2021年07月の記事一覧

不思議です

令和3年7月31日

昨日は午後から岐阜県庁に出向き地域福祉課、選挙管理委員会、健康福祉政策課と県庁内を駆け巡り、それぞれの課で打ち合わせをさせて頂きました。どの課でも丁寧に対応して頂き今後の対応がスムーズに行くような根回しが出来ました。全ての対応が出来た段階で、車のディーラーの支払いが出来ていなかったのでついでに済ませて、優・悠・邑 和(なごみ)の建設準備の書類作成を一手に引き受け、運営上の事務処理も1段落出来た事に対しての慰労の意味で吉田部長を飲みに連れて行きました。

吉田部長の希望に沿って焼肉を食べに行きました。施設から県庁。県庁から車のディーラーへ、その後、『焼肉のすずき』まで、私の車を吉田部長に運転して貰いお酒が入るのでお店からは吉田部長を乗せて代行で帰る事にして、したたかお酒を飲みました。私はどちらかと言うとお肉は得意な方では無いのですが吉田部長の希望とあれば・・・。ただし、かつてこのお店で本部施設職員の忘年会を2班に分けて実施した事で懇意にしているお店だったので、事前に予約をしておいたので、余り肉を食べない事を知っている店長さんが私の為にお刺身を用意して頂いたので助かりましたし、私は海鮮中心に焼いて頂きました。

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先ずは吉田部長と共に生ビールで乾杯。吉田部長はレアな焼き方で。私はしっかり焼いて頂いた肉を頂きました。(少しは食べれますから)吉田部長は生ビールをおかわりしましたが、私は日本酒を冷酒で頂く事にしました。(吉田部長もビールを2杯飲んだ後は冷酒を付き合ってくれました。)冷酒は大きなグラスに細かく砕いた氷が入ったものの中にそこそこのグラスに入ったものですが、銘柄は地元の酒蔵『玉泉堂』の『禮泉正宗』を頂いたのです。今から考えても不思議なのですが、家で一人飲んでいる時は350ccの缶ビール1本飲むのがやっとで、あるいは冷酒ならビールグラス1杯でほろ酔い気分になりそれ以上は飲めないのに・・・。つまり家だったら乾杯したビールだけで飲めなくなるのに「あ~ら不思議」多分5杯は飲みました。リピーターの皆さん、やっぱりお酒はみんなで飲んだ方が良いですよね。

コロナの影響で忘年会も新年会も出来ない状況ですが、コロナが終息したら、もっともっと楽しみたいと思うのですが如何思われますか。まさか、健康の為にお酒は控えた方が良いと考えられますか。私は健康な心身を堅持する為にも浴びる程飲んだ方が良いのではと思うのですが。いやいや「ほどほどに楽しく飲むのが一番」分かってはいますが分かっちゃいますが・・・。こんな私ですが、リピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

 

午前2時前からウダウダしていて逆に目覚めが悪く15分ずつ遅れてます

令和3年7月30日

5時に起きるのがわずか15分遅れた事で1日の流れがズルズルになってしまうようで自分自身驚いています。きっとどこかで修正しないと。どんどん遅れていったのは、昨日と同じようにウォーキングマシーンで歩きながらお経を唱えて汗だくになったので、ゆったりとシャワーを浴びて湯船に浸かりながら週刊現代の記事を読み出したらなかなか湯船から上がれなくて、朝食の時間が遅れて私の奥様かをり様がご機嫌が悪くて・・・。

興味を持って見た記事と言うのは『10・17総選挙    自民、野党転落    200議席割れ』を見て、しっかりと記事を読んだから。「小選挙区のマジック」で大変な事が起こる。とあり、自民党への票が12ポイント相手側に移ったら200議席に届かなくて、現職の田村厚生労働大臣も落選の憂き目に会うような書きぶりに「ほんまかいな」私は全国老人福祉施設協議会の関係で田村厚生労働大臣とは何度かお話をさせて頂いていてお人柄も良いし、現職の大臣が厳しい状況だとは思えないし、この記事は頭が良い方が数字上で考えられた仮説なので、正直「ふ~ん」と言う感じでの受け止め方しか出来ませんでした。私は常に思うことは『批判はどこからも出来るが批判するのであれば代案を明確に出すべきだ。」と言っているのですが今回の予測不能のコロナ感染症に対して野党が明確な提案を出しているとは私自身は理解していないので、自民党が野党に転落する明確な理由を私は見出だせないのです。

