2020年01月の記事一覧

病院に来てます

令和2年1月11日

1月4日から5日間関ヶ原診療所に入院したアフターケアとして、診療所に来てます。先ずは血液検査をして、退院時からCRP(炎症反応)の数値や肝臓の数値のガンマGTPの数値がどこまで下がったかを測定してもらって結果が出てから主治医の森島先生に診て貰う為に今は待合室で待っています。昨日お屠蘇として、大吟醸『きりんざん』を振る舞い入居者さん、利用者さんから元気を頂いたので、多分数値は下がっていると思いますが少しドキドキしてます。ただ、事前に測った体温、血圧共に正常値なので大丈夫と思っています。待合室でコラムを打っていると小学3年から中学卒業までずっと同級生(1学年1クラスだから当たり前の事ですが。3年生からと言うのは1、2年は分校があった為に別だったから)だった方が母親の受診の付き添いで来ていて、昨年暮れの同窓会の話をしていたりしていたら、「ひろっちゃんは凄く頑張ってるね。」と言われたので、「ぼくは13歳で母親を38歳で父親を亡くしていて、親孝行をするような事が出来なかったので、今地域の利用者さんを親のように思って頑張らせて貰っているんや」と話すると、「私は母親一人でも大変やと思ってるのに大したもんやわ」と言われて『中学校時代に出来が悪かった事を知っている同級生からこのように言われて嬉しいような恥ずかしいような気分やな』と思っている時に同級生の母親が突如会話の中に入ってきて「あんたは小さい頃体が弱かったのに今は立派になって。施設に遊びに行くと楽しいことを一杯やってくれてありがとうね。」と言われてこの時も頑張ってきて、地域の中で頑張れていることに改めて感謝です。本日は18時から施設がある地区の新年会で本来なら私も職員を引き連れて参加させて貰いしたたかお酒を頂くのですが、退院してまだ3日目で『ここは自重すべき』と考えて、新潟県と石川県の冷酒の美味しいのを一升ずつと缶ビール24本入り1ケースと山梨県の勝沼ワイン赤白一本ずつを職員に持たせて17時40分に会場入りをして、先ずは区長さんに新年の挨拶と新年会はご無礼することを伝え、次々とおみえになった方にお断りの挨拶をして帰らせて頂き、今はお風呂に浸かってコラムを打っているのですが、診療所から帰ってお汁粉の振る舞いが順調だった報告を受け、昼食後に地元の天満神社、白山神社、若宮神社(若山家の氏神様)と妙応寺と若山家のお墓に参り、まだ時間があったので美濃国の一の宮である南宮神社もお参り出来ました。私の本格稼働は連休明けと考えていたので、例年以上にお参り出来ました。年末年始に病気をして『ゆっくりすべし』と居直った事により沢山お参り出来たのは『災い転じて福と成す』でしたので、リピーターの皆さんこんな生き方の私をますます応援していただければ嬉しいです。

十日正月でお酒を振る舞いました

令和2年1月10日

(本来元旦に行うべき楽しみが、私の体調不良で本日になってしまいましたが)10時からお酒を振る舞うように9時過ぎに施設に行くと既にお屠蘇用の準備が出来ていて、先ずは「ありがたいなぁ」と思っていると突然の年始のご挨拶のお客様で、会議室で話をしていると10時前になり、職員が「入居者さんが理事長を待ってみえますからお願いします。」と言われお客様にはお詫びのご挨拶をして、入居者さんのところに行き、皆さんの前で「新潟県の大吟醸『きりんざん』を頂いたのを皆さんに飲んで貰いたくて残しておいたのを持って来たのでこれから封を開けて飲んで頂きます。飲みきれないほどありますのでゆっくり味わって下さい。」とお話をして、お屠蘇用の器にお酒を入れて3種類の盃を持って注いで回る事にしました。

最初にお酒が大好きな男性の入居者さんに「一番大きな盃になみなみ注ぎますよ。」と言いながらお酒を注ぐと、手伝っていた職員が思わず「めっちゃ嬉しそうな顔をされている。」との発言にそこにいたみんなが大爆笑。あまりに飲みっぷりが良かったので二回もおかわりをして貰いました。

