2023年10月の記事一覧

星がいっぱい

表題に星がいっぱいと書きましたが、正確に書くならば、東の空には無くて西の空にいっぱいと言う事です。そんな事を考えているときに「天才バカぼん」の主題歌が頭の中に浮かびました。「西から昇ったお日さまが東にし~ずーむ♪♪それでいいのだ♪それで♪いいのだ♪天才バカぼん♪バカぼんぼん♪♪てんさ~い♪一家だ♪バ~カ♪ぼんぼん♪」朝からこんな歌を思い浮かべたのは自分自身に元気をつけようとの意味があったのか・・・。いつもの様にお墓参りにいった時の妙応寺の大谷徹奘師日めくりカレンダーの言葉は「ほしいのは    自分に負けない    心です」とありました。「う~ん。負けないように頑張っていても今の自分では何ともならない事があるし・・・。でも絶対に負けるわけにはいかない。」と意を強くしてます。ちなみに本部施設の」事務所のには「何を そんなに あせっているの」とありました。「う~ん。落ち着いている様でもどこかで焦っているのかな」と思っている次第です。

 さて、9時30分から本部施設の職員が昨年手作りしてくれた神輿(重量37キロ)を「チーム伊藤」総勢12名ので地域を練り歩くのですが、中心者である私のテンションが低くてはいけないので、9時前に本部施設に行くと「チーム伊藤」の責任者である伊藤係長が既に準備を整えていて順次「チーム伊藤」のメンバーが揃って来たのですが、「雨が心配だ。」と話をしていたので、大きな声で雨封じのお祈りを声高らかに天に向かってして「これで大丈夫」とみんなの前で宣言すると「あ~ら不思議」お日様が雲の間から出て来てきました。(決してはったりでは無くて事実なのであります。)9時30分になり、施設の玄関先で記念写真を撮り、その後、施設の南側にある天満神社に行き私が先導で2礼⒉拍手1礼のお参りをしてから地元新明地区を鐘と太鼓に合わせて大きな声で「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声と共に神輿を中心に練り歩きました。家の前まで来て待っていて下さる方も多くあり、その都度「〇〇家 家内安全、健康成就」と声を掛け、神輿を大きく3回掲げ「万歳、万歳、万歳」と大きな声を張り上げました。元気な子どもさんが来てくれた時には神輿を担いで貰ったりして記念写真を撮ったりもしました。無事に本部施設に帰って来ると寒い日であったにも関わらず背中がびっしょりと言う事で良い汗をかきました。昨夜は色々な事を考えていて殆ど寝ていなかったのですが「チーム伊藤」及び地域の方々に元気を頂いた勢いで和合に行き、職員との懇談の後、地域のボランティアとのカラオケが13時30分から予定されていたので急いで本部施設に向けて急いだのですがお約束の13時30分には間に合わない旨を連絡して先に始めて貰う事にして、本部施設に帰ってからは、ボランティアさんの歌を聞きながら急いでおにぎりと焼きそば(UFO)を掛け込み5曲目からの参加となりましたが、お神輿行列で元気を頂きそれでもいつもよりは若干元気が無かったのですが、逆にその影響で余分な力が入らなくていつも以上に上手く歌えました。こういうのを「怪我の功名」と言うのでしょうか。それとも「禍を転じて福と為す」と言うのでしょうか。とにかく明日からもしっかり頑張りますのでリピーターの皆さん応援よろしくお願いします。

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まだまだ夜明けが遅くなる

いつもの様に4時25分のアラームで目を覚まし左向きに寝返りしてカーテン越しでは有りますが外を見たらまだまだ真っ暗です。軟弱だった頃の私であればきっと「こんなに暗くては歩くのも危険だし歩くのを止めておこう。」と言う事になるのでしょうが、今の私は「暗いの何かエンやこーりゃ。」と言う事でいやいや、それどころか「また、楽しからずや。暗いからこその発見があるはず。」とのプラス志向。我ながらこんな考え方が出来る事に感動してます。マラソンの有森さん流に言うならば「自分を誉めてあげたい。」と言う事なのでしょうか。

