2023年12月の記事一覧

本日は大晦日です。

令和5年12月31日

私の仕事は年中無休なので、午前中は本部施設の正月の花を買いに行き、午後からは和合に行き、昨日ついたお餅を本部施設から持参した道具を使って切りました。道具を使うと楽しいくらいに簡単に切れるので、袋詰めを手伝ってくれた伊藤副施設長と佐々木事務員にも体験して貰いました。「やって見せ、やらせてみる。」事は大切だと思ったからです。切り餅を本日出勤している職員に5切れずつビニール袋に入れて配る予定です。手つきのお餅だから美味しいと思って貰えたら嬉しいです。

餅切りも1段落したので3階、2階、1階の順に今年最後のお参りを急遽ですが、することにしました。入居者さんは有り難いものです。お経をあげるとの理解は早く、しっかりと参加して頂けました。移動できる仏様を持参して実施します。正信偈と般若心経を大きな声で多くの入居者さんが唱えて下さり、お経を終えてからは「明日からは新しい年を迎えます。お屠蘇にとっておきのお酒を準備しましたので、お酒を飲める方は楽しみにしていて下さい。お酒が駄目な方は抹茶を用意してます。その他にも獅子舞も特別参加します。頭をかじって貰ってより頭を良くして下さい。とにかく、毎日を楽しくしていきますので、来年も宜しくお願いします。」と話をしました。

最後になりましたが、リピーターの皆さん、ますますこのコラムを愛して下さい。

2日連続の餅つきです。

昨日は本部施設での餅つきで、本日は和合て餅つきが実施され、私は8月から和合の施設長ですから本日の餅つきにも当然の様に参加しました。朝ご飯を6時45分から頂き、7時15分に家を出て和合に向かいました。今朝は年末年始の休みに入っている会社が多い為か信号にも殆んどひっかからずスイスイ走れたので、8時前に和合の施設に着きました。本日は本部施設から風避けの板と大きな金バケツを借りたのを運ぶため久しぶりにキャラバンを運転したのですが運転席が高いので乗り降りは大変でしたが、運転自体は大丈夫でした。和合の施設に着き伊藤副施設長に風避けとバケツを降ろして貰い、火を炊く釜戸、ちぎり餅の会場と入居者を集めての餅つきをする2階のフロアを行ったり来たり。8時40分に釜戸の回りに盛り塩をして回りにお酒を振る舞いました。和合の施設ではこの様な行為はなかった様ですが、しっかりと実施してから釜戸に火を点けました。今は着火材があり、薪もしっかりと乾いているので直ぐに燃え上がりました。火を点け一時間しっかりと薪をくべたので蒸した状況を確認したのですが、蒸した米を食べたのですが、「まだ固い」と思い、後10分蒸して2階の餅つき会場に持って行きました。昨日は力自慢の助っ人が大勢いたのですが、本日はあまり慣れてない男子職員でしかも杵が特大のが無くて手間取りましたがちぎり餅を2臼とのし餅を2臼を12時前に突き終えました。本部施設施設は30キロを和合は12キロを同じように12時前に終えた差は何だったのかをしっかりと分析する必要を感じています。とわ言え2日間の餅つきは無事に終わりました。気が付けば明日は大晦日です。お正月の準備をしっかりとして、明日は午後から和合の施設長として、各フロアで感謝の気持ちを込めてお経を唱えて気持ち良く新年を迎えたいと考えています。

本部施設のお餅つきが行われました。

8時15分に施設に着くと夜勤明け休みの次の日なので公休日のはずの伊藤係長が「今や遅し」と言う様な顔で待っていたので「予定通り8時30分の火入れにするぞ。」と指示を出し、水野係長に上手く火が回るように木を組んで貰い、着火材を付けた木を水野係長から受け取りチャッカマンで火を点け木を組んでくれた下の所に入れるとしばらくして勢い良く燃え上がりました。

8時30分の点火でしっかりと一時間燃やしたので9時30分に蒸した米の状態を確認すると軍手をした指で確認すると大丈夫に思ったのですが、慎重を期して蒸した米を食べて見ると「やや固い」と感じたので「あと10分。」と言う事で9時40分までしっかりと蒸して石臼のある地域の交流ホールに伊藤係長が持って行き1臼目の突きを開始しました。

