2021年12月の記事一覧

不思議なネコ、その名は『リット』

令和3年12月21日

ネコの大好物と言えば大抵は鰹節とさんまやメザシと昔から決まっていると思うのですが、我が家の老猫『リット』は鰹節には目もくれません。主食は高齢『猫』用のキャットフードなのですが、魚にも肉にも全く興味を示しません。何度もこのコラムで書いているようにキャットフード以外で食べるのはメロンの汁のみなのであります。20歳の誕生日を先月の23日に迎えて人間の歳にすると90歳を越しているので、時には口の中が痛くて食べれなくなる事があるのですが、食べれない時でも、メロンの汁は飲めるのです。その気持ちは私もよく理解できます。

と言うのは私も口の中に口内炎が出来て、食欲がない時でも、日本酒の熱燗を飲んで気分が良くなった時に、お刺身なら食べれるんです。つまり、体調が悪いときでも、好きなものは食べれると言う事です。私は小さい頃に高熱を出して、全く食欲がない時でもお刺身とうどんなら食べれたのです。もしも、この世の中に私の大好物のお刺身とうどんが無かったら、食欲が無いままに生きていられなかったかも知れません・・・。そう言えば、大人になった今でも、度々熱を出すのですが(コロナが流行ってからは、手洗い・うがい・消毒・マスクをしっかりとしている為か風邪もひきません。)食欲は落ちないのは、小さい頃からの習慣なのでしょうか。

話をリットに戻します。本日、私は朝食の後に頂き物のメロンを食べようとすると朝、私がウォーキングマシンに乗る前にキャットフードを2度あげたのに、私がメロンを食べ出すと私にすり寄ってきて、「早くよこせ」とばかりの仕草をするのです。私も自分でも可笑しいくらいにメロンの身を食べ終わってからリットの為にメロンの汁を一生懸命にスプーンで貯めてテーブルの上に置くと、リピーターの皆さんも写真でご理解できると思いますが一生懸命に口を動かしているのです。リットの姿を見ながら食が細くなった入居者さんが、大垣の老舗寿司店『寿司吉』(すしよし)の板前さんが目の前で握ってくれたお寿司をパクパクっと食べられるのを見て、食の大切さを理解した事がありました。

しかしながら、今はコロナ禍で板前さんに来て頂いてのパフォーマンスもマグロの解体ショーのパフォーマンスも出来なくて残念でたまりません。外部の方を及びしても企画が出来ない分、本日から各フロアでクリスマス会のイベントがあります。残念ながら本日の本館1階のイベントには午前は全国老人福祉施設協議会主催の東京都の役員さんとの懇談会があり、午後は岐阜県老人福祉施設協議会正副会長委員長会議とカントリーミーティングの実行委員会があり、参加出来なかったのですが、明日からの3日間は私も都合が会う限り参加して入居者さんのストレス発散におバカをして寄与したいと考えています。リピーターの皆さん。このコロナ禍でも、頑張っている事に拍手をお送り下さい。

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『覚悟のない道は行き止まる』

令和3年12月20日

この言葉は昨日の奈良薬師寺の執事長である大谷徹奘師の日めくりカレンダーのお言葉です。この言葉を昨日事務所で目にした時に私自身『はっ』となりました。と言うのは正直、今回の盲養護老人ホームの計画は杉和会の理事長としての経営判断は正しかったのか間違いではなかったのかと・・・。自分が岐阜県老人福祉施設協議会の会長で私の使命だとの男気の思いの中で事業を展開する事にしたものの事業を開始して7が月が経過して80人定員なのに16人しか入居者さんがいない現実に時には不安が襲い後悔の念を抱く事も正直ありました。しかしながら、大谷徹奘師の言葉に接して私自身「今更何を弱気になっているんだ、誠意を持って前進あるのみ。それが、岐阜県内の視覚障害者の方及びその家族の安心につながるんだ。」と戒めて頂くと共に勇気つけられるお言葉でした。人として心揺らぐ事もありますが、これからも自分を信じて、周りの人達のご理解を頂きながらこれからも頑張っていきたいと考えていますので、改めてリピーターの皆さんの励ましとご理解を宜しくお願い致します。そんな事を考えている時に、またまた本日の大谷徹奘師の日めくりカレンダーを見ると『成功のカギは「予」がつく言葉、予習・予測・予想・予備・予定』確かに杉和会の理事長として、いわゆる『戦略』を持って経営のトップとしてはどれも大切な事であると思います。トップの人間がしなければいけない事は『先を見る力』。その為には、将来を見抜ける事が大切な事。そしてその為には色々な情報を入れていく事が大切な事。本日は17時15分から本部施設の幹部会があり、しっかり『予習』をしてきた職員がしっかりとした発言出来ると言う事が理解できたように思いました。しっかりとした発言が出来る事に喜びを持てる集団に育て上げていきたいと考えています。リピーターの皆さん。本日は大谷徹奘師の言葉を借りて話をしましたが、これからは、自分なりの表現が出来たらと考えていますので、これからも宜しくお願い致します。

