令和6年12月7日
(昨日の続きです。)四国遍路の歩き団参から帰ってからは人生が大きく変わりました。それは体質から変わったと思っています。と言うのは夏の団参を終えたその年の冬から、毎年冬には苦労していた『しもやけ』に一切ならなくなりましたし、よく鼻血を出していたのですがその様な事もなくなりました。但し、今でも時に高熱を出すことがありますが、これはオーバーワークによる結果だと思います。(この現象は母秋江さんが「ゆっくり体を休めなさい。」との警告だと考えています。)私の生き方としても大きく変わりました。
それまでの私は誰かの後ろからついていくスタンスだったのが、正しいと思った事に対して何事も積極的に行動する生き方に変わりました。その中から『相手を思いやり、その人に寄り添う事』を実践してきました。(時には正義感が強すぎて暴走して迷惑をかける事もありましたが、その都度、私を助けて下さる方がありました。)大学時代は大学の講義以外で色んな方に巡り合いました。その中でも色んなサークルに関わりましたが特に文化庁出身の祝(はふり)宮静先生には色んな体験の中で色んな事を学ばせて頂きました。
大学を卒業して2年間は父進さんの進めもあり教員生活を送ったのですが、私の正確には会わなくて教員を辞めて見事父進さんに勘当されましたが、今から考えると父進さんの思いやりと配慮だったと思います。勘当生活の5か月間は大学のサークルでご縁を頂いていた徳山村の語り部でアマチュアカメラマンで写真集を5冊も出された増山たづ子さんが経営されていた民宿で居候生活をさせて貰いました。そんな中その当時学校長をされていた馬淵先生が徳山村まで来て下さり児童養護施設を紹介して下さり初めて福祉に関わらせて頂く事になりました。
思いっきり児童養護施設の指導員を13年させて頂いたのですが35歳の時にアメリカ研修の機会を得て、在宅でのサポートに興味を持ち、38歳の3月で児童養護施設を退職して私の志を理解して頂いていた別の施設の当時施設長をされていた土屋先生の指導を受ける中で、その当時日本福祉大学中央福祉専門学校長だった吉田宏岳先生に巡り合い、私の志を理解して頂き私が社会福祉法人杉和会設立に対しても多大な支援をして頂き設立当初は杉和会の筆頭理事も勤めて頂きました。平成18年には全国老施協の当時の会長であった中村博彦先生にも色んなご教授を頂きました。
まだまだ色んな方のご支援を頂き今があるのですが、私の生き方は色んな素敵な出会いの中で今があると思います。一人が欠けても今はないと言えます。人生にもしもと言う事はありませんが母秋江さんが長生きだったら、今でも私は真綿に包まれていて何も出来ない人間だったかも知れませんし、姉光子さんが23歳で急逝しなかったら四国遍路の出会いもなかったかも知れません。と言う事で今を大切にこれからも頑張りますのでリピーターの皆さんこれからもよろしくお願いいたします。