2022年01月の記事一覧

予定通りに『左遷』の続きを書きます。

令和4年1月11日

最初に紹介してあったのは、現在、ベストセラーになっている『左遷社長の逆襲』を上梓したキャノン電子会長・酒巻久氏が御手洗社長から「秩父へ行ってくれないか」と通告された1998年間のことで、当時本社の常務から赤字経営だった子会社の社長になり、「キャノンでのキャリアは終わったな」と思われたとの事。しかし、酒巻さんの凄いところは「でも、私は心を入れ換えるのが早い。新天地のキャノン電子を、自分の理想的な会社に作り替えたいと思いました。もし子会社に行ってまでやりたくない事をやらされるなら会社を辞めてもいい。」との考え方は『背水の陣』で望まれたと簡単に私は想像出来ました。

とは言え、『思い』だけで簡単に変わるのなら、だれもが成功するはずですが、そんなに簡単にはいかないのが世の常だと思います。ただし、社長が提案して実践していく中で脱落して行くものが多く出る中で数が減り、最後には数えるほどになってしまったが、その数少なくなったメンバーこそ、中心的社員に育っていった。と言う話には私自身の経験からも規模こそ違えども共感出来る事でした。つまり、酒巻氏の熱意が社内に浸透し、お荷物子会社だった会社の業績は目覚ましく改善されたのは、自分の信念を貫き通してきた結果だとも思います。私は厳しい状況になった時にもした下腹に力を入れて頑張ってきた事を思い出しました。今も盲養護老人ホームの入居者はなかなか入らない状況ですが、私を信じて頑張らなければいけないと考えています。

二つ目の元東レインターナショナル社長の田中健一氏は上司の意に逆らい文字通りの左遷にあった時の述懐として「まぁ驚くほど仕事がありませんでしたね。当時の私は完全にふて腐れていました。腐った態度をしていると、腐った人間が寄ってくるのです。夕方になると、仕事がない人間が集まって安い飲み屋に行く。そこではろくな話もなく、愚痴と上司への文句、会社への不満ばかりです。」そんな生活だったので、次の左遷が用意された時には「ここで死ね」との宣告に近かったとの事。赴任当初は、部下もなければ仕事もなく、途方にくれるばかり。ですが最初の左遷で腐ってはいけないと思って必死でもがく事によって理解者が出てきてその後は順調な展開になったとの述懐を知り、改めて私は『アクションなくしては良い展開は無し』と理解した次第です。

元キリンビール副社長の田村潤氏が左遷されたのは1995年。上司の指示を拒否して業績の悪い高知に飛ばされ、その当時のアサヒビールの「スーパードライ」の一人勝ちだった時にキリンビールのラガーを以前の味に変える事を提案して、高知での業績が認められて、左遷を逆手にとる事が出来た。この記事の最後には『左遷から蘇った人たちの共通点は、逆境の中でも自分を信じた事だ。禍福はあざなえる縄のごとし、という。会社人生のドラマは彼らの人格に厚みを与えている。』と結んでいます。

『厚み』などとは考えた事はありませんが、私も今の厳しさを「あのときは厳しかったけど、そのお陰で今の私があり社会福祉法人杉和会がある。』と言えるように頑張りますのでリピーターの皆さん、これからも危なっかしい私ですが宜しくお願い致します。

 