本日は朝から盲養護老人ホーム優・悠・邑    和(なごみ)に行き、入居者さんと共にのお経とカラオケ2曲(和合で乗って頂ける曲)舟木一夫の『銭形平次の主題歌』と杉良太郎の『遠山の金さんの主題歌・すきま風』を歌わせて頂き、終了後は職員の全体会に参加して、吉澤施設長と共に打ち合わせを兼ねて昼食を頂き、打ち合わせが長引いたので、急いで和合の施設に移動して地域の方々とのサロン『そわか』で挨拶をさせて頂いてから、職員との懇談をして、これまた終了後本部施設に移動して明日実施される予定の(今は18時で雨が降っていますが必ず晴れます。)地域の中を施設の職員が昨年作成した神輿を担いで練り歩くイベントの打ち合わせをして16時からのリモート会議に参加しました。

今は3施設の移動を余儀なくされている分忙しく走り回っている形ですので家に帰るといつもクタクタなのですがクタクタの割には全く食欲が落ちないので何とか頑張れています。明日は鐘をや太鼓を打ち鳴らしながら施設がある地区の38軒の家を練り歩くのですが、コロナの影響で祭であっても賑やかな事が無くなっている状況の中、ボランティアを買って出た多くの職員と共に賑やかに盛り上げたいのでさてさてどんな派手な衣装で参加しようかと今からワクワクしています。いっその事おちょぼ稲荷の参道のお店で先般購入したドレスを着ようか。でもそれはあまりにも違和感があり過ぎて地域の方々から変な誤解を受けては逆効果だし・・・。「う~ん。悩ましい」などと悩むのも「また楽しからずや」明日は地元の皆さんに元気を頂いて貰う為に頑張ります。多分岐阜新聞の取材があるので来週のタイミングで掲載して下さる予定なのでそれもリピーターの皆さん楽しみにしていて下さい。

 

逃げれば こわさが ましますよ

令和5年10月19日

「逃げる」の意味にはいろんな意味が込められていると思います。例えば、実際にその場から「逃げる」です。この「逃げる」にも怖くて逃げる場合もあれば、事故を目撃したのに、関わりたくないと言う事で立ち去る形で「逃げる」のもあります。但し私は「立ち去る」と言う事は出来ない性格で「私に出来る事は無いか。」と考える事を常としています。

そんな私ですが盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』の施設が厳しい状況の時は(今もその状態が解決したわけではありませんが)、この世からも逃げ出したいと考えた事もありました。今もこの世に存在していると言う事は、色んな方々のアドバイスと協力があり、最悪の状況からは脱したからと言う事です。もしあの時に逃げていたら今の自分は無いと思うと、大変だったけど今も何とかなっていると言う事で、ある意味神仏のご加護かなと思っています。

正直小さい頃の私は逃げてばかりの人生(そんな大袈裟な物ではないのですが)、いつからなのか下腹に力を入れて頑張れる様になったのはと考えると、一番考えられるのは「宏命」だった母秋江が、私が小学3年の頃に子宮癌になり、その後胃癌、肺癌で最期は骨癌で、私が中一の時に他界したのですが、母秋江が入退院を繰り返していた時にも頼りになる6歳年上の姉光子の後ろにへばりついていた私ですが、頼りになる姉光子が私が高校2年の4月7日にくも膜下出血で急逝(姉光子23歳)してからは凧の糸が切れた状態で1学期が終わったのですが、(父進さんには大変迷惑をかけました。)その年の夏休みに四国遍路に行き「私でも人様の役に立つ」と理解してからは逃げる生活から一変したと思います。と言うか自己責任の中で茨の道(私はそうは思っていなかったのですが周りからはその様に言われていました。)を歩みだしました。

