2022年05月の記事一覧

弁護士さんがタフなのか若いからタフなのか

令和4年5月31日

昨夜東京を22時過ぎに新幹線に乗り0時30分に大垣駅に着いて(真夜中ですよ。)頂いた顧問弁護士を吉澤施設長が迎えに行き、合流出来たとのメールが届いたので、直ぐに弁護士の先生の携帯にお礼と明日の迎えの打ち合わせの連絡をしました。「そんなにまでしなくても職員に任せたら良いのに」との考え方は理解しているのですが、「お忙しいのに来て頂いた弁護士の先生に対して私が出来る誠意を示しておきたい。」と言う事で、昨夜の行動になった次第です。昨日は大垣市民病院での検査の為に、本日は弁護士さんとの打ち合わせの為に朝食を6時過ぎにとりました。だから、2日連続でウォーキングマシンに乗っての30分の歩きと般若心経を13巻唱えるのは無しにして、若宮八幡大神様の掛け軸と我が家の仏壇にお参りをしました。お経はいつもの正信偈と木魚を叩いての般若心経を1巻(丁寧に)唱えました。若宮八幡大神様では、『心願成就』をお願いして、若山家のご先祖様には『諸障退散』と『七難消滅』を真剣にお願いしました。本日は7時に家を出て弁護士の先生と打ち合わせする優・悠・邑 和合にお迎いにいきました。7時と早い時間だったので渋滞も無く7時40分に着いてフロントで支払いの対応をしていると、弁護士の先生は朝食を食べてみえるのが確認でき、ご挨拶をしていて、しっかりと食事に出たものが食べられていたのでつくづく感心したのは昨夜午前1時くらいにホテルに着かれてお風呂に入られたりして(多分)から寝られて、7時45分には荷物の整理もされて食事を終わられていると言う事は「しっかりと睡眠をとられたのか。」と思った次第です。但し、『弁護士』だからタフだと言う事ではなくて『若い』と言う事だと理解しました。そんな事を考えていて、ふと私が38歳の時に児童養護施設を退職して『非社会・半社会の子どもの個別ケア』『家庭教師』(沢山の生徒を抱えていました。)『大学等の非常勤講師』(多い時は週13コマ)『法人設立に向けた対応』(書類作りは夜に)と言う大車輪での日々を送っていた時は2時間くらいの睡眠でも大丈夫だったように思います。しかしながら69歳の誕生日を迎えた今、同じ様にしようと言う事自体無理な話し。悔しいけれどもそれが現実です。勿論69歳の同年代の方の中では断トツに行動力があると自負していますが、若者に勝てるとはお酒の飲み比べくらいかな・・・。リピーターの皆さん、そんなものだけで勝っても仕方がないですよね。

 

正に『民俗学』第2段

令和4年5月30日

週刊現代5月28日号で、シリーズ「あの街角を覚えている世田谷」で昭和28年~49年の写真が特集記事で掲載されていた第2段です。第2段の初めの写真は、昭和40年代の『豪徳寺』(知らない地名ですが)「綿菓子製造機に子供達も興味津々」と紹介して「豪徳寺駅の北に位置する山下商店街の1コマ。子供達へのサービスとして無料で綿菓子を提供していた」との写真を見て、「我が施設には今でも同じような綿菓子機があるな。」と思うと共に、「我が施設は東京の50年前を再現しているのか。」とも思った次第です。(当施設は昭和の古き良き時代を再現する事により一日を楽しく過ごして頂きたいのです。)

次の写真は「淡島通りへ出向く八百屋の主人。小回り性能の高い三菱自動車は細い路地を走るのに適していた。」とのコメントに私は「東京でオート三輪車とはイメージ出来ない。(ミスマッチ)」今では関ヶ原でもオート三輪車は見かけない。どの位前かは定かではないけど材木屋さんは結構最近まで使っていたし、山の奥の方ではナンバープレートを外したのが(車検を受けずに公道でない所で使用している。)動いていたりしていたな。と考えていました。

