2020年03月の記事一覧

葛藤と不安の中で

令和2年3月21日

情緒障害児短期治療施設の計画を関ヶ原の地で実施する計画は岐阜県において「少なくても10年は計画しない。」と言われ『情熱でクリアする』と意気込んでいた私には、なかなかその現実を受け止める事は出来ませんでした。

悶々とした日々が続く中で「時代が高齢者福祉施設を求めている。」との話を多くの方からお聞きして、吉田宏岳先生(その当時、日本福祉大学中央福祉専門学校校長で福祉の重鎮)に相談すると「大学の専任になるのも選択肢の一つですが、若山さんは自分の世界を作りたいとの志が強い。しかしながら児童は出来ないとの現実の中で高齢者施設を作るのには不安と葛藤がある。でも、種別が違っても福祉の考え方を持って挑めば良いのではありませんか」と言われて、真剣に高齢者施設の設立について考えても、イメージすらつかめない。当たり前です。だって行ったこともないんだから。

そこで、まず私が興した行動は2つです。1つには「生まれ育った関ヶ原町で作るとの思いを実現するには関ヶ原町の高齢者の実態を知る事が大切だ」と考えて、その当時『みらい』と言う出版社を設立された方の協力を得てアンケートを作成すると共にその当時の関ケ原町民生委員児童委員協議会会長の所にアンケート調査の依頼のお願いに行くと快諾して下さり、町内全員の委員の協力が得られました。調査結果は高齢化率、高齢者夫婦世帯の割合が高く、将来的に厳しい状況になる事が理解出来ました。

2つ目の行動は『高齢者施設の見学を積極的に行う』と言う事でした。多くの施設の良い所取りが出来ればと考えたのですが、今の様に組織があるわけで無いので、交通費、旅費、手土産代も全て自費で賄わなければいけないので、講演の依頼があった時についでの様に行ったり、大学の実習指導に行ったついでに行ったりとなるべく経費が掛からないようにしてのものでした。

そんな中でも計画が順風満帆だったわけではありません。大きな建物を建てるにはそれなりの土地が必要です。しかしながら、最初の内は土地探しを正直安易に考えていました。つまり、計画した土地の折衝を自分でやらずに人任せにして、地元説明会をする段階になって地主さんの一人の方の強硬な反対がある事を知りました。私は地主さんの一人でも反対があれば難しいと考え、最初の折衝は見事に挫折しました。

そして、別地の提案があることがわかり、今回は地主さんが7人おみえになると言う事で、今回は私自身が1軒1軒根気よく話をして回りました。その時、私が高校2年生の時から四国遍路をしている事が話題に上がりました。その地主さんが一番多くの土地をお持ちでその方の了解を得てからは、次々と了解を得る事が出来ました。この時の経験から何事も『誠意』を持って接する事が肝要だと知る事が出来ました。

資金が潤沢にあっての計画では無かったので、資金協力のお願い行脚をしてつくづく実感したのは、一生懸命さと人間関係によって資金調達が出来たと言う事です。そして大切なお金の協力を得たので、その時の体験を通じて有効なお金の使い方を身をもって理解したと思います。リピーターの皆さん、コロナウイルスのニュースばかりの中ですのでもうしばらく『若山宏の生き様ストリー』にお付き合い下さい。

 