高校時代には、みんなが「よくやるな」と三無主義がまかり通っている時に、生徒会活動に全力で取り組んだり、大学時代にもサークル活動で厳しい試練も一杯有りました。でもやり切りました。児童養護施設の指導員時代も、私よりでかい中学生を相手にがっぷり取り組みました。その時は「この子を社会人として通用する為には、厳しい指導の頑張らせるしかない。」と信じて実践しました。高齢者福祉施設を建設すると決めて時も色んな場面で下腹に力を入れて話をしなければいけない事がありましたが、その都度乗り越えて来たから今があると言う事で、これからも決して逃げない人生にしていきますのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願いします。

ケアニンのプロデューサーの講演を聞いて

昨日からの東海北陸研修大会の講演で制作からシナリオから資金調達までされているプロデューサーの講演を聞きケアニン制作にかける熱い思いを聞きました。正直に最初にケアニン制作を思いつかれたのは「お金になると思って」と正直に話され、制作の為に多くの施設関係者に話を聞かれる中で介護に関わる人たちの一生懸命さに介護に関わっている方々の一生懸命さに魅力を感じて今はケアニンの制作を通して介護人材が素敵な仕事だと思って貰えるように頑張っていきたい。との話しになった時には介護が脚光を浴びる様に私も微力ながら頑張っていきたいと思っています。本日は分科会に分かれていわゆる学会方式でのもので私は第一分科会の「経営」の分科会に参加しました。経営の中心は「業務の省力化と科学的根拠」と言う事でロボット・ICTの内容が殆んどでした。先進的な発表が聞けたので出遅れている面の巻き返しの為の展開をしていかなければいけないと思った次第です。12時30分に全日程が終了して、直ぐに名古屋駅に向かい13時発の大垣行きに乗り駐車場に預けてあった車に乗り15時から岩田理事との打ち合わせがあるので途中でうどん屋さんに入り四川風味噌煮込みうどんを頂き、岩田理事の所で16時になり、岐阜県老施協事務局に行き、介護の日特集の新聞広告の打ち合わせをして、17時30分から開催される長城の会が行われる大垣フォーラムホテルに何とか定刻前に着き長城の会のお歴々の方々にご挨拶をして会食をしながらの歓談をして(多彩な方々なので話題は盛り沢山です。)19時30分に終了後急いで我が家に向かい20時過ぎに家に着きお風呂は短めにして何とか21時には横になれそうです。明日からは通常の生活にもどるので4時25分のアラームと共に1日が始まります。7時40分には和合に向かい午前中は和合での対応をして、午後からは岐阜県庁議会棟で2つの会議があり、その後も次長さんとの打ち合わせがあるので気合いを入れていきたいと考えています。今、21時を過ぎたので爆睡します。いつもよりは短いコラムですが限界です。リピーターの皆さんご理解下さい。

本日も大谷徹奘師のお言葉です

令和5年10月17日

「できるとき    できること    できるだけ」この言葉は然り気無い言葉であり、考え方によっては「当たり前のことやろ」と誰もが思われる事と思います。しかしながら、常にその言葉の通りに生きていく、或いはやっていく事はなかなか難しいと思います。それどころかその様に展開していくのは甚だ難しいのではないかと思っています。だって自分としては一生懸命にやっていても外部からの何らかのアクションによって上手くいかない場合もあるし、頑張っているときに体調を崩してしまい挫折してしまうことも考えられます。と言う意味では、例え上手くいっていない時であっても「今は大変だ。でも、頑張っている」と言う時は幸せな日々ととらえていく方が精神的にも肉体的にも充実していると言う事でご先祖様にも神仏にも守られているといった方が良いのだと考える様にしています。私の事を「楽天的だ」とか「良くそんなプラス志向でいられるな」とか言われます。私だって食欲が無くて眠れない日々を過ごす事があります。そんな時こそ表題の通り「できるとき   できること    できるだけ」を実践して活路を見出だす努力をしていると支援して下さる方が現れて切り開く。そんな私の人生に感謝です。さて、本日は名古屋の駅前で全国老施設協の東海北陸大会があるので今は名古屋に向けて電車に乗っています。昨夜までは関ヶ原駅まで送って貰い電車で大垣で乗り換えていこう。と考えていたのですが、明日は17時30分から2ヶ月に一回の長城の会と言う情報交流する会が大垣フォーラムホテルであり、帰りが遅くなる事も考えて大垣駅北口まで自分が運転していく事にしました。久しぶりの大垣北口で駐車場への乗り入れ口がわからなくて目の前にある駐車場に入れなくてかなり大回りをして何とか駐車場に入れました。駐車場に入ると「何だこんな行き方があったのか」と言う事だったのですが知らないと言う事はこんなものです。大垣駅の券売機で名古屋までの往復切符を購入してホームに行くと列車が待っていて 直ぐに発車され名古屋駅10時前に着き先ずは本日宿泊するホテルにスマホに案内されて歩いて行きました。ホテルのホームページの情報では駅から7分との事でしたがたっぷり15分かかりましたがホテルのフロントで荷物を預け大会が開催される会場にこれまたスマホのナビでいく事にしました。ホテルまでは間違いなく案内してくれたスマホが会場まではかなり大回りをしてくれたので結構汗だくになりました。何とか会場の玄関口にたどり着くと岐阜県老施協副会長に声をかけられて、安心して会場がある13階に行くとスタッフの方が沢山みえてご挨拶をしていよいよ本番です。今は講演が一つ終わって15分の休憩時間に本日のコラムのまとめをしてます。無駄無く頑張りましたがこれ以降の報告は明日にします。

