2020年10月の記事一覧

お酒にまつわるお話

昨日、体調が悪くて食事をとられない入居者さんのお話をしたので(メインはハロウィンの話しでしたが)その流れの中で、『私とお酒』について語ってみようと思います。

私の父進は最愛の妻秋江(当然の事ですが私の母親)を父進は55歳で亡くしながらも学校長として凜とした父親でしたが、時として公務の大変さを癒す場であるはずの我が家に最愛の妻がいない寂しさもあり、家でお酒を飲む時に一人で飲むのが楽しくなくて、私におちょこに一杯か二杯を「飲んでみるか」と進めては色々な事を語ってくれました。今になって父進の思いがわかるような気がします。父進は公務以外で誰かを誘ってお酒を飲んで来るような性格ではなかったからです。つまり、私が酒飲みになったのは父進さんのお酒に付き合っていたからと父進の性にしている私は何なのでしょうか。

大学時代の酒にまつわるエピソードは数えきれませんが、本日は学生時代のやりたい放題を語ってみます。(「こいつ大丈夫か」等と思わんとって下さいよ。)先ずは大学に入学をして初めてのクラスコンパを私が取り仕切って実施した時の事ですが、私は先程述べたように中学一年からお酒を覚えて、高校時代は期末テストが終わった日には我が家でヤンチャな仲間を引き連れて酒盛りをしていたりしたので(「全くのどかな時代ですな。」自分で言うな)大学に入学した時には結構飲めたので、クラスコンパも取り仕切れたと思うのですが、お酒を飲むのが初めてで飲み方もわからずに飲んだ子の中で、酒をもどして(私は決してそんな勿体無い事はしませんが)何ともならないのがいたので、仕方なく私のアパートにもう一人の付き添いの協力を得て担ぎ込みました。

最初は洗面器にもどしていたのですが、夜中の2時頃になって、もどす物が無いにも関わらず吐き気が治まらず、吐くものがないためなのか血へどを吐いて、その状態が30分以上になり流石に介助していた友達共々恐くなり救急車を呼びました。近くの外科病院に搬送され私達も付き添いで同乗して行きました。点滴などの処置をしていただきある程度落ち着いた時に、対応をして頂いたドクターが付き添っていた私達二人を別室に呼び思いっきり怒られましたが、如何せん私達はまだまだ未熟な18歳。どうして怒られなければいけないのかが理解出来ず、(と言うか納得がいってない)多分二人ともに不貞腐れた顔をしていたのだと思います。夜中に救急対応して下さったドクターの感情を逆なでしたのだと思います。正直めっちゃ怒られました。介助の為に初めて救急車に乘った話でした。

2つ目は垂井祭りで親戚の家で親戚中で一番酒が強いと触れ込みのあった叔父さんと飲み比べをした時に二人でビールを2ケース(大瓶40本)空けて叔父さんがダウンして私が勝利して、叔父さんには同い年の従兄弟がいるのですが、その従兄弟は「ひろっさんとは決して一緒に飲まない。だってうわばみだから」と言い続けられています。

3つ目は大学に入学して『郷土研究の会』と言うサークルに入部してそのサークルの先輩で就職浪人されていた方のアパートに1年生ばかり5人で行った時にその先輩が「アパートの向かいに酒屋があるのでウィスキーの安くて大きいのを買ってこい。」とお金を渡されたので、私ともう一人でサントリーレットのダブルサイズを買ってくると、既にコップが用意されていて、先輩から氷も水も無しに並々とコップに注いで貰い私は3杯飲んだ記憶はありますが(喉が焼けるような飲み方だったと記憶してます。)その日の記憶はそこまでです。但し、次の日の午前中は完璧な二日酔いでしたが、夕方に3年生の先輩に「若山、飲みに行くか」と言われて「行きましょう」と言って連れて行って貰った記憶があります。お酒のお話は一杯ありますので、どれだけでも書けますが、リピーターの皆さんが呆れてこのコラムを読んで頂けなくなるといけないので本日打ち止めと言う事で。

