2023年01月の記事一覧

面白い記事を見つけました

令和4年1月11日

コミュニケーション総合研究所長であり、一般社団法人聴き方協会代表理事の松崎良紀の著書『聞き方の一流、二流、三流』(明日香出版社)の中に「三流は、相手の名前を呼ばず、二流は、名前が覚えられず、一流は、どうする?」と言う見出しがあり、「人の名前を覚えるのが苦手と言う人は、少なくないようです。パーティや交流会などで沢山の人と会うと、確かに一人一人の名前を覚えるのは大変です。一流は、パーティや交流会など、初対面のときは、特に相手の名前を何度も呼び掛けることで名前を覚えます。」と書いてあったのには私も大いに納得がいきました。

と言うのは大学を卒業して小学4年生の担任をさせて頂いた時に(児童は35人でした。)とにかく一人一人の子どもと如何に接点を持つかと考えて初日の日に32人の子の名前と顔(写真)は一致したのですが3人の子の名前が一致しなくて翌日にはその3人の子に集中的に接点を持って全員の名前を覚えたのを覚えています。また全国老人福祉施設協議会の役員になった平成18年にも役員さんの名前を覚えるのにもそれぞれの役員さんとの接点をとったのを覚えています。だから、その年は1年で700人の方と名刺交換をしました。著書の中に『人間は他人の名前などいっこうに気にとめないが、自分の名前になると大いに関心を持つものだ。自分の名前を覚えていて、それを呼んでくれることは、まことに気分のいいもので、つまらぬお世辞よりもよほど効果がある。

逆に、相手の名を忘れたり、間違えたりすると、厄介なことが起こる。名前は、当人にとって、もっともこころよい、もっとも大切な響きを持つ言葉であることを忘れない。』『人たらしの天才と言われた元総理大臣の田中角栄は、息子の田中京によると「料亭に行くと下足番のおじさんの名前まで覚えていたというくらい、人の名前を大事にしていた。地元に帰ると、一度しか会った事のないおばあさんの名前を覚えていて声掛けをしていて『角栄は凄い』おうわさになり、熱烈に応援されたとの事です。」「そんな田中角栄でも名前を忘れる事があります。

そんなときにはこんな技を使っていたそうです。「「え~、君の名前はなんて言ったかな?」」「「はい、若山です。」」「「それはわかっている、下の名前だよ」」そうして、「「おお、あの角栄さんが、自分の名字を覚えてくれている。とまたまた評判が上がったとか。」『一流は、相手の名前を何度も呼ぶ事で、自分の記憶に刻みつつ、相手を重要な存在だと言うメッセージも伝えるのです。』『一流は、相手の名前を何度も呼んで心をつかむ。』松崎さんの言われる事は真理であり大切な事だと思います。相手の方の名前を覚えるには『接点こそ大切』です。

私が若い頃は研修会や講演を聞いた後は必ず講師の先生に名刺を持って話に行きました。今は講師の立場になる事が多いので名刺を持って挨拶に来てくださる方を大切にしています。『ご縁を大切に』と言う事はよく言われますが、名前を呼び合う事によってより密度のある人間関係が出来る事を改めて理解しました。リピーターの皆さんも留意して頂けたらと思いましたので参考にして下さい。

年が明けて本格的に日本が活動するのは本日からかな・・・。

特別養護老人ホームのような所は『介護にお休みはありません。」と言う事です。勿論そんな中でも本部施設では『日本の風物詩』を大切にしたいと職員一丸になって取り組んでいます。最近では元旦にお屠蘇や抹茶を振る舞い 獅子舞が施設の中を練り歩きおせち料理を食べていただきました。1月7日には七草粥も提供して明日は鏡開きで昨年12月29日についたお餅でぜんざいを作って入居者さん、利用者さんにおやつの時間に食べて頂きます。何が言いたいかと言うと当施設は『年中無休』でありながら『今日一日楽しかったよ。』を実現すべく職員が一丸となって頑張っている事をリピーターの皆さんに改めて知って頂きたかったからです。そしてつくづく思うのは「年末年始に1週間の休暇がある。」とか「10間の休みがある」と言う企業が多く有る中でも『休みなく早出、遅出、日勤、夜勤のシフト勤務を実施して介護事業をいる業界がある。』事をひろく世間に理解して頂き介護事業への評価を高めていき職員の処遇改善を今迄以上にしていく事が肝要だと考えています。