久しぶりに『週刊現代』の記事からです

令和4年1月10日

『私はこうして「左遷」から甦った』のタイトルが気になりました。書き出しの本文をそのまま書きます。《紀元前206年、項羽は、中国最初の統一王朝・秦を滅ぼす。彼は、共に戦った劉邦への恩賞に、要所である関中の地を約束していた。ところが、前言を翻した項羽は関中の西にある辺境の巴蜀を劉邦に与えると言い、地図の左側を指した。劉邦を左に遷すーーー。この逸話が「左遷」の由来であるとも言われている。左遷された場合、そのまま窓際で会社人生を終えるか、あるいは新天地を求めて転職する会社員がほとんどだ。だが、僻地に飛ばされた劉邦がその後項羽を破って漢帝国を打ち立てたように、左遷から蘇り、輝きを取り戻した人もいる。》の書き出しに私は「結果的に上手くいった事例が掲載されているのだろうけど、その結果を手に入れるには想像も出来ないくらいの苦労と努力と応援してくれる方にも恵まれたのだろう。」と思いました。そのように考えれるのは私自身に色々な展開があって今があるからだと思っています。私は児童養護施設の指導員になった時から何事にも一生懸命に頑張る事が出来るようになりました。それは自分自身の事ではなくて子ども達の為に何が出来るかを考える生き方に喜びを見出だせたからだと思います。ただし、相手の為にしていると思っていた事が全て自分の中に良い意味で跳ね返って来たように思います。児童養護施設での展開が出来たのは、高校2年4月7日に姉が急逝し(何度も書いてすみませんが)クチャクチャな生活の中、四国八十八ヶ所巡礼歩き団参に出会い、「人の役に立ちたい」との思いから残りの高校生活は生徒会活動に全力を尽くし大学生活では、「社会の矛盾を正したい」との思いから色んな事をさせて頂きました。(今考えたら随分生意気な事だったと思いますが、その時は真剣だったとも思います。)ただし、私が5年間もの間自分の我儘な生き方に対する支援を惜しみ無くしてくれた父進さんの存在無くしては出来なかった事だったとウォーキングマシンに乗りながら思った次第です。そして、父進さんの力も借りて教師になった時は「子ども達の目線でうごめきたい」との思いで頑張ったつもりでしたが、教育現場はそんな甘いものではなかったのにある程度それが許されたのは父進さんの存在があったからだと言うことに気が付き教師を辞めました。辞めたから何をしたいと言う考えもなく辞めたのはやはり私は『田舎のボンボン』だから出来たことだったと思っています。その頃に考えたのは「父親の萱から自立・自律するには違う世界で頑張らなければいけない。」との思いもあり児童福祉の道にご縁を頂き児童養護施設の指導員になったのです。正直、前倒しで『公休』を頂いている私は思いっきり13年間頑張ったので、それなりに評価を頂いていたとは思うのですが、「自分の思いで頑張れる世界を築きたい。」との思いで38歳の時に辞めたのです。あのままの道の選択をしていてもそれなりの生き方はあったと思うのですが、敢えて未開の地に踏み込んだのです。(ようやくテーマに辿り着きました。)つまり、自ら『左遷』の道を選んだと言う事になりますでしょうか。リピーターの皆さん。理解して頂けましたか。殆んど脇道ばかりの話でしたので、明日は週刊現代の記事にあった事に対してコメントする形で書きたいと思っています。ただし、予定は未定で決定ではありませんのでご留意ください。

リスクヘッジとしてのPCR検査の結果は『検出されず』でした

令和4年1月9日

昨日新生病院にご無理を言って午前9時の予約をさせて頂いてPCR検査をして頂いた事は昨日のコラムで書かせて頂きましたが、今朝施設に行き事務所の私の机の上にPCR検査の結果報告がファックスで早々にきていました。一瞬「どきっ」。だって、検査とか試験とか言うものは結果を見て良かった時には「ほっ」とするものでしょ。「熱も無いし体もだるく無いし、食欲もあるので(ありすぎかもしれませんが)大丈夫だと思う。」とは言え、結果の欄に大きく『検出されず』と書いてあるのを見て正直安心しました。勿論『検出されず』ではありましたが、これからも感染症対策として『手洗』『うがい』『手指消毒』『マスク』『検温』『三密は避ける』についてはしっかりと守って行きたいと思っています。鹿児島での3日間は特に注意をした対応としてマスクは2重にして私が感染症対策の上で信頼しているシガドライさんの噴霧用の消毒液を持参していつも以上に喉への噴霧と手指の消毒を実施していきたいと考えています。

コロナ感染症の話題が取り上げられて2年が経過しました。ここからは、コロナ感染症に対する私のその時々の心情を正直に書いてみたいと思います。2020年の2月の頃の私は「何をそんなに騒いでいるのかな」くらいにしか思っていませんでした。その年の3月に当法人の評議員会の席で評議員の一人の方が「私は今元気に過ごしていますが、ひょっとしたらコロナに感染していないと断言することは出来ないですよね。」と言われた時には正直「何の話や」と思っていたくらいですから。と言う事で3月26日には職員の異動に伴う歓送迎会を行いカラオケが出来るようなお店にも行ったのです。ところがその日に岐阜市内の接客を伴うクラブでクラスターが発生したとのニュースが流れてあの時は冷や汗ものでした。と言う事でその頃からしっかりと感染症対策を行う様になりました。