本部施設では一日早くのハロウィンです

令和2年10月30日

当日を迎えた朝はワクワク感で一杯でしたが、施設に行き化粧をして貰っているときはドキドキ感が襲いました。何故かって・・・。だって病み付きになったら困るでしょ。そうでなくても直ぐにその気になるのが私の良いところであり、悪いところだから・・・。

化粧を終えてドレスやかつらもつけて鏡を見ると見目麗しいフランス人形のように映っている私に惚れ惚れ。

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「うん。決して悪くない」と直ぐに感情移入が出来るのが私の特性。スタンバイオッケーになった時に看取りの相談にみえた家族の対応をしなければいけなくなり、一瞬「このまま相談を受けるのか」と思いましたが「入居者さんに喜んで貰う為に理事長自らがここまでされるのか」を知って貰う場になると、居直った考えで挑む事にして、その場に行った時にはしっかり事情をお話してから本題を切り出しました。

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相談を終えて、お菓子やカメラを持って衣装を変えた職員を引き連れ本館1階から順次回る事にしました。先ずは本館1階に行くと驚きなのか感動なのかわからないどよめきが起きて私は「いつもとは違う楽しみを醸し出す事が出来た大成功だ」と即座に思いました。記念写真を一緒に撮りたいと多くの入居者さんが希望して下さったり、握手を求められたりで、足元を気を付けながら歩くのが大変でしたが入居者さんの笑顔と笑い声に支えられ頑張りました。

本館2階にエレベーターで上がって行くと(流石に階段を上る勇気と体力はありませんでした。)一斉に拍手と歓声で迎えられ、こちらが元気を頂けました。このフロアでも一杯写真をとり、握手をしてあちこちと忙しく裾を気にしながら頑張っていると、2階の責任者の西村課長が「カラオケをセットしたので歌って下さい。」と言われてイントロで流れてきたのが山崎ていじの『おまえしか愛せない』には、「わたしも女性の歌手の歌も歌えるのに」と思いましたが、結局は気持ち良く歌えましたし、歌い終わったら2曲目が入っていて、またまた次の曲は砂田おさむの『人生夢の途中駅』2曲ともに気持ち良く歌えました。

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次に新館1階に移動すると入居者さんもハロウィンにちなんだ出で立ちで迎えられ「本館より準備が凄い」と思いながらも目を輝かした入居者さんと握手をしたり写真を撮って楽しみました。

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次に新館2階に上がり、皆さんがおみえになるフロアに入って行くと拍手と共にどよめきが起き、私は舞い上がった状態で入居者さんの色とりどりに感動しながらあちこちで固い握手と和気あいあいの写真をとりまくりました。今回の企画を通して痛切に感じたのは、職員の思いの差違が入居者さんにも伝わり盛り上がり方も様々だと言う事です。

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こんな素敵な時間を共有出来るのなら私自身もっともっと過激に暴走したいと考えていたところで、入居者の一人が「食欲がなくて、えらくて・・・。」との事でこの女性の入居者の方はお酒が大好きだと聞いていたので、近くのコンビニに行ってカニかまを購入し、一升瓶の日本酒を持って部屋に行くと「何も食べれんし、胸の辺がえらくて」との事だったのですが、一升瓶を見せて「本物のお酒でとっても美味しいのを持って来たので飲みや」と私が言ったら「酒か」と言われて本当に目が輝いたのです。そこで、目の前で湯飲みに酒を注ぐと『ぐびっ』と飲まれ、「つまみの蟹も食べたら」と言うと「贅沢やな」と言われて自ら手に取り食べられ「もう少し飲んだら」と言うとまたまた、飲まれました。その後の様子を確認すると「元気にお話をされています。」との報告にひと安心。いつもいつも、これで大丈夫と言うわけにはいかないですが『酒は何よりの薬』になることもあると、改めて理解しました。