IMG_0052 IMG_0058 IMG_0060 IMG_0054

飲まれない方には抹茶のサービスがあったのですが、しっかりと一人ひとりとお話させて貰いました。今年初めての方が殆どだったので新年のご挨拶をすると「理事長さんが元気がないとみんなが寂しいから健康に気を付けて」と言われたりして。デイサービスの利用者の女性の方の中で「私がお酒を飲んでいる時に理事長さんと二人で写真を撮って欲しい。」と言われて美味しそうに飲まれているツーショットがとれたり、順番を待って貰っている時のワクワク感がこちらに伝わってきてめっちゃ楽しい気分にして貰いながら、「のんべーさんには一番大きな盃で」等と言いながら次々と注がさせて貰いました。

最後に参加されたデイサービスの利用者の男性の方にお酒を進めたのですが最初は「私は結構です。」と言われていたので色々な話をしていくと、利用者さんの方から「せっかくだから一杯よばれようかな。」と言って下さったので一番大きな盃になみなみ注ぐと「これは美味しい酒やな。久しぶりにお酒をよばれたわ」と言われて実に美味しそうに飲まれたので「もう一杯どうですか。」と声を掛けると「もう一杯よばれても大丈夫か?!」と言って実に嬉しそうにお酒を注がれて飲み干されたので「やっぱりお酒は良いもんだ」とつくづく思いました。

1時間30分の時間の中で4合瓶1本が空になっただけですが、皆さんの目の輝きを引き出せたのだから私も病気などしないで今年一年楽しい企画を沢山実践して『今日一日楽しかったよ』と言って頂けるように職員一同頑張りますのでリピーターの皆さんも一緒にワクワク感を共有して貰えれば嬉しいです。あっ、そう言えば明日11日は『鏡開き』だった。今日は辛口、明日は甘口でパラダイスのような施設にしていきまーす。

28年ぶりに児童養護施設の現場を垣間見ました

令和2年1月9日

就労支援の情報交換の一貫として、児童養護施設の現状を施設長と心理士と就労支援員の3人の話を聞いていて、私が児童養護施設を辞して28年。入所している児童も措置理由が様変わりしていて、その体制をとる為の職員の配置も手厚くなっていて思わず私は『正に私が28年前にやりたかった事が制度の中で行われている事を知り、28年前の私が今存在していたら、今日発表された方の何倍も力を発揮出きるのに』と思ってしまいました。但し、今の児童養護施設の流れは『集団を小さくすることで家庭的な雰囲気を醸し出し、出来たら養子縁組と在宅復帰を目指す。』と言う事なのでしょうが、現実は親の支援が型通りにしか出来ていなくて、また、相も変わらず『施設お嬢様』『施設お坊っちゃま』を排出する段階から抜け出せていないように感じました。

私が10年程前に、高校には2ヶ月位しか在籍せず中退した女の子をその当時の児童相談所の所長さんから以来を受け児童養護施設から本部施設の敷地内の職員アパートに住まわせ厳しく育て、「年明けの成人式には着物をこしらえるかレンタルにするか」などと話をしていた(約3年で200万円程の預金もあったので)ある日、本人が体調を崩し病院に行き、「母親がいる更正施設には電話をつながない」との約束があったのですが3年の経過の中で引き継ぎが出来ていなかった為に母親との連絡が出来てしまい、病院へ母親が迎えに行き、本人と共にタクシーで乗り付け施設を出て行き、母親とは本人のお金がある間は上手くいっていた(表面上)がなくなると喧嘩が始まり、結局2ヶ月もしない内に別れ別れで再び当施設には帰る事が叶わず(私は迎え入れるつもりでしたが)その後行方知れず。

本日の情報交換会で私は質問しました。それは、「日本の親権ほど強いものははなくて、その点に対する対応はどのように対処されているのか」と質問しましたが、結局はしっかりとした答えが返ってきませんでした。情報交換会の後、主催者責任者の福祉事務所の課長さんがご挨拶に来て下さったので、「当法人は色々な方に門戸を開いている」と話をさせて貰いました。

