2022年07月の記事一覧

無茶をしてしまいましたが結果往来です。

令和4年7月21日

昨夜は施設から帰ると18時30分を過ぎており、お風呂も準備ができているとの事で直ぐに入りました。お風呂を出ると食卓の夕食の品が並べてあり、その中に『お刺身』があったのを確認して私は頭の中で格闘しました。「お刺身と言えばお酒やろ」(その様なルールはどこにも無いのですが。いやいや、私の食生活の中にはあるのです。)「でも、唇に醤油が触ると大変だぞ」「いやいや何とかなるって。それにお酒で消毒も出来るかも知れんし。」と言う事で、お中元に頂いたお酒の栓を開け結局飲むことにしました。お刺身は唇を避けて口にいれれば大丈夫だったのですがお酒が・・・。

お酒は岩手県の有名な大吟醸でビールグラスに注ぐと琥珀色でまるでウィスキーのようで、「これは旨そう」とビールグラスを唇に当てて飲みだしたら、正直飛び上がるほどに滲みるのです。ただし、唇が痛がっている間に何とか喉の所までお酒が行ったら「これは辛口の最高のお酒だ。」と言う事で恐らくビールグラス一杯ですから5勺位だったのですが、「痛い」「旨い」「痛い」「旨い」で何とか飲むことが出来ました。(こんな状態で飲まなくても唇が完全に治ってから飲めば良いのにとの考え方も確かに有りますが。)「やっぱり日本酒は美味い」と言う決論に達しました。僅か5杓のお酒でしたが久しぶりに美味しいお酒に酔いました。

そして朝の目覚めの時にペットボトルの水を飲んで舌で腫れている所やぶつぶつになっている所を舐めてみました。そして、「まだ違和感はあるけれども昨日までのような痛さは感じない。」と言う事で、この現象は酒を飲んで目一杯沁みて痛かったけれども「酒で消毒出来た。」と言う事なのか、「痛さを感じない程度に治癒したのか」どちらにしても食べても飲んでも沁みないのは有難い事です。と言う事は「人間は何処かが悪くても調子が出ない。」と言う事です。いやいや、人間だけではなくて生き物全てがそうであり、機械にしても、部品一つが動かなくなったとしても本来の機能を発揮する事は出来ない。と言う事だと思います。

この様に書き進めていて、静慈圓大僧正が書の中で『平安之福』と言う文字が浮かんできました。さり気無い言葉ですが意味の深い言葉だと思いました。今朝の食事は昨日とは比較にならない位に楽に食べれていて「今日から頑張れる。」と半分ほど食べた段階で1本の電話が。そこで、この4月から地域にある民家を回収して4人のネパール人がシェアしている所の家主であり、当施設の家族会の会長さんから「何度注意してもゴミ出しのルールが守れない。」とのお叱りの電話を頂き、久しぶりに落ち着いて頂いていた朝食ですが突如へびの生吞み宜しく急いで食べて、紹介して頂いた会社に連絡した後、電話を頂いた家に行くと、奥様がみえて「注意した時は元気よくわかりました」とは言われるのにその後も出来ていない。

との指摘を頂いたので「日本語のものをネパール語にして貰って徹底します。」とお約束をして、9時30分になりネパール語がわかる方に来て頂き話し合いを持ちました。4人共に決して悪気はない事はわかったので「今後しっかりするように」話をして紹介業の方にお願いしてからバタバタでこれから(14時20分)無くなった方の遺骨を骨箱に収めに行き(天涯孤独の方なので垂井町の職員と共に)その後16時のお約束で県会議員の所に陳情に行きます。

リピーターの皆さん。救いはコラムが完成したことです。

 

 

