2020年06月の記事一覧

朝6時に施設に行きました

5時30分に目覚めてベットの中でウダウダとしているのが勿体無くて「えーい、やー」で起きて着替えをして洗面を終えてから施設に向け車で出掛けました。車を駐車場の指定場所に停め施設の自動ドアが開かない。よーく見ると事務所が真っ暗。そこで私は「宿直者を携帯で急がせてドアを開けて貰おう。」と言う事で、携帯をすると直ぐに出てくれて玄関を開けて貰い事なきを得ました。

こんな時間に施設に来たのには理由があります。それは本日10時30分からと13時30分から新人研修を2組に分けて『法人理念と介護に対する基本理念』について話をしなければいけないのに、前日までは新規事業の打ち合わせや根回しの為に落ち着いて講義の為の資料作りが出来てなくて『時間は産み出すもの』との思いで施設にきたわけです。内容の検討はイメージ作りをしていたので、パソコンの画面を見て猛然と打ち込む事が出来ました。

資料については実際に話をする事の振り返り資料(提出物)のおまけ付き。だって、受講者は勤務時間中に、もしくは休みの者は超勤を付けての研修を適当な内容で終わったら申し訳ないとの思いでの事でした。宿直者には若干気の毒な思いをさせましたが、私的には朝の冷気の中で効率良く資料が作成できました。

受講者8名中5名がEPAによる介護福祉士候補生のインドネシア人で、話辛い面もありましたがそれぞれが一生懸命に聞いてくれたので、一週間後のレポート提出でどれだけの効果があったかを確認するのが楽しみです。15時30分に研修が予定通り終了して、生ゴミ処理機の新規購入に補助金が頂けるかもしれないとの情報を得ていたので書類を作成して共同募金会に提出をしにいきました。

施設に帰ってくると既に18時前で岐阜県高齢福祉課から電話が欲しいとの事で電話をして、既に12時間が経過していてくたくた。本当は施設でコラムも書いて帰宅したかったのですが、家に帰りお風呂でリラックスしたくて、今は20時を回っていて限界です。もう書けません。2008年にコラムを書き出した頃なら300文字も書けば十分だったようなのに今は7百文字を書けても不満・・・。等とウダウダと書いていたら9百文字をクリア。

リピーターの皆さん明日は一番で中部学院大学(中津川)で外国人材の会議があるので千文字はクリアしてませんがお許し下さい。(と言ってもほんの10文字暗いですが・・・。)

結局ウダウダ書いていたら千文字クリアで・・・。お後が宜しいようで。

昨日に引き続き地元の郵便局に行きました

令和2年6月9日

昨日、緊急に振り込みをしなければいけない案件があり、極力郵便局が良いとの事だったので、地元の郵便局にいきました。私自身郵便局での振り込みをしたことが無かったので局員の方に聞きながら手続きをさせて貰いました。「郵便局の通帳があると料金も安く、簡単に出来る。」との事でしたが、郵便局の通帳は持ち合わせていなくて、「出来るだけ早くに送信したい。」との気持ちが強かったためそのまま手続きをしたのですが、手続きが終了した段階で局員の方が何か心配な事があったのか、電話で何処かに連絡されて結局「通帳が無いと難しいです。」と言われました。私は「あれやこれやと待たされて振り込みすら出来ないと言うのはどういう事じゃ。」と思いましたが、『ここは、地元の事だから忍、忍で』とすごすごと帰りました。

そして本日、6時45分に朝食を頂き新規事業の為に解体撤去作業をして貰っている所にある樹木の移植を庭師さんにお願いしてあったので8時の約束に間に合うように出かけました。スムーズに走れたので7時35分に現地に着いたので「庭師さんがお見えになるまで」と解体状況を見て回りました。「全くビックリです。」だって、実質7日間で殆ど形を留めない様な状態で、しかも、解体を請け負った会社の社長さんが下請けの方への指示に見えたのです。

