2020年12月の記事一覧

車の運転が出来なくなって

令和2年12月21日

12月8日の18時から岐阜県庁4階大会議室で古田知事、平木副知事の参加を得てのコロナ対策会議が開催され、目が見にくい状況はありましたが、自分で運転をしていったのですが、対向車のセンターライン寄りのライトが消えたように見えて滅茶苦茶怖くて「慎重にしんちょうに」運転して、岐阜県庁で右折する大きな交差点では、右折の矢印が出ているのか出ていないのかの判断が出来なくて、後続車に思いっきりクラクションを鳴らされてから、何とか右折して県庁の駐車場に車を停めて会議中はしっかり意見を言わせて頂いて、会議終了後色々な方にご挨拶をして、再び駐車場に行き車のハンドルを持った時には、県庁交差点で右折した時の恐怖が頭に浮かんできたのですが、「とにかく、ゆっくりとではあっても、家にたどり着かなければ」と腹をくくり運転しました。

とろとろと走っていたので私の車を馬鹿にしたような車が何台かいましたが「ここは忍・忍」。家の車庫に入れた時は安堵のあまりどっと疲れが出たのを覚えています。(本日も和合で全体会があり送り迎えを和合の事務長にして貰いました。)だから翌日からは車の運転を一切しなくて、送り迎えをして貰っています。車を運転しなくなって10日以上が経過してつくづく思う事を今日のコラムの題材にします。(あいからわず前置きが長くてご免なさい。)高齢ドライバーが車の免許証を返上する話をよく耳にするようになりました。しかしながら、高齢者の方の立場とその家族の方の思いが違う事があります。

つまり、高齢者の方は「まだまだ自分で運転して色々な活動がしたい。」と思われているのに対して、家族の方は「運転をして事故を起こしたら迷惑がかかるから止めて欲しい。」と考えられています。どちらも正論です。しかしながら私は高齢ドライバーの立場に立って思う事があります。それは、「免許を返上したら、自分で行きたい所に行けなくなるとやりたいことが出来なくなり、行動範囲が狭くなりボケてしまったら若いものに余計に迷惑をかけてしまうのではないか」と言う事。若い家族の方は「自分の生活が出来なくなる」と思っている事です。

そんな状況に対して私が思うのは、行きたい所全てを叶える事が出来なくても必要だと思える所へは運転してあげる事によって、生き甲斐を見つけて貰えると思うし、何より元気でいて貰えると思います。私の父進は私が38歳の時に80歳で他界する2ヶ月前までは関ヶ原歴史民俗資料館に通っていましたし、大垣市民病院への受診は私が運転していきましたが、そんな時の父進は嬉しそうでしたよ。勿論私は人の何倍も父進さんに迷惑をかけているので当然かも知れませんが・・・。

私の場合は今は目が見にくくても、仕事の上で必要とされているからこその送り迎えなのかも知れません。と言う事はリピーターの皆さん。私はいつまでも必要な存在であり続けなければいけないと言う事ですか。疲れる生き方かも知れませんがこれからも頑張りますので宜しくお願いします。蛇足的ですが、必要とされない方なんて本当はいないのだと考えていますが・・・。

師走の諸々な出来事

12月16日と17日の朝にはど~んと雪を頂き、早朝4時から除雪の対応でしんどい思いをしましたが、本館施設開設当初は雪が降ると私が雪解けをするしかない状況でした。雪が降ってもいつものように出勤をして、早出の職員が雪の為にいつものように走る事が出来ず、遅刻しても当然のような感覚でいたのとは雲泥の差で、今では職員もいつもより早くに来てくれることは、感謝以外の何物でもない状況があります。