次の写真では、女の子がみんな『おかっぱ頭』だったのを見て、「そう言えば私が小学生の頃は殆どの女の子が、おかっぱ頭だったし、男の子はぼっちゃん仮りだったな。」と思いました。(ここまで書いた段階で、本日は大垣市民病院の精密検査があり、朝6時過ぎに朝食を食べ7時には我が家を出発して今は9時6分で、特殊な注射を打って頂き3時間後の検査の為に待ち合いで待っていて、コラムの続きを打とうと考えたのですが、週刊現代を持って来なかったので続きを書けないけど時間が勿体ないので話題を変えて書くことにします。)

8時前に大垣市民病院に着いたので正面玄関の駐車場に入れる事が出来ました。(私が駐車場から病院内に入る時には満車の案内がしてありました。受付は診察券を入れると『パスポート』なる用紙が出てきて終了なのですが、本日は3台ある機械の前にそれぞれ10人位づつ並んでいたので「時間帯によって状況は違うものだ。」と思った次第です。パスポートの用紙を持って受け付けに行くと「先生の問診がありますのでお名前をお呼びするまで待ち合いでお待ちください。」と言われたので待ち合いに行くとまだ、待ち合いは空いていたのですがしばらくすると一杯になりました。

しばらくすると名前を呼ばれて中待ち合いに行くと先生に呼ばれて「体調に変わりありませんか。」と聞かれて「大丈夫です。」と答えると検査に行く場所を丁寧に教えて頂きました。先生に教えて頂いた通りに行くと、そこでの受け付けを済ませると注射をして頂いたのですが「3時間後の検査ですので、CTの検査を終えてから11時40分には再びこちらに来て下さいと言われ、今は(午前10時26分)はたっぷりと時間があるので飲食が出来る所でコラムを打ちながら麦茶を飲み、柿の種を食べながらの状態です。こんなにゆったりとした気持ちでコラムを打てるのは検査をしなければいけない状況だからだと思うと複雑な気持ちになりますが、医療の進歩の中では『がん』など恐れる必要がない。それよりも色んな障害によるストレスの方が恐いと思っています。

『柿の種』の袋に『こばなしのたね』と言うのがあり、『コオロギの耳は前足についている』と書いてありました。リピーターの皆さん。どうでもよい話ですがこんな話題でもコラムにしてしまう私は『凄い』と思いませんか。(自分で言うのはどうかと自分でも思った次第ですが「まっいいか。」

昨夜の護摩供養の報告です。

令和4年5月29日

先月はかなり早く護摩供養が行われる東福寺(彦根市高宮)に着いたので、「1時間見ておけば大丈夫だろう。」と考えて17時に出発する予定でいて事務所で書類の整理をしていたのですが、17時前になりばたばたしてしまい結局17時10分に施設を出ました。護摩供養が終わってから家に帰って夕食を食べるとなると健康的でないと考えて途中でコンビニにより、パンとおにぎりとお茶を買い、車を運転しながら食べました。(この状況も決して健康的ではありませんが・・・。)

車は佐和山トンネルの手前から渋滞にはまりなかなか進まなくて結局18時10分に東福寺に着いたのですが、境内の駐車場に入ってビックリです。と言うのも先月初めて参加させて貰った時には私の車の他には寺の住職さんの車を入れても2台しか無くて決して広くはない駐車場とは言え楽勝に停める事が出来たのに・・・。ベンツやアウディと言う車も含めて⒏台も停まっていて、私の車を停めると帰られる方にご迷惑をかけるような停め方しか出来なかったのですが、既に護摩供養の法要が始まっていたし、途中で帰られる方はないものと思い本堂に入って行きました。

入って行ってびっくりです。先週は住職をいれても5人だけだったのに、確かに本堂も決して広くは無いとは言え一杯のようで15人は参加されていたので先週の3倍。だからでしょうか、常に全力の静慈彰師(ご住職)がマックスの全力投球・・・。護摩木の本数も多かったのですが、(盲養護老人ホーム優・悠・邑 和 の20本もお願いしました。)燃え方が凄まじくて私は静慈彰師のパフォーマンスに合わせて般若心経を遮二無二唱えていたのですが、護摩木が燃えている炎を凝視していた時に、左を向いた龍の口から赤い炎をあげているように見えました。(私には確かにそのように見えました。)