ただし、記事の後半で菅総理が退陣して誰が総理になるかと言う派閥の動きのようないわゆる政局について語られていましたが、小池東京都知事の動向予想について書いてあり、『小池新党』をつくり自民党と協力体制を確立する。その後ろ楯には二階幹事長がいるとかいないとか。私は小池百合子さんに聞けるものなら聞きたい事があります。「小池さん。総理に就任して日本の舵取りをどのようにしたいとお考えですか。」よく揶揄されるのに「東大に入学するまでの人と入学してからの人」私が知らないだけかも知れませんが「小池さん。日本の舵取りをどのようにしたいのですか。

特に、少子高齢化対策をどのようにお考えですか。労働生産年齢の方が右肩下がりに減っていく状況をどのようにお考えですか。」リピーターの皆さん。正直私には答えられませんが総理を目指す方ならば即座に答えて欲しいです。日本の人口を1億2千万人にすることは出来ましたが、その後右肩下がりにならない施策を打たなかった。日本を立て直す指導力がある方ならば良いのですが、政局のなかで蠢くだけの人では期待できない。『鉄の女』と言われる位の方だったら素敵なのですが・・・。私は岐阜の地で福祉の火を消さないように頑張るのみですが、身を粉にして日本の為に働いて下さるスーパーな方の登場を期待したいです。

昨日の3つのリモートがそれぞれきちんとした対応ができてなくて

流石に3つの会議が重なり、次の会議の事が気になり、それぞれの会議できちんとした事が言えなくて前の会議の事を次の会議の中で気になりその逆もありで、まだ空が暗い4時前から頭がぐちゃぐちゃになり5時前に起きて頭の整理をする為に起きてウォーキングマシーンに乗りながらお経を唱えました。お経を遮二無二に唱えているとどこからもとなく「今のお前らしくないな。このままだと小さい頃のお前になってしまうぞ」との声が聞こえてきて、ふっ切れました。今の自分の気持ちそのままに蠢くぞ。と言うわけで朝食を頂いた後には早速、昨日の岐阜と健康福祉政策課主催の災害支援の会議の座長をしていた烏野先生に連絡をして、昨日の不充分だった事の建て直しについて話し合いました。その一貫として、災害支援派遣で中心的存在になるのは私が会長をさせて頂いている老人福祉施設協議会と老人保健施設なので本日の内に老人保健施設の長縄会長に連絡をとったところ、私と同じように心配されていたので岐阜県の担当課に行く前に事前打ち合わせをしたいとの意見でまとまり、来週の木曜日にお会いしてお互いの考えを出し会う事で根回しが出来ました。もう1つの全国老人福祉施設協議会の会議の中で気になっていたことについては平石会長に私の心配した事について電話してぶつけてみました。こちらについても、間違っていないのでどんどん進んで良いとの言質を頂いたので迷うことなく、これからも突き進んでいきたいと思います。この2つのことから改めて『案ずるより生むがやすし』と思いました。もう1つの懸念は盲養護老人ホーム『優・悠・邑    和』の稼働率が全く芳しくないのは、『措置制度』としとの最後のセーフティネットとしての機能が上手く展開していない証だと考えられるので、不破郡選出の県会議員の藤墳先生に県議会で質問をして頂く為に午前中にお願いに行くと理解をして頂けて、9月議会で質問していただける事になりました。昨日は色んな意味で悶々としていたのですが、積極的なアプローチと地道なネットワークが生かされた形となり、やらなければいけないことはこれからですが大きく道は開けてきたように思います。私がこのように活発に動けるのは『自分の為ではなくて、みんなの為と信じて活動しているからだと自負しています。決して偉ぶることなく、地道にコツコツしてきたから、リピーターの皆さん。これからも全ての方が幸せになるように頑張りますので、ご支援よろしくお願いいたします。

