2020年10月の記事一覧

春吉爺さんの話し

令和2年10月11日

私を産んでくれた母秋江さんは、ちゃきちゃきの今須っ子で、春夫さん(私にとって伯父さん)と言う立派な跡取り息子が存在して実際に伯父さんが本家を継がれているにも関わらず、母秋江さんの為に分家の家をこしらえているのです。日本の一般常識で考えると、次男、三男に分家をつくる事はあっても、末娘である母秋江さんの為に分家を作ると言う発想は、終戦直後の日本においては稀有な事で無かったかと思います。その現象を私なりに分析すると、末娘であった私の母秋江さんを余程近くに置いておきたかったのだと思うし、春吉爺さんはわがままを押し通せるくらいの人物だったのだと思います。

春吉爺さんは戦前からいわゆる相場師だったと聞いてます。そして多分に親分肌の人物だったのだと思います。お金が無くて困っている方が頼って来て、例えばお金の代わりに立派な掛け軸を置いていき、お金が返ってくることが無かった時にも、「この掛け軸はあいつが置いていったものだから本物だ」爺様は断言していたとは言え、確証を得る為に私の父進さんに京都大学の先生の所まで鑑定に行かせた結果は爺様の言う通りに本物で京都大学の先生の話では「桃山時代に活躍した狩野松栄(狩野派の絵師)に間違いないので大切にしなさい。」と言われたとの話を小さい頃に聞きました。と言う事は、私の爺様春吉爺さんは人を見る目も正しかったと言う事かな。但し、私が小学生の頃、一歳下の従妹と共に爺様の家で遊んでいて、アイスクリームを食べていた時に爺様が「宏。今食べてるのはいくらした。」と聞かれたので「10円だよ。」と答えると「そんなものが10円もするか」と大きな声で言われたのは今でも耳の奥の記憶にあります。多分その頃の爺様は、今で言う『認知症』の症状がでていたのだと思います。だから、多分貨幣価値が爺様が元気に活躍していた頃に戻っていたのだと思います。

そう言う意味では貴重な品物が一杯あったのを、金銭価値が違っている状況で売りさばいてしまった物が多くあったのではないかと思います。(春吉爺さん的には、『儲かった』と思っていたのだと思いますが)そんな爺様春吉爺さんでしたが、私が中学1年の時他界した母秋江(春吉爺さんにとっては目の中に入れても痛くない存在だった末娘)の葬儀の時には春吉爺さんに母秋江の骨になった骨箱を持って行った時には、春吉爺さんが骨箱を両手に抱き「こんな小さな箱に入ってしまって」と絶叫されたのも耳の奥底に残っています。

話は変わりますが、本家の家に親戚が集まり(春夫伯父さんの法要の時)(今はそんな時しか親戚は集まりません)懐かしいアルバムをみんなで見ている時に、「誰が一番春吉爺さんに似ているか」と言う話になり、みんなが「一番年下の男の宏がそっくりではないか」との結論でした。確かに、小さい頃の虚弱な私では似ても似つかぬ雰囲気だったのですが、『青大将がアナコンダ』の様になった今はその様に言われても致し方ないか・・・。首回りが36㎝から47㎝、ウエストは72㎝から優に100㎝を越えたのでは、豪快だった春吉爺さんにそっくりと言われても仕方が無いか。リピーターの皆さん、可愛かった宏君(そんな時代は知らないですよね)がこんな風になってしまいましたがこれからも宜しくお願い致します。※最後は「とほほ」の話でした。

 