皆さんがそれぞれに祈願された護摩木を炎の中に入れていかれたので、最後に私が祈りを込めて書かして頂いた4本の護摩木を炎の中に入れました。無事に護摩供養が終了して静慈彰師の興奮が治まらないのが私には伝わってきました。と言うのは祈願が終わってからのお話はオーバーアクションだったからです。

全てが終わって本日は本部職員であり滋賀信行会の幹部である西川課長に誘われたと言いう事で、内藤会長も(他に滋賀信行会の方が3人)参加されていたので静慈彰師を囲んで(その前に車の移動はしました。)話をしたり、改造された部屋の見学をしました。話をしているうちに改造された東福寺において滋賀信行会の青年部で合宿をする話で盛り上がりました。先月の護摩供養と比較したら3倍の参加だし、合宿をする話まで出てくるとは、素晴らしい話ですが、あれもこれも『ご縁』だと思った次第です。このお寺が昨年の10月まで電気もガスも来ていなかったお寺とは思えない進展を遂げようとしています。(5年前から修繕をされていて、電気やガスが来ていない時には車の中で寝ていたとのことです。)

リピーターの皆さん、魅力あるお寺です。一度訪れられたら良いと思います。「杉和会の理事長コラムを読んで来てみました。」と言って頂くとお茶くらいは出して貰えるかも知れません。

正に『民俗学』

令和4年5月28日

週刊現代5月28日号で、シリーズ「あの街角を覚えている世田谷」で昭和28年~49年の写真が特集記事で掲載されていました。私が生まれた昭和28年からと言う事で興味を持って見たのですが、写真1枚1枚が『おどろき』の一語でした。と言うのは、私が知っている『東京』のイメージとは全くかけ離れたものだったからです。そしてつくづく感じたのは私が生まれて69年の間に日本はめざましく発展してきたと言う事です。もう1つ、私が学生時代に所属していた『郷土研究の会』の顧問の先生だった祝(はふり)宮静先生から教わった「『民俗学』は決して難しい学問ではありません。たとえば若山君の住んでいる関ヶ原で一年に1回、同じ場所に立って360度回転して八ミリカメラで撮影して50年後に順番に見て行ったとしたらこれが正に『民俗学』なのです。」と言われた事を。(私は出来の悪い教え子だったので全くしてないのですが、今となっては何ともならないし出来ない話ですが実施していたらと思うと勿体ない事です。)そんな事を思いながら1枚1枚写真を見ていきました。

1枚目は昭和44年の『三軒茶屋交差点を走る玉電』とあり、説明書には「明治40年に開業した玉電は、撮影年の5月10日に廃止となった。写真左手が国道246号、中央奥が世田谷通りにあたる」そしてもう1つの説明書に「広大な武蔵野の田園地帯は、やがて23区で人口トップに」とあったので、私はつくづく自分の知識の無さを感じました。

そして、改めて歴史を振り替える事に依って未来を見通せるものだと1枚の写真から感じる事が出来ました。(こんな調子で書いていくと特集全部は紹介できないと思っています。)昭和44年と言えば私は16歳の高校生。もしその当時の世田谷を訪れていたら「すご~い都会」と驚いていた事だろうと思うのですが、今見ると「岐阜駅前の方が勝っているかな。」等とアホな事を思っています。

次に昭和36年の『松竹マークが懐かしい三軒茶屋中央劇場』でコメントには「昭和27年に松竹系のロードショー館として創業。30年代の映画黄金期に人気のピークを迎えるも、平成25年に閉館。」と事で、いつの時代も栄華盛衰はあるのだな。と思うと同時に考えてみたら『東京』が栄えたのは徳川家康が江戸に行ってから。それまでは私の拙い知識の中では『単なる田舎』だったんではなかったかと。と言う事は『東京一極集中では駄目だめだ』と言われながらも、未だ一極集中は続いていますが、今後はどの様な日本を目指すべきなのか等と大きな事を私が考えても何ともなりませんがリピーターの皆さん、私は福祉に拘った生き方で邁進して行きますので今後共宜しくお願いします。

※まだまだ特集記事の写真で面白いのがありますので、第2弾は必ず書きますが、多分明日は本日18時から行われる彦根市にある『東福寺』での月1回の護摩供養の紹介になると思いますし、コロナ感染の報告も書かなければいけないので「いずれまた」と言う事で宜しくご理解下さい。