弱い自分に出会った時が強い自分になるチャンス

令和5年10月16日

いつもの様に大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉で、昨年の6月から日めくりカレンダーをめくっているので少なくとも15回は目にしているはずなのに、いつも新鮮に感じています。特に今朝はこの言葉が私の心にスッと入ってきたので、先ずはその時の気持ちを素直に書く事にします。

最初に思ったのは、小学校時代までは困った事が起きると母秋江さんが長女光子さん、次女春子さんは勿論の事、地域の方々も巻き込んで私をカバーしてくれる体制を取って下さったので、困り事が困り事で失くなってしまうので、自分を成長させる芽を摘んでしまっていたので・・・。決して母秋江さんを責めているのでは有りません。あの頃の私はそんな環境が当たり前だと思っていたし、考え方によっては本当に幸せな日々だったと思っています。夏休みの宿題は全く手付かずで2学期が始まる3日前くらいにになって出来てない事を話しすると、一定は怒られるのですが、そんな時の私の得意技はべそをかいて泣く事です。そうすると、私に代わって春子お姉さまが答えを書いて私はそれを一生懸命写すのです。絵を画く課題にしても、下絵を春子さんなのでいくら色塗りを自分でしてもどう考えても私が画いた絵ではないのですが、それで通ってしまうのです。

そんな私ですから何の矛盾も感じる事無く過ごしてしまっていたと思います。そんな私でしたから38歳で児童養護施の指導員を退職してフリーの立場で大学・短大・専門学校の非常勤講師と家庭教師と一番形にしたかった教育・福祉カウンセラーの仕事をしていくのも、全て自己責任で、初めての講義では80分の授業時間なのに40分話をした段階で、話をする内容がなくなってしまい、4月だと言うのに背中から滝の様な汗を出したのを今でも覚えています。この失敗からしっかりとした内容を準備していかなければいけない事を理解したものでした。

大学の講義をする様になると、講義用の教科書の執筆を依頼された時には、思いの限りの文章を書いて自信一杯で編集会議に出席した時は「この内容には魅力を感じますが、教科書としては使えません。」と編集者の方に酷評されて、全面的に書き直した事もありました。その後も何冊かの依頼を受けましたが、同じ失敗をする事は無かったです。フリーになって2年目には拠点施設をつくらないと本当の意味でやりたいことが出来ないと言う事で、『情緒障害児短期治療施設』の建設を計画して、その当時の岐阜県児童家庭課にパーツまで持っていった時には「ここ10年は計画していません」との回答に唖然としたものです。計画した伏線はあったのです。それは当時の厚労省の専門官と話をしていて、必要性を語って行く中で決めた事なのですが、今考えてみたら当たり前の事なのですが、国が承認する前に岐阜県の承認を取らなければいけないと言う、基本中の基本を逸脱していて徹底的に弱い自分をさらけ出して色んな思いをして強くなった事がありました。

