2023年05月の記事一覧

昨日はくたくたでしたので・・・

令和5年5月21日

昨日は午前1時17分の携帯での対応で、10年位前は夜中の連絡での対応をして再び寝る事になった時は枕に頭がつく頃には眠りに入っていたのですか最近はスッとは眠りにつけなくてうとうとしていると4時25分のアラームがなり、昨日はコラムに書いたように亡くなられた方の家族対応が4時40分からあり、家に帰って内仏様で正信偈と般若心経を唱えてから朝食を頂き、9時前からのお客様対応で午前中は終わって、コラムを書き終わったら急に疲れと眠気が来たので15時には家に帰らせて頂き1時間程爆睡したら体は楽になったのですが喉に痛みを感じたので何度となくうがいをしました。

今朝もいつもの様に4時25分のアラームでの行動は変わらず実施出来たのですが、昨日同様に喉が痛いので10時まで家でゆっくりさせて頂きました。(DVDで池井戸潤原作の『陸王』を見たりして過ごしました。)午前中は優・悠・邑 和(なごみ)の武藤事務係長が決済にきた後は評議員の更新の為に谷口関ケ原町会議員(現在は議長)と淡川元関ケ原町連合会長の所に書類の依頼に行きそれぞれに色んなお話をさせて頂いて施設に帰ると12時40分になっていたので急いで昼食を頂き、13時20分になるとデイサービスの谷田主任がお参りの準備が出来たと言うので、仏間に出向きました。

「喉が痛いのでしっかりと声が出るかな」と心配をしていたのですが大きな声を出している内に調子が出て来たし、カラオケの準備もしてあったので鳥羽一郎の『兄弟船』もしっかりと歌えて気分よく新館へ移動していくと2階の入居者さんも1階に降りられていたので「2会場分の時間があるので15時のおやつの時間まで目一杯カラオケで歌わせて貰う事にしよう。」と言う事で喉の痛いのを一旦忘れて正信偈と般若心経を唱えてから「寒暖の差が激しいので衣服の調整をしっかりして下さい。」等と少しお話をさせて頂きカラオケタイムになり勢いに乗って5曲も歌わせて貰いました。

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喉が痛くて気分が乗らなかったのですが不思議な事に元気が出て来たんで「入居者さんに元気を頂いたな」と改めて思った次第です。元気になってきたら、「そう言えば、5月15日に生まれた次男の嫁と孫娘の退院の日だ」と思い出し、「孫娘に会う事が出来たらここでも元気を貰える。早く会えると良いな。」とここでもワクワクしています。と言う事で改めて思ったのは「自分一人で生きているのではない」と言う事です。リピーターの皆さんの中には「何を今更そんな当たり前の事を言うのか」と言われる方もあろうかと思いますが私の今の正直な気持ちなのでご理解下さい。

午前1時17分に携帯が鳴りました。

令和5年5月20日

夜中のコールは久しぶりです。連絡は、管理宿直の水野相談員からで、内容は101歳の入居者の方が亡くなられたとの連絡でした。そこで、嘱託医の先生と家族に連絡するように依頼すると、14分後の午前1時31分に再び「嘱託医の先生が午前5時には来て下さるのでその事を家族に話をすると、その時間に合わせて施設に行きますとの事です。」との事だったので「アラームはいつもの4時25分の時間で丁度良いけど、朝のお参りとお墓参りは出来ないな。」と考えながら再び眠ることにしました。40代50代の様に直ぐに爆睡と言う訳にはいきませんでしたが、4時25分のアラームで目覚めてベット内体操をして着替えをしていると、4時38分にメールが来ました。その内容『家族さんが今みえましたので、居室に行って頂きお顔を見て貰います。』との事なので慌てて施設に向かいました。