その後施設に帰り本日寄せ鍋のバイキングだったので入居者さんの喜ばれる顔を見て、その後厨房業者の責任者と話をしたりしていると、年始の挨拶にお見えになる方がバタバタ続き、一段落してから決済印を本部と和合の両方の事務長にして、利用者さんの領収、請求の印も押し理事会の日程や新年会の日程を決めたりと、病み上がりの身としてはハードな日程でしたが何とか一日頑張れましたので、その勢いで明日は東京出張はキャンセルしたので『十日正月』と決め込んで大吟醸のお酒を入居者さん利用者さんに振る舞おうと考え、どんな風に喜んで貰えるかを今からワクワクでイメージしてます。

リピーターの皆さん。私は令和2年の本格稼働をようやく本日できましたので、本日から仕切り直しです。本年も相変わらず、ず、ず、ずいっと宜しくおたの申し上げ奉ります。

 

無事に関ヶ原診療所を退院しました

朝6時から30分置きに4回、採血と採尿をしてから朝食を頂きその後、入院最後の点滴を終えて入院メニューを全て終えて退院の片付けをしてからナースステーションに挨拶をしてエレベーターのところまで看護師さんに見送って貰い、一階に降りて入院の清算をして無事に家に帰り先ずは仏壇に手を合わせ早くに退院出来た事に感謝をして、昼食の準備が出きるまでに待望のお風呂に入り体をしっかり洗い、シャンプーで頭を三回洗いさっぱりしたところで10日ぶりに髭をそりました。私は男性ホルモンが少ないからか大して髭は伸びていなかったのですが石鹸を付けて丁寧に剃りました。久し振りの昼食の赤味噌の味噌汁は格別に美味しかったです。(退院報告はここまでにして、昨日見舞いに来てくれた姉春子さんが私が小さかった頃の写真を持って来てくれた時の事を書きます。)写真のところには父進さんの達筆な字で私が生後半年の時に『全快した宏』との文字があり、待望の長男が小さくして大病を患ったが無事に退院をした喜びがわかるもので、私は退院間際だったにしてはふくよかに写っていました。また、40歳半ばの父進が写っているのは既におでこのところがしっかり薄くなっていたのには姉春子と共に笑いました。そして父進さんと母秋江さんの結婚式の写真を見て私は思わす「髪を伸ばした(父進)写真を初めて見た(オールバック)」と叫ぶと共に「秋江さんはめっちゃ綺麗やな。親父が石垣の影から見て一目惚れして、垂井からわざわざ婿養子にくるわけや」と大笑いしてしまいました。姉光子さんと春子さんとのツーショットもありましたが、60年以上前の写真を見て改めて若山進家の長男として生まれた私は本当に大切な存在だったんだと思うと共に姉春子さんに「小さい頃春子さんはよーくふくれた顔をしていたね。」と投げ掛けると「今は丸くなったけどあの頃は私だけ除け者みたいですねとったんやね」と言ってから「誰一人どうでも良い子何ておらんよね」と言われて改めて思いました。『つまらないと思っていても一日。楽しいと思いながら過ごすのも一日。だったら笑顔でいられる事に感謝した毎日であれば良い』と思いました。このような会話が出来たのも私が入院をして得られた事。たまには入院も良いかな・・・。いやいや健康で楽しくでないとと病気をして健康のありがたさを改めて知りました。大谷徹奘師の受け売りのような締め括りになりましたがリピーターの皆さん災い転じて福と成す。私の真骨頂です。明日から一皮剥いた展開をしていきますので宜しくお願いします。※私は巳年なので色々な事があればある程皮を剥いて大きくなりますので・・・。

箱根駅伝について思ったままに書きます

令和2年1月7日

年が開けた1月2日、3日両日にわたって開催された第96回東京箱根間往復大学駅伝について、本日は7日なので4日も遅れての話題ですが、体調が悪い時にも『必ずコラムで書こう』と考えていて、本日私が入院している病室に主治医の森島先生が血液検査の結果を持って来て下さり「炎症反応の数値が想像していたよりも早く良くなっているので明日には退院出来ます。」と言う事で、嬉しさの中書く事にします。

