2020年07月の記事一覧

法人設立記念PART⑤

竣工式は私にとって舞い上がるような出来事でした。その日は竣工式を祝うかのように快晴の青空。但し、前日に今須小中学校体育館に椅子を200脚お借りしに行った時、その当時私がPTA会長をさせて頂いていた関係もあり当時の教頭先生が私と一緒に体育館まで来て下さった時に、5月1日から杉和会の職員に採用した殆ど学校を卒業したばかりの職員は(その当時はいくらでも新卒者が採用出来る時代でした。)床に寝転がり教頭先生に対して挨拶も出来ない状況に一抹の不安を持ちつつも、とにかく椅子を運ばせる為に作業に没頭した事を今でもしっかり覚えています。但し、竣工式の準備を終えてからは、それぞれの職員の役割を徹底する為に全員を集めリハーサルをして行く中で挨拶についても『お客様をお迎えすると言うことは』を噛んで含んで教えました。(どれだけ理解したかはわかりませんが)例えばそれぞれの場所での説明役の職員にはそれぞれのエリアの面積や使い方等を徹底してレクチャーしました。(色々な施設の内覧会等に行ってもただ挨拶するだけと言う職員がいたりするのですが、私はそれではいけないと考えています。)竣工式はおおぜいの来賓やお客様で玄関先の地域交流ホールはうめつくされ先代の理事長のサポートと現場の指揮でキリキリ舞いでしたし、準備するので一杯いっぱいで私の常務理事として大切な役割であった『経過報告』の下書きも何も出来ていない中でしたが、実際に関わった事をしっかり話が出来て話終わった時に安堵したのを記憶してます。だからでしょうか。今も挨拶をしなければいけない場面が多々あるのですが、事前に挨拶文を考えて挑んだ記憶がないのです。小さい頃の私には考えられない現象ですが。舞い上がったままではありますが無事に竣工式は終了しました。そして次の日から2日間は内覧会で18日からはいよいよ特養の事業開始で21日からはデイサービスの事業開始だったのですが、私はハード面の勉強はそれなりに一生懸命にしたのですがソフト面については言葉を選ばず言うのであれば『ぶっつけ本番』。走りながらの事業開始となったわけです。だから、すんなりと運営出来たわけではない事実をこれから語っていきたいと思います。(えっ。ここまで前段だったのか・・・。)本当であれば、これから本論に入らなければいけないのですが、朝出勤前に書いた前段だけのコラムで本日はお許し下さい。と言うのも、明日県庁へ9時30分のお約束で新規事業の差し替えと共に事務方が代わった事のご挨拶に行かなければいけないのですが、差し替えがかなりの量になり、その打ち合わせと整合性をとる為に時間がかかり、理事長としての印を押し印刷は職員に任せて帰って来たのが先程で(今は午後8時27分)今日程『予定は未定で決定ではない。』と思った事は久方ぶりです。そして、予習の大切さ時間を無駄にしない事の大切さを理解しました。リピーターの皆さん頑張っているヒロシ君に大いなる拍手と声援をお願いします。