私が施設に着くと既に居室から戻られていて、会議室に息子さん夫婦がおみえになったので会議室に行き、今後の対応について話をしていると5時前に嘱託医の先生が来て頂けたので、嘱託医の先生と共に息子さん夫婦も再び居室に行って貰い、嘱託医の先生から死亡確認の結果『老衰』との説明があり、ご家族の方も納得のご様子でした。その後嘱託医の先生をお見送りをした後、再び会議室で今後の対応について話をしました。その中で、亡くなられてからも家族のご希望があったらお風呂に入れさせて頂く事が出来るとのお話をすると「その様にして貰えるならお願いしたい、」との事だったので、お風呂の準備とエンゼルの指示をして、次に葬儀屋さんに連絡を入れて貰うと「6時にはお迎えに行ける。」との事だったので、その旨を現場に伝え、施設でのご様子がわかる写真を手渡したり、施設でのご様子のお話をしていると葬儀屋さんの車が来たので、玄関先で車に乗って貰い最後のお別れをしました。

事務所で簡単な引継ぎをした後家に帰り、本日はお墓参りは出来ませんでしたが、内仏様と神棚のお水替えをしてからいつもの様に正信偈と般若心経を唱えさせて頂きました。その後朝食をとり9時から、かつて白川村の特養で施設長をされていた方がおみえになるので施設に行くと、予定の時間より15分も早くみえたので、会議室で情報交換をしてから盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)をご案内をすると、木の施設で平屋で天井が高くて、理想的な環境だと掛け値なしで褒めて頂けました。お話の中で私がかつてお話をした「土、日はご家族の方の面会が多いので施設にいると色んな楽しい交流が持てる。」との話をされたので、「今朝も早朝の対応をしましたよ。」と話をすると「当然の様に今もされているのは凄いですね」と言われたので「当たり前の事をしているだけです。」と返したのですが、リピーターの皆さん、こんな私の事をどう思われているのか機会があれば教えて下さい。

「天災は忘れた頃にやってくる」

令和5年5月19日

明治の物理学者の寺田寅彦の言葉だそうです。「天災は忘れた頃にやってくる」と言う言葉は戒めの意味でも良く使いますが、どこからの引用なのかも知らずに使っていましたが、たまたま先般の本部施設の全体会で法人の顧問である烏野猛先生(びわこ学院大学教授・学部長)が「関東大震災から今年で100年です。最近は北は北海道から南は九州まで至る所で地震が頻繁に起きている。そして地震の後の集中豪雨が重なると被害は倍増する。特に今年の気候はエルニーニョ現象が起きるので大きな被害が起きる懸念がある。」との話を聞き私は「関東大震災から100年なのか」と理解してインターネットで情報を見ていて寺田寅彦先生の言葉だったのだと知りました。最も私は寺田寅彦先生が物理学者として有名な方だと言う事も知らなかったのですが・・・。

最も元々東京帝国大学物理学の先生だった寺田寅彦先生が元々火災や地震などの災害に関心を持っていたが、1923年の関東大震災発生後は、これまで以上に深い関心を示すようになったとの事。寺田寅彦先生の論文の中に『こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津波の周期を十分の一か百分に一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害ではなく五風十雨の亜類となってしまうのであろう。

しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するよりほかはないであろう。』この文章を読んだ時に私は「当たり前の事をここまで難解に書かれる頭脳はどの様な構造になっているのか」と思った次第です。そして次に『文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があると言う事実を十分に自覚して、そして平生からそれに対する防護策を講じなければならないはずであるのに、それが一向に出来ていないのはどういう訳であるか。その主たる原因は、天災が極めて稀にしか起こらないからであろう。』と警告をしている。

しかしかがら、「天災は忘れた頃にやってくる」のことばは寺田寅彦先生の論文には出てこなくて、この言葉を弟子の中谷宇吉郎が寺田寅彦先生の死後である1938年、朝日新聞に「天災」と題する文章を発表した中に『天災は忘れた頃に来る。之は寺田寅彦先生のが、防災科学を説く時にいつも使われたことばである。そして之は名言である。』と書いて世にこの言葉が残ったと言う事です。この言葉は高齢者施設の経営をしている私にとっては胆に銘じていかなければ災害時に後悔しない為にも大切にしていきたいです。口幅ったい事を言うようですがリピーターの皆さんも心掛けて下さい。