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その後庭師さんとの打ち合わせも終えて施設に帰ると時間は9時15分。「よし、昨日出来なかった送金に郵便局の通帳と印鑑を持っているので行ってこよう。」と出掛け、郵便局の駐車場に車を入れて郵便局の玄関の自動ドアを入って『???』で中が真っ暗。「どうなっているのか」と思っていると、『窓口業務は10時から』との張り紙が。「昨日に引き続き不発」と口ずさんで施設に戻りました。打ち合わせ等をしていて10時30分になり「11時から社労士の先生との打ち合わせがあるけど午前中に送金したいし、30分あったら今日は書類は昨日中に書いておいたし、通帳も印鑑も持っているので充分行ってこれる。」と『三回目の正直で』本日2回目の挑戦。郵便局の駐車場に入れようとしたら3台しか入らないスペースが満車状態・・・。(3台の内郵便局員の車が2台でお客さんは1人のみ。当法人の考え方とは随分違います。当法人はお客様ファーストだから、当法人の考え方でいけば局員は郵便局の駐車スペースには置きませんね。)

Uターンして近くの空き地に置いて郵便局に行き、昨日出来なかった手続きに入ったのですが、親切に局員の方は対応して頂けたのですが、上席者の(多分局長さんだと思うのですが)方の確認をとって頂く決まりなのか、上席の方はもう一人のお客さんが持ち込まれた多くの小銭の対応をされ、それが終わったら何故か奥に行かれてしまいなかなか出て見えなくて流石の私もイラッとしながら、「11時にお客様とのお約束がありますので早くして貰えませんか。」と言うと慌てて上席者の机に置いてあった私に渡すべき書類を持って来て「大変時間がかかり申し訳ありませんでした」と手渡して貰いようやく入金完了・・・。

新型コロナウイルスの影響で色々なマニュアルに基づいての局長さんの行動だったのかも知れませんが少なくとも顧客ファーストな対応ではなかったと思いますし、新型コロナウイルスの関係で開始時間を遅らせれば時間が短い分『密』になるのではないかと思うのですが・・・。リピーターの皆さん私の考え方をどのように思われますか。

 

いかん、いかん

令和2年6月8日

夜中に目が覚めて『いかんいかん』と言う事に気が付きました。(そうなると眠れませーーーん)それは、新規事業の為に旧町営住宅の解体撤去工事が急ピッチで進んでいるのを毎日の様に確認に行っていたのに、お神酒とお塩を敷地内に撒いて、「無事に工事が終わりますように」とお願いして回る事を今回に限って出来ていない事を・・・。弁解の様になってしまうのですが、解体工事になるまでにあまりに多くの時間を費やしてしまい、「解体工事が出来る。」と言う事で舞い上がってしまったとしか考えられない。

そこで、本日、ゲンキー(ドラッグストア)の開店時間に合わせてお酒とお塩を購入して解体工事現場に行く事にしました。そうすると、地元の町会議員さんとゲートボールをしてみえた地元の長老の方が話をしてみえたので挨拶をすると、垂井町の土地であるゲートボール敷地内に、建設工事が始まったら建設事務所に土地を貸す話をしたらどうかとの話で盛り上がっていて、私は思わず「ありがたいな・・・。」しばらく、話をしてから解体工事現場まで歩いて行き、現場で作業をして頂いてる方々一人ひとりに「暑い中ありがとうございます。土地の主にお神酒とお塩を撒きにきました。」と言いながら敷地内をくまなく歩いて回りました。「そんな事をして何になるの」と言われる方もあろうかと思いますが、今までしてきた事をしないでいて何かトラブルがあったら後悔する。万全な体制の一つだと言う思いでさせて頂きました。

夜中に思いつきその日の内に思いが形になった事で一つ肩の荷が下りたように思います。しかもタイミング良く、地元の町会議員さんと地元の長老さんがみえたのは『目に見えない形でご縁を結ばせて頂けたし、確実に支援者が出来ている証』とも思いました。本格的な打ち合わせを今週の金曜日である12日に、造成のコンサルさんと設計のコンサルさんと、駐車場への進入道の為の土地提供者の取りまとめをして頂いている司法書士さんと行政書士さんを交えての会議を計画しているのですが、その前に問題整理をすべき事があり垂井町さんを初め地元の方々との協議をしっかりしなければいけないので、抜けがないようにしていきたいと考えています。私に出来る事はネットワークを駆使しての根回しを誠意を持ってしていく事だと思っています。