 

今は朝のお墓参りで家を出る時は真っ暗です。

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岐阜の日の出の時間は1月1日から1月14日まで7時2分で変わりません。ようやく1月15日から1月18日までが7時1分になり1月19日から1月20日で7時になり、1月31日にようやく6時54分になります。そして2月1日に6時53分で、2月28日で6時25分。3月31日に5時42分。4月30日には5時3分、5月31日に4時40分であり、6月9日から6月18日が4時37分で一番早く日の出を迎えています。しつこく時間を掲載したのは私自身がこの様に変化していく事に楽しさを覚えたからだと思います。そして改めて私がお墓参りを開始したのが6月の初めであった事が継続している理由だと思いました。と言うのは日の出が一番早い時期から始めたので少しずつ少しずつ日の出が遅くなっていくのに体を合わせる事が出来たから一番遅くに日の出になっている今も続ける事が出来ているのだと考えています。だって、お墓参りを始めた頃は4時25分のアラームで行動開始をした時には日の出直前で起きた時には外が明るくなっていたからこそ思いきって起きる事が出来たのだと思います。今月の14日からは段々と日の出が早くなってくると言う事は私が『祈願』して頑張ってきた事に明かりが射してくると信じています。リピーターの皆さんの応援も宜しくお願い致します。

福岡県でのこぼれ話等々・・・。

令和5年1月9日

①私が米原駅側のお弁当屋さんで3人分のお弁当を購入した事は一昨日のコラムでも書きましたが、実は大阪から乗り込まれた大久保先生も3人分のお弁当を買われていたので、私と太田先生は2個分のお弁当を食べました。ただし、太田先生は2個目は半分残されたのですが、私はしっかりと完食しました。と言う事は私の胃袋は際限なく入っていくと言う事でしょうか・・・。

②新大阪駅でのぞみに乗り込む時に降りる方が終わり、乗り込みが始まり私は結構後からだったのですが、一人の女性の方が慌てて降りられる時に私が肩に掛けている荷物に当たられて私は無意識の内に「ああっ」と言う声が出てしまったら、その女性の方は歩くのを止まられて振り返りながら「すみませんでした。」と言われた顔が恐怖の表情だったので、私はその女性に申し訳ない事をしたと思ってしまいました。「私は決してヤクザのような振る舞いがしたくて声を出したのではなくて無意識の内に声が出たのですが相手の方にしてみると、坊主頭でこの風体なのできっと恐ろしかったんだと思うと「申し訳ない事をした。」とは思いましたが、私も好き好んでこの様な風体になったわけではないのでご容赦下さい。

③24年の年月は生き方や考え方まで変えてしまうのかとしみじみ思った事がありました。と言うのは海外研修で初めてお会いした時の大久保先生は、研修会のまとめ役で団長や副団長に対してもしっかりと意見が言えて団員のまとめ役で、女性としての『凜』とした方だったのですが、あまりにも自信のない発言が多かったので私はさり気無くコーディネートをしながらもかつてお世話になった時のお話に話を持っていくと、目を輝かしてお話をして頂けました。そして話が私が法人を立ち上げると言う時の話では、真剣に心配して頂いた事を話して下さった時には改めて感謝していました。但し、朝食を終えてお互いにチェックアウトをしてホテルを出て小倉駅に向かおうとすると、外が寒くてコートを忘れている事を思い出されてUターンをしてコートを取りに戻りました。私はその瞬時に思ったのは『寒い』との感覚があり、コートを忘れている事に気が付かれたのはまだまだ大丈夫だと思いましたし、大久保先生の自信の無い発言に対しては「ゆっくりでも自分の足で歩けて新大阪まで一人で来て私たちと合流出来たのだからまだまだ大丈夫ですよ。」と何度も話しさせて頂きました。