今改めてインターネット情報を見て驚いた事があります。それは、2020年5月に第1波、9月に第2波、2021年1月に第3波、5月に第4波、9月に第5波が来ているのですが、その波の大きさは大きくなっていて第1波の波は波と言うには小さいものだったのですが、マスコミはガンガン報道して不安を募らせていったように思います。その為なのか「コロナ対策の意識が若干薄れているように思うのは私だけでしょうか。と言うのは第3波、第4波のピークの数字と昨日の『8480人』は同じくらいなんです。『重症化しない』等と言う報道を信じて良いのかどうか悩ましい限りです。私なりの思いを書いたわけですが、私自身の話しとしてはコロナ感染症対策をしっかりとしているお陰なのか、毎朝30分(約2キロ、3500歩)お経を唱えながらウォーキングマシンに乗って歩いているからかは定かではありませんがリピーターの皆さん、よく風邪をひいて肺炎になって入院していたのに、風もひかないで頑張れています。この調子でいつまで頑張れるかはわかりませんが「若いもんにはまだまだ負けん」との心意気でいきますのでこれからも変わらぬご支援、咤激励をよろしくお願いいたします。

 

急激に増えたオミクロン株の影響

令和4年1月8日

コロナ感染症が落ち着きはじめた矢先に『オミクロン株』なるものが突然に出現して最近は倍々でその数を増やしている。「重症化はしないようだ。」とは言え油断は出来ない。このような急展開によって全国老人福祉施設協議会全国研修大会鹿児島大会は『無観客』で実施されるとの連絡が大会県からきたのが昨日で、私は副会長としてどの様な対応をしたら良いのかと悩んでいて、平石会長に連絡すると「自己責任での判断をして欲しい」との事だったので、私以外の副会長にラインや携帯で連絡を仕合ました。

結論としては、「一生懸命に企画して準備をして下さった鹿児島県の役員に敬意を表して鹿児島まで行くことにしました。もちろん無防備に鹿児島県まで行くのではなくてコロナの予防接種は2回しているし、風邪症状もないけれどもPCR検査をして『陰性』であるお墨付きを頂き、手洗い、うがい、手指消毒をしっかりとしてマスクは二重にして出掛けたい。飛行機は色々な乗り換えがあるので、リスクヘッジの観点から新幹線で鹿児島中央まで行くことにし、新大阪駅から鹿児島中央駅まで直通で行ける『さくら』に乗って行くことがベストだと考えました。PCR検査は昨日の内に新生病院に連絡をして、本日9時に予約の手配が出来たので朝8時20分に家を出て対応をしました。ただし、検査は鼻の中に綿棒を入れる形でしたのでなかなか大変でしたが検査を済ませて、結果はファックスで送信していただく事をお願いしてきました。

9時30分に終了して急ぎ施設に戻りました。と言うのは10時にお客様がみえる事になっていたからです。私が施設に着くと既にお客様は見えていたので急ぎ会議室に行き、お客様と親しくお話をさせて頂きました。

14時からは現在休職中の職員との話し合いがあるので顧問をして頂いている社労士の先生の同席をお願いしておいたところ13時過ぎには施設に来ていただいたので、会議室で事前の打ち合わせをして14時からは休職中の職員を交えて話し合いを行いました。出来るだけ職員の立場に立っての結論を出し、話し合いを終えました。

 その後は清掃業者との打ち合わせも終えて1日がバタバタで終了して、今は家に帰ってコラムを打っているのですが、連休明けの(とは言え、私は元気に仕事をしているのですが)11日に滋賀県老人福祉施設協議会の総会に平石会長と共に草津へ行く予定だったのですが、オミクロンの影響で行く事が叶わなくてここでも『予定は未定であり決定ではない』が起きました。すると、不安が頭に過りました。「今朝ほどして頂いたPCR検査が陽性だったら鹿児島県に行くどころの状況ではないな」と。こんな事が起きないで無事に鹿児島県に行き、元気に帰ってこれる事をリピーターの皆さんも祈っていて下さい。