本日はリモートでの会議が3つあります

令和3年7月28日

疲れが取れない日々が続いている為かそれとも私に気合いが入っていないだけなのかはわかりませんが、朝から歩いていた時のように5時前にぱっちりと目が覚めなくて、関ヶ原町の6時のチャイムでようやく目が覚める状態なので、朝のウォーキングが出来なくてお経はベットの中で。(「ベットの中で唱えるのはけしからん」と思われる方もおありかと思いますが、)私の大恩人の一人である吉田宏岳先生は真言宗豊山派の僧侶であり、中央福祉専門学校の校長であり『教育と福祉を考える会』の責任者をされていた、とっても凄い方ですが、先生の家に泊まらせて頂いた時に布団を並べて寝ていて、朝のお勤めをされないのでその理由をお尋ねすると、「ちゃんと朝しましたよ」と言われるので、「ずっとご一緒に寝てましたよ」と再びお聞きすると吉田先生は「布団の中で唱えましたよ」とけろっと答えられました。だから私も・・・。(偉い先生だから許されるのかな)しかしながら生活のサイクルを朝起きたらきちんと歩きとお経が出来るように整えたいと思いますが。さて、本日は午前に全国老人福祉施設協議会の正副会長による事前打ち合わせがあり、午後1時からは岐阜県健康福祉政策課主催の災害派遣検討会があり13時30分からは全国老人福祉施設協議会正副委員長拡大会議があります。午前の会議はリモート会議を複数回重ねた者同士の会議であり、比較的リラックスした雰囲気の中でも中身の濃い話し合いが出来、昼食を挟んで13時からのリモート会議に備えました。ただし、岐阜県主催の会議は14時までの予定なので、岐阜県の会議は会議室にリモートの準備をして全国の会議は事務所のパソコンで対応することにしました。つまり、午後のリモート会議は会議室で13時から対応して、会議が終了すると同時に事務所に駆け付け全国の会議に遅れて参加すると言う離れ業をしました。このような事が出来るのはリモート会議だからこそ出来る事です。だって、岐阜と東京を数秒で移動することなど出来るわけがない。これを出来るのは『ドラゴンボール』に出てくる『孫悟空』だけだと思うのですがリピーターの皆さんは今私が書いた意味がお分かりになりましたか。マニアックな話題をしてしまい申し訳ありません。しかしながらリモート会議とは言え3つ重なると流石にしんどいです。会議資料はメールで送信されて来て印刷をするので、きちんと整理しておかないと面倒な事になってしまいます。これがいわゆる『業務の効率化』と言う事なのだと身をもって理解しました。今の世の中に父進がいてくれたらどんなにか助かるのですか(片付けの達人だったから)普通は『孝行したい時には親はいず』とか言うのでしょうが、私の場合は『忙しいときに親はいず』う~ん、あいからわず勝手な事を言ってごめんなさい。父進さん、できるだけ自分で頑張りますので天国でゆっくりしていて下さい。

優・悠・邑 和音(なごみ)で取材を受けました

10時から垂井町高齢福祉課から包括支援の方の入居依頼に3人の担当者の方が本部施設に来て頂き打ち合わせをしました。他の法人の中には包括での入居に消極的な所もあるようなのですが、私の考えの中には包括に対する対応はきっちりするべきだと考えていますので当然のように入居の方向で話が進みました。

11時から本部施設の西村課長のお父さんが急逝された葬儀に出席する為に11時10分前に打ち合わせを切り上げ慌てて関ヶ原町斎場に出向きしっかりとお焼香をさせて頂いて私とは2歳しか違わない方が亡くなられたのは複雑な気持ちですが、西村課長は真が強いので母親をしっかり支えてくれるものと思っています。葬儀を終えて施設に帰ると和合の副施設長が処遇改善の打ち合わせに来ていたので会議室で昼食を食べながら打ち合わせをして、13時30分から優・悠・邑    和で視覚障害者用のマット等の製造販売をしている大阪の業者が自社の広報の取材に来る事になっていたので、いそいで向かいました。

13時30分の定刻よりも早くみえたので、取り敢えず集会室に案内して早速、取材の質問に答えるようにしました。まずは理事長である私のプロフィールへの質問だったので、直感的に「この質問に答えるだけで30分はかかる」と思いつつ話をしていて、恥ずかしながら40分はしっかり話をしてしまいました。もちろんの事ですが熱く語りました。だって、プロフィールと言うのは本来生まれてから今までの歴史を凝縮して話す事ですから、5分10分で終わるような人生ではないので40分でも短いと思いませんか。私の事ですからプロフィールを語りながら、法人設立から和(なごみ)が出来るまでの事を語りましたので40分は当然の結果だと思います。私が語っている内容を聞いて吉澤施設長が福祉新聞で取材を受けた記事をコピーをして持って来てくれたりと無駄なく説明が出来たとも思います。