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雪の話をします

令和3年12月19日

昨日は関ヶ原で今年初めての積雪で、施設内を3台の除雪車で除雪をして頂いたので、本日は雪にまつわるお話しをします。先ずは伊吹山が積雪世界記録を持っている話です。世界一とは知ってはいたのですが正確な事は分かっていなかったので、スマホのグーグル情報を検索したのです。(その程度は私でも出来ますよ。)そこに掲載されていたのは『公的な観測地点で、最も深く雪が積もった世界記録をご存知だろうか。1927年2月14日、米原市の伊吹山(標高1377メートル)側候所で観測した11メートル82センチが世界1位で、京都の「清水の舞台」の高さに匹敵する。気象庁の観測記録の国内2位は、青森県酸ケ湯の5メートル66センチなので、すさまじい記録だ。』との事で、改めて伊吹山は凄い山なんだと思いました。この話しは大正時代の話だとは言え、ほんの100年前の事ですから。私が住んでいる今須から車で30分も走ると伊吹山の梺まで行ける所に住んでいる訳ですから「関ヶ原は雪がよく降る」と言われても納得しなければいけないのです。私が中学生の頃に父進さんと一緒に我が家の大屋根に上って雪降ろしをした時に、父進さんから雪降ろしをするときはめったやたら雪を降ろせば良いのではない。自分が屋根から下りれる為の雪の確保が大事だぞと教えて貰いました。ただし、その年の大雪で檀家寺の屋根に上って雪降ろしをした時は、お寺の屋根はかなり独特なので、あまり活躍出来ずにいたのを覚えています。

 

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私にとって雪にまつわる出来事の中で一番は何と言っても平成9年12月1日の雪です。その年は本部本館施設の建設を行った年で、初雪である雪が12月1日にいきなり40センチ程どんと降ったのです。本館のゼネコンは大日本土木さんだったのですが、流石に岐阜県が誇るゼネコンの監督さんの手配は素晴らしかったです。ハード面では、大型の温風ヒーターをたくさんリースして、ガンガンに稼働させ6時間しか燃料が持たないのでフル稼働させる為に下請け業者の責任者の方に24時間体制で給油をして貰い、その当時40代前半の助監督は出来る限り除雪の機械を操って見えました。雪が落ち着いてからは、工期が遅れてはいけないとの配慮から4分割に下請け業者に分けて仕事が出来る体制を取られて職人さんの数もどんと増えました。12月1日にあれ程に降ったのにその後は大して降らなかったので、翌年の5月15日に竣工式を迎える事が出来ました。そして、いよいよ平成10年5月18日から事業開始した年の冬も雪は降りました。しかし、その頃の職員は与えられた仕事以外は関係無いとの発想しかなくて、急遽地元の業者から除雪機を購入して、その操作は私が作業するのが当たり前で、どけてもどけても降る方が勝ってしまうような状況に正直泣きたい気持ちで作業をしていたのを覚えています。今はそのような状況にないことに安堵してます。リピーターの皆さん。『雪』を題材にするだけでも、このように記憶が甦ってくる私の生き方は何と幸せかとしみじみ感じてます。ただし。しっかりと私のコラムを読んで頂いている方の中には「以前にも同じようなのがあったな」と感じられた方もあるかと思いますが、そこはそれで、「大切な事なんだと」理解して頂ければ幸いです。