3日間もベットの中での生活からの復帰はしんどかった。

令和4年7月20日

昨日は10時からの盲養護老人ホーム    優・悠・邑    和(なごみ)でのお参り及び全体会議からの復帰だったのですが『病み上がり』で『タラコ唇』の中ではありましたが自分としては『よく頑張った』との思いと共に『まだまた頑張れる』との思いを強く持つことが出来た一日だったと自画自賛です。10時開始の入居者さんとのお参りだったのですが、少し吉澤施設長と打ち合わせをしたいとの思いから9時前に家を出て久しぶりに車のハンドルを握りました。このとき、右手首の違和感が無くなっていることに『感謝』です。(転んだ後の夜から右手でグーを作る事が出来なかったのです。)昨日は14時から和合での全体会議があるので、そんな予定の日は和(なごみ)で昼食を頂き和合に向かうのですが、本部施設に12時前後に嘱託医の多賀先生が回診に来てくださる事になっていて、どうしても話をしておきたいことがあり、いつもの予定である昼食を事前に吉澤施設長に断りの(無駄になるのは勿体無いので)連絡を朝一番の7時に入れておきました。

9時30分に施設に着き吉澤施設長との打ち合わせを終えて仏間に行くと皆さんが集まられていたので「唇が腫れていて昨日まで臥せていたのですが皆さんに力を頂いて頑張ってお経を唱えますのでお腹からしっかりと声を出して一緒にお願いします。」と話をしてから声が出る限りにお経を唱えました。正直唇が痛いのも忘れてお経を唱えた後は清々しい気分でした。

お経を唱える前は「本日はカラオケは勘弁して貰おう。」と思っていたもですが、仏間の上から(1段上がっているので)会議研修室を見ると既にカラオケのセットも出来ているので、マイクを職員から渡された時に「先月リクエスト頂いた奥飛騨慕情は上手く歌えませんでしたが、まだ練習が出来ていないので、来月のお参りまでに必ず練習をして歌えるようにしておきますので本日は岐阜県にちなんだ『織田信長』を歌います。」と言う事でタラコ唇である事を顧みず気持ちよく歌わせて貰いました。歌い終わるとギャラリーの入居者さんの男性から「砂田おさむを知っとるよ。弥八地蔵さんの所に店があるな。」と言われる方があり、私は嬉しくなって「本日は1曲だけにしようと思っていたのですが、もう1曲砂田おさむさんのオリジナル曲で『人生夢の途中駅』を歌わせて頂きます。」と言ってこれも気持ちよく歌わせて頂きました。

その後、入居者さん一人の方が10分でいいので話を聞いて欲しいとの事だったので、場所を喫茶『しずか』に移して話を聞きました。話を聞いていて入居者さんの話がすべて正しいとは限りませんがしっかりと話を聞いて状況把握が出来たら必ず返事をすると話をして終わりました。その後会議研修室に行き(少し待って頂いていたのですが)全体会を私が席について直ぐに始めて頂きました。全体会の最後に理事長として総括的な話をさせて頂きました。11時30分を回っていたので急いで帰ろうとすると、吉澤施設長から、「昼食を食べ損なうといけないので職員がおにぎりを準備してくれました。」と言う事で本部施設に帰って多賀先生がフロアの回診に回られている間に急いで頂いたおにぎりを頂いたのですが、ふんわりと握ってあるのに型崩れしないのに感動しながら美味しく頂きあまりに美味しかったので吉澤施設長に直ぐに連絡をして作ってくれた職員にお礼を言っておくように伝えました。

多賀先生の回診を終えられて事務所にみえた段階でお話をさせて頂き、次の全体会議会場である優・悠・邑 和合に10分遅れで会議に参加しました。(佐藤施設長が機転を利かせて頂き、烏野先生のお話から始めて頂きました。)烏野先生のリモートによる話を終えて改めて全体会議になり、最初に永年勤続表彰5年の職員2人に表彰状と金一封(1万円)を理事長として渡しました。和合での全体会を終え、本部での幹部会が17時15分からなので、地域包括支援で入居された方の相談に垂井町により、幹部会後に食事をしたくないとの思いでおにぎりを2個急いで食べて会議に挑みました。