先ずは、優勝した青山学院大学の選手達のお話を聞いていて、原監督の選手に対する指導について舌を巻く思いです。一年前には東海大学に次ぐ2位に甘んじて、5連覇を逃したところから始まっていたんだと思います。原監督の話の中で「突出した選手がいなくて、先輩が抜けた穴を埋めて主体的に引っ張ろうと言う選手がいなかった。そこで、主体性を重んじる指導から4年生に厳しく接する指導に変えた。当然ながら反発が大きかったし4人もの退部者が出たが最後の段階でワンチームになり、優勝ができた。」との話を聞き、原監督はさらっと話されているが「この一年は厳しかっただろうな」と思いました。

但し、私は原監督は勿論大変な道のりを歩かれていることは簡単に想像できますが、私は原監督の奥さんはご主人の信念についていき、やりたかったわけでもない事を(寮母のような仕事)従順にされていることに驚きを感じています。

本題に戻します。往路109・6㎞❌2=209・2㎞を10人の選手が走るのですが、総合タイムで優勝した青山学院と2位の東海大学との差は3分2秒しかないのには驚きです。しかしながら、この3分2秒の差を開ける為に凄まじい努力がなされた事は私のような者には想像だに出来ません。試合後の原監督のインタビューの中で「今夜は飲むぞ』の発言には喜びの現れだと思いました。今回の上位チームの中には(私の知識の中ですから正確ではありませんが)3位に国学院大学、4位に帝京大学、5位に東京国際大学が入賞していて、東洋大学がシード権ギリギリの10位には驚かされます。と言う事は、群雄割拠の時代に突入しているなかでの優勝ですから凄い事ですが、来年に向けて既に頑張られているわけですから頭が下がる思いです。

ところでこの箱根駅伝で大いなる疑問を持ったのは、これだけ日本全国から興味を持って貰っている大会なのに地方の大学は参加が出来ないのは頂けないと思います。箱根駅伝は最初から最後までテレビで放映されるし長距離ランナーを志す高校生であれば憧れのレースなのに地方をないがしろにしていては、地方に良い選手が集まらない現象を起こしてしまうのではないかと思います。色々とクリアしなければいけない事はあるのでしょうが、地方の大学の活力の為にも今後検討してもらえないのかと思っています。リピーターの皆さんのご意見も頂けたら嬉しいです。

籠の鳥3日目

令和2年1月6日

昨夜はマイ枕と加湿器と口へのマスクをして寝たのと咳も殆どでなかったので、午前1時30分に一度目が覚めましたがその後も爆睡して、町のスピーカーでのチャイムがなった6時までしっかり休め、洗面を済ませ今はギャジベットの頭を上げて朝食になるまでの時間を優雅に『週刊現代』を読んでます。

その中に40歳で亡くなった松田優作氏の生きざまが書いてありました。凄まじい生き方としか表現出来ない。その一例で『映画「野獣死すべし」の撮影時に過激な減量を行う。身長185㎝で体重は本来73㎏あったが、62㎏まで落とした。そのうえ頬をこけさせるため、奥歯を抜いたのだ。』そんな松田優作さんの言葉に『人間は二度死ぬ。肉体が滅びたときと、みなに忘れ去られたときだ』の言葉に私は深いものを感じました。だって、松田優作は30年前にこの世を去っているのに、今も特集が組まれている。つまり、魂は生きていると言う事でしょ。

私の父進は生きていれば108歳(子年)私が38歳の時ですから28年前に他界しているのですが、今でも父の話が出たり、話題によっては私の事業を助けてくれてますので、父進の魂は決して死んでないと思います。だとすると私は死んで何年位私の事が話題になるのか・・・。いつまでも話題にして貰えたら嬉しいけど悪い話で盛り上がるのは嫌だな。まっ、福祉・介護で頑張っているのだから大丈夫だとは思うのですが。

本日は1月6日で10日の全国老施協正副会長委員長会議の出欠の決断を下さねばいけないギリギリなので、長い目で考えて森岡副委員長の代理出席の判断を下し今(午後204分)色々と根回しの連絡をしました。全国老施協への熱い思いを持っている私ですので忸怩たる思いはありますが、今無理をして今後の展開に迷惑をかける方がいけないし、ここは、森岡副委員長と田中幹事に任せたいとの結論に達しました。確かに熱も出なくなったし、咳も殆ど出なくなったので・・・。いやいや、既に私自身で結論を出した事についてうだうだ言うのは止めます。