特養の計画の時も、土地取得で大変な思いをして強くなった事もありました。リピーターの皆さん、昔から言いますよね「失敗は成功の基」と。自分で事業をさせて貰う中で一杯失敗をして強くなったんだと思います。これからも失敗をしながら強くなっていきますので宜しくお願い致します。

神業か仏業なのか

令和5年10月15日

今朝もいつもの様に4時25分のアラームで起床して我が家の神棚と仏壇の水替えをしてから、仏間でのお参りをしてお墓参りに行く為に家の外に出ると雨が降っていたので傘をさしてお墓参りに出発しました。そして直ぐに思ったのは「今日は無住になった家の仏壇の運びを手伝うと共に応接セット等々の運びをする事になっているけど雨だと大変だ。」と思いました。

実際に作業を手伝ってくれる本部施設の職員にご苦労を掛けるので天気を良くしたいな。」と思いながら歩いて行き、幸福地蔵様の所でも、妙応寺の本堂でも、今須稲荷様でも、三仏様(観世音菩薩様、毘沙門天様、不動明王様)でも、六地蔵様でも、勿論我が家のお墓でも「作業がし易い様に天気にして下さい。」と一生懸命にお願いしました。

そして家に帰りお風呂に浸かり朝食をとり、「9時30分に本部施設を出発するので9時まで1時間だけ二度寝しよう。」(1時30分に目が覚めてから色んな事を考えてガラケーの携帯にメモ書きで記録していたので眠りが浅かった事もあり)と言う事でスッと眠れて9時のアラームで目が覚めたら眩しいばかりの日の光がカーテンの隙間から射していたので「この様な事を神業か仏業と言わずに何と言うのだ。」と思った次第です。

そして9時30分に安八(揖斐川大橋から東に少し走った所)に向け車4台で向かいました。途中で関ケ原古戦場フェスティバルに来られる方の車で渋滞しましたので予定より少し遅れましたが家族の方が待ってみえて先ずは仏壇(事前にお参りはしてありました。)を内藤仏壇店の内藤君に職員が協力をして内藤君の車で運び入れ冷たいものです、内藤君は我々の荷物運びはしないでさっさかさで長浜に向け帰って行きました・・・。

その後、北島部長の軽トラ(いつもは乗用車ですよ)とキャラバンに先ずは大物の応接セットを載せてから椅子やテーブルや掛け軸(ひょっとしたらお宝かも・・・。)などの小物も積めるだけ積んで11時30分には安八の家を出ました。私は本部施設に直帰せずに21日の地域を神輿で練り回る時に配るお菓子を購入する為に別行動になり、本部施設には12時45分に着き急いで昼食を食べ、13時からは人事異動の為に職員を呼んであった対応をしてから13時30分の予定で本館のお参りが予定されていたのですが10分遅れで1階に行くと入居者の方から「理事長さ久しぶり」との声を頂いたので正直嬉しい気分になり、お経にも力が入りお経を終えてから少しの時間ですがお話をさせて頂き引き続きの2階に行きました。既に皆さんが集まられていたので「遅くなりました。」と言いながら仏様の所まで行くと1階同様に「理事長さん久しぶり」とのお声を沢山頂きました。

お経を終えてカラオケの準備がしてあったので「15時から別件がある」と思ったのですが「入居者の方の熱い気持ちが伝わって来たので15時ぎりぎりまでに3曲歌わせて頂きました。久しぶりの本部施設でのお参りにギアが入ったのですが明日も新館でのお参りが予定されていますので新館の入居者の方がどんな迎え方をして下さるのかを今からワクワクしています。リピーターの皆さんこんな私ですがこれからもご支援宜しくお願い致します。