1段落して、取材側から「施設運営における理念は何ですか」との質問に対しては『優・悠・邑』とは『すべてに優しく、やすらぎの場所である』事であり、施設を地域に解放し地域と共に歩み、家族力、地域力を取り込みながら無くてはならない施設を目指して行くとも熱く語りました。まだまだ、視覚障害者の施設の理解はされていない現状があるが、後天的視覚障害者は確実に増えていく現実を把握しながら確実な歩みをしていきたいとも語りました。大方の話を終えてから施設見学をして頂き、改めて施設への思いを理解して頂きました。取材を全て終えてから取材したものをまとめられたらインターネットで見れるようにするとの事だったので当法人のホームページでも紹介出来るようにともお願いしました。取材が終了してお見送りをして時間を確認すると16時15分になっていたので、再び和合の副施設長との打ち合わせが17時からあるのでまたまた急ぎ本部施設に帰りました。

リピーターの皆さん。私の1日はあっと言う間に終わるのは1日が充実している証だと思うので、今(午後7時29分)お風呂でコラムが打てたので、取って置きのお酒『黒龍   福』を頂き幸せの時間を過ごします。

昨日、視覚障害者福祉協会の研修に高山市まで行ってきました

会場は高山市総合福祉センターで開始が10時だったので、時間に余裕をみて、6時45分に水野係長の運転で施設を出発して、ひるがのサービスエリアで途中休憩をして(パンと牛乳を買い上げ、車の中で食べました。)9時5分に目的地の駐車場に着き、あまりに早く着いたので9時30分まで待って玄関先に行くと、高山市社協の常務理事兼事務局長の小峠さんが目敏く私を見つけて下さり4階の講演会場に案内して下さり、岐阜県老人福祉施設協議会の片岡副会長と橋本委員長が既に来てみえて、別室に案内して頂き時間が来るまでお話しをさせて頂きました。

研修会場に入るとそこは大かな和室で舞台があり、そこに演題と椅子が置かれていて、まるで落語の講座のような雰囲気で、岐阜県視覚障害者福祉協会の溝口副会長のご挨拶の後に私のプロフィールを紹介して頂き、椅子に腰掛けた時には思わず大学時代の落語を楽しんでいた時のお話しをしていました。90分間に思いっきりの福祉にかける私の思いと盲養護老人ホームの厳しい状況について語らせて頂きました。私の話しの後で質問の時間があったのですが多くの質問を頂き答えれる範囲でしっかり答えさせて頂きました。

研修が終わり橋本委員長からは手土産を頂き、片岡副会長は「高山らしいお店に連れて行く」と言われて観光地がある所の知り合いの歯医者さんの駐車場に車を停めさせて頂き、間口は狭いがお店は広いお蕎麦屋さんに案内して頂き、本当に美味しいお蕎麦を頂きました。片岡副会長にお礼を言って一路施設へ。

私は正直、安堵感からか助手席で爆睡してしまい気が付いたら半分以上に進んでいて美濃に入っていました。

さて、本日は午後から本館1階、2階のお参りがあり、1階では、お経の後で久しぶりに『帰ってこいよ』の替え歌で『3太郎』を歌わせて貰ったのですが予定にはないサプライズで桃太郎は北島部長が金太郎は伊藤主任が浦島太郎は水野係長がそれぞれの衣装で入居者さんの前に出て盛り上げてくれました。2階ではお経の後で『』(最初に唄った曲が思い出せません)『祭り』『お前しか愛せない』の3曲を歌わせて頂き入居者さんの楽しそうな顔に接して私も幸せを頂きました。

お参りの後で岐阜県社協の方との打ち合わせや社労士さんとの打ち合わせがあり、19時からの全体会に突入して、若干名しっかりと話が聞けない職員がいたので全体会に対する思いや業務省力化の意義について熱く語りました。全体会が終了して西村課長のお父さんの通夜には間に合わなかったのですが、心ある職員で斎場に行く事にしたのですが、20人以上が来てくれたのは当施設の強みだと感じました。リピーターの皆さんもそのように思われませんか。