思い込みとは恐ろしいそして、ご免なさい

令和2年10月10日

9時過ぎから地元の県議会議員の先生の所に新規事業の進捗状況を報告をしに行く事にしていて、昨日の内に地元の町会議員さんとは時間も合流場所も確認しておいたのですが、副施設長には伝えてなかった事を思いだし朝一で連絡することにして、携帯で番号を押し結構長くコールした後で眠そうな声で出られた対応に(その時点では完全に本人だと思っていました。)私は若干ムッとしながらも、用件である時間や集合場所を一気に話をし終えたら、相手の方が「どちらにお掛けになってみえますか」と言われて、番号を確認すると「間違っている」と気が付き慌ててお詫びをして電話を切りました。そして、副施設長にかけ直しをして、今あった事と用件を話ししてからつくづく思ったのは『思い込みとは恐ろしい』と思うと共に『間違えた相手が男性だったら直ぐに気が付くのに』とか『副施設長の声にそっくりだったから』とか、色々な自己弁護をしている自分に自分の事ながら呆れています。県議とのお約束の時間より三人とも10分以上早く着いたのですが、事務所に入って行くと私たちを待っていてくださったので、事務所内に入らせて頂き、先ずは私から経過報告と共に今後の進め方について話をさせて頂き、報告が済んだ後で、県議の先生が私の父進さんが垂井町の教育長をしていた時の話題になり、(約50年前)その当時垂井北中が新設され、通学地域の問題で父進さんが大変苦労されていたのをみていた。との話を聞き、30年前の出来事なので県議の先生はまだ若い頃の話しなのに覚えてくださっていれと言う事は父進さんの存在が余程大きな存在で、30年前に他界したのに今も私の事業を後押ししていると思うと感謝しかの言葉しか出てこないので、本日は17時30分に帰れたので、スーツを脱ぎ捨て仏壇にローソクと線香に火をつけてウォーキングマシンに乗り30分間『正信偈』と『四国遍路でのお経』を唱えると共に四人の写真を見ながら法名を遮二無二唱えました。特に本日は至心院釈善進(父進さんの法名です。)を繰り返し唱えて父進さんに感謝と畏怖を表しました。しかしながら、しみじみ思うに約50年前の父進さんの事が話題になったのは単に私が父進の息子だから県議さんが話題にしたとしても、50年前の事を覚えて頂いているからであればこそ。と考えると余程のインパクトな出来事でなければ、話題にすらならなかったと思うと父進さんは素晴らしい人格者だったのだと思います。そこで私は考えました。私がこれから50年後に『素晴らしい人だった』と言われる人物でいられるのかと。こればっかは、バックツーザフューチャーのタイムマシンがないと・・・。50年後に語られる存在になるにはこれからも頑張らなくては・・・。今、二十歳位のリピーターの皆さん。50年後に宏君が誉められるように頑張りますので、語って下さいね。

ネパール人女性が杉和会の仲間入りをしました

令和2年10月9日

8月19日にベトナム人夫婦がやって来ました。ご主人の方は大学を卒業して飲食業界で通訳の仕事が内定していたのですが、このコロナ禍で内定が取り消され、就職活動をしながらコンビニで週28時間のアルバイトをしている時に、特定技能の介護の資格を取れば5年間は日本で正規に働けると言う事で、一大決心をして特定技能の介護の為の受験勉強を約2か月して見事に一発合格して5年間は日本で正規に働ける事になったのですが、留学ビザから特定技能の介護のビザが下りてくるのに時間がかかり、仲介して頂いた方がようやく正式にビザが下りたと来て頂き、正規職員になる事が出来ました。

そして本日、もう一人ネパール人女性も同じビザを持ってやって来てくれました。ベトナム人男性もネパール人女性も優秀で日本語の2級を引っ提げてやってきました。二人共私が常に言っている『優しさと一生懸命さ』を持っています。ベトナム人夫婦の内の奥さんの方はまだ、二人と同じ資格はないので週28時間のアルバイトでしか働けませんが(実に勿体ない話です。)近い内に取得してくれるものと思っています。制度上の話をすれば、3人共に当施設で3年の実務経験と450時間の研修を受けて、見事日本の国家試験である、『介護福祉士』の資格をクリアしてくれて、ながく日本でいやいや杉和会の職員としてしっかり働いてくれたらと考えています。

特定技能の介護のビザは今年の4月に出来たばかりの制度ですので、恐らく岐阜県の第1号だと思うのですが、この様なご縁を頂けたのも沢山のネットワークを張り巡らしている結果だと考えています。先程、全国老人福祉施設協議会外国人材対策委員会委員長の京都の櫻井君と携帯で話をしたのですが、介護人材の求人の受け皿の一つとして外国人材の採用も積極的にしていかなければいけない状況の中、「採用はしたいがどの様にしていったら良いのかとがわからない法人もあると思うので、情報発信をしっかりしていく必要がある。」と話をしました。