そんなわけで、雪もひと段落した18日に我が家のあちこちからガラケーの携帯で撮影した写真です。

⑥   ⑤ ④   ③ ②   ①

道路も悲惨な状況を脱した感がありますが、リピーターの皆さんも色々な地域の方がおみえになると思いますので、写真から思われる考え方も色々だと思います。私としては、「大変な状況を脱して良かったね」と言う気持ちですが、「吉幾三の『雪国』の歌そのものだ」と思われる方もあるとおもいます。つまり、置かれた環境によって感じ方は違うのは当然です。今の私の体形は昔の若秩父と言う関取がいて、私はその体形に憧れたと以前にこのコラムで書きましたが、今は若秩父の様になり悲しいかと言えば満更でもない。何故ならば、ガリガリだったころの私は病気ばかりしていて何も楽しい事が出来なかったのに今は、自分の思いを形にする事が出来るのは、食事が美味しく頂けて肥満で無呼吸症候群でシーパップをしての睡眠で尚且つ年明けには黄斑円孔の手術をする事になっていますが、自分の思いを形に出来る幸せを感じているからだと思います。(いつもの事ながら横道にそれていますので戻します。)

雪景の写真の他に『黒松 白鹿』3点セット(大吟醸・吟醸・純米)を載せましたが、本日昼食はバイキングだったのに合わせて我が家に送られてきたお酒を振る舞ったものです。

⑨ IMG_2506  IMG_2508

本日は、いの一番に大吟醸の栓を抜きデイサービス、本館1階、本館2階、新館1階、新館2階と順次回らせて頂きました。その中で一番のトピックスは新館2階の97歳男性の入居者さんが、最初は「私は飲みませんので」と言われていたのですが、私が「最高の酒の大吟醸をお持ちしたので舐めるだけでも良いので」と言うと「それならば貰うかな」と言われて、新館2階を一巡して帰る前に前を通ると「理事長さん本当に美味しい酒やな」と言われたので「おかわりしますか」と言うと本当に嬉しそうなお顔をされたので、最初よりも多めに注ぐと本当に幸せそうなお顔で飲まれました。だから、本物の提供は最高なんです。

そこで改めて『今日一日が楽しかったよ』の毎日の実践を、このコロナ禍ですがどんどん提案、実践していく事をリピーターの皆さんに宣言します。

何の為の受診の付き添い?

令和2年12月19日

本日関ヶ原診療所の定期受診で予約時間が10時45分からで、その前に尿検査と血液検査があるので10時前に関ヶ原診療所に送って貰い受付をしてから検尿コップを貰いコップを指定された所に置き、血液検査の順番を待っていると、隣の席に座ってずっとスマホの画面に向かっていた方がトイレから出てきた高齢女性の方に「コップはどうしたの」と言われ高齢女性の方が「置いてきた」と言われると「持ってこなあかんがな」と言われて高齢女性が再びトイレに向かおうとされると「今はいられた方があるがな」と腕をわしづかみにされているのを見ていて、私は何も声をかけられずにいると、検査をされる職員の方が検査室から出てきて高齢女性の方に「コップの中が空っぽだったので尿検査は次回にしますから大丈夫ですよ」のナイスフォロー。その間のやり取りを見ていて(その間も付き添いの女性の方はスマホの画面を見続けてました。)多分この高齢女性の方は認知症があり、『検尿』の意味が理解出来ない方なんだ。だとすると付き添い女性の方はその事を理解して付き添われているのだとすると『ダメな奴』といらんお節介的感情を持ってしまう私なのです。確かに付き添いに来た方は高齢女性よりはるかに若い方だとは思うのですが、今の日本の超高齢化社会の中では、いずれ認知症になるかも知れないとは考えられた事はないのだろうかと思いつつ、私が23年前に本館施設を事業開始した頃の地域の方々の中には、近所の家の方が介護で慰労の意味で旅行に行く為にショートステイ等を利用されると『鬼嫁』のように非難されたり、近所に認知症(当時は『痴呆』と言ってました。)の方がおみえになって、「もっと大事にしたれば良いのに」等と言う声がよく聞こえてきたものです。さて、私の診察での血液検査の結果は『悪いなりに落ち着いている状況』でした。本日は14時から新規事業を展開する地区の『町つくり協議会』で一時間のお話をする機会を頂いたので、13時30分に会場入りをして、町つくり協議会会長さんらとのご挨拶をして、14時に先ずは早瀬会長さんから私をご紹介して頂き、『私の福祉に対する思い』と『盲養護老人ホーム優・悠・邑    和(なごみ)への思い』についてかなり熱く語らせて頂きました。話の最後に動画の画面を見て頂く予定で進んでいたのですが前半の『福祉への思い』への時間が長くなって(私的には予定の範疇だったのですが)同行してくれた職員はやきもきしたようですが・・・。取り合えず私なりには満足なお話が出来て、今後につながると考えています。リピーターの皆さん。これからもご縁を大切に頑張っていきますので宜しくお願いいたします。