法人設立記念PART④

令和2年7月20日

昨日のコラムでお伝えしたように8月8日に難産の末に何とかゼネコンは大日本土木に決まり、早速打ち合わせと同時に施設の道を隔てた向かいの空地を借りて建設事務所があっと言う間に建ち、今の家族会の会長さんの倉庫内の事務所から引っ越しました。但し日程的にはお盆休みが終了してから本格的に作業が始まりました。私は初めての経験なので毎日毎日現場を見るのですが、作業開始当初は土を掘り起こすばかりで「これで大丈夫なのか」と心配になりました。杭打ちが始まっても長い杭が簡単に土の中に吸い込まれるように入っていくのは驚きでした。また、土を掘り起こしている時に大きな木が出てきた時には驚きと戸惑いがありました。その時は地元説明会でバシッと発言して下さった長老の方が「伊勢湾台風の時に流されてきたものだと思う。この辺も谷が多いので『一時水』には気をつけないといかん」と毎日現場を見に来て頂いていたので教えて頂きました。(現在は南側斜面と施設奥に谷水が集中する所に50メートルもの立派な砂防ダムを岐阜県事業で作って頂いてます)その後も一生懸命に作業をして貰っていたのですが、忘れもしません。あれはその年の12月1日に一気に雪が40㎝程ドーンと降ったのです。そしてその時には屋根も出来てない状態でした。その時の大日本土木の監督が濱川さんで助監督が細川さん。濱川さんは冷静沈着な方で細川さんは血気盛んと言う感じの方でお互いに役割をよく理解されていたと今でも思います。その時の対応はその日のうちに強力な温風ヒーターをたくさんレンタルされ、フル稼働で熱風を吹き出し6時間毎に給油をしなければいけないので下請けの責任者の方が順番に寝ずの番で給油をされていて、助監督が重機を使って必死に雪を建物外に出される作業をされていたのを今でも鮮明に覚えています。そして、3日で雪を克服し、次に監督さんがされたのは職人の数を倍増された事です。このような対応はしっかりした会社の証しだとその時痛切に感じました。但し、不思議な事にその年は12月1日にドサッと降ってからはちらつく程度で作業を遅らせる事がなかったので、私は今でもこの工事が速やかに行く為に『神風』ならぬ『神雪』だったのではないかと思っています。23年も前の事だから今では笑って言える事なのですが、その当時の岐阜県の終了検査が平成10年3月30日に実施されました。但し、その時は正直、まだ天井部分が出来ておらず、配管等が見えている状態だったのですが、担当者の方が「いつ事業開始の予定ですか」と聞かれたので私は即座に「5月15日に竣工式をさせて頂き、16日と17日の2日間を内覧会にして18日から事業開始をします。」と涼しい顔で答えていましたが、この事は大日本土木の監督さんにも伝えていない話だったのです。だって私自身検査日の朝、カレンダーで日がらを見て決めた事なんですから。監督の濱川さんからは「5月15日にされたのはどういう根拠ですか」と真剣に聞かれたのに対して私は「5月16日が私の誕生日なのでその前夜祭として、竣工式をやりたいの」とけろっとした顔で答えたのを今でもはっきりと覚えています。それからの1ヶ月半は文字通りバタバタで、竣工式前夜は備品関係の搬入に荷物を円滑に搬入したい業者さん同士で陣地取りをされていさかいが起きた時には仲裁に入る事も度々でした。結局竣工式には玄関前の舗装が間に合わなくて砂利を敷いて急場を凌いだのも今では笑えるような出来事となっています。リピーターの皆さんこんな調子で本館が出来たのですが、何をやってもはらはらドキドキの展開ですが『事実は小説よりも奇なり』です。本日は色々あって今(午後10時21分)ですが、頑張っているヒロシ君に拍手・・・

法人設立記念日PART③

令和2年7月19日

平成9年7月17日に認可を頂いてからは目が回るような、しかも初めて作る書類の作成に自分の能力のなさを嘆いていても仕方が無いので、「分からない事は聞くべし」で色々な方や機関に指導を仰ぎながらクリアしていきました。認可を頂き一番最初にしなければいけないのが入札執行なのですが、単年度事業での入札行為なので、11社指名による方法だったので、「果たして11社もエントリーして下さるのか」心配でした。指名した業者からは全社の参加意思を頂き取り敢えず「ほっ」としたのを昨日の事のように思い出しています。

そして、いよいよ8月8日に入札が行われたのですが、その時は初代理事長(私の義父伊藤憲治)と相談の上決めた入札金額で果たして落札してくれる業者が出てくるかドキドキでした。いよいよ入札が始まりました。そして1回目の入札では最低額を入れた大日本土木との差が1億も開いていて私は「入札してくれる会社が無ければ単年度事業での計画が難しくなるし困った。」と思わず「2回目は必ず入札出来る数字を出して下さい。」と天にも祈る思いでした。

そして2回目の入札での大日本土木が一番低い数字だったのですが、それでも5千万円の開きがありました。そこで、入札に立ち会って頂いた理事・監事の方々と協議をして、再び仕切り直しをしての入札は時間的に不可能だとの認識の中、1回目2回目共に一番低い数字を提示して下さった大日本土木と話し合いにより決める事にして、参加して頂いた業者にご了解をして頂き大日本土木と法人で話し合いをする事になり、大日本土木側から「本社との協議をしてからにして欲しい。」との事で一旦休憩に入りました。