リピーターの皆さん。色んな手を使って毎日を元気に過ごして貰えるように頑張りますので声援を宜しくお願いします。

 

 

 

 

 

 

久しぶりに新規事業の現場に行きました

令和2年10月29日

県道を走っていて、遠くからでも、現場事務所が出来ているのがわかり私は思わず「凄い看板が掲げられていて、現場事務所も思いのほか立派だ」と思い、近くに行ってわくわくとしてきました。だって本当に立派で現場作業が行われている所に入って行くとあちらこちらでそれぞれの作業が行われていて、作業をしている方々に声を掛けずらい雰囲気でした。

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私が敷地内に入った事に気が付いた現場管理をされている今年入社した女性の方が近づいてきて色々と説明をしてくれました。(現場監督の責任者の方の話では、彼女が現場に入ると厳つい職人さん達も雰囲気が良くなり助かる事が多いが、彼女自身は女性だからと変な気遣いが嫌だと言うポリシーをお持ちな方だとの事です。そのような話になったのは、私が「彼女に可愛らしい制服を作ってあげたら、制服に憧れてドンドン女性の方が入職を希望されるのではないか」等と彼女にとって心外な発言をしたからなのですが)彼女は女性として扱われるのが嫌だとの事ですが、女性らしい細やかな対応は誇らしく思って頂いても良いのではないかと思います。会社としても『女性も活躍している現場です』との看板も掲示してあるわけだし。確かに彼女が現場で頑張っているのは事実であり、『0から1の違いは大きい』と言える訳です。半沢直樹の番組でも大和田常務が言ってましたよね。「0に何倍かけても0です。」と。

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昨夜は久しぶりに『若山会』をお寿司屋さんで行い強か熱燗を飲んだので論点が定まらないコラムで申し訳ありません。しかしながら、突貫工事の様な事をお願いしているので活気があるのは当然ですが、それぞれ色々な重機を駆使しての作業を手際よくされているのは全く気持ちの良いものですし、管理も行き届いている事にも感謝してます。理事長として新規事業で行はなければいけない事は山積されているので、きちっと順序立てて効率よくしていかなければいけないし、今も本部施設と和合の施設への目配りもしていかなければなりませんが、当面明日は本部施設においては1日早くのハロウィンが実施されるので私も参加させてもらうのですが、「ハロウィンは不気味さが要求される」と思うので白のドレスを着て化粧もしてカツラもかぶり(多分金髪)施設内を練り歩くので『不気味』だと思いますが「理事長さんとっても可愛い」とでも言われたらどないしょ等とわくわくしている私ですが、これは昨夜熱燗をガンガン飲んだ後遺症かな・・・。リピーターの皆さん。本日のコラムはハチャメチャですが、お許し下さい。

 

昨日は『特変者なし』の話をしましたが

令和2年10月28日

本日はメールによる昨夜から朝にかけての施設からの報告について述べる事によって、『特変者なし』に続く『理事長のこだわり』について述べていきます。施設での最低限の『特変者』の報告を、一日の流れの中では(当然ながら急変時は別ですよ。)起床時、昼食前、夕食前、就寝時の4回が幹部職員の携帯に入るシステムになっていて、昨夜の宿直者は北島部長だったので、しっかりとした報告があったので、(北島部長については、このコラムのコーナーで上げたり下げたり、いびったり褒めたりと何度も忙しく出てきますが、本日も上げたり下げたりです・・・。)流れに沿った話をしてみたいと思います。(課題とした方の報告のみですので)昨夜20時35分に『夕食は全量摂取。体温33.6℃。両脇が冷たい状態。意識レベルは異常なし。発語が聞き取りにくい時あり。温罨法2点施行。』この報告に私は「33.6℃の低体温で夕食の全量摂取とは凄いな。取り敢えず食事もとれているので、発語が出にくいとの事だが朝の対応にするか。」と考えて『了解しました。』の返信メールを送信しました。

