2020年03月の記事一覧

新館の思いの中で各ユニットに立派な書を書いて頂いた静慈圓師の事

令和2年3月31日

新館が完成したのが平成16年4月ですから、既に15年以上前の事なのですが、各ユニットの名称の『喜』『笑』『天』『結』に合わせた梵字を書いて頂くように滋賀信行会(本部は長浜市)の内藤会長にお願いに行って貰ったところ、立派に書いて頂いたのですが、内藤会長のこだわりで台紙を京都の紙屋さんに行って購入して貰う時に『赤色』『クリーム色』『オレンジ色』『うぐいす色』を指定したところ、お店の方が「どなたに書いて貰うのですか。」と聞かれたので「高野山の静慈圓先生です。」と答えられたら、「そんな色の紙には絶対に絶対に書いて貰えませんよ」と言われたのに対して内藤会長は「静先生なら書いて頂けますよ」と涼しい顔で答えたとこれまた涼しい顔で私に話をしてくれたのを15年前に聞いたものです。

立派に書いて頂いた年の8月20日に施設に来て頂き、書いて頂いた書が各ユニットに飾ってあるのを見て頂き、本館1階の畳の間(デイサービスの静養室)に設置してある1間半のスペースに収まっているステンドガラスの入った三方開きの仏壇で(リピータの皆さんも一度見に来て下さい。)静先生を導師にして般若心経をあげて頂きました。その後、関ケ原駅前の料亭『末廣』に場所を移し交流を図ったのですが、静先生の話題は豊富で、空海が遣唐使で中国に渡られた時に船が難破して当時の長安の都まで2400キロの足取りを20年かかりで調査された時の調査団長をされて、中国から渡ってきたはずの真言宗のお寺は根絶やしされていて全くなくなっていたので、中国での再興に尽力をされ、中国に『空海ロード』を作られると共に『空海学会』までが出来て、静先生は中国では最高の評価を受けられているとのお話を聞きました。

その時は1回だけのご縁かと思っていたのですが、静先生の方から「若山さんは実に思いのある施設運営をされている事、本当に素晴らしいです。来年も立派に運営されている姿が見られたら嬉しいのですが。」と言われたので「こちらこそ宜しくお願いします」と言う事で毎年8月20日と決めて来て頂いてます。(※一昨年だけは来て頂けませんでした。その理由は静先生が『法印』※としての役割を1年勤められたので、高野山から降りられる事が出来なかったからです。)今は、『前官』※※となられ昨年の8月20日にも来て頂きました。

この15年の間には私も忘れられない出来事がありました。それは、静先生の書が西暦3世紀頃の書家で中国2000年の歴史の中でナンバーワンの書家と評されている『王羲之』の墓誌の隣に静先生の記念碑が建立されると言う事で私も随行させて頂きその時は改めて静先生の凄さを感じさせて頂き、私もビップな歓迎を受けました。※『法印』とは、岩波書店によれば・・・(法印大和尚位の略)最高の僧。※※『前官』とは、岩波書店によれば・・・功労顕著な者に対し、その退官後も在官当時の待遇与えられる。

静先生が1年の内1日のみとは言え優・悠・邑にきて下さる事は凄い事だと理解しているので、毎回、静先生の素晴らしさを理解して頂ける方をご招待させて頂き私のネットワークをより強固なものにしてます。ちなみに、遠い方では北は栃木県からで、南は鹿児島県です。静先生とのご縁はこれからも大切にしていきたいと考えています。

 

昨日、誕生会が終了後しみじみと家族会会長の吉田さんと話をしました

家族会会長の吉田さんは私が孤軍奮闘で、私が生まれ育った今須の地で高齢者福祉施設の建設計画をしているのを聞きつけて、施設の建設が岐阜県の計画にも挙がっていない段階から協力を申し出て下さり、色々と相談に乗って下さったり、具体的に進んできた時には吉田さん所有の倉庫を事務所として提供して下さったりして頂きました。

また、平成8年度での計画が白紙撤回され暗礁に乗り上げて、その当時の大垣商工会議所の河合会頭の計らいによって岐阜県庁議会棟での話し合いにも同席して下さり、関ケ原町に於いての必要性について熱弁を奮って頂いた方です。