軍国主義に走ったかつての日本は10年毎に戦争をしてきた(日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦)事実がありますが大震災は100年周期とも言われます。お互いに留意したいものです。※ 余談です・・・コラムを書くようになって題材をインターネットで検索するようになって知識が増えてきたと自画自賛です。

 

週刊現代5月20日号の記事から

令和5年5月18日

大見出しが『銀行の「高齢者イジメ」が酷すぎて』であり、小見出しに『三菱UFJ銀行の振込手数料が990円!?』と『「スマホが使えない人はもうくるな」って酷すぎて』と出ていました。そしていきなりの書き出しが『500円以上の値上げ「値上げを発表した銀行側の真意は、はっきり言ってしまえば、もう窓口には来なくてくれ」と言うことでしょう。』とのコメントがあり、もっと端的なコメントとして『メガバンクの収益のほとんどは、高額の資産を持っている富裕層や大企業から得ている。「お金のない庶民はできるだけインターネットを利用して、銀行員の手を煩わせないでくださいね」と言う意図が透けて見えます。』銀行の振込手数料値上げのニュースに関して、こう分析するのは経済ジャーナリストの荻原博子氏だ。

4月27日、三菱UFJ銀行は、10月2日から店頭やATMでの振込手数料を大幅に引き上げる方針を発表した。手数料が高くなれば、店頭窓口をりようして振り込みをする人は殆どいなくなるだろう。これは、銀行の都合と言う事で、「地域にある銀行」とのイメージがどんどんなくなっていく事になると思います。私が中学生の頃(半世紀以上前の事)の記憶として、その頃の銀行員の方はボーナス時期になるとかなりきついノルマが与えられて、預金の勧誘に1件1件の家を回られていた様に記憶しています。会社によっては社内預金の利息が高くて、銀行とのせめぎ合いがあった様に思っています。最もその時代は文字通り高度経済成長期に当たり、日本中が湧きたっていた様に思います。

しかし今の時代は超が付く低成長時代で、預金をしても殆ど利息らしい利息もつかないし、預金をしてもメリットが無いと言う事は、当然の事ながら銀行にしても預金をして貰っての旨みは殆どない。仮に先程の振り込み手数料で収益を上げようとしても、人件費や管理費の方が高くつくと言う状況では「小口の客はただの『コスト』」と言う事になっていくのかなあ。自他共に『昭和おじさん』の私はこれからの日本の流れについて行けるか心配です。

と言うのは「これからの日本の労働人口はますます減っていく。2022年の労働力人口は約6900万人だが、2030年には6500万人を割り込み、あらゆる業界で人手不足が深刻化するはずだ。そうなると、コンビニやレストランの注文や会計はますますタッチパネルになって、対人サービスを受けられる機会は減っていくだろう。皮肉なのは、あらゆる企業が『サービス向上』を標榜しつつ『デジタル化』を進めていることだ。確かにデジタル化は便利になる側面もある。だが逆に、面倒なスマホ操作や融通の利かなさに不便さを感じる機会が増えていることも事実だ」との記事を読んでいくにつれて、私自身が億劫になって来ました。だってリピーターの皆さん、私は自他ともに「昭和おじさん」と言われているのですよ。でも昔から「習うより慣れよ」と言いますから、それなりに出来る様になるのかな。そう言えばタッチパネルでの注文が何となく出来る様になっている自分がいます。う~ん。デジタル化のスピードについていけるかな~。

本日のコラムは銀行の身勝手さから私の時代について行けない話でわけのわからない話になりましたが忙しさの中でのコラムだったのでお許し下さい。

私の誕生日の報告が出来ました。

昨日の理事長コラムで幹部会後に私の古希のお祝いをして頂いた事は書かせて頂き、その時の雰囲気が分る様に写真も何枚か添付させて頂いたのですが、その写真の中に立派な花束を頂いた写真も掲載されていると思うのですが、その時のお花を本日は仏間の内仏様のお花とお墓へのお花にさせて頂いたお話です。