その後ベットに入ってウトッとした22時19分に(北島部長ありがとう)『21時に34.0℃、22時34.6℃と少しずつ体温が上がってきたので、今後は体温測定をする時間の間隔をあけて対応します。』との連絡に私は『了解しました。』と送信すると共に「安心したので改めてゆっくり寝ようか」と改めて寝ました。朝は5時に目を覚ましていて今後の日程調整などをしていると6時15分と通常の7時前後より早かったので少し緊張気味にメールを開くと職員の欠勤報告だったので、直ぐに施設に指示を出してクリア。

その後通常のメールが7時2分に送信され、一番最初に昨夜低体温の記述があったのは「流石北島部長」(北島・誉めとるんやぞ。)その報告によると『35.3℃。会話されるも呂律が回っていない感じがみられる。3時に35.6℃でオン罨法を外して対応。』とあったのでメールではなく直接施設に電話をして「呂律が回らないのに何もしなくてもいいのか」と話をすると北島部長から「先程確認に行きましたが、(北島部長の行動は流石に早いねと北島部長の事を褒めているのです。)確かに少し気になります。」との事だったので「いつから気になるのかを責任者に確認しなさい。」と言うと北島部長が「はい、確認します。」と言ったので、私は思わず「気になる事は直ぐに確認をしてアクションを起こさなければいけないのでは。」と返しました。7時15分に北島部長から「一昨日からとの事です。」とのメールが来たので再び電話にて「気になるのであればアクションを起こせ。」と連絡すると8時11分に吉田部長からメールで『本日診療所の透析の為の迎えの方に昨日からの様子を申し送り、透析用ノートに記入し、診療所での診察を依頼しました。

声掛けに対し、意識レベルの低下などは見られておらず、透析車の助手席には軽介助にて乗られています。』との報告を貰い、診療所から帰られてからの報告では、「甲状腺機能低下症機能障害と軽い肺炎との診断が出て、3日間の抗生物質を出して貰って帰られました。」の報告を得て、ほっとすると共に『いつもと違う何かに気が付いた段階でアクションを起こし文字通り『起承転結』の実践が徹底するようにしていきたいと思いました。リピーターの皆さん、『今日一日楽しかったよ』の為に日々職員一同頑張りますので、今後ともよろしくお願いいたします。

『特変なし』のお話

昨日19時から本部施設で全体会があり、その中でデイサービス責任者の北島部長から『記録の書き方』の研修を受講した報告の中で「『特変なし』と言う記録はあり得ない」と言う話が出た時に当法人顧問の烏野先生(びわこ学院大学教授)が「昨日と変わらない日があって『特変なし』があっても良いのではないか。」との指摘があり、かつての北島部長だったら「そうですかね」で話は終わっていたと思うのですが、今の北島部長は『自分の考え方』に自信を持っているのでそのままでは終わりませんでした。最も副施設長から「必ず違いはある」との発言があり、その後を受けて理事長である私から「『何もない』と言う事はあり得ない。違いを見つけて記録に残していく事により、点と点を結んで線にして、線と線を重ねて面になり、面と面を重ねる事によって立体になり、そこから物語が生まれる。」と話をしました。つまり、「お互いに何気ない出来事にも気を配り記録に残していく事は尊い事だ。」とも話をしました。私の話を受けて烏野先生が自分の考え方を訂正したコメントでこの話をまとめて下さいました。その後私は烏野先生に「場をよんだアドバイスをしていかなければいけない。しかしながら、上手く切り返したまとめをしてくださったけど、多分私が烏野先生にお会いした30年近く前だったら、先程のような切り返しの話はなかっただろうな」と、大学教授をいさめるような結果になりました。烏野先生もしっかり大人になられたなと変なところで感心してしまいました。しかしながらよ~く考えると私も同じように歳をとったわけだし、言うことなし。但し、北島部長が中部学院大学を卒業してきたばかりの自信がない所作がなくなり、自信に満ちた発言が出来る事を嬉しく思うと共に本部施設で14年の積み重ねについても頼もしく思いました。実は北島部長は同じ大学で内定をしていた男子学生が内定辞退を受けて辞退した男子学生が当法人に紹介してくれてやってきた職員なんです。しかし、今では屋台骨を支えれるまでになってくれてます。辞退をした男子学生の事はわかりませんが、結果的に北島部長がいてくれている事に満足してます。単に勤務年数が長いから良いわけではありませんが、長く勤務している中から少なからず確実に学んでいてくれていると考えています。杉和会も150人集団に23年の歴史の中でなり、ウサギさんタイプもカメさんタイプもいますが、それも『個性』と受け止め、時には湯気をあげて怒ったり、しんみりと話したりしながらもみんなが頑張っていてくれるから私も生き生きと元気でおれるのだと思います。リピーターの皆さん私は常に目標に向かって頑張れている幸福者だと思っています。こんな私をこれからも宜しくお願いします。