岐阜県庁に行った時の話で盛り上がり「あれは、平成8年8月だったから24年前なので私が42歳で吉田さんが47歳の時ですね。」と投げかけると吉田さんが「お互いに若かったな。でもあの時は必死に食らいついて良い結果になり今があるんやな。」と言って頂いた時にはお互いに熱いものがこみ上げてきました。

一言で『22年が経過した。』と言っても、過ぎ去った経過の中でどこを取っても印象深いものがあります。本館の竣工式が行われた平成10年5月15日には、式典が無事に終了してから、吉田さんと共に手を握りあって喜んだのを昨日の事のように思い出しますし、土地の提供をして頂く話の最終段階の話を取りまとめて下さったのも吉田さんでした。

竣工式が終わり3日後に事業開始(5月18日)する段階になって、実際に居室のベットに寝てみました。そして私自身が真っ青になったことがありました。と言うのは、多床室の間仕切りを木で感じ良くして頂いたのですが、寝た位置からは隣が丸見えだったのです。そこで、建築施工業者を経営されている吉田さんに相談すると、「何とかする。」と言って翌日には材料を手配して下さり見栄えも良い形で目隠しをして下さり「立派に完成したご祝儀だからお金はいらん。」と言って頂いたのは本当にありがたかったです。

吉田さんの家には色々な相談もさせて頂く事があり、吉田さんのご自宅へも何度となく行かせて頂いているのですが、その当時お茶を持ってきて頂いたりしていたお母さんのお世話を今は当施設でさせて頂いていて、家族会の会長をお願いしたら気持ちよくお引き受けして貰って、月1階開催している家族会主催の誕生会には必ずきて頂きプレゼントをその月の誕生日の方に渡して貰っていますし、毎年8月に開催している夏祭りでは、かき氷の販売をして頂いています。吉田さんはこよなく関ケ原町を愛されているので、関ケ原町敬老会の会長さんもされているのですが、3つ年上の今須の先輩として誇りに思っていますし、今後も親しくお付き合いして頂けるようにしっかり施設での運営をしていきたいと思います。

リピーターの皆さんも吉田さんのように下支えして下さる方がおみえになるから施設が盤石になっていく事をご理解していただければ嬉しいです。

非常勤講師二回目からの私

令和2年3月29日

一回目の講義がハチャメチャだった私は一週間リベンジを考え続けました。そして、小さいときの私と違って失敗を引きずらない自分がいることに自分自身驚きながらも、私が起こしたアクションはまたまた驚く事に教材に選ばせて貰った吉田宏岳先生監修の教科書『養護原理』を何度も何度も読みました。そして、何度も読んで理解した事は『教科書と言うのはアウトラインしか書いてないので全く面白くない。』と言う事で、次に考えたのは『教科書に書いてあるものに私の体験談を話しながら肉付けしていく事にしよう。』との結論でした。

つまり、一般的な講義は、教科書を開かせ、専門用語を示してからおもむろに説明される(多分・・・。だって私が受けた法学部の講義がそうだったから・・・。だから正直面白くなくて、段々受けなくなったから※自己弁護しなくていいのに・・・)と思うのですが、私は逆転の思考(そんな大袈裟なものではありませんが)で、私の体験談を話をして、「今話した事は教科書の何ページに書いてある用語の事の説明ですから後で読んでおいて下さい。」と言う講義スタンスにしたのです。私はがむしゃらに、しかもむてかつに13年間児童養護施設の指導員をしてきて専門用語など知らずにいたのですが、大学で講義をさせて貰うようになり自分の足跡を整理する事が出来た事と現場の生の声を学生に伝えれたので学生も聞きやすくて分かりやすいと親しみを持って受け入れてくれたように思っています。