私が児童養護施設を辞した理由

26歳から13年間勤めた施設を辞したのには色々な理由がありますが、一番の理由は35歳の時に化粧品の資生堂福祉財団がスポンサーになって実施されている児童福祉に特化した、海外研修団(第15期)17名の一人に選ばれてアメリカの研修団として参加させて貰ったのが引き金になったと思います。研修団の名称は『ボストン会』と言って、北は気仙沼から南は宮崎県の曲者揃いのメンバーです。かなりの強硬スケジュールでしたが、夜はしっかり飲んで早朝からの研修もこなしました。中味の濃い研修の中、特にインパクトが大きかったのは、福祉に携わる方の社会的評価が高く、厳しい状況に置かれている子どもに対しても手厚い対応がなされていて、個別対応の大切さを学ぶ事が出来、研修を終えてからは、「施設の指導員になりたいと思う人は多くいると思うが、反社会、非社会の子ども達の個別ケアをしたいと考えているのは日本広しと言えどもこの私以外にはいない」と、今考えたらめちゃめちゃ無鉄砲な考えを持ち、海外研修から帰って直ぐに経営者の方に話をしました。その時の経営者の答えは「今いる子ども達の事はどうするのだ。」と言われ一旦は「それもそうだ。」と考え直したのですが、やはりその気持ちを捨てきれず再び申し出ると「先生(その頃そのように呼ばれていました。)の代わりを育てて辞めるのが筋でしょ。」と言われ、新しい職員を採用して貰い、2年がかりで私なりに思いを語り、行事等の流れを教えて晴れて退職が出来ました。このコラムのリピーターさんの中には「何故今は児童でなく高齢者なの。」と疑問に思われる方もあろうかと思います。確かに、退職後の2年間は大学等の非常勤講師や家庭教師をしながら個別ケアに生き甲斐とやりがいを持って突き進みました。しかしながら、気が付けば預貯金は底をついた状態になり、スイカの皮で漬け物をを作って貰ったり、外食はお金がかかるからと昼と夜の2食分のお弁当を持って行き非常勤控え室で食べたりと、節約に節約を重ねる生活をしていて・・・。でも、楽しかったな。だって自分がしたいと飛び込んだ道だったから。しかしながら、嫁さんと二人の子どもの生活の柱である事を考えるとこのままではいけない。そこで拠点作りを画策しました。児童施設で自分なりの考え方をやり通すのであれば『情緒障害児短期治療施設』が一番良いと考えアクションを起こしました。『捨てる神あれば拾う神あり』で、親戚筋の方が松尾山の麓の土地約2万平方メートルの提供の申し出があり、パーツまで作り、その当時の岐阜県児童家庭課に持ち込んだのですが、県の方針は「高齢者施設の予算しかなく、児童の施設は10年後しか無理」と言われ、施設作りは見事に挫折。その後紆余曲折がありそれから4年後に特別養護老人ホームを設立しました。リピーターの皆さん。特養設立までの足跡を次回に書きますので、必ず見て下さい。✳コラムが今に(21時36分)なったのは、午前中に杉和会の理事会があり、その後17時15分からの幹部会の為の打ち合わせ等でバタバタしたからです。正直タイトルから横道にそれた事はわかっていますが訂正する事もせずアップしたことお許し下さい。明日こそは・・・。

児童養護施設で子どもたちから教えて貰った事

令和2年3月19日

福祉の『ふ』の字も知らずに飛び込んだ児童養護施設での13年間では子どもたちから多くの事を学ばせて貰いました。その事を思いつくままに今日は書いてみたいと思います。私が入職して初めに感じたのは、「小学生はどの子も人懐っこいな」と言う事でした。そして何日かして思ったのは「親の愛情が希薄だったんだ。」と思うと同時に「私が少しでも甘えて貰える存在になれないか。」と言う事で多くの時間を子どもたちとの接点を持った対応を心がけました。

昨日も書きましたが子どもたちの殆どが『学習遅滞児』だと言う事です。その理由を子どもたちとの接点を持つ中から理解しました。結論は子どもを育てる側の親に子どもの『勉強』に全く興味を持っていないと言う事です。例え話をします。【小学校に入学して生まれて初めてのテストとして漢字テストがありました。『一』『二』『三』『川』『上』『口』『木』等習った漢字20文字位の中から10問が出題され、生まれて初めてのテストで全問正解して100点を取り、答案用紙一杯に大きな大きな花丸を貰い、嬉しくて嬉しくて、お父さんお母さんに褒めて貰おうと飛ぶようにして家に帰るとお父さんとお母さんが夫婦喧嘩の真っ最中。

そんな事はお構いなく子どもが「父ちゃん、母ちゃん100点取って大きな大きな花丸貰ったよ。」と言ってもお父さんもお母さんも全く反応なし。それにもめげずに3回程お父さんとお母さんに訴えたら、ようやくお母さんが子どもの方を向いて「今はお父ちゃんと大切な話をしてるのであっちに行っといて。」と言われて子どもは認められなかった褒められなかった事にイライラ、モヤモヤ。こんな事が何度か続くと子どもの学習意欲が無くなり、ましてやこのような親であれば、子どもの勉強の確認などしなくて、子どもは親の確認印等を勝手に押す知恵だけが働く事になる。】小学1年生の1学期に入所した子がいました。その子は全く字が書けなくて、たどたどしく何とか50音が読める程度でした。