『措置施設』の経営が色々な面で厳しい事は分かっています。しかしながら、岐阜県の皆さんの安心の為の盲養護老人ホーム建設と西濃地区のセーフティーネットの為の養護老人ホームの建設は必然であり、福祉の根幹の為に頑張らなくてはとの思いを改めて感じています。それは、地元の方々からの支援も間違いなく形成されようとしている今だからです。リピーターの皆さん私はこんな性格で『苦労は友達』のような生き方しか出来ませんがこれからも宜しくお願い致します。

 

改めて私の過去のコラムの過去を振り返ってみました

令和2年6月7日

本日は日曜日で我が家の朝食が8時からだったのですが、8時前に宿直者の吉田部長から、「庭師さんがみえました」との連絡を貰い、直ぐに施設に行くと共に、新館入居者さんが桜の木の状態を気にされていたので、納得がいくように思いを庭師さんに直接伝えて貰おうと新館に迎えに行き頑張って歩いて貰い、納得されるまで話をして頂きました。

その時しみじみ思ったのは、その方が入居される前に長浜市民病院へ事前訪問に行った時はベット上の生活で極端な言い方をすると『世をはかなんで全く気力が感じられない正に要介護4』の状態でしたが、本日も結構な距離を歩いて色々な意見を言って頂けるし、施設の守り主のような存在です。庭師さんの樹木の消毒も含めて11時過ぎに終了したとの事だったので、新規施設に植わっている木の移植をお願いして段取りを決めて貰わなければいけないので急遽現地を案内して打ち合わせが終了したのが11時50分で施設に帰る運転中に無性にお腹が空いてきて、よくよく考えてみたら朝食を食べていなかった。そんな時は滋賀県に入った所の中華料理店が量が多くて安いと考えて、中華料理店に向かいました。そこでBランチを頼みました。

そのメニューは『天津飯』『五目ラーメン』『唐揚げ』で料金はと言うと消費税込み800円です。常識的に物事を考えると天津飯と五目ラーメンは半分だと思いませんか。ところが、この店は当たり前の量が出てきて唐揚げも馬鹿でかくて食べるのも大変な大きさ・・・。お腹が一杯になったので14時からの新館でのカラオケ出演もお腹から声が出せそうです。

今日は久しぶりにコラムの原稿書きを携帯からでなくてパソコンで打つ事にして、ふと「このコラムはいつからどんなペースでしているのかな」と考えだしたら、即確認したくなり確認しました。1ページに納められているのが9日分で119ページになっていました。つまり、119ページ×9コマ=1071コマです。素晴らしい私の財産だと思うと共にもう一つ思ったのは「いつからこのコラムを始めたか」と言う事と「連続更新記録はいつから始まったのか」の2点です。そして調べました。

コラム開始日は2008年7月21日でついでに言うと始めた頃は7月21日の次が7月28日で次は8月10日で次が9月1日だったのです。と言う事は書き始めた頃は飛び飛びのとーーーーび飛びだったのです。しかも、せいぜい300文字程度・・・。二つ目の疑問は2018年8月24日からでした。しかも、毎日の様に1000文字をはるかに超えた文字数で・・・。

笑えるのは2008年7月から2018年8月までの約10年で119ページの内の44ページで残りの75ページは1年10カ月だと言うことです。この1年10カ月は「自分でも誉めてあげたい」気分ですが、この連続更新によってリピーターの方も増えてきたようです。これからも更新記録を延ばし続けると共に中身の充実も図っていきますので今後ともよろしくお願いいたします。

昨日も触れた高田好胤師の言葉について再考します

大谷徹奘師の師匠の高田好胤師の『苦労と仲よくすれば  きっと  苦労が味方して  助けてくれます』の言葉を改めて私自身の人生に基づいて語る事にします。

(このコラムのコーナーで何度も触れていることですが)私は小さい頃は対人恐怖症で赤面症だった事もあり、自分がやりたい事があっても『始めの一歩』が出なくて、誰かが私がしたかった事をやり始めてうじうじとしている事ばかりで、『宏君は何も出来ない』的な子だったと思います。だから話をしたりする場面では『ぼそぼそ』とした話し方だった為に声がこもってしまい、「何を話ているのかわからない」とよく言われて、ますます萎縮した毎日だったと記憶してます。