その一つの現象が2月14日のバレンタインデイには一杯チョコレートを貰えましたから。(当時は軽トラ一杯位と大袈裟に言ってましたっけ・・・)その当時吉田宏岳先生(日本福祉大学中央福祉専門学校長)が代表を務められていた『教育と福祉を考える会』の末席に座らせて頂いた私の講義に対する学生の評価が高いとの話が出て、少しずつ講義するコマが増えてきて、一番多い時は週に13コマで毎週月曜日は6コマの依頼を引き受けていました。(勿論吉田宏岳先生のご配慮があっての事ですが)1コマの時間は90分ですから一番多い時は90分✖6コマ=9時間の講義をしっかりやっていました。だから、月曜日は関ヶ原駅近くの駐車場(月額5千円)に車を預け、名古屋の金山駅に8時30分には着き午前中2コマを専門学校で行い、午後は近くの短大に移動して2コマをしてから再び専門学校に戻り夜間の学生を教え再び金山駅に21時前で電車を待っていたものです。

食事は昼と夜の分の2食のお弁当を非常勤講師室で食べたにもかかわらず、少しの時間を利用してホームにあるきしめんを食べるのが楽しみでしたが、遅い時間なので『きしめん完売』の立て札があると、がっかりしたのを昨日の出来事のように思い出してます。

13コマしていた時は月曜日が6コマ、火曜日が4コマ、水曜日が2コマ、土曜日に1コマだったと思います。私は基本的にマイクを使わなかったので(マイクを持ったら歌い始めてしまうでしょ)150人規模のクラスだと、かなり大きな声を出さなければいけなかったのですが、大きな声をだすようになり、お陰さまで声が渇れる事もなく出来たので結果的に複式呼吸がしっかり出来るようになったのと声帯も鍛えられたように思います。だから、お陰さまで今でもお経を大きな声で唱えられるし、カラオケでもしっかり声を出せています。

大学の講義は、施設の借り入れ返済をある程度私が担わなければいけなかったので(償還金を措置費においては民間改善費以外は使っていけないしばりがあった為)引き続き週に2日は自分の公休日に行っていました。13コマもさせて頂いている時には大学で使用する教科書の執筆を依頼された事も何度かありました。最初の執筆の時には出版社の担当者から「先生に頂いた原稿の内容は大変興味深いものですが、教科書としてはそのまま載せるわけにはいきませんので、大変申し訳ありませんが書き直して下さい。」と言われて「どの部分を直せば良いの」と聞くと再び「誠に申し上げにくいのですが全面的に書き直して下さい。」との答えに若かったと言うか世間知らずだったと言うか、かっかとしながら「どこがいかんのや。私的には最高の書き振りと思っているのに。」と言うと「確かに面白いしわかりやすいのですが、この内容は教科書にはなりません。この原稿は、いずれ先生お一人の本として完成させて下さい。その時はお手伝いします。」と言われ、私的には不本意な内容で書き直しました。

考えてみると、高校生の時代からの私はそれまでグーっと押さえていたのがはち切れて、どの世界でも跳び跳ねていたのだと、このコラムを書きながら思ったしだいです。と言うことは、現在66歳だからかれこれ半世紀以上跳び跳ねていて、まだまだ収まっていない私はある意味幸せな人生だけれども、つくづく大変な生き方をしているのだと客観的にはおもうのですが、リピーターの皆さん、これからもハラハラドキドキの人生を歩む事になると思うのですが宜しくお付き合い下さい。※今日の原稿は2千字を越える長さだったものを最後まで読んで下さりありがとう御座いました。

非常勤講師での初めての講義は・・・。

令和2年3月28日

38歳に児童養護施設のカリスマ的指導員(自分で言うか・・・。でも、事実ですから)を辞し文字通りフリーになり、一番最初に非常勤講師をさせて貰ったのは、当時の大垣女子短期大学幼児教育学科の3部生(※3部生とは働きながら学校に来ている学生で、午前中講義があれば午後から仕事、午前中仕事であれば午後から講義)の学生に養護原理の講義をする事になりました。

私は児童養護施設の指導員時代になる前もなってからもいわゆる専門書なるものは一切読んだことがなく、自分の思いを実践する事だけでやってきましたので、『養護原理』と言う授業がどのようなものかも知らずに講義をお引き受けしたのです。私の辞書に『予習と言う文字はない』等と豪語していた私ですが流石にそんなわけにはいかず当時80分授業に見合っただけの準備をしようと教科書を開いて見ても全く面白くないので、最初の講義は私の福祉感を伝えて学生の気持ちをゲットしようと考えたのですが、いざ、何を話そうかと考えても何も出てこない。何かとっかかりの仕込みがいるなと考えた私は、父進の書斎から岩波書店の『広辞苑』を借りてきて(その頃の私が広辞苑なんて洒落たものを持っているわけがないでしょう。