本日は高橋工務店から子どもさんも含めて多くのつきてがきてくれ、西川課長のお父さんと弟さんも来てくれ、たぎり餅の働き手に五次家の高校2年と小学6年の娘さんもきてくれました。五次家の娘さんは小さい頃から毎年来てくれているのですが、今年は2人ともにしっかりと働き手になってくれて、素晴らしい成長期を遂げていると思いました。

最初の1臼目は蒸すのに一時間以上かかりましたが、その後はちぎり餅4臼、のし餅3が順調に出来上がり12時には突き上がり、片付けも要領よくてきぱきとしてくれたので、地域でお世話になっている家に届けに行き、全ての作業が終了したのを見届けてから明日和合で実施される餅つきの準備の為に和合に行きました。準備をしていて、外で火を炊くのに風避けがないので本部施設の風避けを借りに行き、明日の餅つきの段取りも終えて明日に備えて早くに家に帰らせて貰い、朝からお腹が張っていて、絶食状態だったのですが和合の帰り道に猛烈にお腹が空いてきたので、ゲンキーでパンと牛乳を買い、17時と早い時間でしたが夕食を食べて、コラムが今(19時過ぎ)書けたので明日に備えて寝ることにします。

リピーターの皆さん私の生活はこんなものなのであります。勿論自分で決めた生き方なので何ら不満は有りませんが。ただ、「明日天気にしておくれ。」と言う事で。

花魁のカツラ合わせと衣装合わせのお話をします

令和5年12月28日

昨日山崎ていじさんをお見送りしてから、花魁(おいらん)のカツラ合わせと衣装あわせに、聖はじめさんと花魁の格好で踊られる方が来て下さった事についてお話します。

「何故理事長自ら花魁なの」との話しからします。その話は、4年前の山崎ていじを招いてのクリスマス会が非常に盛り上がり、クリスマス会の終了時に私が司会者のマイクを取り上げて「来年も山崎ていじさんに来て貰いますが、その時に私が花魁になって乱入します。」と言ったで、年が明けて聖はじめさんにカツラ合わせをして頂いたのですが、コロナウイルス感染症対策の為に実現出来ていなかったので、12月になってからは「今年こそ花魁をやる」と誰かれなく宣言していたのですが、『一日遅れのクリスマス会』が近づくにつれて、当日の流れをイメージすればするほど「私が花魁の準備で浮かれている余裕はない。」と言う気持ちが強くなり、聖はじめさんには「年明けにするから」と連絡しておいたのが、昨日の聖はじめさんと花魁らしき人とのカツラ合わせと衣装あわせだったのです。

先ずは聖はじめさんに頭を覆う帽子の様な物を被らせて貰い、その上で額の所にテープを滅茶苦茶強くグルグルに巻いて貰い、その時点で鏡を確認すると、目が少し吊り上がっているのが分かりました。「これで見栄えが良くなるぞ。」と思った次第です。次にカツラを被らせて貰ったのですが、「結構重い」と正直に聖はじめさんに言うと、「これに飾りをいっぱい付けるので、もっと重くなりますよ。」と言われて「花魁になると言うのは大変だね。」と言うと「1時間もそのままでいたら頭が痛くなりますよ。」と聖はじめさんに言われて、プレッシャー状態に陥りました。衣装を着せて貰う為に立ち上がると、真っすぐに立っているつもりでいても『頭でっかち』状態でフラフラでした。着物を何枚か着るのですが、私のお腹は人一倍なので普通の人なら白い紐が二重には届くのですが二重には出来なくて、一重での結びになり何度もやり直して貰いました。花魁らしい帯を結んで貰う時も、悪戦苦闘して頂き着付けをして頂くのが申し訳ない想いでしたが、何とか衣装を着せて貰い鏡で自分の姿を見ながら「小梅太夫よりはましにしてよ」と聖はじめさんにマジでお願いしたら「綺麗に化粧しますので大丈夫です。」と言って頂きました。

