春吉爺さんの話し
令和2年10月11日
私を産んでくれた母秋江さんは、ちゃきちゃきの今須っ子で、春夫さん(私にとって伯父さん)と言う立派な跡取り息子が存在して実際に伯父さんが本家を継がれているにも関わらず、母秋江さんの為に分家の家をこしらえているのです。日本の一般常識で考えると、次男、三男に分家をつくる事はあっても、末娘である母秋江さんの為に分家を作ると言う発想は、終戦直後の日本においては稀有な事で無かったかと思います。その現象を私なりに分析すると、末娘であった私の母秋江さんを余程近くに置いておきたかったのだと思うし、春吉爺さんはわがままを押し通せるくらいの人物だったのだと思います。
春吉爺さんは戦前からいわゆる相場師だったと聞いてます。そして多分に親分肌の人物だったのだと思います。お金が無くて困っている方が頼って来て、例えばお金の代わりに立派な掛け軸を置いていき、お金が返ってくることが無かった時にも、「この掛け軸はあいつが置いていったものだから本物だ」爺様は断言していたとは言え、確証を得る為に私の父進さんに京都大学の先生の所まで鑑定に行かせた結果は爺様の言う通りに本物で京都大学の先生の話では「桃山時代に活躍した狩野松栄(狩野派の絵師)に間違いないので大切にしなさい。」と言われたとの話を小さい頃に聞きました。と言う事は、私の爺様春吉爺さんは人を見る目も正しかったと言う事かな。但し、私が小学生の頃、一歳下の従妹と共に爺様の家で遊んでいて、アイスクリームを食べていた時に爺様が「宏。今食べてるのはいくらした。」と聞かれたので「10円だよ。」と答えると「そんなものが10円もするか」と大きな声で言われたのは今でも耳の奥の記憶にあります。多分その頃の爺様は、今で言う『認知症』の症状がでていたのだと思います。だから、多分貨幣価値が爺様が元気に活躍していた頃に戻っていたのだと思います。
そう言う意味では貴重な品物が一杯あったのを、金銭価値が違っている状況で売りさばいてしまった物が多くあったのではないかと思います。(春吉爺さん的には、『儲かった』と思っていたのだと思いますが)そんな爺様春吉爺さんでしたが、私が中学1年の時他界した母秋江(春吉爺さんにとっては目の中に入れても痛くない存在だった末娘)の葬儀の時には春吉爺さんに母秋江の骨になった骨箱を持って行った時には、春吉爺さんが骨箱を両手に抱き「こんな小さな箱に入ってしまって」と絶叫されたのも耳の奥底に残っています。
話は変わりますが、本家の家に親戚が集まり(春夫伯父さんの法要の時)(今はそんな時しか親戚は集まりません)懐かしいアルバムをみんなで見ている時に、「誰が一番春吉爺さんに似ているか」と言う話になり、みんなが「一番年下の男の宏がそっくりではないか」との結論でした。確かに、小さい頃の虚弱な私では似ても似つかぬ雰囲気だったのですが、『青大将がアナコンダ』の様になった今はその様に言われても致し方ないか・・・。首回りが36㎝から47㎝、ウエストは72㎝から優に100㎝を越えたのでは、豪快だった春吉爺さんにそっくりと言われても仕方が無いか。リピーターの皆さん、可愛かった宏君(そんな時代は知らないですよね)がこんな風になってしまいましたがこれからも宜しくお願い致します。※最後は「とほほ」の話でした。