最初は自分の名前が書けるようにと練習するのですがなかなか書けない。来る日も来る日も根気よく練習しました。何とか半分ほどのひらがなが書けるようになるまでに2週間を要したので後の半分も2週間かかると正直うんざりしていたのですが(あまりに根気がいる事だったので)後の半分は5日で書けるようになったのには正直驚くと共に『学習にはバイパスあり』を身を持って理解する事が出来ました。1年目の年の瀬に大掃除をすることになったのですが私は掃除の要領が分からず寒い日だったのでズボンのポケットに手を突っ込んで見ていたら、経営者の方から思いっきり怒られました。

でも、やり方が分からなくて出来ないのは教えて貰わないと出来ないとの反発心もありましたが、少しずつ中学生がしているのをみて出来るようにして1年後の大掃除は指示が出来るまでに成長しました。(少なくとも手をポケットに入れる暇はありませんでした。)小学6年生の男子4人を指導した時の話です。4人の中で体も大きく運動神経も良くリーダーシップが取れる子がいました。

私はその子に厳しく指導する事であとの3人はついてくるとの安易な指導をした事がありました。ある日、いつものように彼を厳しく指導していたら突然彼が泣きながら「どうして僕ばかり注意するの」と詰めろって来た時には、私の手抜きの指導を見破られたと恥ずかしくなると共に、バランスの良い指導をしなくてはいけない事を教えて貰いました。(彼は高校を卒業するまで随分私を助けてくれました。)

リピーターの皆さん、13年間の出来事と言うと語りつくせるものではありませんが、私を育ててくれた時代の事ですので機会があればまた書くことにします。

 

児童養護施設の13年間での思いを語ります

令和2年3月18日

児童養護施設の就職が決まり、徳山村での『勘当生活』が解かれた私は、再び家からの通勤となったのですが、片道26㎞の通勤は色々な意味で気分転換になりました。

勤めだした頃の私は意外な形での勘当の幕切れだったのですが、「わざわざ徳山村まで来て頂いた方への礼儀として、年度内の翌年の3月までは勤めなければ」等と生意気な考え方でいたのです。どうしてかと言うと私自身『福祉』の『ふ』の字も知らないし、自分が積極的に望んで飛び込んだわけではないからです。しかしながら、児童養護施設には、学校のように文部省の指導要領のようなものは無いし、男性職員は理事長である禅宗の高僧とその息子さんと末寺を任されている男性指導員の私を入れても四人のみで、他の方は保育士さんや厨房のスタッフで女性ばかり。

私は小学、中学、高校の教員資格があるのでと言うことで14時から22時までの勤務時間で出勤して、挨拶に行くと職員がみんなでお茶タイムをされていて、私はお客様のような扱いで保母さん達がお茶やお菓子を運んでくれて・・・。『まるでハーレム』。15時過ぎから帰ってくる小学生が持ち場の掃除をして、おやつを食べた子から順次(3年生以上)児童館で宿題と本読み程度を見て、夕食前までに小学生の勉強を終えて食堂に行くと既に中学生が準備してくれている夕食を全員で合掌をしてから頂き、夕食が終わっての再び合唱したら私は児童館にて中学生が勉強に来るのを待っている。流石に中学生は小学生のように最初からすんなりと受け入れてくれなくてその当時13人いた中学生の座っているところをまるで熊のように(その当時は体重が50㎏位だったから野良犬位だったかも)机間 をうろうろしているだけで、22時前になると理事長の息子さん(主任指導員)が「若山先生、今日はこの位でありがとうございました。」と言われて児童館の玄関の鍵をしてから私の車を見送って頂く、まるで家庭教師の先生のような扱いに戸惑いながらも「まっいいか」で1週間が過ぎたら、児童館の鍵を新たに作って頂きお見送りの対応は1週間のみ・・・。(当たり前か)

私が児童養護施設に就職した年は『国際児童年』と言う事で、どの施設もイベントをそれぞれの施設ですることになっていて、2週間目からは午前中から来て、看板作りをしたりしている内に、子ども達との接点も密になり、子ども達の家族環境等の背景も少しずつわかってくると、子ども達の学習指導にも力が入り、私自身の学習能力と指導力の無さに気が付きました。普通はここで自分の限界に気が付き逃げ出すのでしょうが私は子ども達と共に成長したいと思い、かつて神戸北小の同僚の先生に「恥ずかしながら」と当たって砕けてもの覚悟で教えを乞い、納得がいくまで指導を仰ぎ『むてかつの指導者』と頑張りました。