④米原駅に着いて出口に向かっていると、太田先生からの電話でホテルにスマホを忘れているとの連絡に「おいおい大久保先生の事を話題にしていられる状況ではないぞ」と思うと共に「連絡が花田先生からでは無くて太田先生からだったのは何故なんだ。」と思ったのですが、よくよく考えれば当然の事ですよね。私は基本的にガラケーの携帯を使用していてスマホは無くても困らない(いやいや全国の役員からラインが来ます。)のですが、常識的に言えば「スマホを忘れた=連絡がつかない。」になるので太田先生と本部施設に連絡が入ったのだと気が付きました。」今後は2台目ある事に留意した片付けを心がける事にします。

⑤15時25分に大久保先生から「家に着きました。色々と配慮して下さってありがとう。」との連絡に「流石に配慮の出来る大久保先生だからまだまだ大丈夫ですよ。」と思った次第です。

⑥16時前に我が家に送って貰い、余りに眠くてしっかりと眠りについていたのですが18時12分に本部施設からのメールで目を覚ましました。(この報告については後日コラムにしたいと思っています。)「一旦起きたので夕食は昼食が遅かったので無しでも良いけどお風呂は入りたい。」と言う事でゆっくりとお風呂に入りその後は午前3時35分まで眠る事が出来、いつもの様に4時25分のアラームで行動開始をして朝食後は再び横になると眠る事が出来ました。だから施設に行っても元気に仕事が出来ます。心身ともにリフレッシュ出来たのでまた頑張っていきますのでリピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

 

 

昨日の花田先生の長男さんの披露宴は盛大でした。

昨日は米原駅まで送って貰ったのですが少し時間があったので、お弁当の専門店である井筒屋さんでお奨めのお弁当を3個買い、駅まで送って貰い、駅構内の待ち合いでコラムを書き終えてホームに行きました。しばらくしてひかりがホームに入って来たので列車に乗り込むと太田先生が手を挙げてくれて隣に座り話をしているとあっと言う間に新大阪に着き、乗り換えのホームは違うので太田先生の誘導に従いのぞみのホームに行くと(頼れる方がいるときは楽です。)大久保先生と合流が出来ました。3人並びで座席に着き3人で話をしているとあっと言う間に小倉に着き、列車を降りた所で小原先生とも合流出来て(同じ列車に乗られていたようです)、在来線に乗り換えて海老津に行きました。そこからは披露宴会場のバスが迎えに来てくれて迷うことなく会場入りをして荷物とコートを預けて30分程四人で雑談をしているとカーテンが開いて披露宴会場に。私たち四人でのテーブルが準備されていてしかもたくさんの参加者(約150人)の中で最前列(主賓席の隣)であり、われわれボストン会への花田先生の思い入れが伝わってきました。

披露宴では花田先生の長男さんとその奥様が正面に座られテレビ画面でそれぞれのエピソードの紹介があり親族代表挨拶を花田先生が珍しくも緊張にされているのがわかりました。引き続き新郎である長男さんが挨拶をされたのですが30歳の現代っ子なのか厚労省キャリアとしての貫禄なのかしっかりと挨拶をされました。

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その後懇談をしながらの飲食の時間になり、花田先生夫妻がテーブルまで来て頂いたのでお祝いの挨拶をして、タイミングをみてボストン会のメンバー四人で新郎新婦の席に行き私は自分の立場も含めてアピールさせて貰うと共に全国老人福祉施設協議会に昨年末まで事務局の専務をして頂いていた元厚労省審議官の話をすると「一緒に仕事をしていた。」との話が出来たので、この事は機会があれば北條さんに連絡しなければと思いました。(何事もご縁ですから。)