全国老人福祉施設協議会デイサービス部会によるプレゼンが実施されました。

 

 

全国的にデイサービスの経営が厳しい状況にある中で、今年度全国老人福祉施設協議会としての計画で、経営支援を希望される事業所20ヵ所を募集し経営コンサルタントをつけて経営改善につなげ、他の事業所にも参考になるような展開になるような計画を立てました。その様な中で本日、経営コンサルタントの選定の為にデイサービス部会のメンバーによってプレゼンテーションが実施され、私は担当副会長として参加させて頂きました。事前にプレゼンテーションに参加される4事業所の資料は頂いていたのですが、実際に1事業所提案15分、質問10分で実施すると、事前の資料だけでは判断出来ない難しさを感じると共に、それぞれの事業所が自分の事業所の長所をアピールしてくるので甲乙つけ難いもので判断に困ってしまいました。実際には10時からデイサービス部会幹事の進行で、先ずは担当副会長である私が挨拶をして次に委員長、部会長と挨拶があり、引き続き担当事務局からプレゼンテーションについての留意点等の話をして貰い、順次各事業所からの提案を受けます。最初の事業所の提案を聞いていて各採点者持ち点50点なのですが、「基準が分らないので正直難しいな。」と思いましたので、最初の事業所は25点(50点の半分の点数)をつけさせて貰い、その後の事業所には、基準点より良かったか悪かったかで判断する事にしました。私の採点では4事業所の内、2事業所が突出している様に感じてその様な採点にして、パソコン上で点数をつけて(今は本当に便利です。点数を入れると合計点まで計算してくれて、速やかに送信出来ました。)午後の昼食休憩時間(12時30分~13時30分)に対応して、13時20分には8人の採点結果がメールで来たので結果を確認すると、全員の方の考え方が同じであったので正直安心しました。但し、2事業所には絞れたものの⒉事業所は甲乙つけ難くて、一つの考え方で行くとこちらの方が優れていて、違う考え方で行くともう一つの所が良いと喧々諤々で意見がまとまらない状況だったので、ここは担当副会長として、公正な判断を部会長に一任する事にしました。ただし、2事業所には部会長から疑問な点を聞いて判断するようにと言う事でまとめました。結論を急ぐ理由は6月3日の常任理事会で私から報告をしなければいけないからです。次回の常任理事会で方向性を決めないと今年度事業としてしっかりとした結果がでないからです。有意義な結果を出して会員事業所にとってメリットになるものにしていきたいと考えています。

過密スケジュールに感謝

令和4年5月26日

ハゲハゲのガラケーの携帯電話で毎日のスケジュール管理をしているのですが、時にはパソコンのメールで、時にはファックスで、時には郵送で、時には電話連絡でと色んなツールを使って予定が入ってきます。毎日色んな刺激的な事があるので情報を得た時に直ぐにガラケーの携帯のスケジュール管理に記憶させる事にしています。そんな中でよく失敗するのが出席確認表を「後に送信しよう。」と手元に置いていながらたくさんの資料の中に潜り込んでいて、提出期限が過ぎてから申し訳ない感じで督促の連絡を頂いたりするのは「いかんこと」とわかっていながら時に迷惑をかけてしまうのは本当に申し訳ない事であります。

毎朝4時31分のアラームで行動開始(アラームが鳴る前から目を覚ましている事が殆どですが。)して、先ずはガラケーの携帯のスケジュール管理を確認してからお参りの体制にしています。昨日のコラムでも私の口癖である『予定は未定であり決定ではない。』と書きましたが(考えたら本日も書いてしまいましたが)どんな事が起きるかが予測できない、ある意味『刺激的な』毎日なのであります。だから、「何があってもコラム連載は続ける」をやり続ける為に、大抵は前日の事を書いたり、当日の実施前に前段を書いて結果報告を加執する形をとっています。と書きながら思った事があります。それは、「大学を卒業するまでの学生時代には予習・復習なるものはしたことがなかったのに」と思うと「この事実は自分自身を誉めてあげたい。」と言う事になるのでしょうか。