それよりは正月早々のこの体たらくは、『一年間、健康には留意しなさい。』との神仏からの戒めだと考えて今年はお酒を控えた生活に日々勤めなければと考えています。『平安之福』は節度ある生活があってこそ何だからと、籠の鳥の今は思っているのですが退院して3日もすれば忘れてしまう生き方にはそろそろピリオドを打たなければと今は思っています。そして、お酒は浴びるほどにではなく、美味しいお酒を少しだけとも思っています。

 

籠の鳥状態二日目の報告をします

昨夜は入院初日の夜と言うことで、多床室の大きな部屋に一人と言う事で自分の咳を気にする事もなく、ゆったりとした気分で「そろそろ21時の消灯時間だから寝る体制に入ろうか」と考えていたところへ看護師さんが訪室し「消灯の時間ですから電気を消しますよ」と言われたので、「常夜灯のスイッチはどれですか」と聞く「この部屋には設置されていないので、足元を照らす電気を持ってきます。」と言われて持ってきて貰ったのを取り付けて貰い、部屋の電気を消して貰うと足元の電気より出入り口の硝子のところからの光が廊下から延びていて「全く困る事はなかった。」と思うと共に、「廊下の電気は夜どおし点いているのか」とも考えました。(結局朝まで点いていました)

入院初日と言う事でなかなか眠れなかったのですが、その原因を2つ感じました。一つは部屋に暖房が入っていて乾燥状態が酷いのだと言う事。だから、やたら喉が渇き深い眠りに入る前に目が覚めてお茶を飲むことになったからで、二つ目は病院の準備してくれている枕が私には合わなかったからです。この2つについては本日中に加湿器とマイ枕を持ってきて貰ってクリアです。

只今、午後5時12分ですが今のところ熱もなく、咳もそれほど苦になる状況ではないので今夜はしっかり眠れると確信しているのですがいつもの口癖『予定は未定であり決定ではない。』と言う事もあるのでわかりませんが・・・。

但しもう一つ好材料があります。それは私にとって唯一の姉春子さんが14時過ぎに、お手製の漬け物を持って見舞いに来てくれて16時までしっかりお話をしたのと施設から届けてくれた2百枚以上の年賀状の整理が出来たのでほどほどに病人の私にとっては良い意味での疲れがあるからです。週刊現代の記事を読んだりして、自分の時間を持ったゆったりとした時間が流れる1日を満喫出来るのも「少しはゆっくり休みなさい」と不動明王様が言われているのか、薬師如来様が言われているのか、父進さんなのか、母秋江さんなのか、はたまた姉光子さんなのかはわかりませんがこのようにプラス思考で考えて明後日火曜日の血液検査で良い数値を出して早く・・・いやいや『予定は未定で決定ではない。』なので、焦らずあせらずで、リピーターの皆さん私はやっぱり焦っていますかね。

そこで、戒めの天からの声「腹から絞り出すような咳が連続で出て、頭が割れるように痛かった時の事を思い出せ。あの時は遺書を書かなければといってきたやおまへんか(このイントネーションはどこからや)ぐちゃぐちゃのレポートですみません。これは病気と言う事でお許し下さい。

ようやく関ヶ原診療所にきました

令和2年1月4日

12月29日から1月3日まで関ヶ原診療所が年末年始に入り、29日の夜中から突然にしかも激しく連続の咳き込みが発症して、但し、30日の9時30分から私の方からアポイントメントの約束をしておいた事なので、かなり無理をして出掛けたのですが、お話をしている時に相手の方に咳をして不快な思いをさせないように喉スプレーをしたりして、話については目的を達成して自分の車に乗り込むと我慢していた反動なのか連続での咳が止まらずそのまま最寄りの病院に駆け付け翌日も病院に行った事はこのコラムで既に書いた通りです。