ちなみに今な手元に常に置いていますが。)『福祉』と言う言葉の意味を調べました。(と言う事は『福祉』が何たるかもその時まで知らなかったと言う事です・・・。)その中に「福祉の福にも福祉の祉にも『示すへん』がある。この示すは元々何を意味するものだったかと言えば、神様にお供えをする三宝を表していて、誰もが豊かで幸せな生活を送る事を意味している。」と書いてあったのです。

その時、この意味からイメージ出来るものとして私はかつて読んだ漫画の中で(私の愛読書は漫画ですから)手塚治さんの『ブッタ』があり、その中でお釈迦様に何もして差し上げれないと思ったウサギが燃え盛る火の中に飛び込み自分を食べて貰おうとした行為を思い出しました。それは、豊かな国で無ければ福祉は成り立たない。今の日本は豊かな国になったからこそ福祉が語れるのだ。との意味を理解して初めての講義に挑みました。そしていざ話をしていて私の中では80分の講義になると思って挑んだのですが、実際には60分の時間も持たず、初めての事なので「今日は早いですが以上です。」等と厚かましい事が言えずに4月だったので決して熱くない時期だったにも関わらず、私の背中は滝のように汗が流れたのを覚えています。

また、今から考えたら「この先生は大丈夫か」と思われても仕方がない失敗もしたから乗って話が出来なかったとも言えるのです。それは『しめすへん』と言わなければいけないところを『ねへん』と言ってしまい、学生から指摘されて「そうそう、そうとも言うけどそれは昔は示すを書いていたけど今は『ネ』を書くのだから『ネへんで良いの』などとわけの分からんことも言って胡麻化したものの動揺していたから。考えてみたら非常勤講師時代も波乱万丈だったので、リピーターの皆さん、明日も阿保な話にお付き合い下さい。(こんな事してると、リピーターの皆さんが逃げてまうかな・・・。

平成26年4月2日に事業開始をした優・悠・邑和合のこだわり

令和2年3月27日

平成24年度に大垣市が特別養護老人ホーム80床の計画を2法人に決める為の企画が大垣市のホームページにて提示されました。関ケ原町において、従来型50床とユニット40床を運営している当法人にとってまたとないチャンスと考え理事会・評議員会の承認をあて、大垣市が実施するプレゼンテーションに手を挙げる事にしました。

企画書を作成するに当たって大垣市の特別養護老人ホームの個室率を調べてみました。その中で分かった事は、当法人が平成15年事業で新館増築を計画した時はユニットで40床と言うものでしたが、先般のコラムでも書いたように岐阜県で2番目のユニットの計画だったのですが、その後は特別養護老人ホームの建設ラッシュはユニットオンリーのような形で作られてきた経過があり、大垣市の個室率は入居においては75%でショートステイに於いては80%を超えていました。その結果を基に『多床室であってもプライバシーが守れるハード』と言う考え方で提案骨子を作成しました。

その時の提案時間は4分と言う考えられないほど短いものでしたが、4分の中に杉和会の思いを原稿にすると共に、根拠となる資料を作成しました。プレゼンテーションの持ち時間は4分なので3分45秒で話が出来る為に何度も何度も読み合わせをしました。(小学生の時に国語の本読みもたどたどしかった私としてはめっちゃプレッシャーでした。)『居室は一人以下』等と言う通知がでたり、平成24年度介護報酬改正において『新設の多床室の単価は従来の多床室の基本単価よりも低く設定する』と言う『従来型を目の敵』のような制度設計の中での、ある意味『無謀』とも言える提案だったのですが、「今後の社会保障と西濃地区の現状を考えた時に個室オンリーの考え方では需要に合わなくなる。」との思いも盛り込んだ内容にしました。