16時からの披露宴はたっぷり三時間のものでしたので19時までで散会となり、海老津駅まで行くバスに乗って送って頂き小倉まで帰ってきて取り合えず宿泊先でさるリーガロイヤルホテルでチェックインをして部屋に荷物を置いて再び太田先生と小原先生とフロント前で集合して二次会にいきましたが、私は生中一杯と冷酒一合を頂いたのですが、3人共に疲れていたので22時30分にはホテルに帰りました。お風呂にも入らずに爆睡して、流石に本日は4時25分のアラームを止めていたのですが、5時前に目覚めてゆっくりお風呂に入り、その後コラムを打ったり、荷物の片付けをしたりして朝食の約束時間の8時30分に間に合うように部屋を出て3人で朝食を頂きながらも含めて新幹線で新大阪に着くまでいろいろな話をして、会話を楽しみました。

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新大阪で大久保先生、太田先生(東本願寺にお参りをされるとの事で京都まで乗られる為に)と別れて私は米原までこだまに乗り米原からはお迎えの車に乗り途中で遅い昼食をとり、施設に向かおうとしたのですが疲れを感じたので家に送って貰い、一目散に布団にもぐりぐっすり寝ていると施設からのメールで起こされ「なにごと。」と思い見るとショートステイやデイサービスを利用されている方が優・悠・邑から歩いてきたと言われているが帰る家の住所がわからないようなので家に連絡したいとの事なので家族につなぎ事なきを得たとの連絡に宿直の吉田部長に労いの電話をして、その時に吉田部長からコラムの原稿がまだだとの確認があったので、途中になっていた原稿を書き加えて完成したのでこれから送信するのですが今は18時50分で昼食が遅かったし眠いので今夜は夕食を食べずにこのまま寝ます。そして明日からは本来の一日がしっかりと出来るように体を整えます。

本日は福岡県に出掛けます。

令和5年1月7日

福岡県は昨日の報道発表によるとコロナ感染者が一万五千人近く発症したとの報道に万全にも万全の対策をして出掛けます。(マスクは2重にして、喉スプレーとアルコールスプレー)「この時期に何で。」との疑問を持たれたリピーターの方もおありかと思いますが『冠婚葬祭』の義理欠けは許されないとの思いで出掛けます。どんな関係の結婚式の披露宴かと言うと私が35歳で資生堂財団による海外研修団(ボストン会と言います。)に参加した時のメンバーで本日招待してくれた花田君は当時26歳と一番若い団員でしたが34年の年月が経過しているので彼も60歳になっているのです。そして本日は花田君の長男の結婚披露宴が催されると言う事で招待を受けたので福岡県まで出掛けるのです。

今回はボストン会のメンバーが気仙沼から愛知県新城から大阪から、そして私が岐阜県からと4名もの招待を受けたのです。と言う事は招待をしてくれた花田君にとっても『ボストン会』には思い入れがあるからだと思いますし、息子さんが厚労省キャリアなので福祉関係者に多くの方を招待しているのかはわかりませんが本日16時からの披露宴に参加させて頂いたらわかると思います。

私は35歳の時にはこの様に永いお付き合いになるとは考えてもいませんでしたが、海外研修団に参加させて頂いた事によって私の生き方が大きく変わったわけだから私にとっても『ボストン会』は特別な思い入れがあります。本日の主役である長男さんは厚労省キャリアなので(30歳にしてすでに係長だと聞いています。)今回のようなご縁を頂けるのも本当にありがたいです。

本日の切符の手配は愛知県新城の大田先生がして頂き太田先生は豊橋からひかりに乗ってみえるので米原駅10時53分に乗って合流します。大久保先生は大阪発ののぞみ11時38分に乗って合流します。13時50分に小倉に着いて在来線に乗り換えて海老津まで行き披露宴会場に行きます。米原駅で少し時間があったので、お弁当の専門店に行って3人分を購入したので大阪でのぞみに乗り込んでからゆっくりと専門店おすすめのお弁当を久し振りにお会いしたボストン会のメンバーで楽しみたいと思います。太田先生に合流してからの流れとしては披露宴に続く二次会でホテルの部屋に入るまで(多分その流れになると思います。)コラムをガラケーの携帯で打っている時間はないと思うのでリピーターの皆さん本日のコラムは披露宴の予告のみのものになりましたが諸般の事情をご理解下さい。披露宴の様子は明日のコラムでしっかり書きますので。