ベトナム人夫婦には頑張って二人で働いて、今須の地で空き家を購入して若干の改修工事をして、素晴らしいファミリーとして根付いて欲しいと話をしました。ネパール人女性は、「畑で野菜を作りたい」との希望を話してくれたので、「今は施設の西奥に砂防ダムを作っているので畑の土はいくらでも貰えると思うので頑張って作れると思いますよ。」と話をすると共に、今須の若者と結婚して文字通り今須に根ついてくれたらと私自身は勝手な夢を抱いてしまいました。その様な夢を抱けるほど綺麗な目をしていました。

インドネシアのEPA介護福祉士候補生に、特定技能の介護のビザを持ったベトナム人夫婦にネパール人女性、中学を卒業して直ぐに就職してくれた男子に、児童養護施設からきてくれた男子、全盲のマッサージ師の職員と色々な職員を確保出来るのは、1Kのアパートを20部屋も敷地内に保有している事は大きい事だと思うのですが、リピーターの皆さん、この展開は本部がある近くにはアパートなるものがないと言う悪条件を逆転の発想で展開したお陰です。それに、起きては困りますが、災害が起きた時にも敷地内の職員は頼りになる存在です。これからも色んなアイデアを出して頑張りますので宜しくお願い致します。

大車輪の動きでした

本日10時から視覚障害者生活情報センターぎふ(アソシア岐阜)で岐阜県視覚障害者福祉協会の会長さん、副会長さん、監事の方にお会いして、新規事業である盲養護老人ホームの名称を協会の中の公募で決めて頂くお願いに行く事になっていたのですが、午後1時30分から、来年4月から事業譲渡を受ける事になっている施設職員さんに対して2組に分けてお話をする機会を頂いたので、私自身の杉和会にかける思いをまとめたくて朝一に施設に行きパソコン打ちをして、その資料が出来て15部の印刷が終わりほっとする間もなく、アソシア岐阜に向け出発。9時45分に到着して受付を済ませると会長さんがお出向して下さり3階の会議室に。監事の方は初めてお会いするので名刺交換をして、それぞれに着座して、私の方から今日までの経過報告をした後で改めて名称公募についてお願いし、出来れば年内中に決めて頂きたい事と最終的に決定する時には私にも参加させて頂きたいと話をさせて頂きました。その後も色々な意見交換をしている中で感じたのは視覚障害者の方の安心の為に出来る施設としての期待が大きいと言う事を痛感しましたので改めて責任の重さを感じました。打ち合わせが終わった後も会長さん自らが玄関先までお見送りして下さり恐縮してしまいました。養護老人ホームでの説明会の為途中で昼食をとり、施設の玄関口で熱チェックを受け、控室で待機していて定刻の時間前に会場に案内して下さり、園長先生から紹介を頂き私の杉和会にかける思いの限りを2回に渡って語らせて頂きました。具体的には私が26歳から38歳までの13年間の児童養護施設での思いから、23年間の特別養護老人ホームでの展開と盲養護老人ホームへの思いについて精一杯語らせて頂きました。2組共に一生懸命に聞いて頂けたんで話易かったのですが、私が息抜きのつもりで落ちのある話をした時に笑って頂けなかった事については私から正直に「ここは笑って頂きたかった所なのですが」と話をして少しお互いに肩の力が抜けたかなと思いました。終了時間一杯いっぱいの15時30分までしっかり話をさせて頂き、園長先生にご挨拶をして16時に垂井町役場で中電の方と電柱撤去の為の書類を届けに行く約束がしてあったので、慌てて役場の中に入って行くと既に中電の担当者の方がお見えになっていたので、役場内の建設課及び総務課に出向き、建設の工程が厳しいのでなるべく早くの決済が頂けるようにお願いして、ようやく施設に帰る事が出来ました。施設に帰り携帯を見ると留守電が3件とメールが3件入っていたので早速その対応をしてほっとして今(18時30分)コラムを打ってます。今日は比較的早い時間に帰れるので、本日もウォーキングマシンに乗りながらお経をあげたいと思います。リピーターの皆さんも思いませんか。忙しい毎日だからこそ時間を上手に使えて尚且つ健康管理も出来ると。だからこそ、コップ1杯の菊姫がこれまた美味しいのだと・・・。

