2019年10月の記事一覧

ノーベル化学賞が決まった吉野彰氏の記者会見での言葉から

令和元年10月11日

『明確なゴールは確信できれは、苦しい時があっても乗り越えられる』との言葉に私は実体験からも大きく頷いてます。かつての、このコラムでも紹介したと思いますが松下政経塾での松下幸之助さんが『成功の秘訣を教えて下さい。』との質問に『成功の秘訣などない。但し、やろうとした事をやり続ける事によって結果として成功する』の言葉とあい通ずるものがあり、成功の為の真理だとも改めて思いました。

私は吉野彰さんや松下幸之助さんのような功績には足元にも及びませんが、38歳で児童養護施設の指導員を辞し2年間の紆余曲折を経て40歳の時に私にとっては全く未知の世界である特別養護老人ホーム(介護保険法施行後は介護老人福祉施設)の建設を夢見て尚且つ地域貢献をしたい。と決意した当時は『法螺吹き』とか『詐欺師』とら『嘘つき』等と言われたり、『何故わざわざ高齢者の施設を今須に建てる必要があるのか』とか、『綺麗な水を汚すな』とか言われながらも地域の方々の不安なご意見に対して一つひとつ誠意を持って(浄化槽の水を地域の皆さんの前で飲んだ事もありました。)答えていく内に少しずつ支援してくださる方が出来、今では『施設がここにあって安心だ』とのお話を沢山頂けるようになりました。

勿論今のようになるまでには正直胃に穴があくのではないかと思えるような事もその度々にあったと思うのですが今では、『色々な事があったけど、今は支援者も多くてありがたいな』と思うと共に『今まで以上に地域貢献に力を入れていきたい。』とも考えています。しかしながら、施設を運営していると施設長として職員に対して噛んで含んだように教えたり指導したりしていることが、いつの間にか職員の都合で変わっていたり、忘れられたり、継続してなかったりすることがあり状況によっては頭が真っ白になりパニックになる事があります。

50代まではその都度湯気が出るほど大きなアクションでクリアしてきましたが、今はそのような時に私の体に異常が現れてしまうことがあります。例えば8月に帯状疱疹で入院したり、今もお腹に違和感があります。つまりストレスを上手にコントロール出来なくなっているのだと思います。

イライラを少なくするには私の考えを幹部職員が担ってくれる事だと思っています。私はあくまで『入居者さんファースト』『地域ファースト』『家族様ファースト』の考えをやり通したいと考えています。『そんな古い考え方は今は通じない』と言われる方がおわりであることは百も承知でのコメントです。

ここでまた、ノーベル化学賞が決まった吉野彰さんのコメントです。『私も会社員なので自分が発明したリチウム電池が全く商品価値がなく売れなかったのには悩みました。』とのコメントには深い意味と凄い信念を感じました。

つまり、会社員としての立場であればいくら素晴らしい研究成果をだしても商品価値がなければ何も認められない。しかし、リチウム電池は将来絶対に商品価値が認められるとの強い思いが素晴らしい成果となり結果に結びついた。但し、ノーベル賞を頂けたのは、勿論吉野先生の努力の賜物だと言うのは勿論ですが奥様の本当に嬉しくて仕方がないご様子から下支えをされた結果を喜んでみえるように思いました。

本日は台風が関東方面に来るとわかっていながらの東京出張なので、(全国老施協総務・組織委員会)今は(午前11時09分)新幹線の中で明日は全面ストップだと何度かアナウンスされていて、夜の懇親会の中止を委員長として早々に決断したのは正解だったし宿泊をキャンセルしたのも正解だったと思っています。しかしながら、つくづく思うに災害は土日にかけてが多いな。

これは、休みを多くしている働き方改革の国家的プロジェクトに対する戒めか等と思うのは私だけですかね。(こんな発言は時代が時代なら監獄行きですか。)