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雪の融けかた

令和4年1月7日

いつものように4時50分のアラームで行動を開始。パジャマの上にガウンを羽織り汗をかいた時の着替えを用意して2階の廊下の窓越しに外の雪の状態を見て色んな事を理解しました。先ずは昨日雪をどけた裏口への通りは綺麗に無くなっていたので先ずは「よし、よ~し」で北側の窓から旧中仙道の状態を確認すると車庫側の南側は殆んど雪が無い状態なのに家の北側は殆んど解けたようには思えない状態でした。その状態から私なりに考えたのは

①踏み固めて雪が退けてなく、北側に当たる条件下ではなかなか雪は融けない。(太陽の暖かさは偉大だと言う事)

②今須の雪は雪をなぶれば融けるのは早い。

③私が若い頃坂内中学(揖斐高原スキー場がある所)に赴任していた時に「雪は退けるならしっかり退けろ。そうでないと雪は春まで融けないよ。」と教えて頂きました。

④つまり『②」と『③』では雪質が違うと言う事です。そう言えば坂内に赴任していて、一晩でメッチャ降って玄関を開けようとしたけど雪が玄関の戸よりも高く積もったので玄関が開かずに2階の屋根から脱出した事を思い出しました。

書き出しはふっと思った雑感を500文字も書いてしまいましたが本日は全国老人福祉施設協議会の各委員会の来年度の予算査定の会議が10時から16時30分まであり、私は副会長として、全部の委員会の説明を聞かなければいけないので大変ですが頑張ります。(ここまでは、お風呂に入ってから朝食になるまでに書きました。)本日は10時から16時30分まで途中で昼食休憩も含めて4回の休憩はあったまののリモート会議が実施され全国老人福祉施設協議会の各委員会の予算査定のプレゼンが行われ、それが終了後に関ヶ原駅に行ってチケットの払い戻しをしてから伸び盛りの職員をもっともっとキャリアアップするために会食をしたのですが私は三千盛を熱燗で8合も飲んでしまい、本日のコラムは待って頂いた割りには大したこと無いことをリピーターの皆さんにお詫びしと今日はクリアと言う事ど許して下さい。明日は名誉挽回しますので。

何の脈絡もなく同級生の事を思い出しています

令和4年1月6日

その同級生は同じ地区で(近所と言う事です。)同級生の数が少ない(34名)所なので保育園から中学を卒業するまで組み替えが無いので、同じクラスで尚且つ高校も同じだったので随分と長いつきあいでした。と言うよりその同級生は文字通り『ガキ大将』であり、『いたずら』をするのも得意でガタイはさほど大きくなかったのですが高校時代は相撲部で3年間を過ごし足腰が強靭だったからだと思うのですが、結構大会などでは活躍していたと記憶してます。そんな彼が意外にも早くに亡くなってしまい、私は非常に世話になったので名古屋で葬儀があったのですが参列させて頂いたのを思い出しました。

何故、脈絡もなく頭に浮かんだかと言えば、今朝も4時50分のアラームで行動を開始したのですが、いつもだとウォーキングマシンに乗りながらお経を30分あげるのですが、本日は裏玄関への道を雪融けすることにしたのです。小さい頃心身ともに軟弱だった私は色んな事を彼が肩代わりしてくれたなと思ったからです。そしてまた、ガキ大将だった彼は私に対してはいたずら等はしないでカバーをしてくれたな。と言う事は彼は「強きを挫き、弱きを助ける」そんな人間だったと作業をしながら考えていました。早くに亡くなったし彼には『半沢直樹』の大和田常務風に言うならば「施されたら施し返す。恩返しです。」は出来なかったな。でも地元で施設をさせて頂いているので、彼のお姉さんと叔母さんのお世話はさせて頂いたな。と言う事は回り回って恩返しが出来たのか。等と考えながら作業をしていました。