 

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早朝4時16分にメールが来ました

メールは宿直者の五次部長からで雪の報告で、玄関前の駐車場で10センチ程度あり、今後の事を考えると除雪をお願いした方が良いのではないかとのものでした。この報告を見た時に、私の方から除雪の契約をしている地元の材木屋さんに連絡しなければいけないと思うと共に、単なる報告だけでは無くて状況に応じた提案が出来た事に満足しました。直ぐに起きて行動開始です。

先ずは2階の窓から道路の状況を見ると町道である旧中仙道の道路は既に道路の除雪がしてある事を確認した後、除雪していただく方に電話をさせて貰うと直ぐに電話に出ていただき「支度をしてます。」との事に感謝です。除雪の連絡がついたとの連絡を五次部長にすると共に温かい飲み物をお渡しすることも依頼しました。

そうこうしていると、4時50分のアラームがなったのでベット上でのいつもの手足の運動に肩も動かしてから、本日はウォーキングマシンに乗るのでは無くて、仏壇に手を合わせてから暖かい上着を着て、外に出て玄関前の雪解けをしました。既に道路の除雪がしてあり、大きな雪の塊は重かったのですが頑張りました。雪が時より強く降ったりしましたが、取り敢えず家の前は綺麗になりました。ガラケーの携帯で歩数の確認をしたところいつもの30分の歩きの時のように3500歩には遠く及ばない1000歩そこそこでしたが、家に入りお風呂の脱衣場で服を脱ぐと背中にはびっしょりと汗をかいていました。運動は単に歩けば良いと言うものではなくて活動の中身こそ大切だと言う事を改めて理解した思いです。

本日、NHK名古屋支局の方が私との意見交流の為に来て頂く予定でしたが、大阪市での雑居ビルでの火事の応援取材に急遽行かれる事になり昨夜の内にキャンセルの為のメールを頂いていたのですが、改めて確認の電話を頂いました。コロナ禍における施設での面会の体制に対するアンケート集計をメールで送る約束をして、私のパソコンに空メールを送って貰うように話をしておいたところ、私が施設に着く前に送信されていました。岐阜県老人福祉協議会制度政策委員長が集計して貰った物を送信すると、間髪入れずにお礼のメールが返って来ました。

私はつくづく思うのですが、情報を得るためにはこのようにフットワークよく活動することが大切なんだと舌を巻く思いです。とは言え私も自分自身ご縁を頂くチャンスを見逃さずに活動してきたからこそ、今のようなネットワークを構築出来ているのだと。ここは自画自賛です。

リピーターの皆さん、今回のコラムは少し調子に乗り過ぎですかね。

昨夜は強か飲みました

令和3年12月17日

飲み会は早くに始めて早くに解散する予定で座長のお店である『くんくん』に17時30分に行くと既にボランティア集団『てるてる座』のメンバーの4人は来られていて、施設側は一人が来れなくなったので6人のメンバーが揃ったので先ずはビールで乾杯。夕食は『くんくん』の隣にある寿司飛脚のお寿司を準備してあり、私の大好物の漬物と豆腐がそれぞれに準備されており、私が差し入れで持参した『明方ハム』』(岐阜県が誇るメッチャ美味しいハムなのであります。)と唐揚げ等をつまみにしながら飲みました。ただし私はいつまでもビールではダメなので、これまた私が持参した石川県が誇る『菊姫』(頂き物です。)の一升瓶を開けて、お酒が大好きな方が隣の席に座られていたので二人でハイピッチで飲みました。

お酒も一段落した段階でカラオケタイムになり私がトップバッターで、一曲目は地元の演歌歌手の砂田おさむさんの持ち歌である『織田信長』を歌いました。大体一曲目の善し悪しでその日ののり具合は判るのですが、入居者さんや利用者さんの前以外では1年9ヶ月ぶりのカラオケですが、『くんくん』の音響が素晴らしい事もあり、これが自分でも聞き惚れる位に上手く歌えたのでその後も一杯いっぱい歌い、尚且つ飲みました。そして改めて思ったのは『予定は未定であり決定ではない』と言う事です。と言うのは書き出しの所で書いたのですが、昨夜の予定は「早くに始めて早くに終わる予定」でいたにも関わらず五時間近くもくんくんにいたので『早くに帰る』と言う予定は見事に裏切られてしまいました。