お日様の明かりは暖かい

令和2年12月18日

昨日までの2日間はしんしんと雪が降り、空はどんよりとしていて凍てつくような寒さでしたが、本日は雲の切れ間から青空がのぞくと暖かさを感じる事が出来て、改めてお日様の陽の暖かさに感謝の気持ちで一杯になりました。最近は叙情的な気持ちになる事が富に多くなっているのは歳のせいなのか何なのか・・・。

本日10時から岐阜県から依頼を受けて東京からお見えになった『日本保育総合研究所』の方から事業所内保育所の監査及び指導を受けました。当法人の事業所内保育所と言っても保育園児2人に対して保育士2人の小規模なものですか、『働き方支援』と言う観点で実施しているのでゆったりとした雰囲気の中での保育なので、指導におみえになった方にもゆったりとした状況をお伝えする形で11時30分に終了してました。その後は今回のコロナ禍での施設に関わる方々に5万円の慰労金が頂ける事になっていて、施設に入金がされてきていたので、それぞれ封筒に入れた5万円を、一人ひとりに声掛けをしつつ手渡ししました。この慰労金は全国老人福祉施設協議会の組織内候補の園田参議院議員が色々な形でお骨折りをして頂き出来たもので、昨日の報道では、今年改定された医療報酬の0.55%を上回る0.7%での決着をみたとの情報もあり、改めて『制度は政治で決まる』と痛感しました。

職員が次々と会議室に来たので気が付けば13時30分から垂井町の係長さんとのお約束の時間になってしまい「14時からは本館1階と2階のお参りが計画されているので昨日に続き本日も昼食は遅くにしか食べれないな」と正直お腹が空いていたのでそう思った次第です。しかしながら、事務所の配慮でお参りの時間を14時20分に変更して貰っていたので、本日は15分と言う制限はありましたが14時から食べる事が出来ました。

昼食後急ぎ本館1階の談話室(通常はデイルームと言ってます。)に行くと既に入居者さん達はお集りになっていたので一段上がった畳の所でご挨拶をしてからお経を皆さんと共にあげさせて頂きました。引き続き2階に上がり同じ様に皆さんとお経をあげさせて頂きました。お経あげさせて貰い事務所に戻る時につくづく思ったのは、先般の和合でのお経も新館でのお経も本日のお経も実に大きな声でお経を唱える事が出来ているなと言う事です。私の中で何か異変が起きているのか何なのかと考えていて2つの事を思い付きました。一つは『継続は力』で、和合の方もかなりお参りのシステムに慣れて頂き皆さんの唱えて頂く声も大きくなっているのと二つ目は、コロナへの配慮で本部施設は5ヵ所に会場を分けてのお参りで(和合は2階と3階はテレビ画面)1カ月に2か所だったのが6ヵ所になって私自身も自信を持ってお経をあげる事が出来ている事があげられます。と言う事は結局私は入居者さんに躍らせられながらの毎日だと思った次第です。リピーターの皆さん。自分で言うのも変ですが幸せな生き方だと思いませんか。

 

久しぶりに我が家の雪解けをしました

令和2年12月17日

昨日は午前4時前から施設の雪解けの指示をしたりの電話連絡をしていて目が冴えてしまい、コラムの原稿をかいたりしている内に7時過ぎて宿直者からのメール報告が来て、宿直者の主任の指導などをしていて8時になり朝食をいただいていると、車のお迎えの時間になり、くたくたになって家に帰ると、我が家の奥様(おくたま)かをりさんから、「雪解けに半日かかった・・・・等々」私の事ですから当然のように、「私も朝4時から家に帰り着くまで遊んでいたわけやない。」とお互いに疲れる会話。