プレゼンテーションの実施当日は非常に緊張しましたが、自分で言うのも変ですが落ち着いて予定通り3分45秒で話が出来、質問に対してもしっかり答える事が出来、結果的には一番良い成績を収める事が出来、めでたく平成26年4月2日に事業開始が出来ました。

その間に介護報酬改定による不思議な現象について岐阜県議会に理解を求める活動もしました。その時の私の説明の仕方は「同じような条件で建っているアパートが新しくできました。古くから建っているアパートと比較して新しいアパートの値段は高いと思いますか安いと思いますか」と県議会の先生に聞いてみました。当然の結果として「新しい方が高いに決まっているだろう。」との答えが返ってきたので、私は間髪入れずに「ところが、介護報酬のルールでは新しい方の単価が安いんです。」と答えると、議員の先生から「どのようなシステムにしたらいいのか」と聞かれたので「少なくても差額分を県単独補助をして頂けると、岐阜県は多床室を応援している強いメッセージになると思います。」と話をしたことを議会で予算をつけて頂けました。

現実的に優・悠・邑和合において従来型の使い勝手が良いとの意見を多く頂いてます。残念ながら岐阜県からの強い発信に追随する県はありませんでしたが、多床室の単価は平成27年度改正で統一されました。リピーターの皆さん、先を見るのは難しいですがこれからも精いっぱい頑張りますのでよろしくお願いいたします。

看取りに対する優・悠・邑(関ケ原)のこだわり

令和2年3月26日

本日看取りの方が残念ながらご逝去されました。家族の方がお見えになり、お医者さんの死亡診断をして頂いた後に、「家族さんのご希望があればお風呂に入れさせて頂きご自宅まで送らせて頂きます。」とお話させて頂くと家族の方から「そんなことまでしていただけるのですか」と言われたので「ご縁を頂いた以上は当然の事としてさせて頂いてます。」と答えると是非お願いいたします。」と言う事で、先生の死亡確認後、お風呂に入って頂き、浴衣を着て頂き、お化粧も職員が思いを込めてしてくれました。本日亡くなわれた方は、最後の⒉週間位は清拭のみだったのでお風呂に入られてからは私の思い込みかも知れませんがほっとしたお顔になられたようにみえました。お風呂に入って頂くようになったのは職員の思いが始まりでした。

それは、随分前の事ですが、看取りだった方が最後に吐血をされ、いつものように清拭をしていて「何度も何度も綺麗に拭いても血の匂いがして何とかしたいのですが」と言ってきたのを副施設長が聞いていて「お風呂に入って貰ったら良いのではないか。」とのアドバイスを貰い、大きなたらいのような物を倉庫から持ち出し、浴室で職員が洗っていて、匂いが無くなると同時に顔がピンク色になったのに洗っている職員が感動してから、亡くなったらお湯に浸かって貰う事になったのですが、洗っている時に職員の姿勢が辛そうだったので、『本当の浴槽でないと大変だ』と感じた理事長である私が感じて先ずはホーローの浴槽を手に入れ、施設に近い養老町で車椅子を製造している『松永製作所』の常務さん(大学の後輩)と技術者の方に来て頂き「ホーローの浴槽にタイヤを付けて移動がし易いようにして欲しい。」とお願い(半ば命令)すると、技術者の方が「ホーローの浴槽にひびが入る可能性があるので難しいです。」と言われたので、「職員の亡くなってからお風呂に入れて差し上げたいの思いを実現するために何とか英知を結集して作って下さい。」と話すると常務さんが「あいからわず理事長さんは無茶ぶりされますが何とか職員さんの思いに応えれるように頑張ってみますがひびがいったりしてもお許し下さい。」で完成して今は職員の負荷もかなり軽減して湯灌が出来るようになりました。

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本日は亡くなられたのが午後1時過ぎだったので職員が多くいる時間帯だったのですが、何故か亡くなられる時間帯は深夜から早朝が多くて職員が少ない時間帯が多いのです。そんな時も必ず湯灌とお送りをするのですが、宮沢賢治の『雨にも負けず』で対応してます。それは、ご縁を頂いた以上とことんお世話をしたいとの思いからです。この考え方を一貫して実践すれば、『最後の看取りだけ』ではなく、当然ながら元気な時から精一杯のお世話の充実は作られると考えています。リピーターの皆さん杉和会の理事長はこんなに面倒くさい人間ですがこれからも宜しくお願い致します。

