2025年01月の記事一覧

昨日のコラムを朝一で確認すると過去の原稿がアップされていて・・・

令和7年1月20日

スマホで確認して正直『目が点』になりました。と言うのは私が大分前に書いた原稿がアップされていたからです。

(確認したところ昨年12月24日のものでした。)「このままでは連続記録で無くなる。」と言う事で7時になった段階で本部施設に連絡をすると宿直だった五次副施設長が出たので直ぐに昨日和合から送信した原稿が来ているかの確認をして貰い送信されている事が確認出来たので直ぐに事情説明する一文の指示を出し直ぐにアップして貰い「何とかクリア」と言う事で私の精神状態は落ち着き、改めて昨日のコラムを見ていくと現行の下の所にお正月の大きな花立の中に我が家の紅梅の木の折れたのを(私的には捨てたもの)再利用してあった紅梅の木から新しい息吹として綺麗な花が咲きている写真が掲載されたていたので改めて実物を見に行くと確かに上の方に細い枝から可憐な花が咲いていました。

正直下の方の花は造花だったのですが写真で見ると本物と上手くマッチングが出来ていたので「上手に見せてあるな」と思うと同時に紅梅の木の生命力には舌を巻く思いでした。と言う事で、お正月飾りの役割を終えたらきちっとした形で植え治したいと考えています。そのことから改めて色んなものにも役割があるので大切にしていきたいと考えています。

本日は10時30分から和合3階でお参りをしました。

昨日、以前の原稿を間違って入れてしまったため、改めて19日分の原稿を入れます。

令和7年1月19日

令和5年8月から和合の施設長として私なりに出来る事をしようと言う事で、2か月が経過したその年の10月から午前はお参りを、午後はカラオケを各フロアで実施することにしました。最初の内は、フロアによっては集まって下さる入居者さんが少ない所もありましたが、『継続は力なり』で徐々に集まる方が増えてくるのと並行して、職員の協力も充実してきました。

3階のフロアでコロナ感染者が複数出ていた関係で、久しぶりのお参りだったのですが、いつも以上にお参りのお経の声に力が入っていたように思いました。正信偈と般若心経のお経を終えてからの私の話として、1月11日に京都三弘法のお参りに神光院・仁和寺・東寺と行った時のお話をさせて頂きました。お話についても一生懸命に耳を傾けて聞いて頂けたので、「これからもお参りとカラオケを頑張ってしていきますので、宜しくお願いします。」と言って話をして、3階のお参りを終えました。

13時30分からは、1階でカラオケをさせて頂きますが、多くの方に歌を歌って頂ける様に進行も含めて頑張りたいと思いながら、このコラムを打っています。1階のカラオケが終了次第、本部施設の向かいにある整体の施術の予約を16時にしているので帰らせて貰う予定でいます。自分の体のコンディションを整えておくのも大切な事だと思うので・・・。

和合の施設(大垣市)と本部施設(関ヶ原町今須)ではこんなに違います

令和7年1月19日

昨日のことですが、本部施設がある我が家を8時20分に出発時に車の温度計は『0℃』を示していたので「和合の施設に着いた時に何度になっているかな。」と思いながら運転していて、関ヶ原の町の通りまで進むと『2℃』を示し、垂井と大垣の境の所まで進むと『3℃』になり、和合の施設の駐車場に着くと『4.5℃』になっていました。

と言う事は4.5℃は間違いなく温度差があると言う事に驚きです。だって距離にして25キロも離れていないのに。でも納得せざるを得ないのは、家を出た時には雪が降っていたのに大垣市内に入ると太陽が雲の間から覗いていたので・・・。

私は来年の干支である『巳年』と言う事で蛇の様にくねくね絡んでしまうところがあるので(そんな時ばかりではありませんが・・・。)和合の施設を出るときにも温度の確認をしました。と言う事で和合での温度は『7℃』でした。「さてさて本部施設では何度になるかな。」と思いつつ車を走らせると段々と温度が下がっていくのが分かって結局本部施設の駐車場に着いた時には『2℃』になっていたので『5℃』のさがある事にショックでした。

でも、冬は大変ですが夏は今須の方が過ごしやすいので「どっちがいいのかな」と思うとともに最近のニュースで「日本の気候が冬と夏だけになってしまうのではないか。」と言っていたので「う~ん。困ってしまうけど『住めば都』と言うから、結論は「まっ、いいか」・・・。リピーターの皆さんはどの様に思われますか。

 

確かに高知県のお酒文化は半端ではないと思いました

週刊現代の最新号(1月25日号)の最初のページに『高知の宴会文化「おきゃく」の楽しみ』との見出しで高知県の酒文化について特集がしてありました。

私も2度高知に全国老施協の関係で訪れた時に「お酒に対する拘りは凄いものがある」と思った事も含めて本日のコラムにします。

私のエピソードの一つ目は15年程前に全国老施協総括幹事として高知県で実施された、若手職員対象のカントリーミーティングに講演及び助言者として参加させて貰った時でした。