本日は10時から12時15分(15分の延長です。)は全国老人福祉施設協議会総務・組織委員会主催の各委員会幹事(若手の幹部)が参加しての会議がありました。(『2035の会』と言います。この名称は私が命名したのですが、その意味合いは「2035年に全国老人福祉施設協議会の中心者として活躍して貰いたい。」との願いをこめました。)昼食を食べて書類の整理をしていて14時から全国老人福祉施設協議会東海北陸ブロック会長会議がこれまたリモート会議で実施されました。

「ほっ」としていると1本の職員からの電話。その職員は昨日早出で勤務してその後体調が悪くなり本日『コロナの陽性』が出たとの報告。改めて『予定は未定であり決定ではない』と言う事でその後は陽性になった職員に状況を聞いたり、保健所ともやり取りをして今は16時30分なのですが、18時から大垣フォーラムホテルで会合があるので少なくとも17時15分には施設を出なければいけないので今日も1日バタバタでしたが、私と同じくらいの年齢の方の中には「今日の予定は何もない」と言う生活を送られている方がおみえになると耳にする事があるのですが、リピーターの皆さん、私は『忙しいに感謝』です。

本日は岐阜県老人福祉施設協議会の総会があります。

令和4年5月25日

例年、年に2回の総会はあるのですが、今回の総会は『一般社団』の認可を取得しての第1回の総会で私が会長になって10年目にしての事なので私自身思うところがあります。昨年度までの組織は名称を名乗ってはいても、どこからも承認されていたわけではなかったのですが、この4月からは『自らの足でたつ』組織になったわけです。だから、組織としての『責任の重さ』は計り知れないものがあると会の代表である会長として思っています。会員の方々はそれぞれに『社員』としての位置付けなので、会員の方々にもそれぞれに責任ある対応が求められるとも考えています。総会の会場がなかなか取れなくて羽島文化センターをお借りして実施します。

ホテルを借りて実施すればお世話する側としては楽なのですが、使用料が高くなるので公的なところで実施するのです。と言う事で13時からの開会なのですが準備もしなければいけないし開場は12時30分からなので早くに昼食を済ませて出掛けなければいけないと考えています。ただし、『予定は未定であり決定ではない』のであくまで『予定』でしかありませんが。ただし私は会長と言う役割がありますので総会には必ず行くのですが・・・。

11時には昼食をとり、(厨房の提供は時間的に無理なのでハチミツをつけた食パンと牛乳、ご飯にふりかけと主食ばかり食べました。)その後自分の車で羽島文化センターに行きました。12時15分には着き会場になっている4階へエレベーターで行くと事務局の方とホームページをお願いしている業者の方がリモートの準備をして下さったので、一通り挨拶をしてから会長専用のパソコンの所で本日のシナリオの確認や会長挨拶の確認などをしていると続々と役員さんがみえて、最終打ち合わせをしていると全国老人福祉施設協議会会長から本日の挨拶内容に対する確認の電話がきたりしていると定刻の13時になり『一般社団法人、岐阜県老人福祉施設協議会』になって初めての総会が始まりました。事務局が開会を宣言して私が会長としての挨拶をさせて頂きました。

今回は事前に原稿を書いておいたので、話すべき事はしっかりと出来たと思っています。その後来賓として全国老人福祉施設協議会の平石会長、岐阜県浅井次長、岐阜県社協常務理事に挨拶をしていただくと、渡辺参議院議員(国交副大臣)が時間調整が出来てご挨拶をして頂きました。その後祝電披露があったのですが、岐阜県内衆参7人全員の議員さんからメッセージを頂きました。この事事実は、如何に『一般社団』になった重要性があるのかと言う事をしみじみ感じました。

総会議案が3つあり、それぞれに説明があり無事に通過して明日からは賛成頂いた事に対してしっかりと形にしていかなければと思いました。総会終了後は7月の参議院議員選挙の組織内候補の園田参議院議員が6月10日に岐阜に来ての決起集会の持ち方について話し合い一日の対応が終了しました。リピーターの皆さん一日一日日々を大切にしている私に拍手を・・・。

