3月20日のコラムを19日18時40分から書いています。

令和6年3月19日

昨日のコラムで「何で翌日の原稿を書いているの」との理由を書く様にリピーターの皆さんにお約束したので、先ずはその理由を書きます。正直「とほほ」なのですが・・・。

私が新しいスマホに大苦戦している事は、リピーターの皆さんなら良くご存じだと思うのですが、正直スマホで1000文字以上のコラムを打ちこむ自信が無いのです。と言うのも打ち込み方は学習したのですが、しっかり押したつもりでも全く違う文字が入ってしまい・・・。今は何とか文字の削除の仕方は覚えたものの「スマホでコラムを打ちこむのは絶対に無理」と言う事で、コラム更新記録が途絶えてしまうのは駄目だから、との思いで翌日の原稿を打っている次第です。

明日は東京で11時から全国介護福祉政治連盟の役員会があり、13時30分からは全国老施協の代議員総会があり、我が家を朝早く出て岐阜羽島から新幹線で東京に行きます。ガラケーの携帯の時には新幹線の2時間の間にコラムの原稿は楽勝で書けました。勿論、帰りの新幹線の中でも楽勝に書けました。「でも、でも、でも。スマホでは無理なんです・・・。」だから、かつての私は「時間を有効利用してコラムの継続が出来ている。」と豪語していたのです。

本日はクタクタの状態で何とかパソコンに向かって頑張っているのですが、明日の私は新幹線の中での2時間をどの様に過ごそうかと悩んでしまいます。と言うのは、ジッと何もしないで座っている事が出来ない性分だからです。『多動性』と言われても仕方が無いですが、今の私はそんな生き方しか出来ないので。そう言う意味では、小さい頃の私とは真逆な生き方だと思います。小学3年までくらいは、母秋江の後ろにいたら何もしないで済んでしまったし、中学校時代までは、姉二人にもたれていたし(春子さんには大変お世話になりました。コラムの中ではありますが深くふか~く感謝しておりまする。)でもね、必ず反動はあるのです。だから今はガンガン出来るのです。こんな私になった事に感謝です。リピーターの皆さん何もかもが「感謝、感謝、かんしゃ、カンシャ」なのであります。

この原稿は、本日宿直の五次副施設長に明日の朝一でアップして頂きます。アップされた頃は新幹線の中なのでスマホで確認しますが、リピーターの皆さんはあまりに早いアップに驚かないで下さい。

追加

コラムです。東京行き7時33分の列車に予定通り乗れました。2時間乗る事になるのでスマホで色々試そうとして、コラムが打てるか試してみると間違いをしながらも発見があり、文字通り走りながら理解しています。試していて気が付いた事は、スマホの扱いは優しく扱う事が肝要だと痛切に感じました。

本日は、午前は平河町にある本部事務所の会議室で介護福祉政治連盟の役員会があり、午後は場所を移して全国老施協の代議員総会に参加します。本部に1時間以上早く行くのは、石川県への災害派遣の打ち合わせや、昨年開催した岐阜での全国大会で気が付いた事を報告して、来年度の滋賀大会に活かして貰えればと思っているからです。

今スマホでコラムを打ちながらつくづく思うのは、意外とスマホが私の言う事を聞いてくれていると言う事です。と言う事は、久しぶりの東京出張も役にたったと言うことなのかと思っています。いつもは時間に追われる様な毎日で、操作をしていて思うように操作が出来なくて、職員に教えて貰っても上の空で、聞いたことが理解出来ないのを職員の性にしていたように思います。自分の振り返りの為にも今回の出張は有効だったと言う事です。これで順調に送信出来たならば、昨日の焦って2日分を書いたのは何だったのかと言う事になりますが、これも経験の内と言う事で。

リピーターの皆さん、私はこんな人間なのであります。東京に着くまでに本日のコラムが書けてしまいました。帰りの列車の中では明日のコラムを書くとしますか。

日曜劇場「さよならマエストロ」の最終章を見終えて

令和6年3月18日

10回シリーズが終了しました。『VIBANT』程の衝撃は有りませんでしたが、毎週楽しみにしていたので、最近は『見逃し配信』と言うのもあるそうですが、律義に録画もセットすると共に放映されたものも見ました。と言う事で昨日の最終章も眠い目を擦りながらも見る事が出来ました。最終章と言うのに第1回目からの疑問がまだ解決していなかったので「最終回でその謎が解けるんだろう。」と見ていて本当に最後の最後で理解出来ました。その謎とは「題名のさよならマエストロの『さよなら』の意味です。」

第1回の時には一流の指揮者(マエストロ)として活躍出来る様になった時に、バイオリニストの娘が期待に応えられないプレッシャーで大会会場から逃げ出してしまい、その日から指揮者としての指揮棒を持たないで、家族(奥さん、娘、息子)は日本に帰りドイツで単身の生活をしていて、主人公(マエストロ)は音楽以外の事は全く出来ない設定で5年間も家族とは離れたままで、自分では何とも出来ないので奥さんが嘘をついて主人公を日本に呼び戻す・・・。

視聴されていないリピーターの方にしてみたら「何の話だ。」との誹りを受けそうなコラムになっている事に今になって思いましたが、もう一つ感じた事を書きます。それは『家族の携帯が多様化してきている』と言う事です。夫婦は離婚しても、子どもは共通だとの中で何かがあったらみんなで集まると言うのは今どきの発想だとも思いました。「なんのこっちゃ」と思われているリピーターの皆さんに、敢えて弁解させて下さい。

午前中に岐阜県社会福祉協議会の理事会があり、10時からの会議の前後には、会議の同じフロアにある岐阜県老人福祉施設協議会事務局の打ち合わせを入れ、終了後は和合の施設に移動して幹部会に挑み、会議終了後に本部施設に移動してコラムを書こうとしていると、厨房委託業者さんと、オムツ提供業務の方が値上げの協議の為にみえるし、インドネシアの大学の先生がインターンシップの受け入れの為の電話はくるしで、じっくりとコラムを書く事が出来ない状況で、しかも明日のコラムも本日の内に書きたい(理由は明日のコラムで)との事で焦っているので余計に書けないのです。この辺でご勘弁を・・・。

社会福祉法人杉和会の令和6年度指針を作成しました。

令和6年3月17日

3月20日に社会福祉法人杉和会の理事会があるのに合わせて令和6年度の法人の指針を提案しなければいけないので、法人本部のある関ケ原の施設でパソコンに向かい作成しました。本日は指針作りに集中したのでそのままコラムの記事とします。

【コロナ感染症が昨年5月8日に2類から5類になったとは言え、感染症対策を怠る事無くおこなう事により『平安之福』の生活をしっかり堅持すると共に、今年元旦に起きた能登沖の地震を教訓にして防災についても再構築をしてこれまた『平安之福』の生活にしていく。

法人理念を昨年度までの「すべてに優(やさ)しく いつまでも悠(ゆとり)ある やすらぎの邑(ばしょ)を実現します。」から、法人発足時の「すべてに優(やさ)しく いつまでも悠(ゆとり)ある やすらぎの邑(ばしょ)でありたい。」に戻す事により初心の思いを大切にしつつ入居者さん、利用者さん、職員に笑顔溢れる施設の構築に努める事により、地域の方々からより信頼を持って頂ける様に職員一丸で邁進していく。

職員がゆとりを持った対応が出来る為に、国の補助金が確保出来たのでロボット・ICTの導入により業務の省力化を計り余裕の出来た時間を今迄以上に入居者さん、利用者さんとの時間の充実に取り組んでいく。また、3拠点施設の良さをお互いに共有できる仕組み作りに取り組む事により職員同士の切磋琢磨が出来る様にしていきたい。

地域と共に歩む中で今まで以上に地域の思いを法人の特性を生かして活動しく事により、地域の中でより信頼を得ることに邁進していきます。】以上の指針に基づき職員が一丸となり、地域からより信頼される様に理事長を先頭に頑張っていきますので、リピーターの皆さん、温かいご支援を宜しくお願い致します。

岐阜新聞の記事から

【路上の戦後史】の大きな見出しで「『ヤンキー』日本様式に」「リーゼントに学ラン、全国へ」の見出しに興味を持って読ませて頂きました。記事の中では「ヤンキー」「ツッパリ」日本が生んだ最大の若者文化であると断言してあり私は正に私が高校生、大学生の時代の事だったなと思った次第です。

記事を読んでいく中で「『ヤンキー』はアメリカ人の俗称だが、日本の不良少年たちが何故そう呼ばれるようになったのかは定かでない。彼らの登場時期としては、1960年代後半の横須賀の若者たちが元祖との説がある。横須賀には米海軍の基地があり、当時はベトナム戦争に従軍する若い兵士たちも寄港した時に街にでただろうから、路上の日米交流があったかもしれない。」とあり、『ヤンキー』にそんな由来があった事など全く知らなかったと言う事は新聞とは視野を広げるものだと改めて思った次第です。

記事は続きます。「リーゼントやロックンロールは戦後アメリカの不良文化に由来するが、そこにさまざまな要素が加えられ、日本固有の様式へと変化していく。とりわけ70年代に世間を騒がせた暴走族は『特攻服』と呼ばれたツナギ服、労働着、鉢巻などをまとい、旗を持って改造バイクで集団走行すると言うユニークなスタイルを全国に広めた。70年代後半~80年代前半、原宿の歩行者天国では、フィフティーズ・ファッションを身に着けて、ラジカセから流れるロックンロールに合わせて踊る『ローラー』と呼ばれる若者たちが現れている。彼らは暴走族のような危険なことよりも、ストリートで楽しく遊びたい、目立ちたいと言う欲求に素直に従っていた。ホコ天には、より奇抜な服を着てダンスするグループ『竹の子族』も登場している。当時は受験戦争や管理教育が過熱し、若者が校内暴力など反学校行動に走った時期。フィフティーズ・ファッションにはそんな彼らの心情も仮託されていた。」以上の記事を読みながら「高校生の時にはリーゼントの高校生も沢山いたけど私はロン毛で通していたな。学ランの知り合いも沢山いたし短ランの子もいたな。だけど私は全く興味がなかったな。」と懐かしく思ったものです。

そして私が教員を辞し児童養護施設の指導員をしていた頃は中学校も荒れていて、校舎内の廊下を自転車で走り抜ける子だいたなと懐かしく思い出しました。どの時代でも押さえつけると反発する子が出てくるもんだとも思った次第です。色んな事を若者がしてくれるから面白いのだから今の若者ももっと元気でいて欲しいなとわけの分からない事を思った次第です。

介護労働安定センターの賛助会員交流会に参加しました

令和6年3月15日

13時30分からワークプラザ岐阜で交流会に参加しました。参加者は20人だったのですが、それぞれに事業所の責任者が参加されているので、研修会が始まる前に名刺交換をして定刻の13時30分に開会が宣言され、岐阜支部長さんと理事長さんが挨拶されました。その後交流会になり、事務局長さんから「介護報酬改定について」の講演がありました。理事長さんも事務局長さんも東京本部からきて頂く力の入れようであったのには驚くばかりでした。実は事務局長さんは元厚生労働省の審議官であり、事務局長になられる前は全国老施協の事務局で専務として大変お世話になった方なので久しぶりに会えるのを楽しみにしていたし、お話は厚労省とのやり取りを織り交ぜながら軽妙に話されたので楽しく興味を持って聞く事が出来ました。

公演は15時に終了して10分の休憩を挟み、賛助会員を2グループに分けての意見交換会の時間になり、私のグループの進行役は社労士の方がされて順番にそれぞれの意見を発表する形で進行されて行くのですが、異口同音の様に人材確保に困られている状況が理解出来ました。私の順番になり「今後はますます新規学卒者を採用するのは厳しい状況の中、外国人介護者の導入が必要です。確保出来たらそれで良いと言う事では無く、質を上げていく為にアウトソーシングも含めて実施していかなければいけない。

また、給与の見直しをしてモチベーションアップにつながるようにしていかなければいけないと思います。」と意見を言わせて頂くと、色んな方から質問を投げかけられたので、丁寧に答えていきました。終了時間になり、取りまとめの意見を言う事になり、支所長さんから私が指名されたのでコンパクトにお話をさせて頂きました。全てのプログラムが終わり、会員の皆さんに挨拶をすると共に支所長さん、理事長さんに挨拶をしてから、北條事務局長さんに「再開出来るのを楽しみにしています。」と話をして、3階から階段で降りて、車に戻り急いで本部施設に向かいました。と言うのは17時30分に業者さんの打ち合わせを入れてあったからです。17時20分に本部施設に着くと既に業者さんが会議室にみえているのが分かったので急いで会議室に行き1時間あまり打ち合わせをしてから書類の整理とコラムを打ちました。何とか20時までに帰れそうですのでゆっくり湯船に浸かり身体を癒し明日も目一杯の予定が入っているのでしっかり寝ます。

コラム連続掲載の危機

令和6年3月14日

昨日は17時30分から補助金の打ち合わせがあり、コラムも中途半端な状態で打ち合わせ後に書き出すと職員からの相談があったりして、17時30分前に前日移動販売で緊急用に飼っておいたジャムパンを1個ほおばりながらパソコンとにらめっこしながらコラムを打ち終えたのが21時と言う事で我が家での夕食は無しにしてお風呂に入り寝る事にしました。前の夜花粉症の為に連続くしゃみが思いきり7連発。その影響か朝から後背に痛みがあり、時には激痛で息も出来ない状態で・・・。(会議中に激痛が走った時は身体を変に動かす事が出来ず困りました。)とにかく疲れていたので直ぐに眠りにつけましたが午前3時に目が覚めて色々考えていると再び眠る事が出来ず、その時考えていたことの一つが「コラムの連続掲載が出来なくなる。」と言う事だったのです。

と言うのは9時には業者の方と契約更新の打ち合わせがあり、10時からは3施設合同幹部会があり、昼食をとった後は和合に移動して13時30分から多職種連携の会議があり、その後は東京からおみえになるお客様の対応があるのでコラムを書く時間が無いのです。そんな事を考えながらの「9時からコラムを書く時間が無いのであれば9時までに書けば良い。」との結論を出し、再び眠る事にしました。6時過ぎには目覚めたので朝食をとり(昨日は夕方にパン1個だったのに空腹感は有りません。

と言う事は日常が食べ過ぎなのか・・・。)スーツに着替えて本部施設に行きパソコンに向かいコラムを書いています。朝早くには職員からの相談も無く順調にコラムが書けそうなので「コラム連続掲載記録」が挫折する事も無く『危機』は逃れられました。「時間は作るもの」「忙しい人の方が効率よく仕事が出来る。」と自画自賛です。確かにもっと凄い危機があったなと思い出しました。それは名古屋市民病院で網膜剝離と黄斑円孔の手術をした時です。

一晩中下を向いて寝なければいけなくてしかも片目は眼帯をしている状態だったのですがベットの下に穴が空いていて携帯を穴の下で支えながら原稿を打った事を思い出しました。あの状態を考えたら朝少しゆっくりする時間が無かったのだとはなんと言う事もないなと思っています。とにかくリピーターの皆さん、連続更新に拍手をお願いします。

職員確保の充実の為に

合計特殊出生率が1.57になった平成元年の時に『1.57ショック』と言われてからもその数字は一向に改善されるどころか下降の一途である事は周知の事実です。日本の経済成長を支えてきたのは『人口増』により、日本人の購買力が逞しかった事と就労人口が伸びていった事が起因だと思います。そう言う意味では、経済成長も鈍化して、賃金が上がらない中で物価上昇を抑えるデフレスパイラルによって世界経済の中で「アメリカに次いで2位だ」と言っていたのだ先進7か国で一番最後になり、いずれはインドネシアにまで追い越されるとさえ言われている状況の中で今更ではありますが「賃金アップ」を政府が言い出し、大手企業は追随する「労働組合の要求に満額回答」とか「要求以上の回答」とのニュースが景気良く流れているが、「景気の良い中小企業がどれだけあるのか」と思ったり、「介護事業所が給与面で大手企業に肩をならべるには介護報酬をかなりあげて頂かなくてはいけないので、現実的ではない。」と言わざるを得ない。

コロナ感染症対策の一貫で一時は他産業からの(特に飲食業)転職も極一部ではありましたが、昨年の5月8日にコロナ感染症が2類から5類になり、職員採用はますます難しくなっています。就労人口がどんどん減って行く中で、介護職が魅力ある職業にしていく事は大切だと思います。その為の情報発信をする為に来年度に計画している事はホームページのリニューアルで職員採用に力点をおいていきたい。その中で給与面に対して基本給の見直しと共に手当の充実に対する提案に知恵を絞っていきたいと考えています。また、ロボット・ICTの補助金を頂いたので記録に掛ける時間の効率化をはかり、ケアの効率化を図っていきたい。その先進的な情報をホームページ等で発信して学生さんから指示される事によって一人でも二人でも新卒者を採用出来たらと考えています。また、外国人材も多く採用したので外国人向けの日本語力と介護の知識と実践の充実の為にアウトソーシングも含めた対応に力を注ぐ事によって職員の底上げをしていきたい。その為には総力を挙げて現場力高めれる様な方向づけを示していきたい。

宮崎駿さんについての個人的見解です。

令和6年3月12日

宮崎駿さんは1941年1月5日生まれですから満83歳と言う事ですが、ニュースではアメリカで映画の最高峰の栄誉であるアカデミー賞の受賞が決まったとの事で、83歳にしての制作意欲には「素晴らしい」の言葉だけでは言い表せないものがあります。私より1回り(12歳)年上なのですから。私が12年後に現役バリバリでしかも秀でた存在でいられるのかと思うと・・・。心もとないです。

2001年に『千と千尋の神隠し』でアカデミー賞を受賞されたのが正直絶頂期で、2013年に『風立ちぬ』の作品を制作された時には引退宣言の様に「もう作品は作らない」と言われたと聞いています。それから10年の月日を経て『君たちはどう生きるか』と言う作品を制作され、名当たる方の作品を尻除けての受賞ですから言葉に言い表せないくらいの出来事です。引退宣言を撤回しての受賞と言う事絵宮崎駿さん自身は「一旦引退を表明したものが受賞したからと言って晴れの舞台に出るのはおこがましい。」的な発言があった様に聞いていますが、その話を聞いて私は83歳にして「シャイな方で少年の様な心の持ち主だな。」と思いました。その様な方だからこそ素晴らしい作品が出来るのだと思った次第です。

私も宮崎駿監督の様にいくつになっても頭柔らかく活動できる様に頑張りますので、リピーターの皆さん、これからもよろしくお願いします。

 

赤ちゃんのパフォーマンスには参りました

赤ちゃんのパフォーマンスには参りました

 

午前10時から優・悠・邑 和合で色んな趣向を取り入れて歌や踊りをして下さるのです。そのボランティアは『てるてる座』と言って本部施設では20年近くも来て頂いているのですが、準備の都合もあり、9時20分には来て下さったのですが、その中に座長の娘さんとその子ども(座長にとっては孫)も来て下さったのです。私が玄関を入って行くと丁度1歳になる座長のお孫さんは長くて広い廊下を好きなようにハイハイしているのです。私はその姿を見ただけでメロメロになってしまいました。入居者さんが一堂に集まって楽しんで貰う為に2階の会場で実施して貰うので、私も2階に行くと入居者さんは集まってみえて座長のお孫さんはハイハイしては座り込んで両手を挙げたりするのが可愛くて思わず見とれてしまいました。賑やかな催しが始まっても赤ちゃんは全く動じる事も無く、座長がおんぶして会場に出てきた時もなく事も無く座員としての役割をこなしてくれています。座長の娘さんが歌に合わせてフラダンスを踊って貰っている間も大人しく見ているのには感心するのを通り越して感動でした。

全ての催しを終えて着替えをして貰ってから1階の理事長室で飲み物やお菓子を頂いて貰ったのですが、座長の娘さんの膝に乗っていたのですが、ビニール袋に包まれた煎餅を座長がお孫さんに渡していたのですがどの様に袋を開けたのかは定かでないですが、袋に入った煎餅にかぶりついているのです。下の歯2本がビーバーの様に生えていて、娘さんが煎餅ではなくて玉子ボーロ―を口に入れられるといつもは食べているはずの玉子ボーロを吐き出してしまい、煎餅を食べようとするのが可愛くて愛おしくてたまらなかったです。まだ1歳ですから玉子ボーロの様な薄味のものを食べるのが自然なんでしょうが、人間は味の濃いものを好む傾向があるのだと思います。でも早かったかな・・・。煎餅の様なものに目覚めさせるのは。でも1歳くらいの赤ちゃんの仕草は何をしても可愛いものだとしみじみ思いました。

飲み物やお菓子を食べて貰いながらの談笑の時間を終えて玄関先でお見送りをする為に玄関先にいたら、座長の娘さんが「抱っこして下さいますか。」と言うので「喜んで」とばかりに手を差し伸べると赤ちゃんは私の腕の中で大人しくしていてくれたので益々愛おしくなっている時に座長から「知らない人に抱かれると直ぐに泣くのに理事長さんは大丈夫なのは不思議です。」といわれたので益々嬉しくなりました。そして、座長から「大きくなった時に理事長さんに抱っこして貰ったと話が出来ますね。」と言われたのは本当に幸せな時間になりました。

リピーターの皆さん、一生懸命な毎日の中でのご褒美だと思うのですが・・・。

週刊現代の没後40年の有吉佐和子さんの特集から

令和6年3月10日

【1931年生まれで、25歳の時に芥川賞候補となった『地唄』で文壇デビュー。「才女」と注目を浴びてテレビ出演など慌ただしい日々を送ったが、母親から「あなたが何を書いたというのか」と叱られて一念発起。作家として本腰を入れるために、自らの家系をモデルにした『紀ノ川』を発表。これが出世作となり、作家としての地位を確立していく。】との紹介があったのですが、私は最後のページに自筆で書かれた文章が凄く気になった言葉であったので紹介すると共に、私の考え方を書く事にします。

〈けわしい道と知らずに歩き出し、けわしい道と知っても歩き続ける。それが多分、人生なのだろう。〉有吉佐和子さんは作家として生きていく事を最初から志されたのでは無かったのだと思います。極端な書き方をするなら「何となく書けた作品が芥川賞候補となり、「若き女流作家」ともてはやされていたのを母親から戒められてから腹を括って作家の道を全うされたのだと思います。人生にはどこかで有頂天になり、そこから抜け出せないでいる方も多いと思うのですが(私にも心当たりがあります。)有吉佐和子さんには素敵な母親の存在があり、そこで覚悟を決めて全うされたのは素晴らしいと思います。人生には何度か分岐点があるのだと思います。そんな中で大きな柱からズレ無いで走り続ける人生はなかなかないのではないでしょうか。

そう言う意味では、私も色んな意味で分岐点がありましたが、その都度支援して下さる方や助言をして下さる方がみえて、今の事業を全う出来ているのだと思います。そして、自分がやって来た事を信じて頑張って行く事が肝要だとも思っています。

本日は和合で午前中は3階でお参りを、午後は1階でカラオケをさせて頂いたのですが、回数を重ねる毎に温かく迎えて下さるので有難いと思っています。それぞれの職員が自分の特技や趣味を生かしてアクションを起こしていく事によって『集団のダイナミックス』が起きる。それは、文字通り『多職種連携』『他職種連携』と言う事だと思います。これからも自分を信じて頑張って行きますのでリピーターの皆さん、よろしくお願いいたします。

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