そこで、私の花魁の日取りを年明けの2月4日の日曜日に決めましたのでリピーターの皆さん、良ければ怖いもの見たさでも結構ですので来て頂けると嬉しいです。勿論その日は「聖はじめ一座」による聖はじめさんによる歌(聖はじめさんは名古屋音大声楽家を卒業されているのです。)と鵜飼船で踊りを披露する大学生に踊りの指導をしている方による花魁での踊り、今は『セクシー 田中さん』で有名になったベリーダンスもある盛りだくさんです。私が花魁になるのはグリコのおまけ程度のものですが何度も言いますが「怖いもの見たさで行くのも一考」と思われるリピーターの皆さんも是非に来て頂ければ・・・。

一日遅れのクリスマス会が実施されました

令和5年12月27日

昨日、本部施設で一日遅れのクリスマス会が行われました。朝から伊藤係長が中心になって準備がされていました。本部施設では23人の来賓及び招待客があり本館、新館の入居者さん及びデイサービスの利用者さんで120人なので職員を入れると総勢170人は優にこれる人数が本館玄関を入った交流スペースに集いました。13時前から猫田県議、木村県議、西脇町長を初めとした来賓や招待客の皆さんが続々と来て下さり、メインゲストの山崎ていじさんも来て下さったので、いつもの事ながら開会宣言が(進行担当の伊藤係長)されるまで落ち着かず走り回っていました。先ずは主催者挨拶を理事長である私と家族会会長の吉田さんがして、来賓挨拶を猫田県議、木村県議、西脇町長の順にして頂き、あとの来賓及び招待客については肩書きと名前の紹介のみにさせて頂き、次の祝電紹介も棚橋衆議院議員、野田衆議院議員のみ文面まで紹介して残りの武藤衆議院議員、渡辺参議院議員、大野参議院議員については名前のみの紹介としました。いよいよ山崎ていじが登場してテレビやラジオでお馴染みのプロの演歌歌手の歌を堪能して貰いました。山崎ていじさんの曲は私も良く歌わせて貰いますので我慢ができず「浜防風」と「お前しか愛せない」には乱入させて頂きました。昨日は、クリスマス会が終了後に18時30分に座長のお店「カラオケくんくん」に山崎ていじさんをお招きすると共に日頃ボランティアでお世話になっている方も交えて飲食を楽しみながらカラオケも楽しみました。本日も午前は和(なごみ)で午後は和合で「2日遅れのクリスマス」を勿論山崎ていじさんの歌謡ショーで楽しんで頂きました。但し、山崎ていじさんは12時から「FM845」の生放送があった為、11時に和(なごみ)のクリスマス会が終了後、ファックスで送信されてきた多くのメッセージをまてめ(放送内で紹介するリピーターの原稿)てから、職員が作ってくれた味噌煮込みうどんを食べて頂き、12時からの番組に挑んで貰いました。進行役の方と携帯でやり取りをして、ファックスで送られて来た原稿を実に軽妙に紹介され、山崎ていじさんの歌が流れた後、約束通り12時23分からは約3分間進行役の方の質問に答える形で飛び入り参加させて頂きました。終了後は和合に移動して14時からの「2日遅れのクリスマス」に挑みました。和合にも、家族会の役員の方や地域の方も来てみえて、私は「お前しか愛せない」をフルで歌わせて貰いました。終了後は山崎ていじさんを見送り、花魁のかつらあわせをと着物あわせをさせて頂いたのですが、その話は笑えるので明日のコラムに譲ります。

目が回る様な一日になりそうです

令和5年12月26日

午前10時からは、全国老施協『月刊老施協』の1月号で全国老施全国大会岐阜大会の特集が組まれ、岐阜大会の実行委員長としての記事掲載の為にリモートでインタビューを受けます。角川の担当者と記事をまとめて下さる方と私の3人で行いました。角川の担当者の方は以前にも一度インタビューを受けた事のある方だったし、リラックスした雰囲気の中で進行して下さったし、実際に実践した中での話ですから質問に対してもしっかり答えられたと思っています。

インタビューは1時間で終了して、本日午後から本部施設で実施される『一日遅れのクリスマス会』の準備をしている玄関ホールに行くと、着々と準備が進んでいる事に安堵すると共に25年の積み重ねをしみじみ感じています。13時30分から始まるのですが、お客様の中には早い時間からおみえになる方もあると思うので、12時前に昼食を食べて今は落ち着きなくコラムを打っています。(寸暇を惜しまずに出来ているから、毎日続いているのだと自画自賛しています。)