21時に家に帰りつくまでコラムが一切書けていなかったのですが、何とかクリア出来ました。乱文はご容赦下さい。だって、目が瞑ってまうから。

68歳の時の父進さんはどんな風に私の事を思っていたのかな

令和3年7月25日

一昨日(7月23日)お腹が張って昼間なのに午前中は横になりながらゴロゴロしている時にふと、父進さんが今の私の歳の時にどんな風に考えて生きていたのかと、ふと考えていた時の事をコラムにします。私は父進さんが42歳の時に生まれたので、私はその時(68歳ー42歳=26歳)26歳。と言う事は私が教員を辞めて旧徳山村で勘当生活を謳歌して、(威張って言う事ではありませんが)ようやく児童養護施設の指導員の職を得た頃。以前のコラムで書いたように、せっかく紹介して頂いて落ち着いた生活になったはずなのに9月に入職をした時には翌年の3月で辞める位のいい加減な気持ちだったのです。(結果的には13年勤めさせて頂いたのですが)多分父進さんはその事は見抜いていたように思いますが、決してその事には触れずにずっと私の事を見守っていてくれていたようです。(このような表現になるのは直接聞いたわけではないし、当然今も聞けるわけがありませんので。)68歳の今の私にこのような広い心でいられるかと問われたら「絶対に無理」と答えざるを得ないかな。父進さんが68歳の時には垂井小学校の校長を退職してから垂井町教育長を勤め、関ヶ原町歴史民俗資料館初代館長をしていた頃です。その頃の父進は古文書の虫食いの本を楽しそうに見ているのを、私は不思議そうに見ていました。その当事岐阜の繁華街に岐阜近鉄百貨店と言うのがあり、年に2回古文書即売会の企画があり、嬉々として即売会にいつもにはないお金を持って出掛ける父進さんを不思議な顔で見ていました。しかしながら、父進さんはよくよく『忍耐の人』だったんだと思います。私が他人事のように言うのは本来的に可笑しな話なのですが、42年も前の事ですので、リピーターの皆さん、犯罪者の時効のような感覚で話を聞いて下さい。私自身は本当に我が儘一杯の生き方で、ある意味自分の思い通りに生きてきました。もちろん、その為に厳しい状況に置かれた事は数え切れない程にありましたが、その都度いわゆる『神風』が吹くように強力な協力者が現れて今があると言っても過言ではありません。その最大の協力者は言うまでもなく父進さんです。私を育てて今の私があるのは父進さんの存在なくして語れないのです。しかしながら、父進の私に対する気持ちと支援は私から言わせると自分で言うのはどうかと思うのですが一言で言うならば『忍耐』そのものだったと思います。私には絶対に出来ない・・・。父進のあの忍耐力はどこからくるのかを考えてみるに、思い当たるのは恐らく『戦争体験』と『母秋江との結婚』です。まず1つ目の『戦争体験』ですが、父進は若い頃から視力が悪くてなかなか兵隊になれなくて33歳で戦地に行ったようです。戦地では年若い上官から意味なく理不尽な事をされたと聞いてます。ただし、上官の中には記録を書けない方もいて、父が代わりに書いて得をした事もあったとも聞いてます。また、終戦を迎えて旧ソビエト軍の捕虜になりシベリアに抑留された体験も(色々と大変な事があったはずなのにそれを面白く語ってくれたのを記憶してます。)凄まじくて絶対にしたくない体験をした事。そして、父進さんから言って奥さまになった私にとっての母秋江さんに一目惚れして(石垣に隠れてそっと見ていたとの事。何とロマンチックな。これって普通は男女逆ではないか。いやいや今風かな。と言う事はメッチャ先駆け)今須の地に分かれ家の養子に入り秋江さんに絶対服従。う~ん幸せの形は色々なんだ。母秋江さんの生き甲斐のかなりの部分は我が子宏を元気に育てる事で父進はその事を理解した生き方。と言う事は父進さんは家族の幸せが自分の幸せをのように忍耐強く生きられたと理解した時にリピーターの皆さん、とても私には出来ない。でも、よく考えてみたら私も地域の為に施設の為に頑張っているか。つまり、父進のDNAを受けついているのか。う~ん本日もわけわからんコラムでごめんなさい。