幹部会終了後に本日15時10分からの会議の事前提案を作成して最後にコラムを書いた事は昨日書いた通りです。リピーターの皆さん。病み上がりにしては頑張ったと思いませんか。そう言えば、寝てばかりの時は歩くのも耐えられない位に腰が痛かったのが嘘の様です。と言う事は元気でいないと元気でおれないと言う事だと理解しました。だから、咤激励の生き方をこれからもしていきますのでこれからもよろしくお願いします。

 

国民の祝日について思うこと

令和4年7月19日

私が小学校、中学校時代(半世紀前)に国民の祝日が日曜日に重なると「1日休みが無くなった。」と正直残念がった記憶があります。と言うのは『振替休日』等と言うシステムがなかったからです。ところが、今は『振替休日』システムによって、休日は確実に確保されて連休の割合がメッチャ増えました。そこでパソコンで『国民の祝日』を検索すると色んな事が判ったのでリピーターの皆さんに『知識のお裾分け』をしたいと思います。(リピーターの皆さんの中には要らぬお節介と思われる方もあるかも知れませんが、敢えて書きます。)先ずは、『振替休日』については、祝日法第3条第2項で「『国民の祝日』が日曜日に当たる時は、その日後においてその日に最も近い『国民の祝日』でない日を休日とする。」この規定は、昭和48年の祝日法改定により設けられました。と書いてありました。昭和48年と言えば私が20歳の時です。つまり私は大学生活を謳歌していたので『振替休日』なんてどこ吹く風でいたので全く「ラッキー」等との思う事が無かったので、働き出して「振替休日」なるものがある事を意識した次第です。でもこれは大学を卒業してから教員時代のほんの短い間だけのものでした。そしてもう一つ違和感を持っているのは『成人の日』(1月の第2月曜日)、『海の日』(7月の第3月曜日)、『敬老の日』(9月の第3月曜日)、『スポーツの日』(10月の第2月曜日)の設定の仕方です。「年寄りの戯言」あるいは「こだわりすぎ」との誹りを敢えて受けてでもリピーターの皆さん私は言いたいのです。「国民の祝日」には設立された当初にはその日と決めた理由がありました。一例を書くならば『スポーツの日』になった日は元々は「第1回の東京オリンピックの開会式」を記念して出来たものと記憶してます。5月3日は『憲法記念日』ですがこの日は「日本国憲法の施行を記念して国の成長を期する。」との事で制定されたものですがこの時期はいわゆる『日本のゴールデンウィークの真っ只中』ですから譲る必要がないので不動の日となっていますが、この日が替わってしまったら「一体、憲法記念日って何なの」と言う事になってしまう。休みを多くすると言うのにも意義が全く無いとは言いません。「長期に休みが有れば、家族団らんも出来、旅行も出来てリフレッシュ出来ると言うことなのでしょうが、今はコロナ感染症が発生して3年目になり、今月16日~18日の3連休があって「コロナ感染者が増大した。」とのニュースを見るにつけ『これは何か今の現状を嘆いている天の声』と考えるのは私の考えすぎですか。リピーターの皆さんはどう思われますか。そしてもう一つ。介護に関わる方々はカレンダーには関係なく仕事をされています。そう言う方々の評価を高めて頂ければとも考えています。

寝ているのがしんどくなってきました。

令和4年7月18日

リピーターの皆さんの中には「何を贅沢な事を言っているの」と思われた方があるかとも思いますが正直な気持ちなのであります。ただし、この傾向は快方に向かっている証だと思うと「また頑張れる」との嬉しさもあるのです。寝てばかりで後ろ向きな考えばかりがフラッシュバックで余計にブラックな気分だからでしょうか中学1年の5月のゴールインウィークが終わって登校をしなければいけない朝になり、異常にお腹が痛くなり当時の関ヶ原病院に行くと腸捻転で手術で入院することになり2週間学校を休み再び学校に行き特に英語の授業に体が固まってしまった事を今でも覚えています。