高知空港まで迎えに来てくれた若手役員だった牛窓君が車を運転しながら「若山先生、高知ではお酒の早飲み大会が行われて男性は1升、女性は5合を飲んで早さを競うのですが、今年の男性の優勝者のタイムはどのくらいだと思いますか」と言われたので、私はマジに考えて「いくら何でも3分はかかるでしょ」と答えると「先生、高知を嘗めたらあかんですよ」と言うので「だったら2分ですか」と再び答えると牛窓君が嬉しそうな顔をして「先生、まだまだです。」と言うので私の頭は機能不全に陥ったのです。

「一体正解はどれだけですか」と聞き返すと牛窓君が涼しい顔で「13秒何です。」と答えたので、その答えを聞いた時には「そう言えば私が高校生の時にサッカー命の同級生が500mlのコーラをごくごくとでは無くて流しのみしていたのと同じか。それにしてもお酒だぞ。」と感心したのを覚えています。

もう1回は高知県で全国大会があり夜の懇親会で役員としてメインテーブルにいたので、高知県の役員さんがお酒を注ぎに来て頂いた時の話です。

どの役員さんも私を前にして自分が持って来た杯に自分で注いでグっと空けてから、おもむろに私にその杯を渡してお酒を注いでくだれたのです・・ところがその杯は底が開いているので自分の指で押さえながら飲むので一機に飲むことになり、返杯するとまた返杯で後ろに待ってみえる方がおみえになってもお構いなしでの宴会でした。

この2度の経験から高知県はお酒の飲み方が半端ではないと理解しています。

週刊現代の記事の中にも

【「おきゃく」とは高知ならではの宴会のことで、飲酒代が全国の2倍近くに達する酒飲み天国高知の象徴でもある。冠婚葬祭はもちろんの、旧知の仲だろうが初対面だろうが、誰かが来ると「おきゃくしよう」となる】

この記事を読んで改めて高知の凄さを感じていますが、高知県の井上会長とは委員会等でご一緒させて頂く事も多かったので、間違いなく井上会長も酒豪でしたが、そこそこ井上会長と指しでお付き合いできたと言う事は私も酒豪の中に入るのかな~。

令和6年度第三者評価調査委員養成研修実習報告会に参加して

岐阜県社協からの依頼を受けて、令和2年度に第三者評価を受けている施設と言う事で、第三者評価委員養成の為の実習施設として受け入れていた結果報告会が本日、岐阜県福祉会館で行われました。評価は『A』『B』『C』の評価を客観的な聞き取りをして頂いた事に基づいて行われました。『A』ランクは「しっかり出来ている」との評価で『B』ランクは「頑張って実施しているが、もう少し改良の余地があると」の評価で『C』ランクは「今後しっかり計画を立てて実施無ければいけない」との評価でレポートされており、45の項目についてまとめられていました。

結果としては『A』ランクが25項目で『B』ランクが20項目で、『C』ランクは0項目でした。実習指導者の大学の先生から冒頭に「今後の展開にをより良くなって頂きたいので敢えてBランクとさせて頂いたものもありますが理事長さんの思いが色んな形でしっかりされているとの感想も持たせて頂き、私自身も勉強になりました。」との言葉を頂いてから、「A評価については時間の関係で省略させて頂き、B評価についてのコメントをそれぞれに受け持ったところについて説明させ、そのことについてのお考えがあればご指摘を宜しくお願いします。」と言う事でBランクの項目について説明して頂き、調査の段階でしっかり話し出来なかった事も含めて私の方から現場の実態も含めて話をさせて頂きました。

全ての説明を終えてから和合の施設の幹部職員3人から感想も含めて話をさせ終了しました。終了してからの私の思いは「何事も完璧は無いが耳が痛い指摘については真摯に理解して今後に生かしていきたい、」と思いました。第三者の客観的な指摘を聞けたのはとても良かったと思いますので機会があれば正式に第三者評価を受けてみるべきだと思いました。

本日は生母秋江さんの命日です

令和7年1月16日

私が中学1年生の本日1月16日に、子宮癌⇒胃癌⇒肺がん⇒骨癌と転移を繰り返した上で他界しましたので、人生の後半は(と言っても短い人生でしたが)苦しくて辛い闘病生活だったと思います。私は何度もこのコラムで書いていますが、末っ子の長男で、しかも生まれた時から虚弱だったので、母秋江さんにとっては『目の中に入れても痛くない』或いは、「カンガルーの母親がお腹の袋に入れて育てる」くらいに、大切に育てて貰った母秋江さんでした。