おおよそ1時間後に再開となりました。その時の大日本土木と杉和会との数字の開きは大きかったので大日本土木側がどのような答えを持って挑まれるのかと正直ドキドキしていたのですが、大日本土木側の責任者の営業部長さんから「杉和会さんのお気持ちを聞かせて下さい。」と言われて私はその当時の理事長に代わって常務理事の立場で「5千万円の開きは大きいですが、お互いに譲歩した形で⒉千5百万円ずつ歩みよるのは如何でしょうか。」と内心ドキドキしながら答えると、営業部長さんは苦い顔をしながら、「もう一度本社と相談しますのでお時間下さい。」と言われ、もう一度休憩が入りました。実際には10分程度の時間だったのですが滅茶苦茶長く感じられました。

しかしながら10分後の営業部長さんの晴れやかな顔を見て「了解して貰えたんだ」と確信しながらも正直ドキドキしていました。そして営業部長さんから「若山常務理事さんが提案して頂いた数字で会社側の了解が得られました。但し、若干の計画変更はお願いしますがお請けした以上精一杯頑張りますので宜しくお願いします。」で難産上での入札執行でしたが8億7千5百万円で無事に入札が出来、本格的に本館の建設工事が行われて行く事になりました。リピーターの皆さん、いつもいつもこのように試練ばかりの23年でしたので、まだまだこの流れでのコラムが続きますが宜しくお付き合い下さい。

法人設立記念日に続くPART②

方向が決まらず悶々とした生活が続く中、「児童にかける熱い思いをまもなく厳しい状況が到来する高齢者問題で拠点造りをしてみたらどうか」と助言して下さる方が多くあり、「高齢者福祉にシフトを変えてやっていけるのか」との葛藤をかなり長くした上での結論は「出来るかどうかで悩む前にやりながらのたうち回ってみよう。」との結論に達して高齢者施設建設に向け没頭する事にしました。と言いながらも何から手をつけて良いのかもわからない状態の中『福祉の根本は地元に如何に幸せをもたらすものにするかを基本ベースにしたい。』と言う事で「生まれ育った関ヶ原の地で施設計画をする」と考えて『先ずは地元のニーズを知る』との考えから関ヶ原町内の高齢者実態調査をする事にして、当時の関ヶ原町民生委員・児童委員協議会会長にアンケート調査の協力をお願いに行きました。その当時の私は地元に何の貢献もしていたわけでは無いので、全く突然のお願いに多分その当時の会長さんは随分戸惑われた事と思いますが、今から考えても随分寛大な方だったと思います。(余談ですがその時のご縁を大切にしていたので、その当時の会長さんのお孫さんにアルバイトで仕事をして頂いた事もあります。)関ヶ原町内の民生委員さん全員の協力を得てアンケート調査が実施出来ました。実施した事により私は沢山のものを手に入れる事が出来ました。1つには多くの民生委員さんとのネットワークが出来た事。2つには関ヶ原町の高齢者の実態がわかり、高齢者施設を造る意義が鮮明になった事。3つにはアンケート調査に対してその当時大学生向けの教科書の執筆に関わっていたご縁を頂いていた出版会社『みらい』の酒向社長の協力が得られ随分色んな事を教えて頂いたし、アンケート集計と分析にもご尽力頂きました。また、本館竣工式に際してはパンフレットを無償で作成して頂きました。施設建設をするには先ずは広大な土地を確保することが大切との思いで拙いネットワークでうごめいてみても、簡単には事が動かない。そんな中での結論は「全く地の利が無い関ヶ原中心部(私たち今須人は『まち』と呼んでいました。)では全く歯がたたないので、多少なりとも地の利がある今須であれば可能性があるのではないか。尚且つ私の中心は今須なんだから今須に焦点化しよう。」との結論で候補地を探し、本部施設がある今の地になったのですが、今の本部施設に決まるまでにも紆余曲折がありました。先ずは最初の候補地に選んだところについては親戚の方で地元の有力者の方に全てお願いする形で進めていき、その方から「根回しが出来たので地元説明会を開け」と言われて実施する運びになったのですが、何人かの地主の中の一人が建設に反対されてその地での計画は諦めました。その時の経験から『何事も自分が足を運び誠意を持って話をしなければいけない。』と言う事を学びました。その学びの中から今の本部の地でやらないかと地主の一人が私の自宅まで来て下さいました。田圃として持ってみえる方が話を持ってきた方を含めて3人で(草が伸び放題で一部は杉の木が植えられていました。)畑の持ち主が4人でした。前回と同じ失敗を繰り返さない為に地主さん7人の家を殆ど毎日のように訪問してお話をさせて頂きました。7人7様で、ある人の家では、四国八十八ヶ所の話を、ある人の家では枝打ちの話を織り混ぜながらも基本的には高齢者施設の必要性について語り、地主さん全員の内諾がとれたタイミングで地区の説明会を開かせて頂きました。説明会で概略について話をしていると、地元の方からその当時下水がなく合併浄化槽の仕組みについて業者の方に説明して貰ってもなかなか理解して貰えず何回かの説明会を重ねても結論に至らなかったので、最終的には合併浄化槽から出た水を飲むパフォーマンスをした事も今では懐かしい思い出です。どうしてここまで水にこだわるのかと言うのは実際に本部施設が出来て理解しました。それは、施設がある山を上ると分水嶺があり極端な言い方をするなら最終的に大阪湾と伊勢湾に行く水になる綺麗な水の源泉だからこだわられるのだと理解しました。最終的に地元のコンセンサスを頂けたのはその当時の長老的存在だった方から「後ろ向きな話ばかりしていると、若い者はみんな今須から出て行ってしまう。施設が出来れば働く場所も出来、色々な方の出入りがありよいではないか。出入りがあれば嫁さんに来てくれる人も出てくるかもしれんぞ」との話を頂いてから雰囲気がガラッと変わり具体的に施設建設に向け進み、めでたく平成9年7月17日に社会福祉法人杉和会が法人認可を頂いたのです。リピーターの皆さん。ようやく話は認可されたところまできました。しばらくはこの杉和会の足跡を語る事にしますがお付き合い下さい。もちろん、日によってはトピック的なものも差し込みますので宜しくお願いします。