そして本日も3時45分に目覚めて、「4時10分になったら確認の電話をしよう」と、外の様子を見たりしていた4時5分に宿直者の水野相談員から『朝早くからすみません。積雪ですが15㎝~20㎝ほど現時点で積もっています。これより除雪の依頼の連絡をいたします。』との事。そこで黙っておれない私は「ここは私も起きていた事をアピールすべき」とばかりに施設に電話。「連絡はつきましたか。」に対して「コールしたのですが出られません」と言ったかと思ったら「今かかってきました。」こんなやり取りをして、昨日はここからコラムの原稿を書いていたのですが、自分なりの思惑があり再び目をつぶりもう少し眠る事にして、次に目が覚めたのは5時45分。ここは『気合一発』で布団を跳ね除け防寒対策をしっかりして、私の奥様かをりさんに大きな声で「雪解けします」と宣言をして外に出て雪解けを頑張りました。

我が家の西側には川が流れているので、雪を除けるのには楽な条件なのですが逆に川の手前で雪の大きな塊を置いてかれるので大変な事もあります。7時までの1時間と思って頑張っていたら10分超過の7時10分になってしまいました。超過してしまった理由は『7時に関ケ原町の広報が鳴る』と大いなる勘違いをしていたから。冷静に考えたら6時と7時30分だった事を熟知しているはずなのに。雪解けがしんどくて頭の回路が違っていたのかも知れません。雪解けの防寒対策が完璧だった為に2枚の服を脱ぎ捨てて頑張り、家に入って水をごくごくと飲み干すとこれが何とも言えず上手いのです。そして下着まで汗でべとべとになっている事に気が付きお風呂に飛び込みました。これまた気持ちが良かった。

但し、朝から頑張り午前中は大垣共立銀行土屋会長の献花に行き(フォーラムホテルの全フロアを活用して順次グルグルと周りながら、パネルを見たり、映像を見たりしてようやく献花台にたどり着き『流石に完璧なコロナ対策』)その後注文した田中屋煎餅(優・悠・邑の焼き印入り)を取りに行き、昼食をしてから毎週木曜日の新規事業の打ち合わせ会議にでるつもりが、本部施設からの連絡で急遽銀行に行かなければいけない事になり、一旦施設に帰り印鑑と通帳を持ち再び出掛け、打ち合わせの13時30分ぎりぎり間に合いました。

改めて『予定は未定であり決定ではない』打ち合わせを終えて来年4月から入居者さんも含めて引き受ける事になっている隣地の施設での打ち合わせをして、ガラケーでのコラムの原稿書きは目が見にくい今は大変なので施設のパソコンで打ちながら、お昼に食べるはずだったパンを食べています。リピーターの皆さん。これでゆっくりと優雅に夕食が頂けるので飲み過ぎない程度に菊姫を飲むことにします。

 

雪明かり

令和2年12月16日

夜中に雪がかなり降るとの予報があったのと夕食時にビールグラスに2杯の菊姫を飲み9時30分には眠りにつき爆睡して、何となく目が覚めたのが午前3時50分。自室から廊下を歩き我が家の北側を走っている町道(旧中仙道)を窓越しに見るとちょうど関ヶ原町の委託を受けた大きな除雪車が黄色の回転灯を回しながら通り過ぎて行きました。「昨年は雪がなくて活躍の場がなかったので気合いが入ってるか」等と減らず口に近いような事を思いつつ(いつもはなかなか出動しなくて批判な的だったので)宿直者からの連絡が4時10分を過ぎたてもかかってこなかったらこちらの方から施設に連絡しようと考えていたら流石です。当施設の管理宿直は素晴らしい。

昨夜の管理直をしていた伊藤主任から4時5分に連絡。「現在施設での積雪は20㎝ですがかっかと降っており除雪をお願いしたいのですが」との事だったので「理事長である私から連絡します。但し、私は今、車の運転を控えているので(目が悪い為)事務所の職員が来た段階で暖かいコーヒーを除雪にきて頂く方が3人だと思いますので、それぞれに感謝の気持ちを持って渡して下さい。」と話をして、除雪の契約をしている代表の方に電話をするとこれまた流石です。3回目のコールで電話に出られて「直ぐに対応します」と言われました。「私の役割はここまで」とホッとしてから改めて今度は名神高速道路が見える自室の窓の南側から外を見るといつものこの時間だと真っ暗で何も見えない状態なのに田圃が白く輝いているのです。そして、高速道路を走っている車もしっかり浮き出て見えました。