我が家の大黒柱

令和5年10月14日

垂井にある3施設目の施設である「盲養護老人ホーム優・悠・邑    和(なごみ)」には20畳からある仏間があり、そこの大黒柱は本部施設の家族会からご寄付して頂いた今須杉で、本当にきめの細かい年輪であることが自慢の一つだったのです。そんな中で、本日いつもの様に4時25分のアラームで起きて仏間でのお参りのお経を終えて、何となく仏壇と床の間の間にある柱をしみじみと見たのです。そしてはたと気が付いた事があります。それは我が家の大黒柱も和(なごみ)の柱と遜色無い極めの細かい年輪だったのです。正直なところ2004年12月に新築した家も18年が経過していて「何を今更」と言うような話しなのですが、それが事実なのです。今となっては「今須杉」なのかどうかを確認する術は有りませんが「きっと我が家の大黒柱(床柱)は今須杉だ。この極め細やかさは間違いない。自慢する話が一つ増えた。」と言う話です。

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話しは変わって今朝のお墓参りの時の話です。我が家のお墓参りも済ませてお墓から県道に降りて東の空を仰ぐと(6時を広報が知らせていました。)東の空が赤いのです。私はそう言う状況に直ぐに反応して感動してしまい、しばらくはその様子を見つめてから写真をガラケーの携帯で撮りました。この様に感動出来る私だからこそ「気付きの多い」自分であるのだと思います。小さい頃の私は私を目の中に入れてでも守ってやりたいと思っている母秋江さんがいたので、全く気付きの無い自分だったと思います。気付きの少ない自分でしたので、正直なところ26歳の時に児童養護施設の指導員になった時には余りの世間知らずだったので、経営者の方にしっかり怒られながらも何とか食らい付いていったお陰で、今は何とか気付きのある生き方が出来ているのだと思います。

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学びと言うのは何歳からでも出来ます。「そんな事できんは」と思った生き方をしているといつまでたっても出来ません。だから、気が付いた時がチャンスです。私は厳しい環境に26歳の時に置かれたのが結果的には良かったのだと「古希」を迎えた今、つくづく思っています。不平を言ってても1日、幸せだと思って過ごしても1日ならば、幸せだと思える1日で有りたいと願っています。今「古希」と書きましたが、自分で「古希」と書きながら「私が古希なの」と思っている自分がいます。だって私が小さい頃、70歳の方を目の前にした時に「めっちゃ年寄り」と思っていましたし、その頃の70歳の方は「ご隠居さん」的な存在だったと思います。でも、現代の70歳は私も含めてバリバリの現役の方が殆んどです。最近も「とても理事長さん。70歳にはみえません。」と言われたのですが、どの時代の70歳を念頭においての話なのかと思うと「けっして喜んで良いのかどうか」と思ってしまいます。

私の事をご存じのリピーターの皆さん 私は本当に若いと思いますか。忌憚の無いご意見を下さい。【蛇足】ところで現代の世の中に「ご隠居さん」はいるのでしょうか。

 

いよいよ全国老人福祉施設大会・研究会議JSフェスティバルin岐阜のカウントダウンが始まっています

大会は11月29日~30日なのですが前日の28日に全国老施協の役員と岐阜県老施協とデイサービス協議会の役員が一堂に集まっての実行委員会があり、その流れの中で交流会も開かれる事になっています。今年の1月に栃木県宇都宮市において「施設大会」と「研究会議」が同時に行われる第1回が行われて、2回目の大会が岐阜の地で行われるのです。

大会が岐阜の地で開催されるのはとても名誉な事なのですが全国老施協前会から「岐阜県らしさをだす大会にして下さい。」と言われてかなりのプレッシャーを感じながらも岐阜県の役員で知恵を出し合い何とか骨子が出来開催要項も会員施設に提示をして今は全国から集まって頂いた方々に「岐阜の大会に参加して良かった。」と言って頂ける様に最終打ち合わせに本部施設と和合の施設を行ったり来たり、時には和(なごみ)の施設にも行き、今月末に開催される「ハロウィン」の準備をしながらも頑張っています。