予定通りに出来たのは午前の和(なごみ)のお参りと全体会と、和合での幹部会とお参りでした。ただし。和合での会議は予定の時間よりかなり延びてしまい、幹部会の後に予定していたお参りはかなり急いだお経になってしまいました。そしてもう1つ、予定通りには出来なくなった事があります。それは明日、NHK名古屋支局の記者の方が施設にきて下さっての取材があるようになっていたのですが、昼のニュースからばんばん報道されている大阪市北新地での雑居ビルでの取材に急遽駆り出されて、明日の取材はキャンセルになったと言う事です。

只今午後927分で外はしんしんと雪が降っています。明日の朝までに雪が積もったらまたまた、予定は変わってきますので、早くに寝て、雪への備えの為に寝る事にします。リピーターの皆さん。何事にも予定は未定で決定にはありませんので臨機応変に対処出来るように頑張りますのご理解下さい。

 

朝きっちり5時30分から行動開始です

令和3年12月16日

昨夜は東京での泊まりだったので、我が家での日課であるウォーキングマシンに乗っての歩きは出来ませんでしたが、それこそ38歳でのフリーでの生活をしていた時からの私の師匠だった吉田宏岳先生(その当時は日本福祉大学中央福祉専門学校校長であり、豊山派医王寺住職)の教えであった『朝のお勤めは布団の中でも良い』との教え通りにホテルのベットの上で唱えました。

その後お風呂にゆっくりと浸かり体を癒し少し汗が収まるのを待って荷物の片付けながら、スマホで岐阜羽島への帰りの列車を検索すると7時33分の『ひかり』があり、「これに乗れば10時前から施設で仕事が出来る」と考えて片付けのピッチを上げて、チェックアウトをしてホテルから本道りまで出てタクシーを拾おうとすると、運よくタクシーが停まってくれたので乗ろうとすると、そのタクシーの運転手がおもむろに降りてきてゴルフバックを降ろしてはる。「おいおい、そんな事なら空車が1台通って行ったのに」と思いつつ、うやうやしくゴルフバックを降ろされていると、中から出てきたのは40台位の女性で停まったタクシーの前に停まっていた車の方とハイタッチなどをされている。「何なんだ、この展開は」タクシーから悠々と降りてきた方が何者かは知りませんが「私の前を素通りするか・・・」とにかく、そのタクシーに乗り込み東京駅丸ノ内南口でタクシーを降りて、みどりの窓口に行くとお客様は一人のみ。

その段階で7時15分で、前のお客様はカード決済をされようとされているのですが、駅係員の方が「このカードは使えないようです。」と言われても何だかんだ言われていて、私は「早くしてくれ」との思いでいましたがようやく前のお客様の対応が終り、私が「7時33分は無理ですかね」と言うと係員の方が「大丈夫です。間に合います。」と言われても「あまり、東京駅が不案内だけれども間に合うかな」と一瞬不安になりましたが14番線と一番手前のホームだった事もあり、余裕で間に合い今は新幹線の中です。

昨日は総会が終了後に帰れなくはなかったのですが、役員同士の情報交換もあり泊まらせて頂いたわけですが、ホテルでのんびりするような人間では無いので今は(午前818)・・・と何気無く窓ガラスから外を見ると富士山が顔を出しました。天気が良い時の富士山は最高です。朝早くに行動開始をしたご褒美だと思っています。

さてさて、本日は大垣市役所へ陳情に行くのですが、こんだけ頑張っているので、成果が出ると思っています。それに17時30分にてるてる座の座長のお店でてるてるの四人と施設から三人での交流会もあります。その事は明日書く事にして。とにかく、コラム継続の為に東京からの帰りの新幹線の中で頑張りました。リピーターの皆さん。この頑張りに大きな拍手を・・・。