その当時の英語担当の先生が僅か1クラス34人のみの小規模な学校なのに優秀な10人位にしかついていけないような指導方針(その頃の私にはそのように思えました。)だったようで、尚且つ私自身に『努力をして何とかする』と言う気持ちがなくてそのまま今でも英語コンプレックスを持っている次第です。批判はどこからも出来るのであまりしたくはないのですが、敢えて批判的な考え方を述べてみます。僅か34人しかいないクラスで2週間全く授業を受けてない生徒に対して2週間分をフォローする為のメニューがあったら「僕の為にわざわざ作って頂いたのだから精一杯頑張ろう。」と思ったのではないかと都合のよい考え方を述べましたが実はこのような事を考えれるようになったのは僅か13年ですが児童養護施設で学習遅滞児と学習に取り組んだ事による自負と言うか自信によりそのようになったのだと思います。

本来私の出勤時間は14時から22時だったのですが、自分がやるべき業務を理解した1ヶ月位経った頃から出勤は10時頃で退勤は23時30分頃と言う勤務になりました。勿論この勤務は私が決めたいわゆるフレックスな考え方です。実際に実践している時はメッチャ楽しかったし充実していました。

と言うのは、私の思いを受け止めてくれる子ども達ばかりで私自身子ども達の学習に対する意欲が芽生え成績が上がってくるのを共有出来たのは最高でした。勿論最初から上手く言ったわけではありませんが子ども達の方から「若山先生の言われる様に頑張れば成績が上がって高校進学が出来る。」と言う信頼関係が出来てからでした。そんな中で集団による『グループダイナミクス』が起きた時には私も子どもと共に感動して泣きたいほどに嬉しかった事があります。

勿論この事例はその子どもに能力があったからなのですが。(紹介します。)その子中学3年の9月に入寮した子で、入寮する前には触法少年として中学校での問題児で中学校を卒業したら就職してバイクを乗り回すと言っていた子だったのですが、どれだけ意気がっても苦労して高校に進学した子が沢山いて先輩からのアドバイスには耳を傾けてくれて、11月からは進学する気持ちを固めてくれたので、私は、集団学習を終えた22時から2時間近く毎晩マンツーマンで行いました。

と言うのはその学年には中学3年がいなかったラッキーもあったのですが。第1回の模擬テスト(8月)では90点だったのが第4回(1月)では256点までになったのです。正直自分の事の様に嬉しかったし、『自分の天職』とまで思ったものです。話を私の事に戻します。中学校の先生に熱く取り組んで頂く方だったらと思うのは私のわがままでしょうか。だって、中学1年位で『努力をせねは。』等と思っている子どもがどれだけいるとリピーターの皆さん思われますか。

ようやく唇の痛さも我慢出来る程度になりました。

朝一番に熱を測ると36・9℃だったのでひとまず安心。朝食では久しぶりに味噌汁の味を楽しみながら食べる事が出来ました。と言う事は昨日も一昨日も味噌汁は頂きましたがまるで味がわからないままに丸のみしてたわけです。それでいて、味噌汁が唇に触れた時は飛び上がる位に痛かったです。ただし、本日も油断をして食べ物を入れた時には飛び上がる事もありましたが・・・。本日は午後から地元のカラオケが上手な方との喉自慢をする企画が予定されていたのですが、流石にずっと休ませて頂いている私がイベントだけに行くのはどうかなとの思いとそこまで元気がないとの理由でイベントは行かずに家で安静にしてます。寝てばかりで3日が経とうとしている今、改めて思うのは「寝てばかりだと腰が痛くて足もふらつくな」と言う事です。人間は二足歩行になってからは、歩く事によって健康保持をしているのだと思いました。そんなことを考えていて頭に浮かんだのは大谷徹奘師(奈良薬師寺執事長)の岐阜県老人福祉施設協議会主催の研修会の講演会で「人は歳をとって年寄の事が理解でき、病気になって健康のありがたさを知る。」との言葉でした。私は常日頃『相手の身になって』と言ってますが、果たして「私自身、どれだけ相手の事が理解できているのか。」と、横になっていても腰が痛い状態だからこそ思えているのではないか。とも考えています。ずっと寝ていなければいけない入居者さんに「安楽な姿勢の提供をしなければいけない。」とか、「車椅子にずっと座っている方の思いがわかるか。」等とは言っていますが私自身10時間も車椅子に乗った一日を過ごした事はないし、オムツの体験も一日はしましたが、入居者さんの中にはずっとオムツをつけてみえる方が多くみえるのに「本当に快適な生活になっているのか」と言う事を『毎日が忙しい』と言う事を理由にして、真剣に考えることから逃げているのではないかと、寝ていなければいけない生活をたった3日しかたっていないなかですが思っています。このような事を考えれるのもコロナワクチンの摂取の後遺症で熱を出した事によって出来た時間です。こう言う時間を与えて頂けたのは私がいなくても施設を守ってくれる職員がいればこそです。リピーターの皆さん寝ている時もこのように考えれる自分に自画自賛です。そして、明日からはばりぱり頑張っていきますので宜しくお願いします。