『癌』だと宣告されて考えた事をお約束通り書きます

令和4年5月24日

大垣市民病院に結果を聞きに行った時に「あわよくば癌ではないように。」と正直思いました。ただし、私の生母秋江さんは、40代前半で癌がみつかり47歳の時に亡くなっています。だから息子である私が癌の因子を受け継いでも何らおかしくはありません。むしろ、60代後半(と言うより60代最後の歳なのですが)での発症は遅いくらいでありラッキーと言っても過言ではないと考えています。そしてもう1つラッキーな事は、生母秋江さんが癌と闘ったのは50年以上も前、つまり半世紀以上前のことであり、この半世紀の間に癌治療は目覚ましい進化を遂げています。つまり『癌の宣告』イゴール『死の宣告』ではなくなったと理解しています。それに、事業の関係で夜もゆっくり眠れない日が続いても食欲は全く落ちないし、たまに家での晩酌も美味しいので大丈夫だと思っています。

かなり前の事なのですが、全国老人福祉施設協議会の役員の方で日本酒をガンガン飲まれてからもホテルの部屋へ招かれていわゆる『部屋飲み』をされる豪快な方がおみえになり、私よりも立派なお腹をされていたかたが、半年ぶりくらいでお会いした時に『激やせ』されていて、その先生から「若山さん。体重が減ると体が軽くなって歩くのも楽になったよ。若山さんも痩せた方が良いよ。」と言われたのですが、私は異様な痩せ方に違和感を持ったので「いやあ。なかなか痩せるのは難しいです。」と答えるのが精一杯でした。実はその役員の方はそれから3カ月後に亡くなられました。だから、私は『太鼓腹』の腹を叩くと良い音が出る自分のお腹が大好きなのです。それは、小さい頃ガリガリに痩せていて、その当時人気力士だった『若秩父』に憧れていたのです。今の私は若秩父と甲乙つけ難いお腹に満足しているのです。

今も帰り際の職員が「理事長、体調は大丈夫ですか」と心配そうに聞いてきたので(多分、このコラムを見ていてくれているのです。)「このお腹なので大丈夫です。もしもこのお腹が小さくなったら心配して下さい。でも私はまだまだ30年はしっかり元気でいるから大丈夫です。心配してくれてありがとう。」と答えました。皆に心配をかけたくてコラムで『癌宣言』をしたのではなくて、「癌に何か負けるものか」と言う宣言をしたかったのです。私は生まれて半年が経過した時に心臓が5分程度停まって生母秋江さんが嘆き悲しんだのに、復活をして今に至っています。それは私には生きてしなければいけない使命がまだまだあると言う事だと考えています。だって、高野山の静慈圓大僧正様が「若山さんの背中にはお不動さんがついている。」と言って頂いたんですから。だからと言って奢った生き方をしようとは考えていません。厳しい状況にあっても『福祉道』に邁進してまいりますのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願い致します。

 

全ての始まりは『挨拶』から

5月20日17時15分からの幹部会では『挨拶の徹底』と言う事を真剣に話し合いました。

「何を今更」との考え方もありますが、私は基本中の基本である挨拶がしっかり出来る事が『相手を思いやる心』を育てると思いますし『気付きの多いケア』に繋がると言う事を改めて話をしました。確かに事務所に入室する時に挨拶をしなくても、業務で支障がある事は殆どありません。しかしながら元気に挨拶をして貰うと元気が貰えるし、職員としての意気込みも感じる事が出来ます。

しっかりとした挨拶をするには『大きな声を出す。』事が大切だとの思いから、21日と22日に実施した『お参り』では、導師として出来る限り大きな声でお経を唱えました。私がいつも以上に大きな声をあげているからかフロアの入居者さん利用者さんも大きな声で唱えられているように思いました。

「今まで声が小さかった職員が突然大きな声で挨拶すると違和感が出来るのでは」との考え方もありますが、私は「違和感を持たれるのは一時であり、小さな声より大きな声の方が気持ち良い」と思っています。

私自身中学校までは人見知りが激しくてよく『蚊の鳴くような声』でぼそぼそとしか話が出来なくて「若山は大きな声では話が出来ない。」と言う固定概念を持たれていて私自身もぼそぼそとしか話をしてはいけないと言う殻を破る事が出来ませんでした。それは、私が育った(今も生活しているのですが)『今須』の同級生は少なくて1学年1クラスだったので保育園の頃のイメージが払しょくされなかったからです。そして最大の理由は私自身変える勇気がなかったのだと思います。今から思うと「勿体ない事をした。」と思うのですが、高校生になってからはその反動の様に自分の考えを堂々と言えるようになり、自ずと声も大きくなりました。どこかで変えて行くのであれば、気が付いた「今でしょ。」と言う事だと思います。