正直この時の約半年の期間程勉強した時期はなかったと思います。もともと勉強が苦手な私は、前日に自分が学んだ事を教えるのだから、子ども達の『解らない所が解る』カリスマ的な指導者に子ども達がしてくれたと言っても過言ではありません。自分でそれぞれの子ども達に理解して欲しい事を把握して手作りのプリントを作成しました。子ども達は「私の為に、(僕たちの)為にプリントを作成してくれた。」と言う事で一生懸命に取り組んでくれました。但し、施設に入所する前の家庭状況では、勉強をする事の意義を見出だせない子が殆どで端的な言い方をすれば『学習遅滞児』が多かったです。しかしながら、親の支援を受けれない子ばかりなので、私は子ども自身に『強さ』とか『強み』を持たなければいけないと考え、勤めて2年目からは『高校全員合格』を焦点化する目標を立てて、時には阿修羅のように、時には蒸気機関車のように湯気を出した指導もしました。

しかしながら有り難かったのは子ども達が本当に良く付いてきてくれた事により、私がいた2年目からは高校全入と大学、短大、専門学校に進学して立派になってくれています。勿論、せっかく苦労して高校進学しても中には中退した子もいて、心痛めている事も事実です。今は児童福祉から高齢者福祉の世界にいますから児童福祉の事を語る資格はありませんが、私の児童に対する思いは、社会に適合出来なかった子を当法人には敷地内にアパートもあり、食事の提供もできるので一人でも二人でも杉和会に飛び込んでくれたらと思うのですがリピーターの皆さんは私の今の考え方に対してどのようにお考えになるかご意見を頂ければ嬉しいです。

✳久し振りの東京出張で、新幹線の往復でコラムを書いたのですが、東京の状況は新型コロナウイルスの影響でしょう。東京で降りる時は降りた車両では10人程で、丸の内まで歩く途中の蕎麦屋さんはいつもは一杯で表まで並ばれるのに13時過ぎでもがらがらでした。

勘当された徳山村でのPART⒉

徳山村での勘当の身の生活は、毎日のように民宿へのお客さんがお見えになり、人数に合わせた買い物(魚と豆腐)と料理を作る事が本職になったような日々(良くても悪くても環境に馴染む事が出来るのが私の特性かな)で余った時間は村の中を散策して村の方々と仲良くお話をしたり、河原でラジカセの音楽に合わせて思いっきり歌を歌ったりして、全く自由奔放な生活を謳歌してました。時には、親しくなった家に遊びに行ってはお客さんが無い日などは夕食を頂いて色々な話をしました。ちょくちょく遊びに行って徳山村の方々の今後についての話を聞き手上手になったり、3月までは教員をしていた事の話をしていて、その家の娘さんが東京に出て女優になりたいと聞いていて、私の自惚れだったと思うのですが、娘さんと私を結び付けたいような話酔っぱらいながをお互いに酔っぱらいながらしていました。そんな時に東京から娘さんが帰って来るので食事を共にして欲しいと言われて自惚れていた私は厚かましくも家に行き宴会に参加しました。ご両親は私と娘さんを隣の席にして何とか娘さんが興味を持ってくれないかと思っていたようですが娘さんには全く持って我関せずの状態だった事を鮮明に覚えています。確かに女優を志すだけあってスタイルも良かったし綺麗な子だったので、歴史にもしもと言う事はありませんがもしも一緒になっていたら今須一も奥さんだったな等と思っています。私の徳山村での生活は8月末で突然ピリオドを打つことになりました。と言うのも何の前触れもなく、全く私が知らない方が私を訪ねてみえたのです。その方は、3月まで私が勤務していた神戸北小学校の近くにお住いの方でその当時大垣市内の中学校の校長先生だったのです。その方は自分の紹介が住むと同時に私を一喝されたのです。それは、「いつまで徳山村でくすぶっているのか。自分の生きる場所と違うだろ」と・・・。私はあまりに唐突な話についていけない状態で黙っているとその方から「教員としては異端児のような存在だったかも知れないが君のような人材を求めている世界があるので紹介したいので私について来なさい。」と言われ、何も分からないままに穂積(今は瑞穂市)にある『児童養護施設』でいきなり面接のようなものを受けました。面接ですから白のカッターシャツにネクタイにスーツを着て行ったのですが、その当時はいつも四国遍路の時に首からかけていた数珠がカッターシャツから透けて見えたのを面接をして下さった経営者の方が目ざとく見つけ「その数珠は何ですか」と聞かれたので「高校2年の夏休みの時から四国遍路をするようになり常に身に付けています。」と答えると「ここは、禅宗のお寺ですが弘法様もお祀りしてしてます。信仰心があり、小学校、中学校、高校の教員免許を持っているなら、明日からでも仕事をして貰いたい。」と言われたので、「流石に明日からと言うわけにはいきませんが週明けの月曜日から勤めさせて貰います。」と答えていました。しかしながら、その当時の私は『養護施設』(当時の言い方です)がいったいどんな施設かも殆ど知らずに就職しました。つまり、26歳の私が自分でやりたい事を見つけての生き方は38歳まで待たなければいけないのです。