早速昨日の課題とした長期休暇について述べます

『働き方改革』あるいは『コロナ禍での3密対策』の名の元に休日を増やしていく計画がまかり通る事に介護事業をさせて頂いている立場から少しモノを申しあげたいと思います。

確かに働く側にとって休日が多いのは一見歓迎されるように思います。しかしながらそれには大きな課題が有ることを語られていません。それは仕事量が減らなければ何の解決にもならないし、休んだ分のフォローを誰が担うのかと言う事が何ら語られていなくて、単に言われているのは『業務の省力化に努力を』と言われるだけにとれるのですが、リピーターの皆さんはどのように思われますか。

介護事業で語る前に『学校教育』で語ってみます。学校教育では、文科省が示しているだけの学習をこなさなければなりません。しかしながら、例えばコロナ禍で学校を休校にした分の取り戻しに未だ四苦八苦している現状があります。かつて、文科省が『ゆとり教育』なるものを推奨したことによって、カリキュラムからごそんと抜けてしまった事によって混乱した事がありました。また、長期休暇は学校も例外ではないので、その間は家庭での生活を余儀なくされるのですが、長期休暇の間も仕事を休めない業種も多々あると考えられます。

勿論、介護については最たるものと言えます。長期休暇を謳歌出来る業態が多く存在するとは考えにくいようにも思います。最たるものの介護について詳しく述べていきたいと思います。『介護はきつい』と言われる所以は、心身共に休む事が出来ないからです。勿論家庭において多くの方が携わる事が出来る家庭環境があれば大丈夫ですが、なかなかそんな家庭環境にはならないので『介護はきつい』と言われるのだとおもいます。介護職員の勤務は週に40時間と決められています。つまり、1日24時間✖7日=168時間中で40時間の勤務ですから、フリーの時間は多くあるわけです。だから気分転換を図ったり体を休める事が出来、入居者さんに支えられながら頑張っていてくれています。

但し、本日の課題である長期休暇を取ると言う事で言えば課題は山積してます。介護保険法で言えば入居者3人に対して介護職及び看護職が1人の配置を満たせば法的なルールはクリアします。しかしながら、24時間体制の中で夜勤職員は毎日5人を配置して、早番、日勤、遅番を配置していかなければ良いケア等あり得ない状況下では、3対1の配置ではなくて、最低でも2対1の配置を満たさなければ難しい状況の中で『休みの日を増やす』事等考えられない。「だったら、職員を増やしたら良いじゃん」と思われる方もみえると思いますが、2つの大きな課題をクリアしなければ実現出来ないのです。課題の1つ目には「介護人材の確保が難しい」であり、2つ目の課題は、「職員をこれ以上採用したら経営が成り立たない」と言う事です。一般企業のように祝祭日が確実にある訳でない中でも遣り甲斐を見つけ頑張っている職員がいるから本部の職員の平均勤続年数は10年になったのです。