 

ボストン会会員の心配の種

令和2年3月25日

35歳の時にアメリカ研修に行かせて貰い、3年もしない内に児童養護施設を退職して理想に燃えてフリーになったのは良かったのですが、現実は無納税者の体たらく。まさか『カスミ』を食べていけるわけで無し。と言う事もあり特別養護老人ホームの建設計画を立てたものの平成8年度の計画は頓挫するし、膨大な資料を作成しながらも大学等の非常勤講師と家庭教師をこなし時間もない、お金もない状況の中で年に1回開催されているボストン会を欠席した時はメンバーの中で『若山死す』等と冗談にもならない情報を流す者まで現れる次第。

北は気仙沼から南は沖縄(何日か前のコラムで『宮崎』と書いてしまいました。それは、沖縄の会員だけがボストン会の参加がなくて存在感が薄かったので間違えた次第です。)の総勢17名の会員は、私の事を本当に心配してくれていて、会員の中には情報や励ましや資金援助をしてくれました。平成10年5月15日の竣工式典には宮崎県からボストン会団長を初め多くの会員が来てくれました。

事業開始してからの2年間は老人福祉法の中の『措置制度』の中で厳しい経営を強いられましたが、平成12年4月からは介護保険法の中の契約による施設になり、職員の資質も上がるの事による相乗効果によって稼働率もあがり、経営も盤石になってきて、ボストン会のメンバーも私の心配をする事はなくなりました。

介護保険法導入時の報酬は点数が高かったのと、職員の勤務年数も短いのもあり、収支状況が良くて介護保険導入の3年間で資金を持つ事が出来ました。社会福祉法人は基本的には免税のシステムです。その代わり『地域貢献』を義務付けられています。そこで、その当時何で地域貢献すべきかを考えた時、特別養護老人ホームの待機者の緩和こそ大切だと考え、平成15年度事業で『新館の増床こそ地域の民意』と考えて40床の増床を計画しました。

その当時の考え方の中で国は『個室化』を推し進めていたので『ユニット』での計画をしました。ユニットでの計画は岐阜県で2例目の事で『岐阜県でのモデルとなる施設にしたい。』との思いで、『ユニット』は『プライバシーに特化しなければ』との思いで計画しました。また、本館の時よりは時間的にも資金的にも人材的にも余裕を持って計画したので、本館の時とは違った意味で拘りのある施設にしました。

例えば建築中に般若心経のお写経をして柱の中に入れたり、居室を見渡しが出来にくい構造にしたり、高野山の大僧正で日本一の書家と言われている静慈圓師の書を各ユニットに飾らせて頂いたり、認知症の方もゆったり過ごして頂けるように飛騨家具を購入したりしました。また、1階は和風にして1ユニットは完全な和室にしました。

何故なら家にお見えになった時は畳に布団を敷く生活だと考えたからです。(開所当時は大変喜ばれたのですが、基本的に『要介護3』以上の入居と言う条件に改められてからは入居者の重症化が進み立ち上がりの動作だ出来る方が少なくなり、畳にベットが殆どになりました。)2階は洋風にして暖炉のあるスペースも設けました。優・悠・邑のこだわりを一度見に来てください。昔から言うでしょ。『百聞は一見に如かず』とリピーターの皆さん是非是非来て下さい。

 

本館計画時のこだわり

令和2年3月24日

施設見学については、特養、老健を中心におおよそ30施設を見させて頂きました。施設計画が公になるまでの名刺の肩書きは『大垣女子短期大学幼児教育科非常勤講師』だったので、訪問した施設の方には、何故特養建設なのかを話しすることを熱く語る事からさせて頂きました。(ちなみに、計画が遡上に乗ってからは『関ヶ原町老人福祉施設設立準備会代表』の肩書きにしました。)今考えると「へんな奴だが、熱いものを感じる」位の印象を持たれるだけだったと思いますが、どの施設でも親切な誠意を持った対応をして下さいました。