昨夜は夕食を頂いて体が熱いと熱を計ると38℃を超えているので、頓服を飲み横になりました。そして夜中に着替えを二回して朝6時過ぎに目覚めた時には「熱が下がり過ぎて体が怠い」と感じました。尚且つ「夜中にはメチャクチャ咳き込んでいたな」と思いながら熱を計ると36℃。「永年熱との戦いがあったからわかるものやな」と思い、本来今日は診療所においての検査の日だったのですが、受付で検査のキャンセルと血液検査と受診の依頼をしました。今は血液検査の結果を待ってホームドクターのような先生の診察を待ちながらコラムを打っている次第です。『血液は嘘をつかない』と言いますから結果を基に判断して貰う事にします。私の体を私の次に理解して貰っている先生ですから。病気になって改めて『安心と信頼』の大切さを痛感してます。

(ここからは検査の結果を診察時に聞いてからの事です。)結果は半ば予想をしていたのですがCRP(炎症反応)が18もあり、この数値は自宅療養では対応出来ない数値だと言う事でそのまま入院になってしまいました。ショックですし、私の予定が大きく崩れますし、本当に困るのですが、これも天命と諦めるしかない。しっかり治してからまたバリバリやるしかない。考えてみたら私も66歳。私が生まれた頃の66歳は完全なご隠居さんだったけど今は違う。生涯現役の時代なんだからこんな事で負けません。入院をしていて出来なかった事を責める人がいたとしたら、その人は健康で良かったねと言うしかない。だって今は籠の中の鳥なんだから。

そう言えばかつて児童施設に勤めていた時に休みも取らず頑張っていて、体調を崩し入院して退院した後、お詫びの挨拶に行ったら「あんたは体が弱いね」と言われたのが退職を決める引き金になったな。と自嘲気味に思い出しました。私はその経験から病気で休む事に対しては寛容でいようとの発想でいます。その流れで産休はもちろん育休についても寛大な発想でいたのですが、今の働き方改革で当然なようになってきたようなので私の考え方は先を見ていたと言う事なのでしょうか。

どちらにしても療養に専念すべしです。リピーターの皆さん。しばらくは籠の鳥レポートになりますので狭いエリアでの報告になりますが、災い転じて福と成す私の真骨頂を期待してしばらくはこの状況でのコラムですが宜しくお願いいたします。

 

明日は絶対に関ヶ原診療所に行きます

令和2年1月3日

あいからわず熱が下がらず咳も出て頭痛も酷いですが、大変な時期に病気になったと嘆いていても一向に改善の気配はみられません。テレビでは昨日、今日と箱根駅伝がずっと流れていますが、テレビをつけても頭に入ってきませんが取り合えず決着が付き往路優勝と総合優勝をお馴染みの青山学院大学が、総合2位と復路優勝を東海大学が勝ちとったようです。昨年は4連覇していた青山学院大学が東海大学に優勝を奪われての雪辱戦だったのですが、見事に成し得たのは並大抵の努力ではなくてしかも、それぞれの選手の特性やその日の調子を見てのエントリーだと思うので、監督さんの指導力と眼力は尊敬に値すると思いました。そして私は今、何の脈絡もなく大学3年の時の夏の団参の時の事を熱でカッカしている時に思い出しました。

(45年前の事です。)私は団参の先達のような役割をさせて貰っていて(60人位の団体だったと思います。)団体の取りまとめを青年会のメンバーと一緒にしていたのですが、13番札所の大日寺の宿望で夕食のお膳が並べられた時の事でした。私たちの頭は固く出来ていて『食事』は『精進料理』と思っていたのですが、何とお膳に『刺身』や『肉』がならんでいるのです。そこで正義感一杯の頃ですから青年会幹部で話し合い、代表者3人がご住職さんの所に行き直談判することになりました。その当時めっちゃ風貌があると言うか、威厳とオーラに圧倒されながらも結局私が話をするとしっかり頷いたかと思いきや「今時の若者がそんな事にこだわっていてどうするのだ。この熱い土用修行を終えることが出来んぞ。」と言ってご住職が立ち上がられ、次に私たちの前に立たれた時には一升瓶のお酒と湯飲みを持ってどんと座られ「お参りを形でするな。皆がお参りされる事こそ肝要なんだ」と言われ、食堂にいる方達に食事をするように指示して再び住職の元へ。