 

介護保険料の支払いを疑問視する方がおみえになると言う事ですが

「一度も介護のお世話になっていないのに、毎月毎月介護保険料を支払うのは納得がいかない。」等と言われる方が時にはおみえです。私はそんな方には「利用しなくていいのならは幸せな事ではないですか。」と答えるようにしています。そもそも『保険』と言うのは「いざという時の為に活用するもの」なので「活用する必用が無いのは結構な話だと思います。」と答えるようにしています。高齢になればなるほど『認知症』になられる方は増えて行きます。家族の方の中で認知症になられた方が出ると家庭生活は一変します。過去にこんな事がありました。町内の方が施設に遊びに来て(と言うより、施設を見にみえたのだと思うのですが)私にこう言われました。「私はお袋に色々と迷惑を掛けてきたので退職を本来より一年早くして認知症になったお袋の面倒をみる事にしたんや。どうしても世話をするのが難しくなったらまた頼みにくるは。」と言う事を言われて1週間もしない内にその方が玄関にみえて私の顔を確認されたのでしょう、私の方に脱兎の如く走って来られて「施設長私が介護するのは無理だから何とかしてくれ。」と言われたので「どんな風ですか」と聞くと「お袋が夜中になると家を出て行こうとして、外を探す事が毎晩だったので夜中にお袋の隣に寝て私の手首とお袋の手首を紐で結んでお袋が起きようとすると私の手が引っ張られるので目が覚めてお袋を寝させる様にしていたら私は殆ど眠る事が出来なくてお袋は昼間寝ているけど私はそんなわけにはいかず最近は殆ど寝れなくて何ともならない。だから今すぐ施設に入れてくれ。」と血相を変えて言われました。私は「極端な事をされたな。でも、大切なお母さまの為にそこまでされたのは立派だけど現実は難しいな。」と思い取り敢えず緊急ショートの形で受けてその後入居して頂きました。その時の私との約束は「2週間は施設に任せて下さい。その後は状況に応じて面会が出来る様にしますから。」と話をしました。そして、施設においては当初は帰宅願望も強く所謂『徘徊』をされていましたが、基本的には昼間はしっかり起きて色んな事をして頂き、夜はしっかり寝て頂くリズムを作ると次第に落ち着かれ息子さんとの面会も落ち着いて出来る様になり、息子さんも安心されました。私は家族に対しては「家族を歯車に例えると家族一人ひとりの歯が一つ欠けるとバランスが崩れます。だからバランスを出来るだけ崩さない生活を確保しなければいけないのです。家族のバランスを確保する補填の役割りを介護施設はしているのです。」と話をします。そうすると大抵の方は「施設の職員は本当に一生懸命にされていますが私はあのようには出来ません。」と言われたりする事に対しては「職員は早出、遅出、夜勤、日勤があり基本的には月に9日の公休があり必要に応じて有休もあります。しかしながら自宅での介護には休みがないし、玄関などが開いたりすると気が気でないですよね。」とも話をします。認知症の方が『徘徊』『暴言』時には『暴力』等の行為には必ず理由があります。リピーターの皆さん本日は『認知症』の私見を述べましたが時にはこの様な事も時としては書いていきますのでよろしくお願いします。

介護施設は国の意向についていけない2つの課題

令和5年1月5日

課題の一つ目は『賃金アップが経済の潤滑油』との国の方針について「国民受け」する方針であり、決して悪い事ではありません。物価高騰以上に賃金を上げていけば経済は回っていく事は間違いありません。しかしながら、そんなに簡単に事が運ぶとは思えません。その理由は色々あると思います。大した知識があるわけではありませんが、私なりにその理由を列挙します。