イライラしてます

おとなしく一日寝ているのに15時30分に体が熱く感じたので熱を測ると38・6℃と言う事でイライラしてます。コロナワクチンを摂取したからとはわかっていても、入居者さんに熱を出された報告はなく、ますます落ち込んでしまいます。

今回の場合は転んだ事によって唇がタラコ唇状態ですので、ダブルパンチのダメージに対して余計にイラついている次第です。熱を測った15時30分の段階で4個目のカロナールを飲んで一時間ほどぐっと寝たので少し気分が良くなったので、今は(午後4時56分)ガラケーの携帯でコラムを打っている次第です。

「今日はコラムを止めてもリピーターの皆さんに後から謝れば理解して頂ける。」との危機的状況は何度かありましたが、ずっと継続出来ていることに自画自賛です。

今思うに最大の危機だったのは名古屋市立大学病院で眼の手術をした時でした。と言うのは、手術を終えてからずっと下を向いて寝ていなければいけなかった時だったと思います。何とか継続しているのですが本日でもそうですが、時間は一杯あるのに書く気にならないと言う日の方がダメなものだと思います。だって午前中は熱も37℃位で比較的元気だったのに書かずにいて、しんどい今、書いているのですから。そして、寝てばかりなので話題を見つける事が難しいと言う事もあります。元気な時なら色んな展開があり大丈夫なのですが。熱があって寝ている時には過去の楽しいことを思い出す事も出来ないのです。

夕食を頂きました。唇に沁みるのはかなり緩和されて食べやすくなってます。唇が痛かった事による効能が有りました。と言うのはお豆腐を頂いたのですが、豆腐に醤油をかけるのをいつもの半分位にしたら、豆腐の味がしっかりとわかって感動しました。と言う事はいつもの食べ方が豆腐にとってとても申し訳ない事をしていたのだと『今は思っています。』でも、唇が沁みなくなったら元に戻るだろうと思います。だって昔から言うではありませんか『喉元過ぎれば熱さ忘れる。』と。

とにかく今日もこれから寝るのですか(とは言え、一日中寝ていたのですが。)明日はカロナールのお世話にならなくてもよいようになりたいです。リピーターの皆さん。私が元気になるように応援宜しくお願いします。

弱虫宏くんの話

令和4年7月15日

私が小さい頃虚弱だった事はリピーターの皆さんにこのコラムで何度も書きました。直ぐに高熱を出す、鼻血が止まらない、寒くなっての霜焼けは普通でない等々・・・。

昨日コロナワクチンを12時15分に新館の医務室で多賀嘱託医に打って頂いたのですが、その時多賀先生が「理事長の腕が腫れないように。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と言って打って頂きました。その後事務所に戻り、急いで昼食を頂き、食べ終わると直ぐに13時30分からの和合での幹部会とお参りの為に車を走らせました。昨日転んで肩や両膝と唇が痛かったのですが、頑張って運転しました。