これは正しく『雪明かりでまるで蛍の光、窓の雪の世界だ』と私には似合わない叙情的な感情に浸りながらガラケーの携帯でコラムを打っていると我が家の老猫『リット』が部屋の戸をカリカリしているのでガウンを羽織、老猫が食事をするのにお付き合い(今日は目覚めていたから許してやるけど・・・。)部屋に戻り時間を確認すると5時を回って少し眠くなってきたので少し寝ます。(800字も書けたので本日のコラムはクリアですが、夜が明けてからの出来事は後程と言う事で)(引き続き朝の報告からします。)6時40分に再び目覚め、テレビを点け情報収集。まだまだ雪は降り、気温も最高気温が4℃との事なので温度管理と湿度管理をしっかりしていかなければと考えていた7時11分に管理宿直の伊藤主任から起床時のメールでの報告が送信されてきました。

日常的な報告はしっかり出来ていたのですが、敢えて『幹部職員としての指導』とばかりに電話をしました。「他に大切な報告はないかな」と聞くと「東やに雪の重みで木が倒れてきています。」と言うので「確かに困った事ですが優先順位は低いな。他には」と聞くと「除雪作業を無事終了されて一旦帰られました」との事だったので「他に大切な事はないか」と聞くとしばらくの沈黙があったので、私の方から「早出の職員は遅刻がなかったか」と聞くと「いつも以上に職員さんは早く来て下さり全員出勤されてます。」との返答に「今の報告を一番最初に聞きたかった。」と言ってから「設立当初は雪で遅刻は許されるような風潮があり、入居者さんにご迷惑をかけてはいけないとの考え方が希薄だったけど、今はそんな心配をする必要がないと言う事ですね。」と話をして電話を切りました。

9時30分に和合の職員の面談を予定していたので9時15分に施設に着くと既に和合の職員は来ていたので、直ぐに会議室でしっかり二時間近く話をして、その後はコロナ対策に対する慰労金一人5万円の95人分を封筒に入れて整理をしていると、13時になってしまったので、慌てて昼食をとり、13時30分からの月一回計画されているお参りがデイサービス、新館2階、新館1階の3会場であり、それぞれの会場で気合いを入れてお経を唱えました。しかも、新館ではカラオケ一曲のおまけ付き・・・。手を抜かずに声を出せたのは自分でも誉めたいくらいの出来でした。ちなみにカラオケの曲は『おまえしか愛せない』(山崎ていじ)と『人生夢の途中駅』(砂田おさむ)でいつもの歌ですが喜んで頂けたと思っています。充実感と共に疲れが・・・。

事務所の椅子に座ったかと思ったら新規事業の打ち合わせの業者さんがみえて打ち合わせをして、その後は本部施設の組織改編の話とコロナに対する変更について(餅つき、理髪、面会)の打ち合わせを終えてから、外を見るとかっかと雪が降っていたので、直ぐに家まで送って貰い速攻でお風呂に入り、早朝4時前からの一日を振り返りながらリラックスしてます。リピーターの皆さん。年明けの1月4日からの目の手術の前までにやるべき事を考えています。忙しいのは幸せな事と感謝してます。