いつもの場合は4時25分のアラームで起きて着替えた後は神棚と内仏様のお水を替えてから、正信偈と般若心経を唱えて、7本のペットボトルに我が家の水道水を入れたものをリュックサックで背負いお墓に行きます。これがいつものパターンなのですが本日は立派な花束を内仏様とお墓に供えるのでいつも以上にテキパキとすべき事をしていきました。

先ずは内仏様のお花は華やかな花としてヒマワリを意の一番に入れてから、バランスを考えたものを入れました。

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ただし、ヒマワリ以外は花の名前が分らないのでリピーターの皆さん、良かったら教えて下さい・・・。お墓での花入れに時間がかかるといけないとと思いながらも、いつもの様に本堂でのお経(般若心経を中心にして、ご真言も)今須稲荷様・薬師如来様でのお参り、三仏様(観世音菩薩様・毘沙門天様・不動明王様)での水替えとお参り、一段高い所にある(実際には7段)仏様2か所と関ケ原与一様のお墓(ここには13体のお墓もあります)それぞれにお水を供えてお参りもして、六地蔵様ではお水を供えて蝋燭と線香に火を点け、それぞれのお地蔵様にご真言を唱えて、いよいよ我が家のお墓でお花を供えるのです。

先ずは若山家のお墓に荷物を置く為なのか大きな石があるので。いつもはそこにリュックサックを置くのですが今日はそこに花束をどんと置いて先ずは花と睨めっこです。と言うのは吉澤家、及川家、柴田家のお墓にもたとえ1輪ずつでもお裾分けとしてお供えしたい。但し若山家のお墓には父進さん、母秋江さん、養母英子さんが眠っているので、「さてさてどの花をお供えしたら三人が喜んでくれるかな」と思案しながらも「ヒマワリは優先しよう。後はピンクのバラが綺麗だからお供えしよう。バランス的に赤のバラも入れよう。」と言いう事で、何とか若山家の花が決まって、吉澤家、及川家、柴田家のお墓には1本ずつですがお供えする事が出来ました。

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昨日の私の古希の祝から我が家の内仏様やお墓までがフィーバー出来たのは有難かったです。

余談です。

朝5時30分には家を出てお墓参りに行くのですが、お墓参りの帰り道でふと気が付いたのは私の影がしっかりと映る様になったと言う事は朝の陽ざしが強くなった証だと思ったので思わず写真で残しました。

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本日は関ケ原でも30℃を越えています。(天気予報では8月の陽気だと言っています。)間違いなく夏に向かっています。リピーターの皆さん、暑さに負けないでお互いに頑張りましょう。

弱い自分に出会った時が強い自分になるチャンス

令和5年5月16日

朝のお参りでの大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉なのですが、私の人生は何故か「火中の栗を拾う」生き方の中で「弱い自分」と言うよりか「自分では解決出来ない自体になって、弱気の虫が出てきた時に救いの手が入り、その体験が血肉になってきた人生」と思っています。そして、本部施設内の事務所にある同じく大谷徹奘師の言葉では(日めくりカレンダーを手に入れた年によって書いてある内容が違うので)「今 逃げれば 過去に逃げた 自分をつくる ことになる」が書いてあり、「一年に一度しかない私の誕生日の言葉は、私への戒めの言葉だな」と思った次第です。

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しかしながら、モヤモヤする事もあったのですが、本日10時からの本部施設幹部会が終了して幹部の職員がそれぞれに忙しそうにしているので「どうしたのかな」と思っていると、北島部長が紫色の羽織と烏帽子を持って来て、いきなり「若山宏の古希の誕生会」が始まりました。私は恥ずかしくもありましたがそれ以上に嬉しくて、北島部長のサポートを得て羽織と烏帽子を身に付けると、西村課長が大きな花束をそして西川課長がケーキを切って持って来てくれると言う事で、いきなり「若山宏の誕生会・古希を祝して」の会に場面が変わり、今迄の幹部会での緊張ムードから一変しました。

幹部職員か寄せ書きをしてくれたものを手渡され、「ハッピーバースデー ツーユー」の合唱が始まると、目頭が熱くなってくるのを抑えるのが大変でした。幹部職員と共にケーキを頂きました。当然の事ながら大きなハートのチョコレートは、しっかり私が頂いたのですが「若山宏さんお誕生日おめでとう。古希」と書いてあったので「私は38歳だぞ」等と軽口を叩きながら食べました。しかしながら、本部施設の職員は私が喜ぶ事を良く知っていると改めて思った次第です。