会議とお参りを終えて再び本部施設に戻り、書類の整理やメールの整理をして、家に帰りました。夕食は軽めに頂き、お風呂も短めにして、休む事にしました。今から考えるに、お風呂に入っのが駄目だったのか午前零時には寒気を覚えて、午前1時に熱を測ると37・6℃あったので施設で準備した『カロナール』を飲みました。しばらくするとパジャマが濡れたので着替えをしました。再び熱を測ると先程と同じ37・6℃だったのでがっかりしてしまいました。7時前にリビングに行き熱を測ると38・2℃と言う事でがっかりでした。ただし、小さい頃から熱を出すのに慣れている私は唇が腫れていて、熱も高いのに味噌汁もご飯もしっかりと食べる事が出来ました。ただし、大きな梅干しは流石に食べる事が出来ませんでした。

その後、ウトウトとしていて、お昼になり牛乳を2杯飲みながらメロンパンとカステラパンを食べる事が出来ました。その後も申し訳なかったのですがベットでゴロゴロしていて15時30分からどうしてもリモート会議に参加しなければ行けなかったので施設に送り迎えを頼みました。ただし、リモート会議中は意識が朦朧とした状態でしたが取り敢えず参加することが出来ました。

今は18時37分なのですが頭が働かない状態でガラケーの携帯で格闘しているのですが『切れ味』は悪いしなかなか言いたいことが言えませんが、継続出来たことを評価して下さい。リピーターの皆さん元気になったらしっかりと書きますし、お墓参りも復活しますので。やっぱり健康で無いと駄目だと言う事を改めて理解しました。

『こけたら 起きれば いいんです。』

4時25分のアラームで行動開始をしようとベット上での体操(なまかわな体操だと自分でも思いますが。)をしていて、昨日転けた時にはノーマークだった右肩が一番痛くて、次に右足の甲の所が痛くて、両膝はかなり楽になっていて、唇は日にち薬だと諦めな仕方がないと思いながら「お墓への歩きは止めるかな。」等との誘惑も若干有りましたがいつも通り歩く事にしました。家の外に出ると爽やかな風が吹いていて「頑張って歩く事にして良かった。」と正直に思いました。(こう言う成功体験が人を成長させるのだと69歳にしてつくづく思いました。)昨日は思いっきり蛙のような形で転けたので一歩一歩慎重に前を向いて歩きました。そして、本日も本堂の線香立てに2本の線香に火が点いていたので玄関の戸を開けてお参りを済ませてから大谷徹奘師(奈良薬師寺執事長)の日めくりカレンダーをめぐり14日にすると『こけたら 起きれば いいんです』との文字が目に入ってきて「大谷徹奘師は全てお見通しだな。」と思った次第です。『こけたら    起きれば    いいんです』は確かに心理だと思います。しかしながら、当たり前の事が当たり前に出来ないから世の中は大変なのであります。私が応援している演歌歌手の歌の中にも「上り坂、下り坂 まさかの坂に転げ落ち」と言うのがあり、「転げている時は何ともならんがね」と思っていたのですが『こけたら 起きれば いいんです』とサラッと書かれてしまうと「な~るほど。確かに心理だ」とは思うのですが私の現実は、確かに起き上がって再び歩いたのですが肩はバリバリに張っているし、口の中は黄色く変色して食事を取るのも昨日よりは少し良くなったと言うものの大変な状況。口の中の状態を客観的に見ると普通の方なら絶対に食べれないくらいの状態なのですが、(だって、上脣も下唇も全部の所が口内炎になっていると言っても過言ではない状態なのでありますが)ここが「宏クンの凄い所」と言うか人とは違う所なのであります。と言うのはリピーターの皆さん想像してみて下さい。両唇が口内炎でまっ黄黄の状態で我が家の特別辛い味噌汁でしかも味噌汁は熱いのです。だから普通の方なら口に入れた段階で飛び上がって2度と口に入れないと思います。ところが私は(多分ですが)めっちゃ沁みて痛いはずなのに我慢している内にそれが快感の気分に変わるのです。そんな事を書くと私が変態の様に思われるといけないので敢えて説明します。確かに小さい頃は虚弱であった為に口内炎の酷いのを作っていたのだと思います。当然私は食欲が有りません。そんな時に母秋江は息子が少しでも食事を取れる様になだめたり褒めたりしたのだと思います。つまり小さい頃は私は母秋江さんが褒めてくれるのが嬉しくて頑張ったのだと思います。(訳の分からない話ですみません。)と言う事で私は口の中が大変な時にも食事が取れる人間になったのです。と言う事は私が13歳の時に他界した母秋江さんは56年後に私が両唇が大変になっても大丈夫な体質にしてくれたんだと思うと『母の愛』は壮大なものだと思わざるを得ないのですが・・・。(自分でな納得しているのですがリピーターの皆さんに私の思いが伝わったかはわかりませんがお許し下さい。)最後に本日コロナワクチンの4回目を打ちましたがリピーターの皆さんにで虚弱体質の私に熱が出ない様に応援して頂けると有難いです。