でもそんな事を考える余裕は作業が軌道に乗ってからの話です。と言うのは作業を開始した時間は午前5時。つまり、めっちゃ気温が低い時間だったのです。軒下の雪山はカチカチに凍っていて、アルミのスコップでは全くもって途方にくれてしまいました。小さい頃の私であればその段階でギブアップをしてしまい、母秋江が登場して「とうちゃんに任せて良いよ」との助け船が入るのでしょうが、今は当然ながら父も母もいないので「や~めた」と言う事になるかと言えばそうならないのが今の私なのであります。(「えへ~~~ん」)アルミのスコップでは太刀打ち出来ないのであれば鉄のスコップでしかも先が尖がったのならば硬い塊も砕けるに違いないと考えて、車庫の中にあったのを持ち出してきました。そうするとうまい具合に氷の塊は割る事が出来、当然の事ながら表面はあんなに硬かったのに中は比較的硬くないので頑張って除雪する事が出来ました。そうしてつくづく思いました。小さい頃にこんな風に作業が出来たら母秋江さんにめっちゃ褒められたのに。そして思いました。「褒められたい時には親はいず。」今は誉められたくて頑張っているのではなくて、やらなければ家が大変になるから。でも、いつまで頑張れるのかと心配をしている自分もいるのです。リピーターの皆さん、こんな他愛もないことを考えている私ですがこれからも宜しくお願い致します。

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本日は7時15分からの行動開始です

2022.1.5

昨日、当法人顧問の坂口さんとの打ち合わせの中で岐阜県庁にご挨拶に行くとの打ち合わせが出来、色んな課を回る為には遅くても9時にはスタートしないといけない。と言う事で8時を過ぎると大垣を越えて瑞穂市内に入ると交通渋滞が激しくてノロノロ運転になりなかなか進まない体験を何度もして焦った事が有るので通常は1時間10分もみておけば大丈夫なのですが、7時15分に家を出る予定を立てたので、本日のウォーキングは無しにしたのですが(お経は当然唱えます)4時50分のアラームは鳴りましたので目を覚まして「ウォーキングはしない」と決めたので布団の中でモサモサしているのも勿体ないので今は(午前5時30分)布団の中でコラムを打っているのです。先へ先へとやっていくのは素晴らしい事だと自画自賛であります。本日は11時から全国老人福祉施設協議会がリモートで『養護・軽費の給与について』の会議があり13時からは岐阜県労働雇用課が障害雇用で当法人が知事表彰を頂いた取材に岐阜新聞の方とおみえになるので色んな事を語りたいと今からワクワクしてます。後のコラムは実際のところを書きたいので本日の全ての日程を終えてから書きます。

《突然ですが昨日のコラムでとんでもない間違いを見つけましたので『訂正をさせて頂き深くお詫び致します。訂正をすべきは佐和山トンネルの所で『明智光秀』と記述しましたが『石田三成』の間違いでした。私は教員免許で『社会科中学1級』と『社会科高校2級』を持っていて、こんなミスをするとはボーンヘッドとしか言いようがありません。》『予定は未定で決定ではない』がまたまた起きました。と言うのは予定通り7時15分に家を出たのですが大垣を越えてもスイスイと走れて8時20分には県庁の駐車場に車を停める事が出来て県庁での挨拶回りを8時40分から出来て尚且つ、高齢福祉課に最初に行ったら、次長さんが偶然にもおみえになったので高齢福祉課でご挨拶が出来たので予定以上に早く色々な課に行くことが出来て、岐阜県社協常務さんと局長さんへの挨拶も済ませて11時からのリモート会議に余裕で帰る事が出来ました。

13時からの岐阜新聞の取材は担当課の方も来ていただき、職員雇用に対して日頃から考えて実践している事を熱く語る事が出来ました。私自身語りながら私が実践していることに対する揺るぎない考え方であることを改めて認識しました。雇用についてはこれからもますます厳しい状況になるとは思いますが『選ばれる法人になるためにはこれからも努力をしなければと思った次第です。リピーターの皆さん。本日は全く違う対応を3つに渡ってしましたが、それなりに出来たと自負していますが、明日は1日中リモートの会議がありますがそれはそれで頑張りますので宜しくお願い致します。

多賀大社へ行って来ました

令和3年1月4日

例年だと元旦もしくは2日には多賀大社に行き本殿でご祈祷をして頂くのが年中行事のようになっていたのですが、昨年はコロナ感染症対策として自粛をしたので2年ぶりの多賀大社参拝及びご祈祷に行きました。大抵のところが本日から仕事始になるので、参拝客も少なくなっているだろうとの思い早い時間にやるべき事を済ませて11時30分に多賀大社に向けて出掛けました。順調に車を進めれたのですが明智光秀で有名な佐和山トンネルに入る手前から渋滞に引っ掛かりそれでもそれなりに走れたのですが多賀大社の手前の信号のところからはなかなか動かないのです。