※今は『コロナ』の話題ばかりでその話題になると胃が痛くなるので今は過去の振り返りシリーズにしています事にお付き合い下さい。

父進に勘当された時のパラダイスのような日々の話です

令和2年3月16日

勘当されたときの父進さんのお言葉は「教員を辞めたのは仕方がないけど、毎日ネクタイを締めて学校に勤務していた宏が家でゴロゴロしていたら今須は田舎だから『若山さんちの宏君このごろとっても変だ』と言われたらいかんので、どこか遠くで生活をしなさい。」と言われて、その頃の私は「それもそうだ」と変に納得をしたので、当時は『勘当』だとは思わなかったのですが、これはいわゆる世間では『勘当』と言うのですよね。

どこかに行くと言っても当てがなかったのですだ、ふと学生時代のサークル活動で落語や演劇をしていたのですが、もう一つ学術的なサークルで『郷土研究の会』と言う、いわゆる柳田民俗学にも所属していて、ダムで沈む『徳山村』に長く留まって調査した時に、その当時徳山村の語り部でインスタントカメラで地元住民をバチバチ撮って後に写真集まで出した増山たず子さんの所が民宿をしている事を思い出し、私はぶしつけにも民宿での『居候』を決め込み当たって砕けろ精神で徳山村戸入の増山さんの家に突然押しかけ、「民宿のお客さんが一人でもあったら私がお客さんの食事を作り接待もしますから遠慮なく写真を撮りに出掛けて下さい。但し、お客さんがあった時の料金はただにして下さい。

お客さんが無い時は一日2000円で泊めて下さい。」とむしの良い提案をしたのですだ、増山のおばちゃんはその条件をニコニコしながら了解してくれました。料理を作ると見栄を張ったのですが、正直そんなに自信があったわけではありません。但し、増山さんの家は大きな囲炉裏があり自在鉤が吊るしてありいつも炭火が点いました。そこで、お客さんの人数プラス私の分の魚(イワナ、鮎、マス)を養殖している所に買いに行くと共に徳山で作っているとても固いお豆腐を手に入れ、尚且つ、食べきれなくて困っている家のジャガイモを貰って来たものを料理しました。でも、よく考えてみると料理と言えるのかなあ。

だって、魚は綺麗に洗って鉄櫛に刺してしっかり塩を付けて囲炉裏の炭火で焼くだけだし、お豆腐は半分に切ってお皿に乗せて、村の方に連れて行って貰って手に入れた天然わさびをすってお醤油はお客さんに好きなだけかけて貰い、ジャガイモの料理は綺麗に洗ったのを炭火の上に網を乗せたところで焼いて貰いお客さんに好みでバターか塩をつけて食べて貰う。

お漬物として、わさびの葉を前日に土鍋にお湯を沸かし葉を入れて密封して一晩そのままにしたものを切って出すと言うものです。昭和54年は衆参同時選挙があり、最後の選挙戦と言う事でマスコミが大挙して来て、景気の良い時で取材や撮影が終わってからは宴会が始まり私もちゃっかりお相伴にあずかり、徳山村ではよーく飲まして貰ったなあと思いますし、マスコミ関係の方と酔っぱらいながら激論をしたなとの思い出ばかりです。リピーターの皆さん『勘当』も良いもんだと思いませんか。実はこんな生活が5か月も出来たんですから『勘当』も良かったと父進さんに感謝ですかね

 