法人設立記念日に思う事

一言で『杉和会23周年記念日』と簡単に片付けられるようなものではないので、記念すべき日の今日から何回かシリーズで熱く語ります。

先ずは「今があるのは苦難をものともせずはね除けながらの23年」と思っています。他の方からみると『順風満帆』の歴史のように思われる方も、或いは、『幸運に恵まれた』等と思われる方もあるかも知れませんが、決してそのようなものではないし、事業を起こされ歴史を重ねられる方は誰もが大変な思いをされているのは当然な事だと思います。

大体、設立に至る経過からして波乱に満ちたものだったので、本日はPART①として、設立に至る経過について語ります。

私が児童養護施設の指導員をした13年で『カリスマ的指導員』であった事は何度も語り35歳の時に資生堂海外研修団としてアメリカに行かさせて頂いた事も既に何度か語りました。それは、私の人生を大きく変えた出来事であったと言っても過言ではない出来事でした。どう言う事かと言えば、海外研修を終えて考えた事は『私でなければ出来ない事がしたい。先ずは個別指導が私の生きる道』と考えて、児童施設を辞し「何かをしなければ」と形が固まる前に無謀とも言える決断をして、所属していた児童施設に迷惑がかからないように、3年かけて児童施設を辞めさせて頂きました。38歳で子ども2人と奥さんの3人を養わねばいけないにも関わらずに・・・。

38歳でいわゆるフリーランスのような立場になった瞬間に理解したのはサラリーマンとは違い自分で頑張って努力し稼がなければいけない現実でした。私はそんな当たり前の事すら理解していなかったのです。当初は大垣女子短大の非常勤講師を週に4コマと『教育福祉カウンセラー』と言う肩書きであちこちの施設にスーパーバイザーとしてスポットで行ったり、講演活動をしながら、不登校児やいわゆる問題行動のある子の対応やパニックになっている親の相談に乘ったりしました。