立派な花を施設に置いておくと管理が難しいので家に持って帰り、明日、仏花とお墓のお花にさせて貰う予定です。お花を持って玄関を出ようとしたところ、1個余ったケーキを我が家の奥様に持って行くようにと持って来てくれたので「この気配りは流石に凄い」と思った次第です。もう一つ嬉しかったのは、画用紙にお祝いのメッセージと絵を画いて持って来てくれた職員がいて、会議室のホワイトボードに貼ってあったのですが、会議の時のスクリーンで隠してあり、幹部会終了後にスクリーンを収納したら出てくる配慮までしてありました。リピーターの皆さん、色んな所に遊び心がある職員が多い事に感謝してます。

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内孫がなかなか生まれません

私の次男に子どもが産まれます。女の子で既に名前まで決まっているとの事です。

準備が良すぎた為か5月7日の予定日が過ぎて1週間にもなるのに未だ産まれて来ません。色んな事情から岐阜大学附属病院での出産になると言うので「今や遅し」と待ち構えていたのですが・・・・。

と書き出したところラインで「17時15分に生まれました。」と送信されてきました。奥様の所にはラインで写真も動画も送って来たとの事ですから「転送の方法がわからない」との事で「急ぎ家に帰って確認したいけど只今18時15分だけれどもコラムが書けていないのでここは忍忍だ。」と歯を食いしばってパソコンのキーを叩いています。

「転送されて来ました。文句なしに可愛い子です。」病室へ連れて来て下さって母親とのご対面の写真には涙がこぼれる程嬉しいです。真っ赤な顔をしていますがめっちゃ可愛いです。何度見ても可愛いです。正直次男の家から岐阜大学付属病院までは40分はかかるので、いざ何かがあった時の対応を心配していたのですが予定日から1週間が経過してお腹の中ですくすく育ちすぎて3キロになったので、医療的な事は分かりませんが入院して点滴をして出産を促すと言う事で昨日入院したと言う事で岐阜大学付属病院に行ったのであれば安心だと思っていたのですが「朝から点滴を打つ」と聞いていたので「生まれた報告が何時になるのか」と朝出勤する時は気になっていたのですが幸か不幸か一日忙しくしていて17時15分に優・悠・邑 和合での打ち合わせが終了してからは「まだ産まれんのか。だったら遅くなった事だし夜中の零時1分を過ぎてから生まれたら最高だ。」等と考えていました。

だって日にちが変われば5月16日になるのだから「じいじと同じ誕生日になるのだから最高じゃ」と勝手な事を考えていました。世の中そんなに都合よくは行きませんがとにかく元気な子を産んでくれた次男の嫁に感謝です。

私はなかなか生まれてこない子どもの事を考えた時に若い時に読んだショートショートにカンガルーの母親が子どもが外に出てきて厳しい状況で苦労するのは可哀想だと言って袋の中から出さずにどんどん成長して袋の中でたばこをパカパカ吸ってお腹の辺が火事になったと言う笑えない話を思い出しました。

リピーターの皆さん私にも可愛い孫娘が出来ましたので、ますます頑張って色んな展開をしていきますのでこれからもよろしくお願いします。

雨の中でも頑張りました。

令和5年5月14日

傘をさしながらでは有りますが、朝のお参りを頑張りました。雨の中を黙々と歩いていると色んな事が頭の中に浮かんできて、頭に浮かんだ事について考えたり、時には行動に移したりしていると、雨の中を歩いている事を忘れて黙々と歩いていました。これは雑念がない世界を朝から体感していると思うと共に、真逆な事として今後の戦略が色んな形で浮かんできます。

本日は今月28日に法人の監査、理事会等があるし、来月のボーナス査定をするための職員の評価をしなければいけないので、1日デスクワークに励みます。昨日の高木さんとのカラオケデュエットのおり、誰とは言いませんが私以上に多動な職員がいることが分かって嬉しかったのですが、お互いにじっくりとデスクワークが出来る事を、本日は示していければと考えています。