神戸北小学校時代PART『2』

令和2年3月15日

41年前の公立学校では、その当時の文部省の指導要領通りの授業案を作成しないと駄目な時代で、私の授業案を『週案』として、基本的に毎週月曜日に教務主任の所に提出するようになっていて私もきちっと提出するのですが、提出した日の2時間目後の20分の休憩時間は、いつものようにグランドに飛び出せないのです。何故ならば、2時間目が終わると同時に間髪いれないタイミングで、教務主任から私を呼び出すアナウンスがあるからです。そして職員室に行って、教務主任からの懇切丁寧なご指導があるからです。

特に私が拘ったのは、社会科では、自分なりに自分が休みの度に8ミリカメラで撮影をした独自の資料を作成したものにしたかったからです。子どもたちは喜んでくれていたのですが、文部省の狙いとは違う場合もあっての指導でした。毎週月曜日の教務主任と私のバトルが続く中、6月に私の校内研究授業を開いて頂きました。その時はしっかり準備したはずなのに、正直メロメロのものになり、授業後の指導は辛らつな指導を受けました。最後に校長先生の講評では、「全く褒められた内容ではなかったが、子ども達が『先生頑張れ』と言う気持ちが伝わってきたので日頃の信頼関係には素晴らしいものがあるんだと思いました。これは若山先生の素晴らしい人間性だと思います。」との事で正直この時は落ち込みました。

そして、その後の現象としては、校長先生が毎日のように私の教室の窓越しに見ていかれる日が続いたものです。あの時の校長先生はわざとかと思う程廊下を歩く音が響いていて、その音がすると誰ともなく「校長先生が来た来た」と言って急にお利巧さんをしてくれていたのには感謝しかなかったのを覚えています。

そして9月の終わりの頃、私の授業をその当時の西濃教育事務所の教育指導の先生が見に来られる事になり、私も6月のリベンジとばかりに必死に準備をして挑んだのですが、自分なりに満足のいくものであったのですが、教育事務所の先生の講評も良いもので、その後の校長先生の評価も良く、「6月の段階では正直頭を抱えていたのですが本当に良かったです。かなり努力をされたんだと思います。」と最大限の評価をして頂き、その後は教室の窓越しの確認はなくなりました。

しかしながら、私の月曜日の教務主任のお呼び出しは続いていました。そして最大のピンチが12月初めの月曜日に起きました。それは、私が確信犯的な行動に出たから覚悟はしていたのですが・・・。その時の週案の火曜日の1時間目から6時間目の科目が全部『図画工作』にしていたのです。リピーターの皆さんの中にもお気づきかも知れませんが、図画工作は週に2時間と決まっているので全くの暴挙なのです。当然のように2時間目終了後に館内放送で教務主任からのお呼び出し。いつもの私なら理屈にならない答弁をするのですが、その時ばかりは、「やはりこのような週案は認められませんね。」と素直に訂正作業の為に自分の机に戻り、1分もしない修正を終えて再び教務主任の所に行くと教務主任が「えらく早くに訂正出来たね。」と言いながら週案に目を通して、完全に呆れた顔でお見えになるので「駄目でしょうか」と言うと「当然でしょう。」とのやり取りをしているのを隣の席に座っている教頭先生が声を掛けられて週案を見て、「これは、教務主任としては認められんわな」と言われたのです。

当然の反応だと私も思いました。と言うのは最初の週案で6時間目まで図画工作にしたのは「自分で作った大きな凧をお正月に飛ばさせたい」の一念だったから、6時間目まで図画工作にしたのですが書き換えたのは1,2時間目までは図画工作で、3,4時間目は理科、5,6時間目は体育に教科を変えて内容はそのままのものです。今から考えたら無茶な話だとは思うのですがその時は真剣だったです。その時には教頭先生が助け船をだして下さいました。「こんちゃん(教務主任をそのように呼ばれていました)の言われるのは正論です。でも、若山先生の思いも理解出来るのでここは、この計画を認めましょう。私も作りたいので一緒にお手伝いしますよ。但し、若山先生の教科を変える考え方は通りませんよ。だから、2,3週目の図画工作を振り返ると言う事で教務主任ハンコを押してあげてください。」で了解が取れて、翌日の凧作りは大変盛り上がり、完成した自作の凧を校庭で元気よく飛ばしてくれましたし喜んでそれぞれが自作の凧を喜んで持ち帰りました。

私の教員生活はこんな調子でしたので、これ以上は他の方にご迷惑をかけてはいけないと、翌年の3月で教員生活を辞めました。流石に温厚な父進さんもこの時ばかりは怒りを通り越して、さり気無く私を『勘当』して下さいました。リピーターの皆さんこの続きを書いても良いのであればエールを下さい。