そんな事を考えていて本部施設が出来た年の平成10年10月頃の事です。本部施設本館が事業開始をして半年が経過してようやく入居者さんが定員いっぱいになり職員が『忙しい』と言う事で施設見学におみえになった方にも挨拶が出来ない状況に対して「どうして挨拶をしないのか」と聞くと「忙しいから」との答えが返ってきたのには信じられないものがありました。

それから24年が経過して「出来る様になっている。」と思っていたのがそうで無い状況に私の不充分性も総括しながらしっかりとした体制の再構築をしていきますのでリピーターの皆さんはご支援宜しくお願い致します。

なお、リピーターの皆さんの中には後半の展開に違和感を持たれた方だあるかもしれません。実は今は17時10分なのですが17時30分から緊急会議があり、その会議が長引くとコラムが頓挫してしまうので何とかクリアと言う事でご了解下さい。

一瞬ですが心地よい夢を見ました。

令和4年5月22日

昨日はバテ気味だったこともあり、17時には家に帰らせて頂きました。18時30分までは寝室で横になる事にして「今寝ると夕食の時間が遅くなり下手をすると夕食が食べる事が出来なくなって痩せてしまうがね。」(※ 決して1食抜くだけで痩せる事はありません。それどころか次の食事で多く食べるとかえって体重は増えるのです。)と言う事で18時30分まである意味、無理矢理テレビで録画したのを見ていました。【ちなみに、『今日から俺は』です。この物語は私の青春とマッチしているので好んで見ます。制服にバッチが付いていたり、女子の髪型に懐かしいものであったり、男子はツッパリリーゼントであったり、学生服は短ランと長ランであったり、女子のスカートの丈がくるぶしまであったり(全員がそうだったわけではありませんが何故か私の周りにはいっぱいいました)「う~ん。心躍る青春時代じゃ」】

とにかく何とか寝る事無く18時30分になって1階に下りて行き先ずはお風呂に入り、ゆったりした後夕食を頂く事にしたのですが、5月16日の私の誕生日に幹部職員から椅子と共にプレゼントして貰った北島部長特製の日本酒で造った梅酒をロックで頂きました。前にもコラムで書きましたがお酒を飲むと『食い意地』が張ってしまい昨夜も結局最終的にはアイスクリーム(爽)を食べて2階に上がってベットに横になったのは20時20分で、20時30分には爆睡して目が覚めたのは午前1時30分で5時間は熟睡しました。いくら何でも1時30分に起きるわけにはいかないし翌日の事を考えると「もう少し寝なければ」と言う事で、目をつむりうつらうつらしている時に一瞬だと思うのですが夢を見たのです。

その夢は生母秋江さん(私が中学1年である13歳の時に逝去)が登場しました。何度か生母秋江さんの事は登場させているのでリピーターの皆さんはご理解されていると思うのですが、私は生母秋江さんからは目の中に入れても痛く無い様な育て方をして貰っていました。でも、それは小学3年生まで。と言うのは生母秋江さんの体に子宮癌がみつかり入退院を繰り返していたからです。でも小学3年までの息子である育て方は半端でなかったと思います。そんな生母秋江さんに夢の中でめっちゃ甘えていたのです。

一瞬だったので目が覚めてから「夢なら覚めないで。」と言う思いになりました。この様な夢は久方ぶりというより記憶にありません。この夢の意味を一生懸命に考えました。そして私の結論は私が厳しい状況にある為に「少しはゆっくりお母さんに甘えなさい。」と言う事だと思いました。甘える事が出来なくなった私は自分を律する事を常としてきましたが、今の私は少し弱音が吐きたくてあのような夢を見たとすると決して良い方向では無いので、リピーターの皆さんはもっと過激に頑張りますので今後の展開を見ていて下さい。但し、私には多くのネットワークと多くの協力者がいますので、甘えるのではなく多くの方の知恵を頂きながら良い方向に持って行きますので今後共宜しくお願いします。

 

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