お客様がおみえになったら、いよいよ本部施設の『一日遅れのクリスマス会』です。入居者さん、利用者さんと、日頃お世話になっているご招待客25名と職員が一堂に会して行われます。『山崎ていじオンステージ』はコロナウイルス感染症対策の為に4年振りですので、デイサービスの利用者さんも本日の利用者さんはいつもより多くおみえです。

『一日遅れのクリスマス会』が終了して、18時30分にはてるてる座の座長のお店である『くんくん』を貸し切って山崎ていじと共の交流会も企画しています。この企画は山崎ていじが明日は午前中に優・悠・邑 和で、午後は優・悠・邑 和合でも『二日遅れのクリスマス会』が行われるので、今夜は山崎ていじさんが岐阜に泊まられるのを活用してボランティアでお世話になった方々もご招待をして行います。夕食は、座長にデリバリーの手配をして貰いおつまみと果物と当然の事ながらお漬物も持ち込んでの企画です。『くんくん』のカラオケはとても高品質なのが入っているので私もしっかり歌わせて頂こうと考えています。

今は12時40分です。会場の最終確認をしてお客様もお出向の為にスタンバイしたいと思いますので、 『一日遅れのクリスマス会』の詳細は明日のコラムに譲ります。リピーターの皆さん、本日のコラムがクリア出来たと言う事で。

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為せば成る

令和5年12月25日

朝からどうしてこんなタイトルにしたのかと言うと施設運営にも、私自身の中にも「もらもや」している事があり、「でもね、必死に頑張ってきたから今がある。」 と考えると「まだまだ対応不足なんだ」と思っています。そんな中でつくづく実感しているのは「私の人生は常に火中の栗を拾う」様な生き様だと思っています。その様な生き様になったのは四国遍路歩き団参を高校2年の夏休みに参加させて頂き「人の役に立つ事は実母秋江さんの遺言の蒔かぬ種は生えぬの教えにも通ずる」と考えて高校2年生の後期に生徒会副会長、3年生前期に会長になって、その頃いわゆる『3無主義』と言われて『シラケ』の時代であったにも関わらず私は熱く語り実践していました。

大学時代も私が入部した『郷土研究の会』が無認可のサークルで、サークルの顧問であった教授の研究室での活動に違和感を持っていた私が当時の『学術局』にモーレツにアタックをして学術局の承認を取り付け、目立った存在だったのか翌年の学生会の改選で学術局長に任命され、翌年には大学祭の実行委員長も務めました。学生運動は下火になっていた中でしたが、自分ができる事を目一杯やったお陰で父進には大変迷惑を掛けたのですが大学を通常より1年余分に行かせて貰いました。

大学を卒業して父進の進めもあり、教育者の道に進んだのですが、私が進んでやろうとしたことはことごとく認められる事がなく、教員生活にピリオドを打ち、自分探しをしたのがダムで沈んだ徳山村での5か月間はモラトリアム(執行猶予期間とでも言えば良いのかと思います。)の様で、徳山村まで来て私の人生の道しるべとなった児童福祉(児童養護施設の指導員)の展開は、文字通り自己犠牲(自分ではその様に思ってはいないのですが)の13年間でしたが結果的には私自身が成長できた13年だったと思います。

そして、自分で道を切り開く為に13年勤めた児童養護施設の指導員を辞し、『児童の個別指導で在宅で困っている親子共々をサポートしたい』との思いから『教育・福祉カウンセラー』と言う肩書で大学・短大・専門学校で週13コマの講義をさせて貰いながら家庭教師もさせて貰いながら、『不登校児の親の会』『知的障害児の親の会』を」主催しながら、学校に行かない子どもの学習指導を頑張りました。この道は茨の道と理解していましたが文字通り「火中の栗を拾う」ものでしたが、やりがいはありました。毎週月曜日は午前2コマ、午後2コマ、夜間2コマをこなしたのですが、お弁当を二つ持参して非常勤講師室で同じような中味のお弁当でしたが何の違和感も無かったです。『火中の栗を拾う』と書きましたが本当は「厳しい状況の方のお役に立ちたい・」との思いからでした。リピーターの皆さん、こんな私ですがこれからも宜しくお願い致します。

 