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大難を小難に出来たと思う事にしました。

令和4年7月13日

朝の日課を順調にこなし「いつもよりは効率的に出来ているから6時過ぎには家に帰れるな。」と出張り神社にお参りして我が家の前を通り橋を通り抜けようとして、昨日剥がしたポスターが綺麗に剥がれていないと思いながら歩いていて、橋と道のほんの少しの段差に躓き(本当に情けない話です。)3歩ほど前のめりになり、そのまま体全体がばたっとカエルの様な形で倒れました。一番ショックだったのは両唇を地面に打ちつけて両唇がしっかりと腫れてしまい、口の中も至るところが傷付いてしばらくは血が止まらなかった事です。

かつての私であれば、家の前だし至るところが痛いので歩くのを止めて家に帰るところなのでしょうが、今の私はその程度では諦めません。「両膝と右手首が気になるな。」と思いながらも歩きを再開しました。幸福地蔵菩薩様では本日も花を真っ直ぐにしてからお参りをして、本堂をガラス越しに見て、線香が2本点いているのを確認して(有り難いことです。)玄関の戸を開けて本堂に入りお賽銭箱に賽銭を入れてから口の動きが少し悪かったですがしっかりとお経を唱えました。六地蔵さんの所でいつもだと草むしりをするのですが流石に草むしりををする元気はなく、六地蔵さんのコップで手を洗い、先ずはビニール袋に入れて持参したペットボトルの水で花立に水を入れて(これが昨日も入れたのに殆ど500ミリリットルが無くなりました。)六地蔵さんのコップにそれぞれ水を入れました。

その後我が家のお墓と他の3軒にも水を入れて、ここでもお経を唱えて一目散に我が家に帰り、取り敢えず怪我の状態を確認する為に服を全部脱ぎながら鏡を恐々見ると、上唇が腫れていて傷まるけの血まるけで、下唇をベロっとめくって確認すると側頭するくらいに腫れていました。その後シャワーを浴びながら怪我の状態を見ると両膝は擦り傷と共にぽこんと腫れていて(特に右膝)、全く気にしていなかった右肩が腫れていたのには改めてショックでした。シャワーを浴びた後朝食になったのですがいつもの朝食の準備が出来ていていつもの様に若山家の辛い(味噌の濃い)味噌汁を口に入れるとどんな食べ方をしても口の中の傷に当たるので飛び上がる位に痛かったのですが、取り敢えず完食しました。

但し、いつもたべる大きなめっちゃ酸っぱい梅干しは流石に食べる気になりませんでした。あっ、忘れてました。一番痛くて気になる右手首の報告をしてませんでした。どうして思い出したかと言うと今パソコンで原稿を入力しているのですが、ピリッと痛かったから思い出しました。朝食を頂いてしばらく自室のベットに横になっていたのですが「8時30分受付の関ケ原診療所で取り敢えずレントゲンを撮って貰おう。」と言う事で8時15分に家を出て8時25分に関ケ原診療所に着くとまだ受付も開いていなくて「お客様が待ってみえるなら5分位早く受付しても良いのに」と思っているとピッタリ8時30分にカーテンが開き受付開始。