その中から得た答えは全く生活が出来る程の収入が得られないと言う事でした。今から考えれば当然の結果なのですが・・・。これは、動きながらの展開しかしてこなかった結果です。(5年先、10年先を見通しての展開をするようになったのは、平成18年8月から全国老施協の役員になり中村会長の教えを受けてからだと思います。)

1年間の展開から学んだ事は『拠点がなければ色々な展開は出来ない。』と言う事で、2年目からは『情緒障害児短期治療施設』の建設の為にうごめきました。親戚の方で、松尾山の麓に広大な土地を持っている方が無償で土地の提供をして頂く約束を取り付け情緒障害児短期施設に行って(主に愛知県の施設)色々な事を学ぶと共に計画を練りパーツまで作って貰い、その当時厚労省児童家庭局育成課の専門官に岐阜出身の方がみえ、かなり応援して頂いたので、これで行けたのであれば文字通り順風満帆といえるのですが、その当時の岐阜県児童家庭科に行くと「若山さんの熱意はわかるがここ10年は高齢者の予算しかない。児童の施設は予算がない。」で思いっきり挫折しました。

リピーターの皆さん。私は挫折する度に成長してきた内容を明日以降も書きますので飽きずに見て下さい。

※夕食も食べれない一日で岐阜県のコロナ対策会議がふれあい会館で終了したのは20時20分で、今(21時49分)はお風呂でコラムが 終了するのですが、お腹ペコペコですがこのまま寝ます。痩せてまうけど忍忍です。

早朝4時前に目覚め布団の中ではありますが戦略を考えてます

令和2年7月16日

私にとっての福祉の師は、四半世紀前の頃に中部圏の福祉の中心者だった吉田宏岳先生(当時は日本福祉大学中央福祉専門学校校長)だったのですが、四国八十八ヶ所巡礼に先生をお連れしてから、定職を持たない私は(最も多い時には非常勤講師を週に13コマ、家庭教師を3ヶ所して、尚且つ『教育福祉カウンセラー』と言う肩書きを勝手に名乗ってうごめいていましたが)度々吉田宏岳先生の家に泊まらせて貰い布団を並べて寝ていた時に(もちろん、したたかお酒と美味しいものを頂いて)、「吉田先生は真言宗豊山派のご住職でもありますが、朝のお勤めはされないのですか」とお聞きすると「お経は布団の中で声をあげずにあげているよ。」とさらっと言われたのを感心しながら聞いた事を思いだしつつ、それを真似ているわけではありませんが、布団の中で今後の戦略を考えています。メチャクチャ長い前段で申し訳ありませんが・・・。

そう言えば、私が講演で話をさせて頂いたり大学や専門学校でもそうだったと自嘲気味に思っていますが、そんな時に私はよく「井上ひさしの展開もそうなので大丈夫だと思っています。」等と居直っていた覚えがあります。今(午前537分)さてさて本日の展開はどのようなものになるのかリピーターの皆さんコラムの打ち方はしばらく中断します。)続きは今(午後808分)からお風呂の湯船の中で書きます。

本日は11時15分から岩田先生に同席して貰い大垣共立銀行関ヶ原支店での打ち合わせがあり、昼食後は14時から和合の施設での全体会の二部構成に出席し先ずは、7月17日が法人設立23周年で在職5年と10年の職員に感謝状と金一封を一人ひとりに手渡しながら声をかけました。私は手渡した後でつくづく感じたのは立ち上げて7年目の施設なのに多くの職員に手渡せたのは、離職する職員が少なかった証しだと言うことは「本当に有り難い事だ」と思った次第です。

全体会が16時前に終了したので、本部施設で18時にお約束があり、時間にゆとりがあったので、ついでのように棚橋衆議院議員事務所、田中屋ぜんべい、大垣共立銀行関ヶ原支店とそれぞれの対応をして予定のお約束時間の15分前に施設に戻れ時間を有効利用出来ました。お約束の方はぴったり18時に来て下さり1時間40分間しっかり私の熱い思いを語りながら思ったのは新規事業への思いも含めて語れて次への布石がかなり打てたのではないかと思います。