朝早くに目覚めて

令和5年12月24日

朝早くに目覚めて、再び寝る努力をするのも勿体なくなり、ガラケーの携帯で撮った写真を懐かしく思いながら見ていると、どういう意図があったのかは当然の如く忘れているのですが、金剛杖の写真が連続で撮ってあるのを見つけて、「よし、今日のコラムは金剛杖を話題にしよう。」と言う事で、ガラケーの携帯で本部施設に写真を送信してから原稿を書く事にしました。

最近お会いした方から「理事長さんのコラムを見させて頂いたのですが、よく毎日あれだけのボリュウームで書けますね。」と言われた時に「思いついた時にタイトルだけでもガラケーの携帯に記憶させておいて、その後は寸暇を惜しんで時間を見つけて書くようにしています。」と答えた次第です。

本日は早くに目覚めたので、かつての写真の中でネタ探しをしたと言う事です。本題に入ります。私が金剛杖に出会ったのは、高校2年の4月7日に母親代わりだった姉が急逝して2年生の1学期は『糸の切れた凧』状態だった時に当時、四国巡礼歩き団参が目的で成り立っていた滋賀信行会と言う信仰団体の山東支部長をしていた熊の様なガタイで鉄砲打ちの伯父さんに騙された形で(話を聞いた時にはその様に思っていました。)、四国遍路に行った時に初めて金剛杖を手に取りました。金剛杖を持った時には正直「こんな杖なんか無くても歩けるぞ」と今から思えばとても生意気な事で恐れ多い事を考えていたものでした。しかしながら、実際に徳島・坂東の駅で降りて最初の難所である11番札所から12番札所である山越えで必死に歩いていると「自分一人で歩いているのでは無い。」と言う事を身を持って理解してからは金剛杖の有難さを知る事となりました。(この頃からですかね。実践を通しての行動力身につけたのは。だから『行動の老施協』と言う言葉は私の中で根付いているのだと思っています。)厳しい上り坂を団体で歩いていて『自分の力だけでは無い』と思った時に力強く金剛杖を突きながら「南無大師遍照金剛」を大きな声で唱えさせて頂くと頑張って歩けた様に思います。

四国遍路に初めて行かせて貰ったのが高校2年の夏休みですから、今から53年前になるのですが今はなかなか四国遍路のご縁は頂けませんが、25年前に本部施設本館を造らせて頂いた時も弘法様信仰の想いを形にして、その考えは一切ブレる事が無かった事によって、本部施設新館を計画した時に高野山の静慈圓前官大僧正に各ユニットに書を書いて頂き、その後はコロナの時期を除いて毎年8月20日と決めて本部施設に来て頂き、親しくさせて頂いていたことにより、盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の竣工式では、愛染明王の梵字を書いて頂くパフォーマンスまでして頂き、和(なごみ)の施設には多くの掛け軸や祈りの品物を頂きました。これも、ブレる事の無い信仰の賜物だと思いますし、その繋がりから色んな展開をさせて頂いているのも有難い事です。何事も一生懸命が私の生き方ですのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお付き合い下さい。

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岐阜新聞の一面トップ記事から

大見出しで「2050年 県内51万人減」小見出しに「推計人口 146万人、全市町村減」尚且つ「5人に2人高齢者」とありました。詳細の中で「岐阜県の総人口は20年の197万8742人から50年には51万350人減り、146万8392人になる。人口減少率は25.8%で全国平均の17.0%を上回った。

との記事に予想はしていたものの現実的な数字を突き付けられると「う~ん。」と考えさせられるものがあります。但し、この数字はあくまで新しい手立てをしなかった時の数字だと思うので大胆な発想をして魅力ある岐阜県にしていく事によって数字を変えることが出来るのではないかと考えています。

私が思うに岐阜県は日本の中心にあり、東海道新幹線があり、東海道本線や名神高速道路が走っていて、東京に出るにしても、大阪に出るにしても、ましてや名古屋に出るにしても地の利は大変便利な所です。かつての戦国時代には『美濃を制する者は天下を制す』と言われたのは勿論地の利が良くて広大な平野があったからだと考えています。

次に「県内市町村の将来推計人口」を見て私は唖然となりました。と言うのは岐阜県42市町村のなかで人口減の割合が顕著なのは1番が白川町で、2番目が七宗町で、3番目が東白川村で4番目に関ケ原町が入ってくるのです。そこで関ケ原町の人口推移に目を移すと、2020年が6610人、2030年が5334人、2040年が4133人、2050年にはなんと3105人にまで減るとの事です。現在6000人強の人口しかいない中で10年に1000人以上の現象は厳しいものがあります。