だからと言うわけではありませんが、今は施設見学や施設での研修をお受けした時は精一杯の歓迎をします。但し、施設見学を受ける時は最低3時間のお時間を頂かないとお受けしない事にしてます。何故ならば、法人の理解を含めて3時間はかかると考えているので。正直私は特養がどのようなものかも理解しないままでのスタートですからハード面の事も何もわからない状態からのものなので見るもの全て新鮮でしたが複数の施設を見学させて頂く中で理解していった事は『病院モデルからの脱却』が必須だと思いました。

つまり、特養は『生活の場』として如何に快適な空間を作る事であり、尚且つ、職員にとっても働きやすい環境でなければいけないとも考えました。但し資金には限度がありその事にも配慮することが大切だと言うこともわかっていました。但し、平成9年度の頃は色々な補助金もあり、いろんな書類を作成して、基本の補助金も頂きながらの計画が出来ました。色々な補助金については私の事業に協力して下さる方の中から多くの情報を得てのものでした。また、資金作りの為の行脚もしました。

その中でも当時福祉の重鎮であった吉田宏岳先生(日本福祉大学中央福祉専門学校校長・教育と福祉を考える会代表)には1千5百万円もの支援を受けた時には正直「私にこのような多額の資金援助を頂いて良いのでしょうか。」と聞いたところ、若山さんへの先行投資で10年後を楽しみにしていますよ」と言われた時には「期待に応えれるように頑張らなければ」と背筋を正す思いでした。(先生は新館を見に行くと言われていながらご逝去されたので叶いませんでしたが、天国で「よしよし」と言って頂いているのなら嬉しい限りなのですが)多く見学したなかで、三重県の施設では1階と2階のワーカー室の上り下りは螺旋階段にしましたし、愛知県の施設の地域交流スペースの多目的な活用の仕方を見習いましたし、トップライト(光庭)や中庭の設定も風が通る為の配慮として行いました。(コロナウイルス対策には一番効果があると思っています。)また、ある施設の理事長さんから、「実際に工事が始まったら毎日現場を設計管理者と見て回りなさい。」とアドバイスを頂いたので、図面を見ても良くわからないところが多かったのですが見よう見まねで鉄筋の数などを数えたりもしました。

かなり工事が進んだある時にお風呂を見て蛇口の位置が一般用と同じ位置であることに疑問を持ち職員が楽に使える位置に変更して貰いました。その理由はお世話をする職員が一回一回腰を屈めるのは負担が大きいと考えたからです。リピーターさんの中には利用者に優しくないと思われた方もあると思いますので、私の考え方を言いますと利用者さんにとっては屈伸運動になって良いのではないかと考えたのです。このように、特養の事を全く知らなかった私の考え方は『利用者にとって何が大切なのかを自分なりに考えた結果です。今思うに予備知識がない分、迷いなく出来たのではないかと思っています。