訂正とお詫びと共に感想です

昨日のコラムで『正信偈』と書くべきところを『小信偈』と書いてしまいました。先ずは「昨日のコラムを読んで頂いたリピーターの皆さんに深くお詫びを申し上げると共に訂正致します。」・・・。

長く私のコラムを読んで頂いている方であれば恐らく「何を今更。しょっちゅう誤字脱字があるくせに」と思われた事と思います。実はそこに本日のコラムの本題があるのです。つまり、私の真骨頂である『転んでもただでは起きない。』を書く事にします。(2年以上毎日このコラムが継続出来たのは、重箱の隅の事も話題にしてきたから続いているのですが。)本題に戻ります。

私は『正信偈』と言う字を間違えない為に経本に書いてある『正信偈』と言う字をしっかり見て一字ずつガラケーの携帯で打ち込んだつもりでしたが、「『正』を『小』と間違えたのには人間の心理としての落とし穴に見事にはまった為だと言っても良いのではないか」等と知ったかをしている学者のように述べてみました。もう少し解りやすく説明します。『正信偈』の文字の中で一番間違え易い難しい文字は『偈』だと考えられます。事実私は『偈』と言う文字を正直マークしました。そして、あとの2文字である『正』と『信』の字は「当たり前の文字」として軽く考えて、思い込みの中で『正』の字を『小』と打ち込んでしまったのです。このように思い込みの中で間違いをしてしまう事は結構あるのではないでしょうか。そして、思い込みの中で間違えている事を堂々と話しされているのに間違いを指摘せずにいる事って以外に多いのではないでしょうか。今回の私の間違いは「お経さんの事は間違えたらあかん」との心理が働き、読み返しても思い込みの世界の中で『偈』と言う日頃先ずは使用しない文字の事ばかりに気が集中した結果だと思います。つまり、難しい事をクリアした時に油断が生ずる事です。

野球で例えてみます。前の打席で滅茶苦茶難しい変化球がきたのを上手くすくい上げてホームランを打ちました。そして次の打席では、さして早くもないストレートに空振り三振。人生とはこんなものです。などと知ったかぶりをしている私は何者なのでしょうか・・・。等とわけのわからない事を書いてしまったので、最後のまとめはきちっとしたものにします。

私は44歳にして色々な方の支援とご理解により法人と施設を設立することが出来、今では、150人の職員と多くの協力企業と地域の方々(家族も含めて)のご理解により円滑に法人運営をさせて頂いていて、今も盲養護老人ホームの建設に着手してますが、勢いがある今だからこそ足に地がついた対応をしていきますので、リピーターの皆様。これからも変わらねご支援宜しくお願い致します。

ウォーキングマシンで歩きながらのお経

時速4、3キロに調整して30分で2、13キロ歩き89、7カロリーの消費量で汗タラタラです。

お経さんは『真宗大谷派勤行集』の『小信偈』(しょうしんげ)と四国遍路で覚えた般若心経を中心にしたお経です。もちろんお仏壇にはろうそくと線香を手向け、歩きながらの複式呼吸で出来る限り大きな声を張り上げお経を唱えました。5分としない内に汗が溢れてきました。本当に心地よい汗ですし、歩き終わってちょうど赤いろうそくも全部燃え尽きました。小信偈もほとんど経本を見ずに言えるし、もちろん般若心経はしっかり自信を持って唱えれるので、歩きながら尚且つお経を唱えながら父進さん、母秋江さん、姉光子さん、養母英子さんの写真を何度も何度も順番に見ながら、お経を唱えつつも一人ひとりに語り掛けてのものでした。