大会の会場は岐阜国際会議場と岐阜都ホテルを主会場にして2000人の参加者を予定しています。岐阜駅からのおで向かいとバスでの会場への案内、その時の横断幕やプラカード。スタッフのジャンバーの手配。岐阜市内を盛り上げる為にタクシーには歓迎のメッセージがドアに載せて貰う様にしたりと言う事で段々と体制が整いつつあります。

プログラムを一部紹介すると特別記念講演にはフジテレビの元アナウンサーで今はフリーアナウンサーの近藤サトさんに『私らしい生き方~グレイヘアと言う選択~』と言う演題で講演を。また『清水ミチコ・スペシャルトーク&ライブ』と言う事でビアノの引き語りをして貰い、「施設対抗大喜利大会」の企画では進行を『流れ星』にして貰います。いずれも岐阜県出身の方にお願いしています。

ここまでの企画の紹介だけでは「何の大会」と言う事になってしまいそうです。これは『フェスティバル』の部分についての紹介ですが勿論、学会形式の分科会も6分科会を持っています。第1回の分科会の最優秀賞を決める時の審査委員を私も副会長としてさせて頂きましたが、レベルの高い発表が多かったので第2回の今回も素晴らしい発表がされると期待しています。その他にも企業ブースが30社あり、外国人ブースも10事業所が参加されます。

岐阜県らしさをより出すためにあっと驚いて頂けるためのアトラクションを計画していますがその事は本番まで言わずにおきます。本当は言いたくてうずうずしているのですが、ここが辛抱しますのでリピーターの皆さん、当日の報告を楽しみにしていて下さい・・・。

令和5年10月12日

5時15分に、まだ明けきらない空を見ると青空の中に月が忽然と上がっていました。今までは左手にあった月が右手の方向にあり、三日月より太くて半月より細い月でした。私は自信を持って小学時代、中学時代、高校時代を通して理科が全く苦手でした。(自慢して言う事ではありませんが・・・)と言う事で恥ずかしながら『月』についての知識が全く無いのです。確かに「満月」とか「三日月」と言うのは「見たまんま」ですから「今日は綺麗な満月だ。」くらいの話題にはついていけますが、それ以上の事は全く知らないし覚える事も出来ないのです。これも広い意味でのLD障害児(学習障害児)なのでしょうか。そう言えば私はかつて吉田拓郎の歌で「上弦の月だって」とのフレーズがあるので歌っていましたが、「上弦の月」と言うのがどんなものかも知らずに歌っていました。恥ずかしい話ですが、今だから時効の様に話が出来る事を正直に話します。それは私が大学を卒業して教員の末席にいた4年3組の担任だった時の事です。その当時の旧文部省の指導要領に基づいて理科の指導案を立てて時には理科の実験も行っていたのですが、正直実験の意味が理解出来ないままに実施していたのを覚えています。しかしながらそんな時には必ず救世主が現れて実験の結果に気付いてくれるのです。私はそんな時は教え子の子ども達と同じ目線で目を輝かせて実験を楽しんでいた様に思います。考え方によっては「不幸中の幸い」と言う事になるのでしょうか。大学での講義では「社会の指導案では自分なりのものを作成してその当時の8ミリカメラで現地を撮影して子ども達も目を輝かせて見て貰いながらワイワイとした授業をしていました。」と格好をつけて話をしていましたが「先生、理科はどうだったのですか」と質問されたら困るなと思いつつ話していましたがその様な事も無く自慢だけで済んだので正直助かりました。4年3組の担任をしていた時には色んな武勇伝がありますが『担任の先生』と言うよりは『ガキ大将』の様な存在だったと思います。但し、研究授業の時にメロメロな状況になった時には校長先生からの総評で「若山先生を何とかしなければいけない」と言う子どものメッセージをひしひしと感じました。それは日頃の子どもとの親密性がわかる事だったのでその点は自信を持って良いと思いますので授業の組み立てや板書についてしっかり勉強して下さい。」と言われたのは今でもしっかり覚えています。そんな私が今は高齢者福祉の重鎮の仲間入りをしているのだから不思議なものです。リピーターの皆さん、こんな私ですがこれからもよろしくお願いします。

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