先ずは大企業であれば、余剰金を賃金に転嫁すれば良いのですが、中小企業や零細企業の中には「今の賃金を維持するのが精一杯だ。」との意見や、商売をされている方や飲食業を営まれている方の中には「コロナ禍で景気が悪いのに従業員の賃金を上げると言う事など絶対に無理だ。」と意見が多く出てくるのではないかと思います。つまり国の考え方と一般常識にかなりのずれがある様に思います。当法人が経営している福祉施設においては、確かに国が補正を組んだ予算の中から岐阜県に於いては第一弾で『食料品費の補填を』第二弾で『光熱水費の補填』での補助金を頂ける事が決まっています。この点については岐阜県の老人福祉施設協議会、老人保健施設協議会、グループホーム協議会が岐阜県に対して陳情をした成果として形になりました。

しかしながら『賃金』については何の手立てもされていないのです。そんな中で賃金を上げていく事は難しいです。確かに介護保険施設においては『介護報酬』の3年に一度の改正ですので、賃金アップをする為の改正がされたとしてもあと1年3か月待たなければいけない。(最も基本単価が上がると言う確証も無いのですが)今賃金アップをするのであれば『特別給付金』の様なものを政府で大英断をして頂くしかない。と言うのもデイサービスにおいても特養に於いても30%以上の事業所が赤字なのだから、今の状態で賃金を上げる等と言う事をすれば事業所の経営自体が出来なくなると言う事をリピーターの皆さんにもご理解を願いたいと思います。

課題の二つ目は『リモート等の機器を活用しての業務の変容をする』と言う事です。確かに「リモートの活用は移動を伴わずに効率的だ。」との考え方を否定するものではありません。私自身もリモート会議によって時間を有効に使う手段については学ぶことが出来ました。しかしながら『介護』は『人の手』が無ければ出来ません。しかも、コミュニケーションを駆使しながらのケアが必要です。確かにロボット・ICTの開発によって業務の省力化は進んでいます。しかしながら介護職員や看護職員がリモートによる仕事をする事は不可能です。私はよく「介護をロボットがすると言うのであれば、鉄腕アトムの様なものができなければ無理」等と昭和おじさんの私は思っています。つまり、機械の操作は出来たとしても、感情移入までは出来ないと思っています。もしかしたら未来においては出来る様な時代がくるかも知れませんが、今の状況では無理です。

二つの課題ともに現実を現場を理解した施策をして頂きたいと思うのですが、リピーターの皆さんは本日の私の話をどの様に思われますか。

信じて頂か無くても大丈夫ですが・・・。

早朝4時4分に管理宿直者の五次部長からの携帯が鳴りました。昨日は午後からゆっくりさせて頂いたので、午前4時前には目を覚ましていて4時25分のアラームで行動開始をする為に布団の中で体を動かしていたので直ぐに反応する事が出来ました。

連絡は新館の入居者さんで看取りだった方が心停止をされたとの連絡だったので、嘱託医の多賀先生とご家族に連絡をする様に言って暫くすると五次部長から折り返しの連絡で「多賀先生は6時までに来て頂けますし、家族も先生の時間に合わせます。」との事だったので「本日は仏間でのお参りにだけにしてお墓参りはせずに施設に行く事にしよう。」と考えているとアラームが鳴り行動開始。

仏間でのお参りで若宮八幡大神様のお守りが昨年末で終了したので若宮八幡大神様のお軸の代わりに先代の理事長宅にあった西国三十三観音のお軸に「南無観世音菩薩様」と唱えている時に、ふと昨年から行方不明になっているスマホを最後に触ったのは本部施設本館のボランティア室でブレザーの内ポケットから出したのが鮮明に頭に浮かびました。その後、仏壇に移って仏壇で正信偈を唱えてから続けて般若心経を唱えようとしていた5時5分に再び五次部長から連絡で「家族の方がおみえになりました」と言うので、お経を止めて急いで本部施設に行くと長男さんではなく次男さんでしたのでご挨拶をしてから、新館へ吉田部長に次男さんを案内して貰っていると、多賀先生が来て下さり、その後長男さんもおみえになったので五次部長に長男さんの案内を任せて、一段落した段階で私は観音さんが教えて下さったスマホがボランティア室にあるとの教えの通りボランティア室に行くと・・リピーターの皆さん本当に不思議な事に少し物を除けてさり気無く手にしたのがスマホだったのです。