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本日は仏壇でのお経は無しでした

令和3年12月15日

一人がてんのタイトルに私自身「ええ加減にしとけよ」とも思うのですが、このコラムを継続するには、『ありの・・・ままに・・』でないと続きませんので、リピーターの皆さんお許しください。そして、ご理解下さい。(いつもの事ながら前段が長いと自分でも思います。)本題に入ります。

蝋燭の話しは昨日に続いてなのですが、実は昨日は『白い蝋燭でいつものようにウォーキングマシンで30分歩いても白い蝋燭がまだまだ火が点いていたので、お経を2巻唱えた』と書いたのですが、本日は30分を歩き終えたタイミングで蝋燭が消えたのです。だから、仏壇でのお経は無しになったと言う単にこれだけの事で約300文字を費やす私は一体何なのでしょうか。ただし、この現象には深~~い、ふか~い意味が隠されているのです。(そんなに大袈裟に言う事ではないのかも知れませんが)

歩き終えて仏壇の前の椅子に腰かけて手を合わせて蝋燭がどのようになったのかを確認すると、昨日とは違い全部が燃えたのではなくて、まだ残った状態で消えていたのです。これは正に昨日コラムで書いた『リスクマネージメント』につながる話だと思った次第です。つまり、いつもいつも、完全に燃えるとは限らないので「商品に偽り無し」と言う形にするには、『30分』と明記するのであれば、せめて『35分』はあるのがベストだと思うわけです。私は今、こんな事にこだわる私に驚いているのです。と言うのは「こんなに1つの事にこだわる人間だったかと言う事です。聖徳太子は10人の方の訴えを同時に聞いて一人づつの訴えに答えたとの話を聞いた覚えがありますが、私は職員に「1つの現象の中から多くの事を理解して出来る事を実費するように」と話をしている内に私自身もたくさんの気付きが出来るようになったとすると、私自身も色んなアクションを起こしている中から気付きの多い人間になれてきているとすると、健康で走り回れている事に感謝です。

母秋江さんの後ろに隠れるようにしていた小さい頃の私とはえらい違いやと思うと考え深いものがあります。人生に『もしもこうだったら』とか『人生をやり直せるなら』と言う事はかつての映画の『バックツーザフューチャー』のような事が出来ない限りは無理なわけで現実には有り得ないので、自分が出来る事を精一杯やらなければと、改めて思っています。でも、リピーターの皆さん、しつこいようですが、もしも母秋江さんが私が30歳の時まで元気でいたとすると、多分私は母秋江さんの言う事に従うだけの人間になってしまい、母秋江の思いが私の思い的な生き方をしていたように思います。

ここまでコラムを書いていてしっかりと認識したのは私はメッチャマザコンでシスコンになる可能性があったんだと言う事です。そう言う意味では母秋江、姉光子の早くの死は私の生き方を大きく変えたと言う事か。私の生き方は今の生き方しかないのだから、今の立場で精一杯頑張ります。

さて、本日は東京への出張で参議院会館で12時から全国介護福祉政治連盟の代表者会議で15時からは都市センター会館で全国老人福祉施設協議会の代議員総会があります。リピーターの皆さん本日も私の役割をしっかり頑張ってきます。気が付けば富士山が綺麗に新幹線の車窓から見えました。これも、一生懸命に頑張っているご褒美だと思わずガラケーの携帯で撮りました。リピーターの皆さん。上手く撮れているかはわかりませんが『幸せのお裾分け』と思って見て下さると嬉しいです。(本日は東京に着くまでにコラムを書きましたので早くに掲載します。)

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赤の蝋燭が昨日で無くなりました。

令和3年12月14日

赤の和蝋燭の一箱100本入りが昨日で無くなり(と言う事は確実にお参りしている証です。)同じものを手に入れようと考えていたのですが、購入する機会が無くて「短い蝋燭はあるから2本使えば何とかなる」と思いながら、仏壇前に置いてあったものの箱の説明書きを見て「30分用のがあった。」と言うので、本日からこの白い蝋燭を活用する事にしました。私は毎朝この箱があるのは見ていた訳なのに30分用の蝋燭の箱だとの認識も持たずにいたわけです。私は常日頃「単に目に映っているだけで本質まで見ていない事実を理解して欲しい。」と言っていたのに私自身出来ていなくて上っすべりな事をしている。と大いに反省すると共に「多分養母英子さんの葬儀の後に少しだけ使って私自身が忘れていたものだと思うけど、これから毎日大切に使わせて貰います。」と一人で呟きながら火を点けました。