 

25歳の時に安八郡神戸町立北小学校4年3組担任時代の私

令和2年3月14日

神戸北小学校の4年3組の担任をした当時、水谷豊さん主演で小学3年担任の『熱中時代』と言う番組があり、私は4年と3年の違いこそあれ、「あんな先生でいたい。」と真剣に考えていました。その当時の私は「あのようなフットワークの良い親しみのある動きをするには子どもたちに会うまでに何をすべきか」を考えました。

そしてその結論は「子ども達と同じ目線で接する為には始業式の1日で担任をする35名の子ども達の顔と名前を覚えて接する事だ。」と思い、その為には「一人ひとりの子どもとインパクトのある接点を持つ事だ」と考え始業式の日には駆けずり回り、家に帰ってから資料にある写真を見ながら名前を言ってみたのですが、35人中32人の名前を言えたのですが、どうしても3人の名前が言えなくて悔しい思いをした事を今も鮮明に覚えています。

次の日には、その3人は特に接点を持って35人を完璧に覚える事が出来ました。その頃の学校では2時間目が終わると20分の休憩時間がありました。今考えるとあの20分は先生方の『お茶タイム?』あるいは『煙草タイム』だったように思いますが、私は2時間目のチャイムが鳴った瞬間に子どもたちと一緒にグランドに飛び出していて、担任である私がまるで『ガキ大将』のようだったと今になって思っています。1学期も1週間が経過して気になる女の子がいました。

その子は給食を食べるのがいつも遅くて給食の時間が終わり掃除の時間ギリギリに下膳をするのです。そこで、私は給食をグループで食べて順番にグループを回って食べる事にしました。そのようにした3日めに彼女のグループの番になり彼女をさりげなく観察していると、彼女は牛乳の瓶に口を付けるものの全く飲んでいない事に気が付きました。

そこで私は彼女に「先生も小さい頃は牛乳が嫌いで飲めなかったんだけど、先生になってから頑張って飲んでみたら飲めたのでTさんも頑張って飲めるようにしよう。」と声を掛け、ほんの少しずつ本当に時間がかかったのですが、(掃除の時間に食い込んで1時間位)1本の牛乳が飲めたのです。そして、子ども達が下校して職員室で翌日の資料(予習などしたことがない私ですが)を作成していると、Tさんの母親からの電話だったので一瞬ドキッとしながら話を聞くと母親が「うちの子が帰ってきて興奮しながら生まれて初めて1本の牛乳を先生に見て貰って飲めた。と言うので私もあまりに嬉しくて思わず電話しました。」との事で、内心ホッとしながら「あれだけの事で喜んで貰えるのか。」と思うと同時に「これからも、気が付いて出来る事はしっかり実践しよう。」と思ったものでした。私は新しく職員になった者には「先ずは入居者さん利用者の名前を覚える事。

そして、相手の方がして欲しいと思う事を起案を出して実践して下さい。」と言っているのですが、そのように言えるのはあのような体験をしたからだと思っています。リピーターの皆さん、一生懸命に無駄なしです。これからも頑張りますので宜しくお願い致します。

 

 

 

特租法改正案に一言

令和2年3月13日

新型コロナウイルスの感染拡大に備える新型インフルエンザ等対策特別措置法改正案が12日の午後衆議院本会議で賛成多数で可決、通過し本日、参議院でも通過するとの紙面を読み、また、新型コロナウイルスのニュースをテレビで見るにつけ、日本人の気質と法案の中身にギャップを感じたのは私だけでしょうか。と言うのは、愛知県でコロナウイルスの陽性が確認された方が、「コロナウイルスをまき散らしてやる。」と言ってパブに行き、お店の従業員の方に感染させたとの報道に、日本の法律は基本的に『性善説』に立っているためか、陽性反応が出た方の自宅静養に強制力も罰則規定もないと言う事。「罰則規定がないから外に出て何が悪い」との考え方には私自身は違和感を持ちますが「遂にこの様な考え方の日本人が存在するのか」と思った次第です。

極端な考え方かも知れませんが『アメリカの銃社会は自分を守る為に必要な物』つまり、『自分の身は自分で守る』との考え方からだと思うのですが、日本では銃の保持は認められていません。それは、『安全な国 日本』の象徴だと自負していました。(今も99%はそうだと思っていますが)また、外国の方の中には日本の自販機の多さに驚かれるとも聞いています。これは、「日本では自販機を壊す人がいない」とのこれまた性善説からです。