初雪が降りました。

今年最大級の寒気団が来るとの予報に対して、私は「大した事無いだろう」とたかをくくって昨夜は眠りについたのですが、早朝4時に目が覚めて部屋の窓越しに外を見ると予想に反して田圃は一面真っ白・・・。但し車が停まって渋滞してしまうほどでは無いと再びベットに潜り込み6時に起きてテレビによる情報収集。今のところ除雪を依頼する程の事はないと、7時から朝食を頂き、本日は9時30分から和合で経営戦略会議『幹部会』があるので、和合の事務長に8時30分に迎えに来て貰う手はずになっており、8時25分に迎えの車の音が玄関先でしたので、短シューズを下駄箱から出し車に乗り込み和合へと出掛けました。そして改めて『今須』の凄さを感じました。それは、家を出た時には雪がかっかと降っていて、屋根には5㎝程積もっていて、関ヶ原の本通りまで車を進ませると屋根にはうっすらと雪がある程度・・・。垂井まで進むと雪は降ってなくて、大垣では太陽が雲の合間から見えていて、またまた、『流石の今須』と思った次第です。和合の施設では、幹部会で11時までの話し合いをして、引き続き1階ショートステイの利用者さん一緒にお経さんをあげ(帰り際にココアを持ってきて下さった喫茶担当の子安さんから「今日のお経は気合いが入ってましたね。」と言われました。)帰りも事務長に送って貰ったのですが、和合の施設を出た時は太陽が出ていて晴れていたのですが、西の空(今須の方向)を見ると雪雲がどんより重なっていて、西に進めば進むほど雪が激しくなってきて、「流石に今須」と変に感動してしまいました。和合からの帰りの車の中で本部施設に明日までの夕食の時間を30分早める指示をした次第です。本部施設で昼食を食べ13時30分から全国老施協東海北陸ブロック役員懇談会が15時30分までリモート会議があったのですが、会議の途中で外がうるさくなったので窓越しに見ると、除雪をしていただいていたのです。思わず「ありがたいな」と思うと同時に「明日も降ると言う事か」と愕然として、17時から来ていた移動販売の車が帰って行ったのを見送ったと思ったら私の顔を確認したのか戻って来たので、生のお刺身と丸干しと大好きなあられと事務所に残っていた職員にパンを買い、宿直者の伊藤主任に4時の段階で積雪が多ければ連絡するように依頼して、家に帰りお風呂に入り体を暖めてから本日移動販売のだるまさんで購入した刺身と丸干しで菊姫の栓を空けビールコップ2杯の冷酒を飲んだのでコラムを書くスピードがダウンしましたが何と 書けました。リピーターの皆さん。酒を飲んでからのコラム書きはしんどいのに意志薄弱の私に拍手・・・。

岐阜新聞の取材を受けました

令和2年12月14日

1週間程前に『てるてる座』の座長から「洞戸の書道家でビー紙1000枚に演歌の歌詞を書くと言われて残念ながら800枚位書かれて亡くなられた方の書を貰って貰えないか」との連絡があり、私の方が快諾すると再び座長の方から「出来たら新聞社の方に取材して貰いたいのだけど」と言われたので、最近新規事業である盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の取材に来て下さった岐阜新聞大垣支局の記者の方に連絡すると、「12月14日なら行けます。」との返事を頂いたので、早速座長の菊川さんに連絡をして、本日10時に優・悠・邑 和合で10時からの予定だったので家の迎えを8時45分にして助手席に乗って出かけました。助手席に座って思った事は「助手席だと電話などの仕事が一杯出来るな」で和合に着くまでにしっかり色んな所に連絡が出来ました。

DSCN3210 DSCN3212

9時20分には和合の施設に着き、理事長室の椅子だけでは足らないのでウロウロしていると、書の提供者の方が6人みえ、車の中の書を運んで頂いていてビックリ。だって、滅茶苦茶量が『半端ない』「座長が言われていた800枚、何てもんじゃない。」書を提供して頂いた方は5人姉妹で、その内の4人の方が見えているので理事長室は賑やかにぎやか・・・。賑やかな状態の中で岐阜新聞の記者の方が来てくださり、記者の方の質問に対して答えられた内容をまとめると『40歳の頃から書を独学で始められ、近所の家の表札を書いたり、店屋さんの掲示物を書いたりされていて、77歳の時に演歌の歌詞を和紙に10000枚書くと宣言され約3000枚書かれた81歳の時に亡くなられ、書斎にされていた家を17年間そのままにされていて、遺品の整理の中で「燃やすのは惜しい」と言う事で大垣市万石のお身内の方が地元の敬老会長さんに相談され、てるてる座の座長さんにつながり今回の取材になったわけです。