その後いつものようにウォーキングマシンに乗り、いつものように30分歩く間に三回の休憩を取り汗を拭いたり水を飲んだりするのですが、昨日までの赤い蝋燭の時には、30分を歩き終える前に蝋燭の火は燃えきって消えてしまうのですが、しっかり30分歩いた後もまだ、火が点いていたので、改めて仏壇の前で木魚をたたきながらお経を2巻唱えてようやく白い蝋燭の火は終了しました。この時私は思いました。「これぞリスクマネージメントだ。」と。だってリピーターの皆さん、思いませんか。確かに赤の蝋燭はしっかり30分なのだと思います。でもね、蝋燭に火を点けてから少しは時間的余裕がないと、『間違いなく30分』とはいかないと思うのです。時には31分のもあれば29分と言う事もあるでしょうから。この理屈は色々な場面で活用出来ると思います。

例えば『5分前行動』と言うのをよく聞きますが、これは、5分前に行動を起こしていれば余裕のある行動が取れる。と言う事です。本日も名古屋市唯一の盲養護老人ホーム『第二瀬古マザー園』に15時に近藤施設長さんにお会いしに行く事になっていたので、13時30分に吉澤施設長に本部施設に来るように言っておいたところ、13時15分には来てくれたので13時30分を待たずに出掛けたところ、14時20分に着いたので施設近くのコンビニの駐車場でじかんを見計らって14時45分に再び施設に行きました。私はこの待機時間は決して『無駄な時間』ではないと考えています。と言うのは、名古屋市までの道程の中で渋滞をしたら20分や30分は取られてしまうと思うからです。

結果論として本日はコンビニでの待機時間はありましたが「遅れなくて良かった。」と言う事につきます。これぞ正しくリスクマネージメントです。お陰さまで名古屋市の養護老人ホームの状況も理解させて頂いたし、次への足掛かりも教えて頂けたし有意義な時間でした。今は80床に16人の入居者ですが、このような地道な活動が形になると考えています。リピーターの皆さん。このような展開をしていることにご理解、ご支援を宜しくお願い致します。

丸坊主になり今も丸坊主の理由を語ります

施設の事業を開始した44歳の頃の写真を見ても、極端なロン毛ではありませんが七三にビシッとと言うわけではなく比較的髪は長かったのです。では、何故に今は丸坊主なのかと言う話をリピーターの皆さんの中には「早く本題に入れ。いつもの事ながら前置きが長過ぎる。」と思われているかも知れないので、本題に入ります。因果関係をお話するには、どうしても平成18年当時の、全国老人福祉施設協議会の中村会長の話をしなければいけません。私が全国老人福祉施設の役員として始めて東京本部があった当時のTBRビル(日枝神社入口)に行くようになり、中村会長には随分「馬鹿じゃ、あほじゃ、とろくさい」と言われながらも随分可愛がって貰い役員として一年も経たない時に何故か『総括幹事』と言う役職に大抜擢されたのは良いのですが、大きな大会や研修があるときは幹部の末席にいたのですが、忘れもしません神戸市て全国大会があり、中村会長と同じホテルに泊まらせて頂いたのですが、早朝5時に中村会長から電話があり、半分寝ぼけながらも「もちもい若山ですが」と言うと中村会長の声がしたので、私は緊張しながらも「何でこんなに早い時間なんだ。」と思っていると、「今から部屋に来い。」との事で、取り敢えず着替えを済ませて急いで中村会長の部屋まで廊下を走って行きも部屋に入ると中村会長からいきなり「何じゃその乱れた髪は。そんなことでは三流にもなれんぞ。」と言われて、私は内心「寝ていたのを慌てて来たんだから髪が乱れているのは当たり前やろ。」と思ったのですが、黙って立っていたのを覚えています。すると中村会長が「長い髪をしてるから直ぐの対応が出来んのじゃ。」と言われたので、私は出張から帰って直ぐに大学生の時にパーマをかけて下さった我が家の直ぐ近くの床屋に行き、殆んど角刈りに近い状態にして貰い、次に東京出張した時に中村会長の所へ行き、「会長、頑張って髪を切りました。」と言うと中村会長は一言「まだまだやな。」と言われたので、思わず私は絶句。だから、東京出張から帰ってまたまた、床屋に行き「丸坊主にして下さい。」でさっぱりと丸坊主になり、次の東京出張の時に中村会長の所へ行くと流石に「まだまだ」とは言われなかったのですが、一切のコメントは無し。それ以降はずっと丸坊主なのであります。中村会長が亡くなられて随分な年月が経過していて、考え方によっては「中村会長は亡くなったし再び髪を伸ばしても良い。」との考えもあるのでしょうが、私は丸坊主の頭を見る度に中村会長との貴重なやりとりを思い出す事が出来るので今も丸坊主なのであります。そして、もう1つの理由は頭を洗っても簡単に乾くしメッチャ楽なのです。そして、もう1つの理由は丸坊主にしたからか68歳の今も禿げないのではないかとも思っています。リピーターの皆さん。私はこう言う生き方しか出来ない、非常に不器用な人間なのであります。