するとご住職様直々に湯飲みを渡して貰い湯飲みに並々のお酒を注いで貰い「飲みなさい」の指示でお酒を一斉にあおりました。結局ご住職も入れて6人で2升の酒を空にしました。そして翌朝は青年会のメンバー5人は全員二日酔いで私はそれに気付かれたくなくて道路に大の字の逆バージョンで根っ転がり「地球を捕まえた」等と言っていました。私もまさか四国巡拝中に二日酔い地獄を味わうとは思ってもみませんでした。しかしながらお参りは結構なものです。一時間も歩いて汗をかきそれ以上の水分をとって二日酔い地獄は解消されました。私は良く「0から1にするのは大変だけれども、1から2、3とすれのは0の生みの苦しみとは比較にならない。」と言っていますが、正に今は四国の宿望ではさしみや肉はあたり前でビールやお酒を頂くのも当たり前になっています。つまり45年前の13番大日寺のご住職には今の展開が見えていたと言う事で素晴らしいお坊様だったと今更ながら思っています。

しんどい状況の中わけのわからない話になりましたが、南無大師遍照金剛を唱えていてこんなコラムになりました。リピーターの皆さん色んな出会いをさせて頂いている私のコラムは永遠に続きますので宜しくお付き合い下さい。だって熱が高くてさっきまでうんうん唸っていても書けたので大丈夫かな。多分・・・。

 

悪夢にうなされて目が覚めたのが午前2時30分・・・。

昨夜は熱も37℃代前半で「熱も落ち着いてきたので後1日あれば大丈夫かな」と思っていたのに悪夢(いつもの夢です)で目を覚ますと体がガタガタ震えるので熱を計ると38℃を超えているので2階にあった頓服は飲みきったので1階に下りて頓服を飲みまたまた熱と戦います。次に目が覚めたら朝になっていて熱が下がっていることを願って目をつむります。(朝の宿直者7時の報告メールで目を覚まし続きを書きます。)

まだ、頭が重いしすっきりとはしてませんが、昨日とは違う喜ばしい事が出来ました。昨日までは布団の中でお経を唱えていても途中で集中力を無くしてしまうのかお経がまともに詠めなかったのですが、今朝はしっかりとしかも3回も詠めました。そして父、母、姉、養母への呼び掛けも出来ました。何となく気分が優れてきたように思います。

ここでリピーターの皆さんの中には「布団の中でのお経で大丈夫なの」と思われる方もおありだと思いますので私が38歳の時のエピソードを書きます。それは、私が児童施設を辞しフリーになって、私にとってその頃の師であり支援者でもあった吉田宏岳先生(当時は日本福祉大学中央福祉専門学校校長)が『教育と福祉を考える会』と言う学会の責任者で末席で参加させて頂いていた私を可愛がって頂きよく宏岳先生の自坊(真言宗豊山派のお寺)に泊めて頂き朝食になり先生にこわごわ聞いたのです。

それは先生と布団を並べて寝ていて、絶対に朝のお勤めをされてないと思ったので「先生はこのお寺の住職ですよね」「そうですよ。それがどうかしたの」と言われて(私は固まりながらも「朝のお勤めをされましたか」とお伺いすると「しましたよ」との答えが返ってきたので(私はますます固まりながら)「先生は私とずっと隣の布団で寝られてましたよね」と言うと「そうですよ。お勤めは布団の中でしっかりしたから大丈夫です。」と答えて頂き、深い話だとその時思いました。『場所は違えども祈りは通ずる』と。

だから、私のお経もご先祖様、仏様に聞こえているはず。

本日、寝込んで4日目ですがこの状態から早く脱出しなければとも思いつつも職員が頑張っている事に感謝しつつ1日静養します。11時になり異常な寒さによりガタガタ震えて頓服を飲みました。ちゃんと静養しているのに何故。と思った瞬間不動明王様が「今は動くでない」とのご意志何だと思い、苛々せずに『ノウマク  サーマンダ  センダ  マカロシャヤー  ソワタヤウー  タラター  カンマン』の御真言を唱えるしかないと思った瞬間に体が楽になりました。結局時間をかけて治すしかないんだと。

1 2 3 4