リピーターの皆さん、当施設の職員に拍手と励ましの声を届けて下さい。

コロナ禍での葛藤

どこかの新聞で『コロナ禍での職員のストレスが入居者への虐待につながっているのではないか』と言う記事が掲載され(私は確認出来てないのですが)職員に対する配慮が必要で、対策が必要であれば全国老施協に窓口があり、援助体制もとっているし、研修等に対しても必要に応じてしていくようにとの事。確かにこのコロナ禍での対応では、『家族等との面会』や『施設内行事』を自粛しなければいけない状況に苦慮しているのが現実です。その点に対しては職員だけではなく入居者さんや利用者さん及びその関係者も同様です。

本部施設では本日、月に一回実施される家族会主催の誕生会は、コロナ禍以前は誕生日の方を一堂に集めて家族の方にも参加して頂き多くの方が集まった中で実施していましたが、コロナ禍の今は、誕生会の方がみえるフロアを家族会の会長さんと共に回って家族会の会長さんから誕生日プレゼントを渡して頂き、誕生日の歌を一人ひとりに対して手拍子をして歌っています。縮小した事で逆に良かった事もあります。それは、今までのやり方では、誕生日の方と施設側は担当職員の参加のみだったのが、フロアの職員は勿論の事、フロアの入居者も声をかけて頂いたり歌ったりしてもらえるようになりました。つまり、それぞれのフロアの方々と共にお祝いをすると言う展開は災い転じて福となす手法であり、本日誕生日を迎えられた3人の方々も喜んでみえました。特に本日の誕生者の中で最高齢だった大正12年生まれ97歳の男性の方は嬉しさのあまりお礼の言葉を延々と嬉しそうに語られた計画にないプログラムを見事にやり遂げて頂けました。

ところで、大正12年生まれの方が97歳とは大正も遠くなったものだし、明治の方は登場がないはずだ。(ちなみに私の父進は明治最後の年に生まれたので生誕109歳になるのか)本題に戻ってコロナ禍で例年楽しみにされている大垣の老舗鮨屋の『寿司吉』さんによる板さんの出張によるパフォーマンスも出来てない状況であったり、12月に実施しているクリスマス会についても、どのようにすべきかを考えなけれはいけません。出来るだけ密にならなくて、外部からのコロナ侵入を防ぎ、それでいて、『今日一日を楽しかったよ』を実現するにはどうしたら良いのか、悩ましい限りです。勿論、介護をしている職員から笑顔が消えたら入居者さんはたまらない状況になるので、職員のモチベーションを下げないための配慮もしていかなければなりません。

話題が少しずれますが、昨日の新聞では『元旦からの休日を11日までに』との大きな見出しがありましたが、年中無休で24時間体制の特養では、この考え方についてどのように考えるのかとの課題については必ず後日述べる事にしますが、とにかくいつ終息するのかわからないものの対応に対して、『笑顔の充実の為に』と言う課題に対して一丸となって頑張りますのでリピーターの皆さんもご理解とご支援を宜しくお願いします。

3度の確認の意味を理解しました

令和2年10月24日

久方ぶりに午前3時2分に来たメールでの対応をしました。それは、看取り対応でここ3日は水分が飲み込む事が出来ない状況の方だったので、(点滴施行はしてました)緊張しながら寝ていたので直ぐに目覚めてメールを見ると多賀先生(嘱託医師)と家族には連絡がついて、多賀先生が5時には死亡確認に来て頂けて(とっても有り難い事です。)家族もそれに合わせて来て下さるとの事の内容だったので、「4時30分に行動開始しよう」と携帯のアラームをセットしてうとうと。4時30分のアラームが鳴って改めて行動開始。

施設に行き息子さん夫婦にご挨拶と共に亡くなった後の対応について相談に乗っていると多賀先生がおみえになり、改めて死亡確認と家族への説明をして頂き、亡くなられた方をお風呂に入って頂き家までお送りする時間を9時30分とさせて頂き一旦家族の方には家での受け入れの為に帰って頂き、私自身は事務所に戻り報告書を見ていた時に気が付いた事を書きます。(前段が長くてすみません。)報告書の内容はショートステイ終了時に衣服が忘れてあった事に対するものでした。私はその一つの現象(衣服の忘れ物)の中に少なくとも三回は未然に防ぐチャンスがあったにも関わらずチャンスを生かせれなかった事がいかにも残念でこのコラムによって職員に周知することにします。