『ゆうゆうビジット』と言う企画に参加しました。

令和元年10月10日

優・悠・邑 和合で朝日新聞厚生文化事業団主催による『日色ともゑとマリオネットによるゆうゆうビジット』と言う企画に参加してきました。

①

日色ともゑさんをご存じの方は私よりも年齢が上の方が殆どだと思うのですが、78歳と言う年齢(私より1回り上です)を感じさせないはつらつとした受け答えでご挨拶して頂きました。マリオネットの二人の方を私は全く知らなかったのですが、焼酎の『二階堂』のコマーシャルソングをされていて、知る人ぞ知るそれなりに活躍されているグループだそうです。確かに二人の演奏は素晴らしかったし、ポルトガルの楽器を駆使されての演奏は圧巻でした。勿論、日色ともゑさんの童話の朗読は素晴らしかったし、マリオネットさんの童謡を中心にした演奏で前もっての台詞を言って頂くタイミングも絶妙でした。

③

企画の最初に理事長として挨拶をとの依頼を進行役の和合の事務長から受け「何分位での挨拶なの」と聞くと「本当に短くお願いします。」と言うので「では、1分でします。」と答えると「理事長の1分は10分になるといけないので10秒でお願いします。」と失礼なような爆笑のような会話になったのですが、結局2分の話になりました。と言うのもこの企画について事前に家族会や地域の方々に告知してあったようで入居者さん利用者さんの他にも多くの参加者がみえたので、その辺への配慮もあり2分になった次第です。

② ⑤

当施設にも60歳から介護の仕事をして70歳で国家試験である介護福祉士の資格に合格された方があり、今もしっかり仕事をして貰っているのですが、日色ともゑさんも素晴らしい朗読をして頂き、単に生年月日だけではわからないし、仕事が生きがい、天性のような仕事をされている方は『凜』とされていると思いました。勿論仕事をリタイヤされても趣味に生き生きされている方、役割のある方も同様だと思っています。私は、趣味らしきものを持ち合わせていないので「趣味は仕事」と豪語しているので、生涯現役と考えていますが、その為には健康に留意して100歳(借り入れが全部返せる)でピンピンコロリが理想なのですが果たして・・・。

④

でも、100歳で(多分)優邑と生活している家族がいた。それは我が家の猫『リット』(推定100歳)です。今朝も私が部屋から出ようとすると、歩くのを邪魔してきて自分が食事をするのを見ていろと甘えてくるし、私が出勤時に玄関先に行こうとすると、でかい体を伸ばして歩くのを邪魔するし・・・。いやいや年をとっての図々しいは猫だけが許されるのであって私は可愛いじい様でいなくてはいけない。でもかなり無理なように思うのですが・・・。

⑥ ⑦ ⑧

 

私を産んでくれた母秋江さんと私の話

(ここは、日本昔話の歌から始まりますかね)

私は父進さん(A型)母秋江さん(B型)の間で長姉光子さん(B型)、次姉春子さん(A型)の次にこの世に昭和28年5月16日(横綱北の海と同じ日)に生まれました。ちなみに私の血液型はAB型です。母秋江さんとはわずか13年8ヶ月しか私との関わりはないのですが、余りに中味が濃いと言うかエピソードが多いのでこのシリーズはコラムのネタがない時に何回か登場させるとして、取り敢えず第1回と言うことでご理解下さい。

先ずは全員の血液型をかっこ書きで書いたのは、長姉光子さんは母秋江さんの血を受け継ぎ、次女春子さんは父進さんの血を受け継ぎ、私は両方の血を受け継いだ幸福者と言うことが言いたかったのです。つまり、両親の思いを一杯受け継いだと言うことです。但し、末っ子の長男程やっかいなものはないと自分でも思っています。つまりは『天下御免の甘えん坊』と言う事で自分で言うのですから間違いなく『甘アマ甘あま』の育ち方を謳歌したと思います。

何故ならば次姉の春子さんは今でも小さい頃の事になると怒ってきますから。

しかも、私は生まれて100日目に心臓が約5分間止まって復活はしたもののそれからの私は『虚弱児』の烙印を押される位で、例えば夏休みに母秋江さんが私に添え寝をして、なかなか寝ない私を団扇であおってくれるのですが、学校では昼寝の時間がなくて眠くないので母秋江さんが寝てしまった隙に家を脱け出し、友達がいる学校のグランドに行き野球をしていていました。夏の事で入道雲がもくもくときて、土砂降りの雨に打たれ慌てて家に帰り着き、母秋江さんの顔を見た途端に39℃近くの熱を出し、母秋江さんは怒るどころか介抱に忙しく、熱があり食欲がない私に私の好きなお刺身を買ってきて、温かいうどんを食べさせてくれるのが定番でした。

冬場になると気温も下がってきて、多分血の循環が悪かったんだと思うのですが、いわゆる『霜焼け』で両手は肘のところまで腫れ上がり手の指10本共に真っ赤になり、学校から帰ると母秋江さんがゴボウの湯で汁を作って待っていて、熱いお湯に手を浸けてゆっくり20を数え、次に水の入った方に手を入れまたまた20を数える事を5回づつしたことも大切な思い出ですし、夜布団に入ると体が温まり霜焼けのところがむず痒くなりなかなか眠れなくて母秋江さんの方が先に眠ろうとすると体を動かしたりわざと泣いたりして甘えたりしてました。

(次に母秋江さんの事を書くときは我が子の為に奇想天外な事をしてくれた事を書こうと考えています。)

私とお酒

令和元年10月8日

私が中1の1月に母秋江さんが他界した事も父進さんが聖人のような人物で誰からも悪口を言われる事のない人だった事は何度もこのコラムで書きましたが、『私とお酒』をテーマにするときは父進さんの駄目だった事をお話しなければいけませんが敢えて書きます。尚、突然にこのテーマにしたのは、朝6時から施設でバタバタしていて、早目の昼食をとり、施設に16時過ぎに帰ってから直ぐに全館清掃の打ち合わせをしていて、コラムで書けそうな話題が無いので、ストック分としてとっておいたお話しとして『私とお酒』の話をしたいと思います。私が中1でお酒など口にしたことがなかった時にお酒を進めたのは、実は父進さん何です。と言うのは、教育者としてバリバリ仕事をして家に帰ってきて、ホッとしたときに、一目惚れして垂井から今須に婿養子にきたのに母秋江は天国に召されて家にいない。思わず酒を飲みたくなる気持ちはわかります。しかしながら、家で一人晩酌をするのが嫌だったんだと思います。中学1年の私に「一緒に飲め」と進めてきて、結構に飲ませて貰いました。そして、高校時代は期末テスト等が終わった時には我が家で宴会になった事も一度や二度ではなかったです。(約半世紀前の事ですから『時効』と言う事で)高校時代に結構鍛えていたので、大学に入って直ぐの『クラスコンパ』(今は流行らないか)では一番沢山のんで、お酒を初めて飲んだと思われる同級生が何ともならないほど酔っぱらったので、もう一人の同級生に手伝って貰い私の下宿に担ぎ込み、酔っぱらった同級生はずっと洗面器が離せない状態で午前3時頃になると吐くものがないからか血へどを出すので私と共に介抱していた二人が今度は青くなり、困ってしまった挙げ句生まれて初めて『119』を公衆電話で。しばらくして救急車に乗り、病院に着き、診察をして貰い処置も終えられたお医者さんに介抱していた二人が呼ばれ、お医者さんにしたたか怒鳴られ、怒られたのですが、私たち介抱した二人は行き掛かり上救急車に乗っただけで、飲んだのは血ヘドを吐いた同級生で私たちは何も悪くないと思っているのでその考え方が露骨に出ていたのだと思います。お医者さんに輪を掛けて怒られた思いでもあります。私はどんなに沢山飲んでも吐くと言うことがなくて、それ以降の人生でも楽しい時にも苦しいときにもお酒を沢山頂いてきました。そして最近の私は、「今の事業が出来たのは、お酒が飲めて、歌が歌えて話題が豊富にあり、人間関係を大切にしてきたから」と言っているのですが、何と言ってもお酒が飲めたからかな。本日のコラム継続もお酒に助けられたし、やっぱりお酒は素晴らしい。リピーターの皆さん機会があればご一緒しませんか。但し、1斗樽抱えて来て下さい。✳今でも太鼓腹なのに大丈夫かとの謗りを覚悟の上でのコラムでした。

久しぶりに朝6時過ぎからフロアを回りました

令和元年10月7日

入居者さん一人ひとりと挨拶をして歩くと、それぞれの性格が表れ楽しくなってきます。フロアで大きな声でお経さんを唱えてみえる方があり、「お経さんありがとうございました。」と言うとめっちゃ照れながらも嬉しそうにされている方、一生懸命に作業をされていて私に気が付かれなかったので目の前で手を出すと私に気が付かれ最高の笑顔を返して下さり、自分が作成されたちぎり絵の作品を嬉しそうに見せながら説明して下さる方があったり、私が目の前に行き挨拶をするまで知らない顔でいて私が挨拶すると急にニコニコされる方もあったりでとても楽しい時間となりました。

その後、10時30分からは関ケ原町の住民課長さんと担当の方ががわざわざ施設に来て下さり、色々な情報交換をしていてつくづく22年の施設の実績の重さを感じました。1時間以上お話をしている中で、先般夜中に斎場の手配等の為に関ケ原町役場へ行って夜間入り口の階段の所が真っ暗で困ったと言うようなざっくばらんな話もさせて頂きました。本日13時から垂井町役場で新規事業の話し合いを副町長さんや担当課長さんとする予定でいたのですが、11時30分に副町長さんから「町議会が延びていて予定が立たないのでまた連絡します。」との連絡を頂き、キリンの首のような状況になっていた時に高齢福祉課の課長補佐さんから「議会の終了時間が読めないので本日の打ち合わせは見合わせて後日予定を連絡します。」との事で肩透かしの状態で、「本日未明から打ち合わせの流れを色々な角度からシュミレーションしていたのは何だったのか」との思いもありましたが、「会わない」と言われているわけではなく、連絡を頂けた事に感謝すべきだとも思いました。そして改めて『予定は未定であり決定ではない』ことを知りました。

これからも大きな事業を行うに当たっては色々な想定外があると思いますが一つひとつクリアしていき、より良い施設を整備して、ますます地域の方々から信頼され必要とされるように頑張っていきたいと考えていますのでリピーターの皆さん、社会福祉法人杉和会の今後の展開について、しっかりと見守り、ご支援ご声援を宜しくお願いします。

 

インドネシアから来たEPA介護福祉士候補生に会って来ました

令和元年10月6日

10月4日に、今年6月にインドネシアから日本にやって来たEPA介護福祉士候補生に、4か月ぶりに豊田市の研修所で会ってきました。4か月前に日本に来たばかりの頃と比べると、二人共日本語での対応は段違いに上達しており、何よりも感心したのは、こちらの投げかけに対して一生懸命に答えようとする姿勢です。

法人側と候補生で、2021年3月までにどのようになっていたいかをビー紙にまとめる作業をしたのですが、下書きを鉛筆で書く時も分からない意味や漢字について一生懸命に聞いて覚えようとし、その姿勢には頭が下がる思いです。そして、後2か月後の12月には関ケ原の施設に来て生活する事に対する不安を払拭する為に、一生懸命に質問してくる事に対しては、迎える側である私としては、出来るだけ不安を払拭していきたいと考え、誠意を持って答えさせて貰いました。私が候補者の立場だったらきっと不安ばかりでこの研修所での生活での勉強三昧の生活にはとても耐えられないだろうし、そもそも異国の地で仕事をしながら、日本の国家試験に挑戦しようなどと言う発想にはならないから「よくぞ、頑張って来てくれました。」と改めて思った次第です。

インドネシアから来たEPA介護福祉士候補生の受け入れは今年で10年目になりますので、受け入れに対するハード面、ソフト面及び国家試験対策に対する体制は整えてきたつもりですが、その年によって多少の違いはありますが、当法人の強みは、施設の敷地内に職員用のアパートがあり、多くの(現在は5人)インドネシアからきた先輩がいる事です。

このような体制を取る事にしたのは、介護職員枯渇時代に対して色々な手立てを講じて裾野を広げなければいけないと考えたからです。その意味では、大垣にある優・悠・邑 和合には当法人でEPA介護福祉士候補生を導入した時から頑張っているシスカさんは、インドネシアから旦那さんを呼び寄せ2人の子どもを出産して育児休業も取り、今は施設から歩いて5分の所にあるアパートで立派に4人家族の生活している良きモデルがあります。また、今年の5月からはベトナム人留学生を2人(中部学院大学社会福祉学部)受け入れ、来年度は3人の受け入れも決まっています。

かつて、故中村博彦会長から「5年先10年先戦略を持って法人理事長としての職責を全うしなければ、法人経営は上手くいかない。」と言われ続けてきたので、その教えを守りつつ職員確保については常に裾野を広める事に汗を流していかねばと豊田の研修所に行って感じました。リピータの皆さん。社会福祉法人杉和会の理念に共感して頂けて良い人材があれば一報下さい。

 

我が家でのお祭りが今(19時21分)終わりました

9月25日に10キロの利平栗が我が家に届けられてから私の奥さまかをり様の祭りのゴングが鳴り、栗の皮剥きを「右手が痺れっぱなし」と言いながらも私は全く意に介さず知らん振りを決め込み、長男の嫁さんが途中から手伝ってくれ、10月2日で皮剥きをクリア(私は全くの他人事)3日からは最終的な買い物に奥さまかをり様は走り回り、私の役割は3日の日にお寿司屋さん(電話で)と肉屋さんに(直接に)注文のみの大活躍。

前日の昨日はインドネシアから来ているEPA介護福祉士候補生の中間発表会の為朝から豊田市に行っていて、16時に終了しての帰りに大垣インターで降りてドン・キホーテによりこの12月3日に4歳になる孫の翔と生まれて初めて一緒にお風呂に入る事になっているのでお風呂で遊べるおもちゃを沢山ゲットして家に帰り、しばらくすると孫の翔が来たので(勿論長男夫婦と共に)一緒にお風呂に入り体等一切洗わずお風呂の中でおもちゃで遊び(遊んで貰ってかな)夕食を共にして、しばらくトランプで遊び、私は2階で横になり、しっかり朝まで熟睡。

私の奥様かをり様と長男の嫁は多分4時に起きて祭りの煮炊きをしてくれていたようですが私は朝食も取らず施設に行き、9時30分まで施設にいて、その後花屋さんで仏様のお花を買いに行き、車の中に積んであった『ゼロのビール』を家に運んで行くと長男の嫁が「お父さん。このビールはノンアルコールビールと違いますよ。」と言われ「そんな事はない。ゼロと書いてあるぞ」と言うと(言いにくそうに)「このビールは糖質ゼロ、カロリーゼロで普通にビールですよ」と言うので、ビールなど買った事ない私は慌てました。

そして、いつも贈り物等で買い物をする酒屋さんに電話をして冷えたノンアルコールビールがあるか訪ねると、銘柄がバラバラなら大丈夫との事で慌てて垂井まで走る事にしました。何故ならば『仕事がある職員にもビールらしき味わいだけでもして貰いたい。』との思いからでした。

何とか職員の第一陣が来る事になっている11時までには家に着き、年に一度の我が家での職員の会食が始まりました。もうすぐ4歳になる孫の翔が我が家自慢の栗おこわのおかわりの接待に忙しくやや興奮気味に活躍してくれました。11時、12時、13時、15時と4グループに別れて職員が参加してくれ、16時からは姉夫婦、甥っ子家族、従兄弟等が順次来てくれて19時に残り物ですが勿体無いので、長男夫婦に本部施設に届けて貰い、従兄弟を長男の車で送って貰い、若山家のお祭りは終了し、私は樽酒を一杯じっくり飲んで全て終了。

このような行為がどのような展開を生むかはわかりませんがこれが私のスタンスです。賛否両論あるかと思いますが、リピーターの皆さんこれが私の生きざまですがこれからも宜しくお願いします。

忘れ物に気が付きながらそのままにした理由を探る

令和元年10月4日

昨日のコラムで、ショートステイの方の終了時の忘れ物に気が付きながらそのままにしておいて、ショートステイご利用者さんの家族の方からの連絡で指摘され利用者さんが怒られていて当法人が運営している「デイサービスを利用しない。」と連絡があったのを機に『どうして、忘れ物に気付いていながらその後の対応ができなかったのか』の検証をします。(本来、当法人の理事長が評論家のように述べるべきではないのですが私を含めた職員の反省と再生の為に敢えてコラムに書く事をお許し下さい。)

昨日私の所へその対応をした幹部職員が謝りに来て話を聞きました。そして、この一件を防ぐ手立ては、いくらでもあったにも関わらず、その一つも出来てない事に苛立ちを覚えています。一つには「ショートステイ終了時の午前中に荷物のチェックをしたのですが、この利用者さんは部屋におみえになることが多いので荷物をまとめる事はしなかった。」と、まるで利用者さんが悪いような弁解をしてから、「終了時に荷物を整理する時にはチェックをしてなくて忘れ物をしてしまい、次の日に部屋の片付けをしていて気が付いたが夕食前であったので夕食の準備を優先させてしまい、その後はその対応を忘れてしまいました。」との話を幹部職員がした時には、『正直に話するのは反省している証しだろうが余りにも幹部としての意識が希薄だ』と苛立ちながらも、『今回の失敗を阻止する手立ては、常日頃から言っている中で一つでも守っていたら防げたと幹部職員なのに情けない。この現状を打破するにはかなり大鉈を振るわなければいけない。』と覚悟をしました。

職員の話の中でフロアにいた職員に伝えてその後その事を忘れたような対応には目を覆いたくなるし、忙しいを理由にするのも自分を正当化しているようにしか思えない。仮に忙しくて手が離せない状況でもPHSを利用して事務所の職員に連絡して代わりに対応して貰う事も出来たと考えています。(現に、忘れ物を届けて謝りに行ったのは事務所の職員です。)また、忘れ物に気付きながら忘れてしまうのは責任感のなさとしか思えない。仮に人間ですから忘れる事が全くないとは言い切れませんが、常に職員には『大切な事、気が付いた事を直ぐに出来ない事もあるので、簡潔なメモを残して時間に余裕が出来た時に改めて具体的に書いたり、対応するように』と噛んで含むように言ってきたつもりですが、幹部職員がメモを残す事を実践出来てないのだから他の職員も出来ているとは言い難い現実があることに私自身ショックを受けていますし怒りすら感じています。

リスクマネージメントでよく言われるのに、一つのアクシデントの中には多くのインシデントがあると。幹部職員に理事長として任命した職員がこの体たらく。この事を教えて下さった利用者さんとその家族に感謝して再生を誓い頑張っていきましのでリピーターの皆さん「何で身内の恥をコラムに書くの」等と思われる事無くこれからもご支援下さい。

責任ある対応とは如何なる事か

私は社会福祉法人杉和会の理事長としての立ち位置について常に考えて『今、何をすべきか』を考えて発言し行動するように心掛けています。本日は『まつたけバイキング』ですが、松茸の手配をお願いしていた方から「前日に確保が出来ないので当日届けます。」との連絡を貰っての報告を受け、直ぐに折り返し連絡すると、「頑張って良い品物を当日の朝5時に届けますので」との返事だったので厨房に確認すると「それなら大丈夫です。」との返事があったので、改めと依頼した方に「間違いなくお願いします。」と連絡して、昨夜もだめ押しの確認の連絡をして、本日4時30分に目覚め、施設に行き5時に届くのを待っていて、4時50分に管理栄養士からも心配して確認の連絡がありましたがその段階では来てなくて5時になったので依頼した方に連絡すると「今垂井から関ヶ原に入りましたので後15分で着きます。」との事だったのでその旨を厨房に内線電話で伝えると共に玄関先に台車を移動してそうこうしていると車が入ってきて、正直「これで入居者さん、利用者さんに喜んで貰える。」とホッとすると共に依頼した方も恐らく3時前には家を出られての対応だったと思うと、責任を全うする事によって信頼をかち取る事が出来るのだと改めて思いました。その意味で言うと昨日の報告書が私の机の上にあり、その中身を読んで責任感のなさが信頼をなくす典型だと思いました。その内容とはショートステイ終了時の荷物の忘れ物があり、次の日に気が付いたにも関わらず連絡もせずにそのままにしておいて、利用者さんの家族からの連絡であたふたした対応になり利用者さんが怒ってみえるとのものでした。その報告書を読み、私自身、職員の失敗はトップとしてしっかり対応して同じ失敗をしない事だと考え、即家に謝りにいきました。本日はデイサービスの利用日ではなかったのですがまつたけのバイキングと言う事で楽しみにされていたはずなのに「行きたくない」との発言をされているとの事。で、あれば尚更早い段階での対応こそ大切と考えての理事長としての対応でした。失敗や忘れる事は絶対にないとは言い切れません。だから失敗したらとにかく誠意を持って対応して同じ失敗を繰り返さないことこそ肝要だと思っています。お怒りの時には直ぐには許して貰えなくても、誠意ある対応によって次へと繋げていく事こそ大切です。そんな時には他人のせいにしたのではけっして次にはつながらないと思います。当施設も一歩一歩です。リピーターのみなさんも色んないみでご理解下さい。今は(16時39分)バイキングの確認をして、13時30分からの高齢福祉課との打ち合わせを終え、18時30分から地元の居酒屋での互助会による飲み会に備えて朝が早かったので家に帰り休憩を取りながらのコラム打ちでした。良く学び良く遊べの『遊び』も手を抜かないように頑張ります。一時間寝ます。リピーターの皆さんお休みなさい。

夜中に看取りの対応をして父進の事を改めて思いました

令和元年10月2日

横浜、東京泊と連泊して昨日は朝7時の東京発の新幹線に乗り、9時30分には岐阜県庁での打ち合わせをして、12時前に施設に帰り18時30分までバタバタの1日で、お風呂に入り夕食を頂き21時過ぎにベットに横になったら直ぐに眠りについたのですが22時に携帯でのコールがあり目を醒ますし携帯に出ると、夕方から肩呼吸をされていた入居者の方が天寿を全うされたとの連絡を宿直者から受け、直ぐに施設に行き、家族対応をしていると嘱託医の先生が来て下さり死亡診断書を書いて頂き、今後の話をして、家族の方を関ヶ原町役場にお連れして埋火葬許可申請や斎場の使用申請の書類のお手伝いをして、家族の家にお送りして再びベットについたのは次の日の午前零時45分。流石に直ぐには寝れなくて、目をつぶると父進さんの葬儀の事を思いだしました。父進は明治最後ですから45年生まれですから私が38歳で天国へ召されたのですが(私と違って聖人のような生き方でしたから間違いなく天国だと思います・・・。)私が生まれた時に父進さんは既に42歳だったので私は38歳と言えど平均寿命以上を生きたので「私がもう少ししっかりするまで生きて欲しかった。」との思いはありますが、生まれてからずっと心配と迷惑ばかりかけて恩返しが何も出来なかったので申し訳ない気持ちで一杯なのですが、前にもこのコラムで書いたと思うのですが、私は生まれてからずっと心配と迷惑しかかけてこなくて誉められた記憶がなかったのですが、私が38歳の誕生日の時に父進さんが私に向かって「宏より優れた経歴だと思っていたけど宏のように大学で講義をすることはなかったので、それだけはよかったぞ」と言われて嬉しかったのですが、それからまもなくして体調を崩して病院に入院してその年の8月12日に他界したのですがあれから28年。6年の紆余曲折があり、社会福祉法人を設立して特養の定員が208人で職員を150人までの規模になり地域での貢献も出来ていて岐阜県老施協会長で全国老施協総務・組織委員長の任まで任されている事私の姿をを父進は予想だにしなかったと思うと「今生きていたら」と思うことが全くないと言うと嘘になります。何が言いたいかと言うと『人の生き死にはままならない』ですが、与えられた寿命を精一杯生きられたのなら満足しなければいけないし、父進は私の38歳の誕生日に息子である私を褒めてひょっとしたら今の私の姿を夢に見てホッとしたのかもしれないな。私は父進に親孝行が出来なかった分、地域の高齢者の方に喜んで頂けるようにこれからも頑張っていきたいと考えています。リピーターの皆さん昨夜は夜中の対応があり思考力ゼロでのコラムですので題材は良かったけど中身はなかった事を私自身承知してのコラムアップですが次回はがんばりますのでお許し下さい。

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