髪型の変遷によって自分の生き方を考察します

タイトルで言っている程に大袈裟な事では無いのですが、私の生き方を髪型によって振り替えってみたいと思います。

先ずは小学生まではいわゆる『坊っちゃん刈』だったと思います。この髪型は当時の標準的な髪型であり、私の生き方と言うか母秋江の思いがそこにあったのかは13歳で他界した母秋江には聞く術もありませんが、多分『普通の生き方』を望んでいたのだと思います。私も『普通で良い』と考えていた(最も深くは考えていなかったように思いますが。)のだと思います。当時の同級生男子21人の中でいわゆる『今須のお大尽』の中で目立つ存在だった同級生には髪を長くしていたのがいましたが。

そして、中学生になり男子は皆、丸刈りと言うのか丸坊主でした。今から55年も前の話ですから、何の違和感も持たずに『決まり』だからと言う時代だったと思います。

高校生になり『おしゃれ』にも少しだけ興味を持ったのでしょう。前髪をしっかり伸ばして俳優の近藤正臣さんのように頭をふってやや格好をつけていたように思います。あの頃は『リーゼント』と言ってもリピーターの皆さんの中には「何の事」と言われる方もあると思いますが私は髪の毛をベタベタにしてバリバリにドライヤーをかける事をよしとしなかったのか、単に面倒くさかっただけなのかはわかりませんがそのような髪型ではありませんでした。そう言えばその頃の女子生徒は『今日から俺は』と言う番組にでてくるような髪型の子が殆んどで、私の回りにはズルズルのスカートをはいている子が殆んどだったように記憶してます。(周りでは怖がる子達もいましたが、気の良い子ばかりだったです。

そして大学生になり、髪はどんどんと長くして(今から考えると髪を乾かすのも大変だったと思うのですが、その頃は頑張っていたんだと思います。大学2年生になった頃に養母の英子さんが「髪が長いだけだとだらしなく見えるのでパーマをあてて貰ったら良いのに」と言われて、「それも有りかな」と思い、今は廃業されてはいますが、我が家から直ぐの所にある床屋さんに行きパーマをあてて貰うことにしました。その時に今は既に亡くなられたご主人の志朗さんが、「パーマをあてた男の方は今須では最初だの」と言われたものです。その頃は野口五郎さん張りで結構に気に入ってました。ただし、教員採用試験前には流石の私も髪をバッサリ切りいわゆる『七三』にビシッと決めていたように思います。教員生活から脱出して『勘当生活』に入ってから再び髪を長くして児童養護施設の指導員時代の13年間はロン毛で通し、フリーでいた時代も長かったのですが、「何で今は丸坊主なの」と言う話については、語りだすと、なが~~~くなるので、次回にします。

次回の『丸坊主特集』をリピーターの皆さん、乞うご期待ください。

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