13年と言う短い年月でしかなかったのですが、『中身の濃い』母と子の関係でした。母秋江さんは、自分の事より誰よりも私の事を大切にしてくれていたと思います。一つのエピソードを紹介します。

以前にもこのコラムでも書きましたが、私が小さい頃には関ケ原病院(今は関ケ原診療所ですが)の分院として『今須診療所』があり、私はちょっとした事で高熱を出し、常に往診をして貰っていたのですが、正直前後の詳しい事は覚えていないのですが、とにかく診療所も本多先生が私への対応をしっかりして頂けなかった時に、母秋江さんは湯気を出す勢いで怒鳴りに行った結果、本多先生が後日沢山缶詰を持って謝りにみえた事を覚えています。その頃缶詰は貴重なものだったと思いますので、母秋江さんの怒りの凄さが今でも理解出来ます。

自分で言うのも変ですが、『いたいけな』13歳の私を置いて死期を理解した母秋江の心情は、計り知れないものがあったと思います。だからでしょうか、死別して50年以上経過しているにも関わらず、仏壇で或いはお墓でお経を唱えている時には、小さい頃に戻って甘えた事を思っている私がいます。

今の私は母秋江さんに出来なかった恩返しを、施設の入居者さん利用者さんに対して私が出来る精一杯の気持ちで、返しているのだと思っています。そういう意味では今の仕事は『天職』と言えるのかと思ってもいます。この様な書きぶりだと「若山はマザコンか」と言われたら「そうなんです。でも甘える母秋江は50年以上前に他界しているのですが」とややこしい事を言わなければいけません。本日のコラムは母秋江の命日での私のつぶやきですのでご理解頂ければ幸いです。

本部施設はお陰様で26年経過したのですが・・・

26年の経過の中で地域貢献を地道に行ってきた事により、地域での連携がスムーズに行える様になり、施設で行うお祭りが地域行事のイベントの様になっているのは有難い事だと思っています。

平成10年(1998年)5月に事業開始した頃は施設への入居にも違和感を覚える方が多かった事を考えると施設への信頼度は大幅に高くなっていると思います。

本日15時から特浴の新規購入の検討会を業者の方も入れて行いました。

いくら丁寧に尚且つ大切に使用していても特浴機械が劣化しているのは事実で新規購入を考えなければいけない状況です。

新規購入の話をしていくなかで、26年の年月の中で入居される方の身体的状況に大きな開きがあり、お風呂に対する考え方も大きく変わっている事に驚きを覚えなければなりません。

と言うのは、本館の1階にも2階にも8トンのお湯が入るお風呂があります。

そのお風呂には元気な方であれば3段の段差を歩いて入って貰う、跨ぎの厳しい方は手摺が付いたスロープを歩いて貰うと言うものでした。

そして何年か経過してスロープの利用も厳しくなった方であっても大きなお風呂に入りたい希望を叶えるためにリフトを装着した『スロープエース』と言う機械を導入して大きなお風呂を楽しんで頂いていました。

ところが特別養護老人ホーム入居の条件が『要介護1』からであったのが『要介護3』以上に制度が変更になった事もあり、大きなお風呂の需要がどんどん減って来た状況が出てきました。

そんな状況を考慮していくと時代的背景を理解して、その時その時に合ったものを提供していく事の大切さを感じています。

特浴の機械は高価なものですから、慎重に検討して長く使っていけるものにいていきたいと考えています。

むかしから『10年1昔』と言いますが、時代に即したものを提供しながら入居者さん利用者さんに快適な毎日を送って頂ける様に鋭意努力していきますのでリピーターの皆さん今後もご支援よろしくお願いいたします。

本日は月1回のバイキングで鍋料理です

令和7年1月14日

本部施設において月1回のバイキングです。外はやや少なくはなりましたが雪景色です。つまり鍋料理の雰囲気に味方しています。鍋はそれぞれのフロアに準備され、鍋の中の具材としては『白菜』『春菊』『長ネギ』『鶏団子』『たら』『豆腐』『椎茸』『生麩』と盛りたくさんです。しかも鍋料理の他に刺身として『まぐろ』『はまち』があり、副菜に『きゅうり』『しらす』『わかめ』の酢の物です。主食は卵雑炊で『ごはん』『卵』『あさつき』とロールパンサンドで『つな』『いちごジャム』で、デザートには果物の盛り合わせで『いちご』『りんご』と言う豪華なメニューとなっています。メニューを紹介しただけでリピーターの皆さんも「美味しそうで豪華だな」と思って頂けるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

実は昨年4月の介護報酬改正によって『居住費』は1日60円基準額が上がったのに『食費』については全く上がらなかったのです。私は「食糧費も厨房職員の人件費も上がっているのに何故に上がらない。」と思っていたら、事業所の中には「魚の切り身を小さくした。」「おやつを廃止した」「行事食を無しにした」との入居者さん利用者さんにとって不利益な事をして対価を抑えている実態がありました。