1つ目は家族から頂いている持ち物一覧をしっかり確認しないでチェックをした為にお迎えに行った時に着てみえたのを見落としたのと、服に名前が書いてなかったのを見落とした事は、「何故そのようにするのか」が理解されていないのか『なれ』による油断だとしか考えられない。

2つ目は、せっかくショート期間中に『名前のない服』として本館2階で見つかったにも関わらず、本館1階の1職員が「見たことない」と言う事で1階の職員は洗濯室管理にしてしまい、誰の持ち物かの確認が棚上げになったのは、投げ掛けられた職員が安易な対応になった点が残念でならない。『たかがジャンパー一枚。されど・・・。』(何事も安易にとらえないで原因究明は忙しい中でもしっかりやっていかないと大きなトラブルに繋がる可能性がある。)

3つ目は1階の職員がショートステイ終了後に忘れ物の可能性があるものに気が付いて、家まで届けに行ったが家族が不在で、その後電話連絡したが家族の方が「明日のデイサービス利用時で良い」と言われて翌日に確認したのには私的には不満が残る。何故ならば、その方のジャンパーと言う確証は家族でないとわからないのだから、一晩放置しておくのは如何なものか。

職員のミスは職員が解決すべき(この場合私も含めて)で、「忙しい」は理由にならない。色々なアクシデントもちょっとした安易な対応から起きている事が多い。今回はジャンパーでしたが、『戒め』と捉え改めて、基本に忠実、疑問に思うことはその場で解決を徹底していく事を周知していきます。リピーターの皆さん『一歩後退二歩前進』でこれからも杉和会の職員は一丸になって頑張っていきますのでこれからも宜しくお願いします。

介護職員の不足解決はなかなか難しいですが・・・。

令和2年10月23日

平成18年度以降、介護福祉士養成校の学生は右肩下がりで、その傾向に歯止めはかかっていない。世界的なコロナ禍で世界中が不景気に見舞われて日本もその例外ではない。全国老人福祉施設協議会も当然のように国への働きかけだけでなく色々な手立てを講じています。私が会長をさせて頂いている岐阜県老人福祉協議会に於いても様々な手立てを講じています。勿論各事業所に於いても色々な手立てを講じられています。

そんな中で本日は、午後から、岐阜県商工労働部労働雇用課と健康福祉部高齢福祉課からのコロナ禍で雇用の維持が困難な業種・企業がある一方で、慢性的に人材不足等の団体とのマッチング支援を岐阜県老施協として参画出来ないかとの説明を聞きにいきました。人材確保は大きな課題であり、今迄にも外国人材の導入であったり、高齢者雇用や障がい者雇用等にも力を入れてきましたが、今回のコロナ禍での人材確保を『補完的な人材確保』ではなく、『恒久的な人材』になる為には、より一層の『職員育成』に力を入れていかなければいけないと考えています。その為に、岐阜県老人福祉協議会としては、単にマッチング支援事業に参画するだけではなくて、今迄以上に研修にも力を入れていかなければと考えています。

また、昨日、全国老人福祉施設協議会から『潜在介護福祉士の復職支援プログラム参加のアンケート』がメールで送られてきましたし、高齢福祉課での打ち合わせ後には地域福祉課に寄って欲しいと言うので、地域福祉課に出向くと、これまた、福祉人材確保に対する相談で、ここでは、「来年度以降の人材確保に向けた話を聞かせて貰い参考にしたい。」とのことだったので、私なりに熱く語らせて頂くと共に岐阜県の色々な部署との情報共有が出来る仕組みを構築出来たらと言うお願いもさせて頂きました。