東京等に出張した時に良く聞かれるのは「どちらから来られましたか」に対して「岐阜の関ヶ原から来ました。」と答えると多くの方が「関ケ原市からですか」と返されます。私は「関ケ原は市では無くて町ですよ。」と心の中で呟いています。何故多くの方が『関ケ原市』と言われるかと言えば『大垣市』をご存じなくても『関ケ原』の地名はご存じだからだと思います。私は『消滅』する事には違和感があります。人口減には少子高齢化によるものですが戦後のベビーブームからの日本の勢いの再来は望めないにしても、関ケ原が消滅しないために魅力ある活力のある町作りの為に何をすべきなのかを自分なりに考えていかなければと思っています。

私は今須で生まれ今も住んでいるので今須の魅力作りに少なくとも貢献したいと考えています。今須には『今須杉』と言う木目の細かい素晴らしいものがあります。そして、分水嶺がある冷たくて綺麗な水に恵まれた所で育った『今須米』があります。どちらも自信を持ってブランド化出来ると考えています。「産業が無い」では無く「産業化する」努力を今いる人達で築き上げ、若者が魅力を持ってくれるように私も含めて汗をかく事から始めていきたい。「空き家が多い」と言うのを「空き家に若者が来てくれる」と言う考えが必要なのだと思います。現に、25年前に今須の地で特別養護老人ホーム及びデイサービスセンターの事業を開始させて頂いた事により、敷地内に1Kのアパートが出来、地域の空き家に4人の職員がシェア出来る様にしました。働く所が安定してあれば人は集うのだと思っています。仲間を募り関ケ原町が未来永劫消滅しない様にしていきたいです。リピーターの皆さんも良いアイデアがあれば教えて下さい。

12月26日~27日にプロの演歌歌手山崎ていじが来ます 

26日の午後は本部施設において「一日遅れのクリスマス」と銘打って、27日の午前は和(なごみ)で、午後は和合で「2日遅れのクリスマス」と銘打って、いずれも山崎ていじの歌謡ショーを行います。コロナ感染症の対応の為に4年振りに来てくれます。3施設それぞれにクリスマス会を盛り上げようと趣向を凝らしています。

この様な催しを「無駄だ」だと考えるのははっきり言って間違っていると思います。現に本日も本部施設で午後からデイサービスと新館でお参りがあり、お経を終えてから「もういくつ寝るとお正月♪♪♪」と歌ってから「今日は12月22日だからと(指を折りつつ)22日、23日、24日、25日、26日、27日、28日、29日、30日、31日ですから後10日でお正月です。でもこの10日の間にクリスマス会が26日で29日が福餅でお餅つきをします。」と話をすると、俄然皆さんから色んなお話で盛り上がりました。

その中に「ていじさんの為にうちわを作ったよ。」との話が聞けて、「皆さん楽しみにされているな。」と改めて思いました。飾りつけも皆さんの思いで作られるので、メリハリのある生活は元気の源であり、明日への活力だと思います。介護事業をしている中で入居者さんの笑顔こそが職員の活力だと思います。入居者さん、利用者さんと共に職員がワクワク感を共有したら最高だと思います。

コロナ感染症前のクリスマス会で乗りに乗った私は「来年のクリスマス会では花魁になります。」と宣言して、延びに延びている私の花魁のお披露目が現実のものになってきて当日の実際の流れをシュミレートして、はたと気が付いたのは20人以上の招待客もある中で私が花魁の衣装とカツラも着けての化粧をしているような浮かれが許されるのかを考えたら「絶対に無理」と言う結論に至りました。

でも、有言実行が私の真骨頂なので年明けには本部施設の皆さんにご披露出来る様に今月27日和合のクリスマス会が終了後にカツラ合わせをして、年が明けて落ち着いた頃に実施したいと考えています。

リピーターの皆さんホームページで写真を掲載しますので、乞うご期待と言う事で。

花魁については私だけがはしゃいでいるだけかな。いやいや入居者さん、利用者さんも楽しんで貰えると考えています。

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