最後のセーフティネットへの挑戦
最近の話題は新型コロナウイルスばかりで、私の頭の中も「新型コロナウイルスを施設に持ち込まない為に何をすべきか」を祈るばかりで、頭の機能が停滞しているのがストレス(最近はこのストレスを撥ね飛ばせんのです)となり、お腹の張りが治まりません。まるで、石をお腹に詰められたオオカミのようです。このお腹の張りは単なる『あぶら』とは違うことは私自身が一番知ってます。
こんな状態ですから逆に元気にノリノリだった時の話をします。(ひょっとしたら、既に何度もこのコラムで登場しているかも知れませんが)私が38歳で児童養護施設を退職して反社会、非社会の児童の個別指導をやると決意して、その事だけでは生活出来ないので大学、短大、専門学校の非常勤講師を最大で週に13コマをこなしながら、それでも生活出来ず家庭教師もしていたのは既に話しましたが、44歳で施設を建てるまでの6年間はいわゆる無納税者だった時に、私は無謀にも施設が建つ前の2年間、PTA会長を勤めたのです。
1年目は地元小学校の会長と共に関ヶ原町連合長を引き受け、2年目は何と無謀にも(1年で懲りないのが私の・・・。)岐阜県連副会長を引き受け、西濃地区連合会長まで引き受けたのです。確かに、その頃の私はバタバタの毎日(今もそうですが)でしたが、時間調整をして対応してました。但し、無納税者の私でしたが全国大会が大分県であり行かして貰いました。その頃の私はお金がなくても人一倍夢を語っていました。私の父進は教員を40年実直に勤めた聖人君主と言っても過言でない人物だったので、財産をたくさん残してくれたわけではありませんが、時代背景としては補助金に恵まれた時だったので夢を実現出来たのだと思います。
但し、たくさんの補助金を頂くわけですから、提出する書類は半はなく多かったですが、睡眠時間を節約して頑張りました。確かに紆余曲折がなかったとは申しませんし、その当時年に一回開催されていた海外研修団ボストン会のメンバーからは「若山は死んじゃうんではないか」と真剣に話していたとの話を後から聞いた事もありました。
平成9年7月にその当時の岐阜県知事から法人認可を頂き翌年5月には事業開始に漕ぎ着け、1年目は職員と私との考え方に大きな開きがあり、崩壊寸前までの危機もありましたが、2年目から職員との解離がないような運営にして、職員の提案に耳を傾け少しずつ組織が強固になってきたと思います。但し、事業開始3年目に介護保険が導入され、特別養護老人ホームへの参入に拍車がかかり、現在、一部の法人の中には社会福祉法人の大切な使命を蔑ろにしている所があるためか『社会福祉法人の非課税に否定的』な方が出ているのも事実です。
当法人は地域のニーズに応えながらの展開をしてきたと自負しています。その流れのなかで令和2年度の事業で盲養護老人ホームと養護老人ホームの建設を計画することにしました。これは文字通り『セーフティネット』としての役割を担いたいと考えたからです。その理由は盲養護老人ホームが岐阜県に無いことによる不安を岐阜県視覚障害者協会の会長からお聞きして、その不安を払拭することが法人としての役割と考えたのと養護老人ホーム静風園が老朽化していて入居される方がいないとの話を聞いたのと『8050』による問題には養護老人ホームの必要性を感じたからです。
今は養護老人ホームは全国的に稼働率が悪くて経営を控える傾向にある事は理解していますが、西濃一円に養護施設がなくなる事は最後のセーフティネットがない状況を作ってしまうと考えたからです。経営については本部施設と和合の施設と垂井に予定している3施設のトータルで考えて行き、西濃一円と岐阜県一円のセーフティネットになることが大切だと考えたからです。リピーターの皆さん。
お陰さまで『コロナ』から『セーフティネット』に思いを馳せたお陰で元気になってきました。明日からの元気を取り戻した(多分)コラムをまたまた宜しくお願いします。