私の立場は社会福祉法人『杉和会』の理事長であり、岐阜県老人福祉協議会会長としての立場もありますが、介護人材を確保するには、『介護』に対する『負』のイメージを変えていく為に何をしなければいけないのかを真剣に考えて行く中で『社会福祉法人の使命』についても改めて考え、広報活動に力を入れて「福祉・介護の仕事はやりがいのある社会的使命が高いもの」と言う事を声高らかに言っていかなければと、午後からの出来事から改めて思った次第です。勿論その為には介護職の専門性を高めていく努力も不可欠だとも考えています。

私は常日頃「介護の仕事は誰での出来るが、誰もが出来る仕事ではない。介護を志す者にとって大切なのは優しさと一生懸命さだと。そして一生懸命さの中から色々な資格を取得する為に努力したくなるのが必然。経営者は一生懸命に努力する職員のバックアップをする。その関係を築くことこそ大切だ」と思っています。福祉・介護の仕事を人が羨む仕事となる様に微力ながら私も汗をかいていく所存ですので、リピーターの皆さん、ご理解とご協力、ご支援を宜しくお願い致します。

関ヶ原町は文字通りの過疎の町だけど

『限界集落』と言う言葉を耳にするようになってかなりの年月が経ちますが、昨日のコラムで書いたように、関ヶ原町は日本全国に名前は轟いていますが、実際には昨日の報道でもあったようにスーパーマーケットすらない町なのです。今はこのコロナ禍で東京への出張はないのですが、以前には「岐阜県はどちらからですか。」と聞かれて「関ヶ原です。」と答えると大抵の方から「関ヶ原市ですか」と言われて「本当は7千弱の人口なので市ではないんだけど。」と恥ずかしさを覚えてしまいます。この現象は『関ヶ原合戦があった町』と言う歴史的有効性を関ヶ原町の先達が蔑ろにしてきた証し。歴史上の結果に対して『もしも、この様な展開をしていたら』と今の現象を嘆いてみても過去に戻れる訳でなし、67年も住み続けている私自身も批判する資格はないと思っています。私自身大学時代にサークル活動の一つに『郷土研究の会』(柳田民俗学)に所属している時に大学の理工学部との合同研究としてその当時の文化庁から予算をつけて貰い(サークルの顧問の先生が文化庁の偉い方だった関係で)旧中仙道の宿場町の一つであった『妻籠宿』を一大観光地にするための調査研究をして、その当時(47年位前)民宿は一人の女性(かなりご高齢だと思いましたが)が細々としている所が一軒しかなかったのに今ではそこそこの観光地にする為の手助けをした記憶があるのですが、生まれ育った関ヶ原町、特に『今須』について何もしてこなかった事について悔いても仕方がないのですが悔いてます。だって、かなり前に読んだ本に(どんな本だったかはわかりません)よると、旧中仙道の岐阜エリアに宿場町が13宿あって、江戸時代の人口では加納宿(城下町のふもと)に次いで多かったのは今須宿だったと書いてありました。と言う事は私が住んでいる『今須町筋』と言われる所は本陣があり脇本陣もあり宿屋も多くあり、籠屋も多くあった豊かな土地柄だったと思います。日本で線路が引かれたのは『新橋~横浜』『京都~神戸』で3番目が『関ヶ原~長浜』だったと父進が監修責任者をした『不破の歩み』に書いてあり、計画の段階では『関ヶ原』の次の駅は『今須』の計画が持ち上がった時にその当時の有力者が「駅等出来たら若い者が出て行ってしまうから駄目だ。」と言って反対して出来なかったと聞いてます。その当時反対した有力者の方が今の現状を知ったら切腹もんだと思います。何が言いたいかと言うと何事も先を見た展開をしていかないとどんな立派な町も衰退してしまう。今の日本も衰退する為に汗をかいたように思います。それは、『少子化政策を推進』し『バブル経済を煽った』歴史があるからです。リピーターの皆さん、気が付いた事を意見して将来がより良くなるように頑張りませんか。(こんなデカイ課題を書いて大丈夫か・・・。)

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