DSCN3211

800枚と言われていたのよりはるかに多い作品に新聞記者のインタビューで私は、「岐阜県老人福祉施設協議会の会員施設に呼び掛けて多くの方に喜んで頂けるように働きかけたいと思います。」と答えていますのでリピーターの皆さん。私はまた一つ役割が出来ましたが。多くの方が喜ばれる姿を描きながら頑張りたいと思います。きっと17年間書斎に眠っていたものを多くの方に見て頂けるので、ご本人も天国で喜ばれてみえると思います。だって娘さんの話では「ご縁を大切にいなければいけない」が口癖だったと聞きましたので。

DSCN3213 DSCN3214

 

私は67歳ですが

令和2年12月13日

昨日の自民党岐阜県連の講演に引き続いての懇談会の席の会話のなかで「会長さんはおいくつですか」と聞かれたので、「昭和28年生まれですので67歳です。」と答えると「そんな風には見えませんし、67歳で大きな施設を計画されているのは驚きですね。」と言われたので、私はその返答に困ってしまい苦笑いのような状態になってしまいました。私がその時思ったのは「60歳を越えての事業が駄目だとかと考えた事がないのです。事業を必要とされている方がいるからするのです。」と答えたかったのですが、流石にキザに聞こえてもいけないと思い止めました・・・。

私は26歳から38歳の13年間を児童養護施設の指導員として、理郎構築も何もしないで『その子にとって何をすべきか』を寄り添いながら考えて仮説的なプランを考え実践してきました。そのベースにしたのは『それぞれの子どもに鎧を身に着けさせる』と言うもので、先ずは高校全入を目指しました。そして、その実績を構築していく中で先輩から後輩に受け継がれて高校全入と共に短大、専門学校、大学等に進学していく流れも出来ました。そんな展開の中35歳の時に厚生省公認で資生堂財団の支援によりアメリカの児童福祉を学ぶ研修に参加させて頂き「アメリカでは福祉に対する評価が高く、一人ひとりの子どもに対してのケアが手厚い。アメリカの5年後が日本に来るのであれば、私自身が先駆けになる。」と考え、研修終了後無鉄砲にも児童施設を私の代わりの職員との引継ぎだ出来たら退職する決断をして、結局38歳で退職しました。

退職をして痛感したのはフリーランスの現実の厳しさでした。大学や専門学校での非常勤講師(多い時には週に13コマ)と家庭教師を収入源にして在宅で親子共々厳しい状況に置かれている相談を受けていたのですが我が家の預貯金で補う生活を強いられました。そんな中で『拠点が無ければ思うような展開は出来ない。』との当たり前すぎる事に気が付き、『情緒障害児短期治療施設』の計画に着手して、土地の提供者と共に業者に無理を言ってパーツまで作成してその当時の岐阜県児童家庭課に行って検討して頂いたのですが、結論的には「当面は高齢者福祉施設への予算を優先させる為に児童福祉施設はここ10年は建設する予定はない。」と言われ現実の厳しさを知りました。仮に10年後に完成したとしてそこからのスタートで理想に燃えて頑張れるのかと言う葛藤の毎日で悶々とした日々の中「若山さんの福祉への思いを高齢者施設で実践したらどうか。それだったら協力も出来るのだが」との話を頂き、その後大いに悩んだ末、ハード面の知識と高齢者施設にかける先駆者の思いを勉強する事にすると共に関ケ原町の高齢者の実態調査をその当時の民生委員児童委員協議会の協力を得て実施して、近い将来には特別養護老人ホーム等の受け皿が必要な事も理解しました。

そして、紆余曲折を経て完成したのが私が生まれ育った関ケ原町今須に平成10年5月から事業開始した本部本館施設(入居50床、ショートステイ20床デイサービスB型)で、私が44歳の時です。2年間の措置施設としての時代を経て平成12年4月から介護保険が導入され、特別養護老人ホームの需要が高まり、平成16年4月には新館としてユニット型特養40床の増床をさせて頂きました。この増床は地元の需要に応える形で計画したものです。そして平成26年4月に開設した優・悠・邑 和合(入居80床、ショートステイ18床)はその当時の大垣市の特別養護老人ホームの実態は平成15年以降に多く建設された事により、入居施設の75%、ショートステイに至っては80%が個室と言う状況だったので、多床室の必要性があるとの考えでの計画でした。そして、今回の盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の計画は「47都道府県の中で富山県、岐阜県、鳥取県、沖縄県の4県には盲養護老人ホームがなくて視覚障害者の方の不安を払拭したいとの強い思い入れの中での計画です。」