本館事業開始(平成10年5月18日)してからの波乱万丈

令和2年3月23日

5月15日に開催した竣工式典は多くの来賓をお迎えして出来たのですが、その準備で地元の今須小・中学校の体育館のパイプ椅子をお借りに行った時にその当時の教頭先生と共に体育館に入って行っても椅子を運ぶ為に来ていた職員は挨拶も出来ないような状況だったんで、竣工式までに「お客様を迎える」とはどの様なことなのかを徹底的に話をして、各エリアの説明をスムーズに出来るように何度も何度も練習させる事によって、職員一人ひとりの気分の高揚を図った事により無事に出来ました。18日からの入居開始により、5月末で入居が5人、6月で15人、8月で25人で満床の50人になったのは10月3日でした。どうして5か月近くもかかったかと言うとその当時は特別養護老人ホームは老人福祉法の『措置制度』だったからです。その為、当時の理事長と共に各市町村への挨拶も精力的に行いました。ところが満床になって一段落と思った時に事件が起きました。それは、私が大学の講義を午前中で終えて14時頃に施設に帰って行くと、その当時の関ケ原町の担当者の方に電話するようにとの事で「何事か」と慌てて電話すると、担当者の方にいきなり、「ショートステイの定員は何人ですか」と言われたので(「何で今更」と思いながら)「20人ですが」と言うと「現在ショートステイの利用は何人か」と言われたので「4人です」と答えると「まだ16人も利用出来るのに、どうして利用を断るのか」と言われたので私自身状況がつかめず「少し時間を下さい。」と電話を切り、その当時の指導員(今の生活相談員)を呼び説明を聞くと、「現場が今でも忙しいのに受けれるわけないと言ってます。」と答えたのにはあきれ果てましたが、それがその頃の現実でした。と言うのは、緩やかにしか入居が無かった為に『ゆったり』の動きのなかでしか動けなくなっていたのです。そこから、私と職員との戦い(本来あってはいけない事ですが)が始まり「施設長は現場の事を知らずに偉そうに」とのそしりを受けながらも、国の基準以上に職員配置をしている事や収支状況を良くする事によって給料も良くする事が出来る事、『今日一日楽しかったよ』の実践が大切だと言い続けましたが、1年目の年明けの頃から退職者が白い封筒を持ってくる職員が多く出て、胃に穴が開くのではないかと言う日が続きました。ただ、その頃は新たな職員確保が出来る頃だった事は幸いでした。もし、今のような状況だったら法人自体が瓦解していたかも知れません。2年目になり、職員との乖離をなくしたいとの思いから、理事会の承認を経て、自ら施設長を下りて現場での仕事を1年半させて貰う中から職員との意思疎通を図り、今に至っています。もしも私が職員の気持ちを理解しないままの状態であったら・・・。今の杉和会は存在すらなかったかもしれません。

平成9年度事業で本格的に事業が推進していく中で

令和2年3月22日

用地も確保ができ、平成8年度事業での計画が出来るように本格的に設計士と共に施設見学も本格化して、夢を語り思いを語り図面も完成して、その当時の岐阜県西濃福祉事務所との打ち合わせも順調にいっていたので、平成8年度事業での計画が遂行するものと確信していたのですが、『予定は未定であり、決定ではない』の格言のような事態として西濃福祉事務所から1本の電話がありました。

それは、「大垣市は独自の福祉事務所があり、大垣での特養の80床と50床の計画がある情報が入っていなかったが、2つの計画を優先させたいので、関ケ原町の計画は見合わせたい。」との連絡に頭が真っ白。その現実を受け入れる事が出来なくて、怒りが沸き上がってきました。「こんな大切な事を1本の電話で済ませるのか。」と。私は直ぐに西濃福祉事務所に行き「納得がいかない。」と強く迫りましたが「大垣市の情報が突如来たので。」とばかりでらちが空きません。その当時の支援者として大垣市商工会議所会頭であった河合達夫さんに相談に行きました。(当時河合会頭のお孫さんの家庭教師をしていたので、藁をも掴む思いで・・・)

-必死に話す私の話を聞いて下さり、岐阜県庁への陳情の機会を作って下さり、県庁へ河合会頭を筆頭に、私の他に今は優・悠・邑家族会会長の吉田さん(当時は設立準備後援会代表)にも同席して貰い河合会頭に口火を切って貰い、私が熱く語り、吉田さんも熱く語りで、その当時の民生部長さんが「主旨は良く分かりましたので次年度の検討課題とさせて下さい。」で陳情が無事に出来、平成9年度事業で特養計画が復活して、書類作成を一生懸命にするのですがその当時はパソコンではなくいわゆるワープロでの書類作成だったので、罫線を引くのも大変でしたが、何とか分厚い書類を作る事が出来ました。

その当時は、岐阜県の担当者と打ち合わせをして出来たものを県の担当者が厚生省に行きヒヤリングを受ける流れだったので、県の担当者と最終的には二人三脚で県の担当者も休み返上でして頂きました。国からの内示を頂きほっとすることなく法人認可の書類に取り組み平成9年7月17日に法人認可が来た時には天にも昇る思いでした。公認を受けた法人での理事会を緊急に開き、8月8日に入札を行い翌年10年5月15日に竣工式を行い5月18日に開所しました。無事に開所しましたが、そこからも波乱万丈がありましたのでリピーターの皆さんまだまだお付き合い下さい。

 

 

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