リピーターの皆さん。私は常に時間をかけて何事もしてきたからこその今だと思っています。だって、お金も土地もないなかでの今だから誠意を持っての展開しかなかったので・・・。これからも応援宜しくお願いします。

 

朝6時に本部施設に行きました

令和2年7月15日

昨夜は21時50分にコラムの原稿を送信して、速攻で眠りにつき(スコッチウィスキーをロックでツーフィンガー分飲んだお陰かな)4時30分に目覚め昨日の事に対してどのように挽回しようかと考えていると眠れなくなっている時、我が家の老猫『りっと』が部屋に乱入し「二ャー二ャー」とベットの側で甘えてくる。餌が欲しいのかと、2階の餌が置いてあるところに行き私が椅子に腰掛けているとしばらく私の体にスリスリ。

その後餌を食べるのかと思っていると、プイっと横を向いて歩いていってまう。私は再び部屋に入り横になりしばらくするとまたまた、ベットの側で「二ャー二ャー」と鳴いてはる。しばらく体を撫でているとおとなしい。「でも、まだ夜明け前やぞ」と言うわけで、6時前に着替えをして施設へ。玄関を入ると昨夜宿直だった北島部長が空気清浄器の水の補給を当たり前のようにしており、「本当に裏表なく動いてくれる男だ。」と思い、昨夜の重い気持ちが少し晴れたように思い、色々な取り柄がある集団がバランスよくいてくれている今に先ずは感謝です。その後私が指示をしたわけではありませんが、昨日の出来事を挽回すべく室長も6時30分に施設にきたので、早速打ち合わせをしました。

そして、昨日無理を言って見積もり依頼したものがメールで送信されてきたり、9時前には可児の業者が直接自参してくれて、書類作成が出来る事に感謝。吉田部長の協力もあり13時に全ての書類が完成して、岐阜県高齢福祉課にアポを取り施設を出発。室長は睡眠がしっかりとれていないといけないと思い、私の運転で出掛けました。車を運転しながら室長に噛んで含んだように私の体験や思いを話しながら何がいけなかったかを話をしました。

向かう途中で大垣共立銀行の関ヶ原支店長から何点かの融資に絡めた質問を頂いたので、答えられない部分は県庁で聞いてくると約束をして、14時のアボで高齢福祉課に行くと担当者の方がおみえにならなかったのですが、わざわざ呼びに行って貰い、無事に企画書をお渡しして、何点かの質問をさせて頂き、差し替え分の確認をして大きな一歩を感じた次第です。県庁からの帰りの車の中では、今後の対応について指示することが出来ました。

一旦施設に帰り改めて大垣共立銀行関ヶ原支店長に連絡をして銀行に行き、融資に対し私が理事長として、どのように考えているかを色々な視点から質問を受け、一つひとつに対して熱く語りました。結果的に二時間近くの時間が経過していました。リピーターの皆さん。私は自分で言うのも変ですが

二時間の間に話した内容については自分の軌跡そのものですが、熱く語れるのは私自身の能力ではなくて、福祉に関わる私の使命としての一生懸命さの現れだと思っています。一生懸命の私に対してますますの支援を宜しくお願いします。