本来姉光子さんは例え半年とは言え、嫁いだ身なので、「写真を掲げるのはいけない」と言われる方も多くみえましたが、常識を守る事を常としていた、父進さんでしたが、姉光子さんの写真を掲げる事は何を言われても押し通しました。父進の息子であり、父進さんが他界し私が当主(今はそんな言葉は使わないか)になってからも、父進さんの遺志を継いでいます。

但し、父進さんが亡くなって直ぐに父進さんが決断出来なかった仏壇の購入をした時、(父進さんが残してくれた遺産で)本来写真は亡くなった順番に並べるのが常識なのかも知れません。そうだとすると、母秋江さん、姉光子さん、父進さん、養母英子さんの順になるのでしょうが、私の思いで父進さんが一番で二番が母秋江さんで三番が姉光子さんで、四番が養母英子さんなのです。一番が父進で母秋江さんが二番なのはわかるのですが、三番目に姉光子さんを持ってきたのは秋江さんと英子さんが天国でありながらバトルをするといけないので、姉御肌だった姉光子さんならば上手く調整してくれるとマジで考えたからです。

かなり横道にそれてしまいましたが、実は昨日も歩いて、昨夜はしっかり眠れて爽やかな目覚めで腰の違和感も少なかったから。毎日毎日バタバタの時間がない生活を送っていますが殆ど職員との打ち合わせや業者の打ち合わせです。昨日は午前中約三時間は中日新聞の取材で座りっぱなしだったし、本日も朝9時まえから、造成をして頂いている業者の社長さんと建設をお願いしている監督さんとの打ち合わせで、午後は岐阜都ホテルで社会福祉法人経営者協会の役員会があり座りっぱなしでプラス岐阜都ホテルまでの往復運転でこれまた二時間は座りっぱなし。「このまま何もしなかったら明日は腰が痛くなる」との思いと爽やかに汗をかき、一杯話が出来るのは素晴らしい事。

それにリピーターの皆さん。私は杉和会の理事長として健康管理も大切な仕事だと考えているのですか、如何思われますか。

『感謝と恩返し』

令和2年10月5日

昨日は早くに家に帰らせて貰ったので、『半沢直樹』の録画を見ていて『感謝と恩返し』と言う言葉を聞いて私の生き様を振り返る事が出来ました。と言うのは私の猪突猛進的な展開で何度となく窮地に遭遇した時にその都度救世主が現れ、直接的に或いは間接的に助けて頂いた事です。但し、母秋江さんと同じ様に『恩返し』をする前に亡くなってしまった方には、地域の方々に間接的に『恩返し』をさせて頂いてます。

私は昨日のコラムで書いたように紆余曲折の結果(今も途上ですが)社会福祉法人杉和会を設立し(1997年7月)、優・悠・邑本館(1998年5月、50床)、優・悠・邑新館(2004年4月、40床)、優・悠・邑 和合(2014年4月、80床)と事業を開始して、現在盲養護老人ホーム80床の建設をさせて頂いていますが、その都度色々な方に『感謝』すべき出来事があったと振り返っています。本日は思いつくままに感謝すべき事について書く事にします。

社会福祉法人設立の際にはその当時の大垣商工会議所会頭だった河合達雄さんに、岐阜県への根回しに奔走して貰い、本来であれば杉和会初代理事長になって頂く手はずになっていたのですが、認可を頂く直前に急逝されました。だから、河合会頭には『恩返し』をする事が出来なかったのですが、法人との関係は持ち続けるのが河合会頭の本意と考え、河合進一社長から河合刀記夫副社長には評議員に就任して頂いています。

法人設立時には私自身全く資金も無く、資金提供の行脚をして行く中で、福祉の師である吉田宏岳先生には多額の資金を寄付して頂き、私にそれ程の価値があったのかと正直にお尋ねしたところ、即座に返ってきた答えが「立派になれ」だったので身が引き締まる思いでした。先生にはほんの少しの『恩返し』として、先生の自坊での月一回のお写経会に、栗ご飯や山菜ご飯をお持ちしたり、四国遍路の先達としての役割は担いましたが、全てが返せたとは思いませんが今の現状には天国で満足して頂いていると思っています。

