボックスの山口さんに提案をして頂き進めていく事を確認しました。

12時10分に全ての打ち合わせを終えて12月1日に建て方のセレモニーをした現場の状況を職員みんなが高橋監督の案内で行きました。現地に行って感動しました。だって、3工区に分かれた内のA工区の所は柱がずらっと並んでいて1棟のみの建物の柱なのに『凄い』の一言で、職員には「凄い建物を計画したもんだな」と自分が計画したのにも関わらずの発言をしてしまいました。現場を回らせて貰って一番感じるのは私が「ありがとうございます。お邪魔します。」と声を掛けさせて貰うと異口同音に「お疲れ様です。」との言葉が返ってくるのは「素晴らしい指揮者の下(もと)には素晴らしい職人さんが集まるのだな。」と思った次第です。

A工区は柱がどんどん立っていき、その後を追う様にB工区、C工区もそれぞれに目一杯の作業が行われていて、「効率よく無駄なく作業が出来るように高橋監督を中心に打ち合わせを密に行われているのだ」と思うと同時に感謝です。岐阜県には一つも存在しない盲養護老人ホームを岐阜県の視覚障害者の方の熱い願いを杉和会がしっかり受け止め、その事を理解して下さった方々の思いが凝縮されての進捗状況だと思います。そして何より天の神様も味方して下さっているので天候にも恵まれての今だと感じています。

高橋監督に「大変な作業をお願いしてそれに応えて頂いているのに感謝してます。」とお話をさせて貰ったところ、「平屋の2700㎡の木造建築は初めての経験ですがやりがいがあります。」との返事を頂いた事にリピーターの皆さん。私は本当に幸せ者だと思っています。だから、来年4月に開設したら、視覚障害者の方々に喜んで頂き、地域の方々からも「施設が梅谷地区に来て良かった。」と言って貰えるように頑張っていきますので、これからもよろしくお願いします。

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目が見にくい原因は黄斑円孔(おうはんえんこう)でした

令和2年12月2日

黄斑円孔についてインターネット情報から記載します。

『網膜が張っている眼底の中心部を黄斑または黄斑部と呼び、眼底で最も大切な部分です。もともと薄い場所なのですが、そこに1ミリにも満たない非常に小さな穴があく、と言う病気です。(中略)高齢になって一種の老化現象で起こる場合が殆どです。黄斑部は視力をつかさどるところですから、その部分の網膜に穴があくと当然視力が悪くなります。黄斑円孔がどんなにひどくなっても、失明する恐れは全くありません。黄斑部以外の網膜が悪くなることがないからです。治療法としては、目の中を綺麗に掃除した後、特殊なガスを入れる治療です。ガスが黄斑部の穴の部分を押し付けるようにするため、手術後の約10日間、出来るだけうつぶせです。手術自体は30分位ですがうつ伏せはかなりきついです。ガスは2週間位で吸収されて、順調にいけば問題の穴がふさがって視力もかなり回復します。手術の成功率ですが、黄斑円孔を早く発見できれば非常に高い成功率を収める事が出来ます。』との資料を読みながらコラムの原稿として打ちながら、色々な事を考えました。

先ず一番に思ったのは、右目を手術した網膜剝離は失明の可能性があったとの事ですが、失明はしないとの事なので先ずは安心。但し網膜剝離の手術後にうつ伏せで長くいなければいけないのは大変だ。網膜剝離の手術後の時はその日の内の緊急手術だったので、スケジュール調整が大変だったけど、その意味では少し余裕が持てたなとも思いました。12月9日に名古屋市立大学病院での予約受診をしなければ確実には分からないけど年末までは過密なスケジュールをこなして年明けに休養する位の気持ちで入院して治療に専念しようと考えています。私が来年4月に開設させる盲養護老人ホームは文字通り視覚障害者の施設であり、両目の白内障の手術、右目の網膜剝離の手術、今回の左目の黄斑円孔の手術、何となく因縁めいたものを感じるのですが。ところで、リピーターの皆さん。私の健康には紆余曲折がありますが、手術が成功し視力が回復したら、まだまだ走り回りますので宜しくお願いします。

 

 

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