また、『児童虐待』についても、「親が虐待をすることはない」との考え方の中、私が知り得る中では、警察官が出向いても「躾の一貫です。やり過ぎた事は改めます。」で家の中まで入るのはなかなか難しい状況が長く続きましたが、最近はようやく少しは介入出来るようになったと聞いていますが、最近のニュースでも子どもの虐待で子殺しの事犯が報道されているのには心痛みます。何故このような事が起きるのでしょうか。『自由を謳歌する事による勘違い』『利己主義をまかり通す風潮』・・・。よくわかりません。でも言えるのは『我慢強さを育ててこなかった』事の反動だと思うのですが、リピーターの皆さんはどのように思われますか。

本日午前中にお見えになったお客様から驚くようなお話を聞きました。それは、同居している孫に祖父である方のお箸で食べ物を食べさせようとして、孫の親から叱られた。との話を聞き私は驚きました。「じい様が使った橋はばい菌まるけなんか。愛情の表現はどうしたらいいんや。無菌状態にすることは心身共に弱い子にしてしまうのと違うんかい。」一本の筋が通らない事で色々な問題を醸し出すのと違うのかな。これまたリピーターの皆さんご意見下さい。

 

『病は気から』と申しますが

一旦お腹の張りは治まっていたのに、昨日は一日張りが強くて、施設にいても事務所内の職員に気を使わせてしまうような状態で、午後からは垂井町で実施予定をしている新規計画の為の土地に建っている町営住宅の解体をするための下見に垂井町の担当者の方の協力を得て行われたのでご挨拶を兼ねて出向いたのですが、少し歩くのもお腹にこたえるような状態でしたが、何とか皆さんに迷惑をかけない対応は出来たのですが、正直脂汗をかいていました。

下見が終わり少し早かったのですが直接家に帰らせて貰い、横になり、コラムを打とうとガラケーの携帯とにらめっこしても、一人になると『コロナ、コロナ』と呪文のような状態で・・・。だから、昨日のコラムで書かせて貰ったように発想を『セーフティネット』の話題に変えて頭の中から『コロナの呪文』を追い出したら元気が少しずつ出てきたので、本日は朝早くからコラムを打っていて今(午前6時00分)関ヶ原町のチャイムが鳴りました。

今日は午後から笠松に出掛けるのでスーツに着替えようと準備していると三重県老施協の近藤会長から電話が入り、話し終わって再び着替えようかと思ったらまたまた携帯がなり今度は、福井県老施協の皆川会長からの電話で、どちらも当然の事ながら話題は『新型コロナウイルス』『マスク、消毒薬』『名古屋市のデイサービスの休止』です。確かに我々高齢者介護に関わる者として、当然と言えば当然の事なのですが、未だ終息の目処が立たない状況においては私も含めて皆川会長、近藤会長もそれぞれの県の代表者としてどのような対応がベストなのかを考えると正直頭を抱えなければいけない状況です。但し、お互いに情報共有をしてより良い提案・実践をしていきたいと改めて思いました。

話しはガラッと変わりますが、コロナ、コロナと言う事で頭が一杯でしたが気が付けば3月12日。新年度になるまでにそれほど日数がない。実際に3月20日には杉和会の理事会も予定されているのだし、事業案、予算案に対する計画を固めなければと色々と連絡をとって構想をまとめています。本部施設本館は22年が経過し、新館においても16年が経過して(16年が経過していて『新館』と言う呼び方には少し無理がありますが)特浴も老朽化が激しいのもありますし、ポンプにしても耐用年数をはるかに越しているのもあるし、ここは理事長としての手腕が問われます。

また、令和2年度に盲養護老人ホームと養護老人ホームの合わせて80床の計画をしているのでこの1年間で新規採用も含めた人事についてもしっかり事業計画に組み込まなければいけないので、じっくりと考えを練らなければいけないと考えています。理事長には職員の任命責任がありますが、これを上手くしないと組織の動きがしっかり出来ないので、しっかりとした考え方で提案したいと考えています。

立ち上げ時とは比較にならないほど職員の質も量も確保できている今だからこそより充実した組織体にしていきたいと思っていますので、リピーターの皆さん、これからも杉和会へのご理解ご協力宜しくお願いします。

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