嬉しいこと2つと悲しいこと1つ

令和3年7月24日

嬉しいことは、午前中に来年3月に高校を卒業する女子生徒が就職を前提に施設見学に来てくれた事が1つです。当施設を希望してくれた最大の理由は「施設の敷地内にアパートがあること」と明確な答えに「いやいや、当施設は入居者さんが楽しみにしてくれる事を職員が頑張ってくれているし、学歴ではなくて一生懸命さと優しさを大切にしている。」と話をして、アパートを水野係長に案内して貰った後、「就職活動が解禁になったらいの一番にエントリーして下さい。」と話をすると目を輝かしてくれたのはとっても嬉しかったです。

2つ目に嬉しかったのは、特定技能の介護をパスしたベトナム人夫婦が今は1Kのアパート1部屋で生活しているのですが、就職時の話の時に私が「一軒家に夫婦で子供も産んで生活出来る環境への援助をするよ」と話をしていたのですが、「しっかり今須に根を張り、子供も作りたい」との意向を受けて、本日空き家になっている家を案内してもらったら、3人家族と言うより、大家族でも少しの改修で生活出来る事がわかり、この計画を具体的に進める事になりました。ベトナム人夫婦は夫婦共に意欲的だし、この計画が上手くいくと、ネパールの男子職員も奥さんを呼びたいとの意向があるので、職員確保と地域の活性化にも寄与出来るし、介護職員確保の観点からも喜ばしい事だと考えています。これも、施設の事業を開始して23年の月日の積み重ねで信頼を得た証だと思うとめちゃめちゃ嬉しいことです。

嬉しいことの後に悲しいことを書くのは楽しくないのですが、ありのままを書くのが私のコラムですので、しっかり書きます。それは、私の従兄(かなり歳は離れていますが)の息子が亡くなって本日19時から通夜があり参列してきました。他界した従兄の息子は59歳でした。従兄に挨拶をした時に「早すぎるよな。もう少し生きて欲しかった。」と言われた時にはどのように声をかけてよいのかと戸惑うと共に私自身は68歳で毎日走り回れる事に人の死で改めて感じました。生きているからこそ苦もあり楽もあると言う事です。私は母を13歳で姉を17歳の時に亡くし悲しい思いをしたのですが、だからこそ母秋江さんの分と姉光子さんの分もしっかり生きなければと従兄の息子の通夜の席で改めて思いました。健康でいることに感謝し、精一杯自分なりに生きる事で恩返しをしなければとも思いましたのでリピーターの皆さん、これからも宜しくお願い致します。

 

穿った見方かな・・・

令和3年7月23日

東京都議選があり、都民ファーストの会から立候補して、見事に当選された方が免停中でありながら選挙期間中に車を運転して事故を起こしたとの報道がありました。都民ファーストの会を即座に除名されたとの記事を読んだ時は「事故を起こした事を都民ファーストの会本部は選挙期間中に把握していて『知らんぷり』を決め込み、選挙結果が出てから報道したのと違うのかな。もしも、選挙期間中に報道されていたら小池百合子都知事は都民ファーストの会の候補者の応援には行かなかったのではないか。もしそうだったとすると、都民ファーストの会があそこまでの結果を出さなかったのではないか」等と穿った考えを持ったのは私だけではないのではないでしょうか。

昨日のニュースの中で3年の間に免停を5回も繰り返していて「自宅から、まるで夜逃げするようにいなくなった。」との記載もありました。この記事から私が思うことは、「免停中にも関わらず平気で車の運転していたと言う事は、免停とはどう言う事かを理解されてないお方だったのか。政治家として多分この方は色んな事を批判したりしてこられたと思うのですが、社会のルールは守れない人だったのか、それとも都議会議員ならこんなことは揉み消せると思われていたのか。しかも事件が表に出た時の取材では「免停期間が終了していたと勘違いしてました。」とも言われてました。この発言を見て、このお方も証拠を突き付けられるまでしらを切るタイプなのか。いやいや、それとも、このお方は古い政治家の感覚をお持ちの方なのか。どちらにしても夜逃げ同然で行方を眩ませられたのは過剰なマスコミの取材もあったのだろうと言う事は容易く理解出来ました。