朝食を食べながら(昨日の夕食のカレーを「朝カレー」と洒落込んで食べています。)、少し行儀が悪いのですが朝刊のページをめくっていると、前面広告で大きな見出しで「さ だ ま さ し」と書いてあり「笑った、泣いた!傑作トークに元気がもらえる。」その中の一つに「「ローバ(老婆)は一日にしてならず」老いていくというのは、心の奥行が拡がっていくこと。いきなりおばあちゃんで生まれてくるわけじゃない。有名な言葉があります。「ローバは一日にしてならず」。」

当然の事ですが「ローマは一日にして成らず」を引っかけてあるのですが、この様なトークをステージで言う事が出来る「さだまさし」は「歌も響くがトークも響く」と言う事なのだと思いますが「天は二物を与えず」と言うのは違うな。天は時には三物も五物も与えてしまう事があるのだと思った次第です。勿論その様な状況になるには多くの努力と体験を重ねられた結果だと思っています。だって人の事を羨ましく思ったからと言って同じ様になるわけでは無いのだから、自分の特質を理解してその事に磨きをかける努力あるのみだと思っています。

私は今でも「児童福祉で全うできたならもっと違う輝きがあったのでは無いか。」と思う事があります。だって、35歳前後の私は児童福祉の革命児の様な展開をしていましたから。ただし、「小規模であっても、自分が中心者で無ければ思う様な展開が出来ない」と思い38歳の時に勤めを辞し、無鉄砲にも大海原に身を投じたのですが漂着した所が高齢者施設であったと言う事かな。勿論今の状況に不満があるわけではありません。ただ、40歳の時に情緒障害児短期治療施設を岐阜県が認めていてくれたら、全く違う状況が展開されていたのではないかと思う事があります。リピーターの皆さんの中には「何を贅沢言っとるんや」と思われる方も多く有ると思います。私もその様に思います。

生き様には何回と無く人生の分かれ目があると思います。その時に右に行くのか左に行くのか、はたまた真っすぐ進むのかは自分で決めるしか無いのです。私の場合は38歳からの生き方は自分の生き方に正直120%位の勢いで頑張って来たつもりです。この様に出来たのは自らで決め、それを支援して頂く方が多くみえたからです。つくづく思うのは、一生懸命の中での幸運が一杯有り、今が有ると思うと今月16日に70歳になる私の生き方は幸せなものだと思います。

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低音が出るようになりました。

令和5年5月13日

今朝の仏間でのお経を唱えている時に、ふと思ったのは「低い声が若い頃よりもしっかり出るようになった様に思うな」と言う事です。お坊様の読経を聞いていて「低音で心にしみる様なお経で上手だな。」と思う事が時としてあるのですが、勿論私はそんな域にまでは達しているとは思えいせんが「お経を毎日唱える様になって、低音に磨きがかかったかな。」と自己満足に浸っています。私はカラオケで歌を歌う時に元々高音については自分なりに自信を持っていたのですが「低音の伸びが今一だな」とも思っていたのですが、最近は「低音についても少し伸びる様になってきたかな。と言うのも今まではどちらかと言うと低音については、ごまかし気味に歌っていたけど、最近は自然に声が出る様になってきたかな。」と内心では自画自賛していたのです。今朝の仏間でのお経で気が付き、妙応寺の本堂でのお経では本堂が広くて天井が高いので「間違いなく低音がしっかり出ていて響いている。」と確信しました。

本日は午後1時30分から藤下の高木さんとのカラオケジョイントなのですが、「低音が出る様になった分、気分よく歌えるかな。」と思っています。13時20分に高木さんがおみえになり会議室で話をして13時30分に玄関先の地域交流ホールに移動してデイサービスと本館1階の利用者さんと入居者さんを前に歌いました。高木さんが7曲、私が3曲、副施設長が2曲歌わせて貰いました。途中で高木さんがお話をされたので1時間までの予定が10分程延びて、本館2階に移動して同じだけの曲数をそれぞれ歌わせて貰いました。本館2階で私の1曲目は北島三郎の「函館の女」を歌わせて貰い、いつもだとこの曲の歌いだしの低音が今一なのですが本日は上手く歌えましたので「低音に伸びが出て来た成果かな」と思いながら気持ちよく歌えました。