その理由は例年なら多くの空き地が臨時駐車場になるのですが年末からの雪がしっかりあって、臨時駐車場が殆んどない状態で駐車場待ちのような状態で車が動かない事が分かりました。多賀大社の交差点を左折した所で臨時駐車場の係りの方が何人か立ってみえたので少し大着なやり方でしたが車を止めて「空いてないか」と聞くと「今1台出ますので待って貰えますか」と言われたので1台が出るのを待って多賀大社に一番近い所に止める事が出来ました。車を降りて参道を歩いて行くと結構な参拝客が出ていました。目指すは祈祷受け付けで手続きをして、祈祷待ち合い所に行くといつもとは違い、それほどの数ではなかったので『密』にはならないなと思いながら待っていると10人程の名前が呼ばれて巫さんの案内で本殿に行きました。

2年ぶりのご祈祷に一杯願いを込めて神主の詔を聞いて榊をお供えをさせて頂きました。ご祈祷が終りお供えを頂き、甘酒を頂くと体の芯まで温まりました。熊手を二つ購入して、再び参道に出て多賀大社のお土産と言えば『糸切り餅』と言う事で購入して、ついでにベビーカステラを千円分買いました。店のお兄さんが袋に入れているときに私は少し柄悪く「雨の中をわざわざベビーカステラを買いに来たんだから思いっきりおまけしてね」等と冗談を言ったりしました。(余分に入れて頂いたかは定かでありませんが、何と無く多く入れて貰ったような気がしてます。)車に戻り、ご祈祷中に全国老人福祉施設協議会の会長から電話とメールを頂いていたので車に戻ってから電話を入れました。

その内容は今月11日に会長が滋賀県に来られるので滋賀県の役員さんが懇親会まで設定して頂いているがオミクロンが流行りだしているので懇親会をお断りをして泊まる事なく帰る事にしたいとの事だったので、そこまで考えられているのであれば米原駅まで迎えに行き、終了後も米原までお送りしますとのお約束をしました。リピーターの皆さん。臨機応変な対応こそ大切だと考えている私なのです。そんな積み重ねが今の私を作っていったんだとも思っています。明日も9時前には岐阜県庁に行き年始のご挨拶をしてきます。今年の本格稼働が始まりましたので今年も全力で頑張っていきますのでリピーターの皆さん改めて宜しくお願い致します。

何もしないと言う事は何も出来ないと言う事

昨日色々とお世話になった従兄弟が急逝したとの連絡を頂いたのですがコロナ対策で本当の身内だけで葬儀を執行したいとの喪主である長男さんの意向で葬儀への参列が出来ないとの事だったのですが「色んな時にお世話になった方なのでお顔だけでも見て手を合わせたい。」と思い、葬儀は11時30分からと聞いていたので9時に行くのであれば『密にならない』と考えて一緒に行く約束をしていた姉を迎えに行き、先ずはご自宅へ行くと葬儀を執行するお寺に安置されていると言うので、お寺に行くと本堂に安置されていて、誰も見えなかったのでゆっくりとお顔を見てお礼の意味で語りました。

しばらくするとご住職様が本堂にみえたので少しお話をさせていただきました。(ご住職様は元々学校の先生をしてみえた時にお世話になった方なのでお話が出来ました。)

姉を送り、そのまま施設に行き、地元4地区の区長さんにお酒2升を持って年始のご挨拶に行きました。区長さんはそれぞれに家におみえになったので、それぞれにご挨拶が出来ました。

再び施設に戻ったのですが朝から体が重くて体の節々が痛かったので午前中で帰らせて頂きゆっくりとさせて頂く事にしました。年中仕事しかない私ですし体がスッキリしないので、昼食を頂く以外は横になっていました。テレビを点けると第98回箱根駅伝をやっていたので見るとはなしにうつらうつらしながら見ていました。結果は青山学院大学の記録的な圧勝だったのですが、その時感じたのはプレッシャーがない状態で駆け引きもなく走れた事により素晴らしい記録が出たのだと私は思いました。もちろんプレッシャーがあった方が実力以上のものを出す方もいるのでしょうが殆んどの方はプレッシャーがない方がのびのびと走れるのではないか。その結果の勝利のような気がします。