私は社会福祉法人の使命は地域のニーズに応えながらの展開こそ肝要との思いを常に持っています。次に私が考えている展開は『拠点作り』が出来て来た今、児童福祉の世界の中で自立出来ないでいる子どもたちと介護を中心にしている中での人材のマッチングが出来ないかと考えています。本部施設には中学を卒業して職につきもうすぐ3年が経過して頑張っている子もいるので、雇用に対しても貢献出来る法人を目指したいと考えています。リピーターの皆さん。こんな考えでいる理事長がいる法人ですが今後共見守っていて下さい。

 

朝5時30分から気合いを入れてます

5時に目覚めて外はまだ真っ暗なので布団の中でもじもじしていたのですが、「せっかく目覚めたのに時間が勿体無い」と考えて5時30分に跳ね起きました。そして、身心共にスッキリとした頭でコラムを打ちながら戦略(そんな大袈裟なものではありませんが)を練る事にします。と言うのは本日は10時から当法人の評議員会があり、その前に法人の理事であり税理士の岩田先生との打ち合わせをしなければいけないし、評議員会が終わった後は、14時までに自民党岐阜県連本部に行き『政治塾』での講演と議員さんとの懇談会もあり、新規事業のアピールと私の福祉に対する熱い思いを語らせて貰うのですが、時間に余裕があるのは今しか無いので今考えている事を今日のコラムとします。【と打っていて7時ジャストに宿直者の水野相談員から夜間の報告メールが来て、一旦報告の画面を苦労しながら読んで(目が見にくいために)改めて思ったのは報告内容に継続性が出てきたなと言う事で、3日連続の早朝からの対応は本日はなさそうでホッとしてます。】戦略として先ず最初に考えたのは12月1日付けで吉澤統括部長を新規施設の施設長予定者として、本部付け職員にしたので、勿論新規事業に関わる業務を主体的にして貰うのですが、吉澤統括部長は北欧式トランスファーを身に付ける為に本場デンマークまで研修に行かせて、指導者としても場数もしっかり積んでいるし、認知症指導者研修の受講も終えて認知症の指導も専門性を持って出来るので吉澤統括部長が和合の新設により移動してから本部施設の職員の中で理事長である私の思いが希薄化している状況にある北欧式トランスファー及び認知症への思いへの再構築を担わせていかなければ、私が話の中でしている事が事実と異なると本日の自民党県連での政治塾でのモチベーションが上がらなくなってしまうので、吉澤にその巻き直しを委ねていきたい。吉澤であれば必ず私の期待に応えてくれると考えています。10時からの評議員会は6月に行った決算に伴うもの依頼ですが本来はこの時期に評議員会を開催する必要はないのですが、新規事業においての補正予算とその展開を評議員の皆さんにもご理解して頂きたくての開催です。急ピッチで作業が進んでいる事についても理解して頂けるものと確信してます。10時からの評議員会の前まではばたばたしていて評議員会は補正予算や新規事業の議題も含めてご承認頂き、会議終了後は評議員である谷口町議、淡川元連合自治会長私の3人で今後の関ヶ原町について話をしていて、結構な時間話をしていて、2人をお見送りしてから慌てて昼食を頂き、今は吉澤 新規施設施設長予定者の吉澤の運転で自民党岐阜県本部に向かっています。本部の役員室で 待っていると、私の前に講演をされた神奈川大学教授の方が入ってみえたので名刺交換をして、先生の見送りをしてから講演会場に移動して福祉のいろはから新規事業について話をしていくと、予定時刻になっても話していたので、司会者の方をやきもきさせてしまいましたが何とかまとめあげ無事に講演を終える事ができました。参加者は地方議員のや議員を志してみえる方ばかりで熱心に聞いて頂けました。リピーターの皆さん。このご縁を大切にしていくのが私の真骨頂です。今後の展開とその報告に期待して下さい。

1 2 3 4