断っておきますが私はボランティア室にあるこの机の上の書類を3度は確認したはずなのに「その時は見つける事が出来なかったのに・・・。」「見つかって良かった。」と言うよりか私にとっては狐につままれたような感じなのです。改めて手を合わせることの大切さを知った思いでした。

長男さんと次男さんに会議室に来て頂き今後の進め方の話をして、結局16時に関ケ原斎場に入るまでは当施設でお預かりをする事になり、その後息子さん達は関ケ原町役場に手続きに行かれ、私は家に帰り朝食後は6日間中断していた放射線治療の為に大垣市民病院に行きました。10時には治療も終えて1月1日に逝去された方の埋葬時間が12時なのでお寺さんが11時30分にはおみえになると聞いていたのでぎりぎり間に合いました。

どうしても時間に間に合いたかったのはかつての入居者さんからの多額のご寄付で出来た共同墓に納骨される事になっていたからです。今回の納骨は入居されていた方と娘さんが疎遠になっていたのを修復する素晴らしい機会となったと私は思っています。早朝に亡くなられた方のお見送りが16時なんで本日はお別れ対応で殆どの時間を費しましたが特別養護老人ホームでは素晴らしい出会いを頂くと共に最後の瞬間まで関われるとてもやりがいのある仕事だと思っているのですが、リピーターの皆さんはこの様な私の生き様をどの様に思われますでしょうか。

昨日は彦根東福寺の護摩供養に参加しました。

令和5年1月3日

新年の三が日は午後2時から護摩供養があると昨年の内に東福寺の住職である静慈彰さんからメールを頂いていたので、元旦一日は亡くなられた方の家族対応もあり行けなかったのですが、昨日はご縁を頂く事が出来たので参加させて頂きました。

昨日の護摩供養には、たまたま東福寺にお昼過ぎに着かれたと言う静慈彰師の高野山大学の大学院でご一緒だったお友達で、和歌山県において護摩供養を専門で毎日の様にされていると言う方(ごめんなさい。しっかりとお名前を聞いていないものですから、この様な表現になってしまいました。)が導師を勤めて頂き、静慈彰さんは鐘や太鼓の所謂伴僧の役割りを担っての豪華な布陣での護摩供養となりました。私にとってはお友達(この表現しか出来ないのが歯痒いです。)が導師をされるのは2度目だったのですが、彼の法衣は2度目と言え凄まじいものでした。

と言うのは、数をするのも法衣は面倒な位に穴が空いていて、片方の袖はかなりない様な状態なのです。と言うのは後程具体的に述べますが、護摩供養での火の子は凄まじいものなので「いつも凄まじいのだろうな。」と理解しました。護摩供養前に私が、その事を指摘すると導師をされる彼はやぶれた袖を見せながら「火の子が燃え移ったんですよ。」とさり気無く言われたのには舌を巻く思いであると共に絶句でした。

さて話を戻します。私は13時30分に車を駐車場(正確には空き地)に停めると、1台の車がスッと入って来たのでご挨拶をしようとすると、その方は昨年初めてにして四国八十八か所を歩いて走破された70台後半と思われる方だったので、一緒に本堂に入って行きました。玄関の戸に仕掛けがしてあり爽やかにして大きな音がした筈なのに誰も出てみえないので、二人でお話をしているとお寺の住職である静慈彰さんが「買い物に行った者が帰って来たと思っていたので」との挨拶の後改めて新年の挨拶をした後、ご祈祷のお願いをさせて頂きました。その後導師を勤めて頂く『彼』とも話をして(前述の通り)14時になり、導師は『彼』が伴僧を住職で護摩供養法要が始まりました。