昨日の午後からお腹が張った状態で昨夜は夕食を食べずに水のみを飲んで朝を迎えたのですが、まだ、お腹は張ってますので朝のウォーキングとお経は中止して、朝食も食べずに様子をみます。

お経については本日午後から本部施設のデイサービス、新館1階、新館2階の3ヶ所でさせて貰うので許して貰います。今週は毎日複数の会議がリモートも含めてあり、何とかクリアしてきたのですが、知らない内にストレスになっていたとするとストレスを貯めない手立てを講じなければと今は(午前6時42分)横になりながら思っています。午前中は比較的にゆっくりとさせて貰い、13時30分からデイサービスからのお経に備えました。

本日のお経はいつも以上に声が出ていたと思います。それは、大きな声を出す事によってお腹に力が入り少しは刺激になりお腹の調子が良くなるのではないかとの淡い気持ちからです。大きな声を出すと汗まで出るようで、特に新館2階ではお経の後、カラオケで『織田信長』『祭り』を1階では『人生夢の途中駅』を歌い気分爽快になったのでリピーターの皆さん。明日にはしっかり元気になっていると思いますのでますますのご支援宜しくお願い致します。

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『駆除』と『駆使』では意味がとんでもなく違います

リピーターの中には昨日のコラムを読んで頂いて「いつもの事だけど、この間違いは酷すぎる。」と思われた方があったのではないでしょうか。1つの漢字の間違いでこれだけ大きく意味が違ってくるのは気が付いた以上訂正しなければ読んで頂いている方に失礼と言うもの。気が付いたのは朝5時過ぎに起きて、リッド様の食器に餌を入れ、うがいと洗面を終えて仏壇に手を合わせ父進、母秋江、姉光子、養母英子の写真にそれぞれ手を合わせ蝋燭と線香に火を点けおりんをたたき再び手を合わせてからウォーキングマシーンで30分歩き、水分補給をした後にお風呂に入ってから、昨日のコラムを読み返してみての事でした。実は書き替える為に『くし』と打ち込んでみたら直ぐに出てきたのが『駆除』で『駆使』て言うのはなかなか出てこなかったのです。しかも『駆』の字だけて安心してしまったのだと思います。だから、「伏してお詫び、も・も・もうし上げたーてまつりまする。」と言う事です。さて、本日は午前中に優・悠・邑    和(なごみ)に岐阜県視覚障害者福祉協会の溝口副会長が各務ヶ原の皆さんをお連れして下さったので吉澤施設長の挨拶に引き続き私が杉和会理事長としてお話をさせて頂き、その後施設内の見学をして頂き、11時30分に終了して玄関先で皆さん。をお見送りして、13時には優・悠・邑    和合の施設に行き、佐藤施設長、若山副施設長との打ち合わせや職員との話をした後、全体会があるので和(なごみ)でクックチルドによる昼食を試食させて貰ったのですが、味はしっかりしていて、クックチルドだといわなければ、普通に美味しいと言われるのは当然かと言うのが正直な感想でした。昼食を頂いた後は和合の施設に移動して早速打ち合わせをしたのですが打ち合わせの途中で本部施設からメールがきて、岐阜県老人福祉施設協議会の会員施設の施設長に連絡するようにとの事で連絡すると施設の介護職員が入浴中に入居者さんの顔を拳で殴り、頬と顎の骨折をさせて逮捕されたとの事。残念な知らせだったし施設長さんは意気消沈の声だったので、出来るだけの支援はするので何なりと相談して欲しいと話をさせて貰いました。和合の全体会の理事長講話では「介護をしていて、いらっとする場面があります。だからと言って虐待は絶対に許されません。高齢者の心理や認知症の理解をしていくなかで対応の仕方をしっかり学んで実践をしてほしい。」と実例を交えて話をしました。介護現場は学ばなければいけない事も多くある専門職でありながら社会的評価が低いので、私も自分の立場の中で出来る事をしっかりしていきたいと考えています。リピーターの皆さん。表題からかけはなれた形で、まとまりのないコラムになりましたが、いつもの事としてお許し下さい。

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