朝9時から大車輪で今(午後8時23分)ようやくお風呂でコラムを書いてます

本日9時30分のお約束のお客様に昨日「話が終わったら岐阜県庁になるべく早く行きたいので」と連絡しておいたら9時前に施設にお見えになり「流石に出来る人は違うな」と感心しきりでした。今日のお客さんは新館の計画時に年末年始の休日を返上して計画のお手伝いをして下さった方で、その当時は1営業マンだったのに今は一部上場企業の専務さんとしての挨拶に部下を3人引き連れてお見えになったのです。彼の努力と配慮には敬意を表せずにはいられない。しかしながら、感傷に浸る事なく、挨拶が終了後岐阜県庁に向けて出発。11時前には高齢福祉課に行き新規事業の打ち合わせ。疑問点はしっかりお尋ねして、12時前に打ち合わせを終え、障害福祉課長さんにも盲養護老人ホームについてはお世話になるので、ご挨拶をしたい旨を伝えると、高齢福祉課長と話をしている間にわざわざ障害福祉課長さんが来て下さったので名刺交換をさせて貰いました。引き続き垂井町へ書類を頂きに行くお約束の時間が13時だったので途中で昼食休憩をとり、垂井町に行き、高齢福祉課長さんから垂井町長さんの公印を押して頂いた書類も頂き、息つく間もなく13時30分からの見守りセンサーのデモ器の紹介をして頂く時間には若干遅れましたが14時20分まで聞いていると14時30分お約束の新規事業の冷暖房の説明の為に来た業者の方を会議室前の椅子で待って頂き、14時30分からデザインボックスの設計士さんも参加して貰っての打ち合わせ。16時までで納得いくまで説明を聞き。休憩も取らずに設計士の方と設備を中心にした検討をしました。順調に話をしていて、18時に岩田税理士先生が話に加わわって下さり、打ち合わせが凍るような話になりました。それは、新規事業の資金についての根拠が書類上作れないとの指摘を受けて、デザインボックスさんにも明日までの差し替えをお願いして、他にも明日までに見積もりの根拠を作成して貰うように遅い時間でしたがご無理を言ってお願いをして、何とか明日岐阜県庁へ持っていく書類の段取りが出来ました。一日中息を抜くゆとりの時間はありませんでしたが、明日に向けて気分を高揚させて行くしかないと考えています。今回の事でつくづく思ったのは杉和会理事長として職員に任せる事は大切だけれども、常に経過報告を受けながらしていかなければいけないことを。今(午後9時45分)ようやくコラムが書けました。リピーターの皆さん七難あっても頑張りますので宜しくお願いします。

マスクの話

令和2年7月13日

銀行からの借り入れの話を急ピッチで進めて頂いているのが、昨日は日曜日にも関わらず支店長から資料作成の連絡を頂いた時に、休日返上で企画書作成をして頂いていることを理解したので、吉田部長の協力を得て「昨日の内に出来ていたのでよかった。」と言う事を朝7時30分の段階で知ることが出来ました。と言うのは私の予定では8時過ぎに銀行に連絡して支店長さんのアポを取り、確認がとれたら銀行に向け出掛けるつもりでいたのですが、『予定は未定で決定ではない』事が起こりました。と言うのは施設からの連絡で支店長さんがもうすぐ施設におみえになり話がしたいとの事。私は慌てて準備をして直ぐに車に乗り施設に向かいました。すると既に支店長さんは会議室で座ってみえるのが窓越しに見えたので、昨日準備しておいた資料を持って会議室へ。話をしていく中で追加資料も職員に作成して貰いたっぷり2時間の打ち合わせを終えました。その時つくづく支店長さんの本気度を知り、感謝の言葉しか出てきません。その後控えてみえたお客様との打ち合わせも済ませ、昼食後に若園司法書士事務所での打ち合わせの為に施設を出て、車を運転している時に気になった情報が入ったので『マスクの話』をします。(あいからわず、前段が長くてご免なさい。)

ラジオからの情報と言うのは、零歳児預かっている保育所の保育士さんの話として「保育士さんがマスクをしたままで離乳食を食べさせようとすると全く口を開こうとしないし泣き出す子もいる。」と言うものでした。その時私は35歳になっている長男が赤ちゃんの時に母親から食事を貰う時に子どもが口を開いていないと母親の方が一生懸命に口を開けているのを感心しながら見ていたのを思い出しました。そして、赤ちゃんが大人の顔を見て笑った顔をしているのは、大人が笑った顔をしているのを真似して笑う顔を理解しているのだと。もし、コロナが怖いからと家の中でもマスクをしているとすると、子どもは表情の乏しい子になってしまうのではないかと思っています。