 

 

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そして新館でも3人で同じだけ歌わせて貰ったのですが、よくよく考えると藤下の高木さんは現在79歳で来年になると80歳になられるのですが3会場で7曲ずつ歌われたので合計21曲歌われたのですが最後まで声は良く伸びていて疲れたような素振りも見せられないので全く驚きです。今の私が高木さんの歳になるにはまだ10年はあるのですが果たして10年後に今の高木さんのようにエネルギッシュに歌えるのかと思った次第です。でもね、今も声量が伸び、音域も広くなっているのだから大丈夫かなとも思っています。これは、朝の仏壇でのお経とその後のお墓参りを続けている成果かなと思うと昨年6月初めから始めた朝の活動が今のパワーアップに繋がったのだとすると、神仏の力は偉大だと思うので、朝の4時25分のアラームでの行動開始は止められないなと考えています。でも、私はいつからこんなに意志強固な性格になったのか・・・。リピーターの皆さん、これも神仏のお陰ですかね・・・。

我が家の猫「おもち」についてです

令和5年5月12日

「私は犬と猫のどちらがよいですか」と聞かれたら、即座に「犬」と答えます。しかしながら犬を飼うには絶対に毎日の散歩が必要です。「仕事が趣味」とか「出張で家を空ける事が多い」と言う私が毎日犬の散歩をするのは物理的に不可能です。

ところで私の奥様は「猫派」です。猫が好きですから自ずと猫を大切にするからでしょうか、以前に飼っていた「リット」は20歳まで生きました。リットも我が家に来た時には私の車が車庫に入った事が分ると2階の自分の部屋に退避する毎日でしたが19歳を迎える頃から私が寝ている布団の上で寝るようになって、私もそんなリットが愛おしくなって布団を蹴り上げる様な事をして遊んでいたものです。(死ぬ2日前まで)私は若くて元気な内は追いかけて遊びたい、いやいやからかいたい気持ちが強いのだと思うのです。特にお酒が入ってテンションが高い時はそうなのだと思います。「おもち」に玄関先でいきなり会ったりすると私が大きな声で追いかけまわしたりすると必死に逃げるのが面白くて、それでいて歯を剝いて威嚇してきたりした時は私もむきになって追いかけたりして・・・。お酒が入っているので必死になって逃げまわる「おもち」の姿が面白くて・・・。

しかしながら「おもち」にとっては余程怖かったのか、その日を境にして、猫の好物である「チュール」と言う食べ物をそれまでは喜んで私の手から食べていたのが、傍に行くだけで毛を逆立てて、歯を剝いて威嚇するか逃げて行くのです。「余程嫌われたのだな」とは理解するのですが『餌代は誰が稼いでいると思っているのか』と怒ってみても、猫には理解出来るわけでは無し・・・。「正直たまには私を癒して欲しいな」と追いかけまわしたことを忘れたかの様に思っている私がいます。

但し、昨夜は少しだけ仲良くなれる兆候がありました。と言うのは猫部屋で寝ている「おもち」に近づき「チュール」を見せたらかなり警戒した様子ではありましたが「チュール」を私の方を上目遣いに見ながらではありましたが食べてくれました。しかしながら、食べ終わると部屋からさっと逃げて行きました。今までの私なら逃げて行く猫を追いかけるところなのですが、ここは「ぐっと」我慢して「明日はもう少し構えなくて食べてくれると良いな」と思うようにしました。つまり、まるで私が猫に調教されているような気分ですが「ここは忍・忍」です。だって、私の奥様には仰向けになって寝そべっていると言うので、私は決してそんなことまでして貰わなくても大丈夫ですが、せめて私が帰って来た時に出迎えてくれるくらいにはしたいですよ。リピーターの皆さんこんなことに悩んでいるのは如何なものですかね。

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