また、施設建設の話をしていく中で、今とは違い25年前では、理解を示して下さる方が少なかった時に、その当時の長老的存在であった方が、「大きな施設が建てば多くの若い職員さんが働きに来て、ひょっとしたら地元の若いのと結婚する事になるかもしれないし、働く場所になるかも知れないのに今どき何を言って居る。」との発言を頂きその場の雰囲気がガラッと変わりました。その長老夫婦の方のお世話は『恩返し』になったかどうかはわかりませんが、施設が今須の地にあって出来たと思っています。

時にこのコラムにも登場してきた中村博彦全国老人福祉施設協議会会長・参議院議員には、怒られたりいびられたりした印象ばかりが先行しますが、よ~く考えてみるとその時々に素晴らしいアドバイスや配慮を頂いたと思っています。中村博彦会長への『恩返し』は全国老人福祉施設協議会に対する中村会長の道半ばの思いをしっかり完成させる事だと考えています。『感謝と恩返し』の話題には事欠かない生き方ですので、これからも時として書きますのでリピーターの皆さん読んで下さいね。

 

相手を思いやる心 2

令和2年10月4日

今でこそ『相手を思いやる心』等と言う言葉を使っても大丈夫な生き方だと思うのですが、26歳までの私は真逆な生き方だったと思います。(自分の事しか考えられない生き方)いや、正確に言うと25歳の時に教員として、神戸北小学校4年3組の担任になり、その年6月に校内研究で自分のいい加減さを理解して、10月の西濃教育事務所の指導課長さんがみえての研究授業で自分なりに初めてと言っても過言ではないような成功体験をさせて貰い、その時に「私の授業の為に子ども達が頑張ってくれた。だったら、今度は私が子ども達に出来る事を精一杯に頑張らねば」と思ってからかな。

でも、結局は形に出来なくて自分探しを父進さんの寛大な対応により(勘当されました)徳山村での半年にも及ぶ居候生活を経て児童養護施設での13年間は正直自分は滅茶苦茶甘くて幸せな生活だったのかを指導員として仕事をさせて貰っている時に教えて貰いました。だから、その時代は「この子達一人ひとりに何をしていけば少しでもこの子ども達の将来が明るいものになるのか」と言う事ばかり考えて私なりに出来る事をしてきたつもりでしたが実はその実践は私自身を成長させて貰うばかりだったと今になって思っています。そして、それぞれの場面が真剣勝負だったし、極端な言い方をするならば、常に絶壁に立たされているようなものだったと思います。

だから今では厳しい状況におかれて、例え頭に血がのぼっていても、どこかで冷静沈着な気持ちでいられるのだと感謝してます。そんな中から『相手を思いやる心』が芽生え、相手の方が喜ばれるだろうと思いながらしていく事にワクワクしながらの毎日です。もちろん今でこそ、そのような気持ちですが、その域になるまでには色々な事がありました。でも、色々な苦労・・・いやいや試練があったからこそ今があると思います。そして、今は自分の置かれている立場の中で『私が出来る精一杯の事をしていく事』こそが『相手を思いやる心』と信じて事業を進めています。

正直な事を書くならば、最初に出来た本部施設本館は、児童養護施設を辞めて個別指導で切り開こうとの考えが現実的には生活が出来ない正直霞を食べて生きていかなければいけないもので、拠点がなければ思い通りの事が出来ない事を知り、それではと、色々とうごめく中で『情緒障害児短期治療施設建設』を目指しましたが、その当時の岐阜県に受け入れられず挫折した中から、「とにかく福祉施設をつくって福祉の形を確立したい」との思いから出来たものでした。

本部施設が出来た2年間は措置施設の枠の中で、霞を食う以上に厳しい生活を強いられましたが、契約による介護保険に制度が変わり、職員も育っていく中で、今の状況の中で地域のお役に立つものとの考えの中で新館を造り、和合を造り、今は盲養護老人ホームの建設に向かっています。無謀とも言える計画も根底には福祉の心を持っての信念です。つまり、自分(杉和会)が出来る精一杯を形に表していく中からの計画だと考えていますので、これからも変わらぬご支援をリピーターの皆さんお願い致します。