若園司法書士事務所の打ち合わせを済ませ和合の施設に行くとお参りの時間は15時からだったのですが、30分も早く着いたのですが、職員の配慮で早くにお参りをさせて頂きました。コロナの為に和合でのお参りは久しぶりだったし、各フロアにテレビ中継されると言うのでいつも以上に声を張り上げてお経を唱えさせて頂きました。お経を終えて「コロナにも負けず、雨にも負けず夏の暑さにも負けず楽しい生活を送ってください。と話をしてお参りを終わり引き続き幹部会を終えて、本部施設に戻り明日の岐阜県庁での打ち合わせをして、今日届いた福祉新聞を見てびっくり。何故ならば熊本県球磨川の氾濫で被害があった千寿園の対応を頑張っている熊本県老施協の事をさておき、経営協が大きく見出しに取り上げられていたからです。私は怒りの余り、全国老施協の平石会長と災害対策委員会担当の峯田副会長に電話をしてしまいました。だって、おかしいことを正していかなければ何も変わらないとリピーターの皆さんも思われないですか。

家に帰りお風呂と夕食を終えて思い付くままに書いたので、色々な話題になってしまい申し訳ありません。でも、今(午後903分)コラムが書けたのでゆっくり寝て明日も頑張りますので明日もコラムを読んで下さい。

 

郡上美並の鮎に舌鼓

令和2年7月12日

今は郡上市美並(旧美並村)の『やな』で獲れた天然アユが送られてきたので、本日日曜日で事務所のメンバーが5人。送ってきた鮎が5匹なので、「よし、お昼に鮎を塩焼きにして食べよう」との私の提案で、若園管理栄養士が炭の用意をして、吉田部長は家から本格的な串焼き用の道具を持って来て鮎を本格的に焼いてくれているところで、私が如何にも焼いているようなポーズをして・・・。

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しかしながら、当法人の本部施設の職員の機転の良さと行動力には改めて感心させられます。特別養護老人ホームもデイサービスも年中無休ですし、入居者さんの面会や新たな利用者の契約等はありますが、外からの電話はいつもと比べたら少ないし、内外の会議も無いのでゆったりとした時間が流れているタイミングだったので決行した次第です。吉田部長が料理した鮎を見て思わず感動です。食した感想の中で五次部長は「流石に頭はでかかったんで食べれませんでしたが、骨まで綺麗に食べれました。」に「私はまだまだ未熟者なのか」と恥ずかしく思うと同時に「あの大きさで骨まで食べれるとは、余程生の良い鮎なんだ。」と改めて感心しました。また、吉田部長には、「鮎も生が良かったけど料理の出来も良かったから余計に美味かったけど、ビールが飲みたかったな。」と言うと「同感です。」と返されました。

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郡上美並の『やな』は平成18年8月8日に全国老人福祉施設協議会の役員(総務委員会初代幹事)になり、その年の暮れの役員忘年会で『お国自慢』をそれぞれが持ち込んでの企画に、鮎の甘露煮を持ち込んだのが始まりです。(初めて行った時は飛び込みで行ったのですが親切に対応して頂いたので、それ以降もお付き合いさせて頂いてます。)その時の出来事で、その当時の中村会長(参議院議員)が「これは美味い」と3匹をペロッと平らげられたのは印象的でした。それから何年かが経過したある時、東京本部での会議が終わり中村会長から唐突に「今週は時間に余裕があるので岐阜のやなを案内しろ」と言われ、当時の役員さん達5人を岐阜羽島駅で迎えて、車でやなにお連れして長良川の鮎を堪能するまで食べて頂くと共に、川辺の竹を組んだところで童心に還ったように遊んで貰った姿を思い出しています。

中村会長は残念ながら参議院議員としてまだまだ頑張って頂かなければいけない道半ばでの逝去は、全国老人福祉施設協議会の組織に於いても残念でなりませんが、中村会長の遺志を継いで私も微力ながら頑張って行きたいと鮎を美味しく頂いた今日改めて思いました。新規事業も頑張らなくてはいけないし、新型コロナウイルスにも災害にも立ち向かわなければいけないと考えています。リピーターの皆さん、私のコラムはいつもいつも話題が飛んでしまい申し訳ありませんが、色んな経験をさせて頂いて今があるので、ありのままのコラムのスタンスでこれからも行きたいと考えていますので、これからもよろしくお願いします。

 

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