つまり、『苦労と仲よく』する事を頑なに拒否していた毎日だったと思います。だって『出会い』があってもその出会いを拒む日常だったので『苦労』は全て避けていたと言う事だと思います。そのような生活はまるで庭球ボールを手でグーっと握ったような毎日。そのままの生活が仮に今も続いていたら、今のような状況には百パーセントなっていなかったと思います。

私は中学時代に殆ど受験勉強を一生懸命に努力した記憶がありません。(自慢して言う事ではありませんが)ある日のエピソードを書きます。私が高校2年4月7日に急逝した姉光子さんが、私が中学3年で珍しく2階の自室で勉強していると気を利かせて飲み物とおやつを持ってきてくれた時に私はよだれを滴ながら爆睡していて、姉光子さんの気配を感じて『やばい』と思い、姉光子さんに何かを言わなければとその時思ったんだと思います。だけれども、動揺と寝惚けの中で『意味不明』な事を言ったんだと思います。姉光子さんは「宏、眠いのならお菓子を食べて寝なさい」と優しく声をかけてくれたのを今でも覚えています。(もーーしも、この場面でその当時の春子さんだったら・・・。)結局中学時代には『努力』と言う生活とは無縁ですから、ましてや『苦労』等は笑止千万。だから、公立高校への進学は叶わず(私の時代は優秀な子は公立に進学したので。今とは状況が変わっています。)大垣日大高校一本での高校入学でした。しかしながら、この進学が私にとっては幸運を産んでくれたのです。

と言うのはその当時の大垣日大高校は私が7期生と言うまだまだ校風が固まっていない状況で自由快活な活動が許されていたと思います。1期生が卒業して先生になって教壇に立たれた時が私が3年生の時。私もその頃は自分の気持ちをガンガン表せて・・・。勿論新しい事、誰もがやらなかたた事を行動に移すにはかなりのエネルギーが入りますし、軋轢もありました。しかしながら軋轢が大きければ大きい程に使命感とやり遂げた時の達成感を身を持って味わう事が出来ました。だから、かっこ良く言ってしまうと『苦労』だとは思わず「遮二無二前進あるのみ』だったように思います。

今は私の過去の話をしたりすると「理事長さんは大変なご苦労をされたんですね」と言われる事が多くありますが、私自身は、問題解決に一生懸命で、やっている事を『大変』だとか『苦労』だとか思った事はありません。だから『苦労と仲良く』とは少し意味合いが違うかもしれませんが・・・。確かに胃に穴が開くのではないかと思うような事やお先真っ暗で布団の中から出れないような事はありましたが良い意味での『喉元過ぎれば』は一杯経験したはずですが、有り難い事に今は上手く行った記憶しかありません。