写真の通り炎は天井にまで届いてしまうのではないかの勢いで、火の子もバンバンと飛びながらしかも伴僧の住職の鐘と太鼓はまるでドラマーの演奏の様に賑やかに、しかもすぐそばで・・・。しかしながらそんなのに負けていてはいけないので、負けじと般若心経を腹の底から唱えました。5本の護摩木を炎の中に不動明王様に届くように1本1本祈願した言葉を念じながら放り込みました。大きな炎の中で燃えていく護摩木に思いを託し「これぞ正に自力本願」と思った次第です。

本日も14時から東福寺(彦根市高宮町2838の⒏)において護摩供養が実施されます。その事が言いたくて早い時間にコラムをアップしましたので興味のあるリピーターの皆さんが参加されると静慈彰師は喜ばれると思います。と言うのは静慈彰師が昨日の話の中で「若山さんから誰も参加者が無くても続けて下さい。必ずや結果が出ますからと言われたのが昨年の一番の言葉でした。」と言われて、私は逆に恐縮してしまいましたが、リピーターの皆さんならば私の意を汲んで下さると思って口幅ったくも最後に書かせて頂きました。

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めっちゃ気分が良いです

令和5年1月2日

「いきなりのこのタイトルは何ですか」とリピーターの皆さんは思われたと思います。ここは一休和尚の様に「慌てない、あわてない。」と言う事でこれからいつもの様に脇道にそれながらになると思いますが語ります。先ずは朝イチの仏間での祈りを終えてお墓参りの為に家を出たら雨が降っていたので「雪で無くて良かった。」から始まり、妙応寺の本堂でのお経を終えて外に出ると「雨が止んでいる。」と言う事でこれまた「雨降って地固まるとは気分かいい。」その後にお墓参りを終えて道路に出るためにブロック2段の所を最近は躊躇してなかなか降りれなかったのに(降りるのに恐怖を覚えていたのです。と言うのは情けない話ですが上手く足がすっと出なくて)今朝は何の恐怖もなく『すっと』足が動いたのです。素晴らしいと思うのは私だけかも知れませんが何事も『面白くない』と思うより『気分がいい』と思った方が1日が「ハッピーじゃないですか」と言う事です。そして今朝のもっとものハイライトは2022年年末ジャンボに下一桁にしか当たっていなかった事です。リピーターの皆さんの中には「強がりを言うな」とか「そんなわけないやろ」と思われる方が殆どだと思うのですが私は「一等前後賞10億円が当たらなかったと言う事は今年齢(よわい)70歳になる私に対して楽をする事なく、これからも健康に留意しながらも仕事に没頭しなさい。との主示(おもしめ)しだ。」と思うとやる気と元気が出てきました。決して強がりで言っているのではなくて本当にその様に思っているのです。というのは、資金的に厳しくて自分の力では何ともならない状況がありましたがその都度、救世主が現れて今があるからです。今も多くの方のご理解を得ていますので「宝くじ等に頼ることなく頑張れば大丈夫」との事なんだと思っている次第です。本日午後からは高野山真言宗の静慈圓前官大僧正の次男さんである静慈彰師が住職をされている彦根にある東福寺と多賀大社に参拝をして私自身及び私に良縁を頂いている皆々様の幸せを祈念していきたいと思っています。参拝に行く事が出来るのも年中無休で頑張っている職員がいて入居者さん利用者さんが落ち着いてみえるからだと思うとこれが一番に良い事なんだと改めて思いました。そんな事を書いていて静慈圓師の書の中の『平安之福』を思い浮かべる事が出来たのも心穏やかはお正月を迎える事が出来たからだとしみじみ思っています。勿論課題は多く有ります。しかしながら解決への方向が見いだせたり、解決の方向に向かっていたり、解決に向けて職員が動き出している中での状況にも感謝です。リピーターの皆さん、この1年も色んな事があると思いますが色んな事があるからこそ「充実した生き方」と言う事だと思うとまたまた嬉しくなってきました。リピーターの皆さん私の生き方はこんな風なのですがこれからも宜しくお願い致します。

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