ところで私は18時になるまでテレビを見たり眠くなって寝たりを繰り返していて、ふっと「コラムを全く書いていない。」と気が付いたのです。そして、改めて思ったのは『何もしないと言う事は何も出来ない』と言う事だと。『日々与えられた仕事』『やるべき事』があるから元気に飛び回れるのだと18時に気が付いて今(午後6時57分)頑張ってコラムを書いている次第です。

本日は中身がないコラムになってしまいましたが、明日は毎年参賀をしてご祈祷を奥拝殿でしていただいていたのが、昨年はコロナへの配慮で出来なかったのですが2年振りに行ってきて色んな事をお願いして来ようと考えています。そして、明後日の5日には園田しゅうこう参議院議員の後援会代表者会議があり、6日には全国老人福祉施設協議会の常任理事会、7日には全国老人福祉施設協議会正副会長委員長会議がありますのでそろそろギアを上げて行きたいと考えていますのでリピーターの皆さん、本格稼働していく私の生きざま(そんな大袈裟なものではありませんが、大袈裟に言うのが私の真骨頂なのでお許し下さい。)を今年も見てやって下さい。

本日は午後からカラオケを披露します

令和4年1月2日

地元藤下(とうげと読みます)でカラオケ自慢の高木さんの協力を得て『演歌で え え ん か』と銘打ってカラオケのジョイントを実施します。この企画は『コロナ感染症対策』の一貫としてデイサービス、本館1階、本館2階、新館1階、新館2階の5会場に分けてそれぞれ移動も含めて30分ずつのステージを行う予定です。13時30分から始めても終了は早くて16時ですのでかなりハードな企画ですが、利用者さん入居者さんが喜んで頂けるなら「お正月だし何でもやります。」の気持ちで頑張ります。午前中に曲目を決めておいた方がベストだと考えてカラオケのデンモクを借りて来て選曲をする事にしました。デンモクは選曲をするのに便利に出来ている事が分かりました。と言うのは『昭和歌謡20年代、30年代、40年代、50年代、60年代』で選べる事が出来る所があって私は20年代から順にみていく事にしたのですが流石に20年代は「聞いた事はあるけれども自信がないな」と言うものばかりで、30年代になるとぼちぼちで、40年代は「結構知っているし何とか歌えるかな」50年代も「かなり自信を持って歌えるかな」60年代は「少しは歌えるか」と結局85曲を選びました。「プロの歌手の山崎ていじには足の長さでは全く勝てないけど歌では勝っている。」と言っている手前頑張らなければと考えています。藤下の高木さんも負けず嫌いな方だからここは気合を入れなければと考えています。本番を前にして「いつもいつも、『北の漁場』『まつり』『兄弟船』『お前しか愛せない』を繰り返していたので今は本番を前にして「あの曲も歌っておけば良かった」と小さい頃の『おどおどしている』自分が頭をもたげています。しかしながら今の私は『いざのなったら居直ってでも、やりきるふてぶてしさは持ち備えているので、かなり違っているなと自分でも思っています。5会場の準備が円滑にいく為に私と福施設長の曲目と番号を記入して高木さんの曲目を入れれば良い資料をパソコンで打ち込み高木さんがおみえになったら高木さんに選曲したのを書いていただき印刷した後に各フロアに事前に情報を提供して円滑に進行出来るようにしました。高木さんがおみえになり早速記入して頂いたのですが高木さんの分は各フロアに4曲ずつなので、完成したのが13時30分で最初の会場であるデイサービスの会場に行った時には既に13時40分でしかも、1会場で8曲をエントリーしたので、会場に行く度に少しずつ遅れる事が分かったので、デュエット曲を抜いて行う事にしても、最後の会場である新館2階に行った時には終了予定の16時前になっていたのですが、新館の西川課長が「夕食までなら大丈夫ですよ」と言われたので、デュエットも復活させて、予定の曲を歌った後、「アンコール」の嵐でアンコールは私からさせてもらい、おおとりは高木さんにして貰い5会場共に終了して会議室に戻り道 月1はこの企画をする話になりました。リピーターの皆さん、コロナ禍であっても頑張った企画をしていきますのでこれからも応援宜しくお願い致します。

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