相手を思いやる心

令和2年10月3日

本日14時のお約束で自民党岐阜県連の事務局次長の方が12月に行われる市町村議会議員の方達向けの勉強会で私に話をして欲しいとの依頼の為に施設におみえになり、三時間以上私の人となりについて語りました。その折、「演題を早く決めて欲しい」との事だったので、家に帰ってから、思い付いた演題が『相手を思いやる心』でした。この演題は文字通り、私の生きざまそのものであり、どの角度からでも話が出来るし、色々な議員の方々に対しても心に響くものになると思ったからです。

私の『相手を思いやる心』の原点は、私を生んでくれた母秋江さんの病弱な息子を思い守ろうとする考え方だと思います。『半沢直樹』で香川君が言ってましたよね。「施されたら施し返す。恩返しです」と。私は母秋江さんには『恩返し』が全く出来ませんでしたが、その分を地域の中でお返ししなければと考えての今の生きざまだと考えています。『見返りを求めない生き方』が結果的に相手に響くのでないかと思います。

今、新規事業として立ち上げた盲養護老人ホームにしても、岐阜県内の社会福祉法人が20年来、計画すら出来なかったのは、経営が厳しい事がわかっているから。しかしながら、私は「だったら岐阜県に無くても良いのか」と考えた時に、「岐阜県民にとっての安心を得る為の一助として不可欠」と考えたからです。昔の格言に『備えあれば憂い無し』の一つを我が法人杉和会で出来ないかと考えたからです。私の母は、私が生まれて半年後に約10分近く心臓が止まった時に「私の命と引き換えに息子を生かして下さい」的な事を心の底から叫んでいたと思います。私の母は私が中1の時に他界しているのですが、そんな母秋江さんだったと思います。

私はその母秋江さんの考え方を引き継いでいるので、他人が困ってみえる時に「私に出来る事は何だろう。」と考え行動を起こす事を常に実践してきたつもりです。44歳の時に特別養護老人ホーム70床を立ち上げ、今では208床にまで組織が大きくなった分、多方面に渡りやれる範疇が多くなりましたが、根底の考え方は変わらないのです。施設が3施設になっても私の考え方は変わりません。それは、『入居者さんは何をして差し上げたら喜んで貰えるのか』と言う事で、喜んで貰った時の掛け値なしの笑顔こそ、私の至福の喜びです。もちろん喜んで貰う為には原資も必要です。先般実施した『まつたけ尽くしのバイキング』でまつたけ10キロで16万円がかかりましたが、日頃、全職員で節約して貰って捻出したお金で支払う事が出来ました。

『相手の懐に飛び込んで』は入居者さんにだけではなく、全ての方にしていくべき事だと思っています。リピーターの皆さん。こんな生き方しか出来ない私ですが今後とも末永くごひいきにお願いします。

 

早朝と言うより午前3時過ぎから戦略を練っていました

令和2年10月2日

昨夜はコップ一杯(多分0、7合)の菊姫を飲んだせいか、21時過ぎには睡魔が襲い爆睡。この現象は『お年寄りですか』と言われても仕方がないような状況ですが、事実なので仕方がないのです。年寄りついでに夜中のはずの午前3時過ぎに目が覚めてしまい、再びにはなかなか寝付けないので「これは、じっくり戦略を練るにはちょうど良い」と考えて、明日の行動開始と共にすべき事を思い付くままに今コラムを打っているガラケーの携帯の予定表に打ち込んで行きました。その中で最も大切にしなければいけないのが『新規事業を進めて行く上で邪魔になる電柱の撤去(移動)をする為の道筋を立てる事でした。

そして、施設に行き先ずは垂井町に行き確認をして貰った結果が納得がいかないものだったので、私なりの戦略として、中電への依頼を人を介してして貰うと、1時間後に現地で確認がしたいとの連絡を頂いたので、急ぎ岐建の現場監督に急遽現場に来て貰い、電柱の位置の確認をして貰いました。持つべきは骨をおって貰える方がいることだと改めと思いました。と書いていると今は午後8時21分なのですがコラムを打つ思考能力が湧いてきません。ごめんなさい。リピーターの皆さん早朝3時に起きてしまったつけが来てます。だから、寝ます。

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