6人目の受付だったのですが「取り敢えず外科で診て貰おう。」と言う事で外科の患者さんはいなかったので直ぐに名前を呼んで貰い看護師さんに傷をみて貰うと「取り敢えず整形外科で診て貰って下さい。」と言う事で整形外科に行くと「取り敢えずレントゲンを撮ってきて下さい。」で手首、両膝、右肩の写真を全部で10枚程撮って頂き再び整形外科に行くと「骨に異常が無いですが、後から痛みが強くなるようなら来て下さい。」ど取り敢えず湿布だけ出して貰い再び外科に行くと2種類の塗り薬の処方を頂き1件落着。凄い勢いで倒れた割には骨に異常もなくタイトルの様に『大難を小難にして頂いた。』とプラス思考で行きますのでリピーターの皆さんこれからもよろしくお願いします。

参議院選挙の結果に虚しさと苛立ちを覚えています

組織内候補者は残念ながら落選してしまいました。これは、制度も予算も政治で決まると言う現実を介護に関わる方々に理解して頂く事が浸透しなかった事に尽きると思います。もっと端的に言うならば『自らの地位を自らで守るべき』を理解されてない証しであると言う現実があると思います。この現実を変えていかない事には介護業界の未来は明るいものにはならないと思っています。

組織内候補者が6年前に当選して頂いてからの活躍には目を見張るものがたくさんあったにも関わらずその事を「何と無く良かった。」あるいは「ラッキー」等と片付けてしまうのは全く持って短絡的な考え方だと思います。

具体的に言うならば、組織内候補者が参議院議員で在籍していた2回の介護報酬改定は『プラス改定』と言う結果を現実に勝ち取ってくれたし(もちろん、組織としても色んな方に理解を得るために努力もしましたが。)、コロナ感染症対策を頑張っているからと言う事で医療関係者に次いで介護従事者にも『慰労金』(1人5万円)を頂く事が出来ました。またコロナのワクチン接種についても医療従事者に次いで高齢者の接種の順番の時に「施設においては介護従事者も同時に接種しなければ意味がない。」と言う事で同時に接種出来る様にその当時の田村厚労大臣と共に菅総理に掛け合って同時接種を可能にしていただいたりと介護事業者の立場に立った対応をして頂いた事は感謝に堪えません。

このような事が現実に出来たのは国会議員の立場であり、尚且つ介護の現場を熟知されていたからに他なりません。介護の現場の事を熟知している国会議員だからこそ介護の現場の代表として声を大にして国会の場で発言して頂いたからこそと思います。私も人一倍に声を出す事は出来ますが、どれだけ大きな声を出したとしても叶う事ではありません。

介護を代表した議員がいなくなった以上、国の制度や介護報酬改定への意見を少しでも通す為に何をすべきかと言う事をこれからは今まで以上にしっかりと考え、提案して各方面に理解して頂く根回しをしていかなければいけないと全国老人福祉施設協議会副会長としての立ち位置に於いても痛切に思っています。

結果が出てしまった以上その結果を真摯に捉えて私に出来る事を頑張って行こうと考えていますが、正直に言えば「介護の方々は自分たちの立ち位置が分らないのか」と言う苛立ちがある事も事実です。よく、「政治には関わらない。」と言われる方が有ります。しかしながら自分たちの生活をより良いものにして、高齢者の安心な生活に貢献する為には『政治力』は不可欠です。「何もしなくても国が何とかしてくれる。」等言う考え方は通用しないのが現実です。

今日のコラムはかなりしつこいものになった事をリピーターの皆さんにお詫びしつつも私の虚しさを理解して頂ければとの思いでいます。

 

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