リピーターの皆さん幸福者の私にエールをお願いします。

朝一の天気予報で岐阜の最高気温が33℃だと言ってます

朝から青空で天気予報の最高気温を聞いた瞬間に頭がクラクラです。その時に頭をよぎったのは新規事業の為に旧町営住宅の解体作業をして頂いている方々に大変な作業をお願いしている事です。でも、梅雨に入り雨の中の作業も大変なのでどちらにしても作業をして頂く方に感謝です。本日は10時30分からかつてのデイサービス及びショートステイ利用者さんの葬儀に参列して、13時からは厨房委託業者の日清医療食品のエリアマネージャーの方達との打ち合わせ、14時からは中部電力の方と新規事業の解体工事に伴う電柱撤去の打ち合わせがあります。通常なら電柱撤去は申請を提出してから概ね3ヶ月はかかるそうですが、(申請書提出は5月12日に垂井町からして頂きました。)5月30日に解体業者の入札を行い直ぐにでも解体に取り掛かりたい旨をお願いしてあり、公共性を理解して下さり入札執行日の日に電柱から各住宅に延びている電線は外して頂けたので解体工事は支障なく出来ています。今日の打ち合わせは整地に伴う電柱の撤去の打ち合わせをしに来ていただけたのです。本来であればこちらが無理なお願いをしているので、会社にお邪魔して打ち合わせをするのが本来の姿だと思いその旨を伝えたのですが、本部施設に来て頂けるとの事なので感謝の意をどのようにお伝えすべきかと悩んでいます。(ここからは中部電力との打ち合わせからです。)現地での打ち合わせでの理解不足でその調整の為に来て頂いたようなので、解体と整地を請け負って頂いた新晃の社長さんに連絡するとラッキーな事に会社におみえになり、会社に来て頂けたら打ち合わせが出来るとの事だったので、三者が意思疏通をしっかりすれば話は早いと考えて、慌てて場所移動をすることにしました。そして、解体及び整地を請け負って下さった新晃の社長さんと中電の責任者の方と理事長である私の三者で急遽打ち合わせをすることになりました。やはり、お互いの事情をそれぞれに話をしていくとお互いに譲歩すべきをしていく形で話がまとまり、最後は笑顔で散会することが出来ました。『案ずるより産むが易し』で素早い行動により上手く行く結果になりました。と言うことは一生懸命は良い結果が生まれると言う事でしょうか。等と考えながら施設に帰ると奈良の薬師寺の執事長の大谷徹奘師から『第11回メールde法話会』が届いていて、徹奘師の師匠の高田好胤の『苦労と仲よくすれば  きっと  苦労が味方して  助けてくれます』が届いていました。うーん深い言葉だけど昔から『苦労は買ってでもしろ』にも通ずるし、私も火中の栗を拾うような事をしてきた事が今につながっていると思うので今の生き方を全うしていきたいと思います。最後に本日は33℃と暑かったです。正直頭がガンガンもしました。リピーターの皆さんも暑さ対策の一環で水分を一杯採って下さい。勿論ビールを水分と思ってたくさん飲んではいけませんよ。あれはアルコールですがら・・・。

高田好胤和上筆 機関誌「薬師寺」81号より転載.JEPG (002)

解体2日目

令和2年6月4日

13時30分から全国老施協パンフレットプロジェクト会議がウェブ会議で行われ総務・組織委員会の三役が中心になっての会員促進パンフレットの打ち合わせを総務・組織委員会幹事の田中君の進行で始まりました、冒頭広報担当の木村副会長が挨拶をされ次に総務・組織委員長の私がさせて頂きました。

その挨拶の中では新型コロナの影響により、計画していた事が出来ない事により、昨年度からの継続事業が分断された状況で、パンフレットについても予定通りに進まず忸怩たる思いはあるが、災いを転じて時間的余裕が出来たことを理解してより良いものを作りたいと話をしました。

その後、入会促進パンフレットの検討を行い、その中では非会員の施設が全国老施協に魅力とメリットを感じて貰えるものにしていきたいとの思いで検討しました。そして、入会促進パンフレットについては総務・組織委員会の一人ひとりに思いがあるので、改めて委員会のメンバーと朝日広告とで検討する事になりました。10分の休憩の後、法人パンフレットの検討が行われ予定の16時をはるかにまわって終了しました。

会議終了後、今月から本館2階の主任になった職員に『幹部職員としての心得』について話をしていて、17時前になり、昨日から始まった解体工事の進捗を見にいくと、3グループに分かれてそれぞれが6人ずつで大型重機を駆使して作業を効率良くしてくれていて、早いところは、1棟が倒され土台のコンクリートもめくられてきれいに片付いているところもあり、ビックリしてしまいました。

作業をされている方の人数が3グループそれぞれ6人の合計18人だったので、「せいぜい作業されているのは10人程度だろう。」と考え昨日ゲンキー(ドラックストア)で買ったペットボトルのお茶と手土産用の『優・悠・邑』の名前が入った味噌入り煎餅10人分を紙袋に準備して1グループ目に渡すと後のグループ全員に渡らないと考え、私の車が置いてあるところに戻り6人分を2つ作り「大変な仕事を時間がない事を承知で引き受けて下さりありがとう」と言いながら回りました。

業者として慣れてみえるとは言え解体したものをそれぞれの車に仕分けして整然と積んであるのを見て感心してしまいました。リピーターの皆さん。作業をされてみえる方はそれぞれに若い方ばかりでしたが、みんな一生懸命に作業されていて、改めて『今時の若者も捨てたもんでないな』と思いました。それに、帰られる時もしっかり挨拶して貰えたし。本当に有り難い事です。

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いよいよ新規事業が起動しはじめました

令和2年6月3日

午前中に和合の第三者委員の委嘱状をお持ちして先般の選任委員会で承認していただいた二人の方の家に行き直接委嘱状をお渡ししました。今回委嘱をさせていただくお二人の方は優・悠・邑和合設立当時の和合地区連合会長さんと和合本町の自治会長さんで和合の施設が事業開始前からの理解者であり、地元の生き字引のような方ですので安心して第三者委員をしていただくに相応しい方です。

お二人の家にそれぞれ訪問させて頂き委嘱状を手渡しさせていただいたのですがそれぞれが79歳、78歳との事でしたがとてもお元気で正直私も久しぶりにお会いしたのですが、事業開始前後の事でそれぞれに話が盛り上がりました。その後、本部施設に戻り書類の整理をしていて、介護安定センターから会議を開けない代わりの質問状が着ていたので、それに答えたりしながら、乾垂井町会議員さんに、新規事業の事で連絡すると『解体作業が急ピッチでされていますね。』と言われたので、書類の整理が1段落したタイミングで旧町営住宅の解体作業現場を見に行ってビックリしました。

と言うのは先週の土曜日(5月30日)に地元の会社である新晃さんが落札して下さり、月曜日(6月1日)に契約書を交わすと共に廃棄物の書類に判を押して2日後の本日大きな重機が3台入りガラス戸は全部撤去され畳もトラックに積まれ、場所によっては家屋が完全になくなり正に屋根をめくる作業がされているのです。

大型重機を操作されているところに近つくと、運転されていた方がわざわざ操作を止めて私のところに来て下さったので、私は思わず「凄い勢いで進んでいますね。」と言うと「出来るだけ早くに解体するように言われています。」とにこにこしながら答えてくださり直ぐに重機に戻り作業を再開して下さりました。6月半ばには梅雨入りも予想されるので、業者の方には大変なるプレッシャーをかけながらの作業になり申し訳ないなと思いましたので、現地から施設に戻る途中でゲンキー(ドラックストア)により、ペットボトルのお茶を一箱購入して私の車に積んでおき作業をして頂く職人さんに飲んで頂けるようにしました。

先月の5月12日に垂井町と町営住宅跡地の購入契約を結んでからは、駐車場へのアクセスを安易にするための道路確保の為の土地の交渉も順調に行き、解体作業も急ピッチでして頂いている事に感謝すると共に改めて岐阜県で唯一の盲養護老人ホームをより快適な居住空間になるようにしていきますので、リピーターの皆さんも見守っていて下さい。

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岐阜県が誇る政治家『大野伴睦』の特集を見てPART②

昨日の『大野伴睦』のコラムは週刊現代の史実に基づいたものでしたが、その記事を読んでの私なりの解釈の仕方で本日は思うがままに述べる事にします。私が大野伴睦に対して一番魅力に感じたのは一ヶ月半の獄中生活を送り、出所後親に勘当され、尚且つ明治大学も退学の憂き目にあいながらも、思うがままに行動して活路を拓く信念の持ち主だと言うことです。大野伴睦さんの時代にも官僚が政治の中心にいる傾向が強かったようですが『人情集団』を束ねて行く統率力は人間味の魅力で一杯だったのだと思います。今の時代も政治の中心にややもすると官僚がなってしまうのですが、官僚から政治家になるルートの中には『サラリーマン的発想』での動きになってしまう傾向が強いのではないでしょうか。勿論官僚出身者の中にもそうではなく、熱く政治をされている方はおみえですが・・・。やや話題がそれますが、最近の出来事で、野党として与党・政府批判の急先鋒に立たれていた方が自民党入りを表明された方があるとの記事を見て、政治家の政治に対する信条とはいったいどのようなものなのかとおおいなる疑問を持ったものですから。確かに伴睦さんの名せりふの中にも『猿は木から落ちても猿だが、政治家が選挙に落ちたらただの人』と言うのがあるそうですが、伴睦さんが言われているのは『ぶれない政治信条を持って』との思いがあっての事だと思うのですが、新たな党を作っては入党したり離党したりを繰り返されて議員として生きていかれるのはどのような政治信条があるのかと思ってしまう私は考え違いをしているのか?リピーターの皆さんのお考えをお聞かせ願いたいと思うのですが。今の自民党結党の立役者は大野伴睦さんだとの事。その当時『自由党』と『民主党』を一緒にして政治の中心者と確固たるものにするとの強い意志には凄まじいエネルギーと葛藤が交錯したと思うのですが正直凄いと思います。来るべき日本の高度成長期を迎える中では素晴らしい決断だったと思います。最後に大野伴睦さんの孫である大野参議院議員の国会事務所には『義理と人情とやせがまん』の直筆の書が掛かっている(私も拝見してます)のですが最後の『やせがまん』の文字には伴睦さんの真骨頂と末代までの教えがこの言葉には託されていると私は思っています。私が守っている遺訓は中村博彦会長の『労は惜しまず』と『行動の老施協』ですが、改めて思うのは人が真似できない実績を残された方の言葉はめちゃくちゃ重みがあると思うのですが、リピーターの皆さんはどのように思われますか。杉和会の始祖である私はどんな遺訓を残せば良いのか・・・。いやいや遺訓を残すような器でなかったです。前言を取り消します。忘れて下さい。後20年活躍できてから考えます・・・。でも、その時はいくつになってるの。いやいや先の事は考えず目の前の事を全力でするのか私の生き方でした・・・。

岐阜県が誇る政治家『大野伴睦』の特集を見て

『大野伴睦』と言う偉大な政治家が岐阜県から輩出されていて、総理大臣にはなれなかったが自民党副総裁で新幹線の岐阜羽島駅を地域誘導で誘致して、今でも駅前に銅像がある事は知っていましたが、週刊現代6月6日号に特集があり、改めて偉大な政治家であることを認識しましたので私なりの受け止め方で述べてみます。その特集は『昭和の怪物』研究の記事に書いてありました。1ページ目には『政治は義理と人情だ』『裏切るくらいなら、裏切られることを選ぶ』とあり、先ずは「浪花節大いに結構」と思い記事を読んで行く内に魅力一杯と思った次第です。そして『反エリートの重鎮「伴ちゃん」が遺したもの』見出しを見て【今年、結党65周年を迎えた自由民主党は、党員108万人(昨年末時点)を誇り、現在に至るまで、政権与党として日本を率いてきた。だが、「自民党を創ったのは誰か?」と問えば、真っ先に名が挙がるのが、大野伴睦初代副総裁である。この男がいなければ、自民党は誕生していなかった。】との記事を見て私は改めて「岐阜が誇るめっちゃ凄い人やったんや」と恥ずかしながら思うと共に同郷であることが嬉しくなりました。昭和33年に、当時の自民党「8大派閥」の実態を描いた渡辺恒雄・現読売新聞グループ本じゃ主筆の著書『派閥』では、こう紹介している。【大野派という所は恐らく保守党内の派閥としてはもっとも団結の固いグループであり、大野派の会合ほどなごやかな雰囲気で終始するところはないといえよう。大野派の団結は、子分たちの政策論議や思想統一によって維持されているのではなく、親分伴睦の人柄によってかたまり、その統制力はきわめて強大である。】伴睦の孫である大野康正参議院の述懐で「ある夜更け、自宅に泥棒が入ったのですが、祖父は翌日からの外遊の為に枕元においていた60万円を渡し、『いまはこれしかないが、もっと要るのか?』と心配げに聞いた。すると泥棒は恐縮して、『必ず働いて返します』と頭を垂れた」との話にはスケールの大きな人情家だったのだと思いました。大正13年、昭和3年と地元の岐阜から立候補するも落選。昭和5年の3度目の選挙では、政友会の公認が得られず、「非」の字だけ極小にしたポスターを貼った。選挙戦終盤になって大野優勢が伝えられると、政友会本部から追加公認の電報が届いた。だが大野は「公認返上ス   クソクラエ  伴睦」と汳電。39歳で国会議員になった。】とあります。今回紹介しきれなかったエピソードを見ていても、『普通でない生き方と度胸良く振る舞って活路を見出だした傑出した人物だとわかりました。リピーターの皆さん私と伴睦さんでは生きた時代もスケールも違いますが『熱い生き方には色々な救いがある」は同じだなと感じました。

正直昨夜は今後の戦略を考えていて眠れず本日は新規事業の対応と岐阜県老施協正副委員長会議でじっくり構える事が出来ずコラムも意を尽くせませんが次にリベンジしますのでご容赦下さい。

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