私はその様な考え方に怒りを覚えました。勿論「経営が成り立っての運営」である事は百も承知していますが、入居者さん利用者さんに不利益を強いる前に国への働き方をするためのエビデンスを作り訴えて行くことが先ではなかったかと思っています。

当法人はあくまで入居者さん利用者さんファーストの考え方の中でも精一杯に頑張っている職員給与への配慮もしていかなければいけないので、頑固に『今日一日楽しかった』の中で笑顔溢れる施設にするために頑張っていきますのでリピーターの皆さんの介護の今後についてのご理解を益々宜しくお願いします。だって「ワクワク感の無い日々では、つまらないでしょ・・・。」

靴下を履くのが嫌いな私です。

令和7年1月13日

突然に『靴下を履くのが嫌いです。』と何の脈絡もなく言われても、リピーターの皆さんは「何のこっちゃ」と言う事になると思いますので、少しその理由をお話します。

本日13時30分からの『てるてる座』のステージショーがあり、終了後には今年初めてのボランティアと言う事もあり、コーヒーにショートケーキを付けて出した時の話題で、私が小さい時は虚弱で冬になると手も足も霜焼けで真っ赤になって、リンリンに腫れている時は痛くて痛くて、母秋江さんが傍にいる時には甘えた声で「痛い、痛い」と言っていて、少し治りかけた時にはむず痒くて、靴下を履いていても直ぐにぬいてしまう癖がついていて、今でも靴下は家に帰ると冬の時期でもぬいでしまう癖になっていて「靴下は嫌いです。」と言う事です。

「私、綺麗です。」の話です。

本日のてるてる座のボランティアがあまりに楽しそうだったので、私はてるてる座の方に私を「ドレスを着て乱入したい。」と売り込んで、急いでドレスに着替えて八代亜紀の『舟唄』を歌い、次に石川さゆりの『天城越え』では、かなり肌が見える状況で歌いながら「肌がすべすべ」と悪乗りしながら歌いました。参加されている入居者さん、利用者さんも度肝を抜かれながらも大うけで、歌いながら「よ~く声が伸びとるな」と自画自賛でした。社会福祉法人理事長自らがこの様な事をするのは如何なものかと言う考え方もあると思いますが、『率先垂範こそ大切』との信念でこれからも頑張りますので、これからもリピーターの皆さん注目していて下さい。

 

何を無駄と言うのか

令和7年1月12日

12月に入り、年賀状の取りやめのハガキを多く頂いたり、今年の年賀状の末尾に「近年の社会情勢を鑑み、年賀状でのご挨拶を本年で最後にさせて頂く事といたします」との文面の年賀状が多くありました。そこで私の考えを述べさせて頂きます。当法人では、年賀状の代わりに1月1日付けの広報誌を作成して、盛りたくさんの情報を掲載しています。また、法人としての取引がある業者さんの中には、年賀状も頂いた上で年始の挨拶におみえになる丁寧なところもありますから、考え方は様々だと思います。

そんな中で、年に1回年賀状でお元気だとのお便りを頂くのは大切な事だと思います。また、1枚1枚丁寧に筆書きの年賀状を頂いたり、家族の写真付きの年賀状を見ると、ほのぼのとした気分になるのは私だけでしょうか。日本の風物詩の一つだっただけに、オリジナルな年賀状は続けて頂きたいものだと思っています。無駄を省く事は決して悪い事ではありませんが、変化のある時を刻む事は大切な事だと思います。そういう意味では年賀状の風習が始まったルーツを知る事も大切だと思います。

【年賀状のルーツは平安時代と言われていますが、現在のようなはがきスタイルになったのは、1873年(明治6年)に登場した官製はがきがきっかけです。(年賀状を出す意義についても述べられています)①1年の感謝を伝える・・・お世話になった方に、1年の感謝の気持ちを伝えるのに年賀状を出す人が多い。②普段会わない人と連絡が取れる・・・年を重ねると、近くにいても旧友や恩師に会う機会が減ってきたりします。しかし、1年に1回のやり取りがあれば、会えなくても繋がっている感じがします。③関係が深められる・・・友人だけでなく、親族や仕事関係の人に出す事で、お互いの信頼関係を高める事が出来る。】

ルーツを理解してつくづく思う事は、はがきではなくスマホのラインで事足りている事が一番大きいのではないでしょうか。でも、ラインではオリジナルな作品は多分無理だし、日本人的『情緒』とか『わびさび』とは程遠いものになってしまうと思います。こんな事を言う私はやっぱり『昭和おじさん』なんでしょうね。でもでも昭和おじさんで何が悪いんですか。『